今年はご利益3倍 コロナ禍で激減も日本の再生願う「四国遍路」 (1/5) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)
今年はご利益3倍 コロナ禍で激減も日本の再生願う「四国遍路」
島俊彰2020.6.9 17:00週刊朝日#新型コロナウイルス
遍路は春と秋が人気のシーズン。季節の花々に癒やされる=香川県観音寺市
杖や菅笠などの遍路装束を身につけた筆者=香川県観音寺市
あちこちにあるこけむした石仏が時の流れを物語る=高知県土佐清水市
道しるべに山道の木に時々かかっている短冊=愛媛県内
あれから13年になる。生き方に迷った私が四国遍路に飛び出してから。今、新聞社のデスクとして東京で紙面作りに追われつつ、思い出されるのは、あの旅路のことである。空と海の青に包まれ、寺から寺へ、思うままに歩いた。コロナ禍後の、往来復活を願わずにはいられない。行く人の心を開く、それぞれの道筋。
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「遍路」は春の季語。四国霊場八十八カ所をうるう年に反時計回りに回ったら、ご利益は「3倍」になる。そんないわれから今年はお遍路さんが多くなる、とみられていた。花咲く季節に人々はめいめいの祈りを届けるはずだったが、新型コロナウイルスの影響でままならなくなった。
弘法大師・空海ゆかりの寺88カ所を巡るのが四国遍路。一周の距離は1200キロともいわれる。かつて寺を巡った証しに、参拝者が納札を柱に打ち付けていたことから、寺を「札所」といい、参ることを「打つ」という。時計回りに順番に回ったら「順打ち」。逆なら「逆打ち」。一度で一周するのを「通し打ち」、時々訪れて少しずつ進んでいくのを「区切り打ち」という。
年間10万から15万人ほどが巡礼に訪れているといわれ、近年はバスツアーが多い。特にうるう年の今年は旅行会社も「稼ぎ時」になるはずだったが、コロナ禍で、人気プランを手がける阪急交通社(本社・大阪市)は4月7日からしばらくの間、お遍路ツアーの中止を余儀なくされた。緊急事態宣言が全国に拡大され、四国八十八ケ所霊場会(香川県善通寺市)も5月10日まで、御朱印などを授ける納経所を閉鎖するよう各寺に求めた。
参拝客が「9割は減った」と話すのは、徳島県阿南市の四国霊場第22番札所、平等寺の住職、谷口真梁さん(41)。「このような中で宗教、仏教にできることは人々の心に静けさをもたらすよう、祈る、行動する、指導することしかない」。コロナ禍による犠牲者供養のため竹灯籠でできた巨大な曼荼羅を二つ建立するべく、竹の切り出し作業を始めている。
そもそも、うるう年に巡ると「ご利益が3倍」というのはこんな逸話からだ。
むかしむかし、伊予の国(愛媛県)に豪農の衛門三郎という人がいた。四国を巡り托鉢中の僧を門前で追い返す非礼を重ねた。
すると、その後自分の子どもらが次々と死んでいくではないか。その僧が弘法大師だったことを知った三郎は、わびるために後を追うが、何度巡っても会うことができない。そこで逆回りで歩いてみるのだが、12番札所の焼山寺のふもとで倒れてしまう。
そこへ弘法大師が現れる。わびる三郎から、生まれ変わりたい、という願いを聞き入れ、手に石を握らせる。三郎は人のために生きると誓って息を引き取る。後年、伊予の国の領主の家に、石を手にした子が生まれる。51番の石手寺(松山市)にはそれと伝わる石が残る。
三郎が遍路道を逆に回って、弘法大師に会えたのがうるう年だったとの説があり、その年の逆打ちはご利益が大きいというわけだ。
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コロナ禍で春の参拝はままならなくなったが、お遍路はそもそも病気や厄災と無縁ではない。
「衛門三郎の伝説は、生まれ変わるという『死と再生』の話でもある」
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愛媛大学四国遍路・世界の巡礼研究センター長の胡(えべす)光さん(54)はそう語る。いまの日本ではほぼ感染する人はいないハンセン病(らい病)に特効薬がなかった時代、集落内では生きられず、治癒を願いながら「職業遍路」として四国を巡り続けていた人たちもいた。太平洋戦争や東日本大震災の後に、故人をしのんで遍路をした人たちも少なからずいたという。
胡さんはさらに言う。
「コロナ禍が落ちつけば、遍路をする人は増えるのではないでしょうか。日本の再生を願って遍路をするのは意にかなっています」
愛媛大による札所での調査では、遍路をする理由について、親族の供養、自分探し、治癒など様々な目的が語られている。そこには自分を「再生」させようという共通の認識がみられるという。
『四国遍路』(中公新書)や『四国遍路の近現代』(創元社)の著書がある三重大学教授(地理学)の森正人さん(44)は、遍路は「伝統的な宗教」あるいは「既成宗教」の営みと見られがちだが、宗教的な教義は持っていない、と指摘する。礼拝の仕方、巡拝の仕方などもかつては規定されていなかったといい、「何にでも結びつくことができる」という。
近代では観光と積極的に結びついて愉楽や娯楽という意味を持ち、戦中はナショナリズムや国家政策と結びつき、衛生的な健康のためという意味も帯びた。
1990年代からの「失われた30年」や新自由主義の時代には、「自分探し」や「癒やし」と結びついた。社会のニーズの中で、社会のある特性と結びつき、新しい意味を持つ。つまり四国遍路は常に「新しい」と指摘する。
四国八十八ケ所霊場会の公認先達、奈良県大和郡山市在住の山下正樹さん(75)も、そんな遍路の“懐”の中に飛び込んだ一人。
元銀行員で、現役時代は朝から晩まで働いて出世競争をした。45歳のある日、系列会社への出向を命じられた。敗北感を感じつつも、何か前向きになれるものを探していた。50歳のとき、尿管結石で1カ月入院。そのとき偶然、遍路の体験が書かれた本を手にした。子育てや家のローンが一段落して、57歳で早期退職。初めて歩き遍路の旅に出た。「人生を切り替えるため」だった。
四国にはお遍路さんへの「お接待」という文化がある。水や茶を差し入れたり、ミカンを手に持たせたり。そんな優しさに心打たれ、山下さんは遍路道を13回も歩いて巡った。今では88歳までは歩き遍路をするのが目標になった。
逆打ちはこれまで4回した。順打ちの場合は、遍路道の木の枝に協力会が下げた札や、道順を示す看板、「道しるべ石」と呼ばれる石柱などが所々にあるが、逆打ちではそれらが背を向けていて、すぐ迷子になる。いきおい地元の人に話しかける機会が多くなる。
「逆打ちは苦労して行くからありがたみがあると言われてきた。人に道を尋ねて進むことが遍路の本来の姿ともいわれる。だから人の優しさに出会えるのです」
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13年前の秋、香川県の高松総局に勤務していた記者は一念発起して、歩いて通し打ちをした。振り返ると、人生の谷間にいたり、区切りを迎えたりした人々が多くいた。道中に何かを見いだしたい、という祈りを持っていたように思う。
そのときに出会った人たちとかわした何げない会話が深く心に染みこんでいる。
妻を亡くした60代の歩き遍路の男性と、大雨で駆け込んだ高知の民宿で出会った。喪失感にさいなまれていたというが、歩くうちにこう思い至ったそうだ。
「自分が健康に暮らし、少しでも妻との思い出を生きて守る。それが、この世と妻の縁を長くつなげる自分の役目だ」
カバンに妻の写真を入れ足首にテーピングをして、しっかりと歩いていた。
60代のある夫婦の遍路とは愛媛の札所で会った。家の中をすっかり片付けて覚悟を決めた。
「二人で体の限界を感じながら、同じ苦労を改めてしたかった。不測の事態で戻れなくなってもいい」
夫は糖尿病で、道中苦しくなることも。急な坂道を歩いているとき、見ず知らずの人に車の「お接待」に誘われた。乗せてもらったのに「乗ってくれてありがとう」と言われた。
「逃げずに進めば、誰かが見てくれている」
と妻は思った。印刷所の営業マンの夫は、
「真心があれば裏切られることはない」
と、長年仕事をしてようやく知ったことが再確認できた気がしたという。
山河を巡る遍路道。先を急げば足を痛める。路傍のこけむした石仏、行き倒れて死んだ遍路の古い墓が見つめている。野宿をして星空を眺め、虫や動物の亡骸をみて生命のはかなさを知った。
こうした出会いを重ね、
「人生で何が大切なのか」
と、私は確かめていたのかもしれない。
当時35歳で、それまでの記者生活の半分以上が事件・事故担当だった。6年いた大阪社会部では汚職や詐欺、金融犯罪、調査報道の取材などに時間を費やした。激しい時期は、事件関係者に取材するため日付が変わるまで夜回りをし、午前3時すぎに他社の朝刊で特ダネを抜かれていないかを確認。朝6時には、出勤する捜査員らへの接触を狙ってタクシーに乗り込むという日々。
協力するようなふりをして事件関係者に接近しては「取材にこう話した」と記事を書いて「背中から斬る」ようなこともした。もちろん家事や子育ては任せきり。何度取材してもうまく行かず、記事も載らず、ストレスで飲み続けて愚痴をこぼす日々もあった。
すべて、社会に潜む「構造的不正の追及」のためと自分なりに思い込んだゆえだった。
地方都市の高松へ異動して、そんな目標を見失っていた。時間に余裕はできたが、家族への接し方も不器用なままで、不摂生も続いていた。四国はそのとき、うどんブーム。映画「UDON」が公開されてまもない頃で、朝うどん、昼うどん、夜うどん。飲んだ後には締めうどん、という炭水化物天国。心も体もだぶついた。
そのせいだろう。杖を片手に歩く菅笠姿の歩き遍路の姿を見て、「行かなくては」とひかれた。
体験記事を書きながら遍路に出ることを許され、1番霊山寺で初めて白装束に袖を通した。住職にこう言われ、送り出されたのを思い出す。
「『私の毎日は人のためになっているのか』ということを見つめたいのではないかな」
2日目に山のふもとの駐車場にあったベンチで夜を明かし、満天の星空を見たとき、なるべく野宿をすることを決めた。室戸岬への海沿いの道は長かったが、どこまでも広く、青い海に何かが洗われる気分だった。汗だくになって登った山の上の空気はどこよりも澄んでいた。
出会った市井の人々が、ふと語りだす。
一緒に坂道を上がった遍路の女性が「自分のためではなく、他人のため、ほかのもののために祈ることができなくなったらだめだと思うの」とつぶやく。境内にいた老女は「自分を押し上げてくれるものがあるやろう。それが『おかげ』なんよ」と教えてくれた。
なまりきった体で連日歩くのはきつい。リュックは12キロほどで筋肉痛、それから関節痛。足裏が腫れ、眠れぬ日も続いた。
すると、「修行とはこつこつと積み重ねることです。草木も水を毎日きちんとあげなければ花は咲かないでしょう」という僧侶の言葉が腑に落ちた。
愛媛まで来たとき、ある寺の法主に「遍路で何か変わりましたか」と尋ねられた。「焦りが薄れ、親切を感じたときに合掌することが増えたような気がする」と言うと、「心とは命です。心が備わって命が存在するのです」と説かれた。そのころには山登りもそれほど苦痛ではなくなっていた。体も軽くなり、少しずつだが自信を取り戻しつつあったのだろうと思う。
香川県の88番大窪寺から1番へ戻って1周し、和歌山県の高野山へお礼参りをするまで1カ月半。がらにもないことだが、心から思った。
「生きていることはありがたい」
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それから愛媛県出身の早坂暁さん(故人)に取材する機会があった。テレビドラマ「夢千代日記」「花へんろ」や映画「空海」の脚本で知られる作家だ。
「遍路をすると、向日性の人間になる。いい方向へ考える精神状態になる」
遍路道を歩いている人は悩みと正面から向かい合う。ふてくされても、誰も返事はしてくれない。夕方に寺に着いて拝んでいたら、ふと涙が出てきて、自分が悪かったと慟哭し、心のしこりが浄化されるのだ、と。
空海は、民衆が何に悩み、迷っているか、その痛みや苦しさをどう和らげるのかということを考えていたという。
「まるで臨床医のような僧侶だった。歩きなさい、歩いて歩いて、祈りながら歩けば、あなたは悩みから解放される」と教えたそうだ。早坂さんは歩くことの自由を説き、こう語った。
「日本人は千年以上、この道を歩いて悩みを解消してきた。どの宗教も行き着くところは一緒だ」
その話に強く共感した。「遍路に行く」と言うと、いぶかる人もあるかもしれないが、決してそれは現実逃避の場ではない。道中はまさに自問自答の繰り返しで、自分と向き合い続けるからだ。自然に身を委ね、汗をかき、偽りのない自分を見つめられる。
人をあやめたり、だましたり。傷つけられたり、損をしたり。取材で接してきたそんな現実も森羅万象の一端であり、自分もまたそんな広大な世界の網目の小さな小さな一つでしかない。暴風雨の石鎚山で山頂近くの岩にしがみついていたとき、そうとしか思えなかった。眉をひそめるようなことが起きない世界を希求しながら、自分ができることは限られている。
ただ、そうであっても自分は歩いていく。それでいいのだ、と。
記者はまた、数年に一回、区切り打ちをしに四国へ出かけている。次回は高知市の31番札所・竹林寺からだ。このウイルス禍が落ちついたら、その次の社会で自分のすべき役割を、遍路の中に確かめに行きたい、と思っている。みなさんも疲れ果てた心を、四国で開放しませんか。(朝日新聞社会部・島俊彰)
※週刊朝日 2020年6月12日号