「宗教がかっている」と言われ…帯津医師が自分の「信仰心」を明かす
連載「ナイス・エイジングのすすめ」
西洋医学だけでなく、さまざまな療法でがんに立ち向かい、人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱する帯津良一(おびつ・りょういち)氏。老化に身を任せながら、よりよく老いる「ナイス・エイジング」を説く。今回のテーマは「私の信仰心」。
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【古代人】ポイント
(1)「帯津先生は宗教がかっている」と言われることが
(2)私は宇宙の真理を翻訳者なしで読んでいる
(3)私の信仰心は古代人のレベルなのかもしれない
以前にも書きましたが、私は宗教にあまり関心がありません。ところが一方で、「霊性」とか「あの世」とかについてよく語るので「帯津先生は宗教がかっているのではないか」と言われてしまうことがあります。
駿台予備学校で医学部志望の学生を前に講演したときにも、そういうことがありました。真面目そうな学生さんが質問に立ち上がり、「先生の言っていることは、宗教ではありませんか」と問いただしたのです。私は一瞬たじろぎましたが、とっさにこう答えました。
「いえ、私は宇宙の真理を解き明かそうとしているだけで、それは宗教ではありません。宇宙の真理を上手に翻訳した天才の思考や行動に感動し、共鳴した人々が集まって教団をつくるのが宗教です。つまり宗教の教祖は名翻訳者です。私は翻訳者になろうとは思わないし、翻訳者に対する興味もありません。私は宇宙の真理を原書で読んで、それを私が求める医療につなげたいと思っているだけなのです」。学生さんたちの前で、ずいぶん偉そうなことを言ってしまったものです。
こういう私も信仰心といったものがないわけではありません。毎朝、観音さまを拝んで、大きな声で「延命十句観音経」を唱えています。
私の生家は浄土宗のお寺の門前にありました。ですからお寺の境内が遊び場だったのです。そして毎月8日の縁日には、身を正してご本尊さまを拝みました。4月8日の灌仏会(かんぶつえ)には庫裏に安置された釈尊像に甘茶を注ぎました。こうしたことを思い出すと当時の敬虔(けいけん)な気持ちが蘇(よみがえ)ってきます。しかし、その信仰心とは神仏に対する畏怖(いふ)の念ではなかったと思います。