2023/05/05

イブン・アラビー - Wikipedia [일어 한역] 이븐 아라비

イブン・アラビー - Wikipedia

イブン・アラビー

イブン・アラビー

イブン・アラビーアラビア語ابن عربيي‎ Ibn al-ʿArabī, アラビア語محي الدین أبو عبد الله محمد بن علي بن محمد بن العربي الحاتمي الطائي‎ Muḥī al-Dīn Abū ʿAbd Allāh Muḥammad ibn ʿAlī ibn Muḥammad ibn al-ʿArabī al-Ḥātimī aṭ-Ṭāʾī 生没年 1165年7月28日 - 1240年11月10日[1])は、中世イスラーム思想家存在一性論・完全人間論を唱えてイスラーム神秘主義スーフィズムの確立に寄与し、後世に影響を与えた。

生涯[編集]

イスラーム教徒セビリア王国の支配下にあったアンダルシアムルシアアラブ系の名門に生まれる。12世紀後半はセビリアの統治者であったムワッヒド朝アブー・ヤアクーブ・ユースフ1世(在位:1163年 - 1184年)の治世であり、ユースフ1世は文化を重んじていたため宮廷にはイブン・ルシュド(アヴェロエス)やイブン・トゥファイルなどが集い、セビリアは当時を代表する文化都市のひとつであった。

父アリーはイブン・ルシュドと親しく、後年主著のひとつ『マッカ啓示』での記述によるとイブン・アラビーがイブン・ルシュドと面会したのは15〜16歳の時であったといい、老齢であったイブン・ルシュドはイブン・アラビーの洞察力に驚いたという。その後もイブン・ルシュドらとの交流は続き、1194年にイブン・ルシュドがコルドバで亡くなったときイブン・アラビーは30歳で、その葬儀に参列している。青年期にセビリア法学神学ハディース学を学ぶ。その頃、病床にあった彼は幻視体験からスーフィズム(taṣawwuf タサウウフ、タサッウフ)を学ぶようになった。以後の10年程をアンダルシア・マグリブ各地を遍歴して、スーフィー行者とともに修行した。この時期にイブン・アラビーが教えを受けたスーフィーの師匠として、アブー・ジャアファル・ウライニー(Abū Jaʿfar al-ʿUraynī)、アブー・ヤアクーブ・カイスィー(Abū Yaʿqūb al-Qaysī)、サーリフ・アダウィー(Ṣāliḥ al-ʿAdawī)、アブー・ハッジャージュ・ユースフ(Abū al-Ḥajjāj Yūsuf)などがおり、ファーティマ・ビント・ムサンナー(Fāṭima bint al-Muthannā)、シャムス・ウンム・フカラー(Shams Umm al-Fuqarā')といった女性スーフィー行者からも師として学んだことが知られている。

イブン・アラビーはその人生の大部分を旅に費やしている[1]ヒジュラ暦597年(1200年 - 1201年)にイブン・アラビーは夢告を受けてマッカ(メッカ)への巡礼を志して東方に旅立った。1202年カイロエルサレムを経てマッカ巡礼を果たした彼はそのまま同地に2年間滞在して、更なる研究に没頭する[1]1204年、彼はマッカにおける研究の集大成である『マッカ啓示』( الفتوحات المكية al-Futūḥāt al-Makkiyya)を著した。

1204年アナトリアを出てコンヤマラティヤの巡礼団を率いてきたマジュドゥッディーン・イスハーク(Shaykh Majd al-Dīn Isḥāq ibn Yūsuf)と出会い、イブン・アラビーの教説に感銘したイスハークの誘いを受けて、1205年にコンヤへの復路に同行することとなった。その後も帰還の巡礼団とともにバグダードモースルを経てイスハークの勧めもあってマラティヤに移住した。この時期にルーム・セルジューク朝カイホスロー1世がコンヤで復位(在位:1205年 - 1210年)し、イスハークがカイホスローの宮廷に招かれた際にイブン・アラビーも同時に伺候して謁見し、下賜品を授かった。このマジュドゥッディーン・イスハークの息子が、後にイブン・アラビーの直弟子のひとりとしてイブン・アラビーの教説の流布に奔走したサドルッディーン・クーナウィーṢadr al-Dīn al-Qunawī )である。翌年にもイブン・アラビーは近隣への旅を続け、エルサレム・カイロ・マッカなどを訪問し、1210年にはコンヤに再び戻った。1212年にバグダードに赴いているが、これはカイホスロー1世の後を継いだカイカーウース1世(在位 1211年 - 1220年)の即位の報告をカリフ宮廷に報告するため同地を訪れていたイスハークと同道したものと考えられる。イブン・アラビーはカイカーウース1世のために実践的なアドバイスを書簡に残している。この時期イブン・アラビーはアレッポスィヴァスを訪ねているが、主にマラティヤで生活をしている。また1221年には息子サアドゥッディーン・ムハンマド(Saʿd al-Dīn Muḥammad 1221年 - 1258年)を儲けた。

晩年は支援者であった富豪の招きでダマスクスに居を定めた。遅くとも1230年には同地にいることが知られているが、ここでは彼の言説への反対者からの厳しい批判を浴びたものの、同時に多くの擁護者にも恵まれた。彼はそこで夢告によりアダムから預言者ムハンマドに至る27名の預言者の伝記・思想論集である『叡智の台座』( فصوص الحكم Fuṣūṣ al-Ḥikam)を著した。彼自身の言によると、夢の中に預言者ムハンマドが現れて手渡された書物の名が『叡智の台座』であったという。また、彼は詩人及びザーヒル派en:Ẓāhirīウラマーとしても知られて著作を残しており、その数は生涯で200を越える。彼の没後、郊外のカシオン山中腹に墓廟が築かれ、一部のイスラム教徒からは巡礼の対象地とされ、墓廟周辺は彼の名前にちなんだ「ムフイッディーン地区」という地区名で呼ばれているほどである[2]

思想と批判[編集]

「存在一性論」と「完全人間説」[編集]

彼はイスラーム神秘主義におけるもっとも重要かつ高度な思想家であった。イブン・アラビーの思想の特徴をまとめると、「存在一性論」(waḥda al-wujūd)という存在論と、「完全人間」(insān kāmil)という人間論にそれぞれ代表させる事が出来る。この世界はすべて一者の自己顕現(tajallī)として理解される。すなわち、この世界には自存している「無限定存在」(wujūd muṭlaq)である神アッラーフと、それそのものでは非存在であるがアッラーフに依拠する事で初めて存在し得る「被限定存在」(wujūd muqayyd)である被造物に大きく分けられる。イブン・アラビーはこれに加え、それらのいずれとも異なる第三要素として「真実在の真実性(ḥaqīqa al-ḥaqā'iq)」を想定する[3]。万物は見かけ上は全く違うように見えるが、実は全て神の知恵の中にある1形態に過ぎず、本質的には同一の物体であるとするのが「存在一性論」(Waḥda al-wujūd)である。 (ただし、「存在一性論」という用語自体はイブン・アラビー自身は使用しておらず、最初に「存在一性論」という用語を使用し始めた人物が誰であるが諸説ある。近年、その候補者としてイブン・アラビーの批判者であったイブン・タイミーヤが最初のひとりであるとする研究が出されている。)[4]

また、人間とは神が持つ全ての属性の集合体によって構成されており、その中でもそれを自覚した「完全人間」(insān kāmil)と呼ぶべき人が預言者であり、ムハンマドはその最後の人物であるとする「完全人間」(insān kāmil)によって構成されており、人間は元から神の一部である以上、心や意識に苦痛をもたらす禁欲的な探求を採ることは無意味であると唱えたのである。

宗教と信仰の言葉では「神」と呼ぶべきものを、イブン・アラビーは哲学用語の次元で「存在」(wujūd)と呼ぶ。これは現実にこの世に存在している「存在者」や「現実存在」(mawjūd)とは全く異なる原理存在であるとする。そしてその存在の究極位をプロティノスの「一者」と同じように「存在の彼方」に置くと同時に、それが全存在世界の太源であると考えた[5]。イブン・アラビーの「存在」は、無名無相、つまり一切の「…である」という述語を受け付けない。「神である」とも言えない。なぜなら神以前の神は、普通の意味の神ではないからである[6]。「存在」(wujūd)には、「自己顕現」(tajallī)に向かう志向性が本源的に備わっており、「隠れた神」は「顕れた神」にならずにはいられない。無名無相の「存在」が「アッラー」という名を持つに至るこの段階は、ヴェーダーンタ哲学における意味分節する以前の全体存在である「上梵」から言葉によって言い表すことができる経験的世界である「名色」へと移り変わる段階にあたる、と井筒俊彦は解説する[6]

彼の思想は弟子のサドルッディーン・クーナウィーṢadr al-Dīn al-Qunawī)らによって体系化され、全てのイスラーム教徒(及び一部のキリスト教思想家)に影響を与える一方で、イブン・タイミーヤに代表される反対論を唱える思想家を生み出し、イスラーム教の思想・歴史に大きな影響を与えることになる。

イブン・アラビー思想と「存在一性論学派」の展開[編集]

直弟子であったクーナウィー(1207年 - 1274年)は、思索の赴くままに叙述したイブン・アラビーの作品を整理し、それらに自ら注釈を施す等して体系化に勤めた。クーナウィーは『叡智の台座』の注釈を施した他に、同じく同書の注釈を著したジャンディー(Mu'ayyid al-Dīn al-Jandī ? -1291年頃?)や、イブン・アラビーの思想を哲学的さらに深化させたティリムサーニー(‘Afīf al-Dīn al-Tilimsānī 1291年)、ペルシア語神秘主義詩人として有名なイラーキー(Fakhr al-Dīn Ibrahīm ‘Irāqī )ら後進達の育成も行っている。なかでもイルハン朝ではクーナウィーとジャンディーから教えを受けたスフラワルディー教団に属すスーフィー思想家アブドゥッラッザーク・カーシャーニー(ʿAbd al-Razzāq al-Qāshānī :tr , ? - 1335年)は「存在一性論」の正しさを主張して、アッラーフの至高性を強く主張しイブン・アラビーを批判した同時代人のアラーウッダウラ・スィムナーニー(ʿAlā' al-Dawla Simnanī, 1336年没)と論争を行っている。カーシャーニーはイラン以東でのイブン・アラビーの思想の展開にも大きな足跡を残しており、カーシャーニーの弟子ダーウード・カイサリー(Dāwūd al-Qayṣarī 1260年頃- 1351年)、カイサリーの弟子ルクヌッディーン・シーラーズィー(Rukn al-Dīn al-Shīrāzī, 1367年没)がいるが、3者とも『叡智の台座』の注釈書を著しており、カーシャーニーとカイサリーの注釈書は地域を問わず広く読まれた。シーラーズィーの注釈書はペルシア語訳がされ、これがペルシア語訳『叡智の台座』の注釈書としては最古のひとつとなっている。

ダマスクスでイブン・アラビーやクーナウィーと親交を持ったサアドゥッディーン・ハンムーヤという人物の弟子、アズィーズ・ナサフィーが『完全人間』(Kitāb al-insān al-kāmil)というペルシア語によるイブン・アラビー思想の解説書を著し、これがペルシア語文化圏におけるイブン・アラビーの思想的影響を大きく残した。やはり同じ『完全人間』という書名のアラビア語による著書を残したアブドゥルカリーム・ジーリー(ʿAbd al-Karīm al-Jīlī1326年 - 1424年)がおり、イェメンラスール朝治下のザービドで後半生を過ごし、『マッカ啓示』の理解困難な箇所に注釈を施す等をしている。15世紀にはティムール朝時代に活躍したホラーサーン出身のスーフィー詩人ジャーミーが、『叡智の台座』やそれをイブン・アラビー本人が要約した『台座の刻印』(Naqsh al-Fuṣūṣ)にそれぞれ注釈を施している。ジャーミーはいわゆる存在一性論学派のなかでも最も有名な思想家のひとりである。

イランや中央アジアでのアラビー研究は主にペルシア語訳書や注釈書を介して中国にも伝播し、漢文によるイスラーム思想の著述がはじまる17世紀前後からイブン・アラビーの存在一性論の影響が見られるようになる。『清眞大學』の著者王岱輿1570年頃 - 1657年頃)や『歸眞總義』の張中( 1670年没)、アズィーズ・ナサフィーやジャーミーの著作を漢訳した舍起靈(1710年没)らがいる。

一方、オスマン朝では創建当初からイブン・アラビーに傾倒する思想家が多く、オスマン朝時代の知識人、思想家の大半はなんらかの形でその思想的影響化あると言われている。 上述のダーウード・カイサリーがイズニクで建てられた最初のマドラサの初代学院長を勤め、その後も『マッカ啓示』やクーナウィーの著作等を注釈、ペルシア語、オスマン語に翻訳する ウラマーが陸続と現れ、オスマン朝の最初のシャイフル=イスラームとされているムッラー・ファナーリー(Mullā Shams al-Dīn Fanārī 1350年 - 1431年)も『マッカ啓示』やクーナウィーの著書『玄秘の鍵』(Miftāḥ al-Ghayb)の注釈書を著し、さらに同書や『叡智の台座』の釈講を行っている。

エジプトでは、イブン・アラビーに対する批判者も多かったが、マムルーク朝時代を中心に「存在一性論学派」の学統は隆盛した[7]

イブン・アラビーとその学派への批判[編集]

彼の教説は各地に熱狂的な支持者を生み出す一方、反対派も多く、カイロでは暗殺計画があったと言われている。

イブン・アラビーの完全人間論では、修行の途中において、人間は神アッラーフの名・属性(アッラーフの99の美名)はもとより、本質までも体験出来るとしている[8]。 唯一なる神アッラーフは人間とは絶対的に隔絶された高みにあるとする主張はスーフィズムの勃興期から存在し、イブン・アラビーの存在顕現論そのものは認めつつも、アッラーフの至高性を保つためには「本質まで体験し得る」という部分に反発する論者も多かった。その代表的な人物のひとりにイブン・タイミーヤがおり、15世紀のビカーイー(Burhān al-Dīn al-Biqāʿī 1406年頃 - 1480年)や同じくスユーティーJalāl al-Dīn al-Suyuṭī 1445年 –1505年)といった有名な学識者達がイブン・アラビー批判を展開したのも、主にイブン・アラビーの「存在一性論」や「完全人間説」で説かれている「造物主であるアッラーフと被造物を区別しない」立場についてであった[9]

イブン・タイミーヤなどを含む多くの有名なウラマーがイブン・アラビーはムスリムではないと断じている。彼が著作中に示した思想にはイスラム教の枠を超えるものがあり、例えば彼は古代エジプトファラオが自身を神だとみなしていたことを正しいことだと主張している。これは「我こそは真理なり(anā al-Ḥaqq)」という有名なスーフィー的「酔言」(shaṭḥ シャトフ)を述べた逸話でも有名な9-10世紀のスーフィー修行者ハッラージュ(Abū ʿAbd Allāh al-Ḥusayn al-Ḥallāj 858年頃 - 922年)が、悪魔イブリースが地獄の劫火に焼かれ、ファラオもモーセの出エジプトにおいて海でも溺れさせられても翻意しなかった事をあげ、イブリースやファラオの行動にこそ真の信仰とみて両者を称えた逸話にちなんでいる。

スーフィズムの思潮は、スーフィーの修行によって感得した境地を「我こそは真理なり」や「アッラーフに讃えあれ」と呼ぶべきところを「我に讃えあれ」といった「酔言」によって表現したり、数々の「奇行」を残した上記のハッラージュやアブー・ヤズィード・バスターミー(Abū Yazīd (Bāyazīd) Ṭayfūr al-Basṭāmī 804年頃? - 874年877年)に代表される「酔ったスーフィー」と、スーフィーの修行を積みつつムスリムとしての道徳や規範を遵守すべきとするジュナイドAbū Qāsim b. Muḥammad b. al-Junayd al-Baghdādī 830年頃? - 910年)に代表される「醒めたスーフィー」におおよそ大別される。イブン・タイミーヤはジュナイドの系列の「醒めたスーフィー」こそ真に実践すべきスーフィズムであり、否定すべき不信仰者の代表である悪魔イブリースやファラオと敬虔なムスリムとの区別すら否定する、ハッラージュやその伝統に属するイブン・アラビーとその論者たちを厳しく批判した。ジュナイドはバスターミーの後輩にあたり、ハッラージュはジュナイドの弟子のひとりであったが、ジュナイド自身はシャトフやスクル(sukr 陶酔)といった陶酔型のスーフィズムを不十分なものとして批判し、師であるバスターミーが陶酔状態こそ最高の境地としたことに対して、スクルの後に来る第2の素面である「酩酊からの覚醒、酔い覚まし」をこそより高い境地とみなした。ジュナイドはスクル(sukr 陶酔)よりサフウ(ṣaḥw 覚醒)、ファナー(fanā' 消融)よりもバカー(baqā' 存続)を重視した。この「陶酔」と「覚醒」いずれが最高の境地であるかについては、スーフィズムの思想史上の大きな問題として後代まで議論され、イブン・タイミーヤのイブン・アラビー批判もその延長線上にあると見る事が出来る。

しかしながら、イブン・タイミーヤが名指しするイブン・アラビーらの「酔言」に対して懸念した点は、アッラーフによって滅ぼされたファラオやイブリースといったこれらの存在も(ハッラージュやイブン・アラビーらが主張するように)「正しい」「真の信仰者」としてしまっては、不信仰者(カーフィル)へのジハードハッド刑も認められなくなってしまう事であり、これを許容してしまうとイスラームにおける社会秩序が崩壊してしまうため、イブン・タイミーヤをはじめとする(スーフィー行者であっても)ムスリムの社会性を重視するウラマー達にとっては断じて認められなかった。(実際に、ハッラージュはその過激な言動や見解についてしばしば師のジュナイドから叱正された逸話がアッタールの『神秘主義聖者列伝』等で伝えられており、さらに当時異端視されていたザンダカ主義者であるとの批判や、同じくファーティマ朝アッバース朝のカリフを認めず一時バグダード征服を狙って叛乱を起こしたカルマト派との繋がりの嫌疑を受け、最終的にはカリフ・ムクタディル(:en)の治世(922年)にバグダードで逮捕・処刑されている) イブン・タイミーヤの主張では、昨今のモンゴル帝国の侵攻や人々のシャリーア無視の原因は、こういった「存在一性論」の論者達等の出現によるものである、としていた[9]

著作[編集]

約800の著作がイブン・アラビーに帰せられているが、明確に彼の著作だと定説化しているものは多くはない。最近の研究は彼の著作の100以上が写本として残いるものの、ほとんどの印刷版は決定訂といえるものではなく、誤りも多い。[10]

  • マッカ啓示(The Meccan Illuminations) (Al-Futūḥāt al-Makkiyya), 37歳の時の、彼の最大の著作で37巻560章からなり、現在では4または8巻本で出版されている。神秘哲学からスーフィーの行い、彼の夢や幻視など広い内容を論じている。[1]
  • 叡智の台座(The Ringstones of Wisdom) (The Bezels of Wisdomという訳題もある[11])、またはFuṣūṣ al-Ḥikam。 生涯の後編に編纂され、神秘主義的な信仰と教えの概略で、イブン・アラビーの著作でもっとも重要な著作であるとしばしば考えられている。神の啓示における諸預言者の役割を扱っている。[12][13][14] この著作の真の著者はイブン・アラビーなのか、最近ひとつの史料が提出され議論されている。[15] その史料は、イブン・アラビーのものとされている合計74章分のうち56章が"Al-Futūḥāt al-Makkiyya"で言及されていて、そこで言及されている残りの部分が引用しているのは、他書が言及しているもので、これらの部分は偽書であり、イブン・アラビーに帰属させることは誤りであると主張している。しかし、他の多くの学者は真正のものだと受け入れている。[16][17]
  • Dīwān、5巻からなる未編集の集成で、印刷版は原著1巻だけに基づいている。
  • The Holy Spirit in the Counselling of the Soul (Rūḥ al-quds)、マグリブ地方における異なった精神的指導者から学んだ彼の経験の概略を含む魂に関する論文。一部はSufis of Andalusiaとして翻訳され、回想と彼がアンダルス地方であった多くの興味深い人々に関する精神的な小話
  • Contemplation of the Holy Mysteries (Mashāhid al-Asrār) 、これは恐らく彼の最初の主要著作で、15の幻視から構成されている神との対話である。
  • Divine Sayings (Mishkāt al-Anwār), 101のアッラーからの啓示(hadīth qudsī)のIbn 'Arabīによって作成された集成
  • The Book of Annihilation in Contemplation (K. al-Fanā' fi'l-Mushāhada), 神秘主義的な消滅 (fana)の意味に関する短論文
  • Devotional Prayers (Awrād), 週の毎日毎晩の14回の祈りに関する幅広い集成読解
  • Journey to the Lord of Power (Risālat al-Anwār), "距離のない旅"に関する手順と技術的手法の詳細
  • The Book of God's Days (Ayyām al-Sha'n), グノーシス主義により経験された異なった種類の日々と時の自然に関する著作
  • The Fabulous Gryphon of the West ('Unqā' Mughrib),イエスマフディーにおける聖人とその極点の意味を論じた書
  • The Universal Tree and the Four Birds (al-Ittihād al-Kawnī), 完全な人間と4つの存在原理に関する詩集
  • Prayer for Spiritual Elevation and Protection ('al-Dawr al-A'lā), ムスリム政界で広く使われている短い祈り
  • 渇望の解釈者(The Interpreter of Desires)[18] (Tarjumān al-Ashwāq) 恋愛詩 (ghazals) で、イブン・アラビーが批判に応じて詩の象徴する意味の説明の注釈を入れて再版したもの
  • Divine Governance of the Human Kingdom (At-Tadbidrat al-ilahiyyah fi islah al-mamlakat al-insaniyyah).
  • The Four Pillars of Spiritual Transformation (Hilyat al-abdāl) 、精神的階梯の本質に関する短論

脚注[編集]

  1. a b c d The Meccan Revelations”. World Digital Library (1900-1999). 2013年7月15日閲覧。
  2. ^ 東長靖「第4章 イブン・アラビーの存在一性論学派」『イスラームとスーフィズム』 2013年、108-113頁
  3. ^ 東長靖「第4章 イブン・アラビーの存在一性論学派」『イスラームとスーフィズム』 2013年、113-115頁
  4. ^ 東長靖「第4章 イブン・アラビーの存在一性論学派」『イスラームとスーフィズム』 2013年、114頁
  5. ^ 井筒俊彦『意識の形而上学』中公文庫、2001年、P.36頁。
  6. a b 井筒俊彦『意識の形而上学』中公文庫、2001年、P.37頁。
  7. ^ 東長靖「第4章 イブン・アラビーの存在一性論学派」『イスラームとスーフィズム』 2013年、117-122頁
  8. ^ 東長靖「存在一性論学派における存在論と完全人間論」『イスラームとスーフィズム』 2013年、143-145頁
  9. a b 東長靖「マムルーク朝初期のタサウウフの位置づけ」『イスラームとスーフィズム』 2013年、210-215頁
  10. ^ Ibn Arabi (560-638/1165-1240)
  11. ^ シドファル著谷口勇訳『アンダルシア文学史』(1983年芸立出版)では題名を『知恵の金剛石』と訳している
  12. ^ Naqvi, S. Ali Raza, THE BEZELS OF WISDOM (Ibn al-'Arabī's Fuṣūṣ al-Ḥikam) by R.W.J. Austin (rev.), Islamic Studies, Vol. 23, No. 2 (Summer 1984), pp. 146-150
  13. ^ Chittick, William C. "The Disclosure of the Intervening Image: Ibn 'Arabî on Death", Discourse 24.1 (2002), pp. 51-62
  14. ^ Almond, Ian. "The Honesty of the Perplexed: Derrida and Ibn 'Arabi on 'Bewilderment'", Journal of the American Academy of Religion, Vol. 70, No. 3 (Sep., 2002), pp. 515-537
  15. ^ Al Futuhat Al Makkiyya, Dar Sader, Beirut, Lebanon, Book 1, pg 7
  16. ^ Chittick, William C. "The Disclosure of the Intervening Image: Ibn 'Arabi on Death" Discourse 24.1 (2002) 51-62
  17. ^ Notes on Fusus ul Hikam, Reynold A. Nicholson, Studies in Islamic Mysticism
  18. ^ シドファル著谷口勇訳『アンダルシア文学史』(1983年芸立出版)では題名を『情熱の解脱者』と訳している

参考文献[編集]

  • 東長靖「イブン・アラビー」『岩波イスラーム辞典』(岩波書店、2002年) ISBN 978-4-00-080201-7
  • 東長靖『イスラームとスーフィズム ―神秘主義・聖者信仰・道徳―』(名古屋大学出版会, 2013年2月)
同「第4章 イブン・アラビーと存在一性論学派」108-122頁
同「第10章 マムルーク朝初期のタサウウフの位置づけ ―イブン・タイミーヤの「スーフィズム」批判を中心として―」190-203頁
同「第11章 マムルーク朝末期におけるタサウウフをめぐる論争 ―ビカーイー・スユーティー論争を中心に―」190-203頁
  • リチャード・ヴァーダリー「イブン・アル・アラビー」『世界伝記大事典 世界編 1』(ほるぷ出版、1980年)
  • 古林清一「イブン=アルアラビー」『世界歴史大事典 2』(教育出版センター、1991年) ISBN 978-4-7632-4001-9
  • 井筒俊彦『イスラーム思想史』(中公文庫、1991年)
  • 井筒俊彦『意識の形而上学』(中公文庫、2001年)

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[일어 한역] 이븐 아라비
이븐 아라비

이븐 아랍어 ( 아랍어 : ابن عربيي ‎ Ibn al-ʿArabī, 아랍어 : محي الدین أبو عبد الله محمد بن علي بن محمد بن الع ḥī al-Dīn Abū ʿAbd Allāh Muḥammad ibn ʿAlī ibn Muḥammad ibn al-ʿArabī al -Ḥātimī aṭ-Ṭāʾī 생몰년 1165년 7월 28일 - 1240년 11월 10일 [1] )은 중세 이슬람 사상가 . 존재 일성론·완전 인간론을 외우고 이슬람 신비주의 ( 수피즘 )의 확립에 기여해, 후세에 영향을 주었다.

평생 편집 ]

이슬람교도 의 세비야 왕국 의 지배하에 있던 안달루시아의 무르시아 에서 아랍계  명문으로 태어난다. 12세기 후반은 세비야의 통치자였던 무와히드 아침의 아부 야 아쿠브 유스프 1세 (재위: 1163년 -1184년 )의 통치였으며, 유스프 1세는 문화를 중시했기 때문에 궁정 에는 이븐 루슈드 (아벨로에스)나 이븐 투파일 등이 모여 세비야는 당시를 대표하는 문화도시 중 하나였다.

아버지 알리는 이븐 루슈드와 친해졌으며, 후년 주저의 하나 '마카 계시'에서의 설명에 따르면 이븐 아라비가 이븐 루슈드와 면회한 것은 15~16세 때였다고 하며, 노령 이다 . 이븐 루슈드는 이븐 아라비의 통찰력에 놀랐다고 한다. 그 후에도 이븐 루슈드 등과의 교류는 이어 1194년 에 이븐 루슈드가 코르도바 에서 죽었을 때 이븐 아라비는 30세로 그 장례에 참렬하고 있다. 청소년기에 세비야 에서 법학 · 신학 · 하디스학을 배운다. 그 무렵, 병상에 있던 그는 환시 체험에서 수피즘 (taṣawwuf 타사우프, 타사우프)을 배우게 되었다. 이후의 10년정도를 안달루시아· 마그리브 각지를 편력해, 수피행자와 함께 수행했다. 이 시기에 이븐 아라비가 가르친 슈피의 스승으로서 아부 자아팔 우라이니(Abū Jaʿfar al-ʿUraynī), 아부 야아쿠브 카이시(Abū Yaʿqūb al-Qaysī), 사리프 아다위 ), 아부 하자주 유스프(Abū al-Ḥajjāj Yūsuf) 등이 있으며, 파티마 빈트 무산너(Fāṭima bint al-Muthannā), 샴스 움후카라(Shams Umm al-Fuqarā') 등 여성 수피 행자로부터 스승으로 배운 것으로 알려져 있다.

이븐 아라비는 그 삶의 대부분을 여행에 쓰고 있다 [1] . 히줄라 달력 597년( 1200년 -1201  )에 이븐 아라비는 꿈 고를 받고 마카 (메카)에의 순례를 뜻하며 동방으로 여행을 떠났다. 1202년 에 카이로 , 예루살렘을 거쳐 마카 순례를 완수한 그는 그대로 동지에 2년간 체재해, 한층 더 연구에 몰두한다 [1] . 1204년 , 그는 마카에서의 연구의 집대성인 ' 마카 계시 '( الفتوحات المكية al-Futūḥāt al-Makkiyya)를 저술했다.

다음 1204년 , 아나톨리아를 나와 콘야 , 말라 티아의 순례단을 이끌어 온 마주두딘 이스하크(Shaykh Majd al-Dīn Isḥāq ibn Yūsuf)를 만나, 이븐 아라비의 교설에 감명한 이스하크의 권유를 받아 1205년에 콘야로의 복귀에 동행하게 되었다. 그 후도 귀환의 순례단과 함께 바그다드 모슬을 거쳐 이스하크의 권고도 있어 말라 티아 로 이주했다. 이 시기에 룸 셀주크 아침 의 카이호스로우 1세가 콘야 에서 복위(재위: 1205년 -1210  )하고, 이스하크가 카이호스로우의 궁정에 초대되었을 때에 이븐 아라비도 동시에 엿보며 속견해, 하사품을 받았다. 이 마주 두딘 이스하크의 아들은 나중에 이븐 아라비의 직제자 중 한 명으로 이븐 아라비의 교설의 유포에 분주한 새돌딘 쿠나위(Ṣadr al-Dīn al- Qunawī ) 이다 . 이듬해에도 이븐 아라비는 인근으로의 여행을 계속해 예루살렘 카이로 마카 등을 방문해 1210년에는 콘야로 다시 돌아왔다. 1212년 바그다드에 가고 있는데, 이것은 카이호스로우 1세 이후를 이어받은 카이커우스 1 (재위 1211년 -1220  ) 즉위의 보고를 칼리프 궁정에 보고하기 위해 동지를 방문하고 있던 이스하크와 동도한 것으로 생각된다. 이븐 아라비는 카이커우스 1세를 위한 실천적인 어드바이스를 서한으로 남기고 있다. 이 시기 이븐 아라비는 알레포 나 시바스를 방문하고 있지만, 주로 말라티아에서 생활을 하고 있다. 또 1221년 에는 아들 사아두딘 무하마드(Saʿd al-Dīn Muḥammad 1221년 -1258년 ) 를 벌었다.

만년은 지원자였던 부자의 초청으로 다 마스크스 에 살을 정했다. 늦어도 1230년 에는 동지에 있는 것으로 알려져 있지만, 여기에서는 그의 언설에 대한 반대자로부터의 엄격한 비판을 받았지만, 동시에 많은 옹호자에게도 축복받았다. 그는 거기서 몽고에 의해 아담 으로부터 선지자 무하마드 에 이르는 27명의 선지자 의 전기·사상론집인 '지지의 받침대 '( فصوص الحكم Fuṣūṣ al-Ḥikam)를 저술했다. 그 자신의 말에 따르면 꿈 속에 선지자 무하마드가 나타나 건네받은 책의 이름이 '지혜의 받침대'였다고 한다. 또한 그는 시인과 자히르파 ( en:Ẓāhirī ) 우라머로 도 알려진 저작을 남기고 있으며, 그 수는 평생 200을 넘는다. 그의 몰후, 교외의 카시온 산 중복에 묘묘가 세워져, 일부의 이슬람교도에서는 순례의 대상지로 되어, 묘묘 주변은 그의 이름에 연관된 「무후이딘 지구」라고 하는 지구명으로 불리는 정도이다 [2] .

사상과 비판 편집 ]

「존재 일성론」과 「완전 인간설」편집 ]

그는 이슬람 신비주의에서 가장 중요하고 고급 사상가였다. 이븐 아라비의 사상의 특징을 정리하면 '존재 일성론'(waḥda al-wujūd)이라는 존재론과 '완전 인간'(insān kāmil)이라는 인간론으로 각각 대표시킬 수 있다. 

이 세상은 모두 한자리의 자기현현(tajallī)으로 이해된다. 즉, 이 세계에는 자존하고 있는 「무한정 존재」(wujūd muṭlaq)인 신 알라프와, 그 자체에서는 비존재하지만 알라프에 의거하는 것으로 처음 존재할 수 있는 「피한정 존재」( wujūd muqayyd)인 피조물로 크게 나누어진다. 

이븐 아라비는 이것에 더하여, 그들 중 어느 것과도 다른 제 3 요소로서 「진실재의 진실성(ḥaqīqa al-ḥaqā'iq)」을 상정한다[3 ] . 

만물은 겉보기에는 전혀 다른 것처럼 보이지만, 실은 모두 하나님의 지혜 속에 있는 1형태에 불과하고, 본질적으로는 동일한 물체라고 하는 것이 「존재 일성론」(Waḥda al- wujūd)이다. 

(단, 「존재 일성론」이라는 용어 자체는 이븐 아라비 자신은 사용하지 않고, 최초로 「존재 일성론」이라는 용어를 사용하기 시작한 인물이 누구인지 제설이 있다. 최근, 그 후보자로서 이븐 아라비의 비판자였던 이븐 타이미야 가 최초의 한 사람이라고 하는 연구가 나오고 있다.) [4]

또한 인간이란 하나님이 가지는 모든 속성의 집합체로 구성되어 있으며, 그 중에서도 그것을 자각한 「완전 인간」(insān kāmil)이라고 부르는 사람이 선지자이며, 무함마드는 그 마지막 인물 라고 하는 「완전 인간」(insān kāmil)에 의해 구성되어 있어 

인간은 원래부터 신의 일부인 이상, 마음이나 의식에 고통을 초래하는 금욕적인 탐구를 취하는 것은 무의미하다고 주창한 것이다.

종교와 신앙의 말에서 '신'이라고 부르는 것을 이븐 아라비는 철학 용어의 차원에서 '존재'(wujūd)라고 부른다. 

이것은 현실에 이 세상에 존재하고 있는 「존재자」나 「현실 존재」(mawjūd)와는 완전히 다른 원리 존재라고 한다. 

그리고 그 존재의 궁극위를 프로티노스 의 「한자」와 같이 「존재의 그분」에 두는 것과 동시에, 그것이 전 존재 세계의 태원이라고 생각했다[5 ] . 

이븐 아라비의 「존재」는, 무명 무상, 즉 일체의 「…이다」라는 술어를 받아들이지 않는다. 「신이다」라고도 말할 수 없다. 왜냐하면 신 이전의 신은 보통 의미의 신이 아니기 때문이다 [6] . 

'존재'(wujūd)에는 '자기현현'(tajallī)을 향하는 지향성이 본원적으로 갖추어져 있으며, '숨겨진 신'은 '표현된 신'이 되지 않을 수 없다. 

무명의 '존재'가 '알라'라는 이름을 지니는 이 단계는, 베단타 철학에서 의미분절하기 이전의 전체 존재인 '상범'에서 말로 표현할 수 있는 경험적 세계인 '이름 "색"으로 바뀌는 단계에 해당한다고, 이즈츠 토시히코는 해설한다 [6] .

그의 사상은 제자의 서들딘 쿠나위 ( Ṣadr al-Dīn al-Qunawī ) 등에 의해 체계화되어 모든 이슬람교도 (및 일부 기독교 사상가)에 영향을 미치는 반면 , 이븐 타이 미야 에게 대표되는 반대론을 주창하는 사상가를 만들어 내고 이슬람교의 사상·역사에 큰 영향을 미치게 된다.

이븐 아라비 사상과 「존재 일성 논학파」의 전개 편집 ]

직제자였던 쿠나위1207년 -1274년 )는, 사색이 가득 채서 서술한 이븐 아라비의 작품을 정리해, 그들에게 스스로 주석을 베푸는 등 체계화에 근무했다 쿠나위는 '지혜의 받침대'의 주석을 붙인 것 외에도 같은 책의 주석을 저술한 장디(Mu'ayyid al-Dīn al-Jandī ? - 1291년경?)나 이븐 아라비의 사상을 철학 적 더욱 심화시킨 티림 서니('Afīf al-Dīn al-Tilimsānī 1291년), 페르시아어 신비주의 시인으로 유명한 이라키(Fakhr al-Dīn Ibrahīm 'Irāqī) 등 후진달의 육성도 실시하고 있다 . 그 중에서도 일한 아침 에는 쿠나위와 잔디로부터 가르친 스프라와르디 교단에 속하는 수피 사상가 압둘라자크 셔니 의 정확성을 주장하고, 알라프의 최고성을 강하게 주장하고 이븐 아라비를 비판한 동시대인 알라우다우라 심나니(ʿAlā' al-Dawla Simnanī, 1336년 몰)와 논쟁을 벌이고 있다 . 카셔니는 이란 이후의 이븐 아라비의 사상의 전개에도 큰 발자취를 남기고 있으며, 카셔니의 제자 다우드 카이사리(Dāwūd al-Qayṣarī 1260년경 - 1351 ), 카이사리의 제자 루크누딘 시러즈이(Rukn al-Dīn al-Shiīrāzī, 1367  몰)가 있지만, 3자 모두 '지치의 받침대'의 주석서를 두고 있으며, 카셔니와 카이사리의 주석 책은 지역을 불문하고 널리 읽혔다. 시라즈이의 주석서는 페르시아어 번역이 되었으며, 이것이 페르시아어 번역 '이지의 받침대'의 주석서로는 가장 오래된 하나이다.

다마스크스에서 이븐 아라비나 쿠나위와 친교를 가진 사아두딘 한무야라는 인물의 제자, 아즈즈 나사피가 '완전 인간'(Kitāb al-insān al-kāmil)이라는 페르시아어에 의한 이븐 아라비 사상의 해설서 을 현저하게 하고, 이것이 페르시아어 문화권에 있어서의 이븐 아라비의 사상적 영향을 크게 남겼다. 역시 같은 '완전 인간'이라는 서명의 아랍어에 의한 저서를 남긴 압둘 카림 지리( ʿ Abd al- Karīm al-Jīlī , 1326년 -1424  )가 있어, 예멘 의 라술 조치하의  비드에서 후반생을 지내고, 「마카 계시」의 이해 곤란한 부분에 주석을 베푸는 등을 하고 있다. 15세기 에는 티무르 아침 시대에 활약한 호러산 출신의 수피시인 쟈미가 , 「지치의 받침대」나 그것을 이븐 아라비 본인이 요약한 「받침대의 각인」(Naqsh al-Fuṣūṣ)에 각각 주석을 베풀어 있습니다. 저미는 소위 존재 일성 논학파 중에서도 가장 유명한 사상가 중 한 명이다.

이란과 중앙아시아에서의 아라비 연구는 주로 페르시아 어역서나 주석서를 통해 중국에도 전파되어 한문에 의한 이슬람 사상의 저술이 시작되는 17세기 전후부터 이븐 아라비의 존재 일성론의 영향을 보았다. 된다. 『청진대학』의 저자 왕다케마 ( 1570 년경 - 1657 년경 )와 『歸眞總義』의 장중( 1670 년몰), 아즈즈 나사피와 쟈미의 저작을 한역한 찬기령( 1710년 몰)들이 있다.

한편, 오스만 아침 에서는 창건 당초부터 이븐 아라비에 경사하는 사상가가 많아, 오스만 아침 시대의 지식인, 사상가의 대부분은 어떠한 형태로 그 사상적 영향화 있다고 한다. 상술한 다우드 카이사리가 이즈니크로 지어진 최초의 마드라사 의 초대 학원장을 근무하고, 그 후에도 『마카 계시』나 쿠나위의 저작 등을 주석, 페르시아어, 오스만어로 번역하는 우라마가 육속으로 나타나 , 오스만 아침 최초의 샤이플=이슬람으로 여겨지는 뮬러 파나리( Mullā Shams al-Dīn Fanārī 1350년 -1431년 )도 '마카 계시'나 쿠나위의 저서 '현비 의 열쇠'(Miftāḥ al-Ghayb) 주석서를 저술해, 한층 더 동서나 「지혜의 받침대」의 석강을 실시하고 있다.

이집트에서는, 이븐 아라비에 대한 비판자도 많았지만, 맘루크 아침 시대를 중심으로 「존재 일성론학파」의 학통은 융성했다[7 ] .

이븐 아라비와 그 학파에 대한 비판 편집 ]

그의 교설은 각지에 열광적인 지지자를 낳는 한편, 반대파도 많아, 카이로에서는 암살 계획이 있었다고 한다.

이븐 아라비의 완전 인간론에서는, 수행의 도중에, 인간은 신 알라프의 이름·속성(알라프의 99의 미명)은 물론, 본질까지도 체험할 수 있다고 한다 [ 8 ] . 

유일한 신 알라프는 인간과는 절대적으로 격절된 높이에 있다고 하는 주장은 수피즘의 발흥기부터 존재하고, 이븐 아라비의 존재 현현론 그 자체는 인정하면서도, 알라프의 최고성을 유지하기 위해서 는 '본질까지 체험할 수 있다'는 부분에 반발하는 논자도 많았다. 

그 대표적인 인물 가운데 이븐 타이미야가 있으며, 15세기의 비카이 (Burhān al-Dīn al-Biqāʿī 1406 년경 1480년 ) 와 마찬가지로 스유티 ( Jalāl al-Dīn al-Suyuṭī 1445 년 ) 라고 하는 유명한 학식자들이 이븐 아라비 비판을 전개한 것도, 주로 이븐 아라비의 「존재 일성론」이나 「완전 인간설」로 설설되어 있는 「조물주인 알라프와 피조물을 구별 하지 않는다” 입장에 관한 것이었다 [9] .

이븐 타이미야 등을 포함한 많은 유명한 우라머가 이븐 아라비는 무슬림이 아니라고 단절했다. 그가 저작중에 제시한 사상은 이슬람의 틀을 넘는 것이 있고, 예를 들면 그는 고대 이집트의 파라오가 자신을 하나님이라고 여겼던 것을 옳다고 주장 하고 있다 . 이것은 ‘우리 진리나리(anā al-Ḥaqq)’라는 유명한 수피적 ‘취언’(shaṭḥ 샤토프)을 말한 일화로도 유명한 9-10세기 수피수행자 할라주( Abū ʿ Abd Allāh al- Ḥusayn al-Ḥallāj 858년경 - 922년 ) 이 악마 이브리스가 지옥의 불에 구워져 파라오도 모세의 출애굽에서 바다 에서도 익사되어도 의심하지 않은 것을 들고 이브리스와 파라오의 행동에 그야말로 진정한 신앙으로 보고 양자를 기리는 일화에 연관되어 있다.

수피즘의 사조는, 수피의 수행에 의해 감득한 경지를 「나야말로 진리가 된다」나 「알라프에게 칭찬해라」라고 부르는 곳을 「나에게 칭찬해라」라고 하는 「취언」에 의해 표현하거나, 수많은 의 「기행」 을 남긴 상기의 할라주나 아부야지드・바스타미( Abū Yazīd (Bāyazīd) Ṭayfūr al-Basṭāmī 804 년경 ? 수행을 쌓으면서 무슬림으로서의 도덕과 규범을 준수해야 하는 주나이드 ( Abū Qāsim b. Muḥammad b. al-Junayd al-Baghdādī 830 년경?)로 대표되는 '볶은 수피'로 대략 대별된다. 

이븐 타이미야는 쥬나이드 계열의 '성숙한 수피'야말로 진정으로 실천해야 할 수피즘이며, 부정해야 할 불신앙자의 대표인 악마 이브리스와 파라오와 경건한 무슬림과의 구별조차 부정하는, 할라주와 그 전통에 속하는 이븐 아라비와 그 논자들을 엄격히 비판했다. 주나이드는 버스터미의 후배이자, 할라지는 주나이드의 제자 중 한 명이었지만, 주나이드 자신은 샤토프나 스쿨(sukr 도취)과 같은 도취형의 수피즘을 불충분한 것으로 비판하고, 스승인 버스터미가 도취 상태야말로 최고의 경지로 한 것에 대해, 스쿨 뒤에 오는 제2의 소면인 '酩酊에서의 각성, 술취함'을야말로 더 높은 경지로 간주했다. 주나이드는 스쿨(sukr 도취)보다 사후(ṣaḥw 각성), 파너(fanā' 소융)보다 바커(baqā' 존속)를 중시했다. 이 '도취'와 '각성' 어느 것이 최고의 경지인지에 대해서는 수피즘의 사상 사상의 큰 문제로 후대까지 논의되어 이븐 타이미야의 이븐 아라비 비판도 그 연장선상에 있다고 보는 것이 할 수 있다.

그러나 이븐 타이미야가 지칭하는 이븐 아라비 등의 '취언'에 대해 우려한 점은 알라프에 의해 멸망된 파라오나 이브리스 등의 이러한 존재도 ) 「올바른」 「진정한 신앙자」로서 버려서는, 불신앙자(카필)에의 지하드나 허드형도 인정되지 않게 되어 버리는 일이며, 이것을 허용해 버리면 이슬람에 있어서의 사회 질서  붕괴 하기 때문에, 이븐 타이미야를 비롯한 (수피 행자여도) 무슬림의 사회성을 중시하는 우라마들에게는 단지 인정되지 않았다. (실제로, 할라지는 그 과격한 언동이나 견해에 대해 자주 스승의 주나이드에서 꾸짖은 일화가 아타르의 '신비주의 성자 열전' 등으로 전해지고 있으며, 또한 당시 이단시되고 있던 잔다 카 주의자 로 있다는 비판이나, 마찬가지로 파티마 아침 이나 아바스 아침의 칼리프를 인정하지 않고 일시 바그다드 정복을 노리고 반란을 일으킨 카르마트파와의 연결의 혐의를 받아 최종적으로는 칼리프 뮤크타딜( en )  통치 ( 922년 )에 바그다드로 체포·처형되고 있다) 이븐 타이미야의 주장에서는, 요즈음의 몽골 제국의 침공이나 사람들의 샤리아 무시의 원인은, 이러한 「존재 일성론」의 논자 들  의 출현으로 인한 것입니다.[9]

저작 편집 ]

약 800개의 저작이 이븐 아라비로 돌아갈 수 있지만, 명확하게 그의 저작이라고 정설화하고 있는 것은 많지 않다. 최근의 연구는 그의 저작의 100 이상이 사본으로 남아 있지만, 대부분의 인쇄판은 결정정이라고 할 수 있는 것이 아니고, 잘못도 많다. [10]

  • 맥카 계시(The Meccan Illuminations) ( Al-Futūḥāt al-Makkiyya ), 37세 때 그의 가장 큰 저작으로 37권 560장으로 이루어져 현재는 4 또는 8권 책으로 출판되고 있다. 신비철학에서 수피를 실시해 그의 꿈이나 환시 등 넓은 내용을 논하고 있다. [1]
  • 지혜의 받침대(The Ringstones of Wisdom) ( The Bezels of Wisdom 이라는 번역제도 있다 [11] ), 또는 Fuṣūṣ al-Ḥikam . 평생의 후편에 편찬되어 신비주의적인 신앙과 가르침의 개요로, 이븐 아라비의 저작에서 가장 중요한 저작이라고 자주 생각되고 있다. 하나님의 계시에서 여러 선지자의 역할을 다룬다. [12] [13] [14] 이 저작의 진정한 저자는 이븐 아라비인지, 최근 하나의 사료가 제출되어 논의되고 있다. [15] 그 사료는, 이븐 아라비의 것으로 여겨지고 있는 합계 74장분 중 56장이 "Al-Futūḥāt al-Makkiyya"로 언급되고 있고, 거기에 언급되고 있는 나머지 부분이 인용한다 다른 책이 언급하고 있는데, 이들 부분은 가짜이며 이븐 아라비에 귀속시키는 것은 잘못이라고 주장한다. 그러나 다른 많은 학자들은 진정한 것이라고 받아들입니다. [16] [17]
  • Dīwān , 5권으로 이루어진 미편집의 집합으로, 인쇄판은 원저 1권만에 근거하고 있다.
  • The Holy Spirit in the Counselling of the Soul ( Rūḥ al-quds ), 마그리브 지역의 다른 정신적 지도자로부터 배운 그의 경험의 개요를 포함한 영혼에 관한 논문. 일부는 Andalusia of Sufis 로 번역되었으며 회상과 그가 안달루스 지방이었던 많은 흥미로운 사람들에 대한 영적 소화
  • Contemplation of the Holy Mysteries ( Mashāhid al-Asrār ), 이것은 아마 그의 첫번째 주요 저작이고, 15의 환시로 구성된 신과의 대화이다.
  • Divine Sayings ( Mishkāt al-Anwār ), 101 알라의 계시 (hadīth qudsī)의 Ibn 'Arabī에 의해 만들어진 집합
  • The Book of Annihilation in Contemplation ( K. al-Fanā' fi'l-Mushāhada ), 신비주의적 소멸 ( fana )의 의미에 관한 단논문
  • Devotional Prayers ( Awrād ), 매주 매일 밤 14 번의 기도에 대한 광범위한 독서
  • Journey to the Lord of Power ( Risālat al-Anwār ), "거리 없는 여행"에 대한 절차 및 기술적 방법에 대해 자세히 알아보기
  • The Book of God's Days ( Ayyām al-Sha'n ), 그노시스주의 에 의해 경험된 다른 종류의 일상과 시간의 자연에 관한 저작
  • The Fabulous Gryphon of the West ( ' Unqā' Mughrib ) , 예수 와 머프디에서 성인과 그 극점의 의미를 논한 책
  • The Universal Tree and the Four Birds ( al-Ittihād al-Kawnī ), 완전한 인간과 4개의 존재 원리에 관한 시집
  • Prayer for Spiritual Elevation and Protection (' al-Dawr al-A'lā ), 무슬림 정계에서 널리 사용되는 짧은 기도
  • 갈망 의 해석자(The Interpreter of Desires [ 18 ]
  • 인간 왕국의 신성한 통치 ( At-Tadbidrat al-ilahiyyah fi islah al-mamlakat al-insaniyyah ).
  • The Four Pillars of Spiritual Transformation ( Hilyat al-abdāl ) , 정신적 계단의 본질에 관한 단론

각주 편집 ]

  1. ↑ d “ The Meccan Revelations ”. World Digital Library (1900-1999). 2013년 7월 15일에 확인함.
  2.  동장 야스 “제4장 이븐 아라비의 존재 일성론학파” “이슬람과 수피즘” 2013년, 108-113쪽
  3.  동장 야스 “제4장 이븐 아라비의 존재 일성론학파” “이슬람과 수피즘” 2013년, 113-115쪽
  4.  동장 야스 “제4장 이븐 아라비의 존재 일성론학파” “이슬람과 수피즘” 2013년, 114쪽
  5. 이통 슌히코 「의식의 형이상학」중 공문고, 2001년, P.36페이지.
  6. b 井通 俊彦 「의식의 형이상학」중 공문고, 2001년, P.37페이지.
  7.  동장 야스 “제4장 이븐 아라비의 존재 일성론학파” “이슬람과 수피즘” 2013년, 117-122쪽
  8.  동장 야스 “존재 일성론학파에 있어서의 존재론과 완전 인간론” “이슬람과 수피즘” 2013년, 143-145쪽
  9. ↑ b 동장 야스 “마무루크 아침 초기의 타사우프의 위치설정” “이슬람과 수피즘” 2013년, 210-215페이지
  10. ↑ 이븐 아라비(560-638/1165-1240)
  11.  시드팔 저곡구 용역 「안달루시아 문학사」(1983년 예립 출판)에서는 제목을 「지혜의 금강석」이라고 번역하고 있다
  12. ^ Naqvi, S. Ali Raza, 지혜의 베젤(Ibn al-'Arabī의 Fuṣūṣ al-Ḥikam) by RWJ Austin(rev.), 이슬람 연구, Vol. 23, 2호(1984년 여름), 146-150면
  13. ^ Chittick, William C. "중재 이미지 공개: Ibn 'Arabî on Death", Discourse 24.1 (2002), pp. 51-62
  14. ^ 아몬드, 이안. "당황한 자의 정직: '당황'에 관한 Derrida와 Ibn 'Arabi', 미국 종교 아카데미 저널, Vol. 70, 3호(2002년 9월), 515-537쪽
  15. ^ Al Futuhat Al Makkiyya, Dar Sader, 베이루트, 레바논, 제1권, 7페이지
  16. ^ Chittick, William C. "중재 이미지 공개: Ibn 'Arabi on Death" 담론 24.1 (2002) 51-62
  17. Fusus ul Hikam에 대한 노트, Reynold A. Nicholson, 이슬람 신비주의 연구
  18.  시드팔 저곡구 용역 「안달루시아 문학사」(1983년 예립 출판)에서는 제목을 「정열의 해탈자」라고 번역하고 있다

참고 문헌 편집 ]

  • 히가시나가 야스 “이븐 아라비” “이와나미 이슬람 사전”(이와나미 서점, 2002년) ISBN 978-4-00-080201-7
  • 히가시나가야스 “이슬람과 수피즘 ―신비주의·성자 신앙·도덕-”(나고야 대학 출판회, 2013년 2월)
동「제4장 이븐 아라비와 존재 일성론학파」108-122면
동 「제10장 맘루크 아침 초기의 타사우프의 위치설정 ―이븐 타이미야의 「수피즘」비판을 중심으로 ―」190-203페이지
동「제11장 맘루크 조말기의 타사우프를 둘러싼 논쟁―비카이・스유티 논쟁을 중심으로―」190-203쪽
  • 리처드 버달리 「이븐 알 아라비」 「세계 전기 대사전 세계편 1」(호루푸 출판, 1980년)
  • 고바야시 키요이치 「이븐=알아라비」 「세계 역사대사전 2」(교육 출판 센터, 1991년) ISBN 978-4-7632-4001-9
  • 이츠키 슌히코『이슬람 사상사』(중공 문고, 1991년)
  • 이통 슌히코 「의식의 형이상학」(중공 문고, 2001년)

 

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[한국어] 이븐 아라비

이븐 아라비

이븐 아라비(아랍어أبو عبد الله محمد بن علي بن محمد بن العربي الحاتمي الطائي, Abū ʿAbd Allāh Muḥammad ibn ʿAlī ibn Muḥammad ibn ʿArabī al-Ḥātimī aṭ-Ṭāʾī, 1165년 7월 26일 ~ 1240년 11월 16일)은 이슬람의 신비주의 사상가이다. '종교의 재생자', '최대의 스승'이라고도 불린다.[1]

생애[편집]

이븐 아라비는 1165년 에스파냐에서 태어났다. 일찍이 여러 곳을 여행하며 신비주의자들과 교류하였다. 1202년 메카를 순례하러 떠난 후 고향으로 가지 않고 이집트헤자즈이라크터키를 전전하다가 1240년 다마스커스에서 사망하였다.[1]

사상[편집]

이븐 아라비는 가잘리에 의해서 부정된 플라톤주의를 신비주의에 도입하였는데, 이로 인하여 정통파들에게 이단시되어 사후에까지 많은 논쟁의 원인이 되었다. 그의 사상은 후대의 신비주의 교단과 페르시아 제국의 시인들에게 많은 영향을 주었고, 시아파 신학에 도입되어 사파비 왕조하의 이란에서는 신학교에서 그의 사상을 가르치기도 하였다.

저서[편집]

저서가 800편이 넘는 것으로 알려져 있다. 그는 신비적 체험을 바탕으로 많은 글을 썼는데, 대표적인 것으로는 《메카 계시》와 《예지의 보석》이다. 《메카 계시》는 신비주의의 백과사전으로 일컬어지고, 천사로부터 계시받은 내용을 저술한 것이다.[1] 《예지의 보석》은 예언자 무함마드로부터의 계시를 저술한 것이고, 이후 100편이 넘는 주석서가 쓰였다.

참고 문헌[편집]

  • 學園出版公社 事典編纂局 편, 《學園世界大百科事典》, 서울: 學園出版公社, 1993.

각주




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