2021/04/02

3] 地球を活かす霊性学 片岡龍(東北大)

 3] 地球を活かす霊性学  片岡龍(東北大)

はじめに、事前に原稿をお送りできなかったこと、また本日の発表内容もアイディアだけの粗いものしかできなかったことを、お詫び申し上げます。

(スライド2)その「言い訳」になるのですが、2月13日に福島県沖地震があり、そのため研究室が本の海になってしまい、その片付けに追われていました。

(スライド3)次は、地震の5日後の写真ですが、ダウル君ら学生が片づけを手伝ってくれたこともあり、今では研究室はすっかりきれいに片付きました。

(スライド3―1)しかし、研究室とは別に書斎、書庫として借りているアパートの方は、まだほとんど片付いていません。片づけが進まない理由は、地震後2週間を過ぎたくらいから、周囲の雰囲気もすでに地震がなかったかのように、完全に元に戻り、日常の業務等でまた忙しくなったからということもあるのですが、もう一つ私の心の中に、早く片付けて元に戻りたいという気持ちと同時に、元に戻りたくない、「元に戻る」ことで<誤魔化したくない>という矛盾した気持ちが存在しているた

めです。

この矛盾した二つの気持ちは、「災害遺構(メモリアル)」を遺すべきか、遺さない方が良いかという問題にも、つながるように思います。

また、「地震後2週間を過ぎた」というところがポイントなのですが、いわゆる「災害ユートピア

(ブルーシート・ユートピアとも)」(Rebecca Solnit, A Paradise Built in Hell: The Extraordinary 

Communities That Arise in Disaster , 2009)」、つまり災害後、人々は悲惨な状態に置かれるのみでなく、お互い助け合ったり、分かち合ったりすることで、一種のパラダイス的な状況が生まれる、その記憶が2週間過ぎたくらいから薄らいでいくことへの抵抗感のようなものも、元に戻りたくない、

「元に戻る」ことで<誤魔化したくない>という気持ちの中にあるように思います。

(スライド4)もう一つだけエピソードをお伝えすると、わたしは10年前の東日本大震災も経験しました。といっても、被害は地震によって、研究室が先の写真と同じようになったというくらいで、津波や放射能の被害に直接遭ったわけではありません。わたしは、研究室の片づけが終わると、津波の襲った地域の避難所でボランティア活動を行っていました。そのときのことを書いた文章です。

俺のほんとうの気持ちを言おうか」と、ある晩、避難所の喫煙場所で語りかけられた。

   「もう一度津波が来て、みんなが俺たちと同じ目に遭ってほしい。ボランティアの人にも心から感謝している。でも、誰にも言えないが、これが俺のほんとうの思いだ」。

  皮肉や一時的な感情から出た語でないことは、すぐに伝わった。心の底から通じ合いたい、切実にそう願うからこそ出てくる絶望の叫びだ。」

以上の二つのエピソード、(1)今回の地震に際してわたしが感じている、「元に戻る」ことで<誤魔化したくない>という気持ちの、<誤魔化したくない>とは、何をごまかしたくないのか、(2)10年前に聞いた、「もう一度津波が来て、みんなが俺たちと同じ目に遭ってほしい。」という語の意味するものは何か。今日の発表では、こうした問題を考えてみたいと思っています。

(スライド5)「地球災害学では、災害を、地球という一つの生命につけられた「傷」と捉える」。これが、「地球災害学」における「地球災害」の定義です。

(スライド5-1)従来の「災害」は、自然災害にせよ、人為災害にせよ、被害者は人間です。地球災害学では、加害者に自然(宇宙も含めます)の場合、人間の場合があるように、被害者にも人間だけでなく、自然も(宇宙も)含めて考えます。

(スライド5-2)宇宙も含めて考えるのは、人類の誕生する何倍も前の6550万年前の話ですが、小惑星の衝突によって恐竜等が絶滅した環境変動は、現在地球環境問題と呼ばれる変動とほとんど同じだからですが、この問題は今日は深入りはしません。

(スライド6)「「傷」(汚染)は、(人為的・自然的)地球変動によって生じる」。

「地球変動」とは、「環境」という語が、人間をとりまく人間以外という意味をもつのに対して、人間の行動も含めた全体的な概念です。すなわち地球変動には、人為的・自然(宇宙も)的、二つの変動が含まれます。

(スライド6-1)上の資料では、人為的地球変動のうち、人類にとって不都合なものを「地球環境問題」としていますが、「地球災害学」では、人為的地球変動だけでなく、自然(宇宙も)的地球変動も含め、また変動の影響を受ける対象も、人類だけでなく、自然(宇宙も)も含めます。このことは後でまた述べます。

(スライド6-2)「傷」は、また「汚染」と言うこともできますが、その本質は「変化」(恒常性が破れること)です。実は、生命を損なうマイナスの働きだけではなく、下の資料では、「この汚染こそ、地球を生命の惑星として育んできた」と述べられています。しかし、この問題も今日はこれ以上、深入りしません。

(スライド7)「従来の「災害」は、自然災害にせよ、人為災害にせよ、被害者は人間である。地球災害学では、加害者に自然(宇宙も)の場合、人間の場合があるように、被害者にも人間だけでなく、自然も(宇宙も)含める」。ここまでは、先ほど説明しました。

(スライド7-1)「これは、地球を一つの生命(一つにつながった生命)とする立場から、自然と人間を二別しないということだが、同様に、加害と被害も二別しない。」

(スライド7-2)しかし、加害と被害の事実を無視(忘却)するという意味ではない。よって、

 

被害者だけでなく加害者も向き合うべき「傷」と捉える。

(スライド7-3)以上が、今日わたしがお伝えしたいことの中心です。ただ、「災害」という語に関しては、それを「傷」と捉える点では、「災禍」とした方がよいか、迷っています。Covid-19の流行が、日本では「コロナ禍」と呼ばれるようになった理由も、深く考えてみる必要があると思って

います。

また、そもそも韓国では「災害」というよりも「災難」という方が一般的と聞きましたが、「災難」という語には、「傷」(心的外傷)のニュアンスは含まれているのでしょうか?そうであれば、今日のわたしの発表は、ほとんど何の意味もない、韓国では当たり前のことになってしまいますが・・・。このあたりのことも教えていただけたらと思っています。

(スライド8)次に、副題に掲げた「地球を活かす霊性学」の方に、話を移したいと思います。これはわたしがつけたのではなく、趙晟桓先生のつけてくださった題ですが、わたしの考えとまさに同じです。

地球災害学、つまり地球という一つの生命に傷をつけることに関する学、それを裏返したものが「地球霊性学」、傷つけられた地球という生命のつながりを、ふたたび活かす(結んで開かせる)霊性学です。

これに関しては、今日は「水俣病」を例にして、その入口のみを窺うくらいしかできませんが、お許しください。

これはみなまた日記 ― 甦える魂を訪ねてという映画の中で、水俣病患者連合の元会長の佐々木清登さんが、晩年に水俣市民に対して切実に訴えかけられた語です。

重度の水俣病に苦しんで死んだお父さんを看病した記憶を思えば、自分は水俣市のみなさんの前では実は話したくないのだが、それでも出てきた以上、一言いいたいのは、「水俣の市民の方々が、自分は加害者、患者の人は被害者、そういうふうに差別」されるのは、自分にはどうしても納得できない、みんな被害者ではないか、と佐々木さんは声をふりしぼるようにして、述べられています。

これは、最初に紹介した「もう一度津波が来て、みんなが俺たちと同じ目に遭ってほしい。」という語に通じるものだと思います。加害者として、あるいは被害を受けていないものとして、上から、あるいは壁越しに憐れむのではなく、被害者の位置まで下に降りてきて、壁を乗り越えてきてほしいという切実な訴えです。

(スライド9)次は、漁師の緒方正人さんの語です。同じく父親を水俣病で亡くした正人さんは、父親に毒を飲ませたチッソという会社をダイナマイトでぶっとばしたいと思っていたといいます。

(スライド10)しかし、「加害者を問うという発想からボールを投げたけど受け止めてくれない」。つまり加害者の責任が、補償という金の問題に、すり替えられ、誤魔化される。これは、やはり最初に述べた「元に戻る」ことで<誤魔化したくない>という私の思いとも通じるように思います。(スライド11)そうして、正人さんは、31歳のときに患者運動から突然離脱します。下の資料はそのころの正人さんの精神状況の回想です。

(スライド12)そこから、正人さんは漁師としての自分を問い直し、魚をとって生活するという点では、自分も泥棒、罪深い存在である。そのような同じ罪人として、チッソの社員を人として受け入れることで、「私自身も許された」と言います。

(スライド13)右の写真は、汚染された魚をドラム缶に詰め込んでいるところです。

(スライド13―1)左の写真は、2500本以上のそうしたドラム缶で海を埋め立てて造られた人口緑地です。

汚染はこれで封じ込められましたが、正人さんはこれで水俣病の問題を終わらせてはいけないとい

います。

(スライド13―2)次の語が、今日の発表と関わり、最も大事な語です。

「政治や権力に対して、消しゴムで消すようにはいかないよと言いたいですね。いくら水俣病のことを終わらせようとしても、そうはいかないよと。私は、毒を毛嫌いして忌避するだけではすまないと思っている。見えなくして蓋をして隠してしまうだけではダメだと思うのです。罪を行った側の人間の目覚めこそが大事です」

地球災害学で、災害を被害者と加害者がともに向き合うべき「傷」と捉える際に、最も「傷」に向き合いにくいのは、加害者の方です。被害者が加害者の罪を許すことも難しいことですが、それよりも難しいのは、加害者側が、「傷」をなかったことにする(誤魔化す)のではなく、生命が「傷」つけられた事実を直視する、それを直視できるような「霊性」に目覚めることです。

(スライド14)生命が「傷」つけられた人間だけではありません。次の写真は、犠牲になった生き物たちを祭るために正人さんたち水俣病患者が作った石仏です。

(スライド14-1)正人さんは言います。「水俣病」という言い方や、「環境問題」という言い方は、人間が海、山、自然界のことを地球的な規模で心配しているということだが、むしろ逆ではないか、「自然界が我々のことを心配している」「目覚めてほしい」と願っているのではないか。

地球災害学で、災害を起こすのは自然でもあり、人間でもあるのと同様に、その裏返しの地球霊性学でも、霊性を働かせるのは、人間でもあり、自然(宇宙も。神といっても良い)でもあるのです。

(スライド15)最後に、本発表のアイディアのもとになった沖縄の喜納昌吉さんの語を紹介します。前半は、今まで述べてきたことなので、後半だけ。

「不思議なことですが、傷の後ろには生命が眠っている部分があるんです。そして、その傷が生命のブロックになってしまっている。[・・・]傷ということは、自分が生命の源に帰れなくなることです。神と私たちのあいだが塞がれているのを傷というんでしょ。」

You Tubeに動画の上がっている「地球の涙に虹がかかるまで」という曲も併せて聴いていただければ幸いです。

 

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