[사회복지] [책] <케어의 사회학-당사자주권의 복지사회로>
우에노 치즈코
----
세진:
- 케어받는 인구의 증가에 따라 케어문제가 의료제도의 문제가 아니라 사회문제가 되어있다. 이 책은 한국에서는 페미니즘이나 위안부문제에 관계해서 알려저 있는 우에노 치즈코 교수의 다른 연구 분야인 케어의 사회학을 다룬다. 이 책에서는 케어의 문제를 케어하는 사람보다 케어받는 사람의 입장에서 보자는 시각을 취하고 있다. 그것이 "당사자", 그리고 그들의 "주권"이란다. 밑에서 보면 세상이 어떻게 보일까? 좋은 나라, 좋은 사회란, 약자들이 살기 좋은 나라인 것은 물론이다. 10년간 연구의 결과, 500페지, 라고 되어있다.
- 내가 이 분야에 관심을 갖게 된 것은 나의 어머니의 뇌졸증에 따른 병원생활과 재활 프로그람 등, 여러가지 결정을 하기 위해 공부하면서 몇년을 보낸데 있다. 그리고 몸이 불편한 호주 대학원생이 일본의 케어 시스템을 토픽으로 석사학위연구 논문을 쓰는데 지도를 한 것, 그리고 현재 아들이 호주의 케어 서비스 회사의 인사과에서 일을 하고 있는 것 등도 관계되어 있다.
- 호주에서의 은퇴후 생활에서 봉사활동 할 곳을 찾고 있는데, 오늘 나의 의사와 이야기 중에 어느 노인병원이 후보로 등장했다. 사회학을 하는 사람에게는 봉사는 당연히 필드워크로 여겨진다. 그 세계를 공부하여 글을 써야지 하고 생각하게 된다. 호주, 일본, 한국의 비교가 될 수도 있겠다.
- 완화치료 (palliative care)에 대해 공부하게 의학책도 한 권 구했다.
----
ケアの社会学――当事者主権の福祉社会へ
作者上野 千鶴子 (2011)
----
内容紹介
―超高齢社会における共助の思想と実践とは何か?!
―「ケア」関係における当事者主権とは何か?!
社会の高齢化が進む中で、今後ますます重要性を増してくる「ケア」の問題は、これまで十分に冷静な議論がなされてきたとは言えない。介護労働者が不足し、そのニーズが増す一方で、彼/彼女らの労働環境は、現在も低水準が維持され続けている。さらに「ケア」は家族の心情や道徳意識に強く働きかける領域であるが故に、主婦などの無償の奉仕労働として扱われがちである。こうした問題の批判的検討に加えて、本書はこれまでもっぱら「ケアする側」の立場から語られてきたこの問題を「ケアされる側」の立場から捉え返し、介護現場における「当事者主権」とは何かを明らかにする。
『家父長制と資本制』で切り開かれた家事労働論・再生産論をさらに先へと押し進めた、上野社会学の集大成にして新地平!!
調査期間10年、総計500ページ超!
【目次構成】
第Ⅰ部 ケアの主題化
第1章 ケアとは何か
第2章 ケアとは何であるべきか
第3章 当事者とは誰か
第Ⅱ部 「よいケア」とは何か
第4章 ケアに根拠はあるか
第5章 家族介護は「自然」か
第6章 ケアとはどんな労働か
第7章 ケアされるとはどんな経験か
第8章 「よいケア」とは何か
第Ⅲ部 協セクターへの期待
第9章 誰が介護を担うのか
第10章 市民事業体と参加型福祉
第11章 生協福祉
第12章 グリーンコープの福祉ワーカーズ・コレクティブ
第13章 生協のジェンダー編成
第14章 協セクターにおける先進ケアの実践
第15章 官セクターの成功と挫折
第16章 協セクターの優位性
第Ⅳ部 ケアの未来
第17章 ふたたびケア労働をめぐって
第18章 次世代福祉社会の構想
-----
5つ星のうち5.0希望の書
投稿者きよし2011年8月17日
形式: 単行本
大著である。学究の書である。今後の「ケア」「福祉社会」を論じる際の重要な基本図書である。
このレビューは、その書を通読してのものではない。どういう書かを探ってのものである。早く、一冊でも多く人々の手元に届いてほしいからである。
「あとがき」の冒頭に「本書は過去10年余にわたる介護保険下のケアの理論的・経験的研究の成果である」と書いてある。研究は机上よりも現場調査を基としている。調査は1999年から2007年までの足かけ八年にわたっているという。1997年の介護保険法成立、2000年の同法制度実施に絡んでの調査研究であり、制度実施10年に合わせての上梓であると言えよう。また、東大大学院教授退官、新生への記念出版でもある。
著者と福祉社会学の副田義也は、本書のゲラが出た上で2011年1月7日に長時間の対談を行い、『atプラス 07』(太田出版、2011年2月)に掲載した。26頁のその対談記録は、本書のよき解説であると同時に、その一部が本書に活用されて厚みを増しているようだ。
さらに本書の序とあとがきは、3月11日以降に執筆され、日本のケアの現状と日本社会の将来への見通しを記して本書を画期的なものとしている。
「初版への序文」という言葉を頭に置いた序は、「ケア―共助の思想と実践」と題されている。22頁に及ぶその序は、大震災で〈行政も警察も機能しなくなったとき、日本ではホッブズのいう「万人の万人に対する闘争」、弱肉強食の野蛮状態は現象しなかった〉とし、その理由は国民性や東北人の気質、血縁・地縁に求めず、「民主主義と市民社会の成熟の証しだと思えばよい」と指摘して理由を記している。つまりそこには「共助の思想と実践」が存在していたのだというのである。故に、「わたしたちが到達した社会はこのようなものだ。/希望を持ってよい。」と締めている。
なお、この「共助の思想と実践」というフレーズの「共助」は、「ケア」の同意語かと考えられる。最終章(第18章)の最終節には「ケアの思想と実践とは、超高齢社会を生きるすべての人々にとって必須の課題なのである」とある。私たちはその要に「共助」があると解してこれからの日本における福祉社会の構築に努めたい。
評者は78歳、まだ働いている連れ合いと暮らす昼間独居老人である。「良いケア」とは「個別ケア」だという本書第8章に同意しながら、「共助=ケア」にも同意すべく、少しの努力をして暮らしている。それにしても著者が今は「在宅ひとり死」を研究しているという「atプラス07」での発言に興味を持った。連れ合いと愚生とは、いずれは「在宅ひとり死」を生きることになるかもしれぬ。そこに、ケアなり共助なり、福祉社会の究極の現実があるのだと思う。
本書は、「希望の書」でもあるし、「大いなる問題の書」でもある。愚生が「第?版の序」を読めるかどうか分からないけれども、著者の自愛と精励とを祈念する。
------
5つ星のうち4.0当事者主権の真に望ましいケアとは?その担い手は?
投稿者キーコ2013年2月7日
かなり専門的・学術的で、さぁ〜っと読んで直観的に「腑に落ちる」ように理解できる本ではないが、誰にも身近な問題なので、読んでいくと読む人それぞれの問題意識にヒットする諸相が満載!
そこを学者はどう捉え論じているか、
行政関係者や、医療・介護・福祉に携わっている方々を初め、今のケアをめぐる制度に不安を感じているすべての方々にお薦めの本である。
ケアを担うべき4セクターとして
(1)官セクター(国家)
(2)民セクター(市場)
(3)協セクター(市民社会)
(4)私セクター(家族)
を挙げ、そのベストミックスを考えることが鍵であると論じている。
ジェンダー論(男女平等論)で高名な著者であるため、
「ケアの社会化」というと、イコール「ケアの責任を家族(特に女性)から国家へ」という論だと誤解されているきらいがあるが、
もはや、これからの超高齢社会を「女が家庭に帰って介護も担う」ことで解決できると主張する人はいないだろう。
まず4セクターの役割分担から考えていこうという点では、男女平等論者もそうでない人も意見が相反するものではない。
歴史的に、また現状においても、ケアの諸相に社会階層とジェンダーが大きく関与しているのは確かであるが、それは、職を持っているか否か、その収入が家計を支える割合という意味でであり、
・ケアを仕事にする男性も増え、
・家計における女性の稼ぎが占める率も高まり、
・専業主婦が少なくなる一方で、年金をベースに副収入のために働きたい高齢者が増える中では、
ジェンダーとして意識される面は低下していく。
よって、有償ボランティアや、介護NPOの低料金サービスについての、
<「当事者性」の原則にもとづいた精神から発してはいるものの、
実は、「お手伝いさんじゃないのよ」というプライドを保つための敢えて低い値段であり、
「中高年女性向けの非正規・非熟練労働の水準」に合わせた価格なのだ>
という鋭い分析は、もはや主婦層に向けてではなく、お元気高齢者が協セクターの担い手として働こうとする場合に、同じように、住民参加の「安上がり福祉」として官セクターの肩代わり・下請け化することへの危惧、とも読み換えられる。
自分自身、有償ボランティアをやってみて思ったように、やはり、「ちょっと気は遣うけど、その分安くて済むお手伝いさん」的な中身では、「今やっとけば、後で自分が必要になった時やってもらえる」といった保証でもない限り、やる気がしないのは確か。
ケアの中でも、「お世話」より、障害者の社会参加のための支援サービスに類似するようなサービス
(p.168〜p.185あたりに触れられているような、
高齢者には当事者としての主体意識が低いために、「ニーズ」とされないできて、
障害者自立支援法にはあっても介護保険では認められないサービス)
の方に、ボランティア(あるいは有償提供サービス)の中身がシフトしていくのではないかと思う。
そして、こういう対人コミュニケーションの質が問われるサービスに関しては、たとえ外国人労働者の参入が解禁になったとしても代替される心配も少ない。
医療・介護が一体となった包括的ケアの確立が急がれているが、公的に高水準に整備するのは難しい現況の下、協セクターへの期待は大きい。
筆者は、協セクターが官セクターの下請けになってしまわないように、税金の投入は育成支援にのみとどめるべきと主張されているが、私は、もっと積極的に協セクターにお金がまわる仕組みがあっていいのではないかと思う。
(ただし、
・内容ややり方をギチギチに規定しないで自由度を高くして
・当事者が選ぶサービスが残るように
・税金への依存率が「底上げ」程度で、事業者の儲けにはならないように)
もっとも、底上げなんか必要ないくらいに、高い費用を払っても利用者があるのなら、税金で補助する必要はないのだが、
民セクターにはできないアットホームな小規模なサービスを志向すると、どうしてもボランティアの人手に頼る部分が大きくなるのではないだろうか。
その一方で、
>弱者救済こそ真の意味の公的福祉、すなわち官セクターの役割であり、協セクターとは
役割分担すべきだろう。
(p.300より)
と筆者も述べておられるように、最低限の生活保持は、受益者負担にこだわらずに公的措置で守られるようにしていかないと、ゴミ屋敷や認知症者の行き倒れがあふれる世の中になってしまうだろう。
------
5つ星のうち5.0NPO、生協、行政による福祉経営の比較
投稿者加賀谷昌樹2013年5月26日
通常の3冊分の分量を超える(p475)ので、読み応え満点である。資金難に悩む NPO の経営に興味のある評者としては資金力のある生協の事例が勉強になった。近年ものづくりにおいては販売や差別化がむずかしくなり、また利益におけるサービスのウェイトが大きくなってきていることからサービス・サイエンスやサービス・マーケティングといった分野が注目を集めるようになってきているが、これらの分野の手法が福祉の分野にも活用できるのか今後の動向を見守りたい。
一番印象に残ったことは「多床室=活発な入居者間の交流」神話である(p195)。「入居者はほとんどの時間、同質者に対し背を向けた姿勢をとって過ごしている。同質者同士は交流するどころか、むしろ互いにかかわりを避けて生活している様子がうかび上がった」。大部屋の職場におけるストレスがどのようになっているのかの調査が知りたくなった。
第9章「誰が介護を担うのか」では国家/市場/市民社会/家族の各領域を管/民/協/私の4元モデルの採用と理由を説明している。4元モデルによる福祉多元社会においてそれぞれの領域がそれぞれ分担と協力をしながら「最適混合」を達成すればよい(p214)。福祉多元社会の「最適適合」についての現時点での最適解は、(1)私的セクターにおける選択の自由、(2)ケアの社会化については市場オプションを避けることが望ましく、(3)ケア負担については国家化が、(4)ケア労働については協セクターへの分配としている。
「NPO 批判」において、では、意義と理念を高く評価するために、実際の活動を理想化し、カリスマリーダーによる情報発信をうのみにした代弁者になりがちであることの問題を指摘。研究者には批判的な視点や、意図と効果のあいだのずれやねじれ、当事者に見えない死角を視野に収めることの必要性を訴える(p257-258)。「良い戦略、悪い戦略」はカリスマリーダーによって士気を高揚させ、自己犠牲を促す事例として少年十字軍を挙げている。
筆者は「福祉経営」の定義を「ケアの受け手とケアの与えて双方の利益が最大化するような、持続可能な事業の、ソフトとハード両面にわたる経営管理、市民と合意の資源の調達、および社会的設計の提案と実践」としている(p261)。
市民事業の特徴は運動であり事業であるという二重性をもっていることである。ほかの事業者を育てることに関して、近視眼的に見れば、ライバルを育てることになるが、長期的に見れば、社会的存在感を高め、連帯によって政治的発言力と行政との交渉力とを強化する戦略的行動である(p263)。
------