2023/05/27

天地有情の農学 : 宇根 豊 농본주의의 스스메

宇根豊 Une Yutaka

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

宇根 豊(うね ゆたか、旧姓名 永藤豊、1950年6月2日 - )は、日本の百姓にして思想家。農と自然の研究所代表。百姓の経験を思想化し表現することに生涯をかけて来た。

経歴[編集]

1950年長崎県島原市で生まれた。島原高校卒業、九州大学農学部農学科卒業。1973年より福岡県の農業改良普及員。1974年宇根公代と結婚し、宇根姓を名乗る。1978年より減農薬稲作を提唱した。1988年糸島郡二丈町(現糸島市)にて就農。2000年福岡県庁を退職。NPO法人「農と自然の研究所」を百姓仲間と設立し、代表理事に選任される。2004年社会人入学していた九州大学より農学博士の学位を授与。2010年農と自然の研究所はNPO法人を解散して任意団体へ移行。

日本農業経営大学校講師、東京農業大学客員教授、福岡県生物多様性策定委員。

業績[編集]

1978年より「虫見板」を用いた「減農薬稲作」を技術化、理論化して、普及した。それまでの農薬のスケジュール散布を科学的に批判し、百姓自らが散布の是非を判断するもので、それまでの上意下達の近代化技術の実践的な変革運動となった。1983年には、「減農薬米」の産直を福岡市農協と生協県連(現在のグリーンコープ)とで始めた。これは米流通の革新であった。1984年には害虫・益虫以外の虫が多いことに気づき、「ただの虫」と命名し、現在は広く使われ、学会等でも使用されている。

減農薬運動は1985年宇根が『減農薬稲作のすすめ』4000部を自費出版することによって、一挙に広がった。その後この本は農文協から『減農薬のイネつくり』としてリメイクされ出版されると、さらに全国に広がった。

1990年代の宇根は、田んぼの生きものと百姓仕事の関係を明らかにしていった。日本の赤とんぼ(主に薄羽黄トンボや秋茜)のほとんどが田んぼで生まれることを突きとめ、農業生産物に生きものたちも含めるように提案し、作物同様に生きものも育てる「環境稲作」を技術化した。1997年には『第1回農業と自然環境全国シンポジウム』を百姓主導で開催し、全国から1200人の参加者が前原市(現糸島市)に集うほどの広がりをもった。

2000年代は「農と自然の研究所[1]」に拠って、田んぼの「生きもの調査」の手法の開発・普及、農業を「自然環境まで生産している」という考えに転換させる「環境支払い」政策を具体的に提案、田んぼの生きものとごはん一杯の関係を数値化し、さらに図示することに成功[2]、田んぼの「生きもの指標」と「草花指標」を製作して、百姓のまなざしを豊かにとりもどす方法を提示、田んぼの生きもの(動物・植物・微生物)を多くの人の協力で「田んぼの生きもの全種リスト」してまとめて、改訂を重ねて、日本に棲息する5668種をリスト化[3]。これは世界でも前例がない取組みであった。

2010年代は、百姓に専念しながら、農業の近代化を深く問い直す思想的な営みを続けている。まず2011年に出版した『百姓学宣言』で、「百姓学」の理論化をすすめ「内からのまなざし」をその核に据えた。その後「農の本質」への思索から「農本主義」の発掘と再評価に取り組み、現代に生かす「(新)農本主義」の本を相次いで出版した。さらに、百姓の「天地自然論」をまとめ、最近はICT、AI技術の農業への導入に危機感をもち「反スマート農業」の理論化をすすめている。

引用元[編集]

  1. 『減農薬のイネつくり』(農文協)
  2. 『農は天地有情 宇根豊聞き書き』佐藤弘(西日本新聞社)活動実績はこの本による。
  3. 『田んぼの忘れもの』(葦書房)
  4. 『天地有情の農学』(コモンズ)宇根豊の学位論文
  5. 『宇根豊の減農薬稲作から農本主義への思想展開』大石和男(「農林業問題研究」第56巻・第3号、2020年9月)思想展開はこの論文による。
  6. 「農と自然の研究所」ホームページ(http://hb7.seikyou.ne.jp/home/N-une/)

受賞歴[編集]

  • 1985年 「第11回山崎農業賞」(山崎農業研究所)
  • 1998年 「地上50周年記念論文賞」(家の光協会)
  • 1998年 「第4回地方自治研究賞」(自治労)
  • 1999年 「水環境学会」九州支部文化賞(水環境学会九州支部)
  • 2000年 「日本農業普及学会」第1回奨励賞(日本農業普及学会)
  • 2003年 「日本作物学会」第2回技術賞(減農薬稲作技術の研究と普及、日本作物学会)
  • 2006年 「第23回農業ジャーナリスト賞」特別賞(『国民のための百姓学』、農政ジャーナリストの会)
  • 2006年 「第7回明日への環境賞」(朝日新聞社、農と自然の研究所)
  • 2009年 「第1回環境アワード」(環境省・イオン財団、農と自然の研究所)
  • 2020年 「日本農業普及学会」学術賞(日本農業普及学会)

評価[編集]

農薬運動の評価[編集]

当初は、福岡県や農水省から「危険思想」だと見られていた。なぜなら減農薬稲作は単なる対抗技術ではなく、近代化技術である農薬を推進してきた側の姿勢や思想や価値観の欠陥を、農業改良普及員という推進側内部の人間から、提起されていると受けとめられたからである。しかし、現実に減農薬運動が百姓の実感に合い、確実に実績をあげていくことに対して、行政内部からも評価の動きが出てくるようになった。

一方で、現場の減農薬運動の評価は、「虫見板」の普及に現れている。福岡市農協と糸島農協が全組合員に配布したことを始まりとして、2017年時点で販売枚数だけでも20万枚を超えている。「減農薬」という用語は、とうとう農水省まで採用するようになった。もっとも農水省が宇根の反対意見陳述にもかかわらず減農薬の定義を「慣行の農薬散布の半分以下」としたための、運動論としては弱くなったことは否めない。「減農薬」という表示は広く使われるようになり、それが宇根らの運動から提起されたものだということは、現在ではほとんど忘れ去られている。「減農薬運動」を学術的に評価したものとしては、1985年に『第11回山崎農業賞』が、2002年に「日本作物学会・第2回技術賞」が宇根個人に贈られている。

現在では「ただの虫の評価」「環境稲作の評価」「農と自然の研究所の評価」「百姓学の評価」「宇根農本主義の評価」が始まっている。

著書[編集]

単著[編集]

  1. 『減農薬稲作のすすめ』擬百姓舎、1985年(自費出版、4000部)
  2. 『減農薬のイネつくり』農文協、1987年
  3. 『「指導」が百姓と指導員をダメにする』農村文化運動106巻、1987年
  4. 『田んぼの忘れもの』葦書房、1996年
  5. 『環境稲作のすすめ』環境稲作研究会、1998年
  6. 『田んぼの学校 入学編』農文協、2000年(絵:貝原浩)
  7. 『百姓仕事が自然をつくる 2400年めの赤トンボ』築地書館、2001年
  8. 『国民のための百姓学』家の光協会、2002年
  9. 『虫見板で豊かな田んぼへ』創森社、2004年
  10. 『国民のための百姓学』家の光協会、2005年
  11. 『農の扉の開け方』全国農業改良普及支援協会、2005年
  12. 『天地有情の農学』コモンズ、2007年
  13. 『風景は百姓仕事がつくる』築地書館、2010年
  14. 『農と自然の復興』創森社、2010年
  15. 『農がそこにいつもあたりまえに存在しなければならない理由』北星社、2010年
  16. 『農は過去と未来をつなぐ』岩波書店 ジュニア新書、2010年
  17. 『百姓学宣言』農山漁村文化協会、 2011年
  18. 『田んぼの生きものと農業の心』NHK出版(「こころをよむ」ラジオテキスト)
  19. 『農本主義へのいざない』創森社、2014年
  20. 『農本主義が未来を耕す』現代書館、2014年
  21. 『愛国心と愛郷心』農文協、2015年
  22. 『農本主義のすすめ』ちくま新書、2016年
  23. 日本人にとって自然とはなにか』ちくまプリマ―新書、2019年
  24. 『うねゆたかの田んぼの絵本 全5巻』農文協、2020年・2021年

著書・共著[編集]

  1. 『米・輸入か、農の再生か』学陽書房、1987年(第3章執筆)
  2. 『減農薬のための 田の虫図鑑』農文協、1989年(日鷹一雅・赤松富仁 共著)
  3. 『農薬問題一問一答』合同出版、1989年(分担執筆)
  4. 『地域が動きだすとき』農文協、1989年(分担執筆)
  5. 『農協の有機農業』家の光協会、1989年(分担執筆)
  6. 『ヒノヒカリ』農文協、1990年(分担執筆)
  7. 『沖縄へのメッセージ』サザンプレス、1990年(「新しい稲作西表の安心米」執筆)
  8. 『環境百科』駿河台出版社、1992年(分担執筆)
  9. 『低投入稲作は可能』富民協会(橋川潮 編)、1996年(「環境の技術論」執筆)
  10. 『井上ひさしの農業講座』家の光協会、1997年(第1章・ 第2章執筆)
  11. 『水田生態系における生物多様性』養賢堂、1998年(第2章執筆)
  12. 『田んぼ探検隊』家の光協会、1998年(漫画家・尾瀬あきらと 合作、「ちゃぐりん」4月号付録)  
  13. 『有機農業ハンドブック』日本有機農業研究会、1999年(第2章執筆)
  14. 『自然と結ぶ』昭和堂、1999年(講座「人間と環境」第3巻第5章執筆)
  15. 『除草剤を使わないイネつくり』農文協、1999年(第1章・第3章執筆)
  16. 『食料主権』農文協、2000年(第2章「「自給」の技術の長き不在」執筆)
  17. 『子どもに贈る本 第2集』みすず書房、2000年(分担執筆)
  18. 『農村ビオトープ―農業生産と自然との共存』信山社、2000年(第3章執筆)
  19. 『環境市民とまちづくり:自然共生編』ぎょうせい、2002年(第2章執筆)
  20. 『農は天地有情』西日本新聞社、2008年(宇根豊 語り・佐藤弘 聞き書き)
  21. 『本来農業宣言』コモンズ、2009年
  22. 『3.11と私 東日本大震災で考えたこと』藤原書店、2012年
  23. 『つなぐ力聞く力』農文協(日本農業普及学会 編)、2017年
  24. 『「農業を株式会社化する」という無理』家の光協会、2019年
  25. 『農家・農村との協働とは何か 50のテーマから考える協働学入門』農文協、2019年
  26. 『新しい小農』創森社(小農学会 編)(第5章「小農学概論序説」執筆)
  27. 『有機農業大全』コモンズ(日本有機農業学会 編)、2019年(第3章執筆)

脚注[編集]

  1. ^ 農と自然の研究所”. 宇根豊. 2021年1月22日閲覧。
  2. ^ この図案は宇根の絵によって図案化され、2017年現在20万枚以上が販売されている。
  3. ^ 現在このリストは、滋賀県立琵琶湖博物館に引き継がれ、改訂増補がなされている。







Amazon.co.jp: 天地有情の農学 : 宇根 豊: Japanese Books





天地有情の農学 Tankobon Hardcover – July 1, 2007
by 宇根 豊 (著)
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Paperback Shinsho


Product description

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
宇根/豊
1950年長崎県島原市生まれ。1973年福岡県農業改良普及員となる。1978年減農薬運動を提唱・普及。1988年新規参入で就農。2000年福岡県庁を退職。農と自然の研究所を設立。現在、NPO法人農と自然の研究所代表(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


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赤とんぼ

5.0 out of 5 stars 大胆で新鮮Reviewed in Japan on August 31, 2007

考えてみれば不思議ですが、なぜ百姓を養成する農学、百姓が身につける農学、百姓の言葉になる農学はなかったのでしょうか。机の上から見下ろす農学、百姓を指導する農学が主流です。かつて百姓の青年たちに親たちが吐いた「百姓に学問はいらない」という言葉は、学問の体質を実に鋭く見抜いていたのかもしれません。「百姓にいる学問」とはどういうものでしょうか。
 現代では、所得(カネ)につながるのが「役に立つ」の定義になっていますが、そういう意味では役に立たなくても、百姓が自分の情感を自分で抱きしめるときに役立つ農学だってあってもいいはずですし、それが「天地有情の農学」だと思います。具体的な事例と理屈は、この本を読んでもらうしかありませんが、「そうか、オレ仕事の合間に、風景を眺めるのは、こういうことだったのか」と百姓に納得させるまなざしがここにはあります。

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« 平沢さんのスタークリムソン | メイン | 「日照りに不作なし」 というけれど »

『天地有情の農学』-消費者に問う農学?
8月7日の日記で、宇根豊さんの新著に触れ、
「うまく整理できれば改めて」 なんて書いてしまった手前、
どうも棚にしまえなくて、今日まで脇に置いたままである。
私なりに書けるだけ書いて、いったん収めておきたいと思う。

『天地有情の農学』
e07082901.jpg

天地とは ‘自然’ のこと。
有情とは ‘生きものたち’ のこと。
この世は生命のいとなみで満ちている、というような意味。

それを支える 農‘学’ の道を切り開こうというメッセージなのだが、
私には、迫られているような圧力を感じたのである。
こんなふうに-

消費者にこそ ‘農学’ が必要なのではないのか?
1960年代より進められた「農業の近代化」というやつは、
農薬や化学肥料に依存し過ぎた生産方法によって、
環境(生態系)を壊し、人々の健康も脅かす要素を、高めてきた。

その反省や批判をベースに有機農業や減農薬運動は興り、
ようやく 『環境や生物多様性を育む』 仕事 としてまっとうに評価されるまでになった。

たとえば、農薬を使わない水田は生物多様性が増し、水系(地下水)も保全する。
カエルは、カエルの餌となる生き物や、カエルを餌とする生き物とつながっていて、
それやこれやの生き物の多様な循環が、環境の豊かさを構成する。
そのつながりを目に見える形で示すひとつの試みが、「田んぼの生き物調査」である。

この価値や、農業と自然の関係を、
きっちりと学問(科学)的にも明らかにする「農学」の確立を、
アプローチの手法、道筋を含めて提示しようとしているわけだが、
ことはそれだけではすまないから厄介だ。

無農薬のお米が環境を守ることにつながっているとしても、
その「環境保全」部分は、米の価格には含まれていない、という問題である。

価格には含まれていないが、それがあることによってもたらされるメリットを
「外部経済」と呼ぶが、
百姓(宇根さんは胸を張ってそう言う)が、
当たり前に百姓仕事をしてくれることによって得られている、
米代に含まれない大切な外部経済の部分を、誰がどうやって保障するのか。

そこで宇根さんは「環境デカップリング」の導入を提言する。
EUなどですでに実施されている仕組みで、
環境を維持するための指標を作って、それを実施する生産者に一定の所得保障をする、
という考え方である。

この考え方はたしかに、
「有機農業推進法」の「推進に関する基本方針」の中でも、
検討の必要性が盛り込まれている。

しかし・・・・・ここで私は靄(モヤ)に包まれたような気分に陥る。

私の知る農民の本音は、
田んぼでたくさんの赤とんぼを育てたところで、補助金を貰おうなんて思っちゃいない。
フツーに米や農産物を売って、フツーに食っていければいい、という感じである。

とはいえ、安い輸入農産物に押されて価格が低迷する今のご時勢、
このままでは外部経済の価値が守れない。

そこは税金で補償するしかない……のか。

宇根さんの「天地有情農学」論に賛辞を送りながらも、
私はこの最後の経済の部分で、わだかまりを捨てきれない。

税金を使うには国民の合意が必要である。
たとえ消費者が納得したとしても、生産者は喜ぶのだろうか。
安い米を買って、別な形で税金をつぎ込んで補償するという格好は、
けっして生産と消費のまっとうな関係とはいえないのではないか。

私としては、例えば
1kg=600円でお米を買った後に、環境支払いという名目でもう100円徴収されるよりは、
1kg=700円を “佐藤さんの米代” として出したい。
それで佐藤さんが当たり前に有機農業が持続できる価格として。
(これが今の「大地」の基本姿勢でもある)
その方が消費者の‘支持の選択’権も多様になる。

しかし、そんな悠長なことは言ってられない、ようなのだ。
水や空気はすべての人に同等に与えられているわけだから、
国民には等しく負担してもらわなければならない、と。

安さを求める人には別途税金を-
生々しい話であるが、こういう議論もしなければならないほど、
「農の危機はイコール環境の危機」 という構造になってしまった。
天地有情の農学は、こんなふうに我々消費者に‘農学’を迫っている。

私はまだ結論が出せない。
とりあえずは、農業の価値に国民的合意を得る上での論として支持しつつ、
一方で、大地の提唱する「THAT’S国産」運動の方が好きだ、
とは言っておきたい。


※「THAT’S国産」運動……‘国産のものを、まっとうな価格で食べよう’ という運動。
                  畜産物の餌も国産にこだわることで自給率を上げ、
                  輸送コストを下げることでCO2削減にも貢献できる。

投稿者: 戎谷徹也(大地を守る会) 日時: 23:42 | パーマリンク | コメント (0) | トラックバック (0)

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일본인에게 자연이란 무엇인가 (치쿠마 프리머 신서)›고객 리뷰
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허리 통증 생활
별 5개 중 2.0개 일본인의 자연관을 백성의 관점에서 말하는 것이 좋습니다만.
작성일: 2019년 8월 9일 일본
확인된 구매
자연을 '내에서 본 자연'과 '밖에서 본 자연'과의 눈빛으로 건너뛰고 전자를 백성 시선, 후자를 과학적 시선으로 하고 있는 것 같습니다. 논의 농작업의 풍경을 배경으로, 「자연」과 「일본의 문화」에 「사생관」을 냄새게 하는 것으로, 철학적 사고를 섞은 논고(아니, 에세이인가)를 전개하는 내용이군요.

이 책에서는 "백성"이라는 말을 감안하여 사용하면 전치하는 것이 좋습니다만, 자연을 테마로 한 저작에 비해 부자연스러운 선언일까, 라고 느꼈습니다. 가끔 '백성'은 모욕적인 표현으로 사용되기도 합니다. 그렇다면 '백성'이라고 표현하면 끝난 것 같습니다 (스스로를 100 성이라고는 말하지 않겠지만). 고집이 있는 본서의 내용을 예감시킵니다.

다소 감상적인 표현을 곳곳에 느끼는 것이 좋다고 해서, 논고 그 자체가 독선적으로 생각되어서는 안됩니다. 희미한 견해를 한다면, 백성이라는 생업을, 특정한 뛰어난 자연의 견해를 할 수 있는 입장이라고 어둡게 자랑하고 있는 것처럼도 읽을 수 있습니다. 그 분위기를 느끼는 방법에 따라, 본서에 대한 좋아하고 싫어하는 것은 나눌 것 같습니다. 백성이라는 직업명을 과시하고, 특별시하는 듯한 자의성이 행간에 번져 나오고 있는 것처럼 느꼈습니다.

P31에서는, 논의 물이 말라 올라 오타마작시가 죽은 것에 대한 백성의 감상이 그래프화되고 있었습니다.
미안하다고 생각하면서 꽤 웃을 수 있었습니다. 그 조사결과에서 나오는 논고도 젊은이와 노인을 이분화하는 강인한 인과결합에 의한 해석을 볼 수 있습니다. 「과학적」을 옆에 두고 싶은 기분은 알 수 있습니다만, 결국은 비과학적이고, 독선적인 논고에 페이지를 반복하는 손이 둔해져 버립니다. 「농」의 시점을 중심으로 한 「자연관」에의 독자적인 감각을 피로하는 것은 환영입니다만, 설득적인 근거가 피로되지 않으면, 역시 독선적인 모노이이에 들려 버립니다.
무례하면서, 본서는 독단적인 「자연에의 부자연스러운 비과학적 에세이」일까, 라고, 읽었습니다.

p68 근처에서 시작되는 "자연"이라는 말의 이면성은 흥미롭게 읽었습니다. 「있는 그대로의 인위가 더해지지 않는다」의 의미에서의 자연과, 「인공물 이외의 삼라 만상」의 의미, 라고 하는 「자연」에의 정의의 칸 나누기입니다. 자연에 대한 일본어가 없었던 이유에 기독교적인 창조물로서의 밖에서의 눈빛과 천지를 밖에서 볼 수 없었던 일본 문화적 속에서의 눈빛, 이라는 상태의 대비로 설명해 합니다. 요점은 자연의 일부로서 연면과 살아 온 일본인의 DNA가 있다는 것입니다.

그러나 119 페이지에서는 스마트 농업과 ICT 기술에 비판을 쏟고 있습니다. 타바타의 자연을 관찰하는 백성 안에서의 “눈빛”까지도 기계에 시키는 감각을 이해할 수 없다는 것입니다. 과학의 혜택과 자연에 대한 눈빛을 2항 대립화시켜 경직화한 생각을 끌어들이지 못할 것입니다. 비과학적인 것은 괜찮지만, 젊은층이 대상의 본서입니다. 편견 포함에 들려 버리는 설명에는 읽는 측의 지식과 감각의 밸런스를 묻는 것 같습니다. 「식」이라고 하는 「농」으로부터의 혜택에의 시점을 두고 떠난 편향된 시야에는, 인간의 손에 의하지 않는 농작업의 효율화, 나아가서는 품종 개량이라고 하는 부자연스럽지 않습니까,,,. 농(논)을 사랑하는 마음을 일단 놓는 저작 기술이 없다고 보여, 이른바 「옛날은 좋았던 절」에 시종하고 있는 것 같습니다.

농의 윤리라는 관점에서, 새로운 어미니즘에의 제안으로 전개해 가는데, 역시 아무래도 독선적인 정리 방법이라고 느껴 버립니다. 과학적 시점을 반영한 자연을, 내로부터의 감각에 근거하는(일본적, 백성 감성적인) 인간이 공생하는 자연과 상대화하는 것으로, 다양한 자연·비자연·부자연을 놓치고 있는 것처럼 느낌. 바이어스 기미의 논조 그대로 최종 페이지를 목표로 해야 하는 것은, 개인적으로는 조금 고통이었습니다.
3명이 도움이 되었다고 합니다.
====
붉은 잠자리
별 5개 중 5.0개 따뜻하고 친절합니다.
작성일: 2019년 10월 21일 일본
 백성의 자연에 대한 눈빛이 그렇게 열심히, 논리적으로, 그리고 정애를 담아 말할 수 없었을 것입니다. 그것은, 지금까지 표에 낼 필요가 없었기 때문이라고 생각됩니다. 예를 들어, 농업은 살아있는 생명을 빼앗지 않고 있을 수 없지만, 이것을 왜 백성은 괴롭히지 않아도 되는지, 라는 질문은 매우 깊은 것입니다.
 그것에 대한 저자의 대답은 정직하고 과학적입니다. 살아있는 것을 "또 만날 수 있다"고 말하는 것입니다. '또 만날 수 있는' 같은 자연 친화적인 농업을 해야 한다는 사상이 강하게 나오고 있기 때문에, 효율을 추구하는 것에 급성장하고 있는 현재의 농정이나 근대화 기술에 어려운 것은 당연하겠지요.
 「지구 환경」의 보전 등, 밖으로부터 자연이나 농업을 바라보는 보기 과학적인 언설의 차가움에 지쳐 있는 사람에게, 저자의 제창하는 「내로부터의 눈빛」은, 전혀 다른 세계를 열어 준다. 오타마작시의 죽음에 대한 백성의 감상은 언제나 곁에 있는 생물이 죽어서 처음으로 '녹슬다'고 느끼는 감성이 있기 때문이라고 말해지면 짐작이 가득 떠오릅니다.
 저자가 과학에 어려운 것은 과학이 부족한 것을 냉정하게 바라보고 있기 때문이라고 생각됩니다. 「해충・익충・그냥 벌레」라는 분류는 과학적입니다만, 왜 일본인은 「그냥 벌레」의 이름을 가장 잘 알고 있는가 하는 질문에 대한 대답은 확실히 과학에서는 나오지 않는다. 그렇습니다. 게다가 저자는 훌륭하게 대답하고 있습니다.
 그것은 저자가 유기농업의 세계에서는 실적이 있는 사람으로, 농약을 사용하지 않는 농법을 과학적으로 추구해 온 경험이 살아 있기 때문입니다. 확실히 천지 자연을 잡기 위해서는 누구도 자신의 실감과 경험을 동원하여 느끼는 것입니다. 과학이 후회하는 것은 어쩔 수 없을 것이다.
 이 책의 주제는 "자연"이라는 단어에 있습니다. 그것이 두 번이나 수입되었다는 사실에서 출발하고, 두번 모두 일본인 나름대로 환골 탈태하여 '일본어'로 해 버렸다는 설명은 매우 설득력이 있었습니다. 문득 눈을 멈추어 버리는 들꽃의 일륜에, 우리는 우주를 봐 버린다고 하면, 그럴지도 모른다, 라고 생각합니다.
 학자에게는 없는, 백성의 견해의 대단함이 전해져 오는 매우 좋은 책이었습니다. 도시의 사람에게도 꼭 읽어 주었으면 하는 책입니다.
4명이 도움이 되었다고 했습니다.
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농본주의의 스스메 (치쿠마 신서 1213)

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별 5개 중 4.0개 자본주의에 의해서, 어떻게 지켜야 할 중요한 것이 없어져 왔는지를 소개해, 농본주의적인 삶의 방법과의 견해의 유용성·중요성을 설고 있다2016년 10월 9일 일본에서 검토됨
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아베 정권의 농업 정책은, 농업의 6차 산업화, 농산물 수출의 확대 등의 농업의 성장 산업화에 의해, 농업 소득 배증을 목표로 하는 것이며, 그러한 정책에 탄 농업 사업자의 움직임이, 종종 언론 에서 보도되고 있다. 나는 농본주의의 의미도 모르는 채, 본서를 확실히, 그런 시류에 따른 책이라고 생각하고 있었지만, 실제의 본서는, 그러한 시류를 정면에서 부정하는 것이었다. 

필자에 의하면, 농본주의란, 「근대화, 자본주의화는, 천지 자연을 상대로 하는 농이 걸어야 할 길은 아니었다」라고 느낀 마을 안의 백성으로부터, 메이지 말기부터 쇼와 초기에 걸쳐 , 「반근대」 「반자본주의」의 사상으로서 탄생한 것이라고 한다. 

이 책에서 필자는 우선 농본주의 탄생의 경위와 그 사상의 내용, 전후, 농본주의가 묻혀 버린 이유를 상세하게 분석하여 소개한 후, 자본주의에 의해 어떻게 지켜야 한다. 해야 할 많은 소중한 것이 잃어 버렸는지, 이것이든, 이것이든지 뿐만 아니라 반복 여러 가지 예를 들어 소개하고, 철두 철미, 자본주의적 가치관을 비판하고 거기에 대치하는 농 본주의적인 삶의 방식과 견해의 유용성과 중요성을 뜨겁게 설명하고 있다. 

그 중에는, 자본주의의 혜택을 이루고 있는 우리 소비자도 생각하게 하는 말이 거기 꽉 박혀있고, 이러한 말에 농본주의의 근본적인 사상이 상징되고 있다고 생각하기 때문에, 특히 내 인상에 강하게 남은 일부만 발췌하여 소개해 두고 싶다. 

・농업이란, 「자연의 제약」을 과학기술의 힘으로 극복해, 돈이 되는 생산을 늘리는 것이 사명인 것처럼 생각되고 있습니다. 
・일본 국가와 백성은 소중한 것을 100년에 걸쳐 버려 왔습니다. 
・자본주의는, 농중의 산업 부분인 「농업」에 뿐만 아니라 주목시켜, 천지 자연 속에 느긋하게 떠오르는 큰 배인 농을 잃게 하려고 하고 있습니다. 
・「농본주의란 무엇인가」라고 물으면, 나는 「농 속의 근대화해서는 안되는 세계를 지켜 살아가는 것입니다」라고 대답합니다. 
・천지 자연으로부터의 메구미의 대부분에 경제 가치가 없기 때문에 좋다. 경제가치가 없어도, 언제나 거기에 당연히 있는 것이야말로, 우리의 인생을 조용히 지지해 주고 있습니다. 실은 농이란 그런 것입니다. 
・돈이 되는 것에 가치가 있고, 돈이 되지 않는 것에는 가치가 없다고 하는 사고법이 정착해 왔습니다. 돈이 되는 것 때문에, 돈이 되지 않는 것이 희생되는 것이 일상 차반사가 되었습니다. 돈이 되지 않는 것의 대표는 천지 자연의 풍경과 생물들입니다. 

필자는 유기·감농약 운동, 자연 농법, 정년 귀농, 시골 생활 등의 예를 들고, 이것들을 새로운 농본주의 운동의 모아로 파악하고 있지만, 황새나 토키와 공존할 수 있는 서식 환경을 정돈하려고 노력하고 있는 현지 농가의 대처 등도, 당사자가 그것을 농본주의라고 의식하고 있는지 어떤지는 따로 하고, 그러한 움직임의 일종이라고 할 수 있을 것이다. 

필자는 자본주의가 계속되는 한, 농본주의가 사회의 주류가 되지 않는다고 인정하면서, 곧 자본주의는 끝난다고 생각하고 있는 것 같고, 끝난 후를 어떻게 살아갈 것인가를 그리는 “미래 구상이 필요하다며 필자가 그리는 100년 후의 미래의 모습을 말하고 있다. 

이윽고 자본주의가 끝을 맞을지 어떨지는 나에게는 모르겠지만, 저출산 고령화 사회가 심각화해, 분명히 자본주의가 막힘의 징후를 보이기 시작하고 있는 일본에 있어서는, 그것을 농본주의라고 의식하고 있는지 어떨지는 따로 해도, 농본주의적 생활 방식에 가치를 찾아내, 그것을 실천에 옮겨가려고 하는 사람들이 서서히 늘어나갈 것이라고는, 충분히 상정할 수 있는 것 같은 생각이 든다. 

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오시

별 5개 중 5.0개 새로운 것인지, 온고 지신적인 가치관을 가르쳐 주었다2017년 4월 23일 일본에서 검토됨
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 저는 아마추어이고 가정채원의 초보자로 막연히 자본주의의 다음 시대는 무엇일까라고 생각하는 사람입니다.
 이 책에서는, 농의 본질에는, 천지 속에서의 농 작업을 중심으로 한 생활속에, 벌는 것과는 다른, 무아의 경지라고도 할 수 있는 만족감, 행복감이 있다는 것을 가르쳐 준다.
 기업은 규제가 있어 넣지 않았지만, 산업으로서의 농업에는 농업 인구의 감소도 있어, 향후 기업이 점점 참가할 것이라고 생각한다.
 그리고, 농의 가치관이 남아 가는 것은, 자급 자족적, 여가적, 취미적인 개인이나 소규모의 농가의 생활·영업 속이 되는 것은 아닐까.
 즉, 자본주의의 틀 내에서 벌는 산업으로서의 농업은 기업이, 그리고, 농은 개인이 실시하는 시대가 되는 것이 아닌가.
 TV에서는 지금까지의 욕망자본주의에서 앞으로는 공공자본주의로 이행한다고 했다.
 자본주의가 어떻게 바뀌어가는지, 다음 주의가 무엇인지, 그것은 맛있고, 이 농이라는 가치관은 기본에 있어야 하는 것이 아닐까 생각합니다. 어쨌든 이 책을 읽고 나서 돈을 벌는 것에 대한 자세에 변화를 느꼈습니다. 돈, 승리, 경쟁, 능력, 효율 등이 중시되는 시대, 즉 피곤한 시대부터 푹 멀어진 느낌이 있습니다.

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은둔자

바인 보이스
별 5개 중 3.0개 죽어가는 비문???2016년 10월 30일 일본에서 검토됨

농업의 주식회사화, 농업의 수출 경쟁력 강화 등 용감한 불평이 미디어를 떠들썩하게 하고 있습니다. 저는 이 '경쟁'이나 '경영'이라는 말이 옛날부터 싫어하고 농업까지 이런 종류의 터미놀로지를 가져오는 감성에 아무래도 어색한 것을 느껴 버립니다. 그 위화감의 근원을 알기 쉽게 풀어 주는 것이 이 작품이겠지요. 그리고 그 해명 작업은 「농본주의」라고 하는 「망령」과 같은 도구를 사용해 행해지는 것입니다. 이것은 솔직히 놀랐습니다.
제 학생 시절의 기억을 따라가도, 농본주의라는 것은 일종의 남아있고, 일본의 「파시즘」연구에서도 이것은 언제나 footnote와 같은 취급을 받고 있던 것 같은 기억이 있습니다. 그러면 학자에게는 토지 감이 없는 세계의 이야기입니다. 이 책에서 다루고 있는 타치바나와 권도도 이름만을 footnote로 보는 것만으로 단순한 경력을 기억의 한쪽 구석에 담는 것만으로 그들의 저작을 손에 잡지 않았다.
그들의 주창한 “농본주의”를 현대의 문맥 속에서 저자의 말로 알기 쉽게 풀어내려고 한 것이 본서입니다. 그 목표는 성공했습니다. 그 작업에서 밝혀지는 것은이 농본주의의 라디칼 반 근대성, 반 휴머니즘과 반 자본주의성입니다. 그런 의미에서는 말할 필요도 없이 라디칼인 사상입니다. 그리고 언제나 패배를 운명(doomed) 붙이고 있는 사상입니다. 본서를 읽으면 알 수 있듯이, 거기에는 인생을 현대를 인식하는 데 있어서의 다양한 힌트가 내장되어 있습니다. 단지 어느 시대에도 농본주의의 "결함"은 현대의 일상적인 현실에 대한 실망을 놓치고 있다는 점입니다. 농업 인구가 노령화되고 급감하는 가운데 점점 그 누락이 의식되게 될 것입니다. 기존의 정치나 경제로부터 분리된 「농」이 가지는 역할을 인식해, 그것을 경제적으로 지지한다고 하는 저자의 생각이 일본의 현상으로 찬의를 얻는 것은 아마 없을 것입니다만, 이 생각이 매력을 잃지 않을 것입니다.

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COC

별 5개 중 5.0개 똥을 냄새로 생각하지 않았던 옛 농본주의자의 광기 ―― 이것과는 관계없지만 「자신의 똥은 냄새가 좋다」(몬테뉴)작성일: 2022년 1월 21일 일본
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이 책에서 영감을 얻은 마음으로 떠오르는 것을 쓴다.
요즘은 '생태학', '자연과 공생하는 생활', '생물의 다양성' 등이 좋은 아이들 사이에서 공감으로 말해진다.
또한 'SDGs'라는 새로운 이데올로기가 나타났고 대기업을 중심으로 '하고 있는 느낌'을 경쟁하고 있다.
우리 요시모토 선생님(요시모토 타카아키씨)은, 「하이 에디프스론」에서 「「농본 파시즘」의 얇은 형태 혹은 고도 자본주의의 사회에 있어서의 「농본 파시즘」의 새로운, 현재적인 형태가 생태 이다”라고 단절한다.
그래도 지금도 농본주의자라고 칭하는 사람들이 있다는 점에 조금 놀랐다.
나에게 농본주의는 '과거의 유물'이며 농본주의에 대해 '농담'과 같은 것을 느낀다.
그 '경쟁'에는 '어둠', '공포', '광기', '폭력', '죽음', '가가와시' 등의 마이너스 이미지가 연결되어 있다.
이것은 내 불공부에 의한 '편견'에 틀림없지만, 농본주의가 쇼와기의 파시즘과 혼연 일체화하고 있었다는 '역사적 사실'의 영향이기도 하다.
농본 사상의 창도자 중 한 명, 왠지 무서운 이름의 권도성경도 한몫하고 있는 것 같다.
농본주의를 두려워하고 있는 한편으로, 농본주의에 이상한 매력을 느끼고 본서 『농본주의의 스스메』를 사 버리니까, 실로 기묘하다.
그러한 기묘한 앰비밸런스에 육박하기 위해서, 본서를 베이스로 하고, 농본주의에 대해 공부해 보려고 한다.
마루야마 마오씨나 하시가와 후미조씨 등의 저서와 비교하면, 본서는 상당히 친숙하게 쓰여 있다.
 
저는 초등학교 졸업까지 학교가 쉬면 어머니의 친가(농가)가 있는 농촌에서 지냈기 때문에 논의 풍경에 강한 향수를 느낍니다.
여름에는, 삼촌이 소차에 실어 주고, 여름 하늘 아래를 「우시 모모」의 엉덩이를 바라보면서, 깎인 여름 풀의 냄새가 나는 논길을 천천히 가, 물을 빚은 「 위어에서 낚시를 했다.
또 눈이 깜빡이는 가운데 삼촌이 가끔 손에 숨을 불어넣으면서 묵묵히 논에 괭이를 넣는 모습을 바라보았다.
후년에 여러 번 백성을 그만두고 싶었다고 삼촌은 울었다.
나의 작은 농촌 체험에서 저자의 "농이란 인간이 천지와 일체가 되는 것이다"라는 말은 내 가슴에 쏙 들어온다.
하지만 그 한편으로 위화감 같은 것도 느끼는 것은 왜일까?
저자는 “농의 본질을 백성 안에서의 눈빛으로 잡고 언젠가 써 보자는 마음으로 백성을 이어왔다”고 말한다.
아마도 위화감의 근원은 내 '백성 밖에서의 눈빛'과 저자의 '백성 안에서의 눈빛'의 엇갈림일 것이다.
나는 성인하고 나서 오랜 세월 반도체 엔지니어의 일을 하고 있는 사이에, 「백성의 밖으로부터의 눈빛」을 익혀 버린 것 같다.
저자는 "농(의 본질)은 자본주의에 맞지 않는다"고 말한다.
내가 '농(本質)에 맞지 않는 자본주의'가 낳은 '반도체 업계'에서 익힌 사고방법이 '백성 안에서의 눈빛'에 위화감을 느낄 것이다.
 
이야기가 벗어나지만 과학의 첨단기술에 근거한 '반도체산업'이 그 옛날 '반도체농업론'(반도체는 천도모양의 농업과 같다는 논의)로 불렸던 적이 있었다.
‘반도체산업’은 그 초기에 ‘인손을 통해 애정을 갖고 자비하도록 대상으로 일하는 농업’과 닮았던 것이다.
 
<초기의 반도체 제조는 모두 인손을 통해 행해졌다. 제조하는 환경도 충분히 관리되지 않았다. 따라서 수율 (양품률)은 항상 크게 변동했습니다. 수율은 보통 제로%에서 수십%로, 90~100% 등은 꿈의 또 꿈. 극단적인 경우는 그 날의 날씨에 따라 수율이 변화하기 때문에 농업과 같은 상황이기 때문에 반도체 농업론이라고 불렸다.
반도체 농업론은 완전히 과거의 이야기로 잊혀지려 하고 있지만, 1%의 수율을 올리기 위해 이루어진 방대한 노력이 있었던 것은 기억에 두고 싶다. 집적 회로 개발 기술자는 당연히 수율 향상을 고려하여 설계했다. 농업에 한쪽 다리를 찔러 씨앗을 뿌리는 방법으로 발아 시기가 어긋나는 일 등을 배웠다. >(A lullaby for myself, 2009/6/6 「반도체 농업론」으로부터)
 
이야기를 되돌리면, 농본주의자는, 자본주의의 폐해에 대해 말한다.
하지만 비합리적·정신주의적인 '유가독존과 같은 경지'에서 정서·정감에 호소하는 '종교' 같은 농본주의가 냉혹한 합리적 사고에 근거한 자본주의를 상대로 하면 적지 않는다 분명하다.
저자는 그러한 것을 충분히 인지한 후 “농본주의자는 농이 자본주의에 맞지 않는다고 자각했기 때문에 행복을 비경제 세계에 요구했다. 그것이 구도자처럼 보이는, 농의 세계는 「과학적이고 합리적인 견해로는 파악할 수 없는 세계」이다, 「시대가 변천해, 자연에 대한 과학적인 분석이 정밀해지고, 과학적인 표현이 풍부해질 수 있다」 어쩌면 백성의 정신세계는 드디어 표현의 장소와 기회가 없어져 가겠다고 겸허하게 말한다.
그러한 비합리적·정신주의적인 농본주의가 쇼와기 일본에 큰 임팩트를 준 것은, 츠츠이 기요타다씨(사회학자)의 「쇼와기 일본의 구조」로부터 대략 상상할 수 있다(요지):
 
<사상이 '비합리적'이거나 '정신주의'이거나 하는 것과 그것이 운동에 있어서 '현실적'인지 '비현실적'인지는 레벨이 다른 것이다. 체계적·논리적 「사상」이 「운동」의 단계에서는 「비현실적」인 것도, 그 반대의 경우도 있을 수 있다. 「비합리적」사상→「공상적」운동(「합리적」사상→「현실적」운동)이라고만 파악하려는 생각의 배후에는, 「합리적」인 것이 항상 대중을 파악한다고 하는 전제 가 있습니다. 이 '전제'를 뒤집은 것이 30년대 역사다. >
 
반복하지만, 나는 불공부에 의한 「편견」의 탓에, 농본주의에 불필요한 「경쟁」을 느끼고 있다.
나이가 들고 지지이에 다가가면 어렸을 때 보낸 그리운 논의 경치가 생각나게 되지만, 이때 농본주의에 대한 '농담'의 실체에 다가가고 싶다.
 
그래서 우연히 소유하는 와타나베 쿄지씨(사상사가)의 '일본 근대의 역설'의 '권도성경의 사치와 국가'를 읽어 보았다.
매운 입 평론의 와타나베 씨는 다음과 같이 쓰고 있다(요지)
 
: 문제는 아무것도 포함하지 않는다. 그는 이론적 범주의 의미를 결코 파헤치지 않는 사람이다. 『자치민범』에서 그가 말하는 것은 국사상의 사실과 동양성현의 교설의 해석이며, 인성이나 공동체나 국가에 대해서도, 그는 이론적인 문제의 단서에 모처럼 서면서 결코 거기 에서 고찰을 심화시키지 않는다. 국가를 민중의 '애천의 마음'의 수탈기구로 인정하면서 그는 그 인식을 국가 자체의 지양 방향으로 진행시키려고 하지 않는다. 그는 단지 그런 '치술'이 '아사 치체통의 본지에 쏘는 위도', 즉 관료 전제에 빠지지 않도록 바랄 뿐이다.
권도가 다이쇼쇼와기의 천황제 정부에 요구하고 있는 것은 사회변혁도 아니면 혁명의 재개도 아니다. 그는 당시 부르주아적 재산법과 지방자치법에 손을 넣어 예전과 같은 공동체적 농촌을 재건하라고 말하고 있을 뿐이다.
 
권도의 현실의 정책적 요구가 이 정도의 온화한 것인 것은, 그 사상의 출자와 계보로부터 말해 오히려 당연한 일. 하시가와 후미조씨가 최초로 지적한 것이지만, 권당의 저작을 읽으면, 그것은 야나기타 국남의 문장과 약간 비슷하다. 이 두 사람은 문체뿐만 아니라 사건에 대한 관심의 방향과 관심의 폭이 매우 가깝다.
 
이와 같은 야나기타를 연상시키는 보수주의자의 사상이 쇼와 유신의 광열에 몰린 청년들의 혁명강령이 될 수 있었던 것은 그 자체가 쇼와사의 이로니다. 권도가 젊은 유신자들에게 어느 정도 영향을 미친 것은 그가 동양적 농촌 자치의 이념을 국가권력이 겉으로 소멸하는 지점까지 기저적인 생활민의 위상에 가깝게 보여주었다 몸이라고 할 수 있다. 오늘의 급진적 아나키스트가 권도 안에 「국가로부터의 영구적인 자립」의 지향을 읽도록(듯이), 쇼와의 젊은 유신자들은 권도 안에, 천황과 촌락 공동체가 일체의 나쁜 중간 기구를 무 화해 직결하는 국가=코뮌의 환영을 엿볼 수 있었을지도 모른다.
하지만, 권도의 뇌중에 있는 촌락 공동체의 범형을 잘 보면, 과거에는 생명의 굶주림과 같은 충동에 촉구되어 자신이 거기에서 튀어나온 온 그 향촌의《무》의 상모를 , 그것이 뒤틀리지 않고 시현하고 있다는 것을, 깊은 우려로 주의해야 했을 것이다. 동양적 농촌자치의 극한상 가운데 겉보기 국가가 소멸되는지 보이는 것은 동양적 성천자의 극한상인 천황 속에서 겉보기 권력이 소실되는 것과 완전히 같은 기제에 의한다. 국가지양의 회로는 이러한 《무》의 통로에는 존재하지 않는다.
젊은 유신자들의 한 사람은, 쿠도의 사치가, 자신이 생활의 최저의 곳에서 계속 고민해 온 그 인간의 관계에의 굶주림, 그 공동성에의 굶주림을 채우는 것이 아니라는 것을 알고, 이 온후하게 해서 성선적인 보수적 경세가 앞에서 묵묵히 떠난 것임에 틀림없다. >
 
과연 그럴까, 와타나베씨의 매운 입평언에 의해, 권도성경은 「동양사상에 익숙한, 농촌의 인테리 할아버지」같은 것을 알았다.
더 빨리 진지하게 공부하고 있으면, 불필요한 「편견」을 가지지 않고 끝난 것이라고 생각한다.
덧붙여서, 와타나베 쿄지 씨의 '기타 이치키'도 독독할만한 가치가 있다.
 
그런데 먼저 저자는 “농본주의자는 농이 자본주의에 맞지 않는다고 자각했기 때문에 행복을 비경제 세계에 요구했다”고 말했다.
그 「비경제의 세계」라는 말에 의해, 이야기는 크게 비약하지만, 나는 드래커라고 하는 할아버지씨(피터·F·드래커)를 상기한다.
드러커는 미국의 저명한 경영학자(자칭 ‘사회생태학자’)이지만 대중은 ‘탈경제사회’=‘비경제의 세계’로 향한다고 한다.
드래커는 '넥스트 소사이어티'에서 다음과 같이 경고한다(요지):
 
<내가 지지하는 것은 자본주의가 아니라 자유주의 경제이다.
잘 작동하지 않지만 다른 것보다 낫다.
자본주의에는 중대한 의심을 가진다. 경제를 최중시하고 우상화하며 너무 일원적이다.
나는 미국 경영자에게 소득 격차를 20배 이상으로 하지 말라고 몇번이나 말했다.
이를 넘으면 분노와 시라케가 만연한다.
나는 1930년대에, 너무 불평등이 절망을 초래하고 파시즘 전체주의에 힘을 준ㄴ다는 것을 걱정하고 걱정은 명중했다.
경영자가 대금을 회중에 넣으면서 대량의 레이오프를 하는 것은 사회적으로도 인도적으로도 허용되지 않는다.
그런 행위가 일반 사원에게 가져오는 분노와 시라케는 반드시 높은 트케가 되어 돌아온다.
인간으로서 사는 것의 의미는 자본주의의 금전적인 계산으로 표현할 수 없다.
금전이라는 근시안적인 생각이 생활과 인생의 전곡면을 지배하는 일이 없어야 한다. >
 
반복하면, 경영자와 일반 종업원의 소득 격차가 20배 이상이 되면, 그 불평등이, 분노・시라케・절망을 초래해, 파시즘을 불러일으키는 원인이 된다.
그래서 미국 기업처럼 대량 레이오프를 한 성과로 경영진이 천문학적 보상을 얻는 것은 사회적으로나 도의적으로 허용되지 않는다.
덧붙여서, 드래커가 지지하는 「자유경제주의」란, 시장 기능을 중시하는 경제를 말한다.
"시장 경제(market economy)란 시장을 통해 재·서비스의 거래가 자유롭게 이루어지는 경제를 말한다. 대립 개념은 계획 경제. 또한 시장 기능을 중시하는 경제를 특히 시장주의 경제 자유주의 경제 등이라고 부를 수 있다”(Wikipedia)라고 설명되고 있다.
 
드래커는 23세 무렵에 ‘경제인’의 끝―전체주의는 왜 태어났는가’라는 구상을 얻었다.
'경제인의 끝'이란 자본주의와 마르크스주의의 끝을 의미한다.
자본주의도 마르크스주의도 경제 경제 지상주의(경제적인 자유와 만족을 최우선하는 사고)이며, 인간을 경제적 동물(이코노믹 애니멀)로 하고 있다.
드래커는 경제 지상주의에 강한 의심을 안았다.
드래커는 자본주의에 대해 '경제인'의 끝에서 다음과 같이 말한다.
 
<경제의 성장과 확대는 사회적 목적을 달성하기 위한 수단으로만 의미가 있다.
사회적 목적의 달성을 약속하는 한에는 바람직하지만, 그 약속이 환상임이 분명해지면 수단으로서의 가치는 의심스러워진다
.
현재의 경제사회의 기초를 전제로 하면서 새로운 자유롭고 평등한 탈경제 지상주의사회를 찾아 발전시켜야 한다
. >
 
이 드래커의 설을, 쿠항 케이이치씨는 좀 더 알기 쉽게 설명하고 있는 항에 넘치는 드래커
해설책 중에서, 쿠항씨의 「그림으로 읽어 풀린다! 드래커 이론'은 '드래커는 경제 지상주의를 어떻게 보는가'까지 언급하고 있는 적은 예이다.
쿠항씨는 다음과 같이 썼다(요지
 
) 역시 사적이익을 부정함으로써 자유롭고 평등한 사회를 실현하기 위한 마르크스주의도 모두 파탄했다고 지적했다.
자본주의(사적이익의 긍정), 마르크스주의(사적이익의 부정)의 어느 쪽도, 「사회·인간의 목적을 실현하는 것은 경제 활동이다」라고 하는 경제 지상주의를 기반으로 하고 있어, 아담· 스미스가 말하는 "경제인"의 개념이 인간의 본성이다.
그러나 제1차 세계대전과 세계대공황에 의해 경제지상주의의 파탄이 밝혀져 사회질서가 망가져 사람들이 불안과 혼란에 빠졌다.
그 혼란을 수습하는 새로운 개념은 아직 나타나지 않았다.
바로 그 역사의 균열에서 파시즘(탈경제사회)은 태어났다고 드래커는 지적한다.
파시즘은 자본주의와 마르크스주의가 사회질서의 기둥으로 한 경제의 우위성을 부정하여 비경제적 가치와 사회적 가치를 중시하는 탈경제사회를 표방했기 때문에 경제지상주의로 농락당함 , 절망했던 대중의 마음을 잡았다. >
 
지금 지금의 세계 정세를 보면, 정말로, 끔찍한 아님이다.
“세계의 자산 랭크에서 상위 1%의 부유층이 지금은 남은 99%의 사람들을 합친 것보다 많은 부를 보유하고 있다”(2016.01.19, Bloomberg).
민주주의 제도는 한 줌의 부유층 등에게만 유익한 시스템이 되어 결국 희망을 잃은 대중은 획기적으로 '탈경제사회'를 목표로 하는 파시즘을 대망하게 된다.
대중의 마음은 파시즘을 향해 걷기 시작하고 있다.
 
이야기를 되돌리면, 본서 『농본주의의 스스메』에서, 저자는 다음과 같이 쓴다(요지)
 
: .
결코 흙의 굉장함, 훌륭함, 아름다움에서 탄생한 것이 아니라, 흙의 풍요를 잃는 것과 싸우기 위해 농본주의는 태어났다.
농본주의에 한하지 않고, 변혁의 사상이라는 것은, 언제의 시대도 현실 사회에의 분노나 위기감으로부터 태어나는 것이다. >
 
<농본주의는 옛날도 지금도, 반체제 사상이 되어 버린다.
2000년 이상 이어져 온 '농'의 본질(원리)과 근대국가가 채용한 '근대화·자본주의화'는 어울리지 않기 때문이다.
그러므로 국민국가가 근대화·자본주의화를 그만두지 않는 한 농본주의자의 반체제 시도는 계속된다.
자본주의가 계속되는 한, 농본주의는 사회의 주류가 될 수 없다.
농본주의자는 언제나 농본주의가 사회에 받아들여지는 것을 꿈꿨지만 로망으로 끝났다.
밖에서의 '미래 예측'에서 농본주의자를 용기짓는 것은 '이윽고 자본주의는 끝난다'는 것이다.
자본주의를 어떻게 끝낼 수 있는지, 끝난 뒤를 어떻게 살아갈지, 내에서의 눈빛을 총동원하여 '구상'해야 한다.
대혼란 안에 자본주의가 끝나고 강권적인 정권이 탄생하지 않도록. >
 
이와 상기의 드래커씨의 경고를 맞추면, 쇼와기의 일본에 있어서, 경제 지상주의의 자본주의·마르크스주의에 절망한 도시의 대중이 파시즘(탈경제 사회)을 목표로 하는 것과 동기해, 농촌의 농본주의자도 농을 압살하는 자본주의에 대한 분노로부터 사회의 변혁을 목표로 했다는 것이다.
도시의 키타이치 휘·오카와 슈메이 등과 농촌의 권도성경·타치바나 타카사부로 등의 생각은 다르겠지만, 공통의 적은 자본주의였다.
또 키타이치키에게 찬동한 청년 장교들은 '쇼와 초기 농촌 위기, 농민의 극도의 빈궁화'에 분노했기 때문에 농본주의에도 가까웠다.
그래서 농본주의가 '파시즘의 온상' '파시즘의 속성'으로 보일 것이다.
 
그런데, 인용 투성이의 레뷰의 마지막이 되지만, 「농민」 「백성」이라고 하면, 나는 마츠나가 유이치씨를 잊을 수 없다.
마츠나가 伍一씨(1930년 4월 22일-2008년 3월 3일)는 후쿠오카현 오기마치 출신의 농민시인·평론가이며, 시집, 많은 평론집, “일본 농민시사 전 5권” (호세이대학 출판국, 1967-70년) 등을 간행.
마츠나가 씨는 17세 때 '이웃촌의 소년 히로마츠 섭의 수재에 놀라 경의의 때를 안았다'고 한다.
또 태평양전쟁 중반인 1943년(13세)부터 응소한 형(1945년 전병사)을 대신해 가업 농업을 하면서 중학교에 다녔다고 한다.
그런 마츠나가 씨는 시인의 섬세한 감각으로 농본 사상의 존재에 깊이 탐구한다.
특히 '시비의 장면'에서 빈농 A와 농본주의자 B의 '똥의 냄새'를 파악하는 방법에 관한 고찰은 탁발이다.
나는 범용한 논고작인 빈농A쪽에 짜지만, 「이상을 이상으로 하지 않고, 이상을 정상으로 착각시키는 로직」을 Fuck하는 농본주의자 B를 싫은 놈이라고 생각한다.
「똥의 냄새」의 이야기가 나오는 것은 기쁜 일이지만, 원래, 배설물을 냄새라고 느끼는 것은, 생리학적으로 자연스러운 반응일 것이다.
그러니까, 「똥을 잡아도 냄새라고 생각하지 않는다」 「똥을 냄새라고 느끼면 안 된다」라고 무리하게 생각하는 농본주의자 B는, 「광기」의 입구에 서 있다고 말할 수 있다.
또 해도 긴 인용이 되지만, 마츠나가씨는 「토착의 가면극」으로, 다음과 같이 말한다(요지): <농본 사상가들에게는, 이러한 자연성을 현실의 구조에 직결
 
시킨다 방법론이 있었다.
자연이식도 원시자치도 자제자치도 자주자구도, 소사는 태고의 미화에 근거한다.
지나간 시간이 미화되는 것은 세속 로맨티시즘의 소산은 아니다.
이 세속성을 금압하는 모습을 보여주면서 농본사상가들은 불가시의 세계인 태고에 미적인 환상을 이어준다.
추의 리얼리티를 발견할 수 없을 때, 그들은 태고의 무구한 신들의 서거하는 거룩한 영역과 착각하고, 그 공간을 채우고 있는 성성을 사상의 원질로 만들 수 있었다.
이 성성을 데모니쉬한 요소로부터 구분해, 자연이라고 칭하는 가시 즉 불가시적 존재에 의해 대치시켜, 그것을 신앙 대상으로까지 높인 것만이, 태고의 아름다움을 감수하는 눈으로 현실의 추를 찾을 수 있다고 그들은 믿었다.
거기에는 투쟁의 부정, 혼미의 부정, 수탈의 부정, 악정의 부정, 자본의 부정 등이 있었다.
하지만 인간의 에고이즘에 대한 도전인 이 순수성에 의거한 사고방법은 속성 그 자체로 일상을 꿰매고 있는 것에는 적응하기 어려운 것이었다.
 
그 장애가 일단 제거된 때부터, 이 자연성=성성은 사람을 이상한 흥분에 몰아넣고, 신비를 피부에 느끼게 한다.
이 마술성을 눈치채지 못하는 철학의 학생은 농본 사상을 논단할 자격은 없다.
세속성을 금압하는 모습을 나타내면서 그 속성을 길들인다는 사술을 발견할 수 없는 것은 농본 사상의 농민에 미치는 영향의 질을 논할 수 없다.
 
쿠도 나리경, 타치바나 타카사부로, 에도 겐지, 오카모토 리요시, 나가노 로, 카토 이치오, 야마자키 노부요시 등 모두 자치의 원리에 문제를 짜고 직접 농경을 체험하지 않고 이 사상적 근저를 소유할 수 없다고 하는 것도, 농의 관념의 구조에 집중한 것도, 모두 자연성=성성=신격성을 무기로 하면서, 투쟁을 부정해 왔다.
특히 계급투쟁은 자연성의 적이며, 자치를 거절하는 것으로 인식하지 않을 수 없었지만, 그 경우의 농민이란, 광의의 「토에 뿌리내리는 것」으로서의 농민으로서 규정되는 외 아니었다.
그러므로 빈의 현실은 사상적 모티프 밖으로 방척되어 '토를 경작하는 것'이 아니라 '토에 뿌리내리는 것'인 그 추상성 가운데 빈은 모든 의미를 잃을 수밖에 없었다.
 
가난한 리얼리티가 농경과 연결될 수 있었을 때의 인간의 존재감과 '흙에 뿌리내리는 것'이 농경할 때의 존재감을 비교하는 것도 도로가 아니다.
가난한 현실에 서 있지만 시비의 장면을 생각해 본다.
빈농A가 인분뇨를 좁은 밭(소작지)에 베풀 때 그는 인분뇨의 냄새를 확실히 냄새맡을 수 있어 "이것을 걸어 두면 야채는 자란다"고 생각한다.
농본주의자 B가 인분뇨를 중간 정도로 넓은 밭(자작지)에 베풀 때 그는 인분뇨의 냄새를 맡을 수 없고, “이 더러운 것이 그 아름답고 신선한 야채를 키우는 것이다” 라고 생각한다.
이것은 비정상적인 감각이며 믿음입니다.
 
A는 A이고 계속하는 가운데, 인간의 정상(범용)한 지점을 지키고, B는 B이기 때문에 냄새를 냄새라고 느끼지 말아야 한다.
자연의 마술성=하늘의 조화력에 대한 한결같은 귀심으로 정상성을 넘은 곳에 자기를 왜곡해야 했다.
B는 거기서 인간적으로 A보다 우위에 서 있다고 할 때, 그 평가야말로 농본 사상을 긍정·시인하는 것의 그것이며, 따라서 또 이상을 이상으로 하지 않고, 이상을 정상으로 착각시키는 로직을 광적인 자기주박성과 섞여 소유해야 한다.
B에 있어서, A는 탈락자이고, 좋아하지 않는 농민이며, 정상인 것이 저열하다는 입장에서 피차별자가 된다.
 
「똥을 잡아도 냄새라고 생각하지 않는 것이 1인분의 농민이다」로서 안성농림학교의 학생에게 가르친 야마자키 노부요시를 기억한다.
야마자키 노부요시가 “반소작인의 입장”에서 강연해 “나를 지주의 견해처럼 생각하는 세간은, 나의 뜻을 모른다. 에 시류에 편승해 떠들썩한 소작인을 꾸짖고, 원만 협조의 길을 열기 위해 노력했다. 목표로 하는 그의 지향으로서 설득력을 가진다.
 
야마자키 연길에게 농민의 존재를 지지하는 것은 합리성이지만, 그것은 동시에 무계급적 상호협조에 의한 자립 → 자치의 방향으로 사는 정신의 확충이었다.
야마자키 연길에 있어서는, 생산의 가치를 창조하는 인간으로서의 농민은 증산을 향하는 오직 한 마음으로 정신적 부를 확보할 수 있고, 그 느슨한 근로주의가 즉시 나라를 지지하는 사상이기 때문에, 소집단의 상호 협조에 의한 자치의 유효성이 부동의 것이 된다.
에도 겐미네는 백성을 정의하고 「스스로 농업의 노작에 따라 일가의 생계를 영위하고 있는 사람」에서 「천도님과 토지와 작물에 대해, 끝나지 않는 짓을 하지 않는 사람」에 가, '백성의 만족, 궁리한 ​​양견을 가진 사람'으로 한정하면서 제3의 정의에 이르러 '행'과 '타수'의 경지에 이르는 것을 이상으로 했다.
에도 현령에 있어서는, 「장」의 인식으로부터 출발해 무변의 천지에 부딪히고, 개개의 법에 맞는 가려에의 길을 찾는 것에 있었기 때문에 「장론적 가려행학 綜組像회도 등 기태라고 밖에 말할 수 없는 만다라를 만들어, 난해한 방엔을 통해 사람을 연기에 감았다.자치의 개념은 개개의 인식만큼 명확화되지 않았지만, 농의 존재 이유에 대한 시선
의 날카로움의 관점에서, 강도 능령의 그것은 천재적이었다.여기서
 
A가 이 두 농본 사상가에 의해 어떻게 논리적으로 처우되었는지는 이해할 수 있다.그들은 B의 존재를 생각의 모티프
와 했을 뿐만 아니라 목적 물시하고, B의 국가에서의 유의의성을 논할 필요가 있었고, 소외된 A는 번외지의 하민에게 밀려 버리기 위해서, A의 투쟁의 에너지는 용서 어려운 죄과로 되어 국가권력을 하고 그 죄과를 압살시키는 무언의 조언자의 위치를 ​​계속 지켜냈다
 
. , 하늘(자연)의 섭리에 반대하는 것이다.
옛날의 농본주의자가 "똥을 잡아도 냄새라고 생각하지 않는 것이 1인분의 농민이다"등이라고 말하고 있기 때문에, 농업의 인기가 떨어져 버린 것이다.
 
본서『농본주의의 스스메』에서는, 밖으로부터의 「미래 예측」으로서 「이윽고 자본주의는 끝난다」라면, 자본주의를 어떻게 끝낼 것인가, 끝난 후를 어떻게 살아갈까, 의 눈빛을 총동원하고 '구상'해야 한다고 말했다.
자본주의를 어떻게 끝낼 수 있는지에 대해서, 저자의 「구상」을 듣고 싶다.
 
마침
 
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【부록 1】
 
우리가 요시모토 선생님(요시모토 타카아키씨)은, 「대상황론」에서 다음과 같이 말한다(
 
요지 :
_
농지개혁은 연합국 점령군의 군정당국의 명령으로 일본의 어느 규모 이상의 지주, 특히 부재지주를 중심으로 한 지주계급의 토지를 전부 몰수하여 소작인(고용되어 농민으로서 소작료를 지불하면서 농경하고 있던 사람)을 해방해, 자립농으로 했다.
봉건적 세력의 기반인 지주계급을 해체하고 소작인을 해방했다.
이 이후 일본의 농경사회는 지주가 소유하는 토지를 한정해, 소작인은 명목상은 없고, 자작농만이 되었다.
이것은 신성하게 하고 침범할 수 없는 천황에서 상징천황으로 바뀐 것과 대단히 잘 맞는 것이다.
 
● 「사회파시즘과 농본파시즘」
일본의 진보적 세력은 상징천황제를 포함한 신헌법을 지키라고 한다.
신헌법을 지켜라는 것은 상징천황제도 함께 지키는 것이며, 이것은 대단히 큰 문제가 된다.
일본 전쟁 전의 좌익은 전쟁 중에 대략 전부가 파시스트가 되었다.
파시즘을 대별하면 두 종류가 있다.
(1) 사회 파시즘 · · 나치의 파시즘이나 이탈리아의 파시즘과 같은 서구에서 수입 된
파시즘 한 농경사회를 실현하자는 농본주의적인 파시즘
농본 파시즘은 나(요시모토 선생님)가 명명한 것이다.
농본주의적인 파시즘의 주장은, 아시아적인 사회·국가의 특징이지만, 신성하게 해 침범하지 않을 황제를 정점에 두고, 나쁨을 하는 것은 그 중간에 있는 측근이기 때문에, 중간을 배제해, 그 아래에서 평등한 농경사회를 만드는 것이 이상적인 사회라는 생각.
전쟁에 패하고 해방되면 파시스트들은 다시 좌익진보적 세력으로 바뀐 즉 2단계 전향을 했다.
그 문제를 근거로 하고, 지금의 천황제를 어떻게 할 것인가에 대해 충분히 생각할 필요가 있다.
그리고 그와 맞는 농경사회의 문제에 대해 현재 큰 문제를 겪고 있다.
 
●「보수계 라디칼리스트와 진보적 반동」
현재 일본에서도 생태적인 주장이 있다.
농업은 일본인의 영혼이라고 생각하는 농협의 아저씨라든지, 농문협의 좌익으로부터 해체한 무리가 주장한다.
그리고 차와 농산물은 자유화하라, 농업은 멸망해도 상관없기 때문에 자유화하라는 논란도 있다.
농업을 지키고 농경사회를 지키며 농업의 자유화 반대라고 하는 것은 대부분 좌익계의 사람들이다.
반대로, 농업은 멸망해도 좋고, 그보다도, 도시의 일반 대중은 주거를 가지지 않고 곤란하다.
도시 주변의 농지에 일반 주택지 수준의 세금을 걸면 대도시 주변의 농지는 농민이 놓을 것이다.
그것을 도시의 일반 대중에게 맞추면 주거 문제는 해결한다고 주장하는 것은 대부분 보수계 라디칼리스트이다.
진보적인 반동은 농업을 지키고 농업자유화에 반대한다.
이 심볼의 역전 현상은 전전의 역전 현상과 거의 동일하게 보인다.
 
●「상징천황제는 어디에서 끝나는가」
일본의 농경사회가 위협에 처할 때와 상징천황제가 멸망할 때는 대응할 것이라고 기본적으로는 생각한다.
일본 농업사회의 문제가 현재 형체에 불과하다고 생각된다면, 그리고 일본의 보수 라디칼리스트와 진보적 반동의 대립점이 의미가 없다면 지금의 천황을 마지막으로 하여 상징천황제 는 무의미화해 나갈 것이다.
단순화해 보면 상징천황제가 형해화하는 것과 일본의 농경사회가 형해화할지 여부는 병렬이라고 생각한다.
일본 농업이 전혀 사라지면 상징천황제의 기반이 전혀 사라지는 것을 의미한다.
일본의 농지개혁은 점령군의 강제명령으로 하지 않고 일본인에게 맡겨두면 오랜 세월이 걸렸을 것이다.
그 정도 일본인은 개혁을 좋아하지 않는다.
방치해 두면 보수적 라디칼리스트가 말하는 대로 대도시 주변의 농지는 점점 개별적으로 팔릴 것이다.
하지만 일거에 세금을 택지 수준으로 하고 농지를 놓을 수 있도록 법률로 강제하면 아마 피를 볼 정도로 힘들 것이다.
 
【부록 2】
 
“2·26의 청년 장교”의 사상적 배경에 대해 고고의 재야의
 
정치 학자인 타키무라 타카이치 씨는, “기타 이치키”의 “<청년 장교>의 사상적 특질”로, 다음과 같이 에 쓰기(요지):
(despot(despot)이란, 「상인 마호빈」의 종류가 아니고, 「전제 군주, 독재자, 폭군, 타일런트」를 말한다) <아시아적 절대 군주>타루<천황제>의 정치적 구조를
 
기초 타·<제도 이데올로기> 타루·공인 「국체론」에서는, <천황>과 <국민>의 관계를, 일본 고래의 <아시아적 대가족>에 있어서의 <부모(아버지)>와 <아이>와의 관계 에 의제함으로써, <국민>은 <천황>과의 관계에 있어서 동일하게 <아카코>로 여겨졌다. <천황은 국민을 '오호미타에서'로 하고, 아카코라고 사소되어 애호해 준다> 그렇게 되어 천황의 이러한 고마운 자비와 자애에 대해 절대 협순하는 것, 즉 <천황을 큰 부모님과 바라보며 오로지 수순의 참을 한다>는, 신민으로서의 국민의 제일의 의무로 있다고 여겨졌다. 그러므로 <의는 군신으로 하여 정은 부자이다>로 여겨진 바와 같이 <군신 일체>는 무엇보다도 걸리는 <부모와 자식>과 같은 <정>에서 실현되어야 하는 것으로 여겨졌다.
공인 「국체론」의 사상적 특질은 <군신 일체>라는 천황과 국민과의 정신적인 조화를 목표로 한 <공동체주의>이며, 보편화하면 <데스팟>의 지배를 절대적인 전제로 하는 <아시아적 정신 공동체주의>의 일종이라는 것이 명백해진다. 거기에는 자비로운 <가부장>의 지배와 가족원의 절대적 恭順을 메달의 양면으로 하는 <아시아적 가족 공동체주의>가 원리적인 핵으로 포섭되고 있다.
<아시아적 정신 공동체주의>로서의 공인 “국체론”의 사상적 특질은, <데스포트(천황)-즉-공동체>주의로서의 논리적 귀결하자, “국체론” 그 자체가 <사회주의> 적성격을 가지고 있었던 것. <사유재산제> 부정으로서의 <사회주의>론, 정확하게는 <데스팟·사회주의>론이 귀결되기 때문이다.
하지만 공인 '국체론'은 구체적인 제도론으로 전개되지 않았다. 만약 전개하면 일본국가사회의 실질제도적 구조를 이루는 자본제와 적대하는 성격을 가지고 있었기 때문이다.
청년장교의 '국체'관은 공인 '국체론' 그 자체이지만, 그 <사회주의>적 성격을 깨달았던 것은 아니다. 그럼에도 불구하고, 청년 장교가 <2·26>과 같이 라디컬한 거에 나온 이유는 무엇인가?
일본 사회의 참상(농촌에서는 빈농의 무리가 지주의 가혹한 수탈에 시달리고 도시에서는 노동대중이 대자본가 재벌의 착취에 시달리고 있는 비참한 현상)에 대해 청년 장교로 생각되는 해석은 단지 하나. 즉, <천황>이 계시는데 우리 국민이 행복하지 않은 것은, <천황>의 우리 국민에 대한 따뜻한 자비와 자애가, <폐하>의 주위에 있는 원로·중신·군벌·당벌 등 일부 특권계급의 '사리 사욕'에 의해 차단되어 우리 국민에게 직접 닿지 못하고 있음을 의미한다. 따라서 이런 '군측의 노신 군적'을 일소하면 <아시아적 공동체> 즉 <데스팟 사회주의>로서 우리 '국체'의 진정한 모습 개현이 가능하다. 라는 것이 청년 장교의 발상이다.
 
【부록 3】
 
농본 사상에 관한 넷 기사

「농의 원리의 사적 연구」를 저술한 경대·후지와라 타츠시 준 교수를 중심으로, 우네 토요 씨나 드래커의 일도 써 있다.
 
JAcom 농업협동조합신문
〈농본주의〉복고와 가능성――의·식·심·정·기술의 통합 설명[기자 투시안] 2021년 7월 10일 농학의 폐색감을 깨는 저서
이다
 
. 46세의 경대 후지와라 타츠시 준 교수는 신시점에서 수많은 흥미로운 책을 저지해 왔다. 「농본주의」의 심연을 탐구하는 최신저 「농의 원리의 사적 연구」(창원사)는, 오랫동안 농의 세계를 관찰해 온 기자의 <투시안>에서 봐도 이채를 발한다.
 
● 동상 이몽의 <농은 나라의 기>
<농은 나라의 기>인 농본주의만큼 <동상이몽>의 네자를 상기시키는 말은 없다. 이상협정 TPP의 반대운동의 선두에 선 만세장 전중회 회장(당시)이 반복했다. 한편 '자유화 단행정권'에서 TPP 협상을 비롯한 전례 없는 시장 개방을 강행한 아베 신조 전 총리도 소신 표명에서 몇 번이나 같은 <농은 나라의 기>라는 말을 내고 있다. 하지만 내용은 전혀 다르다.
비슷한 것은 <식품안전보장>이기도 하다. 식량안보로 현재 전중회장·나카이테츠루는 더욱 구체적으로 ‘국소국산’과 어디까지나 국민이 소비하는 것은 국산으로 공급한다고 명확히 자리매김했다. 하지만 식량안보는 농업자유화론자들에게도 <상구>인 것을 잊지 말아야 한다. 그것은 적절한 수입과 국내 생산, 비축을 조합해 이루어지는 논리다.
 
● 농학 번영해 농업 죽는
일본의 농학의 조로, 농본주의를 주창한 요코이 시경이 말했다고 하는 「농학 번영해 농업 죽는다」. 농학이 관념론에 기울여 현실과 유리하는 것에 대한 계명의 말로 유포한다.
핵심을 찌르고 있지만, 요즘은 관저 농정에 의한 농협 개혁이나 생유 제도 개혁, 아니 <개악>의 강경 돌파로, 「농정 번영해 농협·농업 죽는다」 상황이 있었던 것으로 이중 사본이 되었다 버린다.
한편 인문과학의 관점에서 식농사상사를 끈 후지와라는 앞의 '농의 원리' 속에서 “농학이란 그 자체로 농업 발전할 정도로 농업 멸각시켜 나가는 역설적인 숙명을 띠고 그렇다고 솔직하게 읽지 말아야 할까. 농학의 발전은 식의 공학화라는 성격도 면할 수 없었다. 눈으로부터 비늘의 지적이다. 그래서 굳이 부제는 <「농학 번영해 농업 죽는다」재고>라고 친 것이다.
근원에 『합리적 농업의 원리』를 저술한 농학의 조·독일의 테어의 사상을 끈다. 물론, 농학은 농업 발전의 학과의 반론은 당연할 것이다. 하지만, 예를 들어 지금의 푸드테크가 다가오는 곳은 유전자조합의 유기농업진흥이나 축산 없는 배양육 등을 생각하면, 원래 음식과 농의 존재 그 자체가 있을 곳조차 없어질 수 있다. 후지와라도 「지금의 식과 농기술의 진보는 바로 식과 농의 폐기이며, 프로세스의 생략이었다」라고 읽는다.
 
● 전체주의 모두 표리 일체
정치학의 태두 마루야마 마오의 「농본주의는 일본 파시즘의 특징의 하나」의 지적은, 지금도 피할 수 없는 사실이다. 전전은 농업 진흥에 식민지 확대와도 연결되었다.
후지와라는 JA 전중 발행의 '월간 JA' 2018년 2월호 '내 오피니언'에서 음식과 농의 현상에 경종을 울리는 것과 동시에 농본주의의 역사 분석의 중요성도 설했다. 나치 독일이 '식량 자급률 100%' 등을 호소하고 정권을 얻은 것도 지적한다. 음식과 농은 '나라를 지배하는 도구'로도 돌아간다.
「월간 JA」의 인터뷰에서 후지와라는 JA의 역할을 「신자유주의와 대치해, 지역에서 진지하게 농업과 마주하는 생산자를 돕는다」라고 한 다음에, 농가가 디그니티(존엄)를 가지고 살아 갈 수 있어야 한다고 강조하고 있다. 더욱이 신자유주의의 개혁과의 타협은 일견, 안전처럼 보이고, "악마에게 오른팔을 내밀면 다음은 왼팔을 요구받고, 마지막은 온몸을 먹는다"고 위험성을 호소했다. 농협개혁을 근거로 해도 적을 발한 지적이다.
 
● 새로운 태동에도 주목 이런 가운데
후지와라가 주목하는 1명에게, 신농본주의를 주장하는 재야의 농학자로 <논의 생물>을 통해 농업의 경제적 가치를 데이터로 나타내, 에코로지컬한 시점으로 음식과 농의 본연의 방법을 설설하는 우네 유타카가 있다.
우네의 생각은 『농본주의의 스스메』(치쿠마 신서)를 알기 쉽다. <농은 천지에 떠오르는 큰 배> <농본주의란 '농'을 농업이 아니라 농으로 보는 견해를 되찾는 것>.
일단 후쿠오카의 우네를 방문하여 사진을 찍으려고 가을의 논에 들어가면 우네 주변을 붉은 잠자리가 많이 날아 놀랐다. 우네는 자연과 공생하는 농을 목표로 하고 있는 것이다. 우네는 타치바나 타카사부로, 권도성경 등 지역 운동가를 논하면서 애국주의에 근거하지 않는 생태적인 사상으로서 구시대적인 농본주의로부터의 탈피를 도모했다. 다만 "전쟁이나 식민지 지배와의 관계 논란이 불충분해 역사적 배경의 고찰이 상당히 버려지고 있다"고 후지와라는 지적한다. 역사를 근거로 한 신농본주의로의 과정은 막 시작되었다.
 
● 타치바나 타카시의 타치바나 타카사부로
앞의 ​​우네의 저서에도 등장하는 농본주의자 타치바나 타카사부로. 혈맹단 등을 키운 이바라키 출신으로 구제 미토 중학(현 현립 미토 이치고)에서 제일 고등학교로 진행된 수재다. 오스기 사카에의 아나키즘에 감화된 뒤 현지로 돌아와 애향학원을 주재하여 파시즘으로 변모했다.
얼마 전 사망한 조사 보도의 타치바나 타카시와 혈연 관계에 있는 것은 몰랐다. 그렇게 말하면, 타치바나 타카시의 본명은 타치바나 타카시. 왜 <다치바나>의 이름을 엎드린 것인가. 우익의 타카사부로의 존재를 지우고 싶었을지도 모른다. 타치바나는 중학교, 고등학교를 이바라키에서 보내고, 이바라키 대학 부속 중학에서 미토 이치고에 진학. 도중부터 도립 우에노 고등학교에 전학해 동대에 입학했다. 타카사부로와 겹치는 곳이 있다.
루포라이터 타치바나는 농협, 농업문제도 1980년 전후에 정력적으로 취재했지만 결코 농본주의의 사상면을 접하지 않았다.
 
● 종합지로서의 신농학
거기서 후지와라는 고고의 농학으로부터의 이륙을 시도한다. 「농의 원리」를 의・식・심・정・기의 5개의 측면에서의 어프로치, 이른바 다면체적인 종합지로서의 새로운 「농의 원리」를 모색한다. 이들과의 교류를 깊게 번창하고, 단지 전문화할 만한 관허의 농학은 조용히 죽고, 분해되어 “아직 보지 않는 종합적인 학문의 비옥이 되어 간다”고 본다.
예를 들어 농복연계의 확산은 앞의 의·식·심 등의 융합의 하나일지도 모른다. 기자의 <투시안>에서 보면 새로운 '농원리' 찾기의 여행은 20세기 지식의 거인, P.F 드래커가 말한 <이미 일어난 미래>의 단서는 있다. (K)
 
【부록】마지막
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