2023/04/23

公共哲学とは何か 山脇 直司

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特集/持続可能な福祉社会に向けた公共研究拠点
【基調報告―――2】
公共哲学とは何か
東京大学大学院総合文化研究科教授  山脇 直司

1.公共哲学(public philosophy)という学問の由来と射程の拡大.
 ご紹介に預かりました山脇直司と申します。私は現在、東京大学の駒場キャンパスにあります大学院総合文化研究科に所属していますが、千葉大学の小林正弥先生とは数年前から公共哲学研究会などを通して、たびたび協働致しております。それと、『公共哲学とは何か』というちくま新書を最近出版したということで、今日お話しするということになったのだろうと察します。
 ところで最近、東大の本郷キャンパスには公共政策大学院ができて注目を浴びていますけれども、私はそこにはコミットしておりません。むしろ少し冷ややかな目で見ておりまして、公共哲学を重んぜず、テクニカルな政策論に終始して、悪い意味で日本の官僚文化を補完するような大学院になるのではないかと危惧している次第です。ですから今日は、外部から千葉大の公共研究にエールを送りたいというスタンスでお話させていただきたいと思います。
 公共哲学という学問の制度化.
 「公共哲学」という言葉が最近流行り始めました。インターネットで検索しますとかなり多くの関連事項が出てきます。瞬く間にあちこちの大学に公共哲学科目が新設された感があります。私の場合、1996 年に東大駒場キャンパスの教養学部のカリキュラムが改組され、大学院総合文化研究科も改組されたのを機に、「公共哲学」という科目を初めて担当することになりました。そのとき、私の念頭に浮かんだのは、ロバート・ベラーの『心の習慣』(邦訳、みすず書房)の付録「公共哲学としての社会科学」のイメージでして、まさに理念やヴィジョンと社会研究を統合する学問として公共哲学を捉えたわけです。
 それから 10 年近く経ちますけど、あちこちに公共哲学という科目ができています。ここ千葉大学がそうですし、中央大学大学院の公共政策研究科でも必修科目となっているようです。早稲田大学は政経学部というタコツボの状態を打破するために、政経学部の中に国際政治経済学科を創設し、そこで公共哲学を必修科目の一つにしたとホームページに出ていました。あとは、学習院大学法学部にも公共哲学という科目があり、さきほど冷ややかな眼で見ていると話した本郷のキャンパスでも、法哲学の井上達夫先生が「公共哲学と法」という科目を担当することになったようです。こうして、公共哲学という「新たな学問の制度化」が現在進行中といってよいかと思います。
 ではなぜこのようなことが起こり始めているかというと、私の考えでは、やはり「政策と理念を統合」する必要が高まっているからだと思います。経験的研究からは直接導出できない哲学的な理念とヴィジョン、それと政策を統合したいというニーズがあちこちに起こり、それに見合って公共哲学という科目ができてきたのではないかと察しています。
 ドイツ語やフランス語に直訳できない public.
 前置きはそれくらいにしまして、私は先ほど申しましたように『公共哲学とは何か』というちくま新書を出しましたが、その反応をインターネットで検索してみました。すると、あちこち思わぬところで Blog などに読後感が書き込まれているのを見つけました。地域活動に携わっておられる方々、官僚の方々、経済界の方々など、現場で働かれている方々に新書が読まれているということは私にとって大変嬉しいことです。
 もともと公共哲学は、英語で public philosophy という言葉の翻訳ですが、ドイツ語には直訳できません。「öffentliche Philosophie」だとピンと来ないし、フランス語では「philosophie publique」となるでしょうが、これもちょっとおかしいです。civic もそうですが、public という言葉は、英語特有の言葉かと思っています。あえてドイツ語で対応する学問を言い表そうすれば
「politische und soziale Philosophie(政治社会哲学)」とでもなるのでしょうか。
 リップマンが最初に提唱.
 パブリック・フィロソフィーという言葉自身がいつどこで使われ始めたかというと、私が知っているかぎりでは、W・リップマンというアメリカのジャーナリストが最初に使っています。超一流のジャーナリストとして「ニューズウィーク」などで健筆をふるいましたけれども、日本でも『世論』(1922 年)という本の翻訳が岩波文庫で出ている有名な人です。その彼が戦後、1955年に『公共哲学』を出して、日本語では矢部貞治さんの訳で時事通信社から出ています。今では、大きな図書舘に行くと入手することができます。なお、英語の原本は、アマゾンで取り寄せることができます。
 リップマンはジャーナリストでしたけれども、この本は、アメリカが国是として掲げる自由民主主義が冷戦時代でソビエトに対抗するためには、市場経済や民主主義を礼賛するだけでは不十分であり、公共哲学が必要であると危機意識を持って書いた本です。リップマンはジャーナリストであるが故に、むしろ世論が持つ落とし穴を警戒していました。人々がメディアによって操作されてしまう危険性を免れるためには、各自がしっかりした理念やヴィジョンを持っていなければならない、言論の自由は手段であって、言論の内容が伴わなければ意味がないと彼は主張しました。
 しかし、どのような公共哲学が必要なのかというと、彼はプラトンの哲人政治とか、あるいはトマス・アクィナスの自然法とか、そういった古典的な普遍主義を挙げており、やや時代錯誤的な復古調のものであったことは否めません。あたかもプラトンが『国家』の中で民主主義体制を批判したような大衆民主主義を批判する形で、彼は『公共哲学』を書いたのです。それだけに、アメリカでは、リベラルなリップマンが復古調の公共哲学を書いたことについて賛否両論があったようです。それとこの書が出たのは、1950年代のアメリカですから、公民権運動とかベトナム戦争前の「古き良き時代」、いわゆる黒人の解放とかジェンダーの問題とか、そういった問題が噴出する前です。ですから、いまから見ると古臭いという印象を拭えないかもしれません。
 それにもかかわらず、この書は、「メディアと公共性」という、今日でも非常に重要な問題を投げかけていると思います。その意味でリップマンの公共哲学は、無視することのできない古典の位置を占めると言えると思います。
 ベラーの公共哲学.
 その次に、公共哲学を提唱したのは、私の思い違いでなければ、1980 年代に入ってからの、先に触れたベラーとその仲間のサリバンという人たちでした。アメリカの個人主義がいろいろな意味で行き詰まり、公共精神が喪失してしまい、コミュニティもガタガタになっている。そういう危機意識の下に、彼らはいろいろ住民にインタビューするという形を取りながら、アメリカ人の「心の習慣=価値観」を描いた本を著しました。そしてその本の付録「公共哲学としての社会科学」の中で、彼らは社会科学を「公共哲学」として再定位することを主張しました。特に経済学をモデルとするような、ホモ・エコノミクスの個人像に立脚したパラダイム、利害関係だけで動くような行動主義に基づいた社会科学では、社会認識はゆがんでしまう。そうした社会科学ではだめで、社会科学は公共哲学として再定位されなければならないというのが、この本の付録で強く主張されたのです。
 具体的に言うと、ベラーたちは次のように書いています。「研究経過を絶えず、
『公共の批判や討議』にさらし、一般の人々の対話をフィードバックさせることによって、専門主義的な人文科学・社会科学の限界を突破して、社会科学研究の統合をめざす。だから、研究者が研究者だけでいろいろ議論したり、学会で発表して、それで育てるのではなくて、一般の人々との討論、それをフィードバックして研究を行うことが、公共哲学としての社会科学だ」と。彼らの言うように、学者の仲間内だけの理論モデルであれこれ議論するということではなくて、一般市民との対話、それを通して社会科学、社会研究を行うことが公共哲学の identity を形成するということは、常に忘れてはならないでしょう。 ところで、ベラー自身は一時期戦後日本におりましたから、日本の思想にかなり詳しく、丸山眞男とも友達でした。『徳川時代の宗教』というタイトルの本も岩波文庫から出ています。もしかして、石田梅岩の「心学」、そういったものが現代に必要である、と考えていたのかもしれません。
 サンデルの試み.
 あとはマイケル・サンデルという政治哲学者がハーバードにおりまして、彼はロールズを批判した人で有名なのですけれど、彼は『民主主義の不満』という本を 1996 年に出しました。それを今、小林先生たちが訳しています。順調に行けばそろそろ訳が出ると思うのですが、まだ完成していないのでしょうか? その最後の章に、『In Search of Public Philosophy』という論文がありまして、岩波の『思想』1999 年 10 月号に、私のところで学んでいた中野剛充君が訳し掲載されています。サンデルの主張は、いわゆる「リベラリズムの公共哲学」では行き詰まってしまうので、それに代わり、市民が政治に参加するというような「リパブリカニズム(共和主義)の公共哲学」が必要だというものです。単に社会契約で成り立つ政治とは違う、人々がコミットメントして行なわれる政治の在り方が望ましいと彼は主張しているのです。
 しかし、私の見る限り、アメリカではこの試みは成功したとは思われません。ベラーやサンデルの提唱がインパクトを与えて、大きく経済学のパラダイムが変わったとか、公共政策学が哲学化されたという話はほとんど聞いておりません。アメリカでパブリック・フィロソフィーとい学問理念は、その後あまり聞かれませんし、アミタイ・エツィオーニという人が、コミュニタリアン・ネットワークという運動をしていますが、これもあまり大きな成果をあげているようには思えません。
 アメリカより広がりのある日本の試み.
 それに比べて日本ではアメリカに比べてずっと小さい国ですから、何かが起こると、それが広がることは割と容易です。学際的な公共哲学の試みが始まり、先ほど広井先生からも紹介があったように、東京大学出版会から全 10 巻で佐々木毅、金泰昌編集で公共哲学の本が出ています。これは公共哲学京都フォーラムが、佐々木先生、福田歓一さん、板垣雄三さん、溝口雄三さんとか、そうそうたるメンバーを集めて始めた成果を本にしたものです。私は最初、フォーラムを知らなかったのですが、駒場で公共哲学を教え、1998 年の秋に『現代日本のパブリック・フィロソフィー』という地味な本を新世社から出したのを機に、京都フォーラムから声がかかって参加し始め、そこで小林先生とも知り合ったという次第です。
 このシリーズはその後、今年さらに5巻出始めました。小林先生が編者になった『自治から考える公共性』(第 11 巻)には、西尾勝先生、篠原一先生、松下圭一先生、山口二郎先生、千葉大の新藤宗幸先生、大森彌先生などそうそうたるメンバーがいろいろ発題され討議しあっています。12 巻が法律、13 巻が都市、14 巻がリーダーシップ、15 巻が芸能と文化です。さらに、来年には、医療、組織、教育、宗教といったテーマの巻が出る予定のようです。また、公共哲学叢書という研究書も刊行中です。
 タコツボ化された学問状況を突破する課題.
 このような公共哲学という学問を漠然と定義するなら、「政治・経済、その他の社会現象を公共性という観点から統合的に論考する学問」というようなミニマム・コンセンサスが適当と、私は考えています。けれども実際のところ、こう学問の営みが、現在のタコツボ化した学問体制や学会構造の中ではなかなかできないのが大きな問題なわけです。たとえばオックスフォード大学では、
Philosophy、 Politics、 Economics から成る PPE という有名な学問体制が知ら
れていますいし、ケンブリッジ大学には、Social and Political Sciences、通
称SPSという学部もできています。しかし実際に、そういった学際的な学部は、いろいろな人に聞くと、なかなか巧く機能していない、とも聞いています。
 これだけ学問のディシプリン化が進みますと、そのディシプリンの枠内にあるパラダイムだけで勝負するとことに学者は慣れていますから、学生が違う専門の2人以上の先生につくと混乱してしまうことも多々あるでしょう。相関社会科学科というところに所属している私自身も、フランスやイギリスの学者から、「学際的な研究をする学生は、出来が善くてもあまり就職が好ましくない。お前のところは大丈夫か」などと質問されることがよくあります。それには、「学生が書く論文の内容次第だ」と応えることにしていますが、いずれにせよ、あちこちにいわゆるタコツボ化し、ある意味で業界化している大学の学部構成のポストに弟子を送り込むのはそれほどやさしくないというのが国際的な学問状況であることは確かです。こうした状況を国際的なレベルで突破することが公共哲学の大きな課題の一つであり、私はこれを「学問の構造改革」と呼んでいます。この改革を実践する上で、千葉大 COE パラダイムは大いに期待できるのではないでしょうか。
2.公共性のパラダイム転換.
 公共性とは何か.
 では次に、公共哲学の認識論とでも言うべき公共性とは一体何なのかを、皆さん方に問題提起してみたいと思います。公共性を、いま、電子辞書をお持ちの方には引いてもらいたいのですが、『広辞苑』には「広く社会一般に利害や正義を有する性質」と書かれています。ところが 1988 年に出ている第4版にはこの正義という言葉が入っていませんでした。1996 年に出た第5版から正義という言葉が入ったわけで、これで一歩前身したのかなと思います。このように、時代時代で辞書の定義も変わってきます。他方、『大辞林』の方は「広く社会一般に利害影響を持つ性質。特定の団体に限られることなく、社会全体に開かれていること」と書いてあります。
 英語でパブリックという形容詞を考えますと、たとえば、イギリスではパブリック・スクールは私立学校ですし、アメリカでは公立学校というように、英語圏でもパブリックの意味は多義的であって、それをコンテクストに応じて意味を考えなければなりません。それでパブリックを英英辞典で引いてみますと、
3つくらいの意味があります。まず、①一般の人(people)に関わるという意味。次に、②隠されていない、公開の (not hidden、 open) という意味。ドイツ語の öffentlich はまさにそういう意味ですね。それからもう一つは、③政府の (governmental, official) という意味。パブリック・セクター(公共部門)といった場合は、そういう意味ですね。パブリック・セクターと言えば、まさに政府が金を出してという意味ですが、パブリック・カンパニーと言えば、イギリスでは国営会社ではなくて、株の公開会社という意味です。
 アーレントの2つの publicness.
 このようにパブリックという形容詞は、多義的ですが、publicness という名詞形の英語はめったに使われません。しかし、この名詞をはっきり定義して使った哲学者がいます。それはかの有名なハンナ・アーレントというユダヤ系ドイツ人の女性哲学者です。アメリカで第二次大戦後に活躍した彼女は、ちくま学芸文庫から出ている『人間の条件』という本の中で、次の2つの意味で publicness を定義しています。その一つは、「万人によって見られ開かれ可能な限り、最も広く公示されている、現れ」すなわち「公開性」という意味、もう一つは、「私たちすべてに共通する世界」という意味です。この際、ハンナ・アーレントは非常に実存主義の影響を受けていましたから、「私たち」という概念は均質な集合体ではなく、それぞれ実存的な独自性を持った人々の集合体であって、それを前提にした上で、私たちすべてに共通する世界、common world をパブリックネス(公共性)と彼女は定義したことが忘れられてはなりません。彼女の定義を先の英英辞典の定義と関連づければ、「一般の人に関る」という意味と、「公開の」という意味に相当するでしょう。
 アーレントと共に、公共性の議論を考える上で欠かせないのは、京都賞を授与されて 11 月半ばに京都に来る予定の J. ハーバーマスです。彼の場合も
Öffentlichkeit を、公開性という意味で使っていると思います。ただしアーレントの場合、公共性がギリシアのポリスに範をとって考えられているのに対して、ハーバーマスは 18 世紀ヨーロッパの市民社会をモデルに考えているという違いはあります。しかし今日は、こういった思想的な違いの問題には立ち入りません。
 三元論的なパラダイム.
 こういった状況の中で、従来の公私二元論に代わって新しいパラダイムを考えようというのは、一つの大きな公共哲学の課題だと私は思います。公私二元論は、主に政府や国家、司法を公領域とみなし、それ以外を私的領域とみなす考え方です。ですからこの考え方に従えば、経済や宗教もすべて私的なレベルでくくられてしまいます。それに対して、governmental や official という意
味での「政府の公」と、市民、国民、住民の総称としての「民の公共」と、私有財産とか営利活動とかプライバシーなどの「私的領域」の3つを区別しつつ、その相互作用を考察するような三元論的なパラダイムを、実体概念としてではなく関係概念として捉えるという見方が必要だというのが、私の考えで、これは拙著『公共哲学とは何か』(ちくま新書、2004 年)のほか、『経済の倫理学』(丸善、2002 年)でも主張しました。
 このパラダイムによって、NPO(非営利組織)や NGO(非政府組織)のような民間非営利組織の実現も可能となるだろうし、「政府の公」の究極的な正当性は「民の公共」にある、つまり公共政策の是非の判断は民が持つ、という理論が可能になります。官僚が打ち出した政策であっても、結局のところ、民の審判を仰ぐというパラダイムなので、これは民主主義の議論にもなりますし、官僚主導の大きな政府を批判する論拠にもなります。その点、アダム・スミスの『道徳感情論』は、経済の公共性を考える上で大変重要な古典です。新自由主義が――私は支持しませんが――人々に魅力を感じさせるとしたら、それは福祉国家の官僚主義を批判した点にあると思います。三元論的なパラダイムに立脚した公共哲学は、官僚主義を批判すると同時に、民の公共を立脚点にして、新自由主義の「政府か市場か」という二項対立的な思想をも批判できるわけです。
 教育、科学技術の公共性.
 これを踏まえて、教育や科学技術の領域における公共の意味を考えてみましょう。
 日本では公教育という言葉は非常に曖昧に使われることが多く、上から押しつけて強制するというニュアンスも持っています。たとえば日の丸や君が代を強制して、それに従わない人を処罰しても構わないのが公教育だと考える人もいるくらいです。また憲法が謳っている「公共の福祉」という概念も、お上が決めるものだというような考えも存在します。しかし、「政府の公」と「民の公共」を区別する公共哲学は、「公教育」ならぬ「公共教育」とは何であるのかを真剣に考えていく必要があります。また科学技術の領域における公共は、広井先生の得意分野の一つであり、日本でも STS(科学技術社会論学会)という学会がありますが、医療現場における公共性の問題や、バイオハザード、科学技術の公共性の問題等々を考えていくことも、公共哲学の重要な課題です。
 「官から民へ」という標語に騙されるな.
 あとこの際、強く主張したいのは、「官から民へ」という標語に騙されるなということです。公共哲学は「官から民って何ですか?」と常に問い返す必要があります。竹中さんや小泉さんがよく言うところの「政府でなくて市場に任せる」というのは、非常にミスリーディングな標語で、一種のマヤカシです。政府でも市場でもない領域、NGO であれ NPO であれ、「民間非営利組織」という組織が現に存在するからです。「政府か市場か」という二項対立はもはや通用しないという主張は、現代の公共哲学の核心部分を成します。ですから現在使われている経済学のテキストは、時代遅れで、それを教育の現場で教えるということに対して、公共哲学は異議申し立てをしなければなりません。
 「官から民へ」というスローガンの曖昧さや、「政府 VS 市場」という図式で割り切るような社会科学を批判することは、公共哲学の大きな学問的な使命です。既存の社会科学の「創造的破壊」を担う公共哲学の役割は大きいのです。
3.「個人の権利」と「公共の福祉」を両立させる人間像や社会観の追求.
 公共の福祉の意味を考える.
 次に、日本国憲法の問題とも密接にかかわる問題について少しお話したいと思います。具体的には、憲法 12 条と 13 条に記されている「個人の権利」と「公共の福祉」を両立させる人間像や社会像の追求です。皆様ご承知のように、12 条と 13 条は、個人の権利や尊重と公共の福祉の両立を謳っております。そこで個人の権利を公共の福祉によって制限するということも可能だと考えることもできるわけですが、それを「政府の公」が率先して行うべきだという考え方は非常に危険です。確かに、公共の福祉の実現を政府が率先してやらなければならない場合があることは否定できません。たとえば、昨日新潟で起こったような大きな地震があった時に、政府がそこにすばやく援助の手をさしのべるように、場合によっては政府が率先してやらなければならない時もあります。しかし、ただそのような形だけでなくて、「民の公共」が公共の福祉実現の担い手であると考えていくことも絶対に必要です。その際、権利主体の「個人」という概念が「自分」だけでなく「他人」を指すというような人間観が不可欠でしょう。
 存在論的な掘り下げが必要.
 そういうふうに考えますと、「個人の尊重」と「公共の福祉」が両立しうる道が開けます。松下圭一さんたちが既に言っていることですが、公共の福祉の意味を原理的に考えなければなりません。そして、そのためには戦前に美徳とされた「滅私奉公」(個人を犠牲にして公に奉仕する)という「人間―社会」観でも、「滅公奉私」(これは日高六郎さんが 1980 年に岩波書店から出した『戦後思想を考える』で使った言葉ですが)、つまり他者感覚を喪失した「人間― 社会」観でもなく、「活私開公」という人間観、つまり、個人一人一人が活かされながら民の公共を開花させ、政府の公をできるだけ開いたものにしていくような「人間―社会」観が必要となってきます。そして、それを哲学的に存在論的に掘り下げていくのが公共哲学の課題の一つとなるでしょう。
 そして、私自身はそれを、多次元的で応答的な「自己―他者―公共世界」理解として打ち出したいと思っています。これは、いわば「関係主義的な個人主義」の立場です。アトミズムでもなければ、共同体主義でもない関係主義は、ハイデッガーやアーレントが打ち出した「人間―社会」観ですが、それをさらに発展させる形での哲学的な掘り下げをしたいというのが、私自身の願望です。
4.「グローカルな」公共哲学の理念.
 「ローカル」の秘められた意味.
 さて、次はグローカルな公共哲学の理念についてお話したいと思いますが、これは実践論とも結びつきます。現在、グローカルという言葉はいろいろなところで使われています。「グローカル」という新左翼系の機関誌もありますし、宗教団体の雑誌でも使われ、早稲田大学もそういう言葉を標語として使いたがっているようです。それだけグローカルという言葉は、一般的になりつつありますが、この概念が非常に便利なのは、それによって、グローバリズムとローカリズムの二項対立を越えるような視点が確保できるからです。
 ローカルという形容詞を英英辞典で引きますと、「ひとが住む特定の場所や地域と結びついた」という意味が出てきます。この辞書的な定義を哲学的に掘り下げて、単に田舎とかローカル放送とか地方という意味ではなくて、「現場」という意味と「地域」という意味で考えると、「文化的歴史的に多様な負荷を帯びた地域」のという意味と、「各自が活動する現場」のという二重の意味が担保されます。各自が生きる多様な地域性と現場性が尊重される実践的な公共哲学の足場がつくられるのです。
 そのような足場の設定によって、均質的な上からのグローバルなスタンダードで全部を推し量るというような思考とか、現場を無視した空中戦をやるような思考、または上空から見下ろすような思考は、拒否されます。そしてそれが多次元的で応答的な「自己―他者―公共世界」理解とも結びつき、地球全体が直面している環境、平和、福祉、貧困、平和などの global issue に積極的に取り組む公共哲学が、「グローカルな公共哲学」の理念であろうと思います。
 こうした理念によって、地域や現場の多様性を無視してグローバル・スタンダードを一方的に押しつけるようなグローバリズムにも、全地球的な視野が欠如したローカリズムにも回収できない公共哲学が可能になり、千葉大での実践的な比較公共研究ないし比較公共政策の方法論も可能となるでしょう。
5.「ポスト専門化」時代における「現状(ある)分析」「規範(べき)分析」「政策(できる)分析」の統合.
 「ある」「べき」「できる」の統合を.
 第二節で認識論、第三節で人間論・社会論、第四節で実践論・比較研究の方法論について話しましたけれど、最後に、公共哲学が社会・人文科学を横断する学問だとすれば、当然、事実と価値の問題などをどのように考えるかついて、述べなければなりません。
 このテーマに関して私が提唱したいのは、現状分析の「ある」という分析と、規範の「べき」の追求、政策の「できる」の統合を、広い意味での公共哲学は目指さなければならないということです。狭い意味での公共哲学は、この中の「べき」論が中心となってくると思いますけど、広い意味での公共哲学は、諸学問のメタレベルで、Sein(ある)、Sollen(べき)、Können(できる)の統合的な研究を志向しなければならないと思います。
 「ポスト専門化時代」の学問理念.
 ここで公共哲学を学問史的に位置づけながら、「ポスト専門化」という言葉を導入しましょう。それは、ちょうど 100 年区切りできれいに理解できます。 200 年前、ヘーゲルが生きており、ちょうど 1820 年から 30 年にかけて哲学的学問論を展開しました。彼は、ベルリン大学の総長ですから、すごく偉かったわけですが、彼が唱えたのは、哲学によって諸学問を統合するという学問理念です。つまり政治も経済も芸術も宗教もみな、哲学の中にあるのであって、哲学が諸学問を纏め上げるという哲学中心の学問理念です。このような 200 年前のヘーゲル的な学問理念を、私は「プレ専門化」時代の学問理念と名付けています(この考えを私は、1999 年出版の『新社会哲学宣言』創文社で打ち出しました)。
 ヘーゲルの死とともに哲学が終わった.
 しかし学問史的にみると、1831 年にヘーゲルが死んだ後、そうした学問理念は崩壊しました。ですから、「ヘーゲルとともに哲学が終わった」という指摘はある意味では正しいのです。もしヘーゲルが今も生きていたとしたら、日本の大学で典型的に見られるような、文学部の中にある哲学なんて、哲学としては絶対に認めないでしょう。すべての学問を纏めるのが哲学であり、哲学部の中に政治学科や法律学科がなければならないのであって、その逆の形はヘーゲルにとってはナンセンスだったのです。
 しかし、ヘーゲルの哲学はあまりに観念論的すぎたためか崩壊し、19 世紀半ば以降、諸学問の実証主義化や専門化が進行しました。理学部が哲学から独立しますし、政治学や経済学などがどんどん哲学から離れて独立し、社会学も登場するわけです。そしてそういった「専門化時代」に日本の大学制度と学部構成が設立されたという事実を、私たちはしっかりと認識しておくべきです。
 ヴェーバーの価値客観性.
 このように、ヘーゲル死後の 19 世紀後半以降の学問体制が、大学や学会の学問分類に影響を与えていくということは忘れてはなりません。まさにそうした状況の中で、1919 年にマックス・ヴェーバーは、『職業としての学問』という講演を行いました。その前の今からちょうど 100 年前の 1904 年に、彼はまた「社会科学と社会政策の認識をめぐる客観性」についての論文も著しています。今年の 3 月下旬に、その 100 周年記念のシンポジウムがモントリオールでありまして、私もそれに参加したのですが、それは、そうしたヴェーバーの学問論に対して現代に生きる学者が現代に生きる学者がどういうスタンスを取るのかという趣旨で開かれたシンポジウムでした。主催者のモントリオール大学は教養学部中心の大学なので、そこで私が発表したペーパーは受けがよく安心した次第ですが、ヴェーバーの場合、「学問の専門化は時代の宿命であり、学者はそれに耐えなければならない」という醒めた学問論が打ち出されます。諸学問をアナクロニスティックに哲学で纏めるのはお話にならない空論だとヴェーバーは考えたわけです。「価値判断」とか、社会政策の「べき」は、学問外部に属するところの「責任ある個人の決断」においてなされる「べき」だという思想が彼の学問論の中核にあったと考えてよいでしょう。
 ヴェーバーは、他方では『職業としての政治』という有名な講演も行っており、いわゆる官僚化の下で権力と支配の正当性の問題の議論もしていますけれど、ヴェーバーは基本的に、人文社会科学者は「価値認識」は行うけれども、「価値判断」はすべきではなく、それは学問以外の立場でするべきだ、と主張しました。このヴェーバーの学問論は、その 100 年前に唱えられたヘーゲルの学問論と好対照をなしています。
 ポスト専門化時代の公共哲学.
 それから 100 年経ちました。今度はヴェーバーを乗り越えなければならない時代に入り、それを「ポスト専門化」時代と私は呼びたいと思います。今まで日本の大学の社会科学は、おそらくヴェーバーのいう『職業としての学問』の路線で営まれてきたと思いますが、それが行き詰まりをみせているのが現状です。モントリオール大の学者たちも、ほぼそれを認めていました。ヴェーバーの学問論は、現代の諸問題に直面してもはや機能しなくなっていると、政治学者や社会学者が告白していました。
 では、それに代わるどのような学問理念が今必要なのでしょうか。「プレ専門化」時代に戻ろうとするのは、明らかにアナクロニズムです。現在、哲学が諸学を纏め上げることができるなどとは、パラノイアしか言わないことだと思います。ではどうすればよいのでしょうか。私はこの問いに対して、専門化の正の遺産を尊重しつつも、しかしその限界やタコツボ状態を突破して、共通のトピックやイシューを設定し、シリアスな課題と取り組むために協働しあうという「ポスト専門化」時代の学問理念を打ち出したいのです。そして、まさにこの COE の千葉大学の公共研究がこの学問理念を実現してほしいと願うわけです。
 「ポスト専門化」時代の学問としての公共哲学は、政治学、法学、経済学、社会学、歴史学、地域研究、科学技術論、哲学などが協働し合い、社会の現状分析、規範分析、さらに政策論の研究、これらの統合を目指さなければなりません。単独のディシプリンがこのプランを遂行するのは無理ですから、いろいろな学問分野の方々が協働しなければならないのです。
 特に追求すべきは社会的公正問題と多文化共生問題.
 先ほど触れましたように、狭い意味での公共哲学が、この中で一番重きを置くのは「べき」論ですが、その追求すべき規範の中でも特に重要なのは、社会的な公正、justice の問題でしょう。この規範は公共性の定義にも入り込んできます。現在の経済学は効率中心主義です。今もてはやされているニュー・パブリック・マネジメント(NPM)論も、行政効率の推進を謳っていますが、それ以外の価値が公共選択論などではあまり出てきていません。
 ですから「社会的公正」とは何かという問題、それから国連開発計画(UNDP)
などが謳っているグローバル・パブリック・グッズ(地球的公共善)の問
題、それとの対概念として、グローバル・パブリック・バッズ(global public bads)の問題、それはテロリズム、戦争、麻薬、貧困といった問題を指すようですが、その除去についても真剣に議論しなければならないでしょう。
 もう一つ重要なのは、「多文化共生」の問題です。年金問題などを考えますと、日本はますます移民社会へと移行せざるを得ないように思えます。そういった時に、多文化共生のためのライフスタイルは、幼児期から身につけるようにしなければなりません。私は来月、パリのユネスコ本部で開かれる「アジアとアラブ世界の地域間哲学対話」に出席しければならないのですが、ユネスコなどを通じて哲学研究の在り方が今問われており、当然「多文化主義」は切実な問題となってくるでしょう。そういった規範をどう考えるかという問題が、特に公共哲学的な観点から論議され、窮められなければならないように思います。
 理想主義的現実主義ないし現実主義的理想主義という思考.
 このような形で遂行される公共哲学は、「現実主義 VS 理想主義」という二項対立的思考を超えなければなりません。現実主義という時の「現実」が一体何を意味しているのかは、まさに哲学的な問いですが、あえていえば理想主義と現実主義がミックスするような形で思考しいていくのが望ましいだろうと思います。公共哲学や公共研究には、まわりくどい言い方ですが、「理想主義的現実主義」もしくは「現実主義的理想主義」という思考様式を採るのが適切でしょう。それによって、「より良き社会」の実現を目指す高度に実践的な学問として公共哲学や公共研究が遂行できるように思います。 以上、本日は総論的なことしか申し上げられませんでした。各論は、皆様方に実践していただきたく思います。もう時間がなくなりしたので、あとはパネルディスカッションで議論できればと思います。どうも、ご静聴ありがとうございました。