Deep River (novel)
This article needs additional citations for verification. (December 2009) |
Author | Shusaku Endo |
---|---|
Original title | 深い河 |
Set in | India |
Published | 1993 |
Deep River (深い河, Fukai kawa) is a novel by Shusaku Endo published in 1993. When he died in 1996, only two novels were chosen to be placed inside his coffin. Deep River was one of them.[citation needed]
Plot summary[edit]
The story traces the journey of four Japanese tourists on a tour to India in 1984.[1] Each has different purposes and expectations. Even though the tour is interrupted when Prime Minister Indira Gandhi is assassinated by militant Sikhs, the tourists find their own spiritual discoveries on the banks of the Ganges River.
One of the tourists is Osamu Isobe. He is a middle-class manager whose wife has died of cancer. On her deathbed she asked him to look for her in a future reincarnation. His search takes him to India, even though he has doubts about reincarnation.
Kiguchi is haunted by war-time horrors in Burma and seeks to have Buddhist rituals performed in India for the souls of his friends in the Japanese army as well as his enemies. He is impressed by a foreign Christian volunteer who helped his sick friend deal with tragic experiences during the war.
Numada has a deep love for animals ever since he was a child in Manchuria. He believes that a pet bird he owns has died in his place. He goes to India to visit a bird sanctuary.
Mitsuko Naruse, after a failed marriage, realizes that she is a person incapable of love. She goes to India hoping to find the meaning of life. Her values are challenged by the awaiting Otsu, a former schoolmate she once cruelly seduced and then left. Although he had a promising career as a Catholic priest, Otsu’s heretical ideas of a pantheistic God have led to his expulsion. He helps carry dead Indians to the local crematoria so that their ashes can be spread over the Ganges. His efforts ultimately lead to his peril as he is caught in the anti-Sikh uprisings in the country. Meanwhile, Mitsuko meets two nuns from the Missionaries of Charity and begins to understand Otsu's idea of God.
Characters[edit]
- Osamu Isobe, a middle manager who looks for a girl named Rajini Puniral, the potential reincarnation of his dead wife.
- Mitsuko Naruse, a former housewife who takes a trip both as a pilgrimage and to see her ex-boyfriend Otsu as atonement for mistreating him
- Numada, a bird watcher who wants to set a bird in his possession free.
- Kiguchi, a former WWII Imperial Japanese Army soldier.
- Enami, the tour guide.
- Mr. Sanjo, a photojournalist on honeymoon with his wife.
- Mrs. Sanjo, his vapid new wife.
- Augustine Otsu, Mitsuko's former boyfriend, now a Catholic priest in Varanasi.
Film adaption[edit]
A film based on the novel (also named Fukai kawa) was made in 1995. It was directed by Kei Kumai. The film stars Kumiko Akiyoshi as Mitsuko, Eiji Okuda as Otsu, Hisashi Igawa as Isobe, Yoichi Numata as Kiguchi, and Tetta Sugimoto as Enami. Kyoko Kagawa plays Mrs. Isobe in flashbacks, while Numada becomes Tsukada, played by Toshiro Mifune, and Kin Sugai plays his wife.
References[edit]
- ^ Pace, Eric (30 September 1996). "Shusaku Endo Is Dead at 73; Japanese Catholic Novelist". The New York Times. Retrieved 25 November 2011.
深い河
『深い河』(ディープリバー)は、1993年に発表された遠藤周作の小説。また、これを原作とした1995年の日本映画。タイトルの『深い河』または“Deep River”とは、一般には黒人霊歌の「深き河」に歌われるヨルダン川のことである。
概要[編集]
遠藤が70歳の時に発表された。遠藤の生涯のテーマ「キリスト教と日本人」の最終章となった作品である。1994年に毎日芸術賞を受賞した。
戦後40年ほど経過した日本から物語は始まる。それぞれの業を背負う現代の日本人5人が、それぞれの理由でインドへの旅行を決意し、ツアーに参加する。聖なる河ガンジスは、すべての人間の業を包み込む。5人はそれぞれに、人には容易に理解できない深い業を持っていたが、偉大なガンジスにより人生の何かを感じることが出来た。
複数の人間を主人公にして、遠藤の生涯のテーマであった「キリスト教的唯一神論と日本的汎神論の矛盾」の融和点、和解点を探り出させる。それまでの遠藤の小説では主に両者の矛盾の描写が主体であったが、この作品ではさらに進んで「日本人のキリスト教」「世界に普遍的なキリスト教」を作り上げている。この作品の誕生には、イギリスの宗教哲学者ジョン・ヒックの宗教多元主義が影響を及ぼしており、遠藤自身も「深い河創作日記」の中でヒックの思想に影響を受けたことを認めている。「シンクロニシティ」など分析心理学のユングの神秘思想にも影響を受けていると考えられる。
全13章から構成され、執筆前にインドに何度か取材に訪れるなど、遠藤の作品のうちでも事前に綿密に構成されており、『沈黙』『白い人・黄色い人』とならぶ遠藤の代表作と言われる。
背景[編集]
インド人のすべてを飲み込み流してくれる偉大な河、ガンジス。日本人にとっては日常生活から遠のいてしまった「死」が、ガンジスのほとりでは現在でも生々しくうつし出される。ガンジスは実は土着的なヒンドゥー教徒のみに重要なのではなく、どんな宗教に属しようが、あるいはどの宗教にも属しまいが、あらゆる人間のもつ複雑な人生のすべてを包み流してくれる存在である。
登場人物[編集]
5人の主人公[編集]
- 磯辺
- 老年期に差し掛かった男。妻を癌で亡くしてしまう。それまで磯辺は、彼の世代のごく普通の父権的な家庭人であった。妻よりも仕事を優先し、妻には仕事を円滑に行えるよう、家を守らせてきた。愛情を表現することも苦手で少なく、家庭での会話もいつも短節であった。妻もまた、当時のごく普通の女性として夫に良く尽し不平も無く過ごしていた。しかし妻は臨終の間際にうわ言で自分は必ず輪廻転生し、この世界のどこかに生まれ変わる、必ず自分を見つけてほしいと言い死んでしまう。人生に家庭の愛など大した重みは無いと思っていたのだが、妻の自分に対する静かだったのだが実は情熱的であった愛情を初めて知る。磯辺は特に意識もして来なかった死後の転生に捉われ、知り合いの伝でとあるアメリカの研究者に相談する。研究者は日本人の生まれ変わりと言う少女が印度にいることを丁寧に教えてくれ、磯辺は理性では信じていなかったのだが、妻の死後の空虚感の中、彼女の臨終のうわ言に捉われ、とある印度ツアーに参加する。
- 美津子
- (おそらく)30代の女性。磯辺の妻の死ぬ間際をボランティアで介護する女性。離婚歴がある。元々は地方出身で、かつて東京のキリスト教系の大学を卒業している。女性の魅力に富んでいるが他人を本当に愛した経験がなく、学生時代には自分の女性を使って複数の男性の心を弄んだ。その中に神父を志す冴えない男子学生の大津がいた。悪友からけし掛けられ面白半分で彼を誘惑し性の虜にする。大津を一旦棄教させる事ができたかと思ったのだが、結婚後フランスにキリスト教の留学した大津の噂を聞き、新婚旅行の途中で夫に巧く言って現地で出会う。彼が結局キリスト教の愛の教えを再確認し、彼の中に自分の感覚に無いものを感じる。その後離婚し、本当の愛を知らない彼女は自分に偽りでも良いから愛情の擬態をするために、末期癌患者の世話をするボランティアを始める。ある日、旧友との同窓会で大津が印度の修道院に居ると言う噂を聞き、大津の持つ自分にない何かを知りに印度ツアーに参加する。
- 沼田
- 中年の男性で童話作家。少年期は中国大連に住んでいた。当時沼田の家では、どこの在留日本人家庭にも居た中国人のボーイと言う手伝いを雇っていた。少年の沼田にとって信頼できる友人はただひとりそのボーイであった。沼田が子犬を拾った時にも親に反対されたにもかかわらず、ボーイは別の場所に隠し、母の許してくれる時期を見つけて飼う事が出来た。しかしある日、沼田の家の盗難事件の嫌疑を掛けられ解雇される。ボーイと沼田は心通う友人だったが別離を余儀なくされる。その後の沼田にはその飼い犬が最大の友達となる。しかし両親の離婚を期に本土に帰国し、その大好きな犬とも別離することになる。この体験を元に、日本では動物と話をする童話を描いていた沼田だったが、若いころにした結核を再燃する。その時に飼っていた、唯一本当に心を開ける友人の九官鳥を病院に内緒で連れてきてもらい、屋上に置いて貰う。しかしその九官鳥は、沼田が手術を受けているごたごたの中、餌をやり忘れたために死んでしまう。最初は仕方がないと思った沼田だったが、自分が手術中に心停止を起こしていたことを知り、自分の生存できたのは九官鳥が身代りになったおかげだと思うようになる。あるとき印度ツアーを知り、印度には多くの野生保護区が存在することを知る。せめてもの九官鳥へのお礼に、印度で一羽の九官鳥を求め保護区に放してやる事を思い立ち、ツアーに参加を申し出る。
- 木口
- 男性の老人。戦時中にビルマの作戦(インパール作戦)に参加したことがある。全くの負け戦で、このとき味方の兵士が退却の時に携行していたのは自決用の手榴弾と僅かな食糧だけという絶望的な長く苦しい退却戦を経験する。途中木口も瀕死の状況に陥るが、部隊に居た戦友の塚田に救われる。塚田は木口に食料を与えようと、他の味方が売ってくれた肉を手に入れる。結局木口が食べることができず代わりに食べるのだが、それは実は二人の知る他の戦友の死肉であった。木口はそれを知ることなく、二人は帰国し別々に戦後を生きることが出来た。老人になり、東京にいる木口のもとに職を失った塚田が訪れて再会を果たす。しかしその頃の塚田は人間を食べた事を気に病みアル中となっていた。しばらくのち塚田は肝硬変による食道静脈瘤を患い入院する。塚田は心を開きにくい晦渋な人間となっていたが、介護してくれたボランティアでクリスチャンの白人、ガストンにだけは心を開いていた。死期が近づき、塚田は初めて人間を食べた事、その辛さ、それに捉われて生きた戦後を木口や妻、ガストンらに告白する。ガストンはそれは許される事だと別の逸話を持って話し、その為だったかは分からないが塚田は穏やかな死を迎えた。木口は塚田や他の戦友、敵兵達を弔うため、仏教の発祥地である印度へのツアーに参加する。
- 大津
- 美津子と同世代の男。貧弱で魅力に痩せていて、人づきあいも苦手。自分を徹底的に愛してくれた母の影響でクリスチャンとなり、キリスト教系の大学に入り神父を志す。在学中に美津子に誘惑されキリストを裏切ろうとしてしまうが、ぼろ屑のように美津子に捨てられた後に、還って醜い惨めな自分をキリストが救ってくれることを知る。その後フランスにキリスト教の修行で留学したが、ヨーロッパ人の「正義」と「悪」の二元論、合理主義、多宗教への排他性に徹底するキリスト教に疑問を感じ続け、それを知られ異端者扱いを受けてしまう。しかし大津はキリスト教の持つ愛の力はそんな狭いものではなく、他の世界に置いても救済の力を持つはずであることを確信し、汎神論的、日本人的なキリスト教を模索する事を決意する。その後フランスでやってゆくことが出来なくなった彼は、印度のガンジス河の付近の修道院に入る。しかしそこでも追い出されてしまった大津は、ヒンズー教徒たちの集団にキリスト教徒ながら受け入れて貰うことができる。そこではガンジス河に自己の最終地を求め印度中から集まり、息絶えてしまうも貧しいために葬ってもらえなかった人たちの死体を運び、火葬してガンジスに流す仕事をしていた。やがてある日、懐かしい女性美津子と出会う。
その他[編集]
- 江波
- ツアーのガイド。上記のうち大津以外の4人とそれ以外のツアー客を連れる。印度哲学を専攻して4年間印度へ留学した経験があり、印度へ深い理解と愛着を持つ。彼は単に観光ツアーとして一行を連れるだけではなく印度の深さをツアー客に教えたかった。旅行中に江波は彼の知る汚いヒンズー教の寺院を見せる。寺院にはキリスト教のマリアとは異なる醜い女神チャームンダー(Chamunda)が居る。しかし醜い女神は病魔やサソリ、毒蛇などの苦しみにおそわれつつも、貧困に喘ぐ印度の民衆をしぼんだ乳で授乳する存在であった。その女神が、実は印度に遙か昔から変わらず続く苦しみと、それでも人々に与えてくれる救済を象徴しているのであった。一行の一部は印度のもつ奥深さを、ガンジスに行く前に初めて感じる。
- 三條夫婦
- ツアーに参加した若い夫婦。夫はプロカメラマンを目指している。戦後の平和を象徴したような二人であり、他の登場人物のような奥行きがなく、まだ生きることによって生じる「業」のない幸せな若者、浅はかな人間として登場する。最後に大津が暴行を受けるきっかけを作ってしまう。
解説[編集]
登場人物それぞれのもつ意義[編集]
登場するメインの5人の人間のうち、大津と沼田は、遠藤の人生の一部をそれぞれ切り取って作られた存在である。遠藤自身がカトリックの家に生まれ(大津)、満州で少年期を過ごし(沼田)、両親が離婚し(沼田)、青年期にフランスに留学し(大津)、結核を患う(沼田)などした経験を持つ。また、妻への「愛」に妻を失うまで鈍感だった磯辺は「愛」を意識するのが苦手な一般的な日本人としての性格も持ち合わせる。大津、沼田、磯辺の3人は「母」と「恋愛」(大津)、「妻」(磯辺)、「友」(沼田)を喪失する。
また一方、美津子はやはり「愛」を知らない人間として登場する。若い頃の美津子は思慮も浅くそれが平気だったが、離婚を経て自分に愛が欠けていることを意識し、それを偽りに求めることもある。大津は美津子が本当は何が欠けているのか映し出す鏡として登場する。
そして木口は遠藤の世代のたくさんの人間が実際に体験した、人間の起きうる中でも究極と思われる死と絶望の世界を経験した人間である。ひとりの友人、塚田がその中でやむを得ないとはいえ人間の肉を食い、後の人生をその業苦に苛まれ潰してしまったことに深い衝撃を受ける。木口と塚田はゴルゴダの丘を登るキリスト(ナザレのイエス)にも匹敵するほどの苦しみを受けた人間として描かれている。木口と塚田は遠藤の同世代にいた多くのゴルゴダを知った日本人の代表として登場する。
このメインの人間たちは全て、ほとんどの日本人同様、「ヨーロッパ人の持つキリスト教を理解できない日本人」だが「キリスト教にでてくるテーマを人生に抱える日本人」として登場している。
ガンジスとは何か[編集]
インドの民衆は古代から飢饉や病気に延々と苦しめられていたが、インドの人々は最後にガンジスに戻りガンジスに流されることを望んできた。ガンジスはあらゆる宗教、人種に関係なく、その人間の行ったあらゆる罪にも関係なく、すべてを許し飲み込んでくれる。そしてインドの人々は現代においても生々しい死をガンジスのほとりで見せつける。死が身近な物に起こった時にだけしか感じる事の出来ない現代の日本人に、目の前で繰り返される彼らの死を通して自分たちの人生の意義へと連想させる。
日本人とキリスト教=汎神と唯一神[編集]
日本人は仏教も神道も含めた広い意味での汎神論の国であり、特定の宗教に深くは帰依しない。そして「愛」や「神」など深くは考えずに一生を送る。一方、キリスト教は唯一神であり、教義に置いて絶対に他の宗教と友好を持っても融和はしない。しかし作者は、主人公の日本人達を通して、日本人にも理解しうる「愛」や「神」を、ガンジスの持つすべてを包み込む母のような偉大さに見出している。
遠藤の至ったキリスト教のもつ本当の救済[編集]
遠藤にとって、キリストの行った人類の救いとは、クリスチャンに限定するヨーロッパ的な厳格な論理で規定された狭いものではなく、ガンジスのような宗教宗派に関係ない広い救済であったはずであるとしている。それは作品中では汎神論的感覚を最後まで捨てることのできなかった大津を通し訴える。そして作品の最後では、争いの絶えない人類が持つべき真の愛をそこに見出している。「日本人のクリスチャン」遠藤が最後に至った世界が描かれている。
書誌情報[編集]
- 深い河(講談社、1993年) ISBN 978-4-06-206342-5
- 深い河(講談社文庫、1996年) ISBN 978-4-06-263257-7
- 遠藤周作文学全集4 長篇小説IV スキャンダル/深い河(新潮社、1999年) ISBN 978-4-10-640724-6
関連書籍[編集]
- 「深い河」をさぐる(対談集、文春文庫、1997年) ISBN 978-4-16-712020-7
- 若松英輔 日本人にとってキリスト教とは何か 遠藤周作『深い河』から考える(NHK出版新書、2021年)
映画[編集]
깊은 강
「깊은 강」(딥 프리버)은, 1993년 에 발표된 엔도 주작 의 소설. 또 이것을 원작으로 한 1995년 일본 영화 . 제목의 '깊은 강' 또는 'Deep River'는 일반적으로 흑인 영가 의 ' 깊은 강 '에 부르는 요르단 강 을 말한다.
개요 [ 편집 ]
엔도가 70세 때 발표되었다. 엔도의 평생 테마 '기독교와 일본인'의 마지막 장이 된 작품이다. 1994년에 매일 예술상을 수상했다.
전후 40년 정도 경과한 일본에서 이야기는 시작된다. 각각의 업을 짊어지는 현대의 일본인 5명이, 각각의 이유로 인도 에의 여행을 결의해, 투어에 참가한다. 거룩한 강 갠지스 는 모든 인간의 일을 감싸고 있습니다. 5명은 각각, 사람에게는 쉽게 이해할 수 없는 깊은 업을 가지고 있었지만, 위대한 갠지스에 의해 인생의 무언가를 느낄 수 있었다.
복수의 인간을 주인공으로 하여 엔도의 생애의 테마였던 「기독교적 유일 신론과 일본적 범신론의 모순」의 융화점, 화해점을 찾아 낸다 . 그때까지의 엔도의 소설에서는 주로 양자의 모순의 묘사가 주체였지만, 이 작품에서는 한층 더 진행되어 「일본인의 기독교」 「세계에 보편적인 기독교」를 만들어내고 있다. 이 작품의 탄생에는 영국의 종교 철학자 존 힉 의 종교 다원주의가 영향을 미치고 있으며, 엔도 자신도 '깊은 하창작 일기' 속에서 힉의 사상에 영향을 받은 것을 인정하고 있다. ' 싱크로니시티 ' 등 분석 심리학의 융 신비사상에도 영향을 받고 있다고 생각된다.
전 13장으로 구성되어, 집필 전에 인도에 몇번이나 취재에 방문하는 등, 엔도의 작품 중에서도 사전에 면밀하게 구성되어 있어, 「침묵」 「흰 사람·노란 사람」이 되는 엔도 의 대표작 라고 한다.
배경 [ 편집 ]
인도인의 모든 것을 삼켜 흘려주는 위대한 강, 갠지스. 일본인에게 있어서는 일상생활에서 멀어져 버린 「죽음」이, 갠지스의 기슭에서는 현재도 생생하게 우울해진다. 갠지스는 실은 토착적인 힌두교 도 에게만 중요한 것이 아니라, 어떤 종교에 속하든, 혹은 어떤 종교에도 속해 있지만, 모든 인간이 가지는 복잡한 인생의 모든 것을 감싸주는 존재이다.
등장인물 [ 편집 ]
5명의 주인공 [ 편집 ]
- 이소베
- 노년기에 접한 남자. 아내를 암으로 죽어 버린다. 그때까지 이소나베는 그의 세대의 아주 평범한 부권적인 가정인이었다. 아내보다 일을 우선해, 아내에게는 일을 원활하게 실시할 수 있도록, 집을 지켜 왔다. 애정을 표현하는 것도 서투르고 적었고, 가정에서의 대화도 언제나 단절이었다. 아내 역시 당시의 매우 보통 여성으로서 남편에게 잘 다해 불평도 없게 보내고 있었다. 그러나 아내는 임종 직전에 소문으로 자신은 반드시 윤회전생하고, 이 세계의 어딘가로 다시 태어나는, 반드시 자신을 찾아달라고 죽어 버린다. 인생에 가정의 사랑 등 큰 무게는 없다고 생각했지만, 아내의 자신에 대한 조용했지만 실은 열정적이었던 애정을 처음 알고 있다. 이소나베는 특별히 의식도 오지 않았던 사후의 전생에 포착되어, 아는 사람의 전이라고 한 미국의 연구자에게 상담한다. 연구자는 일본인의 환생이라고 하는 소녀가 인도에 있다는 것을 정중하게 가르쳐 주고, 이소나베는 이성에서는 믿고 있지 않았지만, 아내의 사후의 공허감 속에서 그녀의 임종의 말에 잡혀 , 어떤 인도 투어에 참가한다.
- 미쓰코
- (아마) 30대 여성. 이소베의 아내의 죽음을 자원봉사로 개호하는 여성. 이혼력이 있다. 원래는 지방 출신으로 한때 도쿄의 기독교계 대학을 졸업했다. 여성의 매력이 풍부하지만 다른 사람을 정말 사랑한 경험이 없었고, 학생 시절에는 자신의 여성을 사용해 복수의 남성의 마음을 만끽했다. 그 중에 신부를 뜻하는 그리워하지 않는 남학생 오오츠가 있었다. 나쁜 친구에게서 긁히고 재미있는 반으로 그를 유혹하고 성 포로로 만든다. 오쓰를 일단 기교시킬 수 있을까 생각했는데, 결혼 후 프랑스에 기독교 유학한 오쓰의 소문을 듣고 신혼여행 도중 남편을 능숙하게 말해 현지에서 만난다. 그가 결국 기독교 사랑의 가르침을 재확인하고 그 안에 자신의 감각에 없는 것을 느낀다. 그 후 이혼하고 진정한 사랑을 모르는 그녀는 자신에게 거짓이라도 좋기 때문에 애정의 의태를 하기 위해 말기암 환자를 돌보는 자원봉사를 시작한다. 어느 날, 구친과의 동창회에서 오쓰가 인도의 수도원에 있다고 하는 소문을 듣고, 오츠가 가지는 자신에게 없는 무언가를 알고 인도 투어에 참가한다.
- 누마타
- 중년 남성에서 동화 작가. 소년기는 중국 대련에 살았다. 당시 누마타의 집에서는, 어느 재류 일본인 가정에도 있던 중국인의 보이라고 하는 도움을 고용하고 있었다. 소년의 누마타에게 있어서 신뢰할 수 있는 친구는 오직 한 사람의 보이였다. 누마타가 강아지를 줍었을 때에도 부모에게 반대되었음에도 불구하고, 보이는 다른 장소에 숨기고, 어머니의 용서해 주는 시기를 찾아서 키울 수 있었다. 그러나 어느 날 누마타의 집 도난 사건의 혐의를 받고 해고된다. 보이와 누마타는 걱정하는 친구였지만 별리를 강요당한다. 그 후의 누마타에는 그 애완견이 최대의 친구가 된다. 그러나 부모의 이혼을 계기로 본토로 귀국해 그 사랑하는 개와도 별리하게 된다. 이 체험을 바탕으로 일본에서는 동물과 이야기를 하는 동화를 그리고 있던 누마타였지만, 젊은 무렵에 한 결핵을 재연한다. 그 때 기르고 있던, 유일하게 정말로 마음을 여는 친구의 구관새를 병원에 비밀로 데려와 옥상에 놓아 받는다. 그러나 그 구관새는 누마타가 수술을 받고 있는 참깨 중 먹이를 잊어버려 죽어 버린다. 처음에는 어쩔 수 없다고 생각한 누마타였지만, 자신이 수술중에 심정지를 일으키고 있었다는 것을 알고, 자신의 생존할 수 있었던 것은 구관새가 몸 대신된 덕분이라고 생각하게 된다. 어느 때 인도 투어를 알고 인도에는 많은 야생 보호구가 존재한다는 것을 알게 된다. 최소한 9관새에 대한 감사에 인도로 1마리의 9관새를 찾아 보호구에 놓아주는 것을 생각해 투어에 참가를 제기한다.
- 키구치
- 남성 노인. 전시중에 버마의 작전( 임펄 작전 )에 참가한 적이 있다. 전혀 패배로, 이때 아군 병사가 퇴각 당시 휴대하고 있던 것은 자결용 수류탄과 소량의 음식만이라는 절망적인 길고 괴로운 퇴각전을 경험한다. 도중 목구도 빈사의 상황에 빠지지만, 부대에 있던 전우의 츠카다에 구원받는다. 츠카다는 키구치에 식량을 주려고, 다른 아군이 팔아준 고기를 손에 넣는다. 결국 키구치가 먹지 못하고 대신 먹는데, 사실은 두 사람이 아는 다른 전우의 죽음이었다. 키구치는 그것을 알지 않고, 두 사람은 귀국해 따로따로 전후를 살 수 있었다. 노인이 되어, 도쿄에 있는 키구치의 아래에 직업을 잃은 츠카다가 방문해 재회를 완수한다. 그러나 그 무렵의 츠카다는 인간을 먹은 것을 신경쓰고 아르중이 되어 있었다. 잠시 후 츠카다는 간경변에 의한 식도 정맥류를 앓고 입원한다. 츠카다는 마음을 열기 어려운 음란한 인간이 되고 있었지만, 개호해 준 자원봉사로 그리스도인의 백인, 가스톤에게만은 마음을 열고 있었다. 사기가 다가오면서, 츠카다는 처음으로 인간을 먹은 것, 그 괴로움, 거기에 포착되어 살았던 전후를 키구치나 아내, 가스톤 등에게 고백한다. 가스톤은 그것은 용서되는 일이라고 다른 일화를 가지고 말했고, 그 때문이었는지는 모르지만 츠카다는 온화한 죽음을 맞이했다. 키구치는 츠카다나 다른 전우, 적병들을 되살리기 위해 불교의 발상지인 인도 투어에 참가한다.
- 오쓰
- 미쓰코와 같은 세대의 남자. 빈약하고 매력에 마르고 있어, 사람이 어울리는 것도 서투른. 자신을 철저하게 사랑해준 어머니의 영향으로 그리스도인이 되어 기독교계의 대학에 들어가 신부를 뜻한다. 재학 중에 미쓰코에게 유혹되어 그리스도를 배신하려 버리지만, 넝마처럼 미쓰코에게 버려진 뒤에 돌아와 못생긴 비참한 자신을 그리스도가 구해준다는 것을 알게 된다. 그 후 프랑스에 기독교의 수행으로 유학했지만, 유럽인의 「정의」와 「악」의 이원론, 합리주의, 다종교에의 배타성에 철저한 기독교에 의문을 계속 느끼고, 그것을 알려져 이단자 취급을 받는다. 그러나 오츠는 기독교가 가진 사랑의 힘은 그런 좁은 것이 아니라 다른 세계에 두어도 구제의 힘을 가질 것임을 확신하고 범신론적, 일본인적인 기독교를 모색하는 일 를 결의한다. 그 후 프랑스에서 갈 수 없게 된 그는 인도의 갠지스 강 부근의 수도원에 들어간다. 그러나 거기에서도 쫓겨나버린 오쓰는 힌두교도들의 집단에 기독교인이면서 받아들여 받을 수 있다. 거기서는 갠지스 강에 자기의 최종지를 찾아 인도 속에서 모여, 숨이 끊어져 버리는 것도 가난하기 때문에 장례를 받지 못한 사람들의 시체를 옮겨, 화장해 갠지스에 흘리는 일을 하고 있었다. 이윽고 어느 날, 그리운 여성 미쓰코를 만난다.
기타 [ 편집 ]
- 장보
- 투어 가이드. 상기 중 오쓰 이외의 4명과 그 이외의 투어객을 데리고 있다. 인도 철학을 전공하여 4년간 인도에 유학한 경험이 있으며, 인도에 깊은 이해와 애착을 가진다. 그는 단순히 관광 투어로 한 줄을 데리고 뿐만 아니라 인도의 깊이를 투어 손님에게 가르치고 싶었다. 여행 도중 에나미는 그의 알고 있는 더러운 힌두교 사원을 보여준다. 사원에는 기독교 마리아와는 다른 추악한 여신 차문더 ( Chamunda )가 있다. 그러나 추악한 여신은 병마나 전갈, 독사 등의 고통에 빠지면서도 빈곤에 푹 빠지는 인도의 민중을 엎드린 우유로 수유하는 존재였다. 그 여신이, 실은 인도에 멀리 옛부터 변함없이 계속되는 고통과, 그래도 사람들에게 주는 구제를 상징하고 있는 것이었다. 한 줄의 일부는 인도가 가진 깊이를 갠지스에 가기 전에 처음으로 느낀다.
- 산조커플
- 투어에 참여한 젊은 부부. 남편은 프로 카메라맨을 목표로 하고 있다. 전후의 평화를 상징한 듯한 두 사람이며, 다른 등장인물과 같은 깊이가 없고, 아직 살면서 생기는 「업」이 없는 행복한 젊은이, 얕은 가나인으로서 등장한다. 마지막으로 오쓰가 폭행을 받는 계기를 만들어 버린다.
설명 [ 편집 ]
등장인물 각각이 가지는 의의 [ 편집 ]
등장하는 메인의 5명의 인간 중, 오쓰와 누마타는, 엔도의 인생의 일부를 각각 잘라 만들어진 존재이다. 엔도 자신이 카톨릭의 집에서 태어나(오쓰), 만주 에서 소년기를 보내고(누마타), 부모님이 이혼(누마타), 청년기에 프랑스에 유학하고(오쓰), 결핵을 앓는(누마타) 등한 경험 있습니다. 또 아내에 대한 '사랑'에 아내를 잃을 때까지 둔감했던 이소나베는 '사랑'을 의식하는 것이 서투른 일반적인 일본인으로서의 성격도 갖고 있다. 오쓰, 누마타, 이소나베의 3명은 '어머니'와 '연애'(오쓰), '아내'(이소나베), '친구'(누마다)를 상실한다.
한편, 미쓰코는 역시 '사랑'을 모르는 인간으로 등장한다. 어린 시절의 미츠코는 사려도 얕고 그것이 괜찮았지만, 이혼을 거쳐 자신에게 사랑이 부족하다는 것을 의식해, 그것을 거짓으로 요구하기도 한다. 오쓰는 미쓰코가 사실은 무엇이 부족한지 비추는 거울로 등장한다.
그리고 키구치는 엔도의 세대의 많은 인간이 실제로 체험한, 인간의 일어날 수 있는 가운데서도 궁극이라고 생각되는 죽음과 절망의 세계를 경험한 인간이다. 한 친구, 츠카다가 그 안에서 부득이하다고는 해도 인간의 고기를 먹고, 나중의 인생을 그 업고에 괴롭혀 버렸다는 것에 깊은 충격을 받는다. 키구치와 츠카다는 고르고다의 언덕을 오르는 그리스도 ( 나사렛 예수 )에도 필적할 정도의 고통을 받은 인간으로 그려져 있다. 키구치와 츠카다는 엔도의 같은 세대에 있던 많은 골고다를 알게 된 일본인의 대표로 등장한다.
이 메인의 인간들은 모두, 대부분의 일본인과 마찬가지로, 「유럽인이 가지는 기독교를 이해할 수 없는 일본인」이지만 「기독교에 나오는 테마를 인생에 안는 일본인」으로서 등장하고 있다.
갠지스란 무엇인가 [ 편집 ]
인도의 민중은 고대부터 기근과 질병으로 끊임없이 고통받고 있었지만, 인도의 사람들은 마지막으로 갠지스로 돌아가 갠지스로 흘러나가기를 바랐다. 갠지스는 모든 종교, 인종에 관계없이 그 인간이 행한 모든 죄에도 상관없이 모든 것을 용서하고 삼켜 준다. 그리고 인도 사람들은 현대에서도 생생한 죽음을 갠지스의 기슭에서 보여준다. 죽음이 친밀한 물건에 일어났을 때만 느낄 수 없는 현대의 일본인에게, 눈앞에서 반복되는 그들의 죽음을 통해서 자신들의 인생의 의의로 연상시킨다.
일본인과 기독교 = 범신과 유일한 신 [ 편집 ]
일본인은 불교도 신도도 포함한 넓은 의미에서의 범신론 의 나라이며, 특정 종교에 깊이 귀의하지 않는다. 그리고 '사랑'이나 '신' 등 깊이는 생각하지 않고 평생을 보낸다. 한편, 기독교는 유일하게 하나님 이며, 교리에 두고 절대 다른 종교와 우호를 가지고도 융화는 하지 않는다. 그러나 작자는 주인공의 일본인들을 통해서, 일본인에게도 이해할 수 있는 「사랑」이나 「신」을, 갠지스가 가지는 모든 것을 감싸는 어머니와 같은 위대함으로 발견하고 있다.
엔도가 이른 기독교가 가진 진정한 구제 [ 편집 ]
엔도에게 그리스도가 행한 인류의 구원은 그리스도인들에게 한정하는 유럽의 엄격한 논리로 규정된 좁은 것이 아니고, 갠지스와 같은 종교 종파에 관계 없는 넓은 구제였을 것이라고 하여 있다. 그것은 작품 중에서는 범신론적 감각을 끝까지 버릴 수 없었던 오쓰를 통해 호소한다. 그리고 작품의 끝에서는 싸움의 끊임없는 인류가 가져야 할 진정한 사랑을 거기서 발견하고 있다. '일본인의 기독교인' 엔도가 마지막에 이른 세계가 그려져 있다.
=