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Taechang Kim
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우에다 시즈테르 야기 세이이찌 대담평석
《예수의 말씀/ 선(禅)의 말씀》(이와나미서점, 제일쇄발
행2010년 5월26일)
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히로 사치야저 釈迦とイエス (新潮選書) | ひろ さちや
《석가와 예수: 그들은 어떻게 '인간' 을 넘어 섰는가》(쇼덴샤, 소화63년11월20일초판1쇄발행. 평성3년12월1일 제7쇄발행)
인기불교작가의 석가 예수비교론. 부처님오신날전후에 다시 읽어봄.
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5つ星のうち3.0 釈迦外伝・イエス外伝、的な考察か?2013年8月20日に日本でレビュー済み
聖書や仏典の逸話などから、釈迦とイエスの歩み、実像を分析しようという試み。
ブッダもキリストも神格化(あるいは神と)されており、特に一神教では宗教の絶対性から、本来の歩みが分かりにくかったり、伝わりにくい処もあると思う。
仏典も聖書もあまり読んだ事がない者にも得るものがあったし、いわゆる定本とされている聖典も、逆に読んでみたくなった。
内容を少し抜粋すると・・
第1章の 孤独 では、
釈迦は、教団から「雲の上」に祭り上げられていたり弟子たちと共に精進できない事、高齢でほぼ引退していた事、
などによる「孤独」があったのではないかと推測している。
イエスの孤独は「神の国の訪れを伝える為に来た」と、魂の救済と精神世界を常々説いていたにも関わらず、民衆のみでなく身近な弟子たちさへ、
現世的な救世主(民族解放運動の英雄)を彼に求めていたという「理解されない孤独」と語る。
第2章 放棄 では
一般に、釈迦は王子の位(王位継承者)を投げ捨てて、求道に向かったとされているが、
逸話や文献などを見ると、釈迦が継げる可能性のある領地は、広さは千葉県程度の「小豪族」であり、それも状況によってどうなるか分からないものだったとする。
嫉妬深い妻に辟易し家出し、当時の修行者の多くがそうであった様に、天界に転生して極楽で楽しく過ごしたい、という最初の動機の可能性を述べる。(あくまで著者の推論)
イエスは、弟子志願者に、全て(の財産)を放棄してついて来る事(≒出家)を求めた。放棄すると救われるのか?という疑問を我々日本人は抱くが、
キリスト教は「救われている者が放棄できる」(イエスの言葉を信じる事が出来る者は、全てを放棄できる)という発想だという。
言いかえれば、「放棄できないものは救われていない」のだと。
仏教でも修行の為に全てのしがらみを手放して出家し、そこから悟りへの道を歩む事を述べているが、
著者はイエスと釈迦の「弟子の出家のさせ方は違う」と言う。(本書を読んでも筆者には分らなかったが)
また、「明日の事で思い煩うこと勿れ。明日は、明日自らが思い煩う。今日の苦労は今日一日で足る」と取り越し苦労を諌めるイエスの言葉と、
同じ趣旨として、日々「今・ここ」に集中することの大切さを説く「阿含経 一夜賢者の偈(詩)」を紹介している。
以降、 第3章 選択 第4章 自覚 第5章 迫害 第6章 奇蹟 と続くが、抜粋だけ記しても長くなるので一点だけ拾っておきます。
釈迦の場合、古代インド社会の「避難所」として教団は存在意義を持ち、政治には関わろうとしなかった。
古代インドは、豊かな国であり、避難所に居て「托鉢」に出る事で、政治(現実:此岸)とは関わりなく生きていけたという。
イエスは、自らの言葉・行動を通じて、「心の転換」を世に説いていたにも拘らず、周囲は彼に現世的(物質的・現実的)な救済を期待して
宗教的存在ではなく政治的存在にさせられてしまった苦悩。
それを、イエスに対する悪魔の誘惑 というくだりと関連付けて考察している。
徐々に、自ら立てた論を後に修正や補足する箇所が多くなる印象で、書きながら自身の考えを進めて行くという(日記の様な)スタイル
かもしれないが、やや冗漫〜煩瑣に感じて惜しい気がする。
読後、聖書やブッダの生涯の話を読んでみたいと思った。
(新約聖書は近年種々の形で出ている様だし、ブッダの物語はティク ナット ハン師の本を読んでみたい)
蛇足だが、この本の根本的な主題ではないが、第3章冒頭にウサギと亀の話が出てくる。これはイソップ童話だったそうで、日本人の解釈、インド人の解釈、イラク(イスラム圏)の解釈の違いも面白かった。イラクなどイスラム圏では、「砂漠の宗教であるイスラム教は、生存する為には『競争は悪』という価値観だろう」と著者は推論している。対して、今の日本人はモノ余りだが幸福だろうか?と著者は思いを記している。
・・そのあたりから興味を持って、井筒俊彦氏の名著「イスラーム文化」を読み始めたが、イスラム教は当時の国際貿易の商都であるメッカやメディナ発祥の宗教で、砂漠の民の(血族集団の)行動規範とは実は相容れない面が多い、という処から始まり大変勉強になった。(1日5回も拝むのは「非効率な生活だなぁ」と思っていたが、彼らには「神の御心」に沿った生活が何にもまして大切で、その意味での「正しい行い」を続ける事が至上命題である事も分かった。)
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Krebs!
5つ星のうち4.0 間違ったところもあります2007年1月7日に日本でレビュー済み
ひろさちや氏の「釈迦とイエス」は、おもしろく、わかりやすく、本当に参考になりました。但し、イエスに関しては多少間違った点もあります。
1.「イエスは弟子全員に裏切られた」とありますが、弟子のヨハネだけはイエスが十字架にかけられた時に逃げなかった。
2.「一般にはイエスに兄弟がいたと信仰されている」というのも間違いです。例えば、キリスト教の最大教派であるカトリック教会で伝統的に支持された説では、「兄弟」はアラム語の親族呼称のギリシア語直訳で、実際の関係は従兄弟であるといいます。実際の兄弟だというのは、プロテスタントの説です。
3.「復活したキリストは霊的存在だ」とひろさちや氏はいいますが、実際に主に信仰されている説は、キリストは身も復活したという説です。
というわけで星4つです。
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釈迦とイエス (新潮選書) | ひろ さちや
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한 아이, 교사, 책, 펜
5성급 중 3.0 석가외전·예수외전, 적인 고찰인가?
2013년 8월 20일에 확인됨
성경이나 불전의 일화 등에서 석가와 예수의 행보, 실상을 분석하려고 시도.
붓다도 그리스도도 신격화(혹은 신으로) 되고 있어 특히 일신교에서는 종교의 절대성으로부터, 본래의 행보가 알기 어렵거나 전하기 어려운 처도 있다고 생각한다.
불전도 성경도 별로 읽은 적이 없는 자에게도 얻는 것이 있었고, 이른바 정본으로 여겨지는 성전도 반대로 읽어보고 싶어졌다.
내용을 조금 발췌하면··
제1장의 고독 그럼,
석가는, 교단으로부터 「구름 위」에 축제 되고 있거나 제자들과 함께 정진할 수 없는 것, 고령으로 거의 은퇴하고 있던 것, 등에 의한 「고독」이
있었다 아닐까 추측하고 있다.
예수의 고독은 “하나님의 나라의 방문을 전하기 위해 왔다”고 영혼의 구제와 정신세계를 끊임없이 설교했음에도 불구하고 민중뿐만 아니라 친밀한 제자들에게 현세적인
구세주 (민족해방운동의 영웅)을 그에게 요구했다는 '이해되지 않는 고독'이라고 말한다.
제2장 포기에서는
일반적으로, 석가는 왕자의 자리(왕위 계승자)를 던져 버리고, 구도로 향했다고 여겨지고 있지만, 일화나 문헌 등을 보면, 석가가 이어질 가능성이 있는 영지는
, 음은 지바현 정도의 「소호족」이며, 그것도 상황에 따라 어떻게 될지 모르는 것이었다고 한다.
질투심이 깊은 아내에게 목소리를 내며 가출하고 당시 수행자의 대부분이 그렇듯이 천계에 환생하여 극락하고 즐겁게 보내고 싶다는 첫 동기의 가능성을 말한다. (어디까지나 저자의 추론)
예수께서는 제자 지원자에게 모두(의 재산)을 포기하고 따라오는 일(≒출가)을 요구하였다. 포기하면 구원받을까? 라는 의문을 우리 일본인은 안고 있지만,
기독교는 “구원받는 자가 포기할 수 있다”(예수의 말씀을 믿을 수 있는 자는 모두를 포기할 수 있다)는 발상이라고 한다.
즉, 「포기할 수 없는 것은 구원받지 못한다」라고.
불교에서도 수행을 위해 모든 고통을 놓고 출가하고 거기에서 깨달음으로 가는 길을 밝히고 있지만 저자는 예수와 석가의 “제자의 출가를 시키는 방법은 다르다”고 말한다
. (본서를 읽어도 필자에게는 알지 못했지만)
또, "내일의 일로 생각하는 것 물론. 내일은, 내일 스스로가 생각한다. 오늘의 고생은 오늘 하루에 부족하다" 말과
같은 취지로서, 날마다 「지금・여기」에 집중하는 것의 소중함을 설득하는 「아함경 하룻밤 현자의 추(시)」를 소개하고 있다.
이후, 제3장 선택 제4장 자각 제5장 박해 제6장 기적 과 계속되지만, 발췌만 기록해도 길어지므로 한점만 주워 둡니다.
석가의 경우 고대 인도 사회의 '피난소'로서 교단은 존재의의를 갖고 정치에 관여하려고 하지 않았다.
고대 인도는 풍부한 나라이며, 피난소에 있어 '托鉢'에 나오는 것으로, 정치(현실 : 쿠시기시)와는 관계없이 살아갈 수 있었다고 한다.
예수께서는 자신의 말씀·행동을 통해 “마음의 전환”을 세상에 설하셨음에도 불구하고 주위는 그에게 현세적(물질적·현실적) 구제를 기대하며 종교적 존재가 아니라
정치 적 존재하게 되어 버린 고뇌.
그것을 예수에 대한 악마의 유혹이라는 짓과 관련하여 고찰하고 있다.
서서히, 스스로 세운 이론을 나중에 수정이나 보충하는 개소가 많아지는 인상으로, 쓰면서 자신의 생각을 진행해 간다고 하는(일기와 같은) 스타일
지도 모르지만, 약간 농담~ 번영에 느껴 아쉽다고 생각한다.
읽은 뒤 성경이나 불처의 평생 이야기를 읽어보고 싶었다.
(신약성경은 최근 여러가지 형태로 나오고 있는 것 같고, 붓다의 이야기는 틱 너트 한사의 책을 읽고 싶다) 뱀족이지만, 이 책의 근본적인 주제는 아니지만, 제3장 서두에
토끼 라고 거북이의 이야기가 나온다. 이것은 이솝 동화였다고 하며, 일본인의 해석, 인도인의 해석, 이라크(이슬람권)의 해석의 차이도 재미 있었다. 이라크 등 이슬람권에서는 "사막 종교인 이슬람교는 생존하기 위해서는 '경쟁은 악"이라는 가치관일 것"이라고 저자는 추론하고 있다. 대조적으로, 지금의 일본인은 물건 너무이지만 행복일까? 그리고 저자는 생각을 기록합니다.
・・그 근처에서 흥미를 가지고, 이츠키 슌히코씨의 명저 「이슬람 문화」를 읽기 시작했지만, 이슬람교는 당시의 국제 무역의 상도인 메카나 메디나 발상의 종교로, 사막의 백성의 (혈족 집단의) 행동규범과는 실은 견딜 수 없는 면이 많다는 처에서 시작되어 매우 공부가 되었다. (하루 5회나 숭배하는 것은 「비효율적인 생활이구나」라고 생각하고 있었지만, 그들에게는 「하나님의 뜻」에 따른 생활이 무엇이든 중요하고, 그 의미에서의 「올바른 "행행"을 계속하는 것이 지상 명제임을 알았다.)
6명의 고객이 이것이 도움이 되었다고 생각합니다.
유용한
보고서
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크렙스!
5성급 중 4.0 잘못된 곳도 있습니다.
2007년 1월 7일에 확인됨
히로사치야씨의 「석가와 예수」는, 재미있고, 알기 쉽고, 정말로 참고가 되었습니다. 단, 예수에 관해서는 다소 잘못된 점도 있습니다.
1. 예수님은 모든 제자들에게 배신당하셨다.
2. "일반적으로 예수님께 형제가 있었다고 믿는다"는 것도 실수입니다. 예를 들어, 기독교의 최대 교파인 가톨릭 교회에서 전통적으로 지지된 설에서 '형제'는 아람어의 친족 호칭의 그리스어 직역으로, 실제 관계는 종형제라고 합니다. 실제 형제라는 것은 개신교의 설입니다.
3. “부활한 그리스도는 영적 존재”라고 히로사치야 씨는 말합니다만, 실제로 주로 믿음을 받고 있는 설은 그리스도는 몸도 부활했다는 설입니다.
그래서 별 4개입니다.
18명의 고객이 이것이 도움이 되었다고 생각합니다.
유용한
보고서
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5つ星のうち3.0 釈迦外伝・イエス外伝、的な考察か?2013年8月20日に日本でレビュー済み
聖書や仏典の逸話などから、釈迦とイエスの歩み、実像を分析しようという試み。
ブッダもキリストも神格化(あるいは神と)されており、特に一神教では宗教の絶対性から、本来の歩みが分かりにくかったり、伝わりにくい処もあると思う。
仏典も聖書もあまり読んだ事がない者にも得るものがあったし、いわゆる定本とされている聖典も、逆に読んでみたくなった。
内容を少し抜粋すると・・
第1章の 孤独 では、
釈迦は、教団から「雲の上」に祭り上げられていたり弟子たちと共に精進できない事、高齢でほぼ引退していた事、
などによる「孤独」があったのではないかと推測している。
イエスの孤独は「神の国の訪れを伝える為に来た」と、魂の救済と精神世界を常々説いていたにも関わらず、民衆のみでなく身近な弟子たちさへ、
現世的な救世主(民族解放運動の英雄)を彼に求めていたという「理解されない孤独」と語る。
第2章 放棄 では
一般に、釈迦は王子の位(王位継承者)を投げ捨てて、求道に向かったとされているが、
逸話や文献などを見ると、釈迦が継げる可能性のある領地は、広さは千葉県程度の「小豪族」であり、それも状況によってどうなるか分からないものだったとする。
嫉妬深い妻に辟易し家出し、当時の修行者の多くがそうであった様に、天界に転生して極楽で楽しく過ごしたい、という最初の動機の可能性を述べる。(あくまで著者の推論)
イエスは、弟子志願者に、全て(の財産)を放棄してついて来る事(≒出家)を求めた。放棄すると救われるのか?という疑問を我々日本人は抱くが、
キリスト教は「救われている者が放棄できる」(イエスの言葉を信じる事が出来る者は、全てを放棄できる)という発想だという。
言いかえれば、「放棄できないものは救われていない」のだと。
仏教でも修行の為に全てのしがらみを手放して出家し、そこから悟りへの道を歩む事を述べているが、
著者はイエスと釈迦の「弟子の出家のさせ方は違う」と言う。(本書を読んでも筆者には分らなかったが)
また、「明日の事で思い煩うこと勿れ。明日は、明日自らが思い煩う。今日の苦労は今日一日で足る」と取り越し苦労を諌めるイエスの言葉と、
同じ趣旨として、日々「今・ここ」に集中することの大切さを説く「阿含経 一夜賢者の偈(詩)」を紹介している。
以降、 第3章 選択 第4章 自覚 第5章 迫害 第6章 奇蹟 と続くが、抜粋だけ記しても長くなるので一点だけ拾っておきます。
釈迦の場合、古代インド社会の「避難所」として教団は存在意義を持ち、政治には関わろうとしなかった。
古代インドは、豊かな国であり、避難所に居て「托鉢」に出る事で、政治(現実:此岸)とは関わりなく生きていけたという。
イエスは、自らの言葉・行動を通じて、「心の転換」を世に説いていたにも拘らず、周囲は彼に現世的(物質的・現実的)な救済を期待して
宗教的存在ではなく政治的存在にさせられてしまった苦悩。
それを、イエスに対する悪魔の誘惑 というくだりと関連付けて考察している。
徐々に、自ら立てた論を後に修正や補足する箇所が多くなる印象で、書きながら自身の考えを進めて行くという(日記の様な)スタイル
かもしれないが、やや冗漫〜煩瑣に感じて惜しい気がする。
読後、聖書やブッダの生涯の話を読んでみたいと思った。
(新約聖書は近年種々の形で出ている様だし、ブッダの物語はティク ナット ハン師の本を読んでみたい)
蛇足だが、この本の根本的な主題ではないが、第3章冒頭にウサギと亀の話が出てくる。これはイソップ童話だったそうで、日本人の解釈、インド人の解釈、イラク(イスラム圏)の解釈の違いも面白かった。イラクなどイスラム圏では、「砂漠の宗教であるイスラム教は、生存する為には『競争は悪』という価値観だろう」と著者は推論している。対して、今の日本人はモノ余りだが幸福だろうか?と著者は思いを記している。
・・そのあたりから興味を持って、井筒俊彦氏の名著「イスラーム文化」を読み始めたが、イスラム教は当時の国際貿易の商都であるメッカやメディナ発祥の宗教で、砂漠の民の(血族集団の)行動規範とは実は相容れない面が多い、という処から始まり大変勉強になった。(1日5回も拝むのは「非効率な生活だなぁ」と思っていたが、彼らには「神の御心」に沿った生活が何にもまして大切で、その意味での「正しい行い」を続ける事が至上命題である事も分かった。)
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ひろさちや氏の「釈迦とイエス」は、おもしろく、わかりやすく、本当に参考になりました。但し、イエスに関しては多少間違った点もあります。
1.「イエスは弟子全員に裏切られた」とありますが、弟子のヨハネだけはイエスが十字架にかけられた時に逃げなかった。
2.「一般にはイエスに兄弟がいたと信仰されている」というのも間違いです。例えば、キリスト教の最大教派であるカトリック教会で伝統的に支持された説では、「兄弟」はアラム語の親族呼称のギリシア語直訳で、実際の関係は従兄弟であるといいます。実際の兄弟だというのは、プロテスタントの説です。
3.「復活したキリストは霊的存在だ」とひろさちや氏はいいますが、実際に主に信仰されている説は、キリストは身も復活したという説です。
というわけで星4つです。
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