(櫻井)
『入菩提行論』の大乗仏説論をめぐって
論争の争点と意義 櫻 井 智 浩
( 0 )はじめに
「入菩提行論』dの)鹿砒雇4現行本(①)(召Cの第九章には, 42偈~ 44偈 (第一の論争) ,更に50偈~ 52偈(第二の論争)に,内容の異なる二つの大乗仏説論争が存在するが,後者について,プラジュニャーカラマティ (Prafiäkaramati)は,後からの挿入を疑い,注釈しない。さらにいわゆる初期本(召Sのとの内容比較によって,召の論争と第一の論争との内容的類似性,召に相当偈が見当たらない第二の論争の異質性が指摘され(④), 彼の見解を裏付けている。しかし,ソナム・ツェモ(bSod rnams rtse mo. 1142ー1182 ) ,プトン・リンチェンドウブ()u ston Rin chen grub.
1290-1364 ) ,タルマリンチェン(rGyal tshab rje Dar ma rin chen. 1364ー1432)によるチベット撰述注釈書では,その偽撰の指摘に否定的であり,当該部分にも注釈を与えている。この第二の論争に対する三者の注釈の共通点は, 50偈の「経に入っている言葉」と言う偈文を,『大般涅槃経』『大乗荘厳経論』第一章に見られる「経に入っており,律に示され,法性に矛盾しない(⑤)」と言う仏説の定義(【定義】)を意図したものと了解したうえで,そ
の【定義】をめぐっての議論として第二の論争を解釈することにある(⑥)。
本論では,この第二の論争をめぐる意見の相違に,第一の論争中の 召C幽3偈ab句の注釈内容に窺える,彼らの間の仏説観の相違が関係していることを明らかにし,この仏説論争の争点と意義を検討したい。
まず,召S瓦召Cの第一の論争の比較により,この論争の性格,当該偈句の解釈上での問題を確認し,各注釈書の当該偈句の注釈内容を検討する。
(櫻井) プ7
( 1 ) BSAとBOAの大乗仏説論争の比較
最初に,召の論争を取り上げる。 こまでの般若章の文脈を簡単に紹介すると,智慧の生起の必要性を説き,二諦説を提示した上で,幻の比喩と自己認識理論批判を通じて一切法無自性空性を論証し,その獲得のため空性の修習の必要性を説いている。この論争は,その修習の勧奨の部分に含まれ
(召S 30 =召Cみ55)
〔主張者アクシャヤマティ〕 klesa」fieyävrtitamahpratlpakso hi éünyatä / éighram sarva」fiatäkämo na bhävayati täm katham / / SAITO [ 1993] p. 11. nyon mongs pa dang shes bya'i sgrib / / mun pa 1 gnyen PO stong pa nyid / / myur du thams Chad mkhyen dod na / / de ni ci ste bsgom myi bya / /
SAITO [2000] p. 53. なぜなら空性は,煩悩と所知の障碍の闇に対する対治だからである。 一切智者性を望む者が,どうしてそれ(空性)を速やかに修習しないだろうか。
(召S 31ab召Cみ. missing. BSA31cd, cf. BCA41cd)
〔主張者毘婆沙師〕
lam di nyid kyis tshang rgya zhes / / brtsan pa'i* lung las byung ba yang / / yang dag man ngag brgyud pas shes / / khyod kyi gzhung gis ci Itar grub / / SAITO [2000] p. 53. *(sic. ) btsan; ädeya
「正にこの道によってこそ, 菩提がある」という,信受された
(*ädeya)経に言われているにしても,正しい教法の伝承によってである,と君の経論については, どうして証明されようか。
(BSA32.cf.BCA43)
asau siddhäé ca taträsthä mahäyäne 'pi tälll kuru / ubhaye$asya satyatve vedäder api satyatä // SAITO [1993] p. 13. de la yid ches de 'grub na // theg chen la yang yid ches kyis // gnyi ga 'dod pa bden na ni // rig byed rnam kyang bden par 'gyurd // SAITO [2000] p. 53.
-k*lc
(BSA33.cf.BCA44)
gal te phan tshund 'gal Zhe na // 'dul las stsogs pa 'ang dor dgos so
sems can myi mthun dga' bya'i phyir // gsungs pa de ci myi 'dod dam SAITO [2000] p. 53.
(BSA34=BCA54)
tad evani éünyatäpal€e clü#aparp nopapadyate / tasmän nirvicikitsena bhävaniyaiva éünyatä // 34 // SAITO [1993] p. 13.
de Itar stong pa nyid phyogs la // sun 'byin pa ni 'thad ma yin // de bas the tsom myed par ni // stong pa nyid la bsgom par gyis //
SAITO [2000] p. 53.
(櫻井)ルそのように空性の主張に対して論難することは論理的に正しくはない。
したがって,疑惑することなく空性を修習せよ。
召Sでの論争は,「正にこの道によって」云々の経が,「教法の伝承」に基づき,仏説として証明されうるのか,と言う点をめぐって開始されるが, 論争を通じての論者の主張は,小乗側に阿含に対する尊敬があるなら,大乗にもなすべきである,という32偈の内容に集約される。それに対して,小乗側からの提出される大乗非仏説の論拠によって小乗も非仏説となるという誤謬を指摘する。中でも,「内容の相互矛盾」については,衆生のため,多様な教説が容認されると,大乗仏説論の論拠として逆用している。この場合, 小乗についても経と律との矛盾を指摘しているから,仏説の定義としても「内容の相互矛盾」は双方に認められるものであり,大乗と小乗とを峻別するものではない。
以上,召Sみでは,小乗側の仏説の条件は大乗にもあり,大乗非仏説の論拠があるとすれば,小乗にもあてはまる,と言う論法をとる。そこには,仏説性について大乗と小乗とを峻別する意図は看取されない。この論法の性格は,現行西蔵大蔵経に編入された召注釈書における了解にも継承されて いる(⑦)。さらに, 32偈の注釈では,大乗に対する「尊敬」が成立する理由について,小乗と同じように「教法の相承」に基づくと解釈する(⑧)。
これに対して,召C.では,空性の修習の勧奨という主題のもと,その空性を説く大乗の仏説性が問われている点は同様であるが,召30 , 34偈が, 召C.では前後入れ替わった上で,結論として54 , 55偈に述べられていること, 召31偈に相当する箇所に空性の修習勧奨の導入・大乗仏説論争の導入の役割を担う41偈があること,比丘性と空性との関係を説く45-49偈,第二の論争,空性の修習の結果を説く53偈の存在など,構成は大きく異なる。
その中で,仏説論争については, 42偈の存在,偈文の相違等はあるが,論者の主張である召Sス32偈ab句は,召Cみ43偈ab句にほほ相当し,小乗が指摘する大乗非仏説の論拠を否定するという全体の論旨も同様である。その意味で,召C.み第一の論争でも,小乗と大乗の平等性に基づく論争の性格は保たれている(⑨)。
しかし,召&431偈にある「教法の相承」という仏説の定義が召C.盟にはなく,召s.ス32偈ab句「小乗の阿含に対する尊敬」という偈句が召c. 3偈ab
句では「ある条件(yat-pratyaya)を有するそれに対する尊敬」となってい
(BCA43. cf. BCAT32)
〔主張者シャーンテイデーヴァ〕
yatpratyayä ca taträsthä mahäyäne pi täm kuru / anyobhayestasatyatve vedäder api satyatä / / 43 / / V. ed.ゃ. 205. 14 , 127 ある条件を有する,それ(小乗)に対して尊敬がある〔ならば〕,その
〔同じ尊敬〕を大乗にもなせ。( cd句訳省略)
さらに,そのチベット訳をみると,
rkyen gang gis ⅲ der yid ches / / de ni theg Chen la yang mtshungs / / gzhan gnyis dod pas bden na ni / / rig byed sogs kyang bden par gyur / / Der. 32b1。Pek. 36b8ー37a1 ある条件によって,それ(小乗の阿含)に対してある,その尊敬は大乗にも等しい。( cd句訳省略)
と, yat-pratyayäをrkyen gang gisと具格で訳し,また命令法kuruを直訳せずに「大乗も小乗と等しく尊敬される」という内容を意訳している。この偈文の相違は,注釈家の了解を検討する上で重要な意味を持っと思われる。というのは,何れも小乗と同様に大乗にも尊敬をなすべきであるという論日 は一致するが,その尊敬の「条件」の具体的内容-注釈の内容から言えば, おそらく「教法の相承」一は問わない召s.みに対して,召Cの偈句では,
「尊敬」はともかく,小乗と大乗との間で「ある条件」が一致する必要はなく,新たな解釈を加えることが可能だからである。事実,「ある条件」の具体的内容について,各注釈者の見解は異なる。この相違が,第二の論争をめぐる,各注釈家間の了解の違いにも関係してくると考えられるのである。
( 2 )プラジュニャーカラマティ43偈ab句注釈
召。の) 4切-ゆ〃ⅶ (召Cでは,「ある条件」に関して,小乗,大乗でそれぞれ異なった仏説の定義が提示される。
その検討の前に,プラジュニャーカラマティが43偈ab句そのものをいかに語義解釈しているかを確認するため,梵本,チベット・訳の両者からの和訳
( >tLiJ Y
(ity aträha yat-pratyayetyädi— yatpratyayä ca taträsthä mahäyäne' pi tägl kuru / 43ab) yah pratyayo nibandhanam asyä asthäyäb, sä tathoktä / yatpratyayä yan-nibandhanä / ästhä ädeyatä ädarab / tatra svägame / tälll tat-pratyayäm ästhäm iha mahäyäne' pi kuru vidhehi /
(rkyen gang gis zhes pa la sogs pa gsungs so //
Crkyen gang gis ni der yid Ches // de ni theg Chen la yang mtshungs // 43ab)) kyen te rgyu mtshan gang gis 'di la yid Ches pa Yin pa de ni de skad du / gang gi [Der.gis] rkyen gyis yid Ches pa'i rgyu mtshan blang bar // bya zhing gus par bya bar brjod pa Yin no // der zhes pa ni rang gi lung la Yin la / re zhig Yin yid Ches pa de 'ba' zhig 'dir theg pa Chen po la yang byos Shig ces te /
70 0
yady api ubhaya-siddhatvam asiddham, iclalll tarhi sädhanam astu (a)yad guru-éi$ya-paramparayämnäyäyätam buddha-vacanatvena,
(b)yac ca sütre' vatarati, vinaye samdréyate, dharmatäm [pratityasamutpädam] ca na vilomayati tad buddha-vacanalll nänyat /
gal te gnyi ga la grub pa ma grub na / 'di Itar sgrub par byed pa di yod pa yin te / (a)sangs rgyas kyi gsung rab nyid du bla ma dang slob ma brgyud pa las byung ba yin la / (b)gang yang mdo sde la jug / / dul ba la snang ba'i rgyu mtshan blang bar bya zhing gus par bya bar brjod pa yin no / / der zhes pa ⅲ rang gi lung la yin la chos nyid dang mi gal ba de sangs rgyas kyi bka' yin te / gzhan Ⅱ1 ma Ylll no Zhe na /
たとえ,〔42偈で論証手段として否定されたように〕「両者による承認」が〔仏説の定義として〕不成立であるとしても,次のように論証手段があるだろう。(a)師資相承によって(guru-éiya-paramparayä, bla ma dang slob ma brgyud (a)仏説として伝承されたもの,そして, (b)
「経に入り,律に現れ,〔縁起である〕法性に矛盾しない」ものが,仏説であって,他はない。
このように,小乗側の「ある条件」は
(a)師資相承によって(guru-éi»ra-paramparayä)仏説として伝承
( b )経に入り,律に現れ,〔縁起である〕法性に矛盾しない=【定義】と言う定義にある。この内, (a)は,召S 31偈にあった,「正しい阿含の伝承」(yang dag man ngag brgyud pa)と,同内容であると考えられる。召S注釈書は,付法五師に言及してこの語に注釈するからである。また,
(b)は,召S瓦召C.ス共に偈文にはないが,召S注釈書には見られるものである。いずれも伝統的法義の分類の仕方であり,当時の一般的な理解を反映して,彼が「ある条件」の具体的内容として想定したものであろう。しか し,これらはシャーンテイデーヴァの意図を直接反映したものではない。
これに対して,プラジュニャーカラマティは,論者の主張としての「ある条件」を次のように解釈する。先ず,前述の小乗側の定義に対しては,
(tuft)
mahäyäne'pi uktasya ästhä-käraqasya vidyamänatvät theg pa chen po la yang brjod pa'i yid ches pa yod pa'i phyir ro //
(Eli,
sarvapravacanasädhärmam avyabhicäri sangs rgyas kyi bka' thams cad la thun mong ba'i mtshan nyid ma 'khrul ba
b C, Sikéäsanyuccaya l:
Adhyä'ayasanycodanasütra, ä b IZ Ratnagotravibhäga
70 0
api tu maitreya (Bl)caturbhil! käraqaih pratibhänal!l sarval!l buddha-
bhä}itaul veditavyam / kathamaié caturbhih ? iha maitreya pratibhänam arthopasamhitam bhavati nänarthopasamhitam / @ dharmopasamhitam bhavati nädharmopasaulhitam J klegaprahäyakarp bhavati na kleéa-vivardhakam / samdaréakam bhavati na satpsära-gul)änusarpsa-samdaréakam / etaié caturbhih /
byams pa gzhan yang (Bl) rgyu bzhis ni spobs ba thams cad ni sangs
rgyas kyis gsungs par rig par bya'o // bzhi gang Zhe na / byams pa 'di la spobs pa Odon dang Idan pa yin
gyi don dang mi Idan pa ma yin pa dang / @chos dang Idan pa yin
gyi / chos dang mi Idan pa ma yin pa dang / Onyon mongs pa zad
par byed pa yin gyi / nyon mongs pa 'phel bar byed pa ma yin pa
dang / @mya ngan las 'das pa'i yon tan dang / phan yon ston pa yin
gyi 'khor ba'i yon tan dang / phan yon ston par byed pa ma yin no //
byams pa rgyu bzhi PO di dag dang Idan na sngar bzhin du rig par bya 0 / /
『深心教誡経』では,以下に示す四つの理由(kärana)を伴う「弁才」 pratibhänaが仏説とされる。
①義(artha)を有し非義を有しない
②法を有し非法を有しない
③煩悩を断除するものであり,煩悩を増大するものでない ④涅槃の功徳の賞賛を示すものであり,輪廻の功徳の賞賛を顕示するものでないこれらについては,次に示すように,さらに同経の引用を終えた後に「法性と矛盾しないことが正に正しい定義」dharmatäyä avilomanam eva samyag-laksanamと言っているから, (b)の定義中の「法性」について, より具体化したものとも考えられるが,この4つの理由を満たすものを真の意味での仏説であると言うのである。
さらに この直後に引用される『宝性論」第五章18偈もほば同内容である。したがって,フラジュニャーカラマティは,これら4つの理由が仏説の定義であることを経証と理証によって示していることになる。
tad atra (B ) dharmatäyä avilomanam eva samyag laksanam uktam /
uktam ca yad ① artha-vad ② dharma-padopasamhitam ③ tridhätu-samkleéa-
nirbahanam vacah /
bhavec ca yac @) chänty-anusamsa-daréakam tad uktam
ärsal!l viparitam anyathä / / iti /
de la (B )chos nyid dang mi gal ba nyid ni yang dag pa i mtshan nyid
Yln no / /
gang Zhig ① do Idan ② chos dang nyer brel cing / / ③ khams
gsum kun nas nyon mongs spong byed gsung / /
@zhi ba'i phan yon ston par mdzad pa gang / / de ni drang srong
gsung Yin bzlog pa gzhan / /
)
Zhes gsungs so / /
①義を有するもの
②法の言葉を有するもの
③三界の煩悩を破する言葉
④寂滅の賞賛を示すもの
以上を踏まえれば,プラシュニャーカラマティは,小乗側の言う伝統的法義分類よりも,四つの理由を備えた「弁才」に由来する「法性」を定義として重視していると言える。換言すれば,仏説の定義として,前述の(a) ,
(b)は二義的なものであり,上記の四条件を満たさないのであれば,かえって認められないものであったと考えられる。召S瓦召C鳳に通底する大乗と小乗の平等性は,小乗側の提出する(a), (b)についてのみ言えるのであり,「ある条件」に大乗の優位性を示す仏説の定義を導入したことで,その論法上の性格からは逸脱したのである。
この「ある条件」に対する大乗固有の仏説の定義の導入は,第二の論争を偽撰とする主張にも関わる。44偈の注釈の後に,仏説論争を総括する次の言葉に,それが窺われる。
etena yad uktam¯guru-parva- ['isya] kramenämnäyäyätam buddhavacanam Ity-ädi tad anenaiva pratyäkhyätam drastavyam.
V. ed.。p. 206 , Ⅱ . 18ー19. それ故,「師〔資〕相承の次第によって伝承されたものが仏説である」云々が〔小乗によって〕言われたことは,これによって論破された,と知るべきである。
この言及も,仏説の定義としての「師資相承」を全面的に否定するものではなく,その定義によって大乗を非仏説に貶めようとする小乗側の態度に批 判の矛先がある。しかし,プラジュニャーカラマティは,その批判のために 43偈ab句に見られる「ある条件」に,シャーンテイデーヴァの意図として, 伝統的法義の束縛を離れ,大乗の優越性を意味する四つの理由に裏付けられた仏説の定義を示した。これによって大乗の仏説性を確定したのであり,
れ以上,仏説の定義について議論する必要はない。彼自身は第二の論争に注
%
釈を与えていないから,それを【定義】をめぐる論争と見ていたのかは確認できないが,以上の第一の論争に対する彼の理解が,第二の論争を偽撰とす る背景と考えられる。
以上のように,大乗個有の定義の導入は彼の注釈の特徴である。と同時に 召&4以来の,小乗と大乗との平等性に基づくという大乗仏説論争の性格は, 彼の注釈では重視されていない。大乗を非仏説に貶めようとする小乗側の態度を批判するために上記の定義を導入したことは,結果的に,今度は大乗側から小乗を峻別することになっている。
( 3 )ソナム・ツェモ43偈ab句注釈
サキャ派第二祖ソナム・ツェモは, Ⅱ年間チャパ・チューキセンゲから中観学説を学んでいたことが知られる。彼の「入菩薩行注釈』g励立襯sゆ47 )0イ加gカ4 '乞/加では,次のように43偈ab句を注釈す こで注釈される召C本文は,以下に示すように現行チベット訳と一致する。
on te rigs pas 'thad pas khas blangs so Zhe na / rkyen gang gy1S ⅲ der yid ches / /
zhes smos te / o na bkar khas len pa i rgyu mtshan gang yin / gal te mdo sde la jug pa dang / dul ba la snang ba dang / chos nyid dang mi gal bas bka' yin no Zhe na / de ni theg Chen la yang mtshungs te / de la yang mdo sde la jug pa la sogs pa yod pa i phyir ro / /
召ッ4〃g z襯sゆ47 )0イカ4 gカ4 '乞ツ加(Toyo. ed. ) ca304b2-4
く43偈ab〉もし,「道理によって合理であることによって,〔我々小乗の阿含は〕承認されるのである」というならば, ある条件によって, それ (小乗の阿含) に対して尊敬がある , と言うのである。もし,〔小乗の阿含に対する尊敬の条件が〕「経に入り,律に見られ,法性と矛盾しないから仏説である。」と言うならば, それ 〔仏説の定義〕 は大乗にも等しい。 なぜなら,それ(大乗)にも「経に入り」等はあるからである。 ソナム・ツェモは,「師資相承」,プラシュニャーカラマティの挙げる定義
) には触れず,小乗,大乗とも【定義】を「ある条件」の内容とする。
第二の論争については,前述のように50偈の「経に入っている」という偈文を【定義】を意図したものと解釈する。そのうえで, BCAPの偽撰の指摘を批判的に紹介し,第二の論争を第一の論争の詳解と見ている。
以上の解釈には,【定義】が,二つの仏説論争を通じてのシャーンティデーヴァの一義的な意図である,というソナム・ツェモの理解が反映されていると考えられる。このように,小乗,大乗とも,尊敬の条件を【定義】と見ており,小乗と大乗との平等性という召S以来の仏説論争の性格に基づいて,彼は注釈を与えていると言える。
( 4 )プトン43偈ab句注釈
プトン造『入菩薩行論注釈「菩提心を照明する月光」」側g靨
加'乞)りイ24 /4 g '乞ツカ4田)のigじんルた立〃いgsal barカ4ヨ4 '乞 ぇグは,彼が召に相当する異本の存在を存知し,而もそれが召Cと同起源と考えた上で,おS注釈書を含む現行西蔵大蔵経に含まれる七つのインド撰述注釈書,さらにチベット学僧による注釈を参照しながらも, 召Cス梵本,並びに召C員尸に沿う形で注釈したものとされている。
しかし,召C尸が偽撰とする第二の論争には,プトンは注釈を与えている。しかも,本来の偈の配列に従わず, 42偈から44偈,召S 33偈への言及, 50偈から52偈, 45偈から49偈, 53偈以降という順で注釈し,二つの論争を一連の物として取り扱う。以上のようにBCAPと解釈が相違する理由は, 43 偈ab句の「ある条件」をめぐるプトンの見解に窺われる。
nged kyi lung Ⅱ1 / sangs rgyas kyis Od srung Chen PO la / des kun dga PO la / des sha na 1 gos can la / des nye sbas la / des dhi dhi ka la / des legs mthong chen po la sogs pa bla ma brgyud pa las byung ba i rkyen te / rgyu mtshan gang gis theg clman gyi lung der te / de la bkar yid ches so / /
Zhe na / rkyen gang gis bkar yid ches pa de ⅲ / theg Chun ba' zhig tu ma zad theg Chen la yang gyis shig / Yis ches pa i rgyu mtshan mtshungs pa i phyir te / theg Chen yang sangs rgyas nas byams pa dang jam dpal sogs rim par brgyud nas bshad par mtshungs pa'i phyir
ro / / 0 g / 174b1ー3
く43偈ab〉「私の阿含は,仏から聖マハーカーシャパMah颪k yapaに 彼からアーナンダAnandaに,彼からシャーナカヴァーシン Sänakaväsinに,彼からウバグプタUpaguptaに,彼からディーティカ Dhitikaに,彼からマハースダルシャナMahäsudaréanaを初めとする方〔に相承されたという〕,師資相承から生じるある条件,即ち,理由によって, その小乗の阿含に対する尊敬がある。」
と言うならば, ある条件によって 〔ある〕 仏説に対するその尊敬を , 小 乗だけに限らず大乗にもなせ。 〔大乗も小乗と〕尊敬の理由は等しいからである。大乗も,仏から,弥勒や文殊を初めとする〔菩薩方〕が,次第に相続して解説された(bshadpa)ということは等しいからである。
この注釈では, 43偈ab句について, yatを具格として了解している。 kuruについては,おそらく,梵本,召C Pの内容から,「大乗にもなせ」と梵本から偈文を直訳する一方,チベット訳の「等しい」という偈句も活かして注釈している。
その上で,プトンは「ある条件」の具体的内容について,【定義】,プラジュニャーカラマティの挙げる定義には触れず小乗,大乗と共に「師資相承」とする。ただし,小乗側では.付法第六祖までによる師資相承であるが, 大乗側は大乗の菩薩による相承とし,その担い手が異なっている点は,プト ンによる解釈の一つの特徴と言えよう。
プトンも, 50, 51偈を【定義】をめぐる議論と見るから,第一の論争と第二の論争とを,異なった定義をめぐる論争として注釈していることになる。 この点は,二つの論争を【定義】をめぐる議論と見るソナム・ツェモとは異 なるが,そうだからこそ,第二の論争に意義を認め,偽撰の指摘を退けているとも受け取れる。いずれにせよ,大乗にも独自の師資相承を主張しているから,プトンはそれに仏説の定義として一定の評価を与え,師資相承,【定義】を小乗,大乗ともに共通する仏説の定義として二つの論争を注釈している点で,大乗と小乗の平等性という,召S以来の仏説論争の性格に基づいて,彼も注釈を与えていると言える。
20
( 5 )タルマリンチェン43偈ab句注釈
タルマリンチェンの注釈『仏子渡岸』rのg〃g。gsは,この仏説論争のもつ意義について,特徴的な見方を示す。彼によれば,この論争は, 阿羅漢果を得る為に法無我を了解する必要はないと主張する声聞独覚に対し, 空性を了解する智慧こそが有趣から解脱する道であると証明するためのものと言う。さらに, 41偈cd句について,「この道以外に菩提はない」と言う経言を『般若経』の一節であると指摘した上で
この本文の二句は,「ある声聞部の者の心にとって,大乗〔経典〕が仏説として成立する。」と〔シャーンティテーヴァが〕主張して,この証明(sgrub byed)を設定するのである。
と言い,この論争が,むしろ小乗の者達に大乗仏教を理解させる為のものと見る。これに関連して, BCAPに引用される「般若経』にも言及し,それが声聞独覚の法無我理解を承認するというナーガールジュナ以来とされる理解を裏付ける経証であることを指摘しながらも,それ以外の数多の経証が引用されていないことを批判する。
以上の大乗仏説論争に対する理解を踏まえて, 43偈ab句を, 42偈cd句から連続した内容として注釈を与えている。ゴシック部分が43偈ab句の注釈部分に相当する。
khyod Skyes ma thag pa dang lung don rigs pas gtan la ma phebs pa i dang po khyod la yang dman pa'i scle snod di tshad mar ma grub la / dus phyis lung tshad mar khas len pa i rkyen te thabs dag gang dul pa la gnang / md0 scle la jug mngon pa i chos nyid dang mi gal bar 」ug pa 1 Chen PO bstan pa sogs lung don rigs pas gtan la bebs pa i thabs gang gis ⅲ lung tshad ma der yid ches par sgrub pa'i sgrub byed de ni theg chen gyi mdo sde la yang mtshungs par yod pa'i phyir ro / / G立jug ngogs [K. 128a2ー3]
〈42偈cd〉君が生まれてまもなく, また,阿含の意味を理証によって
確定していなかった最初は君においても, この小乗経典は量として成立していたのではない。 く43偈ab句〉後の時に,阿含が量として承認される条件, 即ち,およそ方便が「律に見られ,経に入り,論の法性と矛盾しない。」と入る偉大なこと('jug pa'ichen po)を説くことを初めとする経証を理証によって確定している〔が,その〕 何らかの方便によって, 正に阿含が量であるそれに対する尊敬において成立する,証明されるものであるそれは, 大乗経典にも等しいものとしてあるからである。
このように,小乗側にとっても阿含が学習を通じて量としての権威を持っのであって,初めから量として確定していたわけではないと指摘している。
こでの偈文は,現行チベット訳に一致するが,その中で,「師資相承」, プラジュニャーカラマティの仏説の定義ではなく,「条件」として【定義】が取り上げられている。
第二の仏説論争については,召c Pの指摘を紹介した上で,ソナム・ツェモと同様に,召C.の配列通りの位置で注釈を与え,なおかっ, 50偈の「経に入り」と言う言葉を【定義】を意味すると解釈する。しかし,タルマリンチェンの解釈は,小乗側が提出するその定義を「初めとして」と言っている点からも,条件の特定よりも経典が量となる経典理解の過程の平等性に重点を置く。いずれにせよ,彼も,小乗と大乗の平等性に基づく議論として解釈する点は同じである。小乗と大乗を峻別しないこの論法の性格が,シャーンテイデーヴァも声聞独覚の法無我理解を承認すると言う理解につながるものと予想される。
召,召C第一の論争とに通底する論法の性格は,小乗と大乗の平等性と言うことにあった。これに対して,プラジュニャーカラマティは, 召C幽3偈の「ある条件」の具体的内容である「仏説の定義」に,大乗に特有の定義を付加したことで,その召S以来の論法の性格から逸脱し,結果的に仏説の定義について大乗の優位性を説くことになった。このことが,
【定義】をめぐって論争を再開すると見られる第二の論争を,偽撰とする理由となっていると考えられる。
一方,大筋では彼の解釈に従うとされるチベット撰述諸注釈は,仏説論争
引の解釈をめぐっては意見が異なる。その理由は,召Cみ43偈の「ある条件」の具体的内容について,プラジュニャーカラマティの定義を採用せず,各論師で異なる仏説の定義を取り上げながらも,定義そのものについては,小乗, 大乗共にあてはまる,と言う各論師の理解にある。その点で,おS.以来の論法の性格を踏まえた解釈と言える。この論争の性格が,タルマリンチェンによる,声聞独覚にも空性の了解カ坏可欠であり,彼らにも「般若経」が仏説として成立するという,大乗に彼らを誘引するという解釈の素地になっていると考えられる。ただし,この解釈のためには,この仏説論争によって, 大乗経典の仏説性を証明するのみでは不十分である。これは大乗が.小乗と共に仏説であることを証明するのみで,大乗の説く空性の,声聞独覚にとっての必然性までは証明していないからである。この必然性の証明には,仏説論争以外の召C.=4の所説が関わっていることが予想される。
参照テキスト
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mahäyänam bhavatsütraih präyas tulyarp na kilP matam // 50 // V. ed. p. 210.
ngag gang mdo sde la 'jug de // gal te sangs rgyas gsungs 'dod na // theg chen phal cher khyed cag gi // mdo dang mtshungs 'dod min nam ci // Der. 32b5, Pek. 37a6-7
ekenägamyamänena sakalal!l yadi c10}avat / ekena sütratulyena killi na
引
sarvam jinoditam / / 51 / / V. ed. p. 210.
gal te ma rtogs* gclg gis ni / / thams cad skyon dang bcas gyur na / / mdo mtshungs gclg gis thams cad ni / / rgyal bas gsungs pa cis ma yin / / Der. 32b5-6 , Pek. 37a7 ( * Der. gtogs) 理解されない一部分によって,〔大乗〕全てが過失があるとするならば,〔大乗にも小乗と〕等しい経典の一部分があることから,全てを仏説であるとどうして〔考えられない〕のか。
mahäkäéyapamukhyaié ca yad väkyam nävagähyate / tat tvayänavabuddhatväd agrähyam kah karisyate / / 52 / /V. ed. p. 210.
ngag gang Od srungs Chen PO la / / sogs pas gting dpogs ma gyur pa //de ni khyod kyis ma rtogs pas / / gzung bya min par su zhig byed / / Der. 32b6
Pek. 37a7ー8 また,マハーカーシャパを初めとする方々によって理解されなかったそれ〔大乗〕が,あなたによっても理解されないから〔と言って〕,誰が〔その大乗を〕採用すべきでないだろうか。
なお, 52偈は「マハーカーシャパ」が後述する付法五師の第一祖であるから, 師資相承をめぐっての議論と考えることも出来ようが,インド,チベットを問わず,付法五師に言及してこの偈を注釈するものは現時点で確認できない。
③召ーアクシャヤマティ(Aksayamati)作九章立て約700偈敦煌蔵文資
本編そのものは所蔵されなかったが,二つの注釈書(ーっは第8章のみ)が西蔵大蔵経に所蔵。召C.言との対照により,この二本が同一起源のものであり,そのうち月S鳳が,より原型に近いものと考えられている。斎藤明「敦煌出土アクシャヤマティ作「入菩薩行論』とその周辺」「チベットの仏教と社会」(山口瑞鳳監修)春秋社, 1986 , pp. 79ー109をはじめとする博士の一連の論攷(同「プトウンと「入菩薩行論解説[細疏]」」「印度学仏教学研究」48ー2 , 2000, pp ( 118 )ー ( 123 )に 初期本に言及する論攷のビブリオグラフィーあり)を参照。初期本並びに注釈書八章の校訂テキストは, SAITOは993] ,注釈書を含む初期本八章の和訳にSAITO [2000]がある。また,その注釈書によると,召Sが経[量部] 中観,あるいは瑜伽行中観の思想的文脈でも読まれうることが,明らかとなった (同「「入菩薩行論解説細疏』のシャーンテイデーヴァ理解」『今西順吉教授還暦記念論集・インド思想と仏教文化」(藤井教公他編)春秋社, 1996 , pp. 257ー263 参照)。
④若原雄昭「「入菩提行論」の大乗仏説論」「龍谷大学仏教研究室年報」4 , 1990 , pp. 45ー54参昭
⑤) /S Levi. ed p 4. buddhavacanasyedam laksanam yat sutre vatarati Vlnaye samdréyate dharmatäm ca na vilomayati.
(櫻井)
「大乗荘厳経論」を含む,大乗論書におけるく大乗非仏説論争〉の概要については,高崎直道「大乗仏教のく周辺〉補論大乗非仏説の諸資料」「講座・大乗仏教10」春秋社, 1985 , pp. 18ー34 ,また「大乗涅槃経』における定義の問題と仏説 論争の理論については,本庄良文「阿毘達磨仏説論と大乗仏説論」「印度学仏教学研究」38ー1 , 1989 , pp (59)ー( 64) ,同「「釈軌論」第四章一世親の大乗仏説論ー」
「神戸女子大学紀要」Vol. 23-1未:イ・ツ昭い、0
⑥この三偈の,プラジュニャーカラマティの指摘,ソナム・ツェモ,プトンの解釈については櫻井智浩「「入菩提行論」第九章50 ~ 52偈の解釈をめぐって」「印仏研』第五十号第一巻, 2001, pp. (162 )ー(164)で触れている。併せて,参照された
⑦月)4〃g cん訪立襯sゆ4 sか,0イ加g加ラ翔襯カ房d加'乞がゑァ雇Der. No. 3873 , Pek. No. 5274.
ぉ川ろんツが乙Der. No. 3876 , pek. No. 5278.後者は,前者の般若章部分と同等である。cf. SAITOは993].
その中で,注釈者はda ni mtshung pa nyid du bsgrub pa'i phyir khyed kyi "hung gis Zhes bya ba la sogs pa gsungs te . SAITO卩993] p. 74.「今や,〔,小乗と大乗との仏説性について〕平等性に基づいて論証するために, 君の経論については云々〔の召S.ス31偈cd句〕を〔アクシャヤマティは〕おっしやるのである。」と,この論争の匪格を述べている。
$) theg pa chen po la yang sangs rgyas kyi bka nyid du yid ches pa man ngag brgyud pa las grub pa nyid shes par gyis shig.「大乗においても,仏説であると尊敬が,教法の相承によって成立すると知れ」. SAITOは993] p. 74
⑨ (BCA41ab, BSA, missing) 〔主張者毘婆沙師〕 satyadarsanato muktih éünyatädarsanena klm / V. ed. p. 202. 120 bden pa mthong bas grol gyur gyi / / stong nyid mthong bas ci zhig bya / / Der. 32a7, Pek. 36b7-8
〔四聖〕諦を見ることから〔こそ〕解脱があるが,空性を見ることに何の必要があろうか。
(BCA41cd, cf. BSA31ab)
〔主張者シャーンテイデーヴァ〕 na vinänena märgena bodhir ity ägamo yatah / / 41 / / V. ed. p. 203. 13 gang PhY1r lung las lam 'di ni / / med par byang chub med par gsungs / / Der.
32a7 , Pek. 36b7-8
「この道以外に菩提はない」 と言う経言があるから。
(BCA42 BSA. missing)
〔主張者シャーンテイデーヴァ〕
) 35
nanv asiddham mahäyänam katham siddhas tvadägamah// yasmäd ubhayasiddho 'sau na Siddho 'sau taväd itah / / 42 / / V. ed. P. 204.
117ー123 gal te theg chen ma grub na / / khyod kyi lung ni ji Itar grub / / gang Phyir gnyis ka la di grub / / dang PO khyod la di ma grub / / Der. 32a7ー32b1 , Pek. 36b8 大乗は決して証明されていないではないか。〔と言うならば,それなら〕どうしてあなたの阿含が〔仏説であることが〕証明されるのか?〔あなたが〕なぜなら, 両者にこれ〔小乗〕は成立するからである〔と言うならば,〕最初から〔あなたの〕これ(経言)は成立していなかったではないか。
(BCA43. cf. BSA32)
〔主張者シャーンテイデーヴァ〕 (梵本,チベット訳は本文に掲載) ある条件をする,それ(小乗)に対して,尊敬がある〔ならば〕,その〔同じ尊敬〕を大乗にもなせ。
〔もしもあなたが,我々〕以外の両者によって認められることが真理であるならば,ヴェーダ等も真理となるだろう。
(BCA44,矼BSA33)
〔主張者シャーンテイデーヴァ〕 savivädam mahäyänam iti ced ägamam tyaja/ tirthikaih savivädatvät svaih parais cägamäntaram / / 44 / / V. ed. p. 206. 11. 4-5 theg Chen rtsod bcas* phyir Zhe na / / lung la mu stegs pa* rnams dang / / lung gzhan la yang rang gzhan dag / / rtsod bcas yin Phyir dor byar gyur / / Der. 32b2 , Pek. 37a1ー2
*Pek. bcad *Pek. mu stegs can 大乗は論争がある,と言うならば,〔あなたの〕経言を捨てよ。
外道達と,また自分達と他者達とも論争があるから,他の経言も捨てよ。
BCA41偈ab句は,現行本独自の要素として見なしうるが, cd句は,その内 容をめぐって以下の偈で大乗仏説論が論証されると見られる点からも, BSA32 偈前半との関連が窺われる。42偈も内容的には小乗側の阿含も大乗同様に仏説であると証明できないと指摘し,両者の承認が仏説・非仏説のメルクマルであるのを否定する点では, BSA31偈および「入菩薩行解説細疏」におけるその注釈, BSA32偈後半に相応し, 44偈はBSA33偈前半に,内容的には相応するものと言んる
⑩以下引用する43偈ab句の注釈部分はV. ed. p. 205 , 11. 1ー22. Der. 218b5一219b2 , pek. 245b7ー246b5に相当するが,煩瑣になるのを避けるため,各々の場所は注
(櫻井)
記しない。
⑩ SAITO [ 1993 ] pp. 73ー74.
⑩ SAITO [ 1993 ] p. 75.
⑩ SS, Vaidya. ed. p. 12 , Ⅱ . 19ー27.「集菩薩学論」では,菩薩の二種の罪
(äpatti)に関連して,上記の弁才を誹謗した場合に,悪趣に落ちる,と言う後半の内容に焦点が当てられている。
⑩火G塚Jhonston. ed. p. 117 , Ⅱ . 13ー16. Ruegg .ん凜Tのga g“わ
Goケ4. Publications du l'école Francaise d'Extrame-Orient LXX Paris.
1969. p. 35 ,高崎直道「宝性論」(「インド古典叢書」)講談社1989 , p. 210参照。
⑩この語義については,前掲若原論文p. 47 ,注( 16 )参昭
⑩さらに彼は,先述の総括の最後でtat katham süträdisamsyandanam buddhavacanatve hetur uktam ? tasmäd yat kimcid etat / (). ed. p. 206 Ⅱ 21ー22)「どうして,経等の同一(samsyandana, mthun (a)が仏説であることについて理由であると言えようか。それ故,これはつまらない議論である」と述べており,あまりこの議論を重視していない。
⑩他のインド撰述注釈書でも,プラジュニャーカラマティの43偈ab句の注釈内容に見られたように, 43偈ab句の「ある条件」について具体的に何を想定するかが,各注釈書の内容の相違,さらに第二の仏説論争の偽撰問題への関わりの違いにも関係してくることが想像される。今回は,参考までに,それぞれの注釈書で, yat-pratyayäのチベット訳,小乗側,大乗側の見る条件,第二の仏説論争への対応との関係を簡単に次頁表にまとめておく。
各注釈書の概要については江島恵教「「入菩提行論』の註釈文献について」「印度学仏教学研究」14ー2 , 1966 , pp. 190-194 , 50偈~ 52偈の内容については,若原前掲論文p. 50, p. 46注(26 )~ ( 28 )参照
⑩ cf. David P. Jackson "Madhyamaka Studies Among the Early Sa-skya-pas THE TIBET〇しⅣムvol. X, Ⅱ 0. 2 , 1985 , pp. 20ー34.
⑩櫻井前掲「印仏研」論文参照。
⑩ 52偈には別の科文がたてられ,「(小乗によって)理解されないことによって
(大乗経典が)否定されることは誤った証因である」(Toyo. ed. ca306bl. )と述 べられるのみである。
詳細は,斉藤明「プトウンと「入菩薩行論解説[細疏]」」『印度学仏教学研究」 48ー2, 2000, pp. ( 118 )ー( 123 )参照。
@ ' g司173bb4ー175b2.櫻井前掲「印仏研」論文:彡昭・第い、0
「付法蔵因縁伝」「阿育王伝」大正蔵50巻にあげられるものとは,一部配列等か 異なる。
また,「蔵漢大辞典』によるとマハースダルシャナは付法第七祖となる。 櫻井前掲「印仏研」論文参照。
) 37
①「入菩薩行善会」 ②「入菩薩行細疏」 ③「般若章細疏」 ④「入菩提行論意趣細疏・殊勝解明」
Der. No. 3874., 73b3ー4. Pek. No. 5275. , a86a4ー5 Der. No. 5b., 144b5ー145a1.
Pek. No. 5277. , 170a3ー8 Der. No. 3876. , 166a2ー3
Pek. No. 5278. , 195aト3 Der. No. 3 0. , 266a4ー5
Pek. No. 5282. , 318a4ー7
rgyu gang glS gang Zhig rkyen rnams 1・kyen gang gis rkyen gang gis
小乗一定義なし
シャーンティテ・一ヴァ-定義なし 小乗ー「師資相承」
【定義】
シャーンアイア・一ヴ「宝性論」v. 18 小乗ー「師資相承」
シャーンテイデーヴ
師資相承によって,
小乗の阿含に尊敬が成立するならば,その尊敬を大乗にもなせ。 小乗ー「師資相承」「経に入り,律に見られ,論の法性と矛盾しない」シャーンティテーヴァー-言及なし。
50ー52偈に注釈 50 , 51偈のみ注釈 50ー52偈に注釈 50ー52偈を削除
プラジュニャーカラマティの偽撰の指摘を紹介し,シャーンテイデーヴァの著作に関する伝承に言及したうえで,偽撰を否定 フラジュニャーカラマティの指摘を紹介
52偈については, 「を初めとする」の語によって,マハーカートャーヤナが省略されていると言い,師資相承については触れていない( '〇イg / 175a7ー175b2)。
①だG /立jugれgog可K. 127b2] gzhung rkang pa gnyis PO di nyan thos scle pa ga Zhig gi blo ngor theg Chen po bkar bsgrub bzhed nas sgrub byed di bkod pa yin no / /
⑦櫻井智浩「「入菩提行論』第9章第41偈の注釈における引用経典プラジュニャーカラマティ造Bodhicaryävatärapafijikäからタルマリンチェン造rGyal sras 'jug ngogsまでの展開」(「平成十二年度特別研修員研究発表要旨」)「大谷学報」第八十巻第四号, 2001, pp. 43ー45未こイ・ハ昭、、0
K. ed 130b3ー131a3。なお,ツオンカバ全集にも〔召C.幻般若章注釈「明慧」 s?イg訪おわラわんo gSという般若章のみに対する注釈書があるが,そこでもタルマリンチェンと同等の定義が言及され,それが小乗と大乗に共通であると解釈されている(Pek. No. 6133 , 12b3ー4 )。
(元本学特別研修員仏教学)