2022/07/28

井筒俊彦の イラン神秘主義哲学に対する関心

国際哲学別冊7.indd

井筒俊彦の イラン神秘主義哲学に対する関心
i ナスロッラー・プールジャヴァーディー
ii 翻訳:諫早 庸一
==


井筒俊彦の
イラン神秘主義哲学に対する関心i


ナスロッラー・プールジャヴァーディーii
翻訳:諫早 庸一

1984 年 3 月にロンドンで行った井筒俊彦教授(1914–1993 年)との対談のなかで私が彼に投げかけた質問のうちの 1 つが「何があなたをイスラム研究へ向かわせたのか」であった。
井筒のイスラム研究はアラビア語の学習に始まった。当時、アラビア語は日本の大学では教えられていなかったため、彼は自分自身でそれを始めた。その後、タタール人ムスリムのムーサー・ジャーロッラーiiiと出会った後、2 年間は彼とともに勉強を続けた。その数年後、1961 年にモントリオールにてイスラム思想を教えるに先立ち、彼はエジプトやレバノンといったアラブ諸国を歴訪する。
井筒が私に返した答えはいささか曖昧なものだった。彼が言うには、彼は以前より言語や言語学を勉強してきており、日本においてアラビア語学習が一般的ではなかったとしても、彼にとってアラビア語を学習することはむしろ自然のなりゆきであった。井筒は言語学者としてそのキャリアをスタートさせたものの、次第に哲学に関心を深めていく。アラビア語を学んだ後、彼はイスラム思想の研究を始めた。対話のなかで彼は、自らをイスラム学の教授へと導いたイスラム思想・哲学・神秘主義にはどこか深遠なところがあったと述べている。
私が初めて井筒の名に触れたのは、サブザワーリー(Sabzawārī: 1797–1871 年)によるイスラムの超越哲学についての書のなかであった。井筒はこの書をムハッゲグ博士とともに校訂し、その書の序として英語で文章を寄せていた。私は、サブザワーリーの書と、私にとって素晴らしい導入となった井筒の文章を読み始めるまで、イスラム哲学について何一つ知らなかったことを認めなければならない。井筒のイスラム哲学への関心は、ムッラー・サドラ
ー(Mullā Ṣadrā: 1572–1640 年)の超越哲学への研究へと彼を誘いはしなかったが、しかしこのテーマに関して、特にイブン・スィーナー(Ibn Sīnā: 980– 1037 年)の諸著作のような、より基礎となる諸文献へと彼を導くこととなった。事実、彼はマギル大学 ivにおいてイブン・スィーナーの『示唆と助言
(al-Ishārāt wa al-Tanbīhāt)』を教授した。彼は私に、その授業ではテヘランの石版本を用いたことを告げている。井筒は数年にわたりアラブ諸国を旅し、アラビア語でのムスリム哲学や神秘主義思想を学んではいたが、イスラムの知的営為、特にスーフィズムの歴史のなかでイランおよびペルシア語の果たした役割について知ったのは、マギル大学滞在中のことであった。実際のところ、スーフィズムこそが 1960 年代の後半に私が井筒とより個人的に交際することになった要因であった。
私が初めて井筒と出会ったのはテヘランにあるニーマトッラー教団の道場 vであった。彼はこの教団の導師viであったヌールバフシュ博士を訪ねてきており、ヘルマン・ランドルト教授とその妻を伴っていた。メフディー・モハッゲグ博士のマギル大学とテヘラン大学との学術提携に向けての絶え間ない尽力のおかげで、井筒とランドルトはより頻繁にイランを訪れる機会を得ることになり、それによって私のようなイラン人学生たちは、井筒の滞在の恩恵により定期的に浴することとなった。
1978 年のイスラム革命に至るまで 70 年代を通して、井筒は毎年定期的にイランを訪れ、数カ月滞在した。そこで彼は限られた数の親しい学生に『叡
智の台座(Fuṣūṣ al-Ḥikam)』を教えただけでなく、比較東洋哲学の講義も行った。私は彼の授業にすべて出席し、毎週 1 度か 2 度彼のアパートでも彼と会っていた。アパートで彼は、ゴラーム・レザー・アアヴァーニーと私に古典ギリシア語を教えていた。さらに私は個人的に彼と会い、井筒と私が双方ともに関心を深めていた書、すなわちアフマド・ガザーリー( Aḥmad
al-Ghazālī: 1126 年没年)の『直観(Sawāniḥ)』viiの訳注について議論していた。
井筒と私は双方ともに『直観』と、イスラム神秘主義とペルシア語神秘主義文学の分野におけるその作品の重要性を知っていた。思うに、井筒はランドルト教授からその書について聞いていたのだろう。私は偶然にもテヘラン大学図書館でその書にめぐり会っていた。覚えていることは、最初にこの書のいくつかの章を読んで、それに深く感銘を受けたことである。この書は私が生まれた年にイスタンブルでヘルムート・リッターによって校訂・刊行されており、その最初の頁にリッターが付した詩は、この書が私に与えることになる影響を非常にうまく表現しているように思われる。

その薔薇がこんなに美しく彩られていることを私は知らなかった。
私をおびき寄せようと意図していたことも。
そう、それは花であった。私が離れて見ていた限り。
しかし、ひとたび近付いて見れば、私には火しか見えなかった。

火はペルシア語・アラビア語文学において愛を表すのに使われるメタファーである。スーフィーであった殉教者フサイン・ブン・マンスール・ハッラ
ージュ(Ḥusayn b. Manṣūr al-Ḥallāj: 922 年没)が自らの詩のうちの 1 つでこのメタファーを最初に用いた。愛とは、ハッラージュにとっては神の属性であり、本質と同一である。それは現世に聖なる魂とともに現われ、自らを愛し愛されるものとして顕現させる時、自らの性質を火として示す。これが基本的にはアフマド・ガザーリーが取り入れ、自らの『直観』で議論しようとしたハッラージュの神秘主義哲学である。
井筒はこの神秘主義哲学に対し、漠然とした思想を抱いていた。ガザーリーが愛について語る時、彼が意味しているものが単に恋人への感情ではなかったことを井筒は知っていた。ガザーリーは神秘主義者であり、スーフィーであった。そして彼の心象表象への関心は、ペリパトス派の哲学者の心象表象以上に哲学的であった。かつて、井筒は私に、ガザーリーの神秘主義は「愛の形而上学」と表現するのがよいとそれとなく述べたことがあった。
私が『直観』の諸章の 1 つについて彼と議論していたある日のこと、彼は言った。「これを英語に訳してはどうか」と。これが『直観』の翻訳というアイディアが私の脳裏をよぎった最初の機会であり、それを驚きをもって受け止めたことを述べなければならない。私はすでにアメリカ人の友人であるピーター・ウィルソンとともにニーマトッラー教団の師たちによるスーフィズム詩をいくつか翻訳していた。ピーターもまた当初から井筒の授業に出ていた。しかしその時点では『直観』の翻訳は私にはあまりにも難しすぎる、むしろほとんど不可能であるように思えた。その難しさはペルシア語にあったわけではない。そうではなくて、むしろその神秘主義哲学、つまり井筒の言葉を借りれば、愛の形而上学にあったのだ。
私の井筒に対する最初の反応は「できません」であった。その後、私たちは翻訳について話を続けることはなかった。しかし、それからしばらくして、
私が『直観』の別の観念について述べ、それをイブン・アラビー(Ibn al-‘Arabī: 1165–1240 年)の類似の観念と比較していると、彼は再び同じ質問を繰り返した。「それを翻訳してみてはどうか」と。それに対して私は再び「できません」と答えた。「いや、できる」彼は言った。「何をもってできないと思っているのだ」。「この書の逐語訳は何の役にも立ちません。これはペルシア語神秘主義詩に通底する基礎観念についての書であり、サナーイー(Sanā’ī: 1074–
1134 年)やアッタール(Aṭṭār: 1221 年没)、サアディー(Sa‘dī: 1292 年頃没)やハーフィズ(Ḥāfiẓ: 1390 年頃没)といった偉大なペルシア詩人によって用いられたメタファーのほとんどがこの書に含まれています。翻訳に併せて注釈が必要です。注釈がなければ、この作品は英語読者にとってほぼ理解不可能なものとなることでしょう。それはハーフィズの英訳を注釈なしで読むようなものです」。
「いいでしょう」。彼は言った。「注釈も付けなさい」。思い返すに、確かこの会話は少なくとももう 1 回は繰り返されたように思う。最終的に私は彼に言った。「私を手助けし、私が進むたびに翻訳を見ていただいてもよろしいですか。もしあなたが翻訳と注釈を見てくださるのでしたら、私は翻訳を行い、注釈を記しましょう」。彼はこれに同意し、こうして 2・3 週間の後、ガザーリーの序文の翻訳を第 1 章とともに彼のところに持っていった。我々の仕事が始まったのである。
『直観』はそれぞれに長さの異なる 77 章からなる小篇である。いくつかの章はわずかに 3・4 行のもので、またいくつかは 1 頁以上ある。それは基本的には 1 つの文学作品であった。著者は修辞表現やメタファー、逸話、詩、高名なスーフィーたちからの引用を用いて自らの思想を表現していた。著者は
「示唆/イシャーラ(ishārah)」として自らのメタファーや象徴性に言及する。この単語は古典期のスーフィーの師たちによって用いられ、彼らが自らに特有の話し方・書き方に言及したい時に使われた。示唆として、イシャーラは内側に隠れた思想を内包する表現である。話者なり著者なりは、形而上学的あるいは神秘主義的概念を表現している『クルアーン』の章句や詩あるいは物語から取られた 1 語をおそらくは使うことになる。例えば、著者が始原の愛と、創造主の愛の被造物のそれに対する先行性の概念について話したいとき、彼は以下のように書くことになる。

愛の根は無限の先在から生じる。「yuḥibbuhum(彼が彼らを愛する)」のバー(b)の文字に付される点はviii、「yuḥibbūnahu(彼らが彼を愛する)」の土壌に投じられた種子であったか。否、その点は「yuḥibbūnahu(彼らが彼を愛する)」を生み出すべく「hum(彼ら)」に投げかけられたものなのだ。

この文章は謎めいたものとして響くことは明白であるし、なにか訳の分からないものである。しかし、もし我々がそうしたアラビア語の語句が指していることを知るならば、そしてスーフィーたちが永遠かつ始原の愛について述べていることを思い出すならば、その意味を掴むことが難しくないことが分かるだろう。ガザーリーはここで、神と人間との間に存在する相互的な愛について述べる有名な『クルアーン』の章に言及している。そこでは 2 つの
語「yuḥibbuhum(彼が彼らを愛する)」と「yuḥibbūnahu(彼らが彼を愛する)」が用いられる(『クルアーン』第 5 章 54 節)。神は言う。神は「神が彼らを愛し、また彼らも神を愛すところの人々」をもたらすであろう。これは、スーフィーたちによれば、神の人間に対する愛が人間の神に対する愛に先行していることを意味する。なぜなら「yuḥibbuhum(彼が彼らを愛する)」の語は「yuḥibbūnahu(彼らが彼を愛する)」の前に述べられているのだから。木と果実のメタファーを用いて、ガザーリーは神の人間に対する愛が木であり、人間の神に対する愛が果実だと語る。当然ながら木が先に生じる。しかし、いかにして木は生まれ出で、いかにして果実は生じるのか。その答えは実に単純である。つまり、木を生み出すためには種をまかねばならない。種とは明白に愛であり、それは「yuḥibbūnahu(彼らが彼を愛する)」ところの愛ではなく、「yuḥibbuhum(彼が彼らを愛する)」ところの愛なのである。従って、ガザーリーは「愛(ḥubb)」の語にある[b を示す]点を、神のなかに存在する愛の本質の象徴と捉えているのであるix。
ここで『クルアーン』の語句を用いてガザーリーが示唆した意味は簡単に捉えうるものであるが、しかし時にガザーリーは全く簡単には捉えられない語句を用いることがある。例えば、彼は私が『クルアーン』のものだと考えていたあるアラビア語の語句を第 4 章で用いる。しかし、数年の研究の後、私はそれが『クルアーン』からではなく、ハッラージュの文から取られたものであったことを知るに至った。
井筒がまだイランにいる間に、『直観』の 3 分の 1 以上を翻訳し、それらの諸章に注釈を付すことができるとはとても思えなかった。当然ながら、その最初の諸章に対する私の注釈はより長いものとなり、それらについては、井筒と議論した後でいくつかを書き改めなければならなかった。革命がはじまると私はその仕事を一時的に中断した。井筒がテヘランに留められ、日本へのフライトを待っていた最後の 2 カ月、私は毎日彼に会いに行ったものだった。その当時テヘランは火のなかにあり、我々は辻々で起こっていることを無視することはできなかった。井筒は外に出ることを恐れ、私が訪ねてくるのを毎晩待つようになった。ペルシア神秘主義について語る代わりに、我々は街頭で起こっていた革命について語ったものだった「。全てが変わりつつある」。彼はよくそう言っていた。ある日、彼は日本における彼の戦争の記憶について話し、いかにしてすべてが変わったのかを語った。彼は、日本で道々に爆弾が投下された時のことを 2 度と忘れることができないと言った。私が今思い返していることを知って欲しい。彼は我々がイラクと戦った 8 年にわたる戦争をいくらか予見していたのだ。私は彼がある日言ったことを覚えている。彼らは君たちに爆弾を投下することになるだろう、と。彼の予見がそれから 2 年も経たずして現実となろうとは、その時知る由もなかった。サダム・フセインが最初の爆弾をテヘランに落とした時、私は井筒が言ったことを思い出していた。
その戦争が 1980 年に始まった時、私は翻訳の初稿をほぼ書き上げていた。私は井筒との議論の恩恵に与ることなく、残りの訳注を続けていた。私がその仕事を終えて 2 年したのち、当時日本にいた井筒に手紙を書き、序文を書いてもらえないかと頼んだ。彼は謝罪し、他の仕事にかかりきりになっていると言った。彼は当時日本語で本を書いていたのだ。
井筒のテヘラン滞在中に私が取り組んだ最も重要な仕事は、アフマド・ガザーリーが構想した形而上学的体系の再構築であった。ガザーリーは、自らの書を著すなかで、新たな挑戦に乗り出していることを自覚していた。彼は愛の思想に基づいた神秘主義についてある程度体系的に書こうとしていた。他の神秘主義者もそれ以前に愛について語っていたが、しかしそれを中心概念として、それに関連する一連の概念を発展させていくことは、誰も体系的には為し得ていなかった。この中心概念は、我々が通常そのように考えるようなものではない。共通認識として、我々は愛を最愛と考える他者に対する強烈な感情のように捉えている。この通念を否定することなしに、ガザーリーは、彼が愛という言葉で意味するものが、読者が愛の語(‘ishq もしくは ḥubb)によって理解するであろうところのものとは異なることを明らかにしている。したがって、『直観』の序文のなかでガザーリーは、愛を単に愛する人としてのある人が、愛される人としての他の人に向ける強い感情のようにのみ捉えるべきではないと警告している。読者はこの概念を無条件に、つまりある絶対的な方法で捉えるべきなのである。
ある絶対的な方法によって愛を理解するとはいかなることなのであろうか。
ガザーリーはこの質問に対して、簡潔に答える。曰く、それはただ創造主にのみ委ねられるものでもなければ、被造物のみに委ねられるものでもない( به
شرط آن که در او ھيچ حواله نبود نه به خالق و نه به مخلوق )。したがって、ガザーリーが愛するものと愛されるものについて語る時、彼は単に人間について語っているわけではない。ガザーリーにとって、神は彼の被造物たちに愛を注ぐこともできる。言いかえれば、神が愛するものとなり、人間が愛されるものとなることもできる。一方で、人間が神を愛する、つまり神を彼または彼女に愛されるものとすることもできるのだ。しかし、神が彼の被造物とこのような関係を結ぶ前に、神は神自身を愛する。これが意味するのは、神は本質的に神自身を愛するということである。あらゆる被造物が生まれ出る前に、神はその本質のなかで彼自身を愛している。
無限の過去より神が自らを愛しているとする思想は通常「本質的愛(‘ishq-i dhātī)」と呼ばれ、それはアフマド・ガザーリー以前の、ファーラービー(Fārābī: 950 年頃没)やイブン・スィーナーのような新プラトン主義哲学者たちによって表現されるものであった。事実、アフマド・ガザーリーはおそらくこれらの哲学者の著作、なかんずくイブン・スィーナーの愛についての論稿を読んでいた可能性が高い。しかしガザーリーにとっての原典はハッラージュの著作、特に彼の詩であったに違いない。いずれにせよ、ガザーリーは「本質的愛」の思想を哲学者たちのやり方のなかでではなく、詩人、ハッラージュのようなスーフィー詩人のやり方において表現するのである。『直観』は散文で書かれているが、しかしガザーリーの散文は極めて韻文に近い。このことは、彼が「本質的愛」の思想について説明しようとする諸章の 1 つにおいて特に強く見られる。

それは自らの鳥であり、自らの巣である。自らの本質であり、自らの属性である。自らの羽であり、自らの翼である。自らの空気であり、自らの飛行である。自らの狩人であり、自らの狩りである。自らの向かうところであり、自らの迎えるところである。自らの求めるものであり、自らの求められるものである。自らの始まりであり、自らの終わりである。自らの王であり、自らの臣民である。自らの剣であり、自らの鞘である。それは庭でも、木でもある。枝でも、果実でもある。そして巣でも、鳥でもあるのだ。
او مرغ خود است و آشيان خود است. ذات خود است و صفات خود است. پر خود است و بال خود
است، ھوای خود است و پرواز خود است، صيّاد خود است و شکار خود است، قبلۀ خود استمستقبل خود است، طالب خود است و مطلوب خود است. اول خود است و آخر خود است .سلطان
خود است و رعيت خود است، صمصام خود است و نيام خود است .او ھم باغ است و ھم درخت، ھم
شاخ است وھم ثمره ، ھم آشيان است و ھم مرغ.

この章は『直観』において最も深遠であると同時に、もっとも美しいものの 1 つでもある。それはまさに作曲のような芸術的創造である。それは愛を自らの巣にある鳥と呼ぶことに始まり、同じ語句を用いた同じメタファーに終わる。それらのメタファーの全てがあるものとそれと同じ概念「、本質的愛」の概念に言及している。哲学者たちが一者つまり神が、その本質において神自身を愛することを述べるのに対し、ガザーリーにとってそれは自らの鳥でありながら、自らの巣でもある。つまり神的な存在のなかでは、愛するものと愛されるものは同一なのである。
「本質的愛」の思想はあらゆるペルシア語スーフィー詩、なかでもアッタールやハーフィズといった新ハッラージュ主義詩人たちを貫いている。アフマド・ガザーリーが井筒の関心を捉えたものの 1 つは、彼の愛の神秘主義が後代のペルシア語スーフィー作家・詩人に対して与えたインパクトであった。
日本に来る前、私はたまたま始原の契約、神と人間との契約の思想について私がペルシア語で書いた刊行物に目を通した。それは『クルアーン』の章句の 1 つに主題として現れるものであった。その本は『始原の契約(‘Ahd-i Alast)』という表題を持ち、私が序文で述べたように、始原契約の思想は、私が井筒と議論したトピックの 1 つである。私は井筒に、この契約がハーフィズを含むペルシア神秘主義詩人たちの詩のなかで重要な役割を担っていることを述べた。井筒はもちろん以下の『クルアーン』の章句を知っていた。そこでは、神がアダムの子孫たちと契約し、彼らに尋ねる。「私は汝らの主ではないのか」。それに対し彼らはみな「そうです」と答えたx。彼はもちろんスーフィーたちによって為されたこの章句の神秘主義的解釈にも精通していた。しかし、彼はこの思想がペルシア語のスーフィー詩に与えた影響に気付いていなかった。私は彼にこの種の思想を他の東洋宗教あるいは哲学のなかに見ることができるか否かを尋ねた。彼の答えは「否」であった。
神と人間とのあいだの始原契約の思想は、イスラムの神話に基づいたものであり、私が井筒との会話の後、長い年月を経て発見したところによれば、この思想は古典期のスーフィーたち、特にバグダードの初期のスーフィーたちの議論の的となり、その後にペルシアのスーフィー詩人の目を引いた。ペルシアのスーフィーたちが自らの詩のなかでこの契約について語るはるか以前、彼らの幾人かが彼らの詩のなかで「始原」の神話を蘇らせようとする以前に、ガザーリーこそがそれを彼の書の章の 1 つで議論していた。この講演を締めくくるにあたり、ペルシアのスーフィーたち、特にアフマド・ガザーリーによるこの神話の神秘主義的解釈について少々述べ、その後に幾人かの詩人たち――特にハーフィズ――が彼らのガザル(抒情詩)のなかでこの神話をいかに蘇らせようとしたのかについて述べることになる。
ヴァージョンごとに細かな相違点はあるが、基本的な物語はむしろ単純である。より知られたヴァージョンでは、アダムとイヴの降下の後、ある日、神はアダムを立ち止まらせ、実際に自らの手を彼の背中へと押し込み、彼の腰部から未来に生まれる子供たちの種すべてを取り出す。これらの種はその後に神の御前に立たされ、神は以下のように彼らに尋ねることで、彼らのすべてと契約を交わす。「私は汝らの主ではないのか」。それに対し彼らはみな「そうです」と答える。後にスーフィーたちは、この始原的で神話的な出来事を、愛する者としての人間と<愛される者>としての神の間の契約として解釈した。正統派ムスリムxiたちの解釈では、人間は主の奴隷であると誓約を交わしたとされる。しかし、人間と神との関係を愛の名のもとに定義する神秘主義者たちは、人間を神を愛する者と見なす。
人間は本来神聖なる<愛される者>を愛するように向けられているにもかかわらず、実際にはこの<愛される者>に愛を向けない。誓約が交わされた精神的な領域をひとたび離れれば、そして子供たちがひとたびこの世界に出れば、彼らは自身の誓約を忘れ、幻想の罠に落ちる。愛を聖なる<愛される者>に向ける代わりに、人間たちは関係あるものたちと恋に落ちる。一握りの人々だけが、実際にこの罠から抜け出し、誓約を全うすることができる。これらの人たちが、神の友と呼ばれるスーフィー聖者である。換言すれば、すべての人は本来神聖なる<愛される者>を愛するように向けられているが、しかし彼らすべてがそれを実践するわけではなく、従って彼らすべてが<愛される者>との合一に達するわけではない。神秘主義者たち、すなわちスーフィーたちだけが、実際に<愛される者>のための愛を実践し、合一を得ることができる。ペルシア語神秘詩は実のところ、これらの友あるいは愛する者が彼ら自身の愛をいかにして実践し、<愛される者>の顕現と、最終的には<愛される者>との一体化――愛される存在に自らの身を委ねるなかで起こる一体化――をいかにして経験するかという物語である。これが、スーフィーがイスラムの名を解釈するやり方である。ムスリムであるためには、自らの持てるものだけではなく、まさにあなたの魂そのものを、あなたの存在を神に投げ出さなくてはならない。これが、井筒をイスラムに惹きつけた考えではなかっただろうか。

訳者註
i 翻訳文のカタカナ表記に関しては、近代以降の人物に関しては現代ペルシア語表記(短母音: a, e, o)を用いる。一方で、前近代の人物に関しては、古典ペルシア語表記(短母音: a, i, u)を用い、生没年も付す――場合によっては没年のみ。著作と術語一般に関しても、古典ペルシア語表記を用いている。なお、本報告で語られるエピソードのなかには、プールジャヴァーディーのエッセイ「井筒先生との最後の会見」で語られているものも多い(ナスロッラー・プールジャヴァーディー, 岩見隆・松本耿郎(共訳)「井筒先生との最後の会見」『井筒俊彦著作集』第 11 巻(付録 ), 中央公論
社, 1993 年, 2–8 頁)。
ii Nasrollah Pourjavady: 元テヘラン大学教授。
iii Mūsā Jār-Allāh (1867–1949 年)。
iv McGill University。カナダ、ケベック州はモントリオールにある総合大学。
v Khānaqāh。スーフィー教団の修行のための施設・建築物の名称。「僧院」あるいは「道場」のような機能をもつ施設・建築物として現在でも各地にみることができる(川本正知「ハーンカー」大塚和夫ら(編)『岩波イスラーム辞典』岩波書店, 2002 年, 797 頁)。
vi Shaykh。長老・年輩者の意。宗教的な文脈では、徳の高いウラマーやスーフィー・聖者への敬慕の表現として使われる。ペルシア語・トルコ語の影響の強い地域では、役職名のように使われることもあり、スーフィーの師、スーフィー教団全体の長、個々の修行場の長などがこの名で呼ばれる(赤堀雅幸「シャイフ」大塚和夫ら(編)『岩
波イスラーム辞典』岩波書店, 2002 年, 446 頁)。
vii プールジャヴァーディーの述べるところによれば、この書の表題である「サワーニフ」とは、神秘主義者が純粋精神の世界から受け取る直観や思想を意味する(ナスロッラー・プールジャワディ, 三浦伸夫(訳)「愛の形而上学――アフマド・ガッザーリーのスーフィズム」『イスラーム思想 2』(岩波講座東洋思想, 第 4 巻), 岩波書店, 1988
年, 130 頁)。
viii アラビア文字のバー(b)は横に線を引いた後、その下に点を付す。ここでは、その点について述べている。
ix 加えて同形の単語「種(ḥabb)」にもかかっている表現である。
x 『クルアーン』第 7 章 172 節。
xi イスラムを語るうえで「正統派(orthodox)」というタームは馴染まない、というのが一般的な認識であるが、ここではスーフィーとの対比で――つまり神秘主義に対置
される法学者やその解釈に基づく人々という意味において――この語が用いられている。