2021/04/02

5] 夢みる林檎 : 地球芸術学は可能か Dreaming Apple: Is‘Global Art Theory’possible? 奥脇嵩大*

 5] 夢みる林檎 : 地球芸術学は可能か Dreaming Apple: Is‘Global Art Theory’possible? 奥脇嵩大*  

 Table of contents

Ⅰ. 「地球芸術学」を描くために

Ⅱ. 動力としての林檎:雨宮庸介

Ⅲ. 世界を夢見る:崔在銀(Jae-Eun Choi) Ⅳ. まとめ

奥脇嵩大と申します 普段は日本の、青森県にある公立美術館で学芸員をしています 青森県、どこだか分かりますか 日本の東北、本州の北の端、海峡を渡るとすぐ北海道に行けるような地域です 主な特産物は林檎とホタテ 雪が沢山降る、ものすごく寒い土地です この度は素晴らしい学術大会に声をかけて下さってありがとうございました 趙先生、東北大学の片岡先生には発表前に「地球芸術学」というテーマをいただいておりました 今回の私の発表では、芸術理論と尊敬すべき芸術家らの作品制作の事例などを紹介しながら、人間が芸術制作を介して地球をいかなる形で再認識し得るか その再認識をもとに何を導き出すことができるか といったことの一端を示したいと考えています そうした思考の形式を「地球芸術学」の可能性を検討することに代える、そんな時間にできたらと思います 

Ⅰ. 「地球芸術学」を描くために

「地球芸術学」という未知の学問領域の概要を知るべく、まずは林檎を手がかりとします ここで連想されるのはアイザック・ニュートン(1643-1727)です 一説には落下する林檎をもとに万物を地球内部へ引っぱる重力を発見した人物であることは常識ですが、この重力の作用について、ミシェル・セール

 

* 青森県立美術館学芸員.

(1930-2019)は著書自然契約 Le Contrat Naturel(1990)の中で、「最初の大規模な科学システム」と呼んでいます 万有引力は私たちと地球との結びつきと見なすことができるわけです このとき人は既に「社会契約」を介して人間同士の結びつきとしての社会を手に入れていました そうなると人間社会の膨張すなわち爆発的な人口増加は必定であり、近年のトピックである人間活動が地球に直接影響を及ぼす時代区分「人新世」の到来は、社会契約がなされた時点で決定していたと言えそうです ともあれ、そんな社会契約に代わってセールが唱えたのが人間と地球との、今日においては「共生の」「持続可能な」と言い換えることができそうな、再生関係を結ぶことを唱える「自然契約」でした この人間を縦糸、自然を横糸に地球のための新しいネットワークを構築しようとする提唱が、絶えず変化する関係性の編み目の中で、あらゆる事物のふるまい方を考察するブルーノ・ラトゥール(1947- )のアクター・ネットワーク・セオリーに接続されます ところでセールが示したように「すべての人々の活動が世界に被害をもたらし、その被害がループ回路によって逆転して、即座にあるいは一定の期間の後に、すべての人々の労働の所与となる」ことを信じるのであれば、契約内容を見直して労働内容を問いなおしたい気持ちが生まれます しかし残念ながら契約内容を問うような時期は過ぎているようにも思えます それはどのみち問題にしかなり得ないことを私たちは既に身に染みて分かっているからです 例えば私が住んでいる青森県には「次世代エネルギーパーク」という名前で、放射性廃棄物の中間貯蔵施設や最終処分場とともに再生可能エネルギーを扱う企業が密集するエリアがあります 私たちは自然との共生関係を望みながらも、実際の契約のテーブルにつく相手方として自然か、人間存在の影としての技術かを選ぶことを決めかねているわけです この不毛な契約のテーブルを離れて部屋の窓を開け放つ時ではないでしょうか そうして私たち一人ひとりが周囲の文化や自然環境との連なりを基点に世界を再度認識しなおすことが必要です 「台北ビエンナーレ2020:你我不住在同一星球上 You and I Don’t Live o n the Same Planet」はそのための認識のシステムと見なすことが可能なように思われます 先述のラトゥールとマーティン・ギナールのキュレーションにより世界27か国からアーティストや科学者、活動家ら57名の個人や団体が参加した国際芸術祭として開催されました 台湾の亜熱帯環境との調和をもとに台北市美術館内外で展開された本芸術祭を特徴づける鍵となる概念の一つが「Planet TERRESTRIA L」です そこでは地球規模での気候変動を背景に、経済活動の充実化と地球にかけられた負荷との間のバランスのとり方を考えることが主題となりましたが、そのためにラトゥールが地球表面や風土といったニュアンスを託した新たな概念を提示し、芸術祭という形式のもとに検討を加えている、というのはたいへん興味深いことです 地域に根ざした芸術祭を媒体(medium)として、理論を現実化させる働きが見られるからです このような思考の筋を横糸、定義の問いなおしによる領域拡大の連続としてのデュシャン以降の現代芸術の歴史を縦糸として編まれた一枚の布を想像してみてください すると今日の芸術制作の中に人間の地球認識の変容を促す「潜勢力」の気配を読み込むことも可能なように思えてきます そうして媒体としての働きから作品の強度を語るための糸口を設定すると同時に、地球へのイメージを現実化させるための媒体としての可能性を見出したいわけです そのために今回接続を試みるのは美術批評家であるロザリンド・クラウス(1940- )が提唱するポストメディウム理論です 作品における物質性を重視するクレメント・グリーンバーグを師としたクラウスは次第に師を離れ、オルタナティブな批評の可能性を追求するようになります その中で1990年代末から2000年代はじめにかけて提唱されはじめたのがポストメディウム理論でした 対象としては主に写真や映像作品を取り上げ、作品を成り立たせる技術的な特質を考察することをもとに、作品に含まれる創造性を引き出していくことが試みられていました 作品成立の条件としての物質から技術への眼差しが美術批評における創造性を新たにしたわけですが、もちろん現実の作品制作はそんなにすっきりと展開されるわけではありません 実際の作品制作は物質的にも技術的にもいよいよ複雑に絡みあうといった異種混淆性すなわち、なんでもあり状態が自明のものとなってきています この発表においては、今日の芸術作品に内在する技術/物質/精神の異種混淆な状態を中間的な運動状態として読みかえ、それをもとに作品と現実を同時に制作し、規定しなおすような行為を見出すことを提案したいと思います そこではポストメディウム理論を介して新たな地球認識を媒体する芸術制作という可能性が主張されると同時に、その主張は作品固有の強度を語るものとして、絶えず作品そのものに回帰することになるでしょう そうして地球と芸術作品、それぞれが描く二つの円が少しずつ重なるようにして林檎のような形の放物線を描いていく 「地球芸術学」という思考の形式があり得るとしたら、私はそんな形を考えます そこでは作品をとおして事物の運動状態が表面化するがゆえに芸術作品について語ることが地球を語りなおすための動力ともなる そのことを実際に示すため、次からは二人の芸術家の素晴らしい作品を紹介しますそうしていわば林檎によって見られた夢を、どこまでも現実として引き受けることの可能性に賭けたいと考えています 

Ⅱ. 動力としての林檎:雨宮庸介

再び青森県の林檎の話をすることから始めましょう 青森は日本一の林檎生産県です その歴史は188 7年春、輸入した西洋林檎の苗木3本を植えたことから始まります そこから林檎農業はどんどん発展していって、今も岩木山という山の麓を中心に、林檎畑が続く広大な風景を見ることができます あまりにモノカルチャーな風景が延々と続くため、その辺りを歩いたり車で走ったりしていると、青森の自然とか人の営みは、林檎の中にまるっと取り込まれてしまって、まるで一個の林檎の中にいるかのような気さえするくらいです 2019年夏、アーティストの雨宮庸介(1975- )と私は、この林檎世界の一角で林檎農家の方の収穫作業を手伝っていました その年の秋に「いのち耕す場所」をテーマに現代アートと農家仕事の魅力をつなげて紹介する展覧会を準備していて、出品作家の一人である雨宮が取り組んでいる「普遍的な林檎」の制作に関連した調査に立ち会うべくその場所を訪れていました 雨宮は自らの制作を介して現実と空想の境を行き来し、鑑賞者に独自の知覚や体験を促す立体作品やパフォーマンス作品等で国際的に評価が高い芸術家です 2005年頃から林檎の作品シリーズを本格的に手がけるようになった雨宮は、その制作を介して既存の芸術や社会を支える様々な構造を焙り出そうとします その先にあるのは何でしょうか 雨宮が木材に油絵の技法を用いてつくる林檎作品は、現実の林檎に限りなく等しい色や形、質感を有しており、雨宮自身の言葉を借りれば「林檎がどのような気候や地形で育ち、収穫され、どんな保管をされて今手元にあるのかという物語を読み解き、その文脈におけるその現在を表面に描くという作業」をもとにつくられます そんな林檎が腐りもせずに展示された状態に身を置いていると、なんだかそっちの方が自然に思えてきて、育ったり食べることができたり、腐ったりして変化する現実の林檎があることの方が不思議に思えてくるんですね ジャン・ボードリヤール(1 929-2007)の「現実は、現実そのものを緻密なコピーにしてしまうハイパー現実への過程で崩壊する」という言葉をよぎらせつつ、そんな時にふと思うのです 雨宮は林檎の制作に没頭しているように見えて実は世界のすべてを制作しなおしていたのではなかったか 林檎についての深い知見や精緻な技術は、全てがひっくり返る瞬間を現実に呼び入れるための壮大な下準備なのではないか 雨宮の林檎作品には作品世界と現実の越境を誘発し、世界の中の自己の存在形式を変容させるディナミックなシステムとしての面がある このポストメディウム性を指摘し得る雨宮の作品制作には、外在化させることなしには自己を認識し得ない「契約」とは別の手法で、世界との関係をまるごと切り替える手法を読み取ることができそうです 雨宮のこの「普遍的な林檎」は今後、実際の農業を介して果物として現実化する計画です そこでは、バタイユ-ボードリヤールが死を介することでしか脱し得なかった現実世界が、その内部から丸ごとつくりかえられる瞬間が現れることになるでしょう 

Ⅲ. 世界を夢見る:崔在銀(Jae-Eun Choi)

雨宮の作品制作を介して世界認識を切り替えることについて指摘しました そうなるとその先で、制作行為は現実にどのような具体的な影響を及ぼすことができるかを考えたくなります 次に紹介するのが韓国出身の芸術家である崔在銀(1953- )によるプロジェクト構想《Dreaming of Earth Project》です 崔は日本の生け花への関心をもとに作品が取り持つ独自の場のあり方を追求し、「地球の治癒と人間の回復」への関心を一貫してもち続けている芸術家です プロジェクトの舞台となるのは北朝鮮と韓国の間に位置する非武装地帯(DMZ) 原則的に人の立ち入りが禁止されたDMZの境界線付近には両国の軍隊が、その内部には300万個を越える地雷が埋められ、現在に至るまで全ての生きものたちの命を脅かし続けています 一方で70年近く人の手を介さない状態が保持されてきたDMZは、2800種を越える動植物が生息する豊かな自然環境を有する場所でもあります プロジェクトでは崔主導のもと、DMZ中、江原道鉄原郡鉄原邑洪元里弓裔都城を中心とした10㎞程度の範囲において4つのプロジェクト「1.空中庭園、東屋、塔の設営 2.生命と知識の地下貯蔵庫 3.弓裔都城の森の治癒 4.地雷撤去」を、複数名のアーティストの作品をもとに実現することが構想されます 「1」では建築家の坂茂による空中庭園の周囲に川俣正、イ・ブル(Lee Bul)、李禹煥、Studio Munbai、Studio Other Spacesによる東屋を点在させる 「2」「3」においてはスン・ヒョサン(Seung H-Sang)が、鳥が休むための場所-「鳥の修道院」を、チョウ・ミンスク(Minsuk Cho)が生態学を主題にした図書館とシードバンクを地下に建造する 作品の他にもこの場所に人間が立ち入る際のルールが設計されるほか、環境に配慮しながらこの場所に滞在するための服のデザインなどが検討されているそうです この非常に壮大なプロジェクトは国連と韓国政府に提案され、実現に向けて現在検討が重ねられているそうですが、その全貌をこの発表時間内で紹介するのは全く不可能です そこでひとまず今回は、このプロジェクト構想が2019年、日本の原美術館での展覧会「自然国家」として紹介された際、崔がどのような作品を提示したかを紹介します 展覧会の冒頭では「No Borders Exit in Nature」と書かれたテキスト作品が掲げられ、DMZに息づく101種の絶滅危惧種の名前や種子を組み合せたインスタレーション《To Call by Name》、DMZにおける境界線として用いられていた鉄条網を鋳直してつくられた鉄の板を組み合せた通路状の作品《hatred melts li ke snow》などが発表されました 両作品においては国家や戦争、鉄、憎悪が崔の想像力の中で変容し、ある一つの志向性を伴いながら再表象させられることになります その志向性とは崔にとっての理想である「自然国家(自然の支配する国)」です 崔は自身の作品素材に宿る技術/物質/精神の混淆状態を再帰的に見据えつつ、制作行為を介してそれらに別の運動状態を接ぐことでプロジェクト構想を現実化するための手立てとします 崔の作品のポストメディウム性が基点となり、「世界を自然の支配する国」へとこの現実を厳密につくりかえる可能性への転換を可能にしているわけです その中で先に紹介した様々な作品は、芸術作品であるとともに自然の支配する国家の礎として現実化することになるでしょう 

Ⅳ. まとめ

冒頭のニュートンは「万有引力」の着想を1665から1666年にかけての二年間、故郷での休暇中に得たと言われています その休暇は当時ヨーロッパを席捲したペスト禍を逃れることを目的としたものでありました 疫病をやり過ごすさなかに生まれた知恵、という意味で、ニュートンとコロナ禍の最中に地球人文学(Global Humanities)について検討を加える我々との間で反復的かつ引力的な関係を考えたくもなってきますね ともあれ本発表もそろそろ終わりにしなければならない時間のようです この発表では雨宮の制作を介して世界の中での自己の存在形式を変容させ、崔のプロジェクト構想を介して世界を文字通りつくりかえる可能性について指摘しました 総じて個と世界との位相の反復を、制作を介して変調させること すなわち作品におけるポストメディウム性を見すえることで自己と地球、自我と他我との境が交わる運動状態の過中から「もう一つの」自己(alter ego)を引き出し、人が美的かつ直接的な形でこの地球と共に生きるための存在領域を現実化させることを提案する発表でした この提案を地球芸術学と呼び得るものにするためには、今後もこの現実世界における日々の制作行為の中に埋没し

 

ながら絶えず思索を進めていくことが必要になりそうです 本日の発表はその糸口であることを確認して終えたいと思います ありがとうございました  

【지구종교학】