『初めての本 上座仏教 常識が一変する仏陀の教え』
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Alubomulle Sumanasara
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Theravada Buddhism (Sumanasara Classics) (Japanese Edition) Kindle Edition
Japanese Edition by Alubomulle Sumanasara (Author) Format: Kindle Edition
4.4 out of 5 stars 5 ratings
176 pages
Publisher : Evolving (November 24, 2017)
Publication date : November 24, 2017
「心の不思議な力」「人はなぜ苦しむのか」「だれでも幸福になる慈・悲・喜・捨の法則」「あなたの心を育てる方法」「明るく生きられる道」― スマナサーラ長老が明快に語ります!
目次
プロローグ ―固定概念にとらわれるな
第一章 心の不思議な力
◆心と体の関係を考える
◆唯物論の考え方
◆魂などありません
◆心と体は別々に働く
◆心と体――その六つの相互関係
◆神様がいるのなら宗教などいらない
◆心の速さは光の十七倍
◆心は体の支配者です
◆心はただ刺激をほしがっている
◆心は刺激のためなら殺人もする
◆あなたは無知で高慢です
第二章 人はなぜ苦しむのか
◆人間には知り尽くせない四つのことがら
◆自我というやっかいな概念
◆戦いは必ず負ける
◆心はとてもエゴイスト
◆苦しみの解決方法
◆エゴを隠すごまかしの技
◆悟りは自己観察から
◆生命はひとりでは生きていけない
◆敵をなくす慈悲のエネルギー
第三章 だれでも幸福になる慈・悲・喜・捨の法則
◆「自分さえよければ」という心でいると
◆「愛」はあいまいなもの
◆友情(慈)
◆抜苦(悲)
◆他の幸福を喜ぶ(喜)
◆平静心(捨)
◆人間は生きる目的など持っていない
◆どうして心はよくならないのか
◆自己愛が犯す罪
◆良く見える三つの性格
◆心の「OS」
第四章 あなたの心を育てる方法
◆幸福な心を作るためには
◆生命を平等と考えられるか
◆智慧の出現
◆命令は危険なやり方
◆すべての命を平等に見る方法
◆私というのはただの妄想
◆一番好きなのは自分です
◆悪口を言われたときの対処法
第五章 明るく生きられる道~ブッダの福音
◆システム化されている仏教の実践法
◆心はすぐに何かに頼りたがる
◆落ち込んだ心を直すには
◆愛情いっぱいの心ですべての生命を見る
◆最高の幸福が得られる実践方法
◆自分を守るための心の法則
◆心を直す画期的な方法
◆人間は完全ではない
◆心を育てるヴィパッサナー瞑想のすすめ
超越した道 ―あとがきにかえて
※『初めての本 上座仏教 常識が一変する仏陀の教え』は、一九九八年六月に大法輪閣から刊行されました。電子書籍化にあたって内容に再編集を加えました。
Customer reviews
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北海道のフーさん
5.0 out of 5 stars 仏教の本質が良く分かります。Reviewed in Japan on May 27, 2017
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上座仏教には、お釈迦さま本来の思想・哲学があると思います。
アルボムッレ スマナサーラ氏の解説は、とても良く分かります。勉強させていただきます。
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緑茶
5.0 out of 5 stars 心を育てる事の重要性Reviewed in Japan on November 25, 2009
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「悩み」「苦しみ」これらは常に人に付きまとっている。
どのような形で軽減させるかを考えている時に出会った1冊。
それまで“仏教”というものに特別な関心も無かったのだが、
この本に出会って生きる指針のような物が見つかった気がする。
「心を育てる」ことがいかに重要かを解りやすく説かれている。
生きる事の難しさにぶつかった時、是非手にして貰いたい本。
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北海道のフーさん
5.0 out of 5 stars 仏教の本質が良く分かります。
Reviewed in Japan on May 28, 2017
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上座仏教には、お釈迦さま本来の思想・哲学があると思います。
アルボムッレ スマナサーラ氏の解説は、とても良く分かります。勉強させていただきます。
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緑茶
5.0 out of 5 stars 心を育てる事の重要性
Reviewed in Japan on November 26, 2009
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「悩み」「苦しみ」これらは常に人に付きまとっている。
どのような形で軽減させるかを考えている時に出会った1冊。
それまで“仏教”というものに特別な関心も無かったのだが、
この本に出会って生きる指針のような物が見つかった気がする。
「心を育てる」ことがいかに重要かを解りやすく説かれている。
生きる事の難しさにぶつかった時、是非手にして貰いたい本。
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yuki0
5.0 out of 5 stars 次回も利用したい
Reviewed in Japan on September 28, 2014
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5、6回、マーケットプレイスで購入しましたが一番良かった。
機会があれば、次回も利用したい。
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akrtmd
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5.0 out of 5 stars 慈,悲、喜、捨の法則
Reviewed in Japan on July 22, 2018
誰もが幸福になる法則は慈、悲、喜、捨の精神だという。 釈迦は常に判断の基準を中道に置いたという。 法律が立法化していない古代において思想家が乱立して国家への採用を巡って激しい覇権争いをしていたという。 釈迦の聡明な社会の判断力が王たちを感服させて仏教を国教に押し上げたものとみられる。 釈迦仏教の特徴は霊魂の否定で無我である。 自分というものは妄想だという。 著者は唯物論よりも唯心論に近い立場をとる。 しかし説一切有部は無我法恒有を説く。 我は空であるが三世は実在すると主張した。
セイロンは分別説部であるが同様の我空法有を唱える。 釈迦はマガダ語をしゃべりパーリ語はしゃべらなかったとされる。 しかしこの両者は近縁語でパーリ仏典は本物とみなせる。 ヴィパッサナー瞑想が推奨されているが大乗仏教の止観とほぼ同様という。 部派仏教の乱立でその教義も多種多様となり信者は混乱するのみである。
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ドラゴンぱぱ
4.0 out of 5 stars 仏教の考え方についての良い本
Reviewed in Japan on June 24, 2018
スマサラーナ長老の書籍は、講演や対談などを書籍化されるもので、長老の話が記録されています。長老は仏陀や仏教の教えについて、よく例や比喩を交えて説明されます。
この説明は非常にわかりやすく、瞑想や無我など感覚的な世界を理解するに役立ちます。
他の坊主はこの様に噛み砕いて説明してくれませんので、長老の話は、仏陀や仏教から学ぶ、人としての生き方を知る手段になります。
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Amazonカスタマー
1.0 out of 5 stars 観察することができる心は観察の対象。認識主体の本来の自己・意識ではない。心は因果法則に従って状況に応じて自然に生じて滅する現象。意図的に私が作ったものではないので、私が意図的に変えることなどできない。
Reviewed in Japan on August 30, 2018
修行者の私、忍耐する私、戒律を守る私(戒禁取)、人格者の私などは思考が消える眠りととともに消滅し、起きると思考とともに生じる思考で生じた自己イメージの私、自我の錯覚、有身見の私です。
自己イメージの記憶が消えると、自分が誰だかわからなくなります。
眠ると修行者の私が消えたり、起きると修行者の私が現れたりするなら、それは自己ではなく、思考・概念・言葉などから生じた自己イメージの私、有身見の私そのものです。
認識主体の本来の自己・意識が観察することができる観察の対象になることはありません。
思考・イメージで生じた実体のない有身見の「修行者の私」が悟ることなどありえません。
自己は熟睡中の何も認識のない時でも常に存在して、生きています。
「私達は眠りの状態(スシュプティ)において身体や心と関係を持たずに存在しています。しかし目覚めと夢見の状態の中では身体や心と関係しています。もし私達が身体とともにあるというなら、どうして眠りの状態の中では身体なしに存在していたのでしょうか?私達は自分の外側にあるものから自分を分離することはできますが、自分と一つであるものから分離することはできません。それゆえ、自我は身体と一つではないのです。これが目覚めの状態において理解されなければなりません。アヴァスター・トラヤ(目覚め、夢見、深い眠りの三つの状態)を学ぶことによって得た確信をもとに、二つの合間を認識しなさい。」
「自我が姿を現すとき、それはあらゆるものをともなって現れ、自我が沈みゆくとき、すべてがそれとともに消え去るのです。」(あるがままに ― ラマナ・マハルシの教え)
心(思考や感情)は因果法則に従って状況に応じて私の意向とは関係なく自然に生じて滅する現象です。
私が意図的に作ったものではなく、状況に反応して自然に生じたものです。
状況に応じて怒りが生じて自然に滅し、新たに異なる感情が生じただけです。
私が変えたわけではありません。私が変えたと思っているだけです。
現象は因果法則に従って生じて滅して、「新たに生じる」前後際断が事実です。
既存のもの(怒りや欲)が何か別のものに「変化」したのではありません。
変化は完全な誤解です。
因果法則に従って自然に生じて滅する現象を私が変えることなどできないため「あるがまま」です。
覚者の智慧は思考のない身口意の沈黙・無心の「あるがまま」「無分別智」です。
釈迦牟尼とは釈迦族の沈黙の聖者の意です。
世間の科学や心理学、処世術の常識は思考による善悪判断の「分別知」です。
出世間の覚者の智慧ではありません。
有身見の私達は意図的な思考の「分別知」の修行目的で「私があるがままにする」です。
覚者の思考のない「あるがまま」は、思考による分別知の修行目標で「私があるがままにする」こととは別物です。
出世間の真理は世間の常識の処世術とは関係ないから出世間です。
「サマディーを養うための数十種に及ぶ瞑想のテクニックや、数多くの種類のヴィパッサナー瞑想があります。しかし、それらはいずれも「すべて、あるがままにいる」というこの原則へと戻ってくるのです。」(アーチャン・チャー 手放す生き方)
「もしあなたの探し物が、世間一般が価値をおくような知識だとしたら、それは真の「魂の教師」からは、決して得ることはできません。」(世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え エックハルト・トール)
怒らない私、慈悲深い私、執着しない私などは観察することができる観察の対象です。
認識主体の本来の自己・意識ではありません。
認識主体の本来の自己・意識が観察することができる観察の対象になることはありません。
観察することができる怒らない私、慈悲深い私は思考が消える眠りとともに消滅し、起きると思考とともに生じる自己イメージの私・自我の錯覚、有身見そのものです。
「グルがあなたに伝えることができるのは、ただひとつ ー あなたには自分自身について大きな誤解がある。あなたはあなたが自分だと考えるいるような者ではない。ニサルガダッタ・マハラジ」(ウンマニ・リザ・ハイド 愛のために死す)
「あなたの知らないものがあなただ。そしてあなたが自分だと思っているものは、あなたではない。」(意識に先立って ニサルガダッタ・マハラジ)
有身見とは、観察できる観察対象の身体と心を認識主体の本来の自己・意識と同一視した思考で生じた自己イメージの私、勘違いの私、自我の錯覚です。
観察対象の身体と心を認識主体の本来の自己・意識と同一視すると身体と心を持った独立した「個人の私」が存在するという勘違いが起こります。
身体が生まれて名前を付けられて、身体と心を持った世界から分離独立した「個人の私」と私以外の世界に分離していると誰でも自然に錯覚します。
無我とは認識できる観察対象の身心を認識主体の本来の自己・意識と同一視した「有身見の私」は認識主体の本来の自己では無い、「我では無い」、意識ではない、独立した個人という実体はない、全体と一つの不二、非二元、絶対的な一体性・ワンネスです。
「肉体との一体化を放棄して何が起こるかみなさい。」
「あなたがどんなに努力しても、あなたをさらなるトラブルに導くだけだろう。それゆえ、偽のアイデンティティではなく、この知識を受け入れなさい。あなたが存在しているのはこの知識ゆえだ。」(i意識に先立って ニサルガダッタ・マハラジ)
「衆生本来仏なり 水と氷りの如くにて」白隠禅師坐禅和讃
本来「あるがまま」で「仏・完全」でないなら、修行(原因)によって新たに生じた仏(結果)なら因果法則に従って必ず滅することになり、一瞥で終わり定着できません。
原因が有限なので、結果も当然有限です、永遠ではありえません。
一つでも例外があるというなら、他にも例外や嘘があるでしょう。
矛盾のつじつま合わせに他にも例外や噓が必要です。
悪行為による永遠の地獄も善行為による永遠の天国もあることでしょう。
仏・完全とは、初めも終わりもなく、あるがままで完全です。
南岳磨甎(なんがくません)。瓦を磨いても新たに鏡にすることはできない。(仏でないものを、新たに仏にすることなどできない。)
「ブッダは実はインドで悟りを開かなかったのです。実際にはブッダは決して悟りを開かず、生まれることなく、死ぬこともありません。この、時を超えたブッダこそが、私達の本当の家であり、不変の空間なのです。ブッダ、ダルマ、サンガの三宝に帰依するとき、私達はこの世のすべての物事から解放されます。三宝は私たちの師となり、ただ一つの生命の真の姿を明示しているのです。」(アーチャン・チャー 手放す生き方)
例外が一つでもあるというなら、仏陀の因果法則の完全否定です。
人格完成のため修行をしてきただけでなく、その上さらに、真理を一瞥しても意図的な修行をする有身見の「修行者の私」が、覚りの定着の障害になるので、見性後の悟後の修行「聖胎長養」で思考のない身口意の沈黙・無心の無分別智の「あるがまま」に戻って覚りの一円相が完結します。
「当処即ち蓮華国 この身即ち仏なり」白隠禅師坐禅和讃
「実現というのは新しく獲得される何かではない。それはすでにそこにある。必要なことのすべては「私は実現していない」という想いを追い払うことである。」(ラマナ・マハリシの教え)
現象のあるがままの完全・仏を疑うことが「疑」です。
仏・ブッダの「言葉の教え」を疑うことではありません。
百聞は一見に如かず。真理は言葉で語れません。最初から「真理の言葉」など存在しません。
愛も悲しみも、絶望も語れません。お茶の味すら語ることはできません。
真理「に関して」「について」言及するのがせいぜいです。
古い経典が「真理」ということではありません。
最初から真理の言葉など存在しません。経典は月をさす指、参考です。
直接体験の真理「そのもの」を、たとえブッダでも言葉で語ることなどできません。
真理に「ついて」「関して」語った言葉の経典は、最初から真理「そのもの」ではありません。
真理「に関して」一度でも語ってしまうと、真理「そのもの」ではないので、その言葉の補足・修正が必ず必要になり、その後も補足訂正が必要なので切りがなく、八万四千の経典が出来て、対機説法をするハメになりました。
「釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな」一休宗純
「言葉というものは「道標」に過ぎません。それらが差し示すゴールは、思考の次元では、見つけることができないのです。」
「真実をおおい隠している「壁」を取り除くのを手助けする。それが魂の教師の唯一の仕事です。」
(世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え エックハルト・トール)
農民以上のカーストの男性でないと出家できないスリランカ仏教(分別説部)シャム派は、善悪の分別判断の絶対基準であるパーリ経典が布教をする上で教団存続の生命線です。
ブッダの話した「言語」がパーリ語だから「パーリ経典が仏陀の真理の言葉」で他の言語の経典は偽教典だと宣伝して布教するのは、パーリ経典が「真理の言葉・教え」かどうかは教団の存続に関わる生命線だからです。
パーリ語はお釈迦様の行ったことのない西インドの言語です。
お釈迦様が生まれて布教をした北東インドのマガダ語圏でパーリ語を話すわけがありません。
証拠もないのに、仏陀の誕生と成道と涅槃を同じ日にしてしまうようないい加減な人たちに、2500年も前、紀元前の言い伝えの口伝が元の教えを一字一句違わず伝えられると本当に思いますか。
大乗仏教、般若心経、以心伝心、教外別伝、不立文字等が教える「真理は言葉では語れない」という事実は、パーリ経典が唯一の仏陀の語った「真理の言葉・教え」だと主張するスリランカ仏教(分別説部)教団にとって、布教する上で決して認めることができない不都合な真実です。
「真理はたとえブッダでも語ることはできないのに、ダンマパダ(真理の言葉)」
現実歪曲空間に要注意です。
日本の覚者は直訳の真理の言葉ではなく、法句経です。
農民以上のカーストの男性でないと出家できないスリランカ仏教(分別説部)シャム派は、有身見(差別する私、観察する私、理解する私、分別判断する私等)がパーリ経典を絶対基準に善悪を分別判断する分別知の教えです。
世間の常識と同じ私の「分別知」なので、修行をせずに本を読んだだけで誰でも常識だけですぐに理解できますが、覚者の思考の無い出世間の「無分別智の真理」を有身見の私の思考による「分別知の理性」で理解するなど、とうてい不可能です。
言葉の繰り返しによる自己催眠の慈悲の瞑想は、カースト差別には何の慈悲もない偽り、偽善の慈悲を自ら証明しています。
農民よりも下のカーストは生きとし生ける者にも入りません。
自他の区別・境界・分離は思考によって生じた概念で、現象世界すべてのものは自然全体の一部で境界・区別は錯覚・誤解という智慧の現れ、表現が慈悲です。
慈悲と智慧は表裏一体、同じものです。
お母さんと赤ちゃんのように他者の存在しない「一心同体」自他の区別などありません。
自他の区別のある上から目線の「慈悲深い私」と「真理を知らないかわいそうな生きとし生ける者」に分離した偽善の慈悲ではありません。
慈悲の象徴でもある千手千眼観自在菩薩の手の平には智慧の眼が描かれています。
「自己(個人としての「自分」)が不在なときには、他者は存在せず、あなた方すべての中に自分自身が映し出されているのを私は見る」
「どんな「自分」も、どんな「あなた」もいない。つまり、そういったどんな実体も存在しえたことが一度もない。」
「何かをする?絶対的に何もない。ただ一時的なものを一時的なものとして、現実でないものを現実でないものとして、偽物を偽物として見れば、あなたは自分の本質を理解することだろう。」
(ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの ラメッシ・バルセカール)
問題は偽りの慈悲を育て続けて保持している限り、偽りが真の慈悲に変化することなどなく、偽りのままです。
因果法則は「生じた現象が滅して、新たに現象が生じる」前後際断が事実です。
既存の現象が「変化」することではありません。完全な誤解、錯覚です。
偽りの思考が滅しない限り、偽りの思考のままです。偽りの思考が消滅する必要があります。
偽りの思考を育てて保持しているため永久に「偽善の慈悲」を強化・保持し囚われることになる、エゴトリップ・巧妙な罠です。
暗闇で縄を蛇だと勘違いの思考を保持し育てている限り、縄という正しい理解の思考は永久に生じません。
イミテーションゴールドが本物の金に変化することは永久にありません。
お釈迦様の行ったことのない西インドの言語のパーリ経典でさえも慈悲の言葉を唱えるようと書いてあるものなどないことにも留意するべきです。
慈悲の言葉のバージョンも解釈も勝手に作り放題です。
偽りの思考を保持し育てることが覚りの障害そのものです。決して偽物が本物に変化することはありません。
自他の区別のあるカースト差別はそのままの「大衆」の教えではない上から目線のカースト上位の「上座部」仏教です。
タイ森林派の阿羅漢と言われたアーチャン・チャーは、「手放す生き方」の中で、言葉を繰り返す慈悲の瞑想を「子供の遊び」と評しています。
「偽物を偽物と理解しなさい。それがあなたにできるすべてだ。あなたはあるものを別のものに変えることはできない。」
(意識に先立って ニサルガダッタ・マハラジ)
「あなたの中に「私はどうあるべきか」という理想を、とても深く植え付けてしまった。それで、あなたは常に「私はどうあるべきか」という理想が気になって、自分が誰なのかを忘れてしまった。あなたは未来の理想に取り憑かれて、現在のリアリティーを忘れてしまった。
あなたの目は遠い未来に焦点が当たっている。それゆえ、それは内側には向かない。あなたは常に何をすべきか、それをどうすべきか、これはどうあるべきか、ということばかり考えている。あなたの言語は、べき(should)や、ねばならない(ought)になってしまった。そして、リアリティーはある(is)だけでできている。リアリティーはべきもねばならないも知らない。」
「人間だけが、理想やべきがある。「あなたはこうあるべきだ。ああであるべきだ」と・・・・・・それでは、あなたは自分自身のあるに反して分裂してしまう。べきとあるは互いに敵同士だ。そして、あなたはあなたである他にあり様がない。」
「あなたは本来のあなたであることができるだけであって、何か他のものでは決してないということを。一度、この真理、「私は自分自身である以外ない。」ということが深く浸透したら、すべての理想が消えてしまう。それは自動的になくなってしまう。そして、理想がなくなった時、リアリティーと出会う。その時、あなたの目は今ここに向いている。その時、あなたはあなたであるものにとって現在だ。分断が、分裂がなくなってしまった。あなたは一つだ。」(ユニオ・ミスティカ OSHO)
テーラワーダー仏教の目指す涅槃とは輪廻転生しない死のことです。
お試しはあり得ません。
サマタ瞑想をするならクンダリニー症候群等に注意が必要です。発狂することもあります。
クンダリニーが覚醒すると後戻りは不可能です。ヨーガの達人以外は制御も不可能です。
「瞑想は、人が実験や娯楽としてただ何が起こるのかを見るために、中途半端に手を出すことができるものではない。それに対してはある種の予備的準備が必要である。意識は現象世界の全顕現の基盤である。意識以上に大きなパワーはこの地上にはない。だから、もし人がそれをいじくりまわせば、どんな結果が出て来るのか、予測するのは不可能で、肉体ー精神レベルで深刻なトラブルも起こり得るかもしれない。その単純な理由とは、あなたの場合、自分自身を肉体から切り離すためにそれ以前に何の準備もなかったからだ。もし高電圧の電流が、それを受け取るほど強くない受信機の中に突然流入したら、どうなるだろうか?」
(ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの ラメッシ・バルセカール)
スリランカでは、16世紀以降の植民地化で仏教が衰え、18世紀からタイやビルマの仏教を介して上座部仏教を復興したものです。
教えが2500年前の紀元前から直にスリランカに伝えられたものではありません。
パーリ経典は「私はこのように聞きました」と書いてある名前の書いてない誰かの聞き書きで、2500年前、紀元前の元は口伝による言い伝えです。
著者はお釈迦様がパーリ語を話した、ヴィパッサナーと名づけたと証拠もないのに勝手に宣伝して布教していますが、パーリ語はお釈迦様の行ったことのない西インドの言語です。
パーリ経典にヴィパッサナーという言葉はありません。
パーリ経典は2500年前の言い伝えの口伝が元で忘れるから覚えやすいように最初から編さんされています。
仏陀が説いた、私が聞いたと書いてあるだけで、後世に編さんや追加が何度もあります。
追加変更がないなら、散逸しないなら、忘れないなら、そもそも編さんし直す必要などありません。
「千の質問も、たくさんの瞑想法の知識も、自分を決して真理へと導かないということを知るようになる。」
「ダルマは限定的な世俗の科学による理解を超えた智慧です。」
「表面的な経典の学習は重要ではありません。正しい智慧を授けてくれるものではないのです。」
「自分自身の内面に向き合わないのなら、現実を知ることはありません。」
(アーチャン・チャー 手放す生き方)
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東方之猪
5.0 out of 5 stars スマナサーラ長老の語る上座部仏教の本の一冊目に
Reviewed in Japan on August 31, 2008
スマナサーラ長老の本というといろんな悩みに基づいて何冊も、シリーズ物などで出ていますが、上座部仏教について主なところを知りたい!という方であれば、この本が手っ取り早いのではないかと思います。(「初めての本-上座仏教」という題名そのまま!)
何冊か読んでみての素直な感想です。出版されて、このレビューを書いている現在10年経過していますが、特に古いとは感じませんよ。
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eihile
1.0 out of 5 stars 全体的に粗く、期待外れ。
Reviewed in Japan on June 2, 2018
講義録ということである程度は仕方ないかもしれないが、論理的な整合性がとれていないように感じられた。単純、短絡的な人間観から教育や家庭について言っているので、それらも的外れなものになっている。
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