2021/04/29

賢い人 愚かな人 ― 人生を克服する34の智慧 Sumanasara Amazon E

A wise person a foolish person (Sumanasara Classics) (Japanese Edition) eBook: Alubomulle Sumanasara: Amazon.com.au: Kindle Store
賢い人 愚かな人 ― 人生を克服する34の智慧 (スマナサーラ長老クラシックス) Kindle Edition
by アルボムッレ・スマナサーラ  (著)  Format: Kindle Edition


どんな苦労もうまく乗り越えて幸せに生きられる方法とは?
私たちがぶつかる人生の困難をブッダの智慧で乗り越える

※本書は2013年に大法輪閣より刊行された同名書を、加筆・修正のうえ電子化したものです。

もくじ

はじめに
第一章 愚か者を理解する
「身体と幻」 ▼▽執着から離れ平安な心を得る
「他人ばかり観(み)たがる心」 ▼▽客観的判断はあり得るか
「人生の目的」 ▼▽生きることは本番のないリハーサルか
「人生の目的」PART2 ▼▽一切の束縛から逃れるために
「愚か者」とは誰のことか ▼▽悟りを開いていない人はみな「愚か者」
「いい影響・悪い影響」 ▼▽「愚か者」にならないために
「悩み、苦しみ」を諦められる ▼▽解決方法のない悩みは悩まない
「賢者への道」 ▼▽不完全であると気づくこと
「愚か者」もいろいろ ▼▽正しい行動からは苦しみは生まれない
無知から生まれるわざわい ▼▽正しくない行動は良い結果を生まない
人格と性格は変えられる ▼▽環境から受ける影響は大きい

第2章 「賢者」を理解する
賢者人間入門【1】 ▼▽要は心の発展にある
賢者人間入門【2】 ▼▽感情に支配されず感情を支配する
賢者人間入門【3】 ▼▽喜びとは真理を知ることである
賢者人間入門【4】 ▼▽ネガティブ人間からポジティブ人間へ
聖者(阿羅漢)の心【1】 ▼▽すべての束縛の繋ぎ・絡まりから逃れ出るために
聖者(阿羅漢)の心【2】 ▼▽真の自由人間への道
聖者(阿羅漢)の心【3】 ▼▽たまったゴミは捨てましょう
聖者(阿羅漢)の心【4】 ▼▽落ち着け、落ち着け

第三章 「賢者」を目指す
実る生き方【1】 ▼▽最後まで諦めない
実る生き方【2】 ▼▽明日では遅すぎる
本気でチャレンジ ▼▽されど競争相手は作るな
競争での勝利は勝利にあらず ▼▽必要に迫られても悪は正当化できません
「祈り」は宗教とは無関係 ▼▽幸福を願うなら聖者に道を学びなさい
「祈り」より正しい人間関係 ▼▽和を守る行動も仏教の道徳です
「死ぬのは怖い?」 ▼▽生きるだけが能じゃない
「怖がる者は武器を持つ」 ▼▽空虚な勇気より、自信がない方が健全
「落ち込むのは人間の本性」 ▼▽良い目的はやる気を持続させる

第四章 「幸せ」をつかむ
「生きることは爆弾遊びか」 ▼▽無常を知る者は人生を知る
「悪は心の趣味です」 ▼▽勇者のみ善を行う
「心は癖で行動する」 ▼▽心に良い習慣をつけないと自由になりません
「目先の楽しみは、後の落とし穴」 ▼▽人類の本質は過ちを犯すこと
「ギネス記録症候群」 ▼▽小さな善行為がすべての始まり
「危険を抱きしめるべからず」 ▼▽幸福は心次第

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こがねの いずみ
TOP 100 REVIEWER
4.0 out of 5 stars いつかは賢い人になりたい人に
Reviewed in Japan on December 17, 2018
ここでいう『賢い人』は解脱を体験した人。『愚か者』とは我々ごく自然な在り方でいる人。ほぼ全ての人が愚か者と定義されます。
人は仕事や社会的地位や富を追求するのは、自分の身体を守るためにやっていると著者はいいます。
自分の身体を守って生老病死に抗おうとしているうちは、愚か者です。
まだ達観できない私は愚か者として読み進めました。

『人は自分の行動が速いと自慢気に思っていますが、普段の行動も速いとは思いません。(中略)悩むため、また妄想するためにも、結構時間が必要ですから、あせらなければ行動できなくなっているのです。』

行動がスローでもきちんと確認しながら落ち着いて行動する方が、結果的に効率的にストレスなく物事が進められると著者は言います。
確かにいつも時間に追われているときは、頭の中がいろんなことでいっぱいになっていました。
ムダな時間の方が明らかに多いです。
速いことを自慢げに言うのはやめようと反省しました。
確認しながらひとつひとつきちんと取り組みたいと思います。

仏教からまだまだ教わることが多いです。
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Amazonカスタマー
1.0 out of 5 stars 愚か者とは思考で生じた観察できる観察対象の「有身見の私」を自己と錯覚。認識主体の本来の自己・意識が観察可能な観察対象にはならない。賢者は思考で生じた有身見の私を知らない「不識」
Reviewed in Japan on October 16, 2020
観察できる怒らない私、慈悲深い私、執着しない私、愚かな私、賢い私などは、思考で生じた観察対象で、認識主体の本来の自己・意識ではありません。
思考が消える眠りとともに消滅し、起きると思考とともに現れる思考で生じた観察対象のイメージの私、自我の錯覚「有身見の私」です。
有身見とは、観察できる対象の身体と心を認識主体の本来の自己・意識と同一視した思考で生じたイメージの私、勘違いの私、自我の錯覚です。
認識主体の本来の自己・意識が観察できる観察の対象になることはありません。
観察には、認識主体と観察対象の客体の二元性が必要です。
観察できる怒らない私、慈悲の私、執着しない私、愚かな私、賢い私などは思考で生じたイメージの私、有身見の私そのものです。
思考で生じた観察可能な観察対象の「有身見の私」を自己だと勘違いしている私達は愚か者です。
覚者の智慧は思考のない身口意の沈黙・無心のあるがまま「無分別智」です。
思考のない無分別智の賢者・覚者は観察できる思考で生じた「有身見の私を知らない」、私が何者かを知らない「不識」です。

「グルがあなたに伝えることができるのは、ただひとつ ー あなたには自分自身について大きな誤解がある。あなたはあなたが自分だと考えるいるような者ではない。ニサルガダッタ・マハラジ」(ウンマニ・リザ・ハイド 愛のために死す)
「肉体との一体化を放棄して何が起こるかみなさい。」
「あなたがどんなに努力しても、あなたをさらなるトラブルに導くだけだろう。それゆえ、偽のアイデンティティではなく、この知識を受け入れなさい。あなたが存在しているのはこの知識ゆえだ。」(ニサルガダッタ・マハラジ 意識に先立って)
「瞑想とは知らないということ。」(クリシュナムルティ)

観察対象の身体と心を認識主体の本来の自己・意識と同一視すると身体と心を持った現象世界から独立した「個人の私」が存在するという勘違いが起こります。
身体が生まれて名前を付けられて、身体と心を持った「個人の私」と私以外の世界に分離独立していると誰でも自然に錯覚します。
無我とは観察できる観察対象の身心を認識主体の本来の自己・意識と同一視した思考で生じた「有身見の私」は本来の自己では無い、「我では無い」、意識ではない、世界から独立した個人という実体はない、不二、非二元、絶対的な一体性・ワンネスということです。

「「秘密」とは分離がないということです。ところがそのことは、自分は誰かだと信じている間は秘密のままです。」(オープン・シークレット トニー・パーソンズ)
「自他を超え一つになって勉強するしかないですね。先人たちは本当に夜に日をついで、ただこの1点を中心に修行したんです。」
「自分がすっかりいなくなりましたってことが、わかる間は駄目なんです。見てるんです。看てるんです。どこかで見ている自分がまだいるんです。これが多いんです。」(げんにーび: 正法眼蔵「現成公案」提唱録 井上貫道老師)

思考が消える眠りとともに消滅し、起きると思考とともに現れる有身見の「私」ではなく、何も認識をしていない熟睡中も存在して生きている「私」の正体、意識がどこから生じてくるのか、その源泉・故郷を知ることが必要なことです。
「仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」 (道元禅師 正法眼蔵)
意識が観察対象の身体と心を認識しないと「自己=有身見の私」が消えて意識のみになります。
観察対象が消えると自他の区別・分離が消えて、全体と一つの本来の自己・意識のみ、「存在の自覚」、身心脱落・脱落身心=有身見の消滅です。
熟睡中はサマディーの至福ですが、意識の自覚がないだけの休眠状態です。
ブッダは身体は寝ていても意識以前に存在する純粋な気づき、夢も見ない「目覚めた方」です。
私達は起きている時は意識が身体の感覚を使って外側を認識するので、身体に制限されます。
意識が身体と感覚を手放して意識の内側に入つていくことがありませんので、意識以前に存在する純粋な気づきのない、起きている時はいつも思考・概念で一杯の有身見の私の夢の中です。

「衆生本来仏なり 水と氷りのごとくにて」白隠禅師坐禅和讃。
完全(仏)でないものが、修行が原因で新たに完全(仏)になるということはありえません。
意図的な修行が原因で生じた結果の覚りは、因果法則に従って必ず消滅する、真理の一瞥で終わり定着できません。
原因が有限なので、当然結果も有限です。永遠とは原因がなく始めも終わりもなく永遠です。
本来そのままで「仏・完全」でないなら、新たに生じた結果の仏・完全なら因果法則に従って必ず消滅します。
仏・完全とは、始めも終わりもなく、あるがままで完全です。
「あるがまま=全体と調和して生きる」でいることに、本来、意図的な努力はありません。
一つでも例外や嘘があるなら、他にもあるでしょう。
例外や嘘のつじつま合わせに他にも例外や嘘が必要になります。

氷(個)は水(全体)から名称と形態が「生じ」、生じた氷(個)は水(全体)に融け去って「滅し」、全体と一つになります。
個の名称と形態が生じる以前、身体が生まれる以前の名前も身体もない全体・根源・故郷に帰ることが必要です。
真理を一瞥しても意図的な修行をする有身見の私(個)が、障害になって目覚めが定着できないので、悟後の修行「聖胎長養」で元の無心・沈黙の無分別智の「あるがまま」の「全体」に戻って覚りの一円相が完結します。
有身見の私たちは、意図的な思考の分別知の修行目標で、「私(個)があるがままにする」です。

「実現というのは新しく獲得される何かではない。それはすでにそこにある。必要なことのすべては「私は実現していない」という想いを追い払うことである。」(ラマナ・マハリシの教え)
「ブッダは実はインドで悟りを開かなかったのです。実際にはブッダは決して悟りを開かず、生まれることなく、死ぬこともありません。この、時を超えたブッダこそが、私達の本当の家であり、不変の空間なのです。ブッダ、ダルマ、サンガの三宝に帰依するとき、私達はこの世のすべての物事から解放されます。三宝は私たちの師となり、ただ一つの生命の真の姿を明示しているのです。」(アーチャン・チャー 手放す生き方)

あるがままの完全を疑うことが「疑」です。ブッダの言葉を疑うことではありません。
真理を言葉で語ることなどできません。たとえ仏陀でも真理「そのもの」は語れません。
「百聞は一見にしかず」。愛も悲しみも、絶望も語れません。お茶の味すら語ることはできません。
真理「に関して」「について」言及するのがせいぜいです。
真理「に関して」一度でも語ってしまうと、真理「そのもの」ではないので、その言葉の補足修正が必ず必要になり、その後もその補足訂正が必要なので切りがなく、八万四千の経典が出来て対機説法をするハメになりました。
「釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな」一休宗純

スリランカ仏教(分別説部)シャム派は、善悪の分別判断の絶対基準であるパーリ経典が教団存続の生命線です。
ブッダの話した「言語」がパーリ語だから「パーリ経典が仏陀の真理の言葉」で他の言語の経典は偽教典だと主張するのは、パーリ経典が真理の言葉かどうかは教団の存続に関わる生命線だからです。
そもそもパーリ語はお釈迦様の行ったことのない西インドの言語です。
布教をした北東インドのマガダ語圏でパーリ語を話すわけがありません。
大乗仏教、般若心経、以心伝心、教外別伝、不立文字等が教える「真理は言葉では語れない」という事実は、パーリ経典が唯一の仏陀の語った「真理の言葉」だと主張するスリランカ仏教(分別説部)教団にとって、決して認めることができない不都合な真実です。
「真理はたとえブッダでも語ることはできないのに、ダンマパダ(真理の言葉)」。現実歪曲空間に要注意です。

農民以上のカーストで男性でないと出家できないスリランカ仏教(分別説部)シャム派は、有身見(差別する私、観察する私、理解する私、分別判断する私等)がパーリ経典を絶対基準に善悪を分別判断する分別知の教えです。
世間の常識と同じ分別知なので、修行をせずに本を読んだだけで誰でも常識だけですぐに理解できますが、
覚者の「無分別智の真理」を常識と同じ分別知の理性で理解することなど、とうてい不可能です。

言葉の繰り返しによる自己催眠の慈悲の瞑想は、カースト差別には何の慈悲もない偽り、偽善の慈悲を自ら証明しています。
農民よりも下のカーストは生きとし生ける者にも入りません。
自他の区別・境界・分離は思考によって生じたもので、現象世界すべてのものは自然全体の一部で境界・区別は錯覚という智慧の現れが慈悲です。
慈悲と智慧は表裏一体、同じものです。
お母さんと赤ちゃんのように「一心同体」自他の区別などありません。
自他の区別のある上から目線の個人の私と生きとしきる者に分離した偽善の慈悲ではありません。
慈悲の象徴でもある千手千眼観自在菩薩の手の平には智慧の眼が描かれています。

問題は偽りの慈悲を育て続けている限り、偽りが真の慈悲に変化することなどなく、偽りのままです。
因果法則は「生じた現象が滅して、新たに現象が生じる」前後際断が事実です。
既存の現象が「変化」することではありません。完全な誤解、錯覚です。
偽りが滅しない限り、偽りのままです。偽りが消滅する必要があります。
偽りを育てて保持しているため永久に「偽善の慈悲」を強化・保持し囚われることになる、エゴトリップ・巧妙な罠です。
暗闇で縄を蛇だと勘違いの思考を保持し育てている限り、縄という正しい理解の思考は永久に生じません。
イミテーションゴールドが本物の金に変化することは永久にありません。
お釈迦様の行ったことのない西インドの言語のパーリ経典でさえも慈悲の言葉を唱えるようと書いてあるものなどないことにも留意するべきです。
慈悲の言葉のバージョンも解釈も勝手に作り放題です。
偽物を保持し育てることが覚りの障害そのものです。決して偽物が本物に変化することはありません。
自他の区別のあるカースト差別はそのままの「大衆」の教えではない上から目線のカースト上位の「上座部」仏教です。

「偽物を偽物と理解しなさい。それがあなたにできるすべてだ。あなたはあるものを別のものに変えることはできない。」
(意識に先立って ニサルガダッタ・マハラジ)

パーリ語はお釈迦様の行ったことのない西インドの言語です。
お釈迦様が生まれて布教をした北東インドのマガダ語圏で、行ったことのない西インドの言語のパーリ語を話すわけがありません。
証拠もないのに、仏陀の誕生と成道と涅槃を同じ日にしてしまうようないい加減な人たちに、2500年も前の言い伝えの口伝が元の教えを一字一句違わず伝えられると本当に思いますか。

「千の質問も、たくさんの瞑想法の知識も、自分を決して真理へと導かないということを知るようになる。」
「ダルマは限定的な世俗の科学による理解を超えた智慧です。」
「表面的な経典の学習は重要ではありません。正しい智慧を授けてくれるものではないのです。」
「自分自身の内面に向き合わないのなら、現実を知ることはありません。」
「三宝は私たちの師となり、ただ一つの生命の真の姿を明示しているのです。」
(アーチャン・チャー 手放す生き方)
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