2022/07/17

Yukio Irie, Emerson and Quakerism, Book Rev고이즈미 이치로

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Yukio Irie, Emerson and Quakerism, 연구회사, 1982년, \1,800(비평 소개)



カ と して は 取 る に 足 らぬ 存 在 だ っ た が 、 ア メ リ カ で は 、 Williarn Penn を指 導者 と し て 開拓 し た Pennsylvaniaを 中 心 と し て New Jersey, Delaware な どの 中部 諸州 で 、 一つ の 強 い 社 会 的 勢 力 を 形 成す る こ とが で きた よ うに 思 わ れ る 。 そ の よ うな 社会 的背 景か ら、Penn , Paine , Woolman , Brockden Brown , Cooper, Whitman , Emerson , Whitder な ど、 ク ェ ー カ リズ ム の 影 響 を強 く示 して い る 作家た ちが 現 わ れ た 。 Henry SeidelCandy の C 痂 ∬ ’‘ Aneericans(lg31 ) は 、 お そ ら く、 こ の 事 実 に 最も早 く注 目 し た 書物 で あ る が 、比 較 的 系統 的 に こ の 閥題 を扱 っ た もの と して は 、 Howard W .Hintz の The 2uaikerlny70sencein AneericanLitera− lure (lg40 )が あ っ た 。 が、 と くに エ マ ソ ン に 対 す る ク エ ー カ リズ ム の 影響 を論 じた も の と して は、 こ の 書 の な か で 著者 が しば し ば 言 及 して い る 、 Frederick B .Tolles の ‘‘ Emefson and Quakerism’ (ig38 ) と Mafy C .Turpie の “ A Quakersource fof Emerson ’s Sermon on the Lord ’s Supper” (i944 )とい う二 つ の 論文 が あ る だ け で あ る。 著 者 は こ の 書 の なか で 、 上 の 二 つ の 論 
文 を踏 ま え な が ら、 そ れ らをは る か に 凌 駕 す る 、 精緻 で 説 得力 の あ る論述 を展 開 して い る 。 Eveer∫on and 2uakeri∫ne と い う書 名か ら、 読者は こ の 書 を エ マ ソ ン の 思想 の きわ め て 限 られた一 面 を扱 っ た 特殊 研究 で あ る か の よ うに 誤 解す るか も知れ ない 。 しか し、 本 書 の 第 三 章 以 下 の 四 章 は 、 そ れ ぞ れ 、 “ Emerson ’s Religious Philosophy ” , { cEmerson , s Practice of Religion,「 , “Emerson as a Poet ,, , tc Emetson as a Monist ” と題 して 、 エ マ ソ ン に お け る 包 括 的 な諸 問題 を論 じて い る こ とか ら も判 る よ うに、 エ マ ソ ン の 全 体 の 像 に 迫 ろ うと志 して い る の は 明 らか で あ る 。 もち ろ ん 著 者 の 基本 的立 場 は 、 第… 章 の “The Quake: Influeflceupon Emerson ” と第 2 章 の “ Emerson ’s ctiticismof Qual〈 erism ’ の な か で 明確に 述べ られ て お り、 こ の 基 本的 な 立 場 と角度 か らエ マ ソ ン の 思 想 全体 を裁 断 して 見 せ た も の で あ る が 、 そ の 裁 断 面 は 、 ‘L Ernersonianism ” と い わ れ て い る も の の 最 も本 質的 な 部分 を明 らか に す る こ と に 成 功 して い る 。 著 者 が 述 べ て い る よ う に 、 ‘‘Self−Reliance ’”や ‘‘The Ovcr −Soul ” な どに 見 られ る 、 人 聞 と神 に 関 す る エ マ ソ ン の 基本 的 な思 想 は 、 ク エ ー カ リズ ム に お け る ‘eSeed of God ” や ‘‘Inner Light’ ” の 理 念 と共 通 す る も の が非常 に 多 く、 両 者 の 一 方 を 明 らか に す る こ と は 同時 に 他方 を 明 らか に す る こ とに な る 場合 が 多 い か らで あ る 。 著 者 は 、 エ マ ソ ン が 聖餐式 に 関す る 最後 の 説 教 を行 な っ て ボ ス トン 第二 教 会の 聖 職 を辞 した r832 年 とい う、 彼 の 精 神史 に お け る 重 要な 時 点 を中心 と して 、 そ れ ま で の 彼 の 多 くの 説教 の 内容 を精 密に辿 り、 こ の 前 後 に 彼 が耽 読 した ク エ ー カ ー関係 の 文 献 や、 彼 が親 し く交わ っ て 深 い 精神 的影 響を 受 けた ニ ュ ー ・ベ ッ ドフ ォ ー ドの ク エ ー カ 

一の 女 性 Mary Rotch や Whittierな ど、 ク エ ー カ ー との 人 間 的接 触 を、 そ の 細部 に い た る ま で 実 証 的 に跡づ けて い て 、 た い へ ん興 味 深 い 。 しか し、 著者 が 、 エ マ ソ ン と ク エ ー カ リズ ム との 、 以 上 の よ うな 具体 的 な接 触 の 事 実を跡づ け る こ とか らさ らに 一 歩 を進 め て 、 エ マ ソ ン の 超 絶主義 の 思想 的 源 流 に ま で さか の ぼ り、 ま た ク エ ー カ リ ズ ム の キ リ ス ト教 的神 秘主 義 を、 エ ッ ク ハ ル トや ヤ コ ブ ・べ 一 メな ど、そ の ヨ ー n ッ パ に お け る源 流に ま で さか の ぼ っ て 、 両者 を 比 較検 討 した な らば、 こ の 書 は さ らに 深 さ と厚 み を加 えた に 違 い な い と思 わ れ る。 最 後 の “ Emerson as a Monist ” と題 す る 章 は 、 エ マ ソ ン の 二 元 論 的 傾 向を 強 調 す る 従 来 の 多 くの ア メ リ カ の 学 者 た ち の 立 場 に 対 して 、 一 元論者 と して の エ マ ソ ン を 論 証 し よ うとこ こ ろみ た 、 い ろ ん な 意味 で 著 者そ の 人 の 個性 の に じ みで た 、 カ の こ も っ た 重 要 な 章 で あ るが 、 多分 多 くの 論議 を呼 ぶ で あ ろ う。 す で に エ マ ソ ン の 存命 中に 、 JamcsRussell Lowell は 、A Fav’le for Critics (1848 )に お V ・ て 、 “ A Greek head on right Yankee shoulders , whose range f Has Olympus for one pQle,for t ’ othet the Exchange ; 1APIotinus−Montaigne, where the Egyptian ’ s gold mist !And the Gascon’s shrewd wit cheek −by−jowl coexist ; ” と書 い て 、 エ マ ソ ン の 二 元 論 的 傾 向 を指摘 し、 エ マ ソ ン 自身 も、 1835 年 5 月 5 日の 日記 の な か で 、 “1 am the practi− cal Idealist.” と:書い て 自分 の 二 元 的傾向 を 承 認 して い る 。 対 立 す る もの の 中間 に 立 つ て 平 衡 感覚 をた の しん で い る か の よ うな 或 る た くま しさ こ そ 、 エ マ ソ ン の 思想 全体 を つ ら ぬ くとこ ろ の 無視 し得な い 特質 で あ っ て 、 これ な くして エ マ ソ ン は 、 ア メ リ カ 思 想 の 源 流 の 一 つ とな る 栄誉 は に な い 得 なか っ た に 違 い ない の で あ る 。 一一 小 泉 一 郎