2022/12/16

スピリチュアルケアのケアモデルの検討 ―心理療法・精神療法の知見から

スピリチュアルケアのケアモデルの検討 ―心理療法・精神療法の知見から―

横山 優樹

1.はじめに

「近代ホスピスの母」とも呼ばれる英国の医師 C. ソンダースによれば,生命を脅かす疾患に 直面すると「多くの患者が自責の念あるいは罪の感情を持ち,自分自身の存在に価値がなくなっ たと感じ,ときには深い苦悶の中に陥」るという(1)。ソンダースは,そうした患者の苦悩をスピ リチュアルペインと名付け,近代医療の枠組みの中で先駆的にスピリチュアルケアを実践する。 我が国でも 1980 年代以降,ソンダースの活動をモデルにスピリチュアルケアが試みられるよう になり,ホスピスや緩和ケア病棟を中心としてスピリチュアルな位相へのまなざしが浸透してゆ く(2)。現在ではスピリチュアルケアの思想的基盤の整備やスピリチュアルケア専門職の養成,さ らにはアセスメントツールの開発等も行われつつある。

本論文では,こうしたスピリチュアルケアのケアモデルについて,その臨床的な妥当性を心理 療法・精神療法の知見から検討する。ここで言う心理療法・精神療法とは,臨床心理学や精神病 理学,精神分析学等の枠組みに準拠した対人援助活動全般を指す。管見では,我が国のスピリチ ュアルケアのケアモデルは主に米国の臨床牧会教育や個々の論者の哲学的見解に則って構築され ており,心理療法・精神療法の援助スタイルや理論は必ずしも参照されていない(3)。しかし,心 理療法・精神療法には数多くのケアモデルが蓄積されているうえ,スピリチュアルケアと同じく 終末期患者を対象とした事例も見受けられる。それゆえに心理療法・精神療法の知見を参照する ことが,スピリチュアルケアのケアモデルの構築に資すると考えられるのである。

ところで,スピリチュアルケアのケアモデルに対する従来の批判は,医療化の問題に向けられ たものが主であった。医療化とは「他の社会領域(宗教,家族,法など)に属するとされていた 事象が,医学の管轄下に置かれてゆくこと」を意味するが(4),スピリチュアルな問題さえも医学 の管轄下に置かれ,医学的な処置の対象とされてしまうことが多々懸念されてきたのである(5)。 とりわけ医療化の傾向の顕著な例としてしばしば指摘されるのが,痛みはない方がよいとする発 想,すなわち,「スピリチュアルペインは解消すべきである」という発想である。例えば安藤泰至 は,そもそもスピリチュアルペインは身体的・社会的・心理的な痛みのように「その原因を取り 除くことによって解消されるような痛み」ではなく,「元来人間存在そのものに本質的に含まれて いるもの」であるとし(6),それを他の痛みと同様に解消しようとすることはスピリチュアルな次 元の「矮小化」であると批判する(7)。安藤によれば,スピリチュアルな次元には「『生の向こう側』 からの視線」といった超越的要素や(8),「より深く病み,痛む者こそが救済や解脱により近いとこ ろにいる」といった逆説も孕まれているため(9),スピリチュアルペインはない方がよい・解消す べきであるという見方は皮相に過ぎるのである(10)。

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確かに,我が国の臨床現場において中心的に参照されているケアモデルはスピリチュアルペイ ンの解消を唱えるものであり,その限りでは医療化の流れがスピリチュアルケアを囲い込みつつ あるとも言える(11)。とはいえ,スピリチュアルペインの解消というケアの目的は,あくまでも「自 律性の回復」や「生きる意味の回復」といったより上位の諸目的のもとに,或いは,それらとの 密接な相互連関のうちに措かれており,決して単独でスピリチュアルケアを方向付けているわけ ではない。スピリチュアルケアのケアモデルについて検討するためには,当然ながら,そうした 諸目的の全体を視野に含めてスピリチュアルケアを捉え返す必要がある。逆に言えば,スピリチ ュアルペインの解消という目的のみを抽出して反駁したとしても,必ずしもスピリチュアルケア の基本的な方向性に再考を促すには至らないと考えられるのである。

以上の点を踏まえて,本論文では我が国で展開されているスピリチュアルケア論の中から,ス ピリチュアルケアの目的として掲げられている内容を網羅的に整理し,その臨床的な妥当性を心 理療法・精神療法の知見から検討する。ケアの目的こそケアモデル全体の方向性や枠組みを規定 するものであり,それゆえに最初に検討すべき事項であると言える。

猶,本論文では臨床的妥当性を検討するわけであるが,そもそも何を以てより臨床的に妥当で あると見なすのか,という判断基準を定めてはいない。というのも,そうした判断基準は具体的 な臨床場面に応じて変わらざるを得ず,しかもそうした個々の場面についても,結局のところ何 が正しかったのか,という最終的な判断はつき難いと考えられるからである。その意味で,臨床 的妥当性という概念の内実は,まさに何が臨床的に妥当なのかを反省的に吟味し続けること,と でも言うほかないものである。本論文の課題であるスピリチュアルケアのケアモデルの検討もま た,心理療法・精神療法の知見を引き合いに出すことで「何が臨床的に妥当なのか」という問い をより多角的に播種する試みであり,決してスピリチュアルケアと心理療法・精神療法のいずれ かをより妥当であると判断するものではない,ということを付言しておきたい。

2.スピリチュアルケアは何を目的としているのか

本節では,我が国におけるスピリチュアルケア論のうち代表的なものを取り上げ,それらがス ピリチュアルケアの目的として掲げている内容を整理する。猶,ここで取り上げるものは,スピ リチュアルペインやスピリチュアルケアといった用語に対して独自の定義づけを行っており,か つ医療・看護の臨床現場で用いられている理論に限定する。具体的には,窪寺俊之,谷山洋三, 村田久行,大下大圓,岡本拓也,谷田憲俊,小西達也,伊藤高章,藤井美和の 9 名のスピリチュ アル論からケアの目的に関する叙述を抽出し,順次簡潔に見ていくこととする。

〈窪寺俊之〉 窪寺によれば,スピリチュアルケアとは「特に死の危機に直面して人生の意味,苦難の意味,

死後の問題などが問われ始めたとき,その解決を人間を超えた超越者や,内面の究極的自己に出 会う中に見つけ出せるようにするケア」であり,また「目に見えない世界や情緒的・信仰的領域 の中に,人間を超えた新たな意味を見つけて,新しい『存在の枠組み』『自己同一性』に気づくこ と」であるという(12)。さらに窪寺は,「スピリチュアルケアでは,神仏との関係を覚醒し,強化す ることが重要」であるとし(13),超越的存在とのつながりを繰り返し強調している。そうしたつな がりの構築が,「危機に直面して揺れ動く自分」を受け止め(14),自己同一性を回復するのに資する

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と考えられているのである(15)。 〈谷山洋三〉

谷山は,スピリチュアルケアを「人間を通して感じられる・表現される,不可視・不可知な機 能に焦点を当てながら,相互の内面の力動性によって自分らしさの安定・回復や成長を支援する こと」と定義し(16),そのうえで,現実的次元・内的次元・超越的次元の 3 つの領域に渡ってケア 対象者の自己を取り巻く要素を数え上げている(17)。谷山によれば,それらの諸要素こそ「自分ら しさの安定・回復や成長」のための源泉であり,その源泉から支えを得ようとする「スピリチュ アリティの蠢き」を感得しながら「対象者の思いを支持・明確化・対峙する」ことが,スピリチ ュアルケアであるという(18)。

〈村田久行〉

村田は,終末期患者のスピリチュアルペインを時間性・関係性・自律性の 3 つの次元から説明

している。すなわち,終末期患者は「死の接近によって将来を失う」がゆえに,「今,何をしても 無意味というスピリチュアルペインを感じる」(19)。また,「死の接近によって他者との関係を失 う」がゆえに,「アイデンティティの喪失,孤独,生の無意味というスピリチュアルペインを体験 する」(20)。そして「死の接近によって......自分自身のコントロールを失い,自立と生産性(自律) を失う」がゆえに,「自己の存在と世界が無意味で無価値なものとして現れる」(21)。村田は,こう したスピリチュアルペインが生み出される構􏰀に基づき,「その苦痛を和らげるケアの指針」を提 示する(22)。すなわち,第一に「患者自身が援助者との対話から『死をも超えた将来を見出す』こ とができたならば,その将来を目的として生きる新たな現在の意味が回復するに違いない」。第二 に「患者自身が援助者との対話から『死をも超えた他者を見出す』ことができたならば,その他 者との関係から新たに自己の存在の意味が与えられるであろう」。第三に「患者が援助者との対話 から......知覚,思考,表現,行為の各次元でなおも自己決定できる自由(自律)があることを知 るならば,自律による価値感を回復できるに違いない」(23)。かくして村田にとってのスピリチュ アルケアとは,関係性・自律性・将来性の喪失を同定し,その喪失されたものを再獲得させるこ とで,「自己の存在と生きる意味の回復」を試みるものであると言える(24)。

〈大下大圓〉 大下は,スピリチュアルペインを「生きる意味を失い,絶望,悲観,孤独感などに苛まれて自

分の命の行方に苦しんだり,家族や親しい人との関係性に課題を抱えたりする苦悩」とし,スピ リチュアルケアを「スピリチュアルペインを内在し,あるいは訴えようとするクライエント(ケ アの対象者)に対して,ケアを提供する側(援助者,スピリチュアルケアワーカー,セラピスト など)がともにその実態を,自縁,他縁,法縁の統合的な領域から明らかにして,苦悩からの解 放,解脱に至る営み」であるとしている(25)。さらに大下は,「スピリチュアルペイン(痛み・苦悩) をもつクライアントのスピリチュアルケアは,自縁(自己の尊厳性)に気づき,自分をサポート してくれる他縁(縁のある他者の力)と,自分自身を大いなるいのちで包摂している法縁の力に よって,希望や生きる力を増大させていくこと」であるとも述べている(26)。

〈岡本拓也〉 岡本は,スピリチュアルペインを「個人において,彼/彼女が置かれている状態と,彼/彼女

が抱いている信念体系との間の調和が崩れたことから生じる辛さ」と定義し(27),スピリチュアル - 179 -


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ケアとは「その不調和が解消・予防される方向へと働きかける営み」であると述べている(28)。ま た,その働きかけは「その人が自らの置かれている現実を受け止めることができるほどの力をも つ信念体系へと,その人の信念体系の変容を促したり,信念体系を強靭化したりする方向でのか かわり」であるという(29)。

〈谷田憲俊〉 谷田は,スピリチュアルペインには「『人生の意味づけ』の崩壊あるいは再構築を迫られること

への苦痛」と「『周囲とのつながり』が断ち切られることから生じる苦痛」が挙げられるとしたう えで(30),これらに対するスピリチュアルケアの仕方として,「人生の意味づけ」に対しては物語療 法を,「周囲とのつながり」に対してはコミュニケーションを重視すると述べている(31)。 〈小西達也〉

小西は,スピリチュアルケアを「スピリチュアル・クライシス時の主体的生のサポート」と定 義している(32)。「スピリチュアル・クライシス」とは「人生の試練に直面して,自らの生きる意味 や存在価値が見出せなくなっているような状態」であり,より具体的には,世界観や価値観,生 き甲斐を支えるような基盤的な「ビリーフ」(=信念や仮定)が何らかの理由で機能不全に陥って いる状態を指す(33)。それゆえにスピリチュアルケアにおいては,この機能不全に陥ったビリーフ を「再構築」することが求められるという。すなわち,ケア対象者の気持ちや考えを整理するこ とをサポートし,「ライフ・ヒストリー」等の人生の振り返りを行うことで,ビリーフを「意識化」 していく。それによって,既存のビリーフが見直され,新たなビリーフが再構築されていくとい うのである(34)。

〈伊藤高章〉 伊藤は,スピリチュアルケアを「『超越性』との関わりのパターンが不安定になったときに,な

んらかの方法でその不安定に対処する仕方」と定義し(35),かつ,その対処する仕方の内実は「患 者さんご自身が,そのペインを受けとめ,悩み苦しみ,乗り越えたり,受け入れたり,拒否した りするプロセスを支える」ことであると述べている(36)。

さらに伊藤は,ケア実践者がケア対象者を客観的に観察し,一方的に介入するという自然科学 的方法に基づく「診断型ケア」と,ケア実践者とケア対象者の相互関係に基づき,「その瞬間その 場での関係の質」を追求する「対話型ケア」とを区別したうえで(37),スピリチュアルケアの本領 は「異なる認識論的地平に生きる二者が,関係の中で自己の地平と相手の地平との差異を意識し つつ,その差異を豊かに経験し合うことを通して,どちらの地平でもない新たな場を創出する」 対話型ケアにあるとしている(38)。スピリチュアルケアの目的は二人称的関係の創出・実現であり, 相手の物語を聴くことで「ケア実践者の心が揺らされること」自体にあるというのである(39)。ま た伊藤は,「心が揺らされること」を相手の物語が「記憶と心に刻まれ,聴き手の心の血肉となる」 こととも言い換えており(40),それをケア提供者がケア対象者の「証人」となることとして位置付 けている(41)。

〈藤井美和〉 藤井は,スピリチュアルペインを「生きる意味が見いだせない苦しみであり,また自己,他者,

自己を超える何らかとの関係性の中に自己存在を見いだすことができない苦しみ」と定義しつつ (42),同時に,そうしたスピリチュアルペインは苦しむ人自身の「主観的意味付け」の問題である

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ため,「他者の介入」によって解決を見ることはないと主張する(43)。藤井によれば,他者のスピリ チュアルペインに答えを出すことができない以上,できることは「寄り添い」だけであり(44),か つその「寄り添い」は「目の前の人を丸ごと受け止めることができるかという問いかけを受ける こと,つまり自らの価値観を問い直すことによって可能となる」という(45)。また藤井は,(「でき る」専門職者としてではなく)「『できない』一人の人間として,その人の前に立つ」,つまり「『何 もできなくても』なおそこに在ろうとする」ことが,何もできない自己に直面しているケア対象 者に寄り添うことであると述べている(46)。スピリチュアルケアの目的は,相手の前で自らが「何 もできないことを受け入れること」そのものにある,というのが藤井の所論である(47)。 スピリチュアルケアの目的

以上,窪寺,谷山,村田,大下,岡本,谷田,小西,伊藤,藤井の 9 名のスピリチュアルケア 論を概観してきた。改めて各論者がスピリチュアルケアの目的に掲げている内容を整理してみる と,

○他者とのつながりの回復(谷山,村田,大下,谷田) ○自分らしさや自己同一性の回復・成長・安定化(窪寺,谷山,村田) ○人生の意味や生きがいの再構築(窪寺,谷田,小西) ○超越的存在・究極的次元とのつながりの回復(窪寺,大下) ○世界観・価値観・信念体系の調整・再構築(岡本,小西)

○自律性や将来性の回復(村田)

○希望や生きる力の増大(大下)

○苦悩からの解放(大下)

○対話(伊藤)

○寄り添い(藤井) といった点が挙げられる。一見して,スピリチュアルペインの解消に留まらない様々な積極的要 素が含まれていることが見て取れよう。また,これらの中でも「対話」と「寄り添い」という 2 つの目的は,他の目的と比べて異質であると言える。というのも,他の目的がすべてケア対象者 に関する叙述となっているのに対し,この 2 つの目的はむしろケア提供者側の態度・姿勢に重き を置いたものとなっているからである。ゆえに以下では,この 2 つの目的を他の目的と便宜的に 区別し,まず他の 8 つの目的から検討していくことにする。

3.スピリチュアルケアの目的の臨床的妥当性1

本節では,心理療法・精神療法の知見から,前節で見たスピリチュアルケアの目的の臨床的妥 当性を問いに付すことを試みる。

自己同一性の安定化,信念体系の調和

まず,「自分らしさや自己同一性の回復・成長・安定化」と「世界観・価値観・信念体系の調整・ 再構築」という 2 つの目的を取り上げたい。これらがケアにおいて目指される場合,そこには当 然ながら,「私」は「より安定していること」「より成長していること」「より現実に適応的な世界 観を有していること」「葛藤や分裂のない信念体系を有していること」が望ましい,という想定が 認められる。こうした想定に対して,精神分析学やユング派心理学では様々な異論が唱えられて

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きた。例えば精神分析家の D. W. ウィニコットは,C. G. ユングの「自己」,及びその象徴として の「曼荼羅」の観念に次のような疑義を呈している(48)。「曼荼羅は私〔ウィニコット〕にとっては 本当に恐ろしいものに思える。それは破壊性や混沌や無統合 disintegration や,その他諸々の狂 気と折り合いをつけることにことごとく失敗している。それは無統合からの強迫的な逃走である」 (〔〕内は筆者による。以下同)(49)。つまり,ユングは混沌や分裂に対して過度に防衛的であり, 「自己」=「曼荼羅」へのその固執も混沌や分裂に対する防衛に他ならないというのである。し かし,ウィニコットによれば,「人生は生きる価値があると感じさせる」ものは統合された自己で はなく,創􏰀性である(50)。そして,創􏰀性は「遊ぶこと」,すなわち「主観的なものと客観的に知 覚されるものとの間の中間領域」において「錯覚 illusion」を展開することを通して活性化され るため(51),本質的に「不確かな」性格を持つ(52)。かくしてウィニコットの言う「生きる価値」は, 統合性や秩序とはおよそ対照的な錯覚や不確かさの領域に求められるのである。

また,元型的心理学の創始者 J. ヒルマンは,人格の統合性という観念に異を唱えている。ヒル マンによれば,ユングは「自己」という統合された全体性を優先するために,心の複数性・多元 性を蔑ろにしてしまっている。ユングに限らず,西洋の心理学は統合性や全体性への直線的な発 達段階を措定する「一神教的心理学」であり,「断片化や自己分裂」に強い偏見を抱いているので ある(53)。しかし,「魂」には生来「多中心性」が備わっており(54),「どのような人格も本質的に多 数的である」(55)。それゆえにヒルマンは,中心性や統合性を求める一神教的心理学に対置する形 で,多神教的心理学としての元型的心理学を措定する。元型的心理学では,魂に存在するあらゆ る元型的イメージが自律的に展開し,深まることに価値が置かれるのであり,その展開を特定の 中心へと収斂させてしまわないことこそが魂への配慮であると考えられるのである(56)。

或いは,ユング派の分析家 A. グッゲンビュール=クレイグも,安定性や統合性といった観念 の虚構性を指摘している。グッゲンビュールによれば,現代の多くの「神話」は「矛盾のなさ」 にしがみついている。例えば,人間は意識化することを通して自らの「殺人的・自殺的側面」を 弱めることができ,「より高いもの,より善いもの」へと近づいてゆくことができるという「進歩 神話」があるが(57),実際には個性化にせよ意識化にせよ,直線的に進歩するものではなく「中心 に近づいたかと思うと再びそこから遠ざか」るような「中心を巡る舞踊」に過ぎない(58)。同様に, 人は老いるにつれ成熟するという「老賢者」神話も虚構である。実際の老人は「欠損,衰退,病 気,痴呆,集合的無意識との接触の喪失,そして最後には死によって特徴づけられ」る極めて不 安定な存在なのである。にもかかわらず,「私たちは老人の心理療法や世話において......誤った方 法で彼らを正常にしたり統合したりしようとします。彼らが建設的で理性的なしかたで,常にあ らゆることに興味をもち,多くのことに参加していることを,私たちは望みます」。グッゲンビュ ールは,こうした「老賢者」神話による専制を,「老愚者」神話によって補償することを提案する。 すなわち,老人に「こっけいな老人」となる自由を与えること,「病気,老衰,ついには死が,彼 らを恐怖で満たしてもよい」という祝福を与えることが,老人を「生の戦い」から遠ざからせ, 内的に自由に生きることを可能にするというのである。「老愚者は,まさに気分次第で,笑ったり 泣いたりしてよいのです。......感情の抑制がきかないことは,老いた自由な愚者の喜ばしい特徴 でもあるのです」(59)。

これらの論者は或る意味で,「私」は安定していることが望ましい,といった規範的認識の自明

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性を脱臼させようとしている。すなわち,「私」は決して安定的である必要はなく,首尾一貫した 信念体系を持つ必要もない。むしろ「私」や世界観は本来的に複数的で分裂したものである,と いうのである。こうした主張から翻って見れば,「自分らしさや自己同一性の回復・成長・安定化」 や「世界観・価値観・信念体系の調和・再構築」という目的は,ケア対象者の在り方を安定性や 整合性の内に囲い込んでしまう危険性を孕んでいるとは言えないであろうか。 人生の意味や生きがいの再構築

「人生の意味や生きがいの再構築」がケアの目的とされる場合,そこではやはり,「人生の意味・ 生きがいを見出すことが望ましい」とする規範的認識が前提とされていよう。実際,窪寺は「生 きる意味は困難や苦難の中でも見つけ出せるものである。患者が困難や苦難があるから生きる意 味がないと言っても,それを真正面から受ける必要はない」とさえ述べている(60)。管見では,心 理療法・精神療法の領野でも,こうした認識に対する直接的な批判が為されているわけではない。 しかしながら,臨床事例を顧みると,患者は必ずしも生きがいを見出すに至るとは限らず(61),む しろ人生の意味など分からず終いであることの方が自然であると考える余地もあるではないか。 とりわけ人生の意味が言語的・知的に探究されるものとして想定されるとすれば,トランスパー ソナル心理学者の S. グロフが言うように,それこそ「生のプロセスのダイナミックな流れが妨 害され,阻止されていることを指し示す徴候」であるとも言える。グロフによれば,(言語的・知 的な意味の探究によってではなく)情緒的・生物学的な体験を通してしか,人は「人生を正当化」 することができないのである(62)。

或いはヒルマンは,「そこ〔精神病院〕では,生命を保護し,自殺を予防する目的で,あらゆる 種類の激しい心理的侮辱が,病める魂を『正常化』するために用いられる」と記している(63)。「生 きる意味や生きがいの再構築」は,この「心理的侮辱」としての「正常化」であるとも言えるの である。ちなみにヒルマンは,「問題は自殺に賛成か,反対かではなくて,それは心にとって何を 意味するか」であるとも述べている(64)。これに倣って言えば,「人生の意味や生きがいの再構築」 が目的化するとき,ケア対象者が感じている生きる意味のなさが,ケア対象者の心にとって何を 意味するか,という問いが等閑にされてしまうのである。

他者とのつながりの回復 スピリチュアルケア論では,しばしば他者とのつながりが実質的に道徳的価値を帯びたものと

して称揚されている。とりわけ谷山や大下のケア理論では,他者とのつながりは「縁」として理 解され,「究極的にはあらゆる存在が『わたし』と一体」とも主張されている(65)。他者とのつなが りに対するこうした肯定的・道徳的認識は,ケアの在り方にどのような影響を及ぼすであろうか。

藤井は,自己の存在の意味は二人称的関係性の中で見出されるとして,「ある特別養護老人ホー ムに毎日来る娘が,『私は母の世話をしに来ているのではない,私にとって母が必要なのだ』とい うのは,娘にとって『あなた』という関係性をもつ母親の存在が生きる上で必要だということを 意味している」と述べている(66)。しかし,まさにそうした二人称的関係が否定的様相を帯びてい る可能性は十分に考えられる。精神分析家の M. ルノーは,「喪の悲しみ」における無意識的罪責 感について次のように説明している。すなわち,「私たちが最も愛した人はまた,私たちの自由を 侵害し,私たちのナルシシズムに制限を加えたことでもって私たちが憎んだ人」である。しかも, そうした「人間の魂の深い両価性」が明らかになるのは「死に近づくとき」に他ならず,「多くの

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愛情や満足を与えてくれた人が死んで,その人の死が耐えられないような場合,同時にその人は, 無意識においてしばしば『あの人なんかいなくなればいい』と願ってきた人でもある」のである (67)。したがって,思いやりや優しさに満ちた献身的行為の背後に,攻撃性の抑圧や無意識的罪責 感への防衛があることは十分に予想される(68)。また,こうした精神分析的解釈仮説に依らずとも, 両価性や二律背反は心理療法一般において人間の経験を特徴づけるものとして重視されている (69)。グッゲンビュール曰く,「最も高貴な行為も私心のない澄みきった動機と,利己的な暗い動機 の両方に基づいている」(70)。つながりを愛や慈しみとのみ解釈する言説には,そうした矛盾や両 価性に対する認識が欠けており,あらゆる陰性感情を陽性感情の背後に隠蔽してしまう危険性が あるのである。

自律性や将来性の回復,希望や生きる力の増大 「自律性や将来性の回復」や「希望や生きる力の増大」といった目的の下では,喪失や絶望は

基本的に否定的なもの・克服すべきものと見なされている。例えば村田理論では,「死の接近」に よって失われたものを取り戻すこと,或いはその喪失の程度を「最少化」することがケアの目的 とされている(71)。大下の理論でも,スピリチュアルケアによって患者は「より大きく高次な意識 状態を獲得」し,「尊厳性」や「希望」の方向へ成長していくと考えられている(72)。

しかし,自律性や将来性,希望の回復に価値を置くことは,ケアの在り方として本当に適切な のであろうか。心理学者のやまだようこは,「能動性」や「獲得の過程」を重視する心理学理論(発 達理論)は,近代的な工業化と生産優先に強く連動した価値に規定されていると指摘しているが (73),スピリチュアルケアも同様の規定を被ってはいないであろうか。精神分析家の北山修は,「あ きらめ」という心性に関して次のように述べている。「彼ら〔西洋人〕はこの『あきらめ』を否定 的にとらえており,キューブラー=ロスの『死ぬ瞬間』でも,人が死ぬときの『あきらめ』に否 定的である。その直線的図式に描かれる死の臨床モデルにおいては,『あきらめ』は敗北であり, 『受容』という指針で主体性の発揮が示される」(74)。北山は,「うつろい」や「はかなさ」に対す る日本的美意識との関連から,「あきらめ」には「敗北」以上の肯定的ニュアンスが含まれている ことを示唆しているが,自律性や将来性の回復という目的は,こうした「あきらめ」と拮抗する ようにも思われる。つまり,スピリチュアルケア論においては,あくまで主体性や獲得の過程に 一義的な価値が置かれているかのようなのである。すると,神谷美恵子の次のような述懐に対し て,スピリチュアルケア論はどのように答えるのであろうか――「そもそも人間は社会に役立た なければ生きている意義がないのであろうか。『自立』や生きがいを感じること,他人から人間と して認められること,が人間の生きる意義に絶対に欠かせない条件なのであろうか。もしそうな らば,この基準からおちこぼれる人は老人に限らず,いくらもありそうだ。心身を病む人びと, 持って生まれた性格や悪い環境のために生きている意味を自分も感じられず,他人も認めにくい 人びとというものは少なからずあるものなのだ」(75)。自律性に一義的な価値を置き,回復可能性 を原理的に前提するケアモデルでは,このような人々の「生きる意義」を見出すことは困難であ ろう。

また,ヒルマンは「個人が『下に降りる』ことを許さない社会は,自分の深みを見出すことが 出来ないので,『成長』という見せかけでごまかしている躁的な気分障害という自我肥大した状態 に常にとどまらざるを得ない」と述べているが(76),希望の増大にはこの「躁的な気分障害」が含

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まれてはいないであろうか。ヒルマンによれば,デプレッション,すなわち凡そ希望とは対蹠的 な「力のなさ」や「重さ」の心的状態こそ,「深み」に至り魂を見出す通路である。希望にばかり 焦点化することは,この通路を閉ざすことにも等しいのである。

苦悩からの解放

「苦悩からの解放」という目的に関しては,常にその程度が問題とされるであろう。V. E. フラ ンクルは,「もしも徹底的に不快が削減されたり,徹底的に苦痛が制圧されるようなことがあれば, つまり,実存的に有意味な苦悩がその背後に秘められている不快や苦痛までもが制圧されるとす れば,それは自己自身を放棄してしまうに等しい」と述べているが(77),苦しみを生に必要なもの・ 除去不可能なものと見なす論者は少なくない。例えば,ユング派の分析家 W. ギーゲリッヒは「心 理療法の課題は困難の除去を求めることに存するのではない。心理療法においては,いかにして 苦しめられている状況を脱するかが問題なのではなく,逆にいかにして本来的に,真に,困難な 状況に入っていくかが課題となる」と述べている(78)。また,緩和ケアを専門とする心理療法家の 岸本寛史は,様々な患者との出会いを回顧して「苦しみを取り除くことではなく,苦しみの窮ま るところに幸福感は訪れる,と教えられたように思う」と述べ,「『幸福感』を目標や目的に設定 するのではなく,苦しみを共にするということをひたすらおこなっていくことが,逆説的ながら, 病うことと『幸福感』をつなぐ道になるのではないだろうか」と記している(79)。いずれの主張も, 苦悩からの解放という目的を相対化する視座となり得るであろう。 超越的存在・究極的次元とのつながりの回復

果たして「超越的存在・究極的次元とのつながりの回復」は,スピリチュアルケアの目的とし て妥当なのであろうか。精神科医の H. コーニックは,スピリチュアリティ(及び宗教)が患者 とその家族のウェルビーイングに与える否定的影響として,信仰を共有しない他者との間に緊張 や不調和が生じることや,その信仰において要求される美徳を十分に修められずに自己譴責や落 胆が生じること等を挙げている(80)。藤井も,クリスチャンである娘が病気の母親に「イエス・キ リストを信じて天国に行ってほしい」「信じればもっと楽になれる」といった言葉がけをして,信 仰を確立できない母親を精神的に追い詰めてしまうという事例を報告しているが(81),超越的他者 との関係性は,窪寺や大下が想定するように専ら癒しや支えになるものとは限らないのではない か。また,超越的・究極的関心が強化されることで,日常的で現実的な事柄へのまなざしが疎か になるような事態も考えられる。ヒルマンの影響を強く受けているホスピス医 M. カーニィは, 表層 surface すなわち身体的・心理的・社会的な症状にまつわる事柄と,深層 depth すなわち魂 の次元にまつわる事柄との関係性について,表層こそ深層へ至る道であり,魂の次元の経験とは 実のところ,表層的なケアによってもたらされる極めてシンプルで日常的な生活とのつながりに 他ならないと述べている(82)。究極的次元とのつながりの強調は,そうしたいわば表層的次元との つながりの重要さを軽視することになる危険性を秘めているとも言える。 スピリチュアルケアの目的に含まれる臨床的問題性

以上のように,心理療法・精神療法の知見を参照すると,そこにはスピリチュアルケアにおい て掲げられる目的(規範的認識)とは対照的な目的(規範的認識)が散見される。ここに,(従来 のスピリチュアルケア論のように)ケア対象者がどのような状態にあることが望ましいかを一意 的に定めることの危うさ,及びその危うさを回避するために有用な視座が浮上するのである。と

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ころで,「対話」と「寄り添い」という 2 つの目的は,ケア対象者に関してどのような状態が望ま しいかという判断を保留しているように思われる。少なくとも,「対話」と「寄り添い」には二者 心理学的な相互作用への視点が含まれており,一方向的な規範的認識を以てケア対象者の状態を 問題化することからは免れているのである。その代わりに,そこではケア提供者の在り方に関し て明確な望ましさが語られている。したがって,次にその望ましさの臨床的な妥当性を問うこと にする。

4.スピリチュアルケアの目的の臨床的妥当性2

まず,「対話」と「寄り添い」ということで,どのようなケアの在り方が想定されているのかを 改めて描き出してみたい。第一に「対話」であるが,伊藤によれば,スピリチュアルケアとは「対 話型ケア」である。そこではケア提供者からケア対象者への「診断」や「治療」が為されるので はなく,あくまで「存在論的には等価」な二者が対話を通して「新たな場」を創出することが試 みられる(83)。「その他者〔ケア提供者〕との関係性の中で,対話を通して自らの物語を『いまこ こ』で紡ぎ出すことが現代人のスピリチュアリティの表現」であり,「物語を生きる主人公として の語り手と,その物語によって自らの人生が揺さぶられる聴き手との関係には,ケアの力がある」 のである(84)。したがって,ケア対象者のみならずケア提供者自身も対話の中で大いに影響を受け るのであり,まさにその「自分自身を物語ること」により「聴き手が心を揺らしてくれる」とい う経験に,スピリチュアルケアの本領があるとされる(85)。

一方,藤井の言う「寄り添い」においては,ケア提供者がケア対象者に「何かをする」という 発想が徹底して斥けられる。「何かをする」,或いは「何かができる」という姿勢でケア対象者に 臨むことは,「何もできない自分自身に,なお存在意味を見いだすという重い課題に向き合ってい る」ケア対象者との間に隔たりを生むことにしかならないからである(86)。ケア提供者はむしろ, 自らの限界を受け入れ,「できない」一人の人間としてケア対象者の前に立たなければならない。 「寄り添い」とは「自らの価値観を問われながら,目の前の人をありのままに受け止め,そして 何もできないことを了解したうえで,なおそこに在ること」であり,「専門職者としてではなく, 一人の人間としての課題」なのである(87)。藤井によれば,そうした人が共にいてくれることで, 生きる意味や存在価値に関する「主観的意味づけ」の「大きな助けとなる」という(88)。

いずれの目的においても,ケア提供者自身が自らの心を揺さぶられる,自らの価値観を問い直 される,自らの限界に直面させられる,といった経験に開かれてあること,言い換えれば,専門 職者としての診断的・分析的な態度を括弧に入れ,可能な限り生身の人間として相手と出会うこ とが重視されていると言える。ケア対象者の自己物語の創出や「主観的意味づけ」といった作業 も,生身の人間としての出会い(関係性)を条件として,またそのような出会いを通して促進さ れると考えられているのである。

ところで,こうしたケアモデルは,C. ロジャースが描き出す対人援助関係に近いように思われ る。ロジャースはその論文「セラピーによるパーソナリティ変化の必要にして十分な条件」にお いて,建設的なパーソナリティ変化が起こる 6 つの心理学的条件を掲げているが,中でもセラピ ス ト の 態 度 に 関 し て は 「 一 致 c o n g r u e n c e 」「 無 条 件 の 肯 定 的 関 心 u n c o n d i t i o n a l p o s i t i v e r e g a r d 」 「共感 empathy」の 3 条件を挙げており,それ以外の専門的知識や技法が要求されるとは考えら

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スピリチュアルケアのケアモデルの検討 ―心理療法・精神療法の知見から―

れていない(89)。実際,精神分析で中核的な治療の契機と見なされる転移についても,ロジャース は「クライアント中心の心理臨床家の転移に対する反応は,そのクライアントの他のあらゆる態 度に対する反応と同じである。つまり,心理臨床家は理解して,受け入れようと努めるのである」 と述べ,分析的解釈の必要性を否定している(90)。ロジャースによれば,「セラピストが職業上の建 前や個人的な仮面をまとわず,その関係のなかで自分自身であればあるほど,それだけクライエ ントが建設的に変化し,成長する可能性が高くなる」のであり,さらにはそうして自己の内面に 接近したセラピストが「そこに存在している presence」というだけで,「クライエントにとって 解放的であり,援助的になっている」というのである(91)。これは,「対話」及び「寄り添い」が志 向するケアモデルと極めて類似したものであると言える。

しかし,我が国における心理療法・精神療法の歴史を振り返るとき,そこにはロジャース派の 著しい退潮が見受けられる。安村直己によれば,ロジャース派は「精神発達や症状形成,精神病 理のメカニズムなどを力動的に説明することをほとんど」せず,また,「セラピストが自分を無に してクライエントの言葉をただひたすら受け入れ,オウム返しを繰り返していればいいという, 極端に受動的で,素人でもできるようなセラピーだといった批判を招」いたため,「自分はロジャ ース派であると専門家の集まりの中で公言することがはばかられるような雰囲気まで」生じたの である(92)。このセラピスト(ケア提供者)の受動性・素人性に関する批判をより詳しく見るなら ば,例えば氏原寛は,ロジャース派のカウンセラーはクライエントを「ありのままに」理解しよ うとし過ぎ,クライエントに迎合的で,クライエントの承認と好意に繋がるような受け答えしか できなくなる傾向があると指摘している(93)。また,河合隼雄はロジャース派の受容という言葉に ついて,西洋では「カウンセラーの自我を崩すことがないことを自明のこととしている」のに対 し,日本では「カウンセラーの自我を崩してまで」クライエントを受容することが志向され,そ うした極端化された理想的受容の困難さを前に,結局はオウム返しのような形式的受け応えに堕 してしまうセラピストが多いと記している(94)。或いは木村敏は,ロジャース派(人間学派)にお ける診断の軽視は「基本的に誤り」であるとし,「治療が表面的な対症療法の限界をいくらかでも 超えて,病める人生そのものに眼を向けようとするならば,その病態の本質がどこにあるかにつ いての洞察と,そこから必然的に出てくる診断行為は,不可避の医学的な営みとなる」と主張し ている(95)。これらの批判をまとめると,ロジャース派のケアモデルはケア対象者やケア状況を理 解(診断)する理論的枠組みを欠いており,またそれを一因として,ロジャース派のカウンセラ ーは専ら受容する・共感するなどの受動的・追従的な態度に留まりがちになる,ということにな ろう。

心理療法・精神療法の領野では,こうしたロジャース批判を経て,診断及びその枠組み=理論 の重要性が改めて説かれるようになる。中でも土居健郎による「見立て」論は,その後の心理療 法・精神療法の診断観に最も影響を及ぼしたものの一つである。土居によれば,本来,診断とは 治療行為と地続きであるはずなのに,実態としては単なる病的現象の分類やレッテル貼りに陥っ ている。そうした状況を脱するために,診断と治療を繋ぐような概念的枠組み=「見立て」が想 定されなければならない。土居の定義に従えば,「見立て」には次の 4 つの特徴が認められる。第 一に,「見立て」は診断であると同時に,治療的働きを持つものでなければならない。第二に,「見 立て」の「もっとも本質的な部分」として,患者について「何が分かっていて何が分からないか」

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の区別をつけるという営みがある。第三に,「見立てる」ことの内には,専門家と患者の関係性の 評価が必然的に含まれてくる。そして第四に,「見立て」は「終始止むことなく」継続的に行われ る必要がある(96)。

ここで留意すべきは,こうした「見立て」の諸特徴のうち,「もっとも本質的な部分」は「分か っていることと分からないことの区別」である,とされている点である。土居は次のように述べ ている。「自然に起きる『わからない』感覚だけではなく,面接においては更に判断を積極的に停 止することにより,『わからない』感覚を涵養することも必要である」(97),或いは「精神科的面接 の勘所は,どうやってこの『わからない』という感覚を獲得できるかということにかかっている」 (98)。つまり,「見立て」とは「わかる」営みではなく,あくまでもケア対象者のことがいかに「わ からない」かを意識化する逆説的な営みなのである。

また,河合は「見立て」における専門家と患者の関係性の評価について,次のように論じてい る。すなわち,「見立て」とは常に「治療者とクライエントの間の人間関係」をその内に含み込み, 「治療者の主観的関与」を通して行われる。それゆえ,「見立てをするには,科学的診断と異なり, 治療者が自分自身のことをどれだけ知っているかが,大きい要因になってくる」(99)。さらに河合 は,「心理療法を行なうということは,自分が関与することによって,何らかの意味ある結果が得 られるだろうという『見立て』があってのことであるし,そこには,自分がコミットしてゆくと いう決意があるはずである」と述べている(100)。同様に氏原も,「見立てには,この人をクライエ ントとして引き受けることに意味があるのか,というカウンセラーのもっぱら主観的な吟味が含 まれ」るとし,「診断的には絶望的な人」にも「働きかけの可能性」を見ようとすること,究極的 には「明日のなくなった人たちと会うこと」に意味を見出そうとすることが,「見立て」であると 述べている(101)。つまり,「見立て」とはケア提供者の主観的な意味付けないし主体的な参与を不 可欠とするものなのである。

さらに,「見立て」についてしばしば指摘されることに,そのまなざしの双方向性が挙げられる。 ここで言う双方向性とは,「見立て」がケア提供者の側からだけではなく,ケア対象者の側からも 為されているということを指す(102)。例えば岸本は,「一方向的な,つまり治療者が患者のことを 見立てるような関係ではなく,『相互見立て』の関係にあることを認識しておく必要がある」と主 張している(103)。青木省三もまた,(「見立て」という用語を用いてはいないものの)「クライエン トも常に治療者を見て,治療者という人間がどのような人間であるかをアセスメントしようとし ているのを忘れてはならない。......その際のクライエントの観察力とアセスメント能力は,しば しば治療者を上まわることがある」と記している(104)。

以上のように,心理療法・精神療法においては,「わからなさ」の意識化やケア提供者の主体的 意味付け,或いはまなざしの双方向性等といった様々な要素を「見立て」概念に組み込むことで, 診断的な営みが単なる分類やレッテル貼りに陥る危険性を回避しようとする努力が為されている。 それは他方で,診断的営みを排除し,専ら実存的出会いを志向するロジャース派の診断不要論の 乗り越えとも言えるのである。こうした一連の議論を踏まえるならば,「対話」と「寄り添い」は, ロジャース批判や「見立て」論の展開を顧みないまま,いくぶん素朴にロジャース回帰を目指し ているようにも見えてくる。もちろん,伊藤にせよ藤井にせよ,あくまでスピリチュアルケアの 一義的な役割としてロジャース的な対人援助関係を措定しているのであり,決して診断不要論を

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唱えているわけではない。しかし,藤井が「究極的な苦しみに向き合うとき,専門職者に求めら れるのは,専門職者としての自分自身を手放し,一人の人間としてただその傍らに寄り添うこと なのである」と言い(105),伊藤が「診断型ケア」と「対話型ケア」を「全く次元の異なるケア」と して位置付けるとき(106),そこでは診断的まなざしと実存的出会いとが切り離され,一見相反する 両者をいかに繋げるかという「見立て」論的な視座が捨象されている。言い換えれば,伊藤・藤 井の議論では,スピリチュアルケアにおける実存的出会いの優位性が強調されるばかりで,診断 的まなざしと実存的出会いとの密接不可分な「絡み合い」(成田善弘)については言及がないので ある(107)。すると,ここに再びロジャース批判と同様の批判――診断的まなざしを欠いてはケア対 象者を理解するのに不足が生じ,またケア提供者が自らの主体性を発揮することが困難になるの ではないか,との批判――が浮上せざるを得ない。畢竟,「対話」や「寄り添い」を目的に掲げる ケアモデルは,診断的まなざしと実存的出会いの相互内在的な関係付け,或いは診断的まなざし の(「見立て」論的な)捉え直しによって補償されない限り,必ずしも臨床的妥当性を担保できな いと考えられるのである。

本節の最後に,精神分析家の松木邦裕の次の指摘を引いておきたい。松木によれば,精神分析 における諸々の専門的技法は「ややもすると万能感や人間らしさ,人間性という便利なことばで 処理したくなる対人援助職にいる私たちの無意識の願望充足的発想,たとえば,不幸から救い出 したい,よい体験をさせたい,よい臨床家と思われたい,早く治したい等々を戒めるものでもあ る」(108)。スピリチュアルケアにおける実存的出会いの探求に,どれほどケア提供者側の「無意識 の願望充足的発想」が含まれているかは定かではない。しかし,少なくともその可能性を懸念し 続けることが(「戒め」となる諸々の技法が存在しないだけに一層)必要なのではないであろうか。

5.おわりに

ここまで本論文では,心理療法・精神療法の知見を引き合いに出しつつ,スピリチュアルケア の目的の臨床的妥当性について検討してきた。その結果,スピリチュアルケアのケアモデルの多 くが一意的な「望ましい状態」の実現を目的として掲げており,かつその望ましさを自明化して しまう傾向があることが認められた。また,「対話」や「寄り添い」といった目的に関しては,実 存的出会いと診断的まなざしの連続性・相補性に関する理論が欠落しているという点が明らかに なった。

しかし,そうした問題点を省み,規範的認識の相対性や,実存的出会いと診断的眼差しの連続 性・相補性を組み込んだケアの目的を掲げようとすることは,スピリチュアルケアの営みを葛藤 に満ちた状況に追い込むように思われる。というのも,ケア対象者にとって何が望ましいのかを 一意的に定めることができなければ,ケア提供者自身,自らの関わり方を方向付けたり評価した りする基準や指標を定められないからである。また,「対話」と「診断」,「一人の人間」と「専門 職者」の双方の役割を同時的に引き受けようとすることは,小此木啓吾が言う「フロイト的態度」 と「フェレンツィ的態度」の間で引き裂かれてあることにも等しい(109)。すると,ケアの在り方が 極端に消極的なものと化したり,限りなく微妙で言語化不可能な営みとして神聖化されたりする 可能性も浮上する。だからこそスピリチュアルケアの臨床的役割を可視化するようなケアモデル の構築が必要であるとも言えようが,いずれにせよ,ここでは上述した問題が現在のケアモデル

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には認められるということを指摘するに留めておく。或いは,1ケア対象者を特定の望ましい状 態に囲い込もうとせず,かつ2ケア提供者が諸々の規範的態度(実存的出会いと診断的まなざし) の間で引き裂かれることを回避しようとしない,という否定的な要件を満たすことが,より臨床 的に妥当なケアモデル(ケアの目的)の在り方なのかもしれない。しかし,この点には事例研究 や他の様々なケアモデルの参照を踏まえたより綿密な考証が求められるであろう。

(1) C. ソンダース,M. ベインズ(武田文和訳)『死に向かって生きる――末期癌患者のケア・ プログラム』医学書院,1990 年,59 頁。

(2) 我が国では 1980 年代に全国各地に施設ホスピスが設立され,1990 年代に緩和ケア病棟が 医療保険制度に組み込まれている。また,2006 年の「がん対策基本法」制定以降,緩和ケ アの急􏰁な拡充が図られている。さらに 2012 年には,日本スピリチュアルケア学会により 「スピリチュアルケア師」資格が創設され,スピリチュアルケアそのものの制度化も推進 されている。

(3) 実際,臨床スピリチュアルケア協会や日本スピリチュアルケア学会は,いずれも臨床牧会 教育委員会(Association for Clinical Pastoral Education)の提供するプログラムに準拠 してスピリチュアルケア専門職の養成を試みている。

(4) 市野川容孝『身体/生命』岩波書店,2000 年,47 頁。

(5) 神谷綾子「スピリチュアルケアということ」(カール・ベッカー編著『生と死のケアを考え

る』法蔵館,2000 年),243 頁。辻内琢也「スピリチュアリティの残照」(湯浅泰雄・春木 豊・田中朱美監修『科学とスピリチュアリティの時代――身体・気・スピリチュアリティ』 ビイング・ネット・プレス,2005 年),53 頁。

(6) 安藤泰至「『病いの知』の可能性――プロフェッショナリズムを超えて」(『医学哲学医学倫 理』第 23 巻,2005 年),76‐79 頁。

(7) 安藤泰至「現代の医療とスピリチュアリティ――生の全体性への志向と生の断片化への流 れとのはざまで」(国際宗教研究所編『現代宗教 2003』東京堂出版,2003 年),75 頁。

(8) 同上,78 頁。

(9) 安藤泰至「現代医療文化におけるスピリチュアリティの位相 スピリチュアリティの医療

化を批判しながら」(樫尾直樹編『文化と霊性』慶應義塾大学出版会,2012 年),71 頁。

(10) 同上,75 頁。

(11) こうした状況は,スピリチュアルケアの担い手の大部分が医療従事者であること(谷田憲 俊『患者・家族の緩和ケアを支援するスピリチュアルケア――初診から悲嘆まで』(診断と 治療社,2008 年),112 頁),及び,村田久行のケアモデルが医療従事者の間で広く受容さ れていること(和田信「痛み」(『臨床精神医学』第 44 巻第 5 号,2015 年),755 頁)によ ってもたらされている。本論にて詳述するように,村田の理論はスピリチュアルペインを 取り除くことに焦点化されたものなのである。

(12) 窪寺俊之『スピリチュアルケア学概説』三輪書店,2008 年,58 頁。 - 190 -


スピリチュアルケアのケアモデルの検討 ―心理療法・精神療法の知見から―

(13) 窪寺俊之「スピリチュアルケア」(石居基夫編著『スピリチュアルペインとそのケア』キリ スト新聞社,2015 年),99 頁。

(14) 窪寺俊之『スピリチュアルケア学概説』三輪書店,2008 年,62 頁。

(15) 窪寺によれば,超越的存在との関係こそが「わたしの人生の土台となってわたしを支え, あるいはわたしの生存の枠組みとなって生を意味づけし,人生を方向づけする価値観を作

っている」という(同上,23 頁)。

(16) 谷山洋三「仏教を基調とした日本的スピリチュアルケア論」(谷山洋三編著『仏教とスピリ

チュアルケア』東方出版,2008 年),23 頁。

(17) 具体的には,1人:家族,親戚,友人,2去:過去の自分,人生の結果,3今:現在の自分,

本当の自分,4来:未来の自分,人生の課題,5事:環境,芸術,活動,6理:宇宙の真理, 自然の摂理,7神:神,仏,霊,来世,8祖:先祖,亡くなった家族・近親者・友人,とい う 8 つの要素が挙げられている(同上,25‐26 頁)。

(18) 同上,24 頁。

(19) 村田久行「終末期患者のスピリチュアルペイン構􏰀解明への現象学的アプローチ」(『京都

ノートルダム女子大学研究紀要』第 35 巻,2005 年),128‐129 頁。

(20) 同上,129 頁。

(21) 同上,129 頁。

(22) 村田久行「終末期患者のスピリチュアルペインとそのケア――現象学的アプローチによる

解明」(『緩和ケア』第 15 巻第 5 号,2005 年),389 頁。

(23) 同上,389‐390 頁。

(24) 同上,390 頁。

(25) 大下大圓編著『実践的スピリチュアルケア――ナースの生き方を変える“自利利他”のこ

ころ ナースの潜在力を高める/看護ケアに活かせる』(日本看護協会出版会,2014 年),

14 頁。

(26) 同上,57 頁。

(27) 岡本拓也『誰も教えてくれなかったスピリチュアルケア』医学書院,2014 年,153 頁。

(28) 同上,177 頁。

(29) 同上,177 頁。

(30) 谷田憲俊・大下大圓・伊藤高章編『対話・コミュニケーションから学ぶスピリチュアルケ

ア――ことばと物語からの実践』診断と治療社,2011 年,5 頁。

(31) 同上,9 頁。

(32) 小西達也「グリーフケアの基盤としてのスピリチュアルケア」(高木慶子編著『グリーフケ ア入門――悲嘆のさなかにある人を支える』勁草書房,2012 年),94 頁。

(33) 同上,94‐98 頁。

(34) 同上,101‐110 頁。

(35) 伊藤高章「スピリチュアリティと宗教の関係 スピリチュアルケアにおけるキリスト教的

シンボルの役割」(谷山洋三・伊藤高章・窪寺俊之『スピリチュアルケアを語る――ホスピ ス,ビハーラの臨床から』関西学院大学出版会,2004 年),50‐53 頁。

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(36) 伊藤高章「チーム医療におけるスピリチュアルケア」(窪寺俊之・平林孝裕編著『スピリチ ュアルケアを語る 続――医療・看護・介護・福祉への新しい視点』関西学院大学出版会, 2009 年),51 頁。

(37) 伊藤高章「スピリチュアルケアの三次元的構築」(鎌田東二企画・編『講座スピリチュアル 学 第1巻 スピリチュアルケア』ビイング・ネット・プレス,2014年),20‐21頁。

(38) 同上,34 頁。

(39) 同上,35 頁。

(40) 同上,36 頁。

(41) 谷田憲俊・大下大圓・伊藤高章編『対話・コミュニケーションから学ぶスピリチュアルケ

ア――ことばと物語からの実践』診断と治療社,2011 年,31 頁。

(42) 藤井美和『死生学と QOL』関西学院大学出版会,2015 年,189 頁。

(43) 同上,190 頁。

(44) 同上,191 頁。

(45) 同上,192 頁。

(46) 同上,193 頁。

(47) 同上,193 頁。

(48) ユングにとって,「自己」とは意識と無意識の両者を含む心の全周,すなわち決して十全に

意識化することは叶わないような「人生の目標」としての完全性・統合性を指す(C. G. ユ ング著・A. ヤッフェ編(河合隼雄・藤繩昭・出井淑子訳)『ユング自伝――思い出・夢・思 想 2』みすず書房,1973 年,271‐272 頁)。

(49) D. W. ウィニコット(牛島定信監訳・倉ひろ子訳)『ウィニコット著作集 8 精神分析的探 究 3 (子どもと青年期の治療相談)』岩崎学術出版社,1998 年,186‐187 頁。

(50) D. W. ウィニコット(橋本雅雄訳)『遊ぶことと現実』岩崎学術出版社,1979 年,91 頁。 ここで言う創􏰀性とは,乳児の抱く万能感に由来する普遍的な感覚を指している。具体的 には,乳児は乳房を欲すると,母親によってその欲求を感じ取られ,乳房を差し出される。 乳児はまさに今欲しているという状態で乳房を与えられるので,自らそれを創􏰀したと錯 覚する。つまり,「母親の共感的反応が乳児に万能感を体験させ」,また「乳児は満足の体験 を創􏰀する魔術的能力を感じ」るのである(S. A. グロールニック(野中猛・渡辺智英夫訳) 『ウィニコット著作集 別巻 2 ウィニコット入門』岩崎学術出版社,1998 年,90 頁)。 やがて外的現実と内的現実の区別がつくようになるにつれ,乳児はこの万能感が錯覚であ ることに気づいてゆくわけであるが,いずれにせよウィニコットの言う創􏰀性とは「赤ち ゃんの体験に帰属する生活を通して保持されるもの」,すなわち早期発達の段階の,かつて 乳房を創􏰀したという感覚に由来する錯覚の自由を持ち続けることなのである(D. W. ウ ィニコット(牛島定信監修・井原成男・上別府圭子・斉藤和恵訳)『ウィニコット著作集 3 家庭から社会へ』岩崎学術出版社,1999 年,28 頁)。

(51) D. W. ウィニコット(橋本雅雄訳)『遊ぶことと現実』岩崎学術出版社,1979 年,4 頁。

(52) 同上,66 頁。

(53) J. ヒルマン(入江良平訳)『魂の心理学』青土社,1997 年,318‐319 頁。

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スピリチュアルケアのケアモデルの検討 ―心理療法・精神療法の知見から―

(54) 同上,318 頁。

(55) J. ヒルマン(河合俊雄訳)『元型的心理学』青土社,1993 年,92 頁。

(56) 魂を特定の中心へと収斂させないということは,言い換えれば,魂に関して発達段階を想

定しないということである。河合俊雄によれば,「ヒルマンは心理療法と宗教の違いを魂 (soul)と精神(spirit)の区別として捉えていく。魂が超越を求めず,同じ所に繰り返し 立ち帰ってそれを深めようとするのに対して,精神は超越を求めて高く舞い上がり,ゴー ルを目指そうとする。究極の目標があるからこそ,目標への直線的な動きや,発達の段階 という考え方も生じてくるのである。しかし魂の立場からすると究極の目標はないので, 発達の段階というものも存在しない。それゆえに元型的心理学は発達的見方に反対する」 (同上,178 頁)。

(57) A.グッゲンビュール・クレイグ(山中康裕監訳)『老愚者考――現代の神話についての考 察』新曜社,2007 年,78‐82 頁。

(58) 同上,105 頁。

(59) 同上,109‐127 頁。

(60) 窪寺俊之『スピリチュアルケア学概説』三輪書店,2008 年,62 頁。

(61) 例えば岡部健は,次のような事例を報告している。「T さんは当時,結核手術後の慢性呼吸

不全のなかで肺炎を患っていた。私〔岡部〕は痰を出すために気管を切開し,人工呼吸器管 を挿入したままの状態で,自宅でも痰を吸引できるようにした。......しかし二年余り経っ たある日,T さんは『もういい』と言った。若くて頑張っているあんたをみて,我慢しなが ら治療を受けてきた。しかし,もう治療は望まない。自分の結核はシベリア抑留時代以来 のもので,友人はみなシベリアで死んだ。友人たちとはあの世にいかなければ会えない。 それをわかってくれ。この状態では家族に迷惑をかけるだけで,自分に生きている意味は ない。しかし自殺は抵抗がある。だから挿入した管を外して自然に逝かせてくれ。T さんは そう私に訴えた」(岡部健・竹之内裕文編・清水哲郎監修『どう生きどう死ぬか――現場か ら考える死生学』弓箭書院,2009 年,18 頁)。生きる意味とは必ずしも死ぬ意味と異なら ないのではないか,という問いさえも喚起されるような局面である。

(62) S. グロフ(吉福伸逸・星川淳・菅靖彦訳)『脳を超えて』春秋社,1988 年,242 頁。

(63) J. ヒルマン(樋口和彦・武田憲道訳)『自殺と魂』創元社,1982 年,16 頁。

(64) 同上,34 頁。

(65) 谷山洋三「スピリチュアルケアの構􏰀 窪寺理論に日本の仏教者の視点を加える」(窪寺俊

之・平林孝裕編著『スピリチュアルケアを語る 続――医療・看護・介護・福祉への新しい 視点』関西学院大学出版会,2009 年),88 頁。また,井上ウィマラは,スピリチュアルケ アを受けると「自分を赦し,他者を赦す」「『ありがとう』と感謝の言葉を伝える」「『愛して いるよ』『大好きだよ』という思いを伝える」といった「人生で大切な仕事」を行うことが できると述べている(井上ウィマラ「終末医療における「スピリチュアルケア」の可能性」 (中央学術研究所編『宗教と終末医療』佼成出版社,2009 年),92‐93 頁)。いずれの「仕 事」も一見して著しく道徳主義的である。

(66) 藤井美和「生命倫理とスピリチュアリティ 死生学の視点から」(窪寺俊之他編著『生命倫 - 193 -


宗教学年報 XXXIV

理における宗教とスピリチュアリティ』晃洋書房,2010 年),19 頁。

(67) M.ルノー(加藤誠訳)『緩和ケア――精神分析になにができるか』岩波書店,2004年,26‐

27 頁。

(68) 同上,27‐28 頁。

(69) 桑原知子『カウンセリングで何がおこっているのか――動詞でひもとく心理臨床』日本評

論社,2010 年,5 頁。

(70) A.グーゲンヴィル=クレイグ(樋口和彦・安溪真一訳)『心理療法の光と影――援助専門

家の〈力〉』創元社,1981 年,17 頁。

(71) 田村恵子・河正子・森田達也編『看護に活かすスピリチュアルケアの手引き』青海社,2012

年,41‐42 頁。

(72) 大下大圓編著『実践的スピリチュアルケア――ナースの生き方を変える“自利利他”のこ

ころ ナースの潜在力を高める/看護ケアに活かせる』日本看護協会出版会,2014年,57

頁。

(73) やまだようこ「生涯発達をとらえるモデル」(無藤隆・やまだようこ編『講座生涯発達心理

学1 生涯発達心理学とは何か――理論と方法』金子書房,1995年),74‐91頁。

(74) 北山修『幻滅論』みすず書房,2012 年,142 頁。

(75) 神谷美恵子『ケアへのまなざし』みすず書房,2013 年,76‐77 頁。

(76) J. ヒルマン(河合俊雄訳)『元型的心理学』青土社,1993 年,77 頁。

(77) V. E. フランクル(山田邦男・松田美佳訳)『苦悩する人間』春秋社,2004 年,24 頁。

(78) W. ギーゲリッヒ(河合俊雄訳)「子どもの救助あるいは時間の横領――意味への問いにつ

いて」(『思想』第 759 号,1987 年),32 頁。

(79) 岸本寛史『緩和ケアという物語――正しい説明という暴力』創元社,2015 年,139 頁。

(80) Harold G. Koenig, Spirituality in Patient Care: Why, How, When, and What (West

Conshohocken, Templeton Press, 2002), pp. 136-137.

(81) 藤井理恵・藤井美和『たましいのケア――病む人のかたわらに』いのちのことば社,2000

年,58‐59 頁。

(82) Michael Kearney, Mortally Wounded: Stories of Soul Pain, Death and Healing (New

Orleans, Spring Journal, 2007), p. 48.

(83) 谷田憲俊・大下大圓・伊藤高章編『対話・コミュニケーションから学ぶスピリチュアルケ

ア――ことばと物語からの実践』診断と治療社,2011 年,31 頁。

(84) 伊藤高章「スピリチュアルケアの三次元的構築」(鎌田東二企画・編『講座スピリチュアル

学 第1巻 スピリチュアルケア』ビイング・ネット・プレス,2014年),35頁。

(85) 同上,37 頁。

(86) 藤井美和『死生学と QOL』関西学院大学出版会,2015 年,190 頁。

(87) 同上,193‐194 頁。

(88) 同上,194 頁。

(89) ロジャーズ著・H. カーシェンバウム,V. L. ヘンダーソン編(伊東博・村山正治監訳)『ロ

ジャーズ選集――カウンセラーなら一度は読んでおきたい厳選 33 論文 上』誠信書房, - 194 -


スピリチュアルケアのケアモデルの検討 ―心理療法・精神療法の知見から―

2001年,267頁。一致とは「自由にかつ深く自己自身であり,現実に経験していることが, 自己自身の気づきとして正確に表現されていなければならない」ということであり,無条 件の肯定的関心とは「セラピストがクライエントの経験しているあらゆる局面を,そのク ライエントの一部として温かく受容しているという経験をしている」ことである。また, 共感とは「クライエントの私的世界をそれが自分自身の世界であるかのように感じとり, しかも『あたかも......のごとく』という性質(‟as if” quality)をけっして失わない」こと である(同上,270‐274 頁)。

(90) C. ロジャーズ(保坂亨・諸富祥彦・末武康弘共訳)『クライアント中心療法』岩崎学術出版 社,2005 年,200 頁。

(91) ロジャーズ著・H. カーシェンバウム,V. L. ヘンダーソン編(伊東博・村山正治監訳)『ロ ジャーズ選集――カウンセラーなら一度は読んでおきたい厳選 33 論文 上』誠信書房, 2001 年,165 頁。

(92) 安村直己『共感と自己愛の心理臨床――コフート理論から現代自己心理学まで』創元社, 2016 年,88 頁。

(93) 氏原寛『カウンセラーは何をするのか――その能動性と受動性』創元社,2002 年,133‐ 137 頁。

(94) 河合隼雄「日本における心理療法の発展とロージャズ理論の意義」(『現代のエスプリ』374 号,1998 年),183‐184 頁。

(95) 木村敏『木村敏著作集 5 精神医学論文集』弘文堂,2001 年,342‐343 頁。

(96) 土居健郎『「甘え」理論と精神分析療法』金剛出版,1997 年,174‐176 頁。

(97) 土居健郎『新訂 方法としての面接――臨床家のために』医学書院,1992 年,35 頁。

(98) 同上,29 頁。

(99) 河合隼雄『臨床心理学ノート』金剛出版,2003 年,17‐19 頁。

(100) 同上,18 頁。

(101) 氏原寛「心理臨床の立場から」(氏原寛・成田善弘共編『臨床心理学2 診断と見立て――

心理アセスメント』培風館,2000 年),18‐19 頁。

(102) 李敏子『ファーストステップ心理的援助――子どものプレイセラピーから思春期の面接ま

で』創元社,2011 年,30 頁。

(103) 岸本寛史『緩和のこころ――癌患者への心理的援助のために』誠信書房,2004 年,113 頁。

(104) 青木省三「初回面接で必要な精神医学的知識」(『臨床心理学』第 1 巻第 3 号,2001 年),

309 頁。

(105) 藤井美和『死生学と QOL』関西学院大学出版会,2015 年,191 頁。

(106) 伊藤高章「チーム医療におけるスピリチュアルケア」(窪寺俊之・平林孝裕編著『スピリチ

ュアルケアを語る 続――医療・看護・介護・福祉への新しい視点』関西学院大学出版会,

2009 年),55 頁。

(107) 精神療法家の成田善弘は,境界性パーソナリティ障害の患者との面接を通して,患者が求

める「人間と人間としての関係」(実存的出会い)と「医者と患者の関係」(診断的まなざ し)との「二重の関係」の絡み合いを生き延びることが治療者の役割なのではないか,との

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宗教学年報 XXXIV

考察を展開している(成田善弘『精神療法の深さ――成田善弘セレクション』金剛出版,

2012 年,114‐117 頁)。

(108) 松木邦裕『精神分析臨床家の流儀』金剛出版,2010 年,23‐24 頁。

(109) 小此木によれば,フロイト的態度とは「禁欲規則 abstinence rule」「分析の隠れ身 analytic

incognito」「中立性」「受け身性」「医師としての分別」等に依拠する知性優位・合理主義的 な態度であり,フェレンツィ的態度とは「柔軟性」「人間的な情緒交流」「愛情のこもった働 きかけ」等を重視する情緒的で人間的な態度である(小此木啓吾「フロイト対フェレンツ ィの流れ」(『精神分析研究』第 44 巻第 1 号,2000 年),28‐29 頁)。

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