유식3 [唯識]
유식설
불교 |
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유식설(唯識說)은 인간의 현실존재를 구성하고 있는 여러 가지 법은 실유(實有)가 아니고, 그 실상(實相)은 공(空)이라고 본다. 하지만, 무차별하고 한결같은 공의 차원에 의거하여 다양하지만 일정하게 질서있는 현실의 모든 차별상이 나타난다고 할 수는 없다고 주장한다. 모든 종류의 법이 현재 있는 것과 같이 성립하기 위해서는 각각 공에 근거된 원인이 있지 않으면 안 된다고 본다. 그리고 그 원인은 이미 가능성의 상태에서 존재한다고 보며 그것을 종자라고 부른다. 유식설에서, 종자라고 하는 것은 법을 나타나게 하는 가능력을 말한다. 이와 같은 가능력이 순수한 정신작용 즉 식(識)이라고 유식설은 주장한다.
유식설에 따르면, 식이라는 것은 대상을 분별하여 아는 작용이다. 만유는 식에 의하여 현현(顯現)한 것에 불과한 것이라고 유식설은 주장한다. 이 동향을 식체의 전변이라고 한다. 식체가 전변하여 세 가지 종류의 식을 성립시킨다. 첫째로 아라야식은 근본식이라고도 하는 것인데, 이는 제법의 종자가 된다. 둘째로 사량의 작용을 하는 말나식으로서, 말나식은 아라야식에 의존하여 일어나지만 아라야식을 대상으로 하여 아집을 일으킨다. 셋째로 안식 · 이식 · 비식 · 설식 · 신식 · 의식의 6식인데 각각 색 · 성 · 향 · 미 · 촉 · 법을 인식한다.
그런데 자기의 대상을 공(空)이라고 깨달아 실재하는 것을 인정하지 않을 경우에는 마음은 유식성(唯識性)에 존재한다. 이와 같은 경지에 도달한 수행자는 생사(生死)와 열반(涅槃)을 상이한 별개의 것으로 보지 않기 때문에 그 어느 것에도 존재하지 않는다.
그는 진여의 지혜(반야 · 보리)를 소유하고 있기 때문에 생사의 차원에서 존재되지 않는다. 또한 자비를 갖고 있기 때문에 중생을 구제하는 일에 노력하여 권태함이 없으며, 열반에 머무르는 일도 없다. 구체적인 덕목으로서는 6도를 실천한다.
같이 보기[편집]
唯識
唯識(ゆいしき、サンスクリット語: विज्ञप्तिमात्रता Vijñapti-mātratā)とは、個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、唯(ただ)、8種類の識(八識)によって成り立っているという大乗仏教の見解の一つである(瑜伽行唯識学派)。ここで、8種類の識とは、五種の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識を指す。よって、これら8種の識は総体として、ある個人の広範な表象、認識行為を内含し、あらゆる意識状態やそれらと相互に影響を与え合うその個人の無意識の領域をも内含する。
あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な存在であり客観的な存在ではない。それら諸存在は無常であり、時には生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在は「空」であり、実体のないものである(諸法空相)。このように、唯識は大乗仏教の
概要[編集]
唯識思想では、各個人にとっての世界はその個人の表象(イメージ)に過ぎないと主張し、八種の「識」を仮定(八識説)する。
- まず、視覚や聴覚などの感覚も唯識では識であると考える。感覚は5つあると考えられ、それぞれ眼識(げんしき、視覚)・耳識(にしき、聴覚)・鼻識(びしき、嗅覚)・舌識(ぜつしき、味覚)・身識(しんしき、触覚など)と呼ばれる。これは総称して「前五識」と呼ぶ。
- その次に意識、つまり自覚的意識が来る。6番目なので「第六意識」と呼ぶことがあるが同じ意味である。また前五識と意識を合わせて六識または
現行 ()という。 - その下に
末那識 ()と呼ばれる潜在意識が想定されており、寝てもさめても自分に執着し続ける心であるといわれる。熟睡中は意識の作用は停止するが、その間も末那識は活動し、自己に執着するという。 - さらにその下に阿頼耶識(あらやしき, ālaya-vijñāna)という根本の識があり、この識が前五識・意識・末那識を生み出し、さらに身体を生み出し、他の識と相互作用して我々が「世界」であると思っているものも生み出していると考えられている。
あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な存在であり客観的存在ではない。それら諸存在は無常であり、時には生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在(色)は「空」であり、実体のないものである(色即是空)。
唯識は、4世紀インドに現れた瑜伽行唯識学派(ゆがぎょうゆいしきがくは 唯識瑜伽行派とも)、という初期大乗仏教の一派によって唱えられた認識論的傾向を持つ思想体系である。瑜伽行唯識学派は、中観派の「
この世の色(しき、物質)は、ただ心的作用のみで成り立っている、とするので西洋の唯心論と同列に見られる場合がある。しかし東洋思想及び仏教の唯識論では、その心の存在も仮のものであり、最終的にその心的作用も否定される(
唯識思想は後の大乗仏教全般に広く影響を与えた。
識の相互作用と悟り[編集]
唯識は語源的に見ると、「ただ認識のみ」という意味である[1]。
心の外に「もの」はない[編集]
大乗仏教の考え方の基礎は、この世界のすべての物事は縁起、つまり関係性の上でかろうじて現象しているものと考える。唯識説はその説を補完して、その現象を人が認識しているだけであり、心の外に事物的存在はないと考える。これを「唯識無境」(「境」は心の外の世界)または唯識所変の境(外界の物事は識によって変えられる)という。また一人一人の人間は、それぞれの心の奥底の阿頼耶識の生み出した世界を認識している(人人唯識)。他人と共通の客観世界があるかのごとく感じるのは、他人の阿頼耶識の中に自分と共通の種子(
阿頼耶識と種子のはたらき[編集]
人間がなにかを行ったり、話したり、考えたりすると、その影響は種子(しゅうじ、阿頼耶識の内容)と呼ばれるものに記録され、阿頼耶識のなかにたくわえられると考えられる。これを
また、種子は阿頼耶識を飛び出して、末那識・意識に作用することがある。さらに、前五識(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)に作用すると、外界の現象から縁を受けることもある。この種子は前五識から意識・末那識を通過して、阿頼耶識に飛び込んで、阿頼耶識に種子として薫習される。これが思考であり、外界認識であるとされる(
最終的には心にも実体はない[編集]
このような識の転変は無常であり、一瞬のうちに生滅を繰り返す(刹那滅)ものであり、その瞬間が終わると過去に消えてゆく。
このように自己と自己を取り巻く世界を把握するから、すべての「物」と思われているものは「現象」でしかなく、「空」であり、実体のないものである。しかし同時に、種子も識そのものも現象であり、実体は持たないと説く。これは西洋思想でいう唯心論とは微妙に異なる。心の存在もまた幻のごとき、夢のごとき存在(空)であり、究極的にはその実在性も否定される(境識倶泯)。
単に「唯識」と言った場合、唯識宗(法相宗)・唯識学派・唯識論などを指す場合がある。
唯識思想の特色[編集]
仏教の中心教義である無常・無我を体得するために、インド古来の修行方法であるヨーガをより洗練した瑜伽行(瞑想)から得られた智を教義の面から支えた思想体系である。
- 心の動きを分類して、八識を立てる。とりわけ、末那識と阿頼耶識は深層心理として無意識の分野に初めて注目した。
- 自らと、自らが認知する外界のあり方を、
三性 ()説としてまとめ、修行段階によって世界に対する認知のありようが異なることを説明した。 - ヨーガを実践することによって「唯識観」という具体的な観法を教理的に組織体系化した。
- 『法華経』などの説く一乗は方便であるとし、誰もが成仏するわけではないことを説いた。(五性各別)
- 成仏までには
三大阿僧祇劫 ()と呼ばれるとてつもない時間がかかるとした。 - 『般若経』の空を受けつぎながら、まず識は仮に存在するという立場に立って、自己の心のあり方を瑜伽行の実践を通して悟りに到達しようとする。
成立と発展[編集]
唯識はインドで成立、体系化され、中央アジアを経て、中国・日本と伝えられ、さらにはチベットにも伝播して、広く大乗仏教の根幹をなす体系である。倶舎論とともに仏教の基礎学として学ばれており、現代も依然研究は続けられている。
インドにおける成立と展開[編集]
唯識は、初期大乗経典の『般若経』の「一切皆空」と『華厳経』十地品の「三界作唯心」の流れを汲んで、中期大乗仏教経典である『
論としては弥勒(マイトレーヤ)を発祥として、無著(アサンガ)と世親(ヴァスバンドゥ)の兄弟によって大成された。無著は「
世親のあとには十大弟子が出現したと伝えられる。5世紀はじめごろ建てられたナーランダ大僧院(Nālanda)において、唯識はさかんに研究された。6世紀の始めに、ナーランダ出身の徳慧(グナマティ、Guṇamati)は西インドのヴァラビー(Valabhī)に移り、その弟子安慧(スティラマティ、sthiramati)は、世親の著書『唯識三十頌』の註釈書をつくり、多くの弟子を教えた。この系統は「無相唯識派」(nirākāravādin)と呼ばれている[2]。
この学派は、真諦(パラマールタ、paramārtha)によって中国に伝えられ、地論宗や摂論宗として一時期、大いに研究された。
一方、5世紀はじめに活躍した陳那(ディグナーガ、Dignāga)は、世親の著書『唯識二十論』の理論をさらに発展させて、『観所縁論』(ālambanaparīkṣā)をあらわして、その系統は「有相唯識派」(sākāravādin)と呼ばれるが、無性(アスヴァバーヴァ、asvabhāva、6C前半頃)・護法(ダルマパーラ、Dharmapāla)に伝えられ、ナーランダ寺院において、さかんに学ばれ、研究された。
中国・日本への伝播[編集]
中国からインドに渡った留学僧、玄奘三蔵は、このナーランダ寺において、護法の弟子戒賢(シーラバドラ、śīlabhadra)について学んだ。帰朝後、『唯識三十頌』に対する護法の註釈を中心に据えて、他の学者たちの見解の紹介と批判をまじえて翻訳したのが『
そして、この書を中心にして玄奘の弟子の慈恩大師基(もしくは
その後、法相宗は道昭・智通・智鳳・玄昉などによって日本に伝えられ、奈良時代さかんに学ばれ南都六宗のひとつとなった。その伝統は主に奈良の興福寺・法隆寺・薬師寺、京都の清水寺に受けつがれ、江戸時代にはすぐれた学僧が輩出し、
識の転変[編集]
唯識思想は、この世界はただ識、表象もしくは心のもつイメージにすぎないと主張する。外界の存在は実は存在しておらず、存在しているかのごとく現われ出ているにすぎない。これを『華厳経』などでは次のように説いている。
又、是の念を作さく、三界は虚妄にして、但だ是れ心の作なり。十二縁分も是れ皆な心に依る。
又作是念。三界虚妄。但是心作。十二縁分。是皆依心— 大方廣佛華嚴經十地品第二十二之三
識とは心である。心が集起綵画し主となす根本によるから、経に唯心という。分別了達の根本であるから論に唯識という。あるいは経は、義が因果に通じ、総じて唯心という。論は、ただ因にありと説くから、ただ唯識と呼ぶのである。識は了別の義であり、因位の中にあっては識の働きが強いから識と説き、唯と限定しているのである。意味的には二つのものではない。『二十論』には、心・意・識・了の名はこれ差別なり、と説く。
識者心也。由心集起。綵畫為主之根本故經曰唯心。分別了達之根本故。論稱唯識或經義通因果總言唯心。論說唯在因但稱唯識。識了別義。在因位中識用強故。說識為唯。其義無二。二十論云。心意識了。名之差別。— 慈恩大師 大乘法苑義林章卷第一[3]
その心の動きを「識 (vijñāna) の転変 (pariṇāma)」と言う。その転変には三種類あり、それは
異熟 () - 行為の成熟思量 () - 思考と呼ばれるもの了別 () - 対象の識別
の3つである。識の転変は構想である。それによって構想されるところのものは実在ではない。したがってこの世界全体はただ識別のみにすぎない。
第一能変[編集]
異熟というのは、阿頼耶識(根源的と呼ばれる識知)のことであり、あらゆる種子 (bīja) を内蔵している。感触・注意・感受・想念・意志をつねに随伴する。感受は不偏であり、かつそれは障害のない中性である。感触その他もまた、同様である。そして、根源的識知は激流のごとく活動している。「暴流の如し」
第二能変[編集]
末那識 (mano nāma vijñāna) は、阿頼耶識にもとづいて活動し、阿頼耶識を対象として、思考作用を本質とする。末那識には、障害のある中性的な四個の煩悩がつねに随伴する。我見(個人我についての妄信)、我痴(個人我についての迷い)、我慢(個人我についての慢心)、我愛(個人我への愛着)と呼ばれる。なかでもとくに、当人が生まれているその同じ世界や地位に属するもののみを随伴する。さらにその他に感触などを随伴する。
この末那識は自我意識と呼んでもよい。つねに煩悩が随伴するので「汚れた意(マナス)」とも呼ばれる。この末那識と意識によって、思量があり、その意業の残滓はやはり種子として阿頼耶識に薫習される。
第三能変[編集]
了別とは、第三の転変であり、6種の対象を知覚することである。
六識は、それぞれ眼識が色(しき、rūpa)を、耳識が声を、鼻識が香を、舌識が味を、身識が触(触れられるもの)を、意識が法(考えられる対象、概念)を識知・識別する。そしてこの六識もまた阿頼耶識から生じる。そして末那識とこの六識とが「現勢的な識」であり、我々が意識の分野としているもので、阿頼耶識は無意識としているものである。
これまでの説明は、阿頼耶識から末那識および六識の生ずる流れ(種子生現行)だが、同時に後二者の活動の余習が阿頼耶識に還元されるという方向(現行薫種子)もある。それがアーラヤ(=蔵)という意味であり、相互に循環している。
識を含むどのような行為(業)も一刹那だけ現在して、過去に過ぎて行く。その際に、阿頼耶識に余習を残す。それが種子として阿頼耶識のなかに蓄積され、それが成熟して、「識の転変」を経て、再び諸識が生じ、再び行為が起ってくる。
三性[編集]
このような識の転変によって、存在の様態をどのように見ているかに、3つあるとする。
- 遍計所執性(へんげしょしゅうしょう, parikalpita) 構想された存在 凡夫の日常の認識。
- 依他起性(えたきしょう, paratantra) 相対的存在、他に依存する存在
- 円成実性(えんじょうじっしょう, pariniṣpanna) 絶対的存在、完成された存在
このような見方は唯識を待つまでもなく大乗仏教の基本であり、その原型が既に般若経に説かれている。
遍計所執性とは、阿頼耶識・末那識・六識によってつくり出された対象に相当して、存在せず、空である。
舎利弗、仏に言 ()を白 ()せり。
「世尊。諸法の実相、云何 ()が有なるや」
仏言わく。
「諸法は有る所無し。是の如く有り、是の如く有る所無し。是の事を知らざるを名づけて無明と為す」— 摩訶般若波羅蜜経相行品第十
依他起性とは相対的存在であり、構想ではあるが、物事はさまざまな機縁が集合して生起したもの(縁起)であるととらえることである。阿頼耶識をふくむ全ての識の構想ではあるけれども、すでにその識の対象が無であることが明らかとなれば、識が対象と依存関係にあるこの存在もまた空である。
名字は是れ因縁和合の作れる法なり。但だ分別憶想、仮名を説く。
是の故に菩薩摩訶薩、般若波羅蜜を行ずる時、一切の名字を見ず。
見ざるが故に著せず。— 摩訶般若波羅蜜経奉鉢品第二
円成実性は、仏の構想であり、絶対的存在とも呼べるものである。これは依他起性と別なものでもなく、別なものでもないのでもない。依他起性から、その前の遍計所執性をまったく消去してしまった状態が円成実性である。
復た次に舎利弗。菩薩摩訶薩、諸法の如・法性・実際を知らんと欲さば、当に般若波羅蜜を学すべし。— 摩訶般若波羅蜜経序品第一
以上の如く、般若経の段階では三性としてまとめて整理記述しているわけではない。時代を下って『解深密経』(玄奘訳)を待って初めて、諸法に三種の相があると説く。これは法が三種類あるということではなく、法は見る人の境地によって三通りの姿かたちが顕れているということである。
謂く、諸法の相に略して三種有り。
何等か三と為すや。
一者は遍計所執相、二者は依他起相、三者は円成実相なり。
云何が諸法の遍計所執相なるや。
謂く、一切法の名、仮安立の自性差別なり、乃至言説を随起せ令むるが為なり。
云何が諸法の依他起相なるや。
謂く、一切法の縁の生ずる自性なり。則ち此れ有るが故に彼れ有り。此れ生ずる故に彼れ生ず。
謂く、無明は行に縁たり、乃至純大の苦蘊を招集す。
云何が諸法の円成実相なるや。
謂く、一切法平等の真如なり。此の真如に於て諸の菩薩衆、勇猛・精進を因縁と為すが故に、如理の作意・無倒の思惟を因縁と為すが故に、乃ち能く通達す。此の通達に於て漸漸に修集し、乃至無上正等菩提を方 ()さに証すること円満なり— 解深密経一切法相品第四
相は性による、という間接的な表現となっているが、唯識の論書では、遍計所執性、依他起性、円成実性の三性という表現になり、精緻な論が展開されるようになる。
三性のなかで、第一の遍計所執性はその性格からみて、すでに無存在である。つぎに依他起性は、自立的存在性を欠くから、やはり空である。また、同じ依他起性は存在要素の絶対性としては、第三の円成実性である。そして、どういう境地においても、真実そのままの姿であるから真如と呼ばれる。その真如は、とりもなおさず「ただ識別のみ」という真理である。これを自覚することが、迷いの世界からさとりの世界への転換にほかならない。
しかし、実践の段階において、「ただ識別のみ」ということにこだわってはならない。認識活動が現象をまったく感知しないようになれば、「ただ識別のみ」という真理のなかに安定する。なぜなら、もし認識対象が存在しなければ、それを認識することも、またないからである。それは心が無となり、感知が無となった。それは、世間を超越した認識であり、煩悩障(自己に対する執着)・所知障(外界のものに対する執着)の二種の障害を根絶することによって、阿頼耶識が変化を起こす(
修行の階梯[編集]
唯識では成仏に
転識得智[編集]
修行の結果悟りを開き仏になると、8つの「識」は「智」に転ずる。これを
- 前五識は
成所作智 ()に - 意識は
妙観察智 ()に - 末那識は
平等性智 ()に - 阿頼耶識は
大円鏡智 ()に転ずるとされている。
転識得智の考え方は天台宗や真言宗、チベット密教のニンマ派にも受け継がれている。
唯心と唯識[編集]
『華厳経』では、「集起の義」について唯心という。『華厳経』は、覚った仏の側から述べているので、すべての存在現象が、そのままみずからの心のうちに取り込まれて、全世界・全宇宙が心の中にあると言う。そこで、すべての縁起を集めているから「集起の義」について唯心と言う。
唯識論では、「了別の義」について唯識という。唯識では凡夫(われわれ普通の人間)の側から述べているので、人間のものの考え方について見ていこうとしている。すべての存在現象は人間が認識することによって、みずからが認識推論することのできる存在現象となりえているから、みずからが了承し分別している。そこで「了別の義」について唯識という。心ではなく、識としているのは、それぞれの了別する働きの体について「識」としているのであって、器官ではない。器官は存在現象しているものである。
しかし、唯心といっても、唯識と言っても、その本質は一つである。詳しく分けて論ずれば、「唯心」の語は、修行する段階(因位)にも悟って仏になった段階(果位)にも通じるが、「唯識」と称するときには、人間がどのように認識推論するかによるので、悟りを開く前の修行中の段階(因位)のみに通用する。「唯」とは簡別の意味で、識以外に法(存在)がないことを簡別して「唯」という。「識」とは了別の意味である。了別の心に略して3種(初能変、第二能変、第三能変)、広義には8種(八識)ある。これをまとめて「識」といっている。
識と存在[編集]
唯識といって、以上のように唯八識のみであるというのは、一切の物事がこの八識を離れないということである。八識のほかに存在(諸法)がないということではない。おおよそ区分して五法(五種類の存在)としている。(1)心、(2)心所、(3)色、(4)不相応、(5)無為である。この前の四つを「事」として、最後を「理」として、五法事理という。
- 心(心王, citta) - 識それ自体。心の中心体で「八識心王」ともいわれる。
- 心所 (caitasika) - 識のはたらき。心王に付随して働く細かい心の作用で、さらに6種類に分類し、遍行・別境・善・煩悩・随煩悩・不定(ふじょう)とし、さらに細かく51の心所に分ける。心所有法、心数法とも訳される。
- 色 (rūpa) - 肉体や事物などのいわゆる物質的なものとして認識される、心と心所の現じたもの。
- 不相応行 (viprayukta-saṃskāra) - 心と心所と色の分位の差別。心でも物質でもなく、しかも現象を現象たらしめる原理となるもの。
- 無為 (asaṃskṛta) - 前四法の実性。現象の本質ともいうべき真如。
さらに心を8、心所を51、色を11、不相応行を24、無為を6に分けて別々に想定し、全部で百種に分けることから、五位百法と呼ばれる。なお倶舎論では「五位七十五法」を説いており、それを発展させたものと考えられる。
三島由紀夫と唯識[編集]
三島由紀夫の最後の作品となった『豊饒の海』四部作は唯識をモチーフの一つに取り入れている。第四部「天人五衰」の最終回入稿日に、三島は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自決(三島事件)した。
澁澤龍彦は、三島が唯識論に熱中していたことを『三島由紀夫をめぐる断章』で触れ、唯識論とは何かを三島に問われた宗教学者の松山俊太郎が「あれは気違いにならなければわからない、正気の人にわかるわけがない。唯識説のよくできているところは、ちょうど水のなかに下りていく階段があって、知らない間に足まで水がきて、知らない間に溺れているというふうにできている。それは大きな哲学の論理構造であり、思想というものだ」と言った話、それを聞いた梅原猛が「感心している三島も三島だが、こんな馬鹿げた説を得々として開陳している仏教学者もないものだ」と批判した話に触れている。また、澁澤宅を訪ねた三島が、皿を一枚水平にし、もう一枚をその上に垂直に立てて、「要するに阿頼耶識というのはね、時間軸と空間軸とが、こんなふうにぶっちがいに交叉している原点なのではないかね」と言うので、「三島さん、そりゃアラヤシキではなくて、サラヤシキ(皿屋敷)でしょう」とからかった話も紹介している[4]。
関係書籍[編集]
- 多川俊映 著 『唯識入門』 春秋社、四六、288頁、2013年9月 ISBN 978-4-393-13572-3 。
- 高崎直道 著 『唯識入門』 春秋社、231頁、2003年 ISBN 4-393-135229 。
- 師茂樹[5] 著 『大乗五蘊論』を読む (新・興福寺仏教文化講座) 単行本、春秋社、320頁、2015年9月、ISBN 978-4393135839 。
- 廣澤隆之 著 『唯識三十頌』を読む (TU選書) 単行本、378頁、2005/6、大正大学出版会、ISBN 978-4924297302 。
- 頼藤和寛[6]『自我の狂宴 エロス・心・死・神秘』創元社、1986年8月。ISBN 4-422-11079-9。
- 頼藤和寛『ココロとカラダを越えて エロス・心・死・神秘』筑摩書房〈ちくま文庫〉、1999年4月。ISBN 4-480-03473-0。『唯識』を精神医学 の立場から解釈した書籍[7]。
注・出典[編集]
- ^ 唯識の原語(サンスクリット語)は、vijñapti-mātratā、もしくは vijñāna-vāda である。vijñapti とは「知らしめる」という意味であり、mātra は「ただそれだけ」という意味である。vijñāna は、「知る」(jñā)の語根に「区分する」という接頭辞「vi-」が付いているので、「区分して知ること」であり、vāda は「説」という意味である。
- 「梵に毘若底と言うのは、これを翻訳すると識となる。識とは了別の義である。識の自相と、識の相応と、識の所変と、識の分位と、識の実性と五法の事理はみな識を離れず。これによって唯識と名づける。」 - 『大乘法苑義林章』巻1。該当箇所は大正蔵 T1861_.45.0260a10 - 12 (梵云毘若底。此翻爲識。識者了別義。識自相・識相應・識所變・識分位・識實性。五法事理皆不離識故名唯識。)
- (弥勒菩薩が言う)「我、十方唯識を諦観するをもって、識心円明なり。円成実に入りて、依他起および遍計執を遠離して、無生忍を得る。これ第一と為す。」 -- 『首楞厳経』巻5。該当箇所は大正蔵 T0945_.19.0128a19 - 20(我以諦觀十方唯識。識心圓明入圓成實。遠離依他及遍計執。得無生忍斯爲第一)。なお『首楞厳経』とは鳩摩羅什訳の『首楞厳三昧経(中国語版)』ではなく、般刺密帝(ばんらみたい、中国語版)訳『大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経』10巻の略である。
- ^ 無相唯識と有相唯識とは、阿頼耶識をどのようにみるかに大きな相違点がある。無相唯識は、阿頼耶識もまた空として、究極的に否定し、仏が個体として現象して、見るものと見られるものとが分かれない絶対知が得られると説く。
有相唯識は、阿頼耶識を実有の識体と見なし、それが変化して見るものと見られるものとが生ずるという説を立てる。この説にしたがえば、絶対知を得ても、阿頼耶識そのものが否定されるのではなく、そのなかにふくまれている煩悩の潜勢力が根絶されると説くから、絶対知においても、見るものと見られるものはそこにあることになる。 - ^ 該当箇所は大正蔵 T1861_.45.0260a24 - 29
- ^ 鎌倉文学散歩安宅夏夫、松尾順造、保育社, 1993
- ^ もろ しげき、1972年、大阪府生まれ。花園大学 文学部 文化遺産学科 教授。
- ^ よりふじ かずひろ (1947 - 2001年)、精神科医、元神戸女学院大学教授。とぼけた軽妙な味わいの産経新聞連載の「家族診ます(のちに人生応援団に改題)」のコーナーを担当。『わたし、ガンです ある精神科医の耐病記』を著述。香山リカ・名越康文の師匠でもあった。
- ^ 頼藤は、三島の『豊饒の海』を意識して、この本を書き上げた。
関連項目[編集]
의식만
유식 (유이시키, 산스크리트어 : विज्ञप्तिमात्रता Vijñapti-mātratā)은 개인, 개인에 대한 모든 존재가 유일하게 8 종류의 식 (팔식)으로 이루어져 있다는 대승불교 의 견해의 하나 이다(瑜伽行 유식학파 ). 여기서 8종류의 식이란 5종의 감각(시각, 청각, 후각, 미각, 촉각), 의식, 2층의 무의식을 말한다. 따라서, 이들 8종의 식은 총체로서, 어느 개인의 광범위한 표상, 인식 행위를 내 포함하고, 모든 의식 상태나 그들과 상호 영향을 주고 받는 그 개인의 무의식의 영역도 포함한다.
온갖 존재가 개인적으로 구상된 식일 뿐이라면, 이들 존재는 주관적인 존재이며 객관적인 존재가 아니다. 이들의 존재는 무상하며 때로는 생멸을 반복하여 결국 과거에 사라져 버릴 것이다. 즉, 이들의 존재는 「하늘」이며, 실체가 없는 것이다(제법공상). 따라서 유식은 대승 불교입니다.
개요 [ 편집 ]
유식 사상에서는, 각 개인에게 있어서의 세계는 그 개인의 표상(이미지)에 지나지 않는다고 주장해, 8종의 「식」을 가정(팔식설)한다.
- 우선, 시각이나 청각 등의 감각도 유식으로는 식이라고 생각한다. 감각은 5개 있다고 생각되어 각각 안식(겐시키, 시각 )・이식(니시키, 청각 )・코식(비시키, 후각) , 촉각 등)이라고합니다. 이것은 총칭하여 ' 전 오식 '이라고 부른다.
- 그 다음에 의식 , 즉 자각적 의식이 온다. 여섯 번째이므로 ' 제6의식 '이라고 부르는 일이 있지만 같은 의미이다. 또한 전 오식과 의식을 결합하여 육식 또는
유효한 ()라고 한다. - 그 아래에
마나스 의식 ()라고 불리는 잠재의식이 상정되고 있어 자고도 자꾸 계속 집착하는 마음이라고 한다. 숙면 중에는 의식의 작용은 정지하지만, 그동안 말나식은 활동하고 자기에 집착한다고 한다. - 게다가 그 아래에 아요 야키 (あらやしき, ālaya-vijñāna)라는 근본의 식이 있어, 이 식이 전 오식·의식·말나식을 낳고, 한층 더 신체를 낳아, 다른 식과 상호 작용한다 우리가 '세계'라고 생각하는 것도 낳고 있다고 생각되고 있다.
온갖 존재가 개인적으로 구상된 식일 뿐이라면, 이들 존재는 주관적인 존재이며 객관적 존재가 아니다. 이들의 존재는 무상하며 때로는 생멸을 반복하여 결국 과거에 사라져 버릴 것이다. 즉, 이들의 존재(색)는 「하늘」이며, 실체가 없는 것이다(색 즉 시공) .
유식은 4세기 인도 에 나타난瑜伽行 유식학파 ( 유가교 유이 시키가쿠는 유식 瑜伽行派)라는 초기 대승 불교의 일파에 의해 주창된 인식론적 경향을 가진 사상체계이다. 瑜伽行 유식 학파는 중관 파
이 세상의 색(마음, 물질)은 단지 심적 작용만으로 이루어져 있다고 하므로 서양의 유심론과 동렬로 볼 수 있는 경우가 있다 . 그러나 동양 사상 및 불교의 유식론에서는, 그 마음의 존재도 임시의 것이고, 최종적으로 그 심적 작용도 부정된다
유식사상은 나중 대승불교 전반에 널리 영향을 주었다.
식의 상호 작용과 깨달음 [ 편집 ]
유식은 어원적으로 보면, 「단지 인식만」이라는 의미이다 [1] .
마음 밖에 '물건' 없음 [ 편집 ]
대승불교의 사고방식의 기초는, 이 세계의 모든 일은 길기, 즉 관계 성 위에서 간신히 현상하고 있다고 생각한다. 유식설은 그 설을 보완하고, 그 현상을 사람이 인식하고 있을 뿐이며, 마음 밖에 사물적 존재는 없다고 생각한다. 이것을 「유식 무경」(「경」은 마음 밖의 세계) 또는 유식 소변의 경 ( 외계의 일은 식에 의해 바뀐다)라고 한다. 또 한사람 한사람의 인간은, 각각의 마음의 안쪽의 아요야식의 낳은 세계를 인식하고 있다(인인 유식 ) . 타인과 공통의 객관 세계가 있는 것처럼 느끼는 것은, 타인의 아요야식 속에 자신과 공통의 씨앗(
아요야식과 씨앗의 작용 [ 편집 ]
인간이 뭔가를 하거나 말하거나 생각하면 그 영향은 씨앗 (슈지, 아요야식의 내용)이라 불리는 것에 기록되어 아뢰야식 속에 접할 수 있다고 생각된다. 이것을
또한 씨앗은 아요야식을 뛰쳐나와 말나식·의식에 작용하는 경우가 있다. 게다가 전오식(시각·청각·후각·미각·촉각)에 작용하면 외계의 현상으로부터 인연을 받는 경우도 있다. 이 씨앗은 전 오식에서 의식·말나식을 통과하여 아요요식에 뛰어들어 아뢰야식에 씨앗으로 가습된다. 이것이 사고이며, 외계 인식이라고한다 (
결국 마음에는 실체가 없다 [ 편집 ]
이런 식의 전변은 무상 하며, 순식간에 생멸을 반복하는( 찰나멸 ) 것이며, 그 순간이 끝나면 과거에 사라져 간다.
이처럼 자기와 자기를 둘러싼 세계를 파악하기 때문에 모든 '물'이라고 생각되는 것은 '현상' 밖에 없고 '하늘'이며 실체가 없는 것이다. 그러나 동시에 씨앗도 식 그 자체도 현상이며, 실체는 갖지 않는다고 말한다. 이것은 서양사상에서 말하는 유심론 과는 미묘하게 다르다. 마음의 존재도 환상의 때, 꿈의 때 존재( 하늘 )이며, 궁극적으로는 그 실재성도 부정된다(경식요미).
단순히 「유식」이라고 했을 경우, 유식종( 법상종 )·유식학파·유식론 등을 가리키는 경우가 있다.
유식 사상의 특징 [ 편집 ]
불교의 중심 교리인 무상 · 무아 를 체득하기 위해 인도 고래의 수행 방법인 요가를 보다 세련된 瑜伽行(명상)에서 얻은 지를 교리의 면에서 지지한 사상체계 이다 .
- 마음의 움직임을 분류하여 팔식을 세운다. 특히 말나식과 아요야식은 심층심리로 무의식 분야에 처음 주목했다.
- 스스로, 스스로가 인지하는 외계의 본연의 자세를,
세 성별 ()설로서 정리해, 수행 단계에 의해 세계에 대한 인지의 존재가 다른 것을 설명했다. - 요가를 실천함으로써 '유식관'이라는 구체적인 관법을 교리적으로 조직체계화했다.
- ' 법화경 ' 등의 설하는 제곱은 방편이라고 하며 모두가 성불하는 것은 아님을 설했다. (오성 각별)
- 성불까지는
세 아승키야 칼파스 ()라고 불리는 엄청난 시간이 걸린다고 했다. - 『반청경』의 하늘을 받으면서 , 우선 식은 만일 존재한다는 입장에 서서, 자기의 마음의 본연의 방법을 瑜伽行의 실천을 통해서 깨달음에 도달 하려고 한다 .
성립과 발전 [ 편집 ]
유식은 인도 에서 성립, 체계화되고 중앙아시아를 거쳐 중국 · 일본 으로 전해지고, 심지어는 티베트 에도 전파되어 넓게 대승불교 의 근간을 이루는 체계이다. 이사론 과 함께 불교의 기초학으로서 배워지고 있으며, 현대도 여전히 연구는 계속되고 있다.
인도의 성립과 배포 [ 편집 ]
유식은 초기 대승경전의 '반청경 ' 의 '일부 모두 하늘'과 '화엄경 ' 십지품의 '삼계작 유심'의 흐름을 담아 중기대승 불교 경전인 '
논으로서는 미륵 (마이트레야)를 발상으로 하고, 무저 (아상가)와 세친 (바스반두)의 형제에 의해 대성되었다. 무저는 "
세친 뒤에는 십대 제자가 출현했다고 전해진다. 5세기 초반에 지어진 네덜란드 대승원 (Nālanda)에서 유식은 철저히 연구되었다. 6세기 초에, 나란다 출신의 덕혜(그나마티, Guṇamati)는 서인도의 발라비(Valabhī)로 옮겨, 그 제자 안혜(스티라마티, sthiramati)는 세친의 저서 『유식 삼십경』의 주석서 를 만들기, 많은 제자를 가르쳤다. 이 계통은 「무상 유식파」(nirākāravādin)라고 불리고 있다 [2] .
이 학파는 진지 (파라마르타, paramārtha)에 의해 중국에 전해져, 지론 종 이나 섭론종 으로서 한때, 크게 연구되었다.
한편, 5세기 초에 활약한 첸나 (디그나가, Dignaga)는, 세친의 저서 「유식 이십론」의 이론을 더욱 발전시켜, 「관소 연론」(ālambanaparīkṣā)을 나타내고, 그 계통은 「유 상유식파”(sākāravādin)라고 불리지만, 무성(아스바바바, asvabhāva, 6C 전반경)·호법(다르마파라, Dharmapāla)에 전해져, 나란다 사원에 있어서, 신속하게 배워, 연구 되었다 .
중국·일본에 전파 [ 편집 ]
중국에서 인도로 건너온 유학승인 현조삼장 은 이 나란다 사에서 호법의 제자 계현 (시라바드라, śīlabhadra)에 대해 배웠다. 귀조 후, 「유식 삼십배」에 대한 호법의 주석을 중심으로 하고, 다른 학자들의 견해의 소개와 비판을 굳이 번역한 것이
그리고이 책을 중심으로 현지 제자의 자은 대사기 ( 또는
그 후 법상종은 도아 키 , 토모도리 , 토호봉 , 현창 등에 의해 일본 에 전해져 나라 시대 사칸에 배워 남도 롯종 의 하나가 되었다. 그 전통은 주로 나라의 코후쿠지・호류지・야쿠시지 , 교토의 기요 미즈데라 에 받아들여져, 에도 시대 에는 뛰어난 학승이 배출해,
식의 전변 [ 편집 ]
유식 사상은 이 세계는 단지 식, 표상 또는 마음이 가진 이미지에 불과하다고 주장한다. 외계의 존재는 실은 존재하지 않고, 존재하고 있는 것처럼 나타나는 것에 지나지 않는다. 이것을 『화엄경』 등에서는 다음과 같이 설교하고 있다.
또, 시의 생각을 만드는, 삼계는 허망으로 하고, 다만 부디 마음의 작이 되어. 십이연분도 꼭 모든 마음에 의한다.
또 작 시념. 삼계 허망. 단시심작. 십이연분. 부디 의심——Dafang Guangfo 꽃 장식 Sutra Ten Land Grade 22-3번째
식이란 마음이다. 마음이 집기 능화하고 주인이 하는 근본에 의하면, 경에 유심이라고 한다. 분별 양달의 근본이기 때문에 이론에 유식이라고 한다. 혹은 경은, 의가 인과에 통하여, 총체적으로 유심이라고 한다. 이론은 단지 원인에 있다고 말하기 때문에, 단지 유식이라고 부르는 것이다. 식은 양별의 의이며, 인위 속에서는 식의 작용이 강하기 때문에 식과 설득하고 유일하게 한정하고 있는 것이다. 의미적으로는 두 가지가 아니다. 『20론』에는, 마음·의·식·료의 이름은 이것 차별되어,라고 설한다.
친자 신야. 유심 집기. 綵畫為主之根本故經曰 유심. 분별 양달 노근 본고. 논란 유식 혹은 經義通因果總言 유심. 논란 유재인 다다이 유식. 識了別義. 재인위 중식용 강고. 說識為唯. 其義無二. 이십론. 심의식 양. 명지 차별.——Master Ci’en의 Mahayana Dharma Garden의 Yilin 장의 볼륨 1 [ 3]
그 마음의 움직임을 「식(vijñāna)의 전변 (pariṇāma)」이라고 한다. 그 전환에는 세 가지 종류가 있습니다.
익은 ()- 행동의 성숙고려하다 ()- 사고라고 불리는 것작별 ()- 대상 식별
의 3개이다. 식의 전변은 구상이다. 그것에 의해 구상되는 곳의 것은 실재가 아니다. 따라서 이 세계 전체는 단지 식별에 불과하다.
제일 능변 [ 편집 ]
이숙이라는 것은 아요야식(근원적이라고 불리는 식지)이며, 모든 종자(bīja)를 내장하고 있다. 감촉·주의·감수·상념·의지를 항상 수반한다. 감수는 불편하고 장애가없는 중성입니다. 느낌 기타도 마찬가지입니다. 그리고 근원적 인식은 격류처럼 활동하고 있다. 「폭류와 같은」
제2능변 [ 편집 ]
말나식(mano nāma vijñāna)은 아요야식에 기초하여 활동하며, 아요야식을 대상으로 사고작용을 본질로 한다. 말나식에는 장애가 있는 중성적인 4개의 번뇌가 항상 수반된다. 가미(개인아에 대한 망신), 가치(개인아에 대한 망설임), 참(개인아에 대한 만심), 가애(개인아에 대한 애착)라고 불린다. 그 중에서도 특히, 당인이 태어난 그 같은 세계나 지위에 속하는 것만을 수반한다. 또한 그 밖에 감촉 등을 수반한다.
이 말나식은 자아의식이라고 부를 수 있다. 항상 번뇌가 수반되므로 "더러운 의(마나스)"라고도 불린다. 이 말나식과 의식에 의해, 사량이 있어, 그 의업의 잔재는 역시 종자로서 아요야식에 가습된다.
제3능변 [ 편집 ]
양별이란, 제3의 전변이며, 6종의 대상을 지각하는 것이다.
육식은, 각각 안식이 색(해, rūpa)을, 귀식이 목소리를, 코식이 향을, 혀식이 맛을, 신식이 촉(접하는 것)을, 의식이 법(생각된다) 대상, 개념)을 인식하고 식별한다. 그리고 이 육식도 아뢰야식에서 생긴다. 그리고 말나식과 이 육식이 「현세적인 식」이며, 우리가 의식의 분야로 하고 있는 것으로, 아요야식은 무의식으로 하고 있는 것이다.
지금까지의 설명은 아요야식에서 말나식 및 육식이 일어나는 흐름(종자생현행)이지만, 동시에 후자의 활동의 여습이 아뢰야식으로 환원된다는 방향(현행 가오루) 종자)도 있다. 그것이 아라야(=구라)라는 의미이며, 상호 순환하고 있다.
식을 포함한 어떠한 행위도 일찰나만 현재 과거에 지나간다. 그 때에 아요야식에 여습을 남긴다. 그것이 종자로서 아요야식 속에 축적되어 그것이 성숙하고 '식의 전변'을 거쳐 다시 제식이 생겨 다시 행위가 일어난다.
삼성 [ 편집 ]
이러한 식의 전변에 의해, 존재의 형태를 어떻게 보고 있는지, 3개 있다고 한다.
- 편계소 집성 (헨게쇼슈쇼, parikalpita) 구상된 존재 범부의 일상의 인식.
- 의타 기성 (에타키쇼, paratantra) 상대적 존재, 다른 의존성 존재
- 엔성실성 (엔조지쇼, pariniṣpanna) 절대적 존재, 완성된 존재
이러한 견해는 유식을 기다릴 뿐만 아니라 대승불교의 기본이며, 그 원형이 이미 반청경에 설설되어 있다 .
편계소 집성이란, 아요야식·말나식·육식에 의해 만들어진 대상에 상당하고, 존재하지 않고, 하늘이다.
샤리 히로, 부처님에게단어 ()을하얀색 ()세리.
“세존. 제법의 실상,윤허 ()가 있을 거야」
부처 말한다.
「제법은 있는 곳 없음. 꼭 같이 있어, 꼭 같이 있을 곳 없음.— 마야반 와카바라 꿀경상행품 제10
의타 기성과는 상대적 존재이며, 구상이지만, 사물은 다양한 기연이 집합하여 발생한 것(연기)이라고 파악하는 것이다. 아요야식을 풍기는 모든 식의 구상이지만, 이미 그 식의 대상이 없는 것으로 밝혀지면, 식이 대상과 의존관계에 있는 이 존재도 하늘이다.
이름은 꼭 인연화합을 만들 수 있는 법이다. 다만 분별 추상, 가명을 설한다.
꼭 그러므로 보살마 訶薩, 반若波羅蜜을 행할 때, 일체의 이름을 보지 않고.
보이지 않기 때문에 현저하지 않고.— 마와반 와카나미 라에이 봉사품 제2
원성실성은 부처의 구상이며 절대적 존재라고도 부를 수 있는 것이다. 이것은 의도 기성과 다른 것도 아니고 다른 것도 아니다. 의타 기성으로부터, 그 전의 편계소 집성을 전혀 소거해 버린 상태가 원성실성이다.
돌아온 다음 샤리 히로. 보살마귀, 제법의 여·법성·실제를 모르고 싶으면, 당시 반약파라밀을 배워야 한다.— Maha Prajna Paramita Book No. 1 서문
이상과 같이, 반청경의 단계에서는 삼성으로서 정리해 정리 기술하고 있는 것은 아니다. 시대를 내려 ' 해심밀경 '(현노역)을 기다려 처음으로 제법에 3종의 상이 있다고 설. 이것은 법이 세 종류 있다는 것이 아니라 법은 보는 사람의 경지에 따라 세 가지 모습 형태가 나타난다는 것이다.
우울하게, 제법의 단계에 약어 3종 있다.
3등을 위해서.
1자는 편계소 집상, 2자는 의타 기상, 3자는 엔성실상이다.
云何이 제법의 편계소 집상이 되자.
우울하다, 일절법의 이름, 가안립의 자성 차별이 되어, 혹은 언설을 수기해 받을 수 있기 때문.
云 무엇이 제법의 의타 기상이 되는가.
우울하다, 일절 법의 인연이 일으키는 자성이. 칙칙히 쭈그리고 있지만 그러므로 있다. 이기기 때문에 그를 태어나지 않는다.
우울하고, 무명은 행에 휘두르거나, 순대의 고소를 소집한다.
운 무엇이 제법의 원성실상이 되자.
우울하다, 일절 법평등의 진애나라. 돈의 진여에 있어서 여러가지 보살중, 용맹·정진을 인연으로 이루기 때문에, 여리의 작의·무도한 사유를 인연으로 이루기 때문에, 노치 능숙하게 통달한다. 이츠의 통달에서 점차적으로 수집하고, 무상정등 보제를쪽 ()그렇게 간증하는 것— 해심밀경 일체법상품 제4
상은 성에 의한 간접적인 표현이지만, 유식한 논서에서는 편계소집성, 의타기성, 원성실성의 삼성이라는 표현이 되어 정교한 이론이 전개되어 된다.
삼성 가운데 첫 편계소 집성은 그 성격에서 보면 이미 무존재하다. 다음으로 의도 기성은 자립적 존재성이 부족하기 때문에 역시 비어있다. 또한, 동일한 의도 기성은 존재 요소의 절대성으로서 제 3 원성 성질이다. 그리고 어떤 경지에서도 진실 그대로의 모습이기 때문에 진여 라고 불린다. 그 진여는, 어쨌든 「단지 식별만」이라고 하는 진리이다. 이것을 자각하는 것이, 망설임의 세계에서 사토리의 세계로의 전환에 불과하다.
그러나 실천 단계에서 "단지 식별만"이라는 것을 고집해서는 안 된다. 인식 활동이 현상을 전혀 감지하지 않게 되면 '단지 식별만'이라는 진리 속에 안정된다. 왜냐하면 인식 대상이 존재하지 않으면 그것을 인식하는 것도 없기 때문이다. 그것은 마음이 무너지고, 감지가 무너졌다. 그것은, 세상을 초월한 인식이며, 번뇌 장애 (자기에 대한 집착)· 소지 장(외계의 것에 대한 집착)의 2종의 장애를 근절하는 것에 의해, 아요야식이 변화를 일으킨다(
수행의 계단 [ 편집 ]
유식으로 성불에
전식득지 [ 편집 ]
수행 결과 깨달음을 열어 부처가 되면 8개의 '식'은 '지'로 넘어간다. 이것을
- 전 오식은
쳉 쭤지 ()에 - 의식은
묘관찰지 ()에 - 말 나식은
평등주의 지능 ()에 - 아요야식은
오엔 교토모 ()로 굴러 가고 있다.
전식득지의 사고방식은 천대 종이나 진언종 , 티베트 밀교의 닌마파 에게도 계승되고 있다.
유심과 유식 [ 편집 ]
'화엄경'에서는 '집기의 의'에 대해 유심이라고 한다. 『화엄경』은, 깨어난 부처 측에서 말하고 있으므로, 모든 존재 현상이 그대로 벌레로부터의 마음 속에 받아들여져, 전세계·전우주가 마음속에 있다고 한다. 거기서, 모든 인기를 모으고 있기 때문에 「집기의 의」에 대해서 유심이라고 말한다.
유식론에서는 '양별의 의'에 대해 유식이라고 한다. 유식에서는 범부 (우리 보통의 인간)의 측에서 말하고 있으므로, 인간의 것의 사고방식에 대해서 보고 가고 있다. 모든 존재현상은 인간이 인식함으로써, 미즈카가 인식추론할 수 있는 존재현상이 될 수 있기 때문에, 미즈로부터가 승낙해 분별 하고 있다 . 거기서 「료별의 의」에 대해서 유식이라고 한다. 마음이 아니라, 식으로 하고 있는 것은, 각각의 양별하는 일의 몸에 대해 「식」으로 하고 있는 것이며, 기관이 아니다. 기관은 존재 현상하고 있는 것이다.
그러나 유심이라고 해도 유식이라고 해도 그 본질은 하나이다. 자세하게 나누어 논하지 않으면, 「유심」의 말은, 수행하는 단계(인위)에도 깨달아 부처가 된 단계(과위)에도 통하지만, 「유식」이라고 칭할 때에는, 인간이 어떻게 인식 추론할지에 따라 깨달음을 열기 전에 수행중인 단계 (인위)에만 통용한다. 「유」라고는 간별의 의미로, 식 이외에 법(존재)이 없는 것을 간별해 「유」라고 한다. 「식」이란 양별의 의미이다. 양별의 마음에 약어 3종(초능변, 제2능변, 제3능변), 광의에는 8종(팔식) 있다. 이것을 정리해 「식」이라고 하고 있다.
식과 존재 [ 편집 ]
유식이라고 해서 이상과 같이 유팔식만이라는 것은 일체의 일이 이 팔식을 떠나지 않는다는 것이다. 팔식 외에 존재(제법)가 없다는 것은 아니다. 대략 구분하여 오법(5종류의 존재)으로 하고 있다. (1) 심 , (2) 심장 , (3) 색 , (4)불상응, (5) 무위 이다. 앞의 네 가지를 「사」로, 마지막을 「이」로, 오법 사리라고 한다.
- 마음 (심왕, citta)-식 자체 그 자체. 마음의 중심체로 「팔식심왕」이라고도 불린다.
- 심장 (caitasika) - 식의 작용. 심왕에 부수하여 일하는 미세한 마음의 작용으로, 더욱 6종류로 분류해, 유행·별경·선· 번뇌·수반고·부정(부정)으로 해, 한층 더 세세하게 51의 심장 으로 나눈다 . 심 소유법 , 심수법 으로도 번역된다.
- 색 (rūpa) - 육체나 사물 등의 소위 물질적인 것으로 인식되는 마음과 심장이 드러난 것.
- 부상응행 (viprayukta-saṃskāra) - 마음과 심장과 색분위의 차별. 마음도 물질도 아니고, 게다가 현상을 현상시키는 원리가 되는 것.
- 무위 (asaṃskṛta) - 전 4법의 실성. 현상의 본질이라고도 할 만한 진여 .
한층 더 마음을 8, 심장을 51, 색을 11, 부상응행을 24, 무위를 6으로 나누어 따로따로 상정해, 모두로 백종으로 나누는 것으로부터, 5위 백법이라고 불린다 . 또한, 이사론에서는 ' 5위 755법 '을 설명하고 있어 그것을 발전시킨 것으로 생각된다.
미시마 유키오와 유식 [ 편집 ]
미시마 유키오 의 마지막 작품이 된 '도요요미의 바다 ' 4부작은 유식을 모티브 중 하나에 도입하고 있다. 제4부 「천인 오쇠」의 최종회 입고일에, 미시마는 육상 자위대 이치가야 주둔지 에서 할복 자결 ( 미시마 사건 )했다.
시부자와 류코는 미시마가 유식론에 열중하고 있던 것을 '미시마 유키오를 둘러싼 단장'에서 언급하고, 유식론이란 무엇인가를 미시마에게 묻힌 종교학자인 마츠야마 슌타로가 「저것은 기분이 되지 않아 모르는, 정기적 인 사람에게 알 수 없다. 유식설의 잘되어있는 곳은, 방금 물속으로 내려가는 계단이 있어, 모르는 사이에 다리까지 물이 오고, 모르는 사이에 익사 그렇다고 하는 식으로 되어 있다. 그것은 큰 철학의 논리 구조이며, 사상이라고 하는 것이다」라고 말한 이야기, 그것을 들은 우메하라 맹이 「감심하고 있는 미시마도 미시마이지만, 이런 바보 같은 설 을 얻어 라고 개진하고 있는 불교학자도 없는 것이다”라고 비판한 이야기를 접하고 있다. 또, 시부자와 택을 방문한 미시마가, 접시를 한 장 수평으로 하고, 다른 한 장을 그 위에 수직으로 세우고, 「요컨대 아요야식이라는 것은, 틀림없이 교차하고 있는 원점이 아닐까」라고 말하기 때문에, 「미시마씨, 그럼 아라야시키가 아니고, 사라야시키(접시 저택)겠지」라고 놀랐던 이야기도 소개하고 있다[4 ] .
관련 서적 [ 편집 ]
- Toshiei Tagawa, "Introduction to Consciousness-Only", Chunqiusha, 46, 288페이지, 2013년 9월 ISBN 978-4-393-13572-3 .
- Takasaki Naomichi , "의식 입문", Shunqiusha, 231 페이지, 2003 ISBN 4-393-135229。
- 시모키 [5] 의 '대승 오옌론'을 읽는다(신·흥복사 불교 문화 강좌) 단행본, 춘추사, 320페이지, 2015년 9월, ISBN 978-4393135839 .
- 히로사와 타카유키 의 「유식 삼십배」를 읽는다 (TU선서) 단행본, 378페이지, 2005/6, 다이쇼대학 출판회, ISBN 978-4924297302 .
- 頼藤和寛[6]『자아의 광연 에로스·마음·죽음·신비' 창원사, 1986년 8월. ISBN 4-422-11079-9 .
- 요시토 카즈히로 「코코로와 몸을 넘어 에로스·마음·죽음·신비” 쓰쿠마 서방<치쿠마 문고>, 1999년 4월. ISBN 4-480-03473-0 . 『유식』을 정신의학 의 입장에서 해석한 서적 [7] .
주·출처 [ 편집 ]
- ↑ 유식한 원어( 산스크리트어 )는 vijñapti-mātratā 또는 vijñāna-vāda이다. vijñapti는 "알리는"의 의미이고, matra는 "단지 그것만"이라는 의미이다. vijñāna 는, 「알다」(jñā)의 어근에 「구분한다」라고 하는 접두사 「vi-」가 붙어 있으므로, 「구분해 아는 것」이며, vāda 는 「설」이라고 하는 의미이다.
- "다리에 비록 젊음이라고 하는 것은, 이것을 번역하면 식이 된다.식과는 양별의 의이다.식의 자상과, 식의 상응과, 식의 소변과, 식의 분위 라고, 식의 실성과 오법의 사리는 모두 식을 떠나지 않고, 이것에 의해 유식이라고 명명한다. 해당 개소는 다이쇼쿠라 모두 불리식 고명 유식.)
- (미륵 보살이 말한다) “아, 십방 유식을 포기함에 따라, 식심 원명해. 라고 한다.」 -- 『수양엄경』권 5. 해당 개소는 다이쇼쿠라 T0945_.19.0128a19 - 20(我以諦觀十方 유식.식심 圓明入圓成實.遠離依他及遍計執.得無生忍斯爲第一). 덧붙여 「수양엄경」이란 하토마라 센역 의 「목양엄삼매경 (중국어판)」이 아니라, 일반 자밀제(반라같은, 중국어판 )역 「대불정여래 밀인수증 양의제 보살만행수양엄경』10권의 약자이다.
- ^ 무상 유식과 유상 유식과는 아요야식을 어떻게 보는지 큰 차이점이 있다. 무상 유식은 아요야식도 하늘로 궁극적으로 부정하고 부처가 개체로 현상해 보는 것으로 보이는 것을 알 수 없는 절대 지식을 얻을 수 있다고 설명한다.
유상 유식은 아요야식을 실유의 식체로 간주하고, 그것이 변화해 보는 것으로 보이는 것이 생긴다는 설을 세운다. 이 설에 의하면, 절대 지를 얻어도, 아요야식 그 자체가 부정되는 것이 아니라, 그 안에 푹 빠져 있는 번뇌의 잠세력이 근절된다고 설하기 때문에, 절대 지에 있어서도 , 보는 것으로 보이는 것은 거기 있을 것이다. - ↑ 해당 부분은 다이쇼쿠라 T1861_.45.0260a24 - 29
- ↑ 가마쿠라 문학 산책 아야케 나츠오, 마츠오 순조, 보육사, 1993
- ^ 모로 시게키, 1972년, 오사카부 출생. 하나조노대학 문학부 문화유산학과 교수.
- ↑ 보다 후지 카즈히로(1947 - 2001년), 정신과 의사, 전 고베 여학원 대학 교수. 흐릿한 경묘한 맛의 산케이 신문 연재의 「가족 진찰합니다 (나중에 인생 응원단에 개제)」의 코너를 담당. 『나, 암입니다 어떤 정신과 의사의 내병기』를 저술. 카야마 리카 나고 코시 야스 후미의 스승이기도 했다.
- ^ 요리토는 미시마의 『풍요의 바다』를 의식해 이 책을 썼다.
관련 항목 [ 편집 ]
Consciousness only
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Yuishiki (Sanskrit: विज्ञप्तिमात्रता Vijñapti - mātratā) is one of the views of Mahayana Buddhism that an individual and all existence for an individual consists of only eight types of consciousness (eight consciousnesses). It is one ( the Yugagyo Yushin school ). Here, the eight types of consciousness refer to the five senses (visual, auditory, olfactory, gustatory, and tactile), consciousness, and two layers of unconsciousness. Therefore, these eight types of consciousness collectively include a wide range of representations and cognitive acts of an individual, as well as all states of consciousness and areas of the individual's unconscious that interact with them.
If all beings are nothing more than individually conceived consciousness, then they are subjective beings and not objective beings. These existences are impermanent, and at times they will repeat their births and deaths and eventually disappear into the past. In other words, these existences are "empty" and have no substance (the emptiness of all laws). In this way, only consciousness is the
Overview [ edit ]
Only-conscious thought asserts that the world for each individual is nothing more than a representation (image) of that individual, and assumes eight kinds of "consciousness" (eight senses theory).
- First of all, senses such as sight and hearing are also considered to be consciousness in terms of only consciousness. It is believed that there are five senses, each of which is visual, auditory , nasal , gustatory , and physical . , touch , etc.). These are collectively called the " previous five senses ."
- Then comes consciousness , or conscious awareness. Since it is the sixth, it is sometimes called " sixth consciousness ", but it has the same meaning. Also, combining the previous five senses and consciousness, the six senses or
in force ()It says. - under it
Manas consciousness ()It is assumed that the subconscious called is the mind that continues to cling to itself even when you are asleep or awake. During deep sleep, the action of consciousness ceases, but even during that time, the inner consciousness is active and is said to be attached to the self. - Underneath this is the fundamental consciousness called Araya-vijñāna, which gives rise to the five pre-consciousness, consciousness, and final consciousness, which in turn gives birth to the body and interacts with other consciousness . It is also thought that the world is what we think of as the "world".
If all beings are only individually conceived consciousness, then they are subjective beings and not objective beings. These existences are impermanent, and at times they will repeat their births and deaths and eventually disappear into the past. That is to say, these existences (colors) are 'empty' and are insubstantial (color is emptiness) .
Yushiki is a system of thought with an epistemological tendency advocated by a sect of early Mahayana Buddhism called Yugagyo Yuishikigaku, which appeared in India in the 4th century. Yugagyo only school is the middle school
It is said that the colors (shiki, matter) of this world consist only of mental actions, so it is sometimes seen on the same level as Western spiritualism . However, in Eastern thought and Buddhist monotheism, the existence of the mind is provisional, and its mental function is ultimately denied (
Only-conscious thought had a wide influence on later Mahayana Buddhism in general.
Consciousness interactions and enlightenment [ edit ]
Etymologically, only consciousness means "only awareness" [1] .
There is no "thing" outside the mind [ edit ]
The basis of Mahayana Buddhism is that all things in this world are based on dependent origination, that is, relationships. The monotheism theory complements that theory, and believes that people only recognize the phenomenon, and that there is no physical existence outside the mind. This is called ``Yui-shiki Mukyo'' (the ``boundary'' is the world outside the mind) or the boundary of Yui-shiki Shohen (things in the external world can be changed by shiki). In addition, each human being recognizes the world created by the Alaya-sensei deep within each person's heart ( human-human only-sense ). Feeling as if there is a common objective world with others is the seed (
Ayaya-shitsu and the workings of seeds [ edit ]
When a human being does something, speaks, or thinks, the effect is recorded in something called the seed (the content of the aya-sensei), and is thought to be stored in the aya-sensei . this
In addition, the seed may jump out of the aya-consciousness and act on the final-consciousness/consciousness. Furthermore, when the five senses (sight, hearing, smell, taste, and touch) are acted upon, they may receive edge from phenomena in the external world. This seed passes through consciousness and the final consciousness from the previous five senses, jumps into the Alaya consciousness, and is trained as a seed by the Alaya consciousness. This is considered to be thinking and recognition of the external world (
Ultimately, the mind has no substance [ edit ]
This change in consciousness is impermanent , repeating birth and death in an instant ( setsunametsu ), and when that moment ends, it disappears into the past.
Since we grasp the self and the world surrounding ourselves in this way, all things that we think of as ``things'' are only ``phenomena'', ``empty'' and insubstantial. At the same time, however, he argues that both the seed and consciousness itself are phenomena and do not have substance. This is subtly different from idealism in Western thought . The existence of the mind is also an illusion-like, dream-like existence ( empty ), and ultimately its existence is denied (Kyoushigubi).
When it is simply called 'Yushiki,' it may refer to Yuishiki sect ( Hosso sect ), Yuishikaku sect, and Yuishiku.
Characteristics of only-minded thought [ edit ]
It is a system of thought that doctrinally supports the wisdom obtained from yoga practice (meditation), which is a more refined form of yoga, an ancient Indian training method, in order to master the central tenets of Buddhism, impermanence and selflessness .
- Categorize the movement of your heart and set up eight senses. In particular, Senna-shiki and Araya-shiki were the first to pay attention to the field of the unconscious as deep psychology.
- The state of the outside world that oneself and oneself perceive,
three sexes ()Summarized as a theory, I explained that the perception of the world differs depending on the stage of training. - Through the practice of yoga, the concrete view of "only-mindedness" was systematized doctrinally.
- He argued that the one-way preaching of the Lotus Sutra was expedient and that not everyone could attain Buddhahood. (5 genders)
- By the time you reach Buddhahood
Three Asamkhya Kalpas ()It was called and said it would take an unreasonable amount of time. - While inheriting the emptiness of the Hannya Sutra , first of all, from the standpoint that wisdom exists temporarily, we try to reach enlightenment through the practice of yoga practice .
Founding and development [ edit ]
Only consciousness was established and systematized in India , passed through Central Asia , was transmitted to China and Japan , and spread to Tibet , forming the basis of Mahayana Buddhism . It was studied as a basic study of Buddhism along with Kusharon , and research continues even today.
Establishment and development in India [ edit ]
Yushiki is the middle Mahayana Buddhist scriptures, following the flow of the early Mahayana scriptures " Hannya Sutra " ``Issue all emptiness'' and the `` Kegon Sutra'' ``Sankaisaku Yuishin'' of the Jujibon.
As a theory , it originated from Maitreya and was perfected by brothers Asanga and Vasbandhu . Unauthored is "
It is said that ten major disciples appeared after Seshin. Only the Nalanda Monastery (Nālanda), built in the early 5th century , was actively studied. At the beginning of the 6th century, Guṇamati from Nalanda moved to Valabhī in West India, where his disciple sthiramati wrote a commentary on the Thirty Admirals of Only Wisdom . and taught many disciples. This lineage is called "Nirākāravādin" (Nirākāravādin) [2] .
This school of thought was introduced to China by Paramārtha, and was extensively studied for a period of time as the Jiron sect and the Setron sect .
On the other hand, Dignāga , who was active in the early 5th century , further developed the theory of Seichi's book `` Twenty Routines of Only Understanding '' to express ``Kanshoenron'' (ālambanaparīkṣā), the lineage of which is ``yes''. It is called sākāravādin, but it was transmitted to asvabhāva (around the first half of 6C) and Dharmapāla, and was actively studied and studied at the Nalanda Temple.
Spread to China and Japan [ edit ]
Xuanzang , a study abroad monk who went to India from China , studied under the disciples of the law, śīlabhadra, at this Nalanda temple . After returning to Japan, he translated "Thirty Advice on Yui Shiki", introducing the opinions of other scholars and criticizing them, centering on the commentaries on the Dharma.
Then, centering on this book, Xuanzang's disciple Jion Daishiki ( or
After that, the Hosso sect was introduced to Japan by Dosho , Chimitsu , Chiho , and Genbo , and it became one of Nanto's six sects after it was studied at the height of the Nara period . This tradition was inherited mainly by Kofuku-ji Temple , Horyu-ji Temple and Yakushi - ji Temple in Nara, and Kiyomizu-dera Temple in Kyoto .
Change of consciousness [ edit ]
Only-conscious thought claims that the world is merely a consciousness, a representation, or an image in the mind. The existence of the external world does not actually exist, but only appears as if it exists. This is explained in the "Kegon Sutra" as follows.
Also, create your own thoughts, make the three worlds illusions, but only create your mind. It depends on everyone's heart.
I regret to make it again. Delusion of the Three Realms. However, it is made by heart. Twelve rims. All devotion——Dafang Guangfo Flower Adornment Sutra Ten Land Grades Twenty-Second Third
Consciousness is mind. It is said that the sutra is based on the root that the mind gathers and forms as the master. Because it is the basis of understanding and understanding, it is called only consciousness. Alternatively, the sutra says that righteousness leads to cause and effect, and is generally said to be pure mind. The theory is called only consciousness because it preaches that there is only a cause. Shiki is the meaning of understanding, and since the function of Shiki is strong within Ini, it is explained as Shiki and limited to Yui. It's not literally two things. In "Twenty Ron", he preaches that the names of mind, consciousness, consciousness, and ryo are discriminatory.
Intellectual Shinya. Yushin gathering. The main source of the work is Yuishin. Reasonable Tatsuno's root cause. A mere conscience or a mere thought of the general cause and effect. Argument only exists, but only consciousness. Differentiate. Because of the strength of the presence of the origin. Only for understanding. There is no other reason. Twenty words. Conscious mind. name discrimination.——Volume 1 of Yilin Chapter of the Mahayana Dharma Garden of Master Ci’en [ 3]
This movement of the mind is called the transformation (pariṇāma) of consciousness (vijñāna). There are three types of transformation, which are
Ripe ()- maturity of the actconsider ()- what is called thinkingfarewell ()- Target identification
are three. The transfiguration of consciousness is a conception. What is conceived by it is not real. Therefore, the whole world is only identification.
First Nohen [ edit ]
The different maturity is the aryaya-consciousness (knowledge called primordial), which contains all the seeds (bīja). It always accompanies touch, attention, sensation, thought, and will. Sensitivity is unbiased, and it is undisturbed and neutral. Feeling and others are also the same. And the primordial knowledge is active like a torrent. "Like a Storm"
Second Nohen [ edit ]
Final consciousness (mano nāma vijñāna) acts on the basis of alaya-consciousness, takes alaya-consciousness as its object, and has thinking action as its essence. The final knowledge is always accompanied by the four disturbing androgynous worldly desires. They are called Gami (belief about the individual self), Gachi (confusion about the individual self), Patience (conceit about the individual self), and Gaai (attachment to the individual self). Above all, it accompanies only that which belongs to the same world or station in which it is born. In addition, it accompanies feeling and the like.
This ultimate consciousness may be called ego consciousness. It is also called "dirty mind (manas)" because it is always accompanied by worldly desires. With this final knowledge and consciousness, there is thought, and the remnants of that intentional karma are also cultivated by the aya consciousness as a seed.
Third power change [ edit ]
Reconciliation is the third transmutation, perceiving six kinds of objects.
The six senses are: eye sense for color (shiki, rūpa), ear sense for voice, nasal sense for scent, tongue sense for taste, body sense for touch (things that can be touched), and consciousness for law (thinking). object, concept). And these six consciousnesses also arise from the aya consciousness. The final consciousness and these six consciousnesses are the 'current consciousness', which we regard as the field of consciousness, and the Araya consciousness is the unconsciousness.
The explanation so far has been about the flow from the aya-shiki to the final and 6-shiki (Tanesei Gengen). seeds) are also available. That is the meaning of Araya (= storehouse), and it circulates with each other.
Any act (karma), including consciousness, is present for a moment and passes into the past. At that time, he left an extra lesson for Ayayashiki. It accumulates as a seed in the aya-consciousness, matures, undergoes a ``transformation of consciousness,'' and various consciousnesses arise again, and actions occur again.
Trinity [ edit ]
Suppose there are three ways to see the mode of existence through this transformation of consciousness.
- parikalpita , conceived existence The everyday perception of ordinary people.
- Dependency (paratantra) Relative existence, existence dependent on others
- Enjojissho (pariniṣpanna) absolute existence, perfected existence
Such a view is the basis of Mahayana Buddhism without waiting for only consciousness, and its prototype has already been preached in the Hannya Sutra .
Pervasive obstinacy corresponds to the object created by the Ayaya-shiki, Mina-shiki, and Six-consciousness, which does not exist and is empty.
Shariputra to BuddhaWord ()ofwhite ()Auction.
"World-Honored One. Reality of laws,Yun He ()There is,"
said the Buddha.
"There is no place for various laws. There is no place like this, there is no place like this. Not knowing this is called ignorance."— Maka Hannya Haramitsu Sutra Act No. 10
Dependency is a relative existence, and although it is a conception, it is to perceive that things are caused by the gathering of various chances (engi). Although it is the conception of all consciousness, including aya-consciousness, if it becomes clear that the object of that consciousness is nothing, then this existence, which is dependent on the object, is also empty.
A surname is a law that can create a harmony of fate. However, I preach a sensible recollection and a pseudonym.
Therefore, when performing Bodhisattva Mahkasatsu and Prajnaparamitsu, he does not look at any surnames.
I did not write because I could not see.— Maka Hannya Haramitsu Sutra Offering No. 2
Engagement is a conception of Buddha and can be called an absolute existence. This is neither different nor different from dependentness. Enseisei is the state in which the previous obsessiveness has been completely eliminated from the dependent nature.
After returning, Shariputra. Bodhisattva Mahkasattva, if you want to know the nature, nature, and reality of all the Dharma, you should study the Prajnaparamitsu.— Preface to Maha Prajna Paramita Book No. 1
As mentioned above, at the stage of the Hannya-kyo Sutra, the three natures are not collectively described. After going back in time and waiting for the " Explanation of the Deep Mistra " (translated by Xuanzang), he preached that there are three aspects of various laws. This does not mean that there are three types of law, but that the law manifests itself in three different forms depending on the state of the person who sees it.
In short, there are three types of laws.
Do something like three.
The first is Hengesho Shiso, the second is Yorita Kiso, and the third is Ensei Jitsuso.
What is the ruler of all laws?
So to speak, in the name of all laws, self-discrimination on temporary grounds, or for the purpose of commanding discourse.
What are the origins of various laws?
In other words, it is the natural nature of the relationship between all laws. Therefore, there is this, therefore there is this. Because this is born, he is not born.
It is said that ignorance leads to ignorance or invites pure suffering.
What is the true meaning of the various laws?
In other words, it is the truth of all legal equality. In this truth, the bodhisattvas of all the bodhisattvas, because of their bravery and diligence, and because they regard Nyori's intentions and indomitable thought as their fate, are able to convey this. Gradually collect in this notice,direction ()to testify to— Depth and Secret Sutra All Legal Compatibility No. 4
It is an indirect expression that phase depends on sex, but in the treatise on only consciousness, it is expressed as the three natures of obsessiveness, dependentness, and enseijitsu, and elaborate arguments are developed. Become so.
Of the three natures, the first, omnipotent obstinacy, by its nature, is already non-existent. Dependency is also empty, because it lacks independent existence. In addition, the same dependency-occurrence is the third circumstantiality as the absoluteness of the element of existence. And in any state, it is called true because it is the appearance of the truth as it is. The true state of things is the truth of "only discernment". Awareness of this is nothing less than a change from the world of confusion to the world of enlightenment.
However, in the practical stage, we must not insist on ``only discernment''. When the activity of cognition ceases to perceive phenomena at all, it settles in the truth of 'only discernment'. This is because if the object of recognition does not exist, there is no recognition of it either. It became mindless, senseless. It is a perception that transcends the world, and by eradicating the two types of obstacles of worldly desires (attachment to self) and shochi (attachment to things in the external world), aya-shitsu brings about changes (
Level of training [ edit ]
To attain Buddhahood with only consciousness
Transcendent wisdom [ edit ]
When one attains enlightenment as a result of training and becomes a Buddha, the eight 'knowledge' transforms into 'wisdom'. this
- the previous five senses
Cheng Zuozhi ()To - Consciousness is
clever observation ()To - The final knowledge is
egalitarian intelligence ()To - Ayaya consciousness is
Oen Kyotomo ()is said to turn into
The concept of transshiki-tochi has been inherited by the Tendai sect , the Shingon sect , and the Nyingma sect of Tibetan Esoteric Buddhism .
Mindfulness and consciousness [ edit ]
In "Kegon Sutra," Yuishin refers to 'the righteousness of gathering'. Since the Kegon Sutra speaks from the standpoint of an enlightened Buddha, it is said that all phenomena of existence are taken into one's mind as they are, and that the whole world and the universe are within one's mind. Therefore, since all the origins are collected , it is said that "the righteousness of the collection" is Yushin.
In the theory of only consciousness, ``the righteousness of Ryobetsu'' is called only consciousness. Since I am speaking from the side of ordinary people (usually human beings), I am trying to look at the human way of thinking. By recognizing all phenomena of existence, they can become phenomena of existence that they themselves can recognize and infer, so they themselves accept and distinguish them. Therefore, it is said that ``Ryōbetsu no Gi'' is only conscious. It is not the mind, but the 'consciousness' of the body that works to understand each other, not the organ. Organs are existing phenomena.
However, even if it is called mindlessness or only consciousness, its essence is one. Discussed in detail, the word yuishin can be understood both at the stage of training (ini) and at the stage of attaining enlightenment and becoming a Buddha (attainment). Since it depends on whether or not one recognizes and infers it, it is applicable only to the training stage (Ini) before attaining enlightenment. 'Yi' has a simple meaning, and simply 'Yi' means that there is no law (existence) other than Shiki. "Ki" means understanding. Ryobetsu no Kokoro has 3 types (first power change, 2nd power change, and 3rd power change) for short, and 8 types (Hakshiki) in a broad sense. Collectively, this is called “knowledge”.
Consciousness and Being [ edit ]
To say that there are only eight consciousnesses, as described above, means that all things do not depart from these eight consciousnesses. It is not that there is no existence (dharma) other than the Eight Consciousness. They are roughly divided into five laws (five types of existence). (1) heart , (2) heart , (3) color , (4) disproportionate, (5) idleness . The first four are ``things,'' and the last is ``ri.'' These are called the five laws.
- 心(心王, citta) - consciousness itself. It is the central body of the mind and is also called the "eight minds".
- Caitasika - the function of consciousness . It is a detailed mental action that accompanies Shin-O, and is further classified into 6 types: Pilgrimage, Bukkyo, Goodness, Worldly Desires, Zuisly Worldly Desires, and Uncertainty , and further divided into 51 more detailed hearts . It is also translated as mind ownership method and heart number method .
- Color (rūpa) - Manifestations of mind and heart, perceived as so-called material things such as bodies and things.
- Unsuitable behavior (viprayukta-saṃskāra) - Discrimination between mind, heart and color quantiles. It is neither mind nor matter, and it is the principle that makes phenomena phenomena.
- Wuwei (asaṃskṛta) - the substance of the four former laws. Truth that should be called the essence of the phenomenon .
Furthermore, they are divided into 8 minds, 51 minds, 11 colors, 24 unsuitable actions, and 6 non-actions, and are divided into 100 types in total, so they are called Goi Hyakuho . In addition, Kusharon preached ' Five rank seventy-five law ', and it is considered that he developed it.
Yukio Mishima and Only Consciousness [ edit ]
Yukio Mishima 's last work, the " Sea of Fertility " tetralogy, incorporates sensibility as one of its motifs. On the day of the final draft of Part 4, " Tennin Goshui ", Mishima committed suicide by committing suicide ( Mishima Incident ) at the Ground Self-Defense Force Ichigaya Garrison .
Tatsuhiko Shibusawa touched on Mishima's enthusiasm for philosophical theory in "Fragments about Yukio Mishima", and when Mishima asked him what philosophical theory was, Shuntaro Matsuyama, a religious scholar, said, ``That must be a madness . There is no way that a sane person would understand.The only good thing about the theory is that there is a staircase going down into the water, and before you know it, the water will reach your feet, and before you know it, you will be drowning. It is the logical structure of a large philosophy, it is what we call thought.” When Takeshi Umehara heard this, he said, “I admire Mishima, too, but I think I have come up with such an absurd theory . There are no Buddhist scholars who have disclosed it as such," he said. Also, when Mishima visited Shibusawa's house, he placed one plate horizontally and another plate vertically on top of it and said, ``In short, the aya-sense is that the time axis and the space axis are distorted like this. I think it's the origin that crosses the other," so I introduced a story that I teased, "Mr. Mishima, it's not Arayashiki, but Sarayashiki . "
Related books [ edit ]
- Toshiei Tagawa, "Introduction to Consciousness-Only", Chunqiusha, 46, 288 pages, September 2013 ISBN 978-4-393-13572-3 .
- Takasaki Naomichi , "Introduction to Consciousness-Only", Shunqiusha, 231 pages, 2003 ISBN 4-393-135229 。
- Shigeki Shigeki [5] Reading "Theory of Mahayana Five Stars" (New Kofukuji Buddhist Culture Course) Book, Shunjusha, 320 pages, September 2015, ISBN 978-4393135839 .
- Reading Takayuki Hirosawa 's "Thirty Admirals of Only Understanding" (TU Selected Books) Book, 378 pages, June 2005, Taisho University Press, ISBN 978-4924297302 .
- Kazuhiro Raito [6] "Ego's Feast Eros, Mind, Death, Mystery" Sogensha, August 1986. ISBN 4-422-11079-9 .
- Kazuhiro Raito, "Beyond Heart and Body, Eros, Mind, Death and Mystery" Chikuma Shobo (Chikuma Bunko), April 1999. ISBN 4-480-03473-0 . A book that interprets "only knowledge" from the standpoint of psychiatry [7] .
Notes and sources [ edit ]
- ^ The original ( Sanskrit) word for consciousness is vijñapti-mātratā, or vijñāna-vāda. Vijñapti means "to make known" and mātra means "only". vijñāna is the root of ``to know'' (jñā) and has the prefix ``vi-'' meaning ``to divide'', so it means ``knowing by division'', and vāda means ``theory''.
- "The word 'Bijakoshitsu' in Brahma translates into 'Ki'. 'Ki' is the meaning of understanding. 'Ki's own aspect', 'Ki's correspondence', 'Ki's changes', and 'Ki's division'. And the reality of consciousness and the facts of the Five Dharma do not leave consciousness.This is why we call it only consciousness." The relevant passage is Taishozo T1861_.45.0260a10 - 12 Everyone is ignorant and ignorant.)
- (Miroku Bodhisattva says) "By resigning myself to the Ten Directions only, I am enlightened. When I enter perfection and fruition, I get rid of my self-esteem and omnipotent obsession, and I gain immortal endurance. This is the first. I will do it." -- " Shuryugonkyo " Volume 5. The relevant passage is Taishozo T0945_.19.0128a19 - 20 (I have only one view of the ten directions. Conscientious mind enlightenment enlightenment. Long-distance reliance and pervasiveness. Acquisition of non-life ninja is the first). It should be noted that the ``Shūrakugon Sutra'' is not the ''Shūrakugon Sanmai Sutra (Chinese version) '' translated by , but the ``Daibutsucho Nyorai Mitsuin Shusho'' translated by Banramitai ( Chinese version ). It is an abbreviation of Volume 10 of Ryōgi Sho Bodhisattva Ten Thousand Lines of the Sutra.
- ^ There is a big difference in how aya-consciousness is viewed between uni-consciousness and uni-consciousness. Mukai-only consciousness also categorically denies aya-sense as emptiness, and preaches that the Buddha manifests as an individual, and that absolute knowledge is obtained in which the seer and the seen are not separated.
The existence-only consciousness considers the aryaya-consciousness to be the body of real existence, and puts forward the theory that it changes to give rise to the seen and the seen. According to this theory, even if one obtains absolute knowledge, it does not negate aya-knowledge itself, but rather eradicates the latent power of worldly desires contained within it. , the seer and the seen must be there. - ^ The relevant part is Taishozo T1861_.45.0260a24 - 29
- ^ Kamakura Literary Walk Natsuo Ataka, Junzo Matsuo, Hoikusha, 1993
- ^ Shigeki Moro was born in Osaka in 1972. Professor, Department of Cultural Heritage, Faculty of Letters, Hanazono University .
- ^ Kazuhiro Yorifuji (1947-2001), psychiatrist, former professor at Kobe College . She is in charge of the corner of the Sankei Shimbun serialization, "Family Examination (later renamed to Life Support Team)", which has a silly and light taste . She authored "I am cancer, a memoir of her psychiatrist's disease resistance". She was also the teacher of Rika Kayama and Yasufumi Nagoshi .
- ^ Raifuji wrote this book with Mishima's " Sea of Fertility " in mind.