2021/10/14

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)

Amazon.co.jp:カスタマーレビュー: 意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)

カスタマーレビュー
5つ星のうち4.3
星5つ中の4.3
87 件のグローバル評価

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)
井筒 俊彦
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上位の肯定的レビュー
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ワンダー
5つ星のうち4.0初心者には、お薦めしません
2019年7月26日に日本でレビュー済み
自戒を込めて、断言します。
哲学の世界にあまり詳しくない方は、本書を読むと、おそらく挫折感を味わいます。

文体はさほど難しくないですが、古今東西の哲学、宗教、文芸などを含め、縦横無尽に、いや「共時的」に井筒ワールドが展開されています。
しかし、ひとつひとつが深すぎて、生半可では、読みこなせません。

とはいえ、サルトルの「嘔吐」体験や、本居宣長や芭蕉の句など、断片的にではありますが、感性的に理解できる箇所も少なくありません。

井筒ワールドのあらましを知りたければ、まずは、若松英輔の「井筒俊彦 叡智の哲学」(慶応大学出版会)からはいるのがよろしいかと思います。
「意識と本質」についても1章がさかれ、そこで若松氏は、井筒にとっての「意識」とは、自分の外へ滑り出すこと(「脱自」)であり、「外」で「意識」を待ち構えているのは、「本質」である。脱自と同時に「神充」が起こる。と紹介している。これは観念論ではなく、井筒の個人的体験にも根ざしているとか。

「意識と本質」は、1回読んだ(眺めた?)だけでは、私のような浅学の徒には理解できなかったため。現在は、★4つだが、何年か後には、★5つになっていることを期待したい。
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73人のお客様がこれが役に立ったと考えています
上位の批判的レビュー
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hikaru
5つ星のうち2.0神秘主義は宗教にあらず
2020年1月30日に日本でレビュー済み
 井筒俊彦を宗教や哲学の研究者と言ったらその道の専門家は同意しないだろう。本書を始め井筒の言説はテキストの解説、論考ではなく、古典的テキストを語る形で井筒自身の思想が展開されるからだ。
 『意識と本質』は慶応義塾大学出版会の全集第6巻に所載されている。その付録月報で三浦雅士が「井筒は読者を選ぶ」として次のように言っている。「宗教家、思想家、学者と、言及する人名が広範すぎて、関連が今一つよく分からない。井筒だけが理解しているように見えてしまう。そこで、分かる者には分かるだろうの世界は勘弁してほしいと思わせてしまう」と。そして井筒を「文芸批評の先達」と言っている。なるほど文芸批評なら理解できる。
 本書でも宋代儒教、中世イスラム哲学、仏教、現象学、ユング心理学、果てはカッバーラや密教曼荼羅が引用され、彼の思想たる脱自体験、向上道と向下道が語られている。その思想自体は興味深いが、これを宗教や哲学と言う事はできないだろう。つまり宗教が宗教たる苦からの救済や哲学に必須の倫理的視点がまるで無いからだ。歴史的に宗教や哲学に求められて来た実存的な問題への応答ではなく、それらを超越した神秘主義に徹している所に井筒の真骨頂があるとも言えるだろう。
 宗教や哲学に神秘主義があるとしても歴史的には異端視されて来た。それが何故かも考える必要があるし、神秘主義を旨とする宗教、例えば中世イスラムのイスマイル暗殺団、現代のアルカイダ、IS、オウム真理教等が過激かつ執拗な殺人を行う事実も直視しなければならない。神秘主義には構造的な問題があると言わざるを得ない。
 その意味で本書を読む際には注意が必要だし、間違っても本書を読んだだけでここに引用されている古典文献が理解できたとは思ってはならない。
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16人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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日本から
ワンダー
5つ星のうち4.0 初心者には、お薦めしません
2019年7月26日に日本でレビュー済み
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自戒を込めて、断言します。
哲学の世界にあまり詳しくない方は、本書を読むと、おそらく挫折感を味わいます。

文体はさほど難しくないですが、古今東西の哲学、宗教、文芸などを含め、縦横無尽に、いや「共時的」に井筒ワールドが展開されています。
しかし、ひとつひとつが深すぎて、生半可では、読みこなせません。

とはいえ、サルトルの「嘔吐」体験や、本居宣長や芭蕉の句など、断片的にではありますが、感性的に理解できる箇所も少なくありません。

井筒ワールドのあらましを知りたければ、まずは、若松英輔の「井筒俊彦 叡智の哲学」(慶応大学出版会)からはいるのがよろしいかと思います。
「意識と本質」についても1章がさかれ、そこで若松氏は、井筒にとっての「意識」とは、自分の外へ滑り出すこと(「脱自」)であり、「外」で「意識」を待ち構えているのは、「本質」である。脱自と同時に「神充」が起こる。と紹介している。これは観念論ではなく、井筒の個人的体験にも根ざしているとか。

「意識と本質」は、1回読んだ(眺めた?)だけでは、私のような浅学の徒には理解できなかったため。現在は、★4つだが、何年か後には、★5つになっていることを期待したい。
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hikaru
5つ星のうち2.0 神秘主義は宗教にあらず
2020年1月30日に日本でレビュー済み
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 井筒俊彦を宗教や哲学の研究者と言ったらその道の専門家は同意しないだろう。本書を始め井筒の言説はテキストの解説、論考ではなく、古典的テキストを語る形で井筒自身の思想が展開されるからだ。
 『意識と本質』は慶応義塾大学出版会の全集第6巻に所載されている。その付録月報で三浦雅士が「井筒は読者を選ぶ」として次のように言っている。「宗教家、思想家、学者と、言及する人名が広範すぎて、関連が今一つよく分からない。井筒だけが理解しているように見えてしまう。そこで、分かる者には分かるだろうの世界は勘弁してほしいと思わせてしまう」と。そして井筒を「文芸批評の先達」と言っている。なるほど文芸批評なら理解できる。
 本書でも宋代儒教、中世イスラム哲学、仏教、現象学、ユング心理学、果てはカッバーラや密教曼荼羅が引用され、彼の思想たる脱自体験、向上道と向下道が語られている。その思想自体は興味深いが、これを宗教や哲学と言う事はできないだろう。つまり宗教が宗教たる苦からの救済や哲学に必須の倫理的視点がまるで無いからだ。歴史的に宗教や哲学に求められて来た実存的な問題への応答ではなく、それらを超越した神秘主義に徹している所に井筒の真骨頂があるとも言えるだろう。
 宗教や哲学に神秘主義があるとしても歴史的には異端視されて来た。それが何故かも考える必要があるし、神秘主義を旨とする宗教、例えば中世イスラムのイスマイル暗殺団、現代のアルカイダ、IS、オウム真理教等が過激かつ執拗な殺人を行う事実も直視しなければならない。神秘主義には構造的な問題があると言わざるを得ない。
 その意味で本書を読む際には注意が必要だし、間違っても本書を読んだだけでここに引用されている古典文献が理解できたとは思ってはならない。
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Masahiko-
5つ星のうち5.0 禅の入門書としても
2018年6月14日に日本でレビュー済み
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イスラーム哲学全般に関する記述は本質を簡潔に表しており、とても勉強になりました。そして、禅についての表記が多いのですが、ここもとても素晴らしかった。サルトルの嘔吐から、禅における物事の本質を演繹していく内容は白眉といえるでしょう。禅の入門書はいろいろありますが、公案などの説明を読んで理解はしても、納得まで至らないものが多かったですが、禅の本質について、著者の説明を読んで初めて納得できたと思います。目を開いてくれた大切な一冊です。
26人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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Y.K.
5つ星のうち5.0 知的好奇心
2020年3月9日に日本でレビュー済み
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難解な書物でした。しかし知的な刺激が非常に強く、充実した読書になった。
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都井正剛
5つ星のうち4.0 精神の深さ
2020年2月17日に日本でレビュー済み
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言語的アラヤ識の本質に触れた気がする
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埜歩人
5つ星のうち5.0 禅の入門書でもあるかもしれない
2015年3月25日に日本でレビュー済み
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本の表題に違わない東洋哲学思想全般の明晰な論述内容。ことに不立文字といわれる禅の無心をこれほど分かり易く言語で分析解説してくれる本はないと思われます。
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ポリ銀
5つ星のうち5.0 卒論のテーマにした思い出の書
2008年12月9日に日本でレビュー済み
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この本と出会ったのは今から15年くらい前のことでした。大学の哲学科で東洋哲学を勉強していた僕は、知人の紹介でこの本を知りました。

東洋哲学といえば訓詁学とか経学みたいな、講釈や説教めいたものを想像しがちだったので、この本を読んだ時の衝撃はすごかったです。当時流行していた、深層心理学などで使われる無意識の構造や、言語の発生源みたいな話が出てきて、急に東洋哲学が斬新なものに見えてきました。夢中になって何度も繰り返し読んだことを覚えています。

井筒さんにはもう少し長生きしてほしかったです。東洋哲学の共時的構造化というものが、いかなる姿をしているのかその輪郭だけでも見てみたかったです。本書ではほんのさわりというか、共時的構造化序論というものであることが述べられていますが、序論ですらこの深みをもつ思索に畏敬の念を禁じえません。日本人にも、すばらしい哲学者が存在したことを知っただけでも良かったと思います。
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ごびらっふ
5つ星のうち5.0 遠藤周作氏も推薦
2003年6月8日に日本でレビュー済み
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かなり前になりますが毎日新聞の、確か「わたしの3冊」という文庫本紹介コーナーで遠藤周作さんがこの本を取り上げていました。慶応の学生だった遠藤さんは一度も井筒先生の授業に出席したことがなく、後になってきちんと授業に出ていれば良かったと後悔した、そんな話だったように記憶しています(遠藤さんは井筒先生と対談もしておられたと思います)。ちなみに書評の中で遠藤さんはこの本を「小説家を志す人には必ず読んでほしい本」と言っていたように思います(記憶違いがあったらスミマセン)。
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TT生
5つ星のうち3.0 著者を尊敬して買いました。
2018年4月25日に日本でレビュー済み
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読んだけれども、眺めただけに終わってしまったかと思われる。いずれ再読したい。
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S
5つ星のうち5.0 表層と深層の両意識にまたがって東洋思想の体系化を試みた名著
2013年7月26日に日本でレビュー済み
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 東洋思想を深層意識レベルで深く読み解いた上で、現代人向けに体系化した解説書がここにあったのかと、一読して感嘆しました。噂に違わぬ名著でした。

 東洋思想は、深層意識で観想しながら構築されたものが多いためか、表層意識のみに頼って日常を送る一般現代人には、難解に感じやすく、納得できる解説書は、ありそうでなかなか見あたりません。

 しかし、著者は幼少期から禅に親しんでおられたとのことで、おそらく深層意識の相当深いレベルに達しながら、文献を深奥まで解読しつくされたのでしょう。各々の東洋思想のその真髄を、切れ味鋭い論理性で、さらりと解き明かしてくれます。

 本書の主題は、意識のあり方と言葉の意味分節機能に着目しながら、我々が自明のこととしている事物の本質性が、実際に実在するのか、それともしないのかという観点で、極東から中近東までの様々な東洋思想を整理・類型化し、概観するものです。

 日本人に馴染みの深い禅を初めとする大乗仏教や、老荘・孔子の思想、インドのヴェーダーンタ、イスラム哲学、ユダヤのカバラ、ユングの元型論に至るまで、論説の筆先は縦横無尽に駆けめぐり、奥深いその姿が鮮やかに顕現します。

 既読の文献の一節が、深層意識に裏打ちされた著者の端的な解説により、思いもかけなかった形で面前に提示されて、これまでの自分の理解がいかに皮相なものだったかと、唸りたくなることが度々でした。

 例えば、
「老子の『常無欲』とは、深層意識の本源的なあり方」、
「易の認める元型『八卦』は、それぞれ独自の方向に顕現可能性を持ったエネルギー体」
「趙州『狗子無仏性』は、犬にも事物を分節して個々別々に見る本性があるので、仏性が無いということ」、
「バカヴァト・ギーターの『純質的』『激質的』『闇質的』は、禅に当てはめた場合『無心』『有心』『執心』として現れてくる」 等々・・・。

 時折挟まれる図説も素晴らしく、ユングの元型論など、それ専門の解説書よりも遙かに構造把握が進みました。

 東洋に生まれた一人として、座右の参考書として今後折にふれ、一生をかけて繰り返し読み込んでいきたい、全く宝物のような一冊です。
 著者がせめてあと十年、長くご存命であったならばと、残念でなりません。

 個々の東洋思想を学ぶ中で、その深みに足を取られてしまった方が、一旦、鳥瞰的に体系を把握されるのにも、本書は最適です。是非一読をお薦めしたいと思います。
74人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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Kyle Yingtian
5つ星のうち5.0 日本神道の神々も絶対無分節の存在が創り出した元型イマージュか?
2014年3月5日に日本でレビュー済み
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本書は4つの論文を一冊の本にまとめたものであるが、特に「意識と本質−東洋哲学の共時的構造化」は、頁数でその8割を占めており、本書の中心をなす論文である。イスラム教から老荘思想、密教、禅まで、多様な東洋の宗教には、全体的統一もなければ有機的構造性もないように見受けられるが、歴史的な聯関から引き離して、時代を越えた視点で構造化し直すという「共時的構造化の分析手法」を用いれば、東洋哲学の構造化・体系化が図れるのではないかという極めて野心的な取り組みがそこにはある。しかも、東洋哲学の領域だけに閉じこもるのではなく、著者の西洋哲学での長年に亘る研究成果があって、両者に共通する「本質論」を基軸に存在物の本質を極めるという研究姿勢が見られる。
東洋哲学の大きな特徴として、「本質概念」は「言語の意味機能」と「人間意識の階層的構造」と聯関していると著者は言う。言語の意味機能を用いて存在物の本質を見極めるというプロセスは人間意識の表層で始まるが、そのプロセスを通して深層意識に入り込み、絶対無分節の存在(老子的にいうならば、「無」あるいは「道」であって、存在のゼロ・ポイントにあるもの)を見ることができるとされる。さらに、その無分節の存在が「無」から「有」に転換して、密教で言うところの大日如来の如きものあるいは易の太極のようなものが出現し、言語アラヤ識が無意識に働いて、再分節化のプロセスが始まって、様々な存在本質が出現するとされる。前段の表層意識下のプロセスと後段の深層意識下のプロセスのいずれでも分節化された存在が見られるが、前段のプロセスで見られる日常現象界の存在と、無分節化した存在が再分節化した後段プロセスの存在とは、まったく異質なものであるとされる。
本書を読んで、私が大いに興味を持ったのは、深層意識レベルにある言語アラヤ識という機関によって生み出される心象(イマージュ)と呼ばれる異形の怪物たちである。イマージュは表層意識にもあるが、表層意識のイマージュは外界に実在する事象に裏打ちされているためにその異常性には気づかない。しかし深層意識にあるイマージュ(元型イマージュ)が時として表層意識に出現すると異常現象として覚知され問題を引き起こすが、有能なシャマンの手にかかれば、哲学的世界観まで展開することができるという。その代表例が老荘思想であり、シンボライズされた易の卦であるとされる。さらには空海の金剛界・胎蔵界の両部曼荼羅もイマージュ空間の構造的呈示であると説く。どうも内に創造的エネルギーを秘めた絶対無分節の存在は神以前の神であり、その分節化で神々が誕生するということのようで、言語アラヤ識で生成されるイマージュは、いわゆる「神」と同体のように思えてくる。著者は、日本神道の神々については触れていないが、日本の神々も東洋哲学の構造化の中で例外的なものではないであろう。絶対無分節の唯一絶対神が分節することで様々な神々が生まれ出るというメカニズムで、東洋の国々に見られる多様な多神が創出されたのではなかろうかと。
本書290頁に書かれている以下の文章は、中国文化に根ざす神々の誕生プロセスを的確に表現したもので、とても印象的である。
「神はその存在原点から、左右に対極的エネルギー(陰陽)を流出させ、そうすることによって神として自己顕現する」。
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佐々木和也
5つ星のうち5.0 読みやすく、深い1冊
2014年2月24日に日本でレビュー済み
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知人に勧められて読みました。
内容のわりに、文体がわかりやすく、著者の、伝えたいという思いがひしひしと伝わってきます。
岩波の青には、日本語的に読みにくいものが多いですが、こちらの本はとても読みやすかったです。
井筒さんの智慧の深さを感じることができます。
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ちゃこ
5つ星のうち5.0 これほどの究極的内容が驚くほど平易に論述されている奇跡
2012年9月6日に日本でレビュー済み
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物理学であれば、最新の教科書を読めばその到達点が把握されるのに対し、古来、哲学書に有るのは、哲学者個人の主張か、それらの通時的羅列(哲学史)であった。「意識と本質」は、真理を求めた人類の格闘の成果を全体構造へ集結させることに成功した最初の教科書であるのかもしれない。過去の思想家への敬慕を貫きながら、過去の思想はそれぞれ真理の一局面であることが説かれている。これは、個々の思想の価値を貶めるものではなく、それぞれが形成される背景や主題を境界条件として、それぞれが最高の叡智と言ってよいのだろう。思想は個人から生まれるがしかし人類全体の共同成果であるという新たな地平を提供している。「意識と本質」は、物理学で例えれば、各実験・観測データから全データを説明する方程式の導出に相当する。本書では新たな世界観(データ)は提示されていない。提示されているのは、世界観が形成されるメカニズム(方程式)だ。井筒は、「あとがき」で、これは試作品であると言っているが、究極の方程式を提案する物理学者と共通する心情であろう。データの修正や補強について指摘して欲しいと願っているに違いないが、重要なことは、共時的構造化という人びとが求めていた切れ味のよい解法だ。
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yasuji
ベスト100レビュアー
5つ星のうち5.0 本書を芭蕉の俳句論として読む
2019年8月8日に日本でレビュー済み
 本書『意識と本質』は、東洋思想の「共時的構造化」を試みた井筒俊彦(1914-1993)の代表的著作とされるが、その思想を理解するには到底力が及ばないので、井筒が芭蕉をどう評価していたかだけをメモしておきたい。
 それでも「本質」という言葉の使い方が、私の認識とは違っているので、その点はおさえておきたい。ジョン・ロックは、唯名的本質と実在的本質という区別を行いました。唯名的本質とは外面的で観察可能な性質であり、我々は通常それを認識することになります。実在的本質とは、ものの根底にある本質で、それこそが真のあり方なのですが、通常は隠れていて認識できません。ところが科学の進歩のおかげで、実在的本質の知識が得られるようになり、科学技術とはこの実在的本質を発見し、隠れていた性質を解き放ち、それを利用することにほかならないと考えられます。

 井筒も「本質」を二つに区別します。普遍的本質と個体的本質です(p.39)。普遍的本質はロックの唯名的本質と同じでしょう。ロックの実在的本質は科学技術のおかげで隠れていることはできなくなり、客観的認識が可能となります。そして、分節化されて我々の言語体系に概念として組み込まれ、唯名的本質(普遍的本質)に変換されます。ですから、井筒の本質は、普遍的本質(ロックの唯名的本質と実在的本質)と個体的本質ということになります。
 イスラーム哲学では常識的にこの二つの本質を認めています。マーヒーヤ(普遍的本質)とフウィーヤ(個体的本質)です(p.40)。そして、どちらを重視するかで正反対の方向が生まれます。

 芭蕉以前の和歌は、言葉の普遍的本質でつくられ、様々な規則があり、それを守らなければ歌として認められなかった。歌ばかりでなく、孔子の正名論や宋代の儒学も普遍的本質で思想が展開されたので整合的ですっきりした理論になった(p.56)。
 一般に詩人、特にリルケにおいては個体的本質が重視され、普遍的本質が徹底的に排除されます。Xが花であるという形で意識されるとき、XはもはやXという個物ではなくなるからです(p.51)。意識の深層領域に開示される個体的本質を、本来言語化できないのに言語化しなければならないのが詩人なのです(p.52)。
 しかし芭蕉は、逆に普遍的本質から個体的本質への転換を問題としたのです(p.57)。芭蕉は「本情」、つまり事物の存在深層に隠れた普遍的本質を対象とした。「本情」は言語を操る表層意識では捉えることができない。捉えるには意識の変質が起こらなければならない。「私意をはなれる」こと、さらに「をのが心をせめて、物の実(まこと)しる事」の修練が求められるのです。これを「風雅の誠」と呼びました。「風雅に情(こころ)ある人」に、「本情」がちらりと光る。これを「物の見えたる光」という。「物に入りて、その微(び)の顕(あら)われ」るともいっています。「物に入る」とは、何々を対象とする意識ではなくなることをいいます。この時、普遍的本質から個体的本質へと対象が転換するのです。

 桑原武夫(1904-1988)は、フランス思想等の研究に深い造詣を示した人でしたが、俳句をなじった第二芸術論でも有名になった人でした。第二芸術とは、今でいえば大衆芸術ということでしょう。桑原は作者名を伏せたうえで、大家の作品と無名の作者のものを混ぜた15の俳句の優劣を問う実験を行ったが、大家と素人の区別をつけることができなかった。これらの事実をもって俳句は二流の芸術としたのです。
 一方井筒の芭蕉論は「風雅の誠」を作者に求めるのですが、当然鑑賞する側にも表層意識から離れることを求めるので、俳句の優劣の判断が違ってきます。ですから、句会などで誰の選なのかが重要になります。表層的意識だけで作った句は、説明の句といわれて評価が低くなります。「物の光」を見るのも鑑賞する側の責任が大きいのです。

 本書『意識と本質』は以後、「本質」の種類とそれを捉える「意識」の種類の組み合わせで、東洋哲学を説くことになります。
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koreyashiro
5つ星のうち5.0 地球上のすべての哲学を鳥瞰している人
2019年10月13日に日本でレビュー済み
ある哲学がどんな内容を語っているのか、
原典を読んでも皆目分からないことが多いと思います。

しかし井筒氏は、特定の哲学が地球上でどんな意義を
持っているのかが たちどころに分かってしまい、
その内容を様々な角度から懇切丁寧に
教えて下さいます。

西洋哲学、東洋哲学、日本思想史などを勉強して
自分が専攻している哲学を超える巨視的な見方ができずに
壁に突き当たっている方、井筒先生の本を読みましょう。

自分が勉強している哲学が、どこに位置づけられるのかが
分かります。
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vivekatrek
VINEメンバー
5つ星のうち4.0 時期尚早だったが故の砂上の楼閣
2013年6月1日に日本でレビュー済み
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本書の開口一番、<人間知性の正しい行使、厳密な思考の展開、事物の誤りない認識のために、「定義」の絶対的必要性をソクラテスが情熱をもって強調して以来、思惟対象あるいは認識対象の「本質」を究めるということが西洋哲学伝統の主流の一部となって現在に至った。(p.3)>とある。

井筒氏は、アジア文化圏〔ギリシャを含む近東・中東・極東〕の哲学的思惟〔意識の本質〕を「共時的構造化」の視点で浮き彫りにするために、様々な「定義」を縦横に駆使する。

ただ残念なのは、井筒氏が生存した1993年までには、ブッダ釈尊の教法の真義〔凡夫が聖者になり、聖者が釈尊と同等のブッダになること〕は解明されておらず、それゆえに釈尊仏教を再興した龍樹の勝義諦・世俗諦も正しく理解されていなかった。従って、本書で井筒氏が用いた仏教用語の「定義」は、伝統仏教の曖昧な解釈のままであり、哲学的思惟を解明する「定義」としては不十分なのである。

そこで、現時点で明確になった釈尊の教法の真義に基づいて、本書の冒頭部分における井筒氏の論理思考を検証してみようと思う。
【井筒氏の論理思考】
サルトルが<意識には内部なるものはない。意識は己自身の外以外の何ものでもない。>(p.6)と断じたのは、<言葉の意味作用とは、本来的には全然分節の無い「黒々として薄気味悪い塊り」でしかない「存在」に色々な符牒を付けて事物を作り出し、それらを個々別々のものとして指示する>(p.8)からであり、それは<言語によって無分節の「存在」が分節されて、存在者の世界が経験的に成立する。>(p.9)ためである。

【私の所感】
しかし、<言語によって無分節の「存在」が分節される(p.9)>という表現は、少しおかしい。例として赤ん坊やペットで飼っている犬を想定しよう。彼らは、様々な対象物を識別し、好悪の感情を抱くが、それらの対象を表現する言葉は存在しない。赤ん坊は「あー」とか「うー」という声を出し、犬は「ワン」と吠えたり「ウー」と唸ることで、対象物への志向の意志を表現する。つまり、言語が分節を可能にするのではなく、言語が無くても分節は起こる、と考えなければならない。すでに分節があるから、<言語以前から言語以降へ>や<「無名」から「有名」へ>という転換が起こるのであり、その分節が「本質」となって出現するのである。井筒氏が、<Xが一定の名を得ることによって、一定のものとして固定され凝固する(p.10)>という時の「X」こそが分節なのである。
そして、「本質」⊃「分節」⊃「言葉」という包含関係が成立すると思われる。

【井筒氏の論理】
井筒氏は、<しかしサルトルにおいては、深層意識の次元に身を据えてはいない。だから、絶対無分節の「存在」の前に突然立たされて、彼は狼狽する。>(p.11)と言い、<仏教的表現を使って言うなら、世俗諦的意識の働きに慣れ、世俗諦的立場に身を置き、世俗諦的にしかものを見ることのできない人は、たまたま勝義諦的事態に触れることがあっても、そこにただ何か得体の知れない、ぶよぶよとした、淫らな裸の塊りしか見ないのである。>と述べる。

【私の所感】
さて、「分節」と「無分節」の定義は、「世俗諦」と「勝義諦」の二諦に基づいて理解すべきであり、その二諦は釈尊の教法の真義に基づかなければ明確にならないのである。
先ず、「世俗諦」とは三界(欲界・色界・無色界)の貪・瞋・痴が存在する世界の法則を表し、それに伴う表面意識・潜在意識・深層意識の三つの意識が存在する。世俗諦の世界は、三界の貪・瞋・痴の法則により時間と空間が生まれ、そこに住むものは時空に制限されるのである。「存在」に「世俗諦」という時空のフィルターをかけると、「分節」が生じるのである。
次に、「勝義諦」とは三界(欲界・色界・無色界)の貪・瞋・痴が消滅した世界の法則を表し、表面意識・潜在意識・深層意識が統合された一つの意識が存在する。勝義諦の世界には、時間と空間が存在しない。「存在」が時空から自由になった「あるがまま」の状態を「無分節」と呼ぶのである。

以上で垣間見えたように、井筒氏が目指した「共時的構造化」を「世俗諦」の世界(我々凡夫が住む世界)で実現するのは不可能であり、時空が消滅した「勝義諦」の世界(阿羅漢の住む世界)では実現する必要もない当たり前の出来事なのである。
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sally_tubaki
5つ星のうち5.0 本質と無本質
2017年9月10日に日本でレビュー済み
購入して5年、3度目の読了でようやく書いてあることが分かった。
井筒俊彦は難解だ、という先入観が邪魔をしていたか、読むべき時期が早かったか。

本書では本質論について、元型的本質は実在すると考えるグノーシスやシャーマニズム、無本質を根本思想に持っている禅などを分かりやすく比較している。

特によく理解できた部分は、禅で言われる「本質などない」ということの意味について。本質はない、というのはともすれば虚無主義にも陥りがちであると思う。しかし禅における空や無は、何もないこととは逆なのだ。

形而上の思索にとどまらず、生きる上で智慧を与えてくれる記述が多く見られる。

具体的には、無分別智に昇る道と、そこから戻って再び現実を生きることについて書かれている。

A→Z→A'

AとA'は、ある人から見れば全く同一だし、ある人から見れば全く別物であるということ。

それは見る人が無分別智を経由しているか否か、ということ。主客融合した後の主客分離。

A'に至ってはじめて融通無碍の境地を得るのだという。

さらに進んで道元を紐解き、A'がA'を見る、ということも書かれているが、ここは分かるようで分からない。

スーフィズムを始めとするイスラム思想はもちろん、カバラや易経の考察まで、文庫本一冊に膨大な情報量である。碩学というのは、こういう人のことを言うのだなと納得する一冊。
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哲郎
5つ星のうち5.0 東洋哲学を分かりやすく
2019年5月24日に日本でレビュー済み
すばらしい名著と思う。
東洋哲学が表層意識に対する深層意識を深く追求していることに目を開かれた。
筆者は、会社勤めの技術者として一生を過ごし、その後にこの本に出合った。
会社の管理といえば、アメリカ流の科学的管理が全盛であり、さらに最近は新自由主義という数字万能の非人間的管理が優勢になっている。それらは、表層意識だけを見ているやせ細った人間観に依っている。
しかし、東洋では(東洋的な深層意識を取り入れたキリスト教でも)、古い時代から一貫して深層意識の究明があったことを知って感激した。
東洋哲学が再び日本の思想土壌に根付くことを願う。
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高崎登
5つ星のうち5.0 若い世代こそ読むべき本
2018年4月23日に日本でレビュー済み
60代後半になって、手にとって読み始めたらひっくり返りそうな衝撃を受けました。こんなに分かりやすく存在論を説明してくれる人はほかにいません。せめて10年早く読みたかった。哲学がなぜあるのか、芸術がなぜあるのか、宗教の大混乱、禅の体験や本だけではとても分からなかったことが快刀乱麻で「分節」されています。欧米二元論に日本的ナショナリズム、歴史を愚かに繰り返すことがないように、これからの世の中に絶対必要な本です。読まなくてもよいからとにかく1冊買っておこう。
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紫陽花
ベスト500レビュアー
5つ星のうち4.0 「太陽を曳く馬」の読書前に是非手に採りたかった優れた論考
2013年11月27日に日本でレビュー済み
表題作の他、「本質直観」、「禅における言語的意味の問題」、「対話と非対話」の全4つの論文を収めた論文集。だが、表題作が全体の3/4を占め、他は関連論文なので、表題作に絞って語っても良いだろう。

簡単に言えば、「本質」というものが、有「本質」であるか無「本質」であるかを考察し、禅を中心とした東洋的哲学の無「本質」に意義を見出すという論考。特に、無「本質」から個々の事物が現出する過程を<分節>論の立場で考察している点が特徴である。その論考は、禅や密教を含む仏教は勿論、西洋哲学、イスラーム哲学、古代インド宗教、孔子の<正名論>、老荘思想、シャーマニズム等の幅広きに及び、著者の該博な知識が十二分に発揮されている。ある種の比較哲学論と言っても良い。著者の論考の主な構造モデルは禅とイスラーム哲学に基づいている。30以上の言語を操ると言われている著者らしく、イスラームの原典に直接当っている様子も良く窺える。

個人的には、孔子と老荘の比較が面白く、特に老荘思想が現代で言う所の"カオス"であるという指摘は興味深かった。また、本書を読んでいて自然と思い出したのは高村薫氏「太陽を曳く馬」である。「太陽を曳く馬」は読む者を圧倒する力作ではあるが、その難解さにタジタジとした方も多いのではないか。本書中の禅論や古代インド宗教論を先に読んでいれば、「太陽を曳く馬」の理解度も高まったと強く感じた。そうした知的基盤を与えてくれる優れた啓蒙書だと思った。
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chienasiko
5つ星のうち4.0 超越の学者と卓抜たる編集者のお蔭で・・・
2012年12月4日に日本でレビュー済み
この本の事を思うと、ホメイニー革命当時、人文書院の谷誠二さんや岩波書店の合庭惇さんとかがいなかったら、どうなってたんだろう?って。

全然違ったタイトルの本を読んでいたことになっていたかもしれないし、また逆に井筒先生のあれ以降のほとんどの本が読めなくなっていたかもしれない(その可能性はあったはず)。前者の場合であれば、ただこの本をも含めて、今手に入るタイトルの本が読めなくなっていたからといって、それがそのままあたしたちにとって丸損になったかと云うとそれはわからないかも。他のタイトルで画期的な本が上梓されていた可能性もあったわけで、そうなれば結局プラスマイナスゼロみたいな事になっちゃって、なるべくしてなったとしか言いようがなくなってしまう。

で、この本のこと。

この本プロパーで見れば、恐ろしく設計が壮大で常識的に考えたらこんな本は元来誰も書けない性格の本、いや書いちゃいけない本、あの分厚い宇井さんの「仏教汎論」でさえ取り敢えず仏教だけなのに―― この本では、中華の達人、フレンチの達人、和の達人を全部井筒先生一人でやってるようなことになるんだもの。人生三回ないと帳尻が合わないはず(少なめに見積もって)。それに「わたしは中華もフレンチも和食も全部修行を極めている」なんて大上段に言われたら「ほんとに大丈夫?!」って眉唾。それをさせないのが井筒先生の持つ抑止力なんだろうし、またそれを見抜いてまんまと井筒先生を担ぎ出して舞台で力を揮わせ、この本に至らしめたのが、合庭惇さんという演出家だったんでしょうね。

金字塔的な本ってスーパーな学者とスーパーな編集者の意識の焦点が合致して初めて生まれるんだって改めて気付かせてくれる好例かなあ。

レビューになってないのわかってるけど、懐かしいのでちょっと書いてみました。
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尊治
5つ星のうち5.0 宗教、イデオロギー、思想、アート、精神病理の起源としての言語阿頼耶識
2005年7月5日に日本でレビュー済み
これにはイマージュの引き起こす人間の精神について述べた箇所がある
がその基盤となるのが言語アラヤ識という解放系の無意識であるとする。これがユングのいうセルフの基盤となる。言語アラヤ識に入る情報に安定性があれば何も起こらない。しかし彼が別著で指摘するとおり現代はリゾームの時代。セルフの基盤となる安定的社会構造は崩れエゴのみを肥大化させなければ人は生きていけなくなってきている。こういう時人の言語アラヤ識に入る情報は不安定化しそれがイマージュ意識の不安定性と可変性を生み時にはアートに時にはイデオロギーや思想に時には精神病理に時には新宗教となっセルフを再構築し言語阿頼耶識の安定性を保とうとする。彼の東洋哲学的基盤の賞揚は還って危険であるが社会的現象の基盤としての言語アラヤ識という無意識を設定した所は素晴らしい。
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アドヴァイタ標本
5つ星のうち4.0 言葉の限界に挑戦した人
2016年1月18日に日本でレビュー済み
難解な文章を読むのは苦痛に近いが、これを読む価値は「無分節の意識」である。

完全に静寂な無分節の意識が存在する、実在、
そこに、種子、心、無知、などにより、ゆらぎが生じる、イマージュ(心象)、
しかし、その状態では単なるゆらぎであって不確定である、
そこに名を与えることによって対象の本質を確定する、
名-形、このコンビネーションと分節化によって現象世界の創造が意識の中に起こる。

そんなことが書いてある。
ここが分かれば神秘主義の全てが分かるカギなんだね。

禅・自己探求・思惟をする人が無分節の意識の視点にたって読むのがお勧め。
難解すぎるので星4。来世はもう少し簡単に書いてね。
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井頭山人
5つ星のうち5.0 井筒俊彦の哲学探究
2010年4月8日に日本でレビュー済み
岩波文庫と云う、比較的安価な文庫に収録されているにも係わらず、これは井筒俊彦の主著の一つであろう。それは、彼の主要論文からすれば比較的読み易く、且つ、一般の読者を想定している。井筒のライフワークである主著と目されている、イスラム神秘主義、ユダヤ教神秘主義カバラ論、ゾハール等は、初学者が、何の武器も持たず挑戦しても、恐らく、歯が立たないに違いない。ゆえに、井筒の理解を超える知見に到達する事は困難であろう。我々、一般人は、この様な神秘哲学とは、異なる次元の生活者であり、多かれ少なかれ、ごく表層的な次元での生活者であるからだ。では、何故、我々物好きな人間は、この様な、非日常的次元の哲学を読もうとするのであろうか?そこには、人間存在の真の世界像に付いて、深遠な知見を覗いて見たいという欲求からであろう。十数ヶ国語を操ったという、井筒俊彦の、驚異的な言語力と読解力が、縦横無尽に展開されていて、その知識と創見が、現代哲学の巨匠達の省察と、重なる部分を見い出すのは爽快だ。この地球上の言語は、ある意味ではすべてローカルな言語であり、どこの言葉が最も優れている、などと言うことは無い。あらゆる言語は、人間の認識精神の発露であり、その根源的力から生まれた状況の産物なのである。

ここには、中観・唯識の哲学からヴァガバット・ギータ、プロティノスのネオプラトニズムの論拠、プラトンギリシャ哲学とスコラ思想、易経から禅哲学、イスラム思想、ユダヤ神秘主義、カバラとゾハール、説一切有部派から大乗起信論、クサのニコライからトマス・ケンピス、フランツ・ブレンターノからエドムント・フッサール、サルトル、メルロー・ポンティからステファーヌ・マラルメまで、殆ど書き切れない位の存在論と認識の探求者達が考察される。存在の深遠に付いて、井筒が興味を懐いた分野の、多くの巨匠が取り上げられているのだ。大乗起信論の「真如」がフッサールの「エポケー」、「現象学的還元」の概念と似ていると云う、指摘は面白い。投稿者が、特に注目したのは、井筒の思想の中核に在る、意識の「深層と表層」と言う概念であり、人間の内面に、深く秘匿された構造世界である。心や意識の「構造的見方」、マナ識、阿頼耶識という、日常意識を支える根源的な意識の構造である。この本でも展開しているユングの「元型」の概念は、禅の根本である、インド・ヨーガ哲学との類似性にも興味がある。

本書では、芭蕉や、道元、宣長、なども、その思想が分析される。井筒の展開する概念の中で、投稿者は、未だに、よく理解できない概念が言語と意識に於ける、「音韻分節」・「意味分節」などの本質と、その可能性である。本書を買ったのは、30年近くなる昔だが、この著作の理解には、広範な基礎知識を前提とし、かつ、その深い創造的な理解を要請している為に、簡単には、深奥にある内容を把握し切れない点が多い。知識ミニマムとして、むかし、中央公論社から出版された、「世界の名著81冊」全冊の本質的理解があるのならば好ましい。若い人々が、この哲学書に挑戦し、単なる、日常の次元にのみ生きる事なく、いのちの中に秘められた、深い実相に気付き、そこに到達できる事を希望する。この世界は、目の前に広がるだけでは無く、意識と共に末那識が気付かない無意識である阿頼耶識と云う、自我を超えた、内面の宇宙にも広がっているのだから。私達のいのちとは、何か不思議な縁って、与えらえた命であり、そして、いつかは、その与えらえた源へ帰って行く。存在の実相は、そのいちの秘密は、そこで開示されるベキものであろう。神秘哲学は、その次元の思惟であり、本来、意識のサイクルとは平行に営まれる、人間の内部で動く、意識下のサイクルを探る試みであり、禅はその探究であるし、また、大乗の如来蔵は明らかに、その探究の発展と系譜上にある。

井筒俊彦は、膨大な東洋哲学構築の、著作計画の端緒で急死した、就寝中の脳出血であるという。それ故に、我々は彼の思意の中に、計画として有った、「東洋哲学の根幹に通底する諸神秘思想の共時的構造化」を、読む事は永遠に出来なく成った。それは誠に残念であるが、井筒自身は、大いなる命の源に、帰る事に従ったに違いない。この世界は深い、本の価値を確信すると共に、井筒俊彦の霊の冥福を祈りたい。
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うらやま
5つ星のうち5.0 目から鱗
2003年4月1日に日本でレビュー済み
世の中にはいろいろな思想があり、それらを一つ一つ見ていくことや断片的に知っていくことは可能である。また、表面的にさらっと通してしまう入門書なんかもある。しかしそれぞれの独特な言葉の使い方や構成の仕方により、それらを包括的に、一貫した視点に立って深く考察することは難しい。それをして見せてくれるのがこの本である。著者は東洋を中心に様々な思想のそれぞれの「本質」の捉え方を、著者自身が定義しなおした一貫した表現を使って説明してみせる。それは難解である事の多い東洋哲学を明快に説明してくれる上、それぞれの理念的関連や類似点を明らかにする。今まで知らなかったり、いまいち理解できなかった哲学を知ることもでき、まさに「目から鱗」本である。
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アマゾネス
5つ星のうち5.0 壮大な東洋的「知」の体系構築を目指した重厚な思索の書
2009年7月11日に日本でレビュー済み
西洋の対語として「東洋」があるとしたら、そこにはにはどのような哲学的、思弁的共通性があるのか。明瞭な形では存在しえなくても、東洋哲学の諸伝統の蓄積の上に新しい哲学を生み出さなければならない。

こんな壮大な問題意識から著者は膨大な知識を駆使し、著者独自の「共時的構造化」の方法によってイスラーム、ギシリア、儒教、仏教の系譜を縦横に跋渉して知の体系化を目指す。スコラ哲学、プラトン主義、新プラトン主義、ユング、フッサールの現象学など西洋の系譜もしっかりと押さえながら、記述は明瞭かつ分かりやすい。

そこかしこに溢れ出る術語概念に対する深い理解と分かりやすい説明は、なるほど、30カ国語に熟達した語学の広範な知識に裏づけられている。圧巻なのは、密教(esoteric religion)に関する奥深い理解が、本書全体を通底していることだ。凡庸な学者は、顕・密の顕を極端に重視することはあれども、密に対する見解があまりにも表層的なことがままある。

顕・密にわたる認識についての明快な枠組み設定がp214の意識の構造モデルで示されたくらいから、東洋思想に共時的に存在する哲学は、まさに「密」に集約されていることに読者は次第に気づいてゆく。
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BMW
5つ星のうち5.0 「神とは『宇宙のありかた』である」
2008年1月31日に日本でレビュー済み
井筒氏は「神とは宇宙のありかたである」と言っているように思える。そうならばいくつかのことが説明できる。
1 神はなぜ全知全能であるのか
 「すべてが入っているもの」こそ、宇宙の別称である。宇宙内のすべてのモノやコトの存在の「ありかた」を神とすれば、神は他者としてそれらの外に立つことはない。時間の地平を越えても宇宙のあり方は変化し得ないから、定義上、神は全知全能でしかあり得ない。
2 なぜ天にいるか
信仰者にとって神の住処は「天」以外にない。天には星ぼしが輝いており、そこには一定の物理法則が明らかに感じられる。「法則」の支配こそ神の第一の能力であるからには、その身に最も近いと思える天界こそ住処と考えるのは自然である。
わずかな過ちは「法則」をセムならではの支配・被支配の概念で考えたこと。どんな「ありかた」も許容される宇宙内において、法則は創り・創られるものではないだろう。法則は、世界の分節のしかたとして「在る」ものだろう。理論物理学が発見間近としている宇宙方程式すら宇宙の「ありかた」の「すべて」を記述するものではない。絶対無分節者としての宇宙を描こうとする宇宙方程式は、表現として分節的記述以外にありえず、いったん分析的に記述されればそれは分節を繰り返すだけであり、無分節状態の再現は定義として不可能になる。記述そのものが永遠に終わらない、という不確定性原理の矛盾があらわれてしまう。
3「宇宙のありかた」は運命論ではない
「宇宙のありかた」の考え方は、すべてがあらかじめ絶対者によってコードされていることの単なる発現であるとする、諦観に満ちた運命論ではない。すべての生命は、輻湊する存在連関の糸の結節点としてのみ存在するが、結節点としての生命は、たまたまそこに密度が高まっているアミノ酸分子の、ゆるい「よどみ」でしかない。しかも、それらアミノ酸は、「拡散」による内部のエントロピー増大を回避すべく、一方向的な時間軸上で非可逆的に入れ替わっているのだから、存在連関の網はあらかじめ織られようがない。
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Theoのいるところ
5つ星のうち5.0 おもしろい、おもしろすぎる…!
2016年7月18日に日本でレビュー済み
よくもこれだけの内容を、平易ならざる用語の数々を連ねて、ここまで明確にわかりやすくかけたものだと驚いてしまう。自分の感じていた言葉と認識のズレのようなものの心地悪さを、ことごとく説明してくれた。
個人的にこんな体験がある。
朝、職場に行くと、前日の夜同僚が私宛に残した簡単なメモが置いてある。しかしこの同僚の書いたたった数文字の悪筆が解読できない。その日の業務の内容に関わることと、必死にメモとにらめっこをするも、読めない。突然めまいがして吐き気に襲われる。
あるいは、ある日、夕暮れ時に海へ行って、曇り空と海の境の判別できないような彼方をじっと見つめている。そのうちに、海を見ているという自意識が消え、ランダムな心象が次々と浮かんでくる。そして静かに何かが充満していくような感覚を受け、フッと抜けるように我に帰る。そこで海を見ていたことに気づく。
こういった日常の表層の割れ目のようなところから、別次元の意識に入って行くことを、経験を通じて自覚してはいたが、この著作を読むことでそれが現象として明確になり、また、言葉では掴みえない域も、自分に対してハッキリし、何はともあれ晴れ晴れとした気分になった。あまりにもわかりやすいので、一読して全てを把握した気にもなるが、それは慢心であろう。言語学の面からもソシュールなどと合わせて読んでおきたい一冊。
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尊治
5つ星のうち5.0 東洋思想はこれ一冊で足りる。最高の書。
2005年5月25日に日本でレビュー済み
彼はある意味、北一輝と並ぶ二大日本ファシスト思想家で大アジア主義研究の第一人者大川周明の正統な後継者ともいえる。満鉄東亜調査局大川塾の講師であり、その文献をもとに西洋では現代思想のデリダ、ソシュール、心理学はユング、宗教人類学はエリアーデ、ギリシャ思想、イラン王立アカデミーで禅仏教徒で見性体験を得ながらイランのイスラム教徒にイスラム教を教えた世界的イスラム学の権威。ユダヤ教、ヒンズー教、仏教、儒家、道家からロシア、フランス、ドイツ文学や詩、日本、中国の古典文学、俳句、和歌、日本最大の神道家とされる本居宣長の国学まで主要な東洋思想は大体かれはおさえているが、意識と本質は特に東洋思想的教養はこれ一冊で十分という著作である
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不良塾講師
5つ星のうち5.0 素晴らしい本
2013年9月12日に日本でレビュー済み
著者に圧倒される本というのはこういうのを言うのですね。まさに天才の著作です。こういう著作が多く読まれれば、物事を深く考える人々が増えていくのでしょう。
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===
ににに
5つ星のうち5.0 かなり好き
2017年4月3日に日本でレビュー済み
井筒先生の著作のなかでは、一番好きですね。二番目はイスラーム思想史。
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トリックスター
5つ星のうち5.0 意識…
2004年10月23日に日本でレビュー済み
「意識」や「無意識」といった概念はもはや日常語になっており、ともすれば心理学者などでもこうした概念を簡単に自明視してしまうきらいがあるように思えます。この本では、まず意識とはどのようなものかということについて明確な規定が与えられていて深く納得できます。イスラームに興味がなくとも、最初の10ページ程度でも読んでみることをお勧めします。博学ぶりをふりまわすことのない、シンプルで落ち着いた、それでいて説得力ある論調に畏敬の念がたえません。圧倒的です。
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非音楽大好き
5つ星のうち5.0 これが形而上学の書です。
2007年1月24日に日本でレビュー済み
著者のエゴになっている哲学書が多い中、この書は「意識・本質」を客観的でコンパクトな構造的思索で展開されており、読みやすくかつ説得力があります。哲学や宗教に興味がある程度の方でも十分に理解でき、それでいて得れる知識は膨大で壮大です。

また、現代の日本人に忘れがちな「日本人の本質」を呼び起こす、拒絶反応のおきない日本的観念論であるとも思えます。哲学的または形而上学的思索(じぶんとは何?せかいって何?神?)を深めたい!と思う上で最初に手に取る書。ということで間違いありません。

是非お読み下さい。
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vivekatrek
VINEメンバー
5つ星のうち4.0 時期尚早だったが故の砂上の楼閣
2013年6月1日に日本でレビュー済み
本書の開口一番、<人間知性の正しい行使、厳密な思考の展開、事物の誤りない認識のために、「定義」の絶対的必要性をソクラテスが情熱をもって強調して以来、思惟対象あるいは認識対象の「本質」を究めるということが西洋哲学伝統の主流の一部となって現在に至った。(p.3)>とある。

井筒氏は、アジア文化圏〔ギリシャを含む近東・中東・極東〕の哲学的思惟〔意識の本質〕を「共時的構造化」の視点で浮き彫りにするために、様々な「定義」を縦横に駆使する。

ただ残念なのは、井筒氏が生存した1993年までには、ブッダ釈尊の教法の真義〔凡夫が聖者になり、聖者が釈尊と同等のブッダになること〕は解明されておらず、それゆえに釈尊仏教を再興した龍樹の勝義諦・世俗諦も正しく理解されていなかった。従って、本書で井筒氏が用いた仏教用語の「定義」は、伝統仏教の曖昧な解釈のままであり、哲学的思惟を解明する「定義」としては不十分なのである。

そこで、現時点で明確になった釈尊の教法の真義に基づいて、本書の冒頭部分における井筒氏の論理思考を検証してみようと思う。
【井筒氏の論理】
サルトルが<意識には内部なるものはない。意識は己自身の外以外の何ものでもない。>(p.6)と断じたのは、<言葉の意味作用とは、本来的には全然分節の無い「黒々として薄気味悪い塊り」でしかない「存在」に色々な符牒を付けて事物を作り出し、それらを個々別々のものとして指示する>(p.8)からであり、それは<言語によって無分節の「存在」が分節されて、存在者の世界が経験的に成立する。>(p.9)ためである。

【私の所感】
しかし、<言語によって無分節の「存在」が分節される(p.9)>という表現は、少しおかしい。例として赤ん坊やペットで飼っている犬を想定しよう。彼らは、様々な対象物を識別し、好悪の感情を抱くが、それらの対象を表現する言葉は存在しない。赤ん坊は「あー」とか「うー」という声を出し、犬は「ワン」と吠えたり「ウー」と唸ることで、対象物への志向の意志を表現する。つまり、言語が分節を可能にするのではなく、言語が無くても分節は起こる、と考えなければならない。すでに分節があるから、<言語以前から言語以降へ>や<「無名」から「有名」へ>という転換が起こるのであり、その分節が「本質」となって出現するのである。井筒氏が、<Xが一定の名を得ることによって、一定のものとして固定され凝固する(p.10)>という時の「X」こそが分節なのである。
そして、「本質」⊃「分節」⊃「言葉」という包含関係が成立すると思われる。

【井筒氏の論理】
井筒氏は、<しかしサルトルにおいては、深層意識の次元に身を据えてはいない。だから、絶対無分節の「存在」の前に突然立たされて、彼は狼狽する。>(p.11)と言い、<仏教的表現を使って言うなら、世俗諦的意識の働きに慣れ、世俗諦的立場に身を置き、世俗諦的にしかものを見ることのできない人は、たまたま勝義諦的事態に触れることがあっても、そこにただ何か得体の知れない、ぶよぶよとした、淫らな裸の塊りしか見ないのである。>と述べる。

【私の所感】
さて、「分節」と「無分節」の定義は、「世俗諦」と「勝義諦」の二諦に基づいて理解すべきであり、その二諦は釈尊の教法の真義に基づかなければ明確にならないのである。
先ず、「世俗諦」とは三界(欲界・色界・無色界)の貪・瞋・痴が存在する世界の法則を表し、それに伴う表面意識・潜在意識・深層意識の三つの意識が存在する。世俗諦の世界は、三界の貪・瞋・痴の法則により時間と空間が生まれ、そこに住むものは時空に制限されるのである。「存在」に「世俗諦」という時空のフィルターをかけると、「分節」が生じるのである。
次に、「勝義諦」とは三界(欲界・色界・無色界)の貪・瞋・痴が消滅した世界の法則を表し、表面意識・潜在意識・深層意識が統合された一つの意識が存在する。勝義諦の世界には、時間と空間が存在しない。「存在」が時空から自由になった「あるがまま」の状態を「無分節」と呼ぶのである。

以上で垣間見えたように、井筒氏が目指した「共時的構造化」を「世俗諦」の世界(我々凡夫が住む世界)で実現するのは不可能であり、時空が消滅した「勝義諦」の世界(阿羅漢の住む世界)では実現する必要もない当たり前の出来事なのである。
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mushroomcity
5つ星のうち2.0 インド哲学(インド仏教を含む)やギリシア哲学についての理解が古すぎる
2014年8月21日に日本でレビュー済み
井筒さんの哲学は、常に移ろいゆく目に見えている現象世界とその奥にある常に変わらない何か(神/ロゴス/存在と呼ぶ人もいる)というものを前提としている。 あるいは、その間に「本質」とよぶものを置いている(その言葉の定義は常に動いているように見える)。

そして、奥にある何かを捉えようとする、イスラムのスーフィズムや大乗仏教(特に禅や密教)のアプローチを「東洋的」と呼び、それにプラトンとの共通性なども見出そうとされている。

しかし、「その奥にある常に変わらない何か」というものが本当に存在するのかどうかは論じない(判断停止)、あるいはそういうものは存在しないとする、非常に重要な思想的な流れというものをあまりに無視されている。 インドの初期仏教や、ギリシア哲学の懐疑主義と言われる人たちの哲学である。

人間は弱いもので、目の前のものが常に移ろい何一つ頼ることができない、自分すら老いて常に変わっていく状況で、頼れる「何か」をどうしても探してしまう。   

しかし、その何か(神であれ、ロゴスであれ、絶対存在であれ、ウパニシャッドでいうブラフマン(梵)であれアートマン(我))を探し求める旅に出るというのは、実は大きな罠でもあるともいえる。 

何故なら、人間自身、所詮移ろいゆく物体の寄せ集まりであり、その能力は非常に限られている。  ある一定の人間だけ特殊な能力があり、あるいは何か特殊な方法や儀式があって、猿やネズミと異なって、人間だけが、その絶対存在を捉えられるというのはおかしい、あるいは時間の無駄だとする考え方をするのが初期仏教やギリシアの懐疑主義の哲学である。

井筒さんの時代には、中村元先生や前田専学先生の優れた初期仏教の研究があったはずである。ギリシア哲学もソクラテス、プラトン、アリストテレスだけではなく、ピュロンやデモクリトスの研究もあったははずである。 なぜそれらの研究を全く無視されているのかが、そして、初期仏教という非常に重要な東洋哲学の一つの考えを無視して「東洋」を謳われているのは非常に疑問を感じてしまう。

また、随所に、物質的西洋VS精神的東洋 という古い(ナショナリスティックな)考え方を抜け出ていない感じも何やら古さを感じさせる。 鈴木大拙の禅の研究のように、西洋にコンプレックスを感じながら、東洋人の一メンバーとして東洋の凄さを懸命に宣揚されているような、、、

インド哲学が好きな者としては非常に疑問を感じる一冊でした。
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田中 冬一郎
殿堂入りベスト50レビュアー
5つ星のうち5.0 広く俯瞰して考えたい方へ
2020年1月25日に日本でレビュー済み
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"意識と存在のからみ合いの構造を追求していく過程で、人はどうしても『本質』の実在性の問題に逢着せざるをえない。その実在性を肯定するにせよ否定するにせよ、である。"1983年発刊の本書は30以上の言語を流暢に操った"語学の天才"による、人間の【意識が如何に本質を捉えるかを基準に】東洋哲学全体を分類し、位置関係を明らかにしようと考察した名著。

個人的には西洋と日本の哲学を比較しようと考察してきた本は何冊か手にとりましたが、イスラームについてはまったく無知な為、本書から学び視野を広げようと手にとりました。

そんな本書は、ソクラテス以来西洋哲学が切り離してきた【本質を論じる認識論と存在を論じる存在論を確認し軸にしながら】そこに仏教やイスラーム独自の思想を織り交ぜて、時には図形を、また馴染みの人物たちを例に出しながら幅広く考察しているわけですが。

率直に言って、イスラーム哲学には全く馴染みがなかったので【東洋哲学全体を俯瞰して考察する】には当然とは言え、良い意味で自分の無学さを実感させてくれたのが良かった。(勉強しなければ!)

また、日本人には言葉としては馴染みのある仏教や禅に関しても、西洋哲学はもとよりユダヤ教、キリスト神秘学の領域まで踏み込んで対比し、説明を加えてくれているのも、こちらはこちらで仏教や禅に関する理解が大幅にすすみ、知的好奇心が大いに満たされました。

西洋哲学、東洋哲学を俯瞰して広く考察したい誰かへ。また世界的に名声を博した東洋思想解説者としての著者に刺激を受けたい若手にもオススメ。
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caritas77
ベスト500レビュアー
5つ星のうち5.0 第3論文「禅における言語的意味の問題」
2020年12月26日に日本でレビュー済み
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p.360の叙述を抜き出します。

「ハイデッガーは言語の語源、すなわち歴史的根源的意味、を探ることによって、そこに露呈されている形而上学的に根源的な意味を直観しようとする。語源とは無限定者たる存在が、まさに自己を限定して限定態に移ろうとする決定的瞬間に成立するものである。ハイデッガーは、この決定的瞬間を自ら生きることによって語の内部に翻入し、それによって、本来的には把捉しがたい無限定者そのものに迫ろうとする。」
「禅は言語にたいしてこのような態度はとらない。禅者にとって個々の語の語源など問題にもならない。「言無展事」。始めから言語不信なのである。」

言無展事 語不投機 承言者喪 滯句者迷。

六祖の慧能以来の南宋禅、もっとおおまかに中国禅では、「始めから言語不信なのである。」と言っても良いでしょう。しかし、「不信」かなあ。言語を通常のスタイルでは用いない、のであって、別扱いすることに、実用的に決めたのです。中国に伝わってからより実用的になり、さらに、南宋禅となってからは、その傾向が強くなりました。

ハイデッガー、南宋禅の方法同士を比較してそこで止めればよいのに。「始めから言語不信なのである。」の付言がなければ、正確なのに。井筒氏の論説においては、そこから学ぼうと読み進める者にとって、本筋のみに落ち着いておれない、装飾的感想、装飾的付言が、そこここで、邪魔をするのでは? 頭の良いひとなのでしょうね。

p.363から述べられる、禅的言語の無意味性、の論述が有効なので、その前の段階での分裂はいたい、ですね。
「禅的言語の無意味性を考究するにさいして先ず注意されねばならないことがある。それは、中国の宋時代以後歴史的に形成された禅の形態においては、言語の無意味的使用が二つの違った次元で意識されているという事実である。」
「その第一は、臨済禅において確立された公案組織の中で意図的に活用される無意味性。つまり、ある決定的瞬間に偉大な禅者が発した言葉が公案として取り上げられ、その言葉の無意味性が方法論的に使われる次元。この次元においては禅的言語は徹底的に無意味であり、無意味にとどまり、無意味性において深化されなければならない。」
「第二の次元は公案以前の、公案とは何の関連もない生の姿の禅的言表であって、この次元においては、言語は日常的自然的理性にとっては全く無意味でありながら、禅の元体験の見地から見れば立派に意味をなすのである。」

なんの変哲もない論説です。面白いです。
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Toshiino55
5つ星のうち5.0 空海の立体曼荼羅のような歴史的な新たな思想構築であると感じられる
2019年1月5日に日本でレビュー済み
東洋哲学の諸伝統を現在の時点で理論的平面に移し、空間的に配置し直し、それらすべてを構造的に包み込む「共時的構造化」という壮大な試みである。空海の立体曼荼羅のような歴史的な新たな思想構築であると感じられる。本質的などというものは本当はどこにも実在していない。その無いものが、言葉の作用によりあたかも有るかのように見えている。約40年前の壮大な試みのさらなる深化は、今後、どのように進展するのだろうか。創刊当時、栗本慎一郎さん、中沢新一さんが推薦する一冊として取り上げていたことが懐かしく思い出される。
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Φιλοσοφια
5つ星のうち5.0 思想の源流
2017年12月31日に日本でレビュー済み
私はイスラーム思想に興味をもっているので、`「本質直観」について面白く感じました。勿論、何度も繰り返し読むうち、ユダヤ哲学や老荘思想、禅の公案にも興味を持つようになりました。
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みんなのレビュー(31件)
みんなの評価 4.6

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評価内訳
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紙の本 繰り返し時を越えて読まれるべき現代の古典 2002/08/05 22:07
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 投稿者:宇羅道彦 - この投稿者のレビュー一覧を見る

宗教を現代哲学の言葉で語る試みが成功することは滅多にない。
多くが特定宗教内部の宗教哲学になってしまうのが落ちである。
この著者は宗教を現象的所与として受け止めるところから分析を始める。

イラン革命に追われ日本に帰国することがなければ我々はこの著書に
出会うことはできなかっただろう。
生涯をかけたイスラムとの取り組みが、歴史の変転という偶然を経てこ
のすぐれた書籍を生んだ僥倖こ読者は大いに感謝するべきだろう。

特に注目すべきは禅についての著述である。
老師がたの語るところと全く矛盾のないところをこの著者は哲学と言語
学の先端の言葉で語っている。実に驚くべき境涯であるといえよう。

井筒俊彦氏は現代の日本人の一つの到達点である。
日本人のイスラム理解はここから始まるかないが、ここから先にゆくには
半世紀が必要だろう。

そして、イスラムを理解することが畢竟、総ての宗教を理解することに他
ならない姿勢で取り組んでいることに、井筒俊彦氏の学問的正統と、そ
の人間の誠実と偉大が見いだされよう。

繰り返し時を越えて読まれるべき現代の古典である。
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紙の本 深淵な概念としての「意識」と「本質」を学ぶ 2020/02/09 20:40
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 投稿者:岩波文庫愛好家 - この投稿者のレビュー一覧を見る

「意識」とは、「本質」とは、これらに焦点を当てて、深々と洞察した一書です。その切り口は実に洋の東西、勿論日本を含めた(日本の場合は禅と絡めて)視点から述べられています。非常に興味深い内容でした。
 本書について上記以外に評する事として、それは本書が比較的解り易く説かれている、という点があります。本書はどちらかと言うと哲学に分類されるのでしょうが、私自身にはそれ程堅苦しく感じられませんでした。
 著者の説き方に関して納得し易かったのかもしれません。或るいは理屈を捏ね回したような表現が殆ど見受けられなかったからかもしれません。
 どちらかと言うと「意識」よりも「本質」にページが多く割かれている印象でしたが、これらの意味について深い学びを得られた事は有意義でした。

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紙の本 井筒俊彦氏による東洋思想の共時的構造化を試みた代表作です! 2020/05/02 10:42
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る

本書は、我が国の代表的な言語学者であり、イスラム学者でもあり、さらに東洋思想研究者でもあった井筒俊彦氏によって著された代表的な著作の一つです。井筒氏は「語学の天才」と言われ、彼の大部分の著作が英文で書かれていることもあり、日本国内でよりも、欧米において高く評価されています。同書は、その井筒氏が、東洋思想の「共時的構造化」を試みた一冊で、氏の広範な思想研究の成果が盛り込まれた代表作です。彼は、同書の中で、「東洋哲学の諸伝統の分析から得た根元的思想パターンを己れの身にひきうけて主体化し、その基盤の上に新しい哲学を生み出さなければならない」と説いており、なかなか興味深い内容となっています。

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電子書籍 覚者こそ哲学者である、本当は 2020/04/18 00:06
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 投稿者:タヌ様 - この投稿者のレビュー一覧を見る

プラトンやデカルトは読んだことがある、いろんな哲学史も、程度では理解不能であろうなと思う。私もその一人だったのだ、その後、インド哲学の中村元氏の著作と格闘して唯識や空観がある程度わかったかなというレベルになって、何年もかかるのだが、やっと再読した。わかるのである。やっと、字面を読むだけではなく意味もわかるようになれたこと、井筒氏の懸命に語る世界が浮かび上がるようになった自分に少し驚いた、こんなことが書いてあったのかと。なんのことはない井筒氏は覚者なのである。修練によって悟りのある人なのである。いわゆる哲学を勉強したただの教授とはわけが違う、覚りの人が観る世界、言語を超えた世界を何とか伝えようとしているのである。

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紙の本 名著 2017/02/13 03:07
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 投稿者:あきみち - この投稿者のレビュー一覧を見る

井筒俊彦の主著にして昭和の哲学的著作の代表ではあるが、一般的に理解される(近代大学制度においての制度としてみた)哲学からはかけ離れている(その意図を「哲学的」に受け継ぐには、いくつかの手順を踏む必要があるだろう)。多くの人は、井筒が東洋の宗教思想を中心的な理念に抽象化して比較した(しかも中途半端に終わっている)とみなすかも知れないが、これは井筒本人の哲学的思索を準備する前前前段階だったということが伝わりにくいからではないか。井筒本人の哲学的思索や体験の省察がないという驚きもそこに由来するのではないか。この本の本領は、西洋哲学史二千数百年の展開を、東洋を素材に、独りでやってのけようという途方もない試みにある。その意義がどれほどのものかは人によって違うだろうが。個々の分析だけを取っても、大変に明晰で単純化しすぎ・図式化しすぎと言われかねないだろうけれど、それはただの本質主義にあるのではなく、理念化を通してその先に見据えるものがあり、この経緯は西洋哲学が辿った道だという著者の、言外の、西洋哲学史理解であると言えるんじゃないか。

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紙の本 井筒マンダラ 2016/04/22 13:29
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 投稿者:親譲りの無鉄砲 - この投稿者のレビュー一覧を見る

本書は、イスラーム思想研究の第一人者であり自ら禅を通して深く自己の心を見つめる実践を行ってきた井筒俊彦ならではの「本質論」が展開される。人間が対象とする事物の「本質」の捉え方の多様性は、人間の意識のありかたの多様性に原因を求めることができる。すると、本質論を論じることは、人間の意識とはどういうものなのか、という極めて根源的な問いを立てることにほぼ等しい。ここでは、極めて戦略的に、不二一元論ヴェーダンタ、老荘、イスラームのイブン・アラビーの存在論、易学、南宋禅覚者たちの言行録、ユダヤのカッバーラ等など東洋系思想が縦横に引用展開される。それらの差異性、共通性などが目の当たりにできるようになるに従い、自身の思考内容を観照すべく読者の脳を刺激する。
 認識対象の存在の淵源を辿ろうとする先人たちが、如何にその絶対無分節的存在(ゼロポイント)を目指すために苦闘してきたのか、そして、そのゼロポイントから分節化された認識世界というものが如何に展開するのかを、同様に「分節化された」言語という極めて限定された手段で説明するのに苦闘してきたのかが、「本質論」になじみのなかった私のような素人でも想像できるようになっている。そしてこの先人たちのアプローチは、全人類的なものであったこともよくわかる。(それは日本においても例外ではない。)
 この「本質論」の多様性も、やはりゼロポイントが分節化していく展開の多様性を表しており、まさに絶対無分節的存在からの分節化が、「両界曼荼羅」特に金剛界曼荼羅がホログラフィックに展開しているような状況を呈しているといってよいだろう。
 そしてこの書が日本語で書かれたことは日本人にとって慶賀に堪えない。日本が世界に向かって誇ることのできる名著と思う。特に、これから禅を実践しようかと考えている読者にとって、本書がまたとない禅の入門書としての機能も十分に果たしうることを付記したい。

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投稿日:2018年07月26日
「意識と本質」井筒俊彦

事物の本質には二つの次元がある。一つはものの個体的実在性の結晶点。これは実在界に成立する。(個体的本質、フウィーヤ)もう一つは、ものの普遍的規定性。事実界の次元に成立する。(普遍的本質、マーヒーヤ)いずれを事物の真の本質と見るかによって、哲学の性格が大きく変わる。

バガヴァッド・ギーターの認識の三段解説
1.闇質的認識(ターマサ)。執心
愛憎に縛られた沈重な意識。ある一つの対象に、まるでそれが全てであるかのごとく、ただわけもなく、実在の真相を忘れて執著する狭隘な認識。
2.激質的認識(ラージャサ)。有心
現象的多者の間に動揺ただならぬ意識。個々別々の様々なものを個々別々に識別する認識。
3.純粋的認識(サーツトヴイカ)。無心
全存在界を究極的一者性において眺める純粋叡智の煌々たる光。あらゆる経験的事物のうちに、唯一なる不易不変の実在を見、分節された全てのもののうちに無分節の実在を見る。

人がある対象に愛着したり嫌悪を感じるのは、様々な事物が差別されて意識に映るからであり、事物が差別されるのは実在が様々な存在者として分節されるから。この見方は激質的認識。

「執心」は「有心」の基盤の上に初めて生起する「有心」そのものの派生態にすぎない。

「有心」は妄想分別、存在分節の境位。この境位に働く分節意識を人は「意識」と呼んでいる。存在分節は「有心」の決定的特徴であり、経験的事物を個々別々なものとして差別し、それらを個々別々に認識する意識。

人間の意識は有心段階では、必ず分節的意識である。分節的意識が作用しだすやいなや、存在の真相は無限の彼方に姿を隠す。つまり、分節意識が経験世界における人の普通の心の状態であるからには、その人は存在の真相を全く見てないという事に他ならない。

「至道は無難」では決してない。

楞伽経の意識三相説
1.転相
分裂した存在の主体的側面と客体的側面とが、一方は我意識、他方は意識から離れ独立した対象的事物の世界として確立され、経験的世界が現象する意識。存在リアリティを様々に分節し、無数の分割線を引いて個々別々の事物を現出させ、個々別々なものとして認知されたそれらの事物の間を転々と動き回る妄覚。
2.業相
絶対無分節的意識に内在する存在分節の性向に促されている時、主客の対立が現れる意識。
3.真相
絶対無分節的に実在を見る境地。「起信論」はこれを「心真如」とも呼ぶ。

禅は実在の無分節的真相を一挙に露現させようとする。

分節的意識である有心を人間の一般的な心の働きだとすれば、無心はメタ意識。

存在の絶対無分節と経験的分節との同時源成こそ、禅の存在論の中核をなす。

分節1(有本質的)→無分節→分節2(無本質的)

第一段階でそれぞれの分節に「本質」を与えられ、第二段階で分節も本質も全て奪われ、第三段階では本質のない分節が戻ってくる。

分節2である道元の「而今の山水」は現にそれぞれ山と川として分節されているにも関わらず、山である事、川である事から超出して自由自在に働いている(本質がない)。

我々が常識的に現実とか世界とか読んでいるものは、表層意識の見る世界であり、それが世界の唯一の現れ方ではない。深層意識にはそれ独特の全く別の見方があり、それは表層意識を狼狽させるような異様な形相で存在世界が現出する。

深層意識の存在分節は表層意識のそれとは全く違う。この深層意識の存在分節の基礎単位を「元型イマージュ」と言う。

普通の人は曼荼羅等の深層意識的絵画を見てもそれを表層意識で受け止め、理解するだけであり、たとえ鑑賞したとしても表層意識的に感激するだけ。深層意識の感応、協和は起こらない。

言語アラヤ識からのイマージュ生起を深層意識的事態として受け止められる人は、創造的想像力を持つ。

ヘブライ語では、言葉とモノは同じ。深層意識ではもともと一つと考える。カバラは存在世界の深秘構造を考える。

曼荼羅とは、正覚を得た人の深層意識に現れた一切存在者の真の形姿の図示。全存在世界の本質的元型的構造を形象的に呈示する深秘の象徴体系。

評価2.002.00投稿日:2018年05月19日
極めて難解。降参。「本質」について、東西や古今の宗教・哲学・様々な文化の立場から、どう捉えられていたのか、どう位置付けられていたのかが解説されている。人間はそのものの本質に基づいて、物を認識し、評価しようとするとうことか???背景となる仏教や哲学を理解しないとこの本はわからない。
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Posted by ブクログ 2016年02月26日
以前読んだ『マホメット』『イスラーム文化』の著者であり、東洋哲学者。また、イスラム研究家でもある井筒俊彦さんを読む。
他の方のレビューを拝見するととても評価が高くきっと素晴らしい本なんだろうと思い、つい手にとってしまったが、極めて難解である。
どれ程の知識を持ってすればこの様な本が書けるのか、改めて著者の天才ぶりに脱帽す。
本質は西洋哲学が有であるなら東洋哲学は無であり、それぞれは背景にある宗教的は排除出来ない。
p233より、
「ア」(a-)はサンスクリット語では否定を表わす接頭語である。「非×」、「不×」、「無×」、どんなものをもってきても、「あらず、あらず」とそれは言う。経験的事物、事象の一切をあますところなく否定する「ア」は、確かに無的、無化的性格をもつ。

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Posted by ブクログ 2015年04月09日
分厚い氷の上を滑るようだ。
p41 我々が何故に本質を求めるのか。もの事に同一性を認めることによって、既知とする。これによって、再利用が可能となり、(ある程度の)予知が可能となる。
p241 「神は世界を創造した」というのは、言語によって世界を表現したという理解でよいのか。世界を記述する表現の無限性...続きを読む

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Posted by ブクログ 2014年12月07日
サブタイトルは精神的東洋を索めて。

その精神的東洋について西洋という対象軸を明示しつつ論じている。今日的な通念=西洋的思考とは違う知の在り方が詳らかにされる。

東洋を知ることで、私たち日本人がいかに言葉至上主義的なロゴス的な西洋的思考で世の中を見ているかを思い知ることができる。東洋に身を置きながら、東洋的な思考態度を削り取られていることに気づく。もちろん、そのエッセンスは私たちの内奥に伏在している。よくも悪くも借り物のモノサシを当てがわれている。
イスラームがやはり自分としては興味深い。地球規模で考えるとおよそ4人に1人はムスリムという事実。これが何を意味するか。
カッバーラーも面白い。

西と東を縦横無尽に往来して知の舞台を賑やかに描き出してくれた著者に敬服。
★5つでは足りない。
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意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)
によって 井筒 俊彦

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫) mobiダウンロード - この美しい意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)の本をダウンロードして、後で読んでください。 この素晴らしい本を誰が書いたのか知りたいですか? はい、井筒 俊彦は意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)の作成者です。 この本は、いくつかのページページで構成されています。 岩波書店 (1991/8/8)は、意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)を公開する会社です。 1991/8/8は初めてのリリース日です。 今タイトルを読んでください、それは最も興味深いトピックです。 ただし、読む時間がない場合は、意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)をデバイスにダウンロードして、後で確認することができます。
内容紹介 東洋哲学の諸伝統の分析から得た根元的思想パターンを己れの身にひきうけて主体化し,その基盤の上に新しい哲学を生み出さなければならない.本書はこうした問題意識を独自の「共時的構造化」の方法によって展開した壮大な哲学的営為であって,その出発点には自分の実存の「根」が東洋にあるという著者の痛切な自覚があった. 内容(「BOOK」データベースより) 東洋哲学の諸伝統の分析から得た根元的思想パターンを己れの身にひきうけて主体化し、その基盤の上に新しい哲学を生み出さなければならない。本書はこうした問題意識を独自の「共時的構造化」の方法によって展開した壮大な哲学的営為であるが、その出発点には自分の実存の「根」が東洋にあるという著者の痛切な自覚があった。
ファイル名 : 意識と本質-精神的東洋を索めて-岩波文庫.pdf

以下は、意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)に関する最も有用なレビューの一部です。 この本を購入する/読むことを決定する前にこれを検討することができます。
言語的アラヤ識の本質に触れた気がする
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2018.05.31
全編を貫く「普遍」への意志 井筒俊彦「意識と本質」

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大澤真幸が読む
 本書は、人間の意識がどのように事物の本質を捉えるのか、ということについての考え方の違いを基準にして、イスラームやユダヤ教までも含む多様な東洋哲学を分類し、それらの間の位置関係を明らかにした書物である。東洋哲学全体の地図を作成しようとしているのだ。
 こんなことができるのは、まず井筒俊彦だけだ。井筒はイスラーム思想を中心にあらゆる東洋哲学に(実は西洋哲学にも)精通していた碩学(せきがく)中の碩学。井筒の前に井筒なく、井筒の後に井筒なし。こう言いたくなる。
 「本質」とは、「Xとは何か」という問いに対する(正しい)答えである。例えば「君主とは何か」への正解が「仁愛なり」なら、仁愛が君主の本質だ。
 だが、「正解」が簡単に見つかるわけではない。本書によると、その「見つけ方」に関して三つの考え方がある。瞑想(めいそう)の果ての直観や悟りなど深層の意識の働きを通じて本質を見極めることができるとするもの(朱子学など)。マンダラのようなイメージやシンボルを通じて本質を捉えられるとするもの(密教など)。事物に正しい言葉=名前を与えれば、普通の表層の意識で本質を認識できるとするもの(儒教の名実論など)。
 この分類を使うと、一応は第一の種類に入れられるが、この三分類そのものからあと一歩ではみ出すという極限にあるのが禅だとわかる。無心(意識の究極的原点)に至り、事物の本質など存在しないと悟れ、と説くのだから。本質と見えたものは、言葉による世界の区分け(分節)が生み出す錯覚だ、と。
 禅とは逆の極限が、カッバーラーと呼ばれるユダヤ教神秘思想。禅と反対に、本質がまさに言葉とともに無から創造されるとする。ただし、その場合の「言葉」は神の言葉である。
 こうした紹介から感じ取ってもらえるだろうか。本書を貫いている「普遍」への意志を、である。人類が蓄積してきたあらゆる知を総合して真理に迫ろうとする驚異的な野心。これに深く感動する=朝日新聞2017年6月11日掲載

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