2020/11/08

シャーンティデーヴァ作『入菩薩行論』の伝承と変容

 研究報告1

シャーンティデーヴァ作『入菩薩行論』の伝承と変容――初期本テクストの発見秘話

 

斎藤 明

東京大学大学院人文社会系研究科教授

はじめに

インド起源の仏典のなかでも,とくに大乗仏教系の経典や論書にとって,内容的に最も古い伝承を残すのは,多くのばあい漢訳仏典である(1)。

下の表は,文献の使用言語という視点からみた,大乗系仏典の一般的な伝承経路を略記したものである。中国で誕生した,いわゆる「偽経」のケースを除いていうなら,漢訳仏典の依拠した写本は,ほぼ例外なくサンスクリット語か,あるいはまたその一部なり全体が,広範囲の諸地方語をふくむ中期インド語(6C.B.

C.-11C.A.D.)によって伝承されていた。

[口誦伝承]→書写・執筆(パーリ語をふくむ諸地方語[中期インド語c.6C.B.C.-11C.A.D.],サンスクリット語)→[一部サンスクリット語化]→ 翻訳(漢訳,チベット語訳等)→重訳(日本語訳,モンゴル語訳等)

とはいえ,残念なことに,今日われわれが入手しうる写本の多くは,近年発見されたアフガニスタン出土の写本群(2)―その一部は2C.A.D.にも遡るという― のような例外的なケースを除くなら,漢訳仏典が成立した時代よりは,はるかに時代が下って筆写され,今に伝えられたものである。もっとも,そのようなばあいでも原典レヴェルの変容が小さければ,ことはおよそ翻訳の質という問題に絞られることになり,内容的にはそれほど大きな問題が生じるとも思われない。しかし,実際には,程度の差こそあれ,仏典の中身そのものの変容という問題は決して小さくはないのである。というのも,初期の経典や律典における口誦伝承の伝統や,部派間での伝承内容の相違,何らかの実践的ないし思想的な要請にもとづく増広や改編,伝承過程での諸地方語の使用,伝播した地域や国における人々の伝統的な思考法の影響,筆写上のミス等々の事情は,仏典の中身の変容をもたらす要因として,想像以上に大きく作用するからである。しかも,これはなにも経典や律典に限られていることではなく,著者名がはっきりした論書にあっても,ときに同様の事態は生じる。つまり,裏を返していうなら,多くの仏典はそのような変容をへて初めて,新しい時代に受け入れられ,新たな地域で受容され,そしてまたそこから新たな仏典の伝承が展開していったということである。

ここでは,そのような代表例の一つとして,後期中観思想を代表する論師の一人であるシャーンティデーヴァ(´Sa¯ntideva, c.690-750)の主著『入菩提(菩薩)行論』(3)の例を報告したい。

この文献のばあいのポイントは,以下の三つに要約されるであろう。

)その第一は,敦煌出土のチベット語写本の中に,内容において最も古いと推定される伝承が残されていたということである。つまり,現行のサンスクリット語写本や,漢訳,チベット語訳,およびチベット語訳からの重訳であるモンゴル語訳のいずれもが,後代の増広と改編をへた伝承にしたがうものと推定されたということである。

*また次に,敦煌出土のチベット語文献の伝承と現行本系のそれとでは,内容的な相違も大きく,しかも著者名さえも異なっているということ。そして,後述のように,実はこの2つの問題が,敦煌出土本を同定するうえで大きな障害となったのである。

+さらにまた,敦煌出土本は,シャーンティデーヴァの思想史的な位置づけの再考を促す重要な文献であったということ。この点は,当該の敦煌本そのものの重要性もさることながら,この発見により,現行のチベット大蔵経の中に,初期本系テクストに依拠する著者不明の注釈『入菩薩行論解説[細疏]』の存在が確認されたということのもつ意味が大きい。

この中の)と+のポイントについては,すでに論じていることもあり(4),ここでは主に*に関連して,初期本を同定するにいたった経緯と,その過程で確認されたいくつかの事実という点を中心にして簡潔に報告したい。

1. シャーンティデーヴァと『入菩薩行論』

[シャーンティデーヴァの伝記]

シャーンティデーヴァと『入菩薩行論』Bodhisattvacarya¯vata¯ra の伝承について,プトゥン『仏教史』(1322年)の伝える内容を略説すれば,以下のとおりである。

かれは,南インドの王族の出身で,幼名をシャーンティヴァルマン(*´Sa¯ntivarman)といった。父王が逝去したその晩,マンジュシュリー(文殊)菩薩の夢告があり,王位には菩薩が代わって就くと告げられたかれは即座にその趣旨をさとり,出家の道を選んで,ナーランダーに赴くことになった。ナーランダーでは戒師ジャヤデーヴァ(*Jaya -deva)のもとで具足戒を受け,以来シャーンティデーヴァの名を得た。かれは瞑想の中でマンジュシュリー菩薩の教えを聞き,それを深く考察しながら,独自の論を構成した。ただし,ナーランダー僧院におけるかれの外面的な振る舞いは顰蹙ものであったようで,周囲からはブ・ス・ク,つまり「食って」「寝て」「ほっつき歩く奴」(bhu-su

-ku)というあだ名で呼ばれた。

あるとき,周囲の僧たちは,暗誦経典を詠唱させるテストを行うことによって,シャーンティデーヴァの追放を企てる。既知の経典ではなく,未知の内容のものを念誦することで合意したかれは,

『入菩薩行論』という名の未知の論を,大衆を前にして朗誦する。「[心前に]有も無も[あらわれない]時には」(同論第9章・第35偈)云々と唱えると,かれの身体は空中高くに昇ってゆき見えなくなるが,論が終了するまで,その声だけは途絶えることがなかった。その後,記憶力のある者らが,聞いた通りにその論を[文字の形で]まとめようとしたとき,700,1000,1000以上のシュローカ(詩頌の一形式)のものがあって疑念が生じた。そこで,南インドに戻っていたシャーンティデーヴァのもとに二人の僧を遣わし,かれ自身の真意を尋ねさせたところ,かれは1000詩頌を完備したものが正しいと答えた,という。(5)

これに類する伝記は,ヴィブーティチャンドラの注釈『入菩薩行論意趣細疏』(12C.末-13C.初頭)の冒頭部(6),チベット大蔵経・デルゲ版の『テンギュル(論書部)目録』(7),ターラナータ『インド仏教史(』1608)(8)等に出る。上の伝記の中で注目されるのは,真偽はともかく,『入菩薩行論』が初めから文字によって書かれた論書ではなく,シャーンティデーヴァ自身はそれを朗誦したと伝えていること。さらに,それが口誦で広く伝承された後に,しばらくして文字に記そうとしたときには,すでに複数のヴァージョンがあったということ。そして,それらの複数の伝承の中で,シャーンティデーヴァ自身は,1000シュローカあるものが正しいと語ったと伝えること,これら三つの点であろう。

[『入菩提(菩薩)行論』の特色]

この問題に立ち入る前に,ここでいま,『入菩提(菩

薩)行論』の特色の一端にふれてみたい。

この論書は,菩提心(bodhicitta),六波羅蜜( satpa¯-

・・ ramita¯),廻向(parina¯mana¯)という大乗の菩薩のある

・べき振る舞いを,流麗な詩文にのせて謳いあげた後期インド仏教を代表する論書の一つである。ただし,論書とはいえこの作品は,ただ単に正しく読解するということのみを目的とするのではなく,むしろ700余り ―現行本では913―の詩頌からなる同本を,読誦し暗誦するなかで六波羅蜜等のあり方を身読するという実践的なネライを孕んでいる。その意味で同書は,後期大乗仏教における,一種の経典的な性格を帯びたユニークな論書であったといえるであろう。しかもその秀麗な文章は,随所に透徹した人間観察をうかがわせ,近年における研究の高まりもまた,本書のもつ現代的な価値の大きさを物語っている。

この論書が日常的に読誦されることを予想した論書であることは,1人称単数表現を多用することや(9),読誦する者が自らの心(citta)あるいは意(manas)に直接訴えかける表現をしばしば用いている点にもうかがえる。ここではその一例として,「自己と他者の平等性(para¯tmasamata¯)」に関する初期本第6章「精進の説示」(VI.34-39,66)(10),およびそれに相当する現行本第8章「禅定波羅蜜」(VIII.91-96,137)(11)内のいくつかの詩頌を一瞥したい。

「あたかも身体が,手[や足]などの区別によって多くの部分をもちながら,一体なものとして護られねばならないように,この[様々に]区別された世界(jagat)全体もまた,等しく苦・楽を本質としており,まさに同じよう[に,一体なものとして護られねばならないの]である。」(初期本

VI.34;現行サンスクリット本 VIII.91)

「たとえ私の苦は,他の人々の身体を苦しめないとしても,私にとってはそれは苦(duhkha)にほ

・かならない。自己を愛着する(a¯tmasneha)ゆえに耐えがたい[のであるから]。」(VI.35; VIII92)「同じように,たとえ私自身は他人の苦を知覚しないとしても,その人にとって,それは[まさに]苦である。自己を愛着するゆえに耐えがたい[のであるから]。」(VI.36; VIII.93)

「私は他人の苦を滅ぼさねばならない。自分自身の苦のように,苦なのであるから。私は,他の人々をも慈しまねばならない。自分自身が有情(sattva 「感覚をもつもの」)であるように,有情なのであるから。」(VI.37; VIII.94)

「私にとっても,他の人々にとっても,安楽(sukha)が好ましいのはまったく同じである。そのときに,いったいいかなる特別なことがあって,こ[の自分]についてだけ安楽であることに努めるのか。」

(VI.38; VIII.95)

「私にとっても,他の人々にとっても,恐れ(bhaya)と苦しみは好ましくない。そのときに,いったいいかなる特別なことがあって,私はこ[の私の分]は護るが,他[の人々の分]は護らないのか。」

(VI.39; VIII.96)

......「あゝ意(ココロ)よ,汝は『私は他[の人々]と結びついている』との決心をなせ。汝はいま,すべての有情の利益をのぞいて,他のことを考えてはならない。」(VI.66; VIII.137)

以上の「自己と他者の平等性(para¯tmasamata¯)」,あるいは「自己と他者の置換(para¯tma-parivartana)」というテーマは,シャーンティデーヴァによって,菩薩に課せられた重要な実践徳目の一つとされた。なお,ただしまたそれが菩薩ならではの努力(精進)の問題であるのか,あるいはまた禅定における洞察の問題と受けとめるべきかという点をめぐっては,初期本と現行本に依拠するそれぞれの注釈者間に意見の食い違いがあった。上に引用した関連詩頌が,両本において異なった章に配置されているのも,実はこの点に関係している。初期本系の注釈文献である著者不明の『入菩薩行論解説[細疏]』は,このテーマは声聞らとは異なる菩薩ならでは精進のあり方に関わる問題であると主張した。そして,現行本系の他の注釈者が,著者の真意も解さずに勝手に当該の詩頌を別な章(第8「禅定波羅蜜」章)に移して注釈を施していることを強く非難する(12)。

この論書の特色は,以上のような実践論的な観点からのそれに尽きるのではない。とくに第8章「智慧(般若)の説示」―現行本・第9章「智慧の完成(般若波羅蜜)」―におけるシャーンティデーヴァ独自の二真理説,対象認識に関する世人とヨーギンの差異をめぐる議論,我(a¯tman)批判の論理,有形象唯識派が説く知(心)の自己認識説に対する批判,大乗仏説論,独自の空性説にもとづく四念処観など,初期本と現行本とを対比するなかで,改めて考察が求められている思想史上の課題も少なくない。

2. 『入菩提(菩薩)行論』の受容

本書は,後期インド仏教(c.7C.以降)および後伝期(10C.後半以降)のチベットにおいて,同じ著者の『学処集成』´Siksa¯samuccaya とともに,上述のよ

・うな菩薩の実践徳目を読誦する中で身読させるという性格をもつことから,『菩薩地』「戒品」によるアサンガ流(=唯心流 sems tsam lugs)に対して,シャーンティデーヴァ流(=中観流 dbu ma lugs)の菩薩戒(菩薩律儀)を説く論書として,長く重んじられてきた(13)。

これと並行して,先にもふれたように,とくに第8章「智慧(般若)の説示」―現行本・第9章「智慧の完成(般若波羅蜜)」―の理解をめぐって,8世紀には,認識対象を外界の実在と理解する(経[量部]中観)か,あるいはそれを認識内部の形象と理解するか(瑜伽行中観)という思想史的な文脈で読まれていたことが,初期本に依拠する『入菩薩行論解説[細疏]』によって明らかとなった(14)。

ただし,10世紀後半以降は,プラジュニャーカラマティやアティシャ(982-1054)の影響もあって,同論は現行本系のヴァージョンが次第に主流となる。とともにまた,シャーンティデーヴァの思想解釈についても,「中観帰謬[論証]派」の事実上の祖と位置づけられたチャンドラキールティ(c.600-650)に引き寄せて理解される傾向が強まることになる。

一方,そのような中でまた,同じくヴィクラマシラー寺院を舞台に11世紀前半に活躍した有形象唯識論者のジュニャーナシュリーミトラ(c.980-1030)は,本書の現行本系のヴァージョンに依拠したうえで,シャーンティデーヴァを有形象論者と見なしている。かれは自著の『有形象証明論』Sa¯ka¯rasiddhisa¯stra´ の中で,シャーンティデーヴァが「見られたもの,聞かれたもの,知られたものは,ここにおいて決して否定されない。しかし,ここにおいて,[それらを]真実であると構想分別することは,苦悩の原因であって,斥けられる。」(現行本IX.26,本報告補遺参照)と語る点に注目した。かれの理解によれば,この詩頌の中の

「真実であると」と訳した satyatah は,むしろ前半の

一文に連結して読まれるべきで,このとき前半文は,「見られたもの」云々「は真実において決して否定されない」という内容になる。そのうえで,「見られたもの(」drsta)等を「形象」(a¯ka¯ra)と理解するなら,

・・・

シャーンティデーヴァは明らかにここにおいて有形象説を認めていることになる,というのがかれの解釈であった(15)。

後伝期のチベットにおいてはまた,とくにアティシャの系統を引くカダム派がこの論書を重んじ,「カダム六宗典」の一つと位置づけた。また,プトゥン(1290-1364)もこの論書を重要性を認め,同書に対する当時入手可能であったすべての―10を数える―注釈文献をチベット大蔵経・テンギュル(論書部)に自ら編入した。なおまた,同論は1312年にチベット語訳からモンゴル語に重訳されている(16)。

3. 新旧両本の伝承

現在入手できる『入菩提(菩薩)行論』の写本,あるいは翻訳の成立年代は以下のとおりである。

[サンスクリット諸写本] ネパール本 c.11C 以降

[漢訳]『菩提行経』(天息災 980-1000の間)

[チベット語訳]1 Sarvajña¯deva & dPal brtsegs, based on a ms. from Ka¯sm¯ıra(early 9C.).´

2 Dharmasr¯ıbhadra´ & Rin chen bzang po (958-1055) & Sha¯kya blo gros, based on a ms. from Madhyadesa “middle country” (from late´

10C. to early 11C.).

3 (Rev.) Sumatik¯ırti & Blo ldan shes rab (1059-1109) (from late 11C. to early 12C.).

[モンゴル語訳]Chos kyi ’od zer (1312)

この表からも明らかなように,同論はシャーンティデーヴァ(c.690-750)によって8世紀前半に著され,早くも9世紀初頭にはチベット語訳が現れている。敦煌出土のチベット語文献の中に発見されたのが,実はこのときの翻訳である(ここでは初期本あるいは旧本と名づける)。漢訳でなく,チベット語訳が最も古い伝承を残しているという珍しいケースの一つであるが,これは著作年代が,チベットにおける前伝期―9世紀前半以前―の国家的規模で遂行された翻訳活動の時期に近接していたという事情も与っている。これに対して,現在サンスクリット語写本として伝承されるテクストは,宋代の天息災の漢訳,現行のチベット語大蔵経に伝わるロデン・シェーラプ校訂本,さらにその重訳であるモンゴル語訳とともに,結果として増広された新本に相当する。いま,新旧両本の章立てと各章内の偈頌数を比較すると,

同偈頌数

章番 新本章名 (Tib., Mon.偈頌数) 旧本章番同偈頌数

 

Bodhicitta¯nusamsa´ 36( 36) 1 36

Papadesana¯´ 66( 65)

Bodhicatta¯parigraha 33( 33.5) 2 98

Bodhicattaprama¯da 48( 48) 3 48

Samprajanyaraksana・ ・・ 109(109) 4 94

Ksa¯ntipa¯ramita¯・ 134(134) 5 127

V¯ıryapa¯ramita¯ 75( 76) 6 84

Dhya¯napa¯ramita¯ 186(187) 7 59

Prajña¯pa¯ramita¯ 168(167) 8 90.5

10 Parina¯mana¯・ 58( 57.5[Mon.58]) 9 66

Total 913(913[Mon.913.5]) 702.5

となる。旧本では,新本の第2,第3両章が合体されているため,全体で9章立てである。総偈頌数は,旧本が702.5偈であるのに対して,新本は913偈(モンゴル語訳は913.5偈)に結果として増広されている。偈頌総数もそうであるが,両者の間の内容的な相違は,後半第5章(旧本第4章)以降に集中している。また増広とはいえ,これはあくまでも総数のうえでの増広を意味するのであって,実際には両者の間にはかなりの出入りがある。両者の間の内容的な相違については,すでに一部論じたが(17),ここでは,新旧両本の相違を端的に示す一例として,本報告の補遺のかたちで,第9章(旧本第8章)内の「自己認識説批判」をめぐる論議の異同を挙げることにする。自己認識(svasam-

・ vitti, -vedana)説とは,知は知自身[の形象]を認識するという,ディグナーガ(470-540頃)が経量部説等をふまえて確立したとされる理論で,シャーンティデーヴァは新旧両本においてこの説を批判する。新旧両本の出入りとともに,新本には偈頌の構成上の問題があることは,この例からもうかがえるのである。

4. 初期本テクストの発見秘話

ここで最後に,敦煌出土本がなぜ旧本であることが判明したのか,また従来の研究ではなにゆえその点を解明するに至らなかったのかという問題を考えてみたい。

いま敦煌出土本というのは,スタイン収集本(St.)(ドゥ・ラ・ヴァレ・プサン目録Nos.628,629,630-I)およびペリオ収集本(Pt.)(ラルー目録No.794)の総数4点をさす。この中のPt.No.794は,実は本来St. No.628の23葉に連続する最後の一葉であり,両者を合わせるとほぼ完本となる。

スタイン収集の敦煌チベット語写本は,今世紀初め,王道士の手により莫高窟千仏洞において偶然発見された諸写本の一部で,A.スタインが,第2次中央アジア探検の途次1907年にそれを入手し,最終的にロンドンのインド省図書館に収蔵されたものである。そして,このスタイン卿の招聘により,ベルギーの仏教学の泰斗L.ドゥ・ラ・ヴァレ・プサン氏が当該目録の作成に心血を注いだのは,第一次大戦もさなか(1914-18)のことである。ただし残念ながら,この目録は彼が逝去した1938年までに完成を見ることはなかった。それが現在のよう形で最終的に目録として完成し,1962年に公刊されたことについては,長い間インド省図書館において司書を務めたF.W.トーマス氏の功績も忘れてはならない(18)。

さて,このドゥ・ラ・ヴァレ・プサン目録は,敦煌本の性格のいくつかを的確に紹介している。すなわち,タイトルこそ『入菩薩行論』であるが,現行本と相違する箇所が少なくないこと。現行のチベット大蔵経には収められていないこと。St.629の奥書には著者名がアクシャヤマティ師であると記されていること。訳者はペルツェク他であること。St.628の冒頭には『中論』の八不偈が導入偈として採用されていること等である。いずれも,簡潔ながら正鵠を射た紹介である。とくに,訳者がペルツェクである点にも言及しているのであるから,目録作者が,もしもこの時点で後述のプトゥン『仏教史』内の関連記述か,あるいはまたせめて現行のチベット語訳の奥書と対照してさえいれば,この敦煌出土本こそは,その奥書のいうペルツェク訳の第1次翻訳に相当するのではないか,という推測をもつことは十分に可能であったように思われる。それにも関わらず,結果としてこのような推測に至らなかったのは,やはり,論書でありながら現行のシャーンティデーヴァに帰せられる『入菩薩行論』との内容的な相違が大きく,しかも著者名さえも異なっていることがネ

ックになっていたものと考えられる。

その後1975年には,オーストラリア国立大学のJ.W. ドゥ・ヨング氏が,先にもふれたヴィブーティチャンドラの注釈『入菩薩行論意趣細疏』(12C.末-13C.初頭)の冒頭部に置かれたシャーンティデーヴァの伝記をサンスクリット文とチベット語訳とを対照させながら詳細に検討し,併せて現行チベット語訳本の奥書,プトゥンの『仏教史』,およびターラナータ『インド仏教史』の関連記述を分析した(19)。この研究は,1968年に公刊されたA.ペッツァリ氏による包括的なシャーンティデーヴァ研究(20)に対する批評論文であるが,実はこの中で,ドゥ・ヨング氏は,プトゥンのある重要な指摘に着目した。すなわち,プトゥン『仏教史』最終章の訳経論目録の中の,『入菩薩行論』の項目下に置かれた『入菩薩行論』のヴァージョンの相違と,アクシャヤマティという著者名に関する以下のような記述である。(21)

「『入菩薩行論』:シャーンティデーヴァ作,Dク[・ロデン・シェーラプ 1059-1109]訳。これは三大目録には確かに600シュローカ・2巻と出るのであるが,

[現行のヴァージョンは]1000シュローカとして知られている。かの,アクシャヤマティ著といわれる9章から成る『入菩薩行論』とこれ[つまり,10章から成る現行本]は同一でないとの説が多いのであるが(sPyod ’jug le’u dgu pa Blo gros mi zad pas mdzad zer ba de dang ’di mi gcig ces smra ba mang yang),「罪業懺悔」の章[=第2章]を別に設ける設けないという相違と,翻訳の先後の相違とを除いて,同一であると私は述べる。」

これは,決定的ともいえる重要な記述で,ワシントン大学(後にハンブルク大学)のD.セイフォート・ルエッグ氏もまた1981年,プトゥンによるこの記述に言及している(22)。しかし残念ながら,両者ともに,ドゥ・ラ・ヴァレ・プサン目録を介して敦煌出土チベット語写本の中に9章立ての初期本が現存する事実を知るには至らなかったのである。そのためもあって,ドゥ・ヨング,セイフォート・ルエッグ両碩学にして,上の下線部の記述は,「『入菩薩行論』の第9章がアクシャヤマティによって著され,それ(600シュローカ本?)とこれ(1000シュローカ本?)は同一でないという説が多いでのあるが」(23)と誤読される結果となった。敦煌本に照らすことができたなら,容易に回避されえた問題であった。

かくして,これら先学による諸研究の蓄積のうえに,筆者が幸運にも敦煌本に巡りあったのは,オーストラリア国立大学の先のドゥ・ヨング教授の下に留学中の1982年のことである。その少し以前から東洋文庫チベット研究委員会(山口瑞鳳代表)による『スタイン蒐集チベット語文献解題目録』の作成にたずさわり,また『講座敦煌6・敦煌胡語文献』(同編)所収論文の執筆締め切りも迫っていたことから,Ph.D.論文作成の合間を縫って,中観思想関連のいくつかのスタイン収集写本を現行本と対照しならがら読んでいたある日,上述のSt.628,629,630-Iに遭遇した。とはいえ不明なことに,筆者もまたこれらが『入菩薩行論』の初期本に相当する文献であることを即座に理解したわけではなかった。偈頌の出入りも多く,論の後半にかなりの相違があり,著者名も相違するとするなら,これは関連する疑似論書の一つというべきではないかという疑念をどうしても拭えなかったのである。

これらの問題が氷解し,ペルツェク訳と明記される敦煌出土本こそは紛れもなく『入菩薩行論』の原形に近い内容を伝承するという推定を得るにいたるまで,その後数年を要した。敦煌本を同定するに際しては,この間に以下のような事実を目の当たりにしたことが大きな意味をもったのである。

8ロデン・シェーラプによって訳文が改められたはずの現行本の偈頌訳に,どういうわけか旧訳(初期本のペルツェク訳)が半偈分だけ消去されずに残されてしまっている例(第3章・第1偈)が確認されたこと。したがって,この偈頌は,通例4詩節であるはずの訳文が,後半偈に新旧の訳が混在しているため,6詩節をもつ(24)。

8プトゥン『仏教史』最終章の訳経論目録における関連記述を,西岡校訂本で知り(25),敦煌出土本は,600シュローカのアクシャヤマティ作と伝承されるヴァージョンに当たるに違いないとの確信をえたこと。600シュローカは,『デンカルマ目録』(824[/836]年)も同論を「600シュローカ・2巻」と記すように,当該文献の大きさを示す概数で,実際の偈頌数は702.5偈である。(それゆえまた913偈からなる現行本もまた,1000という概数で記されている。)

8現行のチベット大蔵経の中に,初期本の訳本は収められていないが,初期本系の注釈文献『入菩薩行論解説[細疏]』が存在することを確認したこと。(その註釈内でも『入菩薩行論』の著者名はアクシャヤマティと言及される。)

8なお,著者名アクシャヤマティについては,アティシャ(982-1054)の『入菩薩行論注』も言及するが(26),それにもまして興味深い記述が『デルゲ版・テンギュル目録』の中に確認された。同目録の記述の多くは,ヴィブーティチャンドラの注釈『入菩薩行論意趣細疏』の冒頭に置かれたシャーンティデーヴァの伝記,およびプトゥン『仏教史』の関連記述に負っているが,『入菩薩行論』を朗誦したシャーンティデーヴァがアクシャヤマティと呼ばれた経緯に関する以下の記述は,他の関連する諸伝記の中に確認されておらず,実に注目に値するものであった。

「[シャーンティデーヴァは]『入菩薩行論』という大論を説かれた。「[心前に]有も無も[あらわれない]時には」(初期本VIII.26;現行本IX.35)云々と[説かれた]時,[かれは]四諦の法性を現前に観察され,聖者文殊師利もまた目前の空中にましました。[このことを]目のあたりにした大衆は,信心を生じ,

「この勝れたお方こそはアクシャヤマティ(Aksayamati・ )である」と声を一つにして呼びあったのである(skyes bu dam pa ’di ni Blo gros mi zad pa’o zhes mgrin gcig tu sgrogs so//)。そして[最終の]「廻向」章を説かれた時,文殊師利を懐ける空界に昇ってゆき,ついには[その姿が]見えなくなってしまった。しかしながら,清浄な響きをもつ[その]法音は,論の終了するまで途絶えることがなかったのである。......。その後,ナーランダーの学者たちがその論を文字に記そうとした時,カシュミールの者たちは700シュローカあるものを記憶しており,また中部地方の者たちは1000シュローカあるものを記憶していた。」(27)

この記述によれば,アクシャヤマティという呼称は,シャーンティデーヴァが『入菩薩行論』をナーランダーにおいて大衆の面前で朗誦した際に与えられたもので,これが正しければ,アクシャヤマティ(無尽意)菩薩にイメージをダブらせた別称ということになるであろう。

むすび

以上のような経緯のなかで,またその後に遂行された各論的な諸研究をとおして,敦煌出土本は,紛れもなくシャーンティデーヴァ作『入菩薩行論』の最初期の形態を伝えるものであることが明らかとなった。同論には,とくに後半の内容に大きな相違のある複数の伝承があったことは,プトゥン『仏教史』等のいくつかの伝記の記すとおりであることが確認された。しかしながら,先にみたような,複数の伝承の中で1000シュローカあるもの,つまり現行本系のヴァージョンが正しいとシャーンティデーヴァ自身がお墨付きを与えたという話しは,現行本系のヴァージョンを正当化するための,むしろ後代―10世紀後半以降―の創作であると理解するのが相応しいものと考えられる。ただし,それにしても,はたしていつ,いかなる背景のもとでそれぞれの伝承が成立したのか,―この点はいまだに謎として残されているのである。

ささやかな一例ではあるが,古典学においては一次資料の発掘や発見がどれほど貴重なものであり,またそれらを基礎にした先人の諸研究の蓄積がいかに不可欠なものであるかということ,そして同時にまた,それらの既存の研究を踏まえながらも,積極的な批判や論争をとおしてはじめて,次のステップにつながる興味深い発見もあり得ることを,『入菩提(菩薩)行論』の事例は端的に示しているといえるであろう。

--

注)

1.ここでは,大乗仏教の代表的な経典と論書の一つである『法華経』と『中論』の例をあげる。以下は,それぞれの文献に関する,サンスクリット語写本,漢訳,チベット語訳の順に成立年代を示したもので,いずれも漢訳が最古の伝承を残す典型的な例である。

8『法華経』Saddharmapundar¯ıkasu・・ ¯tra(c.1C.A.D.)

[サンスクリット写本]

ネパール本 c.11C.以降の書写

ギルギット本 c.7C.(?)以降の書写

中央アジア本 c.9C.以降の書写(ただし,大谷探検隊将来・旅順博物館蔵本は c.5-6C.)

[漢訳]『正法華経』(竺法護 A.D.286)

『妙法蓮華経』(鳩摩羅什 A.D.406)

『添品妙法蓮華経』(闍那崛多等 A.D.601)

「二訳を考験するに,定めて一本に非ず。護[訳]は多羅の葉に似たり。什[訳]は亀茲の文に似たり。」(『添品法華』序文,大正蔵 vol.9,134c4-5)

[チベット語訳] Surendrabodhi & Ye shes sde(early 9C.).

8『中論』Madhyamakasa¯stra´ (by Na¯ga¯rjuna [c.150-250])

[サンスクリット写本] チャンドラキールティ注『プラサンナパダー(明句論)』(c.7C.)所引テクスト c.11C.以降の書写

[漢訳] 青目注『中論』所引テクスト(鳩摩羅什 A.D.409)

[チベット語訳]『「般若」という名の根本中論』

Prajña¯-na¯ma-mu¯lamadhyamakaka¯rika¯:

Maha¯sumati, Kanaka (Rev.) &Nyi ma grags (late 11C.)

2.See R. Salomon, “A Preliminary Survey of Some Early Buddhist Manuscripts Recently Acquired by the British Library”, Journal of the American Oriental Society 117.2, 1997, pp.353-

358; 松田和信「バーミヤン渓谷から現れた仏教写本の諸相」『古典学の再構築』7(特集・「文明と古典」第3回公開シンポジウム報告),2000.7, pp.32-35.

3.『入菩提行論』Bodhicarya¯vata¯ra は現行のサンスクリット本,プラジュナーカラマティの『同論細疏』(Skt.,Tib.),ヴィブーティチャンドラの『同論意趣細疏』(Tib.)に出る論名で比較的新しい呼称。これに対して,同論の Tib. 訳をふくめ,Tib. 訳に残る他のすべての註釈文献は『入菩薩行論』Bodhisattvacarya¯vata¯ra である。漢訳(『菩提行経』)は前者の系統。拙稿「Aksayamati・ 作・異本 Bodhisattvacarya¯vata¯ra について」『日本西蔵学会々報』32,pp. 1-7(esp.p.6,n.1)参照。

4.斎藤明「敦煌出土アクシャヤマティ作『入菩薩行論』とその周辺」『チベットの仏教と社会』(山口瑞鳳監修)春秋社

1986, pp.79-109;同「『入菩薩行論解説細疏』のシャーンティデーヴァ理解」『今西順吉教授還暦記念論集・インド思想と仏教文化』(藤井教公他編)春秋社 1996, pp.257-263;同「『入菩薩行論解説細疏』の思想的立場とめぐって」『印度学仏教学研究』45‐2, 1997, pp.422-428他。なお,敦煌出土本と,それに依拠する『入菩薩行論解説[細疏]』に関する文献一覧については,A. Saito, A Study of the Dun-huang

Recension of the Bodhisattvacarya¯vata¯ra (A Report of Grant-in -Aid for Scientific Research (C)), 2000.3, Mie University, pp.105-108参照。

5.See The Collected Works of Bu-ston 24 (´Satapitaka Series

vol.64), Ya 114a3-115a1.

6.See J.W. de Jong, ”La légende de Sa¯ntideva”,´ Indo-Iranian Journal 16-3, 1975, pp.161-182.

7.前掲拙論「敦煌出土アクシャヤマティ作『入菩薩行論』とその周辺」pp.100-101参照。

8.See A. Schiefner, Ta¯rana¯thae de doctrinae buddhicae in india propagatione, Petropoli, 1868 (repr. Tokyo: Suzuki Research Foundation, 1963), p.125.16-p.128.2.

9.梶原三恵子「Bodhicarya¯vata¯ra の基本性格―一人称の意味するもの―」『待兼山論叢』(哲学篇)25, 1991, pp.25-38参照。

10.A.Saito, op.cit., pp.33,34,37.

11.I.P. Minayev, “Bodhicarya¯vata¯ra”, Zapiski Vostochnago Otdeleniya Imperatorskago Russkago Arkheologicheskago Obshchestva 4, St. Petersbourg, 1890, pp.200,201,204.

12.前掲拙論「敦煌出土アクシャヤマティ作『入菩薩行論』とその周辺」p.100;同「『入菩薩行論解説細疏』のシャーンティデーヴァ理解」pp.592-593参照。

13.小玉大圓「チベットにおける戒律の傳統について―序説―」

『仏教大学研究紀要』53, 1969, pp.79-120;同「『瑜伽論』戒品のチベット文註釈書類に見られる諸問題」『同』54, 1970, pp.117-129;藤田光寛「〈菩薩地戒品〉所説の菩薩戒の一考察」『印度学仏教学研究』34‐2, 1986, 867-874;同「チベットにおける菩薩戒受容の一断面」『同』36‐2, 1988, pp.871877;石田智宏「Bodhicarya¯vata¯ra における波羅提木叉と懺悔法―改編と改訳の証跡―」36‐2, 1993, pp.1-27;藤田光寛「瑜伽戒における不善の肯定」『日本仏教学会年報』65, 2000, pp.107-125;宮崎泉「菩薩戒受戒儀式の一断面―アティシャの『儀軌次第』―」『同』65, 2000, pp.93-106他参照。

14.前掲拙論「『入菩薩行論解説細疏』のシャーンティデーヴァ理解」pp.586-591;拙稿「中観思想史におけるシャーンティデーヴァの位置をめぐって」『宗教研究』69‐4, 1996, pp.173-175参照。

15.この点は,本科研費による研究成果として先の第36回国際アジア・北アフリカ研究議(於モントリオール 2000.8.27-

9.2)において”Jña¯nasr¯ımitra’s Understanding of Sa´ ´¯ntideva as a

Sa¯ka¯rava¯din”と題して口頭発表を行った。

16.I. de Rachewiltz, The Mongolian Tanjur Version of the Bodhicarya¯vata¯ra, Wiesbaden: Harrassowitz Verlag, 1996.

17.拙論「『入菩薩行論』の謎と諸問題―現行本第九「智慧の完成(般若波羅蜜)」章を中心として―」『東方学』87, 1994, pp.136-147;同「『入菩薩行論』新旧両本における自我批判」『日本仏教学会年報』62, 1997, pp.49-62.

18.L. de la Vallée Poussin, Catalogue of the Tibetan Manuscripts from Tun-huang in the India Office Library, Oxford University Press, 1962.

19.De Jong, op.cit., ”Lé legende de Sa¯ntideva”, pp.161´ -182.

20.A. Pezzali, ´Sa¯ntideva, mystique bouddhiste des VIIe et VIIIe siècles, Firenze: Vallecchi Editore, 1968.

21.前掲拙論「敦煌出土アクシャヤマティ作『入菩薩行論』とその周辺」pp.80-82参照。

22.D. Seyfort Ruegg, The Literature of the Madhyamaka School of Philosophy in India (A History of Indian Literature 7-1), Wiesbaden: Otto Harrassowits, 1981, p.82,n.267.

23.De Jong, op,cit., p,182, 3-6; see also n.22.

24.前掲拙論「敦煌出土アクシャヤマティ作『入菩薩行論』とその周辺」pp.90-91.

25.西岡祖秀「『プトゥン仏教史』目録部索引4」『東京大学文学部・文化交流研究施設研究紀要』5, 1982, pp.43-95 (esp.

p.53).

26.前掲拙論「敦煌出土アクシャヤマティ作『入菩薩行論』とその周辺」p.100.

27.sDe dge ed., Shr¯ı 79a3-6.

補遺:『入菩提(菩薩)行論』旧本第8章・新本第9章における自己認識(svasamvitti,・ -vedana)説批判をめぐる内容異同について

A 新旧対照表(*はテクストの一部に内容的な相違が推

定される偈頌であることを,また は対応する偈頌が

欠落していることを示す)

14 15

16

17

18

19

20 21 22

15cd+*16ab

*17ab+ 18ab

*18cd+ 19ab *19cd+*21cd

*25

22

*23

24ab+

*26

15cd

16

17

18 19 20

21

22

23 24 25

26

27-30

14ab

*14cd+

*15ab+

15cd+*16ab

16cd+*17ab

+*17cd

19

*20

21ab+

*18

*22

 

B 新旧両本和訳(旧本は,Saito, op.cit., A Study of the Dun

9-huang Recension of the Bodhisattvacarya¯vata¯ra,pp.50-51を,新本は Minayev,op.cit., “Bodhicarya¯vata¯ra”, pp.209-210をテクストとして使用)

[旧本 第14-22偈]

14 [瑜伽行派] 迷乱[心]さえ存在しないときには,幻は何によって知覚されるのか。

[論者] 君にとっては幻さえも存在していないとき,何が知覚されることになるのか。

15 [瑜伽行派] 心がまさに幻であるとき,そのときには何が何によって知覚されようか。

[論者] あたかも刀の刃が自らを切りはしないように,意(ココロ)もまた同様である。

16 [瑜伽行派] もしも灯火のように,自己と他のものとを照明するのである,というなら,

[論者] 灯火は照明されない。なぜなら,[もともと灯火自身は]闇に覆われていることはないのであるから。

17 [同] 青は,水晶のように,青のための原因に関係しない。青い状態にあるものが,自分で自分自身を青くしているのである。

18 [瑜伽行派] 知は他の縁を伴って[自己を]照明する

(*praka¯sayati´ ),というなら,

[論者] [自己認識論を説く者にとっては]色形や眼薬なども知のなかに含まれているのではないのか。

19 [論者] 「灯火は照明する」と,知によって知ったうえで語られる。「知(buddhi)は照明する」というのは,何によって知ったうえでそのように語られるのか。

20 [同] 照明するにせよ,あるいは照明しないにせよ,誰によっても見られないのであるから,不妊女性(石女)の子[について云々すること]のように,語るのも無意味なのである。

21 [瑜伽行派] もしも自己認識が存在しないなら,[眼識や耳識等の]識はどうして記憶されるのであろうか。

[論者] ほかならぬ記憶された対象によって,考察されるまでもなく,そ[の識]は記憶されるのである。

22 [同] なぜなら(yatha¯),見られたもの,あるいは聞かれたものすべては,ここにおいて否定されない。しかし,ここにおいて,

[それらを]真実であると構想分別することは,苦悩の原因であって,斥けられる。

[新本 第15cd-26偈]

15cd[瑜伽行派] 迷乱[心]さえ存在しないときには,幻は何によって知覚されるのか。

16ab[論者] 君にとっては,ほかならぬ幻が存在していないとき,そのときには何が知覚されるのか。

cd[瑜伽行派] もしも,ほかならぬ心の形象(a¯ka¯ra)が,真実において,[心そのものとは]別なものとして存在する,というなら,

17ab[論者] 心がまさに幻であるとき,そのときには何が何によって見られようか。

cd[同] 世間の主[=ブッダ]によって,心は心を見ない,と語られている。

18ab[同] あたかも刀の刃が自らを切りはしないよ

うに,意(ココロ)もまた同様である。

cd[瑜伽行派] もしも,灯火のように自分自体を照明するのである,というなら,

19ab[論者] 灯火は照明されない。なぜなら,[もともと灯火自身は]闇に覆われていることはないのであるから。

cd[瑜伽行派] 青は青であるために,水晶のように,他のものに関係しないからである。

20ab[同] それと同様に,あるものは他に関係し,また[あるものは]関係しないということが見られる。

cd 省略(プラジュニャーカラマティの『同論細疏』にナシ)

21ab[論者] いったい何が,青であるそれ自身を,それ自身で青くするであろうか。(同細疏にナシ)

cd[同] 青でないばあいには,それはそれ自身を,それ自身で青くすることはない。[因と縁によって青くなるのである。]

22 [論者] 「灯火は照明する」と,知によって知ったうえで語られる。「知(buddhi)は照明する」というのは,何によって知ったうえでそのように語られるのか。

23 [同] [知が]照明するのか,あるいは照明し

ないのかは誰によっても見られない。そのときには,不妊女性(石女)の子の美しさ[を語ること]のように,それを語るのも無意味なのである。

24ab[瑜伽行派] もしも自己認識が存在しないなら,[眼識や耳識等の]識はどうして記憶されるであろうか。

cd[論者] 他のものを知覚したときに,[それとの]結合関係にもとづいて想起がある。あたかも鼠の毒[が,毒を活性化させる雷鳴などを契機に効果を生じること]のように。

25ab[瑜伽行派] 他の[,例えば占い師による呪文や他人の心を知る神通力等の]縁と結合した者に,[他人の心が]見られるのであるから,[心は]自己を照明する。

cd[論者] 魔法の膏薬を[目に]塗ることによって見られた[隠れた]瓶は,膏薬そのものとはなりえない。

26 [同] 見られたとおりのもの,聞かれたとおりのもの,知られたとおりのものは,ここにおいて決して否定されない。しかし,ここにおいて,[それらを]真実であると構想分別することは,苦悩の原因であって,斥けられる。

内容的にみれば,新本は以下のような詩頌構成が求められるであろうか。

1: 15cd+16ab

2: 16cd+17ab

3: 17cd+18ab

4: 18cd+19ab

5: 19cd+20ab

20cd (不要偈)

6: 21

7: 22

8: 23

9: 24 10: 25 11: 26

(B01「伝承と受容(世界)」班・公募研究)