ダライ・ラマ 14 世における. 祈りとモダニティ
辻 村 優 英
(京都大学大学院人間・環境学研究科)
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(和文要旨)
本稿は、ダライ・ラマ 14 世が公の場で多くの人々に語りかける祈りの分析を通して、彼
の宗教観を明らかにすることを目的としている。彼によると宗教は人間にとって必ずしも
必要なものではない。不可欠なのは、むしろ、他者の役に立とうとする心の質である。そ
の上で、宗教の役割はそのような心の質を育むことにある。われわれは、緊密な相互依存
関係によって成り立っているモダニティを生きている。そうであるからこそ、他者の幸福
に対して積極的に関心を抱き、責任感を持たねばならない。それはもはや宗教の問題では
なく、われわれの生き残りをかけた現実問題である。このような観点に立つ彼の祈りは「宗
教の心であり、中心点」をなすものではなく、「人間の心であり、中心点」をなすものであ
る。そして、この転回をもたらしたものは、モダニティの現実であった。
(SUMMARY)
The purpose of this paper is to bring out the view of the 14th Dalai Lama on religion. This topic is considered through the analysis of his prayers. We are not concerned
with his Buddhist ritual prayers, but the prayers that he stated publicly. According to the Dalai Lama, it is not necessary for everyone to be a religious believer. But, spirituality is essential. We need spirituality concerned with some qualities of human spirit such as love, compassion, a sense of responsibility and so on. It is what brings happiness to both self and others. The role of religion is to develop such spirituality. We live in modernity, the world that is becoming smaller and increasingly interdependent. Therefore, we should have concern and a sense of responsibility for happiness of others. This is not a question of religion, but rather a question of our own survival. Standing this ground, the prayers of the Dalai Lama are not the heart and the central point of “religion”, but “humanity”. What brings this turn is the reality in modernity.
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はじめに
宗教に訴えることなく、いかにしてすべての人々の役に立つことができようか1。
第 14 世ダライ・ラマ2(sku phreng bcu bzhi pa’i ta’ la’i bla ma、1935 年生まれ。以
下、ダライ・ラマと略す)の主たる関心はここにある。「すべての人々の役に立ちた
い」という真率な願いには、誰しも畏敬の念を抱くであろう。しかしながら、「宗
教に訴えることなく」という条件に接するとき、われわれは立ち止まらざるをえな
い。この条件は、チベット仏教という宗教の最高指導者としての足場に抵触するも
のと思われるからである。まさかダライ・ラマは宗教が無縁だと考えているわけで
はあるまい。ならば、彼は宗教に対していかなる見解を持っているのであろうか。
この問いは、オウム事件や 9・11 テロ事件によってわれわれに突きつけられた、宗
教の役割に対する疑念とも結びつくであろう。このようなテロ事件を耳にすると、
あるいは宗教とは暴力に転化しうる危険で怪しげなものであるというネガティヴ
な観念を抱きかねないし、あるいは自らの宗教は善で他の宗教は悪であるという誤
った対立図式にも導かれかねない。
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1 Dalai Lama, Ethics for the New Millennium, The Berkley Publishing Group A Division of Penguin Putnam Inc, 1999, p. 20. 和訳:ダライ・ラマ著、塩原通緒訳『幸福論』角川春樹事務所、
2000 年。
2 本名は、ジャンペル・ンガワン・イェシェ・テンジン・ギャツォ( ’jam dpal ngag dbang blo
bzang ye shes bstan ’dzin rgya mtsho)。ダライ・ラマの「ダライ」はモンゴル語で「海」を意
味し、「ラマ」はチベット語で「上師」を意味する。観世音菩薩の「化身」であると信じられて
おり、その初代から数えると 74 代目である。一般的に「活仏」という言葉が当てられているが、
これは誤りであるとダライ・ラマ自身が指摘している。「活仏」という中国語は「生きている仏
陀」を意味するが、チベット仏教ではそのようなことを認めていない。「化身(sprul sku)」と
するのが正しい[Dalai Lama, Freedom in Exile, London: Abacus, UK, 2005 (1990), pp. 1-2. 和
訳:ダライ・ラマ著、山際素男訳『ダライ・ラマ自伝』文藝春秋、1992 年]。チベット人はダ
ライ・ラマのことを「ダライ・ラマ」とは呼ばず、「ギャルワ・リンポチェ(rgyal ba rin po che、
仏陀のような宝)」や「コンサ・キャプゴン・チェンポ・チョ(gong sa skyabs mgon chen po mchog、
最上の偉大なる守護者)」などの尊称で呼ぶ。1949 年に中国軍のチベット侵攻により情勢が悪
化したため、1950 年に本来ならば 18 歳のところを 15 歳で政権の座に就く。1959 年 3 月 10 日
にラサでチベット人の民族蜂起が起こったが中国軍によって武力鎮圧され、亡命を余儀なくさ
れる。北インドのダラムサラに亡命チベット政府(btsan byol bod gzhung)を樹立し、チベッ
ト問題の解決と壊滅的な打撃を受けたチベット文化の保全に尽力する。一貫した非暴力主義が
評価され 1989 年にノーベル平和賞が授与された。
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ダライ・ラマが信じている宗教の本質は何なのか。本稿の目的はこれに対する見解を明らかにすることにある。その際に重要なのは、彼の「祈り」である。言うま
でもなく祈りは「宗教の心であり、中心点」3をなす。そして祈りが宗教の核心にあ
るならば、「宗教に訴えることなく、すべての人々の役に立つ」ようにというダラ
イ・ラマの「祈り」を聞くと、宗教ではない「祈り」があるのだろうかという疑問
に突き当たらざるをえない。しかし、ダライ・ラマはまさに宗教という枠を超えん
とする「祈り」を捧げ、われわれと共に祈ることを望んでいるのである。では、い
かにして宗教を超えんとしているのだろうか。この点を明らかにするには考慮に入
れなければならない要素がある。それがモダニティ4である。ダライ・ラマにとって
モダニティは、宗教とは別次元にあるものではなく、むしろ積極的に関りあってい
かなければならないものであった。ダライ・ラマとモダニティの邂逅がもたらした
もの、それが、「人間の心であり、中心点」をなす「祈り」への転回である。
1、ダライ・ラマにおける祈りの事例
本稿はダライ・ラマがチベット仏教の法王として執り行う儀礼における祈りを扱
うものではない。というのも、指導者の祈りとして重要な意味を持つのは、その言
葉が人々に向かって語られる時だからである。よって、声明や演説、書籍などで人々
に対して語り、文書として確認することのできる祈りを対象にする。特にダライ・
ラマ自身が祈りであると明白にしている箇所に着目するため、「祈り」にあたる英
語の prayer および、チベット語の smon lam を道標として考察する。
ここでいう「祈り(prayer、および smon lam)」は瞑想5を含む広義の祈りではない。
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3 Heiler, Friedrich 1969 (1918), Das Gebet, München: Ernst Reinhardt Verlag, S. 2..
4 「およそ十七世紀以降のヨーロッパに出現し、その後ほぼ世界中に影響が及んでいった社会
生活や社会組織の様式[Giddens, Anthony, The Consequences of Modernity, Polity Press, UK,
1990, p. 1. 和訳:ギデンズ、アンソニー著、松尾精文・小幡正敏訳『近代とはいかなる時代か?』
而立書房、2006 (1993) 年、13 頁]」と概括的に定義されるが、後述するように本稿において
は、世俗化・個人化・グローバリゼーションによって特徴付けられるものである。
5 瞑想(meditation)にあたるチベット語の sgom は、特定の実践や対象に対する親しみが深ま
っていくことを意味しており、「親しむ(familiarization)」というプロセスが非常に重要なも
のとなる。なぜなら、選ばれた対象への親しみが発展すれば、それに従って心が高められ成熟
するからである[Dalai Lama, The Good Heart, foreword, introduction and Christian context by
Laurence Freeman, OSB, translated from the Tibetan and annotated by Geshe Thupten Jinpa,
edited and with a preface by Robert Kiely, London: Rider, 2002 (1996), p. 46. 和訳:ダライ・ラマ著、中沢新一訳『ダライ・ラマ、イエスを語る』角川書店、1998 年]。sgom は、「修習」と宗教と倫理 7 辻村:ダライ・ラマ 14 世における祈りとモダニティ
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「真なる言葉の祈り(bden tshig smon lam)」6と題されたダライ・ラマ 14世
による祈りの言葉に「三世の仏陀・菩薩・弟子達よ、私の真なる願いを聞き入れた
まえ」7とあるように、請願および誓願を中心とし、それに応答する対象として何ら
かの人格的要素を有すると考えられる存在(仏陀8・菩薩・法・僧伽など)9が措定さ
れている狭義の祈りである。
さて、人々に語られる祈りを扱うにしても、一括りにすることはできない。という
のも、「A:ダライ・ラマが個人的に捧げる祈り」を公の場で述べたものと、「B:
他の人々と分かち合いたいとダライ・ラマが望む祈り」という性格上の違いがある
からである。以下の事例において、前者はチベット人に対して発言したもので構成
されており、後者はすべての人々に対して発言しているものとなっている。また、
ダライ・ラマの祈りの中身は次の3つの要素から成り立っている。すなわち①祈る
対象、②祈られる対象、③祈る内容である。①祈る対象からは、ダライ・ラマの宗
も訳される。
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6 Dalai Lama, “bden tshig smon lam”, nyer mkho’i zhal ’don kun phan nyi ma zhes bya ba bzhugs so,
Delhi: bod gzhung shes rig dpar khang, 2005 (2004), pp. 425-427.
7 Ibid., p. 425.
8 仏陀に祈りを捧げるとき、仏陀とはいかなる存在として考えられているのかが問題となる。
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なぜなら歴史上に現れた仏陀の存在は涅槃によって終わったはずだからである。そうであるな
らば、存在しない仏陀に祈っても意味がない。しかしながらチベット仏教では三身説をとるの
で、それはあくまで応身(あるいは化身)としての仏陀の存在が終わったのであって、彼の意
識や心の流れは報身として続いているとする。そして有情を助けるのにもっとも適した形での
出現(emanation)を続けているので、仏陀の臨在は今もあることになる[Dalai Lama, op. cit.
2002 (1996), p. 119.]。よって、祈りの対象は報身としての仏陀に対して向けられたものである
といえる。ただし、ここでいう仏陀は、いわゆる先達や導き手であって、キリスト教における
神のような人間とは隔絶された到達し得ない絶対他者ではないと考えられる。というのも、大
乗仏教ではわれわれも仏陀になれると説いているからである。また、仏陀の加持の力が有情の
苦を滅することはできず、有情が自ら苦の原因をなくさねばならないとダライ・ラマは考えて
いる[ダライ・ラマ著、マリア・リンチェン訳『ダライ・ラマ 慈悲の力』春秋社、2004 年、
152 頁]。
9 ここでは三宝における法を人格的存在の範疇に敢えて入れてある。というのも、「真なる言葉
の祈り」の中には、「三宝の慈悲(mchog gsum thugs rje)[Dalai Lama, op. cit., 2005 (2004),
p.427]」という言葉が出てくるからである。この用例からすると、「法の慈悲」という言い方
も可能ということになる。三宝の法とは道諦と滅諦の2つから構成されているものであり、そ
の両者の究極的な側面が仏陀の法身であるとされる[ダライ・ラマ 14 世著、谷口富士夫訳『至
高なる道』春秋社、2001 年、21 頁]。とすると、法も仏陀の範疇に入ることとなり、何らかの
人格的要素を有する存在として描く事もできよう。このように考えれば、「法の慈悲」、あるい
は「三宝の慈悲」という言い方も可能であろうし、三宝に対して祈願するというのもありえる
であろう。
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教上の立場および宗教に対する見解が明らかになる。②祈られる対象からは、ダラ
イ・ラマが関心を向ける方向と範囲が明確になる。③祈る内容からは、ダライ・ラ
マが関心を抱いている内容が明確になる。
まず、チベット人に対して発言されたもので構成されている、「A:ダライ・ラマ
が個人的に捧げる祈り」を取り上げる。周知の通り 1959 年 3 月 10 日にラサにおい
て中国の侵略に対する民族蜂起が起き、ダライ・ラマは亡命することとなった。そ
の日を記念して毎年 3 月 10 日にダライ・ラマは声明を出しており、その最後の部分
で祈り(smon lam)が捧げられている。1960 年から 2005 年までの声明を収録した
『政治指針(chab srid lam ston)』10には、全部で 46 年分の声明が載せられているが、
そのうち最後の祈りの言葉が見られるのは 27 年分の声明11である。これらの声明を
3つの基準をもとにすると、①祈る対象によって2つに、②祈られる対象によって
2つに、③祈る内容によって1つに分類できる。
①祈る対象による類型は、ダライ・ラマが祈りを捧げる対象が明確になっている
ものと、なっていないものによって2つに分かれる。祈る対象が明確になっている
ものは次の3つの声明においてである。すなわち、1962 年の「すべて(の有情)に
(三)宝の加持があり、真実があらゆるところへ広まるように祈りを込めて」12、
1963 年の「すべての有情が仏陀の境地を得るように祈りを込めて」13、1968 年の「三
宝の慈悲が有情を捨て置くことなく、幸福をもたらすよう祈りを込めて」14である。
これら3つは仏法僧の三宝に対して祈りを捧げているのが明白になっているのに
対して、残りの 24 の声明は祈りを捧げる対象が述べられていない。また、声明に
おける三宝に対する祈りは、ダライ・ラマの亡命生活における初期の段階において
なされていることがわかる。
②祈られる対象による分類は、チベット人に対するものと、有情一般に対するも
のの2つに分けることができる。チベット人に対する祈りの典型としては、1996
年の「われわれの人々のいかなる苦しみも速く取り除かれるよう祈りを込めて」15とある。
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10 Dalai Lama, chab srid lam ston, Dharamsala: bod gzhung phyi dril las khungs, India, 2005a.
11 列挙すれば、1962、1963、1965、1966、1968、1970、1981、1984、1985、1986、1987、1988、
1989、1992、1993、1994、1995、1996、1997、1998、1999、2000、2001、2002、2003、2004、
2005 年の 27 年分である。
12 Ibid., p. 26.
13 Ibid., p. 30.
14 Ibid., p. 56.
15 Ibid., p.206.
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有情一般に対するものとしては、1989 年の「すべての有情が安寧であるよう
祈りを込めて」16とある。また、チベット人と有情一般を同時に対象としている事
例もある。それは 1998 年の「チベット人のいかなる苦しみも取り除かれることが
でき、すべての有情に幸福が訪れるよう祈りを込めて」17である。チベット人に対
象が絞られているものは、1992、1995、1996、1997、1999、2000、2001、2002、2003、
2005 年の 10 年分である。チベット人と有情が両方対象となっているものは 1998
年の1回のみで、残りの 16 年は有情一般のみに言及されているものである。3 月
10日声明以外で祈りが出てくるものとしては、1992年にダライ・ラマが発表した「将
来のチベットの政治指針と憲法の要点(ma ’ongs bod kyi chab srid lam ston dang/
rtsa khrims snyong don/)」18がある。そこには「すべての人およびチベット人に幸
福があるよう祈りを込めて」19とある。いずれにせよ、②祈られる対象においてチ
ベット人と有情という区別があるが、他者に向けられたものであるという点で共通
している。
③祈る内容は、他者の苦しみが除かれ幸福が訪れるようにという主旨で、すべて
の事例において一致している。
次に、チベット人に限らず、すべての人々に対しての発言で構成されている「B:
他の人々と分かち合いたいとダライ・ラマが望む祈り」について見てみよう。ここ
ではダライ・ラマの一般向けの著作に記されている2つの祈りの言葉を取り上げる
ことができる。それは、「いつでもこのようでありますように、今もそしてこれか
らもずっと。保護のないものたちの保護者に。道を失ったものたちの案内者に。海
を渡ろうとするものたちの船に。河を渡ろうとするものたちの橋に。危険に晒され
ているものたちの避難所に。明かりを持たないものたちの燈明に。逃げ場のないも
のたちの隠れ家に。そして、困っているすべてのものたちの奉仕者に」20というも
のと、「虚空があるかぎり、有情がいるかぎり、この世界に私もとどまって、有情
の苦しみを除くことができますように」21というものである。
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16 Ibid., p. 153.
17 Ibid., p. 224.
18 Dalai Lama, “ma ’ongs bod kyi chab srid lam ston dang/ rtsa khrims snyong don/”, bod du
lag bstar byas pa’i rgya dmar gyi srid byus dang bya thabs, bod gzhung phyi dril las khungs, 2002
(1992), pp. 274-291.
19 Ibid., p. 291.
20 Dalai Lama, op. cit., 1999, p. 237.
21 Dalai Lama, op. cit., 2005 (1990), p. 314.
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ここでの祈りを、先ほどの 3 つの基準を当てはめて分析すると次のようになる。
①祈る対象は言及されておらず明確化・特定化されていない。②祈られる対象は、
自己となっている。③祈る内容は自己が他者の苦しみを除くものとなれるようにと
いうことで一致している。
ここで、これまで見てきたダライ・ラマの祈りについて簡単な要約を以下に示す。
まず、2つに大きく分けることができた。それは「A:ダライ・ラマが個人的に捧げ
る祈り」(以下「A」)と、「B:他の人々と分かち合いたいとダライ・ラマが望む祈
り」(以下「B」)である。これらはさらに、①祈る対象(以下①)、②祈られる対象
(以下②)、③祈る内容(以下③)に細分化できた。「A」の①は、三宝に特定された
ものと、言及がなく不特定なものの2つであった。「A」の②は、チベット人と、す
べての有情の2つであったが、他者であるという点で共通していた。「A」の③は、
他者の苦しみが除かれ幸福が訪れるようにという主旨で、その主体は他者であった。
「B」の①は、言及がなく不特定であった。「B」の②は、自己であった。「B」の③
は、自己が他者の苦しみを除くものとなれるようにという主旨で、その主体は自己
であった。
2、祈る対象に対する沈黙が意味するもの
「A」であれ「B」であれ、①が示すものは、ダライ・ラマの宗教的立場と宗教に
対する見解である。ダライ・ラマの宗教的立場は言うに及ばずチベット仏教の最高
指導者である。そうであるがゆえに、「A」の3つの事例において仏陀・法・僧伽の
三宝に対して祈りが捧げられていたのである。
しかし、着目すべきところはここではない。むしろ、「A」「B」の事例における
大半の祈りにおいて、祈る対象に言及せず不特定なままにしてあるということこそ
が、極めて重要なのである。この祈る対象に対する沈黙のなかに、ダライ・ラマの
宗教に対する見解が映されているといえる。とはいえ、このことは、祈りの対象が
「無い」ということではない。そうではなく、言葉によって表に出していないだけ
である。その祈りを聞き、共有する人々の多様な存在を、祈る対象に対する沈黙を
もって表しているのである。このことは次のことを意味する。すなわち、その祈り
を共有する者にとって、祈りの対象を選択する可能性に開かれているということで
ある。この対象の選択可能性は、特に「B」において重要な意味を持っている。な
ぜならば、「B」はすべての人々と共有できる祈りであるとダライ・ラマが認めているものだからである。
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すべての人々と祈りを共有するためには、特定の宗教によっ
て特徴付けられる祈りの対象が明言され、指定されていてはならない。仮に三宝が
明言されていれば、信仰のない人や仏教以外の信徒にとって、その祈りに対して抵
抗があるかもしれないからである。これではすべての人々と祈りを共有することは
できない。この問題を解決するにはどうすればよいか。それは、祈りの対象に言及
せず沈黙することによって、その祈りを共有する人々に委ねるのである。そうする
ことによって、その沈黙のなかにどんな対象を置くことも可能になる。祈りを共有
する者は自身の宗教的立場にしたがって、何か特定の対象を置くことができる。ま
た、仏陀やキリストといった具体的で明確に定義できるものに限らず、ダライ・ラ
マが実際にしているように、慈悲を持つ偉大な存在のような特定の宗教によらない
抽象的な対象を置くこともできる22。
このような祈る対象の選択可能性に、ダライ・ラマの宗教に対する2つの見解が
反映されている。第一は、宗教は人間にとってなくてはならないものではなく、本
当に必要なものはスピリチュアリティであるということであり、第二は、宗教を必
要とするにしても、人それぞれによって有効な宗教は異なるので、宗教の多様性が
必要であるということである。
3、宗教とスピリチュアリティの区別と世俗化
まず、第一の見解について考えてみたい。ダライ・ラマは宗教(religion)とスピ
リチュアリティ(spirituality)を明確に区別する。宗教とは、ある信念の伝統が持
っている救済の主張に対する信仰および、天国や涅槃といった考えを含む形而上学
的・超自然的現実に対する信仰に関係するものである。それに対してスピリチュア
リティとは、愛・思いやり・忍耐・寛容・赦し・満足・責任感・協調性といった自
己や他者に幸福をもたらすような人間の心の質であり、チベット語の gzhan phan
gyi sems(他者の役に立とうとする考え)が意味するような、他者の幸福に対する関
心を中心とするものである23。
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22 Dalai Lama, op. cit., 2002 (1996), p. 84.
23 Dalai Lama, op. cit., 1999, p. 22.
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このように宗教とスピリチュアリティを区分した上で、ダライ・ラマは、人が宗教を信じるかどうかは重要ではなく24、宗教は人間になくてはならないものでもな
い25、と結論する。必要なのは、宗教ではなくスピリチュアリティなのである26。例
えるならば、スピリチュアリティは「水」のようなもので、宗教は「水を汲む道具」
のようなものであるといえるだろう。人間は水がないと生きていくことはできない。
だがそれを飲む方法は人によって異なる。ある人は取っ手のついたカップの方が使
いやすいと思うかもしれないし、ある人は柄杓で掬って飲むのがいいというかもし
れない。しかし、人間にとって必要なのは水であって、カップや柄杓ではない。水
を汲む道具がなくとも、あるいは手のひらで、あるいは顔を近づけて水を飲むこと
はできるのである。
このように宗教とスピリチュアリティを区別する背景には、宗教を取り巻く現状
認識がある。特に先進諸国に見受けられるように、人々の日常生活における宗教の
影響は総じてわずかなものになっているという事実をダライ・ラマは認めている27。
世俗化という言葉こそ使ってはいないが、ダライ・ラマのこの認識は世俗化という
モダニティの特徴を踏まえたものであることは明白であろう。宗教的な制度や行為
および宗教意識が社会的意義を喪失する過程が進行し、大多数の人々が宗教を実践
していない今、ダライ・ラマの目指すところは、宗教に訴えることなくすべての人々
を救う方法を見つけることにある28。その第一歩として、宗教とは区別されるスピ
リチュアリティの重要性をダライ・ラマは説いているのである。スピリチュアリテ
ィこそがすべての人々に必要なものであり、宗教はそうではないという見解に立つ
ならば、祈りの対象を限定するわけにはいかないであろう。祈る対象に対する沈黙
はこのような見解を表している。
4、宗教の多様性と個人化
次に第二の見解について考えてみよう。人間に宗教は必ずしも必要ないという見
解をダライ・ラマが抱いていることについては先に述べた。しかし、このことは宗
教が不要であるということを意味するものではない。
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24 Ibid., p. 19.
25 Ibid., p. 22.
26 Ibid.
27 Ibid., p. 20.
28 Ibid.
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ダライ・ラマによれば、宗教は心を望ましい方向へ鍛錬するのに非常に役立つ道
具であり、心をコントロールするのに役立つ何らかの実践をするためにある29。こ
の役割を果たすために、すべての主要な宗教(仏教、キリスト教、儒教、ヒンドゥー
教、イスラーム、ジャイナ教、ユダヤ教、シク教、道教、ゾロアスター教)が同様のメッ
セージを伝えていると、ダライ・ラマは確信している。そのメッセージというのは、
愛の観念、自己中心的で苦難を引き起こす可能性のある心を制御する必要性、平安
で規律があり倫理的で賢明な心の状態へといたる道などである30。とはいえ、ダラ
イ・ラマはこれまでずっと変わらずにこのような見解を持っていたわけではない。
若かりし頃のダライ・ラマは、仏教こそが最高の道であり、すべての人々が仏教に
改宗することが望ましいとすら考えていた31。しかし、彼の見解は変化し、仏教は
絶対的なものではなく相対的なものでしかないという認識に至る。この排他主義的
立場から多元主義的立場への変化をもたらしたものは、他の宗教を実践している
人々との出会いであった。異なる宗教実践に身を投じている人々は皆、それぞれの
方法は違えども深遠なものを得ていた32。この経験を通して主要な宗教にはそれぞ
れ大いなる価値があり、その基盤において共通性があるという見解に至ったのであ
る33。とはいえダライ・ラマは、その共通性を根拠として他宗教の犠牲の上に一つ
の特殊な宗教を主張しようというのでもなく、新しい「世界宗教」を模索している
わけでもない34。
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29 Dalai Lama, Universal Responsibility and the Good Heart, Dharamsala: Library of Tibetan
Works and Archives, 1995 (1977), p. 18.
30 Dalai Lama, Love, Kindness and Universal Responsibility, New Delhi: Paljor Publications, India,
1999 (1997), pp. 14-15.
31 Dalai Lama, op. cit., 1999, p. 21.
32 Ibid., p. 21.
33 ダライ・ラマは「排他主義」的でもなく「包括主義」的でもなく、「多元主義」的な立場で
あるが、J・ヒックのいう多元主義の見解とは異なっている。ヒックの多元主義は、一つの「実
在者」なり「究極者」なりに様々な道(宗教)が続いているという収斂的なモデルである。そ
れに対しダライ・ラマは、宗教に関係のないスピリチュアリティがすべての人間に存在するこ
とを認め、それを発展させる手段として宗教を見ているのであって、一つの頂点へ向かうもの
という構図は取っていない。むしろ、教義の上では最終的に各宗教は別物であり、本質的に同
じではないという見解を取っている。例えば、「空」と「神」の概念や「三身」と「三位一体」
の概念が究極的に同じだとするのはいささか暴論であって、ヤクの頭をヒツジの身体に乗せる
ようなものだとしている[Ibid., p. 228.]。
34 Dalai Lama, op. cit., 1999 (1997), p. 16.
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ダライ・ラマが最も重視するのは、宗教を必要とする人々が自分に一番適した宗教を選択するということである35。なぜなら、人間の心というのは人それぞれに異
なった特質と傾向を持っているがゆえに、平安と幸福への異なったアプローチが必
要となるからである36。抗生物質を骨折した人に投与しても骨折が治るわけではな
いし、子供に大人と同量の抗生物質を投与すれば健康を損なってしまう。これと同
様、宗教は薬のようなもので各人各様に適合したものでなければならない37。その
ためには宗教は一つだけではなく、様々な種類があったほうがよいのである38。
このダライ・ラマの見解の中に、モダニティの一つの特徴が映し出されている。
それは宗教が選択可能なものとなっているということである。別の言い方をすれば、
制度的な宗教的影響力の衰退と個人化が、この見解に反映されているのである39。
モダニティにおいては、社会的に選択の余地のないものとして個人が特定の宗教を
受容しなければならないのではなく、自らの性向に合致する宗教の選択可能性が必
要とされている40。不特定多数の人々と共有するダライ・ラマの祈りのなかで祈る対
象を特定することは、宗教における選択の可能性を否定し、各人の心の特性を無視
することを意味しかねない。そのため、祈る対象に対する沈黙が必然的に要請され
るのである。
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35 Dalai Lama, op. cit., 1995 (1977), p. 18.
36 Dalai Lama, op. cit., 1999 (1997), p. 16.
37 Dalai Lama, Essence of Heart Sutra, translated and edited by Geshe Thupten Jinpa, Boston:
Wisdom Publications, 2005, p. 11. 和訳:ダライ・ラマ著、宮坂宥洪訳『般若心経入門』春秋
社、2004 年。
38 Dalai Lama, op. cit., 1995 (1977), p. 42.
39 ここで極めて重要な注意を喚起しておかねばならない。ダライ・ラマが各人各様に宗教を選
択すべきだと言っているのは、自律的な個人がブリコラージュのように宗教を消費するという
意味での私事化を推奨するものでは決してない。趣味のように消費する態度は回避されねばな
らない。自分の選択した一つの宗教に真摯に取り組むことこそが重要なのである。ゆえに、ダ
ライ・ラマは安易な改宗を厳しく戒めている。なぜなら、他の宗教に移ることによってそれま
でとは異なった生き方をせねばならず、改宗した本人が混乱に陥ことになるからである。とは
いえ、自分の宗教に対する信念が揺らがないように分別を持った上でなら、他の宗教を学び、
場合によっては一部を取り入れても構わない[Dalai Lama, op. cit. 1999, pp. 224-229.]。
40 チベット人社会の大多数の人々は仏教徒であるが、ボン教徒(bon po)、ムスリム、キリス
ト教徒も存在する。1991 年に公布された『亡命チベット人憲章』(btsan byol bod mi’i bca’
khrims)第 10 条において「信教の自由(chos dad rang dbang)」は保証されており、どの宗教
(chos lugs)も法の下では平等であるとされている[btsan byol bod mi’i bca’ khrims, bod mi
mang spyi ’thus lhan khang, Dharamsala, 2005 (1991), p. 4.]。とはいえ、同憲章の第 3 条「政
治の本質」において「ダルマと政治の和合(chos srid zung ’brel)」という言葉が出てくるの
は特筆すべきことである[Ibid., p. 1.]。紙面の都合上論ずる事は出来ないが、この言葉が「政教
一致」の意味するところと同じであるかどうかを議論する余地は大いに残されている。
宗教と倫理 7 辻村:ダライ・ラマ 14 世における祈りとモダニティ
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5、普遍的責任(universal responsibility)について
次に、「A」の②③と「B」の②③について考察しなければならないが、その前に
どうしても触れておかねばならないことがある。それが「普遍的責任 universal
responsibility」41と呼ばれるダライ・ラマ独自の概念である。この概念は以下でなさ
れる祈りの考察において決定的に重要な役割を果たす。そのため、普遍的責任につ
いての考察と並行してダライ・ラマの祈りについて見ていく。Universal に「A」の
②③を、responsibility に「B」の②③を対応させて考察する。
普遍的責任はダライ・ラマによって初めて採用された言葉であり42、彼が 1973 年
に最初に西洋を訪れた時43以来ずっと提唱し続けているものである44。ダライ・ラマ
自身の説明によると普遍的責任は、「チベット語で chi sem といい、逐語的には
universal (chi) consciousness (sem)を意味する」45。この chi sem というローマ字表記
の仕方は、チベット語の spyi sems の発音を写したものだと思われる46。このよう
に universal responsibility にあたるチベット語をダライ・ラマ自身が述べているに
もかかわらず、実際に彼が用いるチベット語は統一されていない47。英語では
universal responsibility で統一されているのであるが、チベット語では spyi sems
以外の複数の言葉が彼自身によって用いられている。
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41 日本語では通常「普遍的責任」と訳されているので、それに倣う。
42 Cabezón, José Ignacio, “On the Principle of Universal Responsibility”, Universal Responsibility, edited by Ramesh Chandra Tewari, Krishna Nath, New Delhi: Foundation for Universal
Responsibility, 1996a, p. 134.
43 1973 年にダライ・ラマはヨーロッパ 11 カ国を訪問している [rong bo blo bzang snyin grags,
byams brtse dang drang bden gyi bla srog, Dhalamsara: bod gzhung phyi dril las khungs, India,
2003, pp. 135.]。
44 Dalai Lama, op. cit., 1999, p. 169.
45 Ibid., p. 162.
46 「だと思われる」としたのは、この書物においてチベット文字のローマ字転写が記されてお
らず、また chi と発音するチベット文字の組み合わせが複数存在するうえ、長い単語を短く略
されている可能性もあるために、この記述だけからは確定できないからである。しかし、以下
で universal responsibility のチベット語に関して見ていくなかで分かるように、chi semが spyi
sems であることは間違いないと思われる。
47 筆者の力の及びうる範囲で参照した先行研究において universal responsibility のチベット語
の事例を挙げているものはなく、またチベット語としての用語が統一していないことを指摘し
たものもない。
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英語の文章とチベット語の文章を対照してみるとその様子が明らかになる。例え
ば、2005 年の 3月 10 日声明における universal responsibility48 のチベット語は ‘jig
rten spyi yongs ‘gan khur49(公的な世間全体の責任)となっており、1997 年の同声
明においては a sense of universal responsibility50にあたる部分として ’dzam
gling ’dir gzhan phan gyi bsam blo51(この世界への利他の考え)、となっている。ま
た1988 年のストラスブール提案52におけるa sense of universal responsibility53にあ
たるチベット語は、spyi la sman pa’i ’gan ’khur gyi bsam blo54(公共に役立つ責任の
考え)となっている55。
これらの事例におけるチベット語の特徴をまとめれば次のようになろう。
Universal にあたるのは ’dzam gling(世界)、’jig rten(世間)、spyi(公)の3つで
あり、responsibility にあたるのは sems(心)、 ’gan ’khur(責任)、および gzhan
phan gyi bsam blo(利他の考え)の3つである。
6、Universal:相互依存によって成立する世界と有情への祈り
Universal に関して3つのチベット語の用例があるが、このうち ’dzam gling(世界)と ’jig rten(世間)は似通った意味をもっている。’dzam glingは ’dzam bu gling
とも綴ることがあり、サンスクリットの jambudvīpa、すなわちアビダルマで説か
れるわれわれの住む島の呼び名である。’jig rten は、サンスクリットの loka にあた
り、事象が生滅する空間的広がりを意味する。これらから分かるように ’dzam gling
は、「世界には様々な国がある」といったときのような、「地理的な意味合い」における世界を意味している。それに対し、’jig rten は「本質としての事象の生滅性」 を含意した世界(世間)を意味している。
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48 Dalai Lama, Tibet and the Tibetan People’s Struggle, Dharamsala: Department of Information
and International Relations, India, 2005b, p. 165.
49 Dalai Lama, op. cit., 2005a, p. 286.
50 Dalai Lama, op. cit., 2005b, p. 122.
51 Dalai Lama, op. cit., 2005a, p. 207.
52 Dalai Lama, “sitas si sbag gi gros ’char”, bod du lag bstar byas pa’i rgya dmar gyi srid byus dang
bya thabs, bod gzhung phyi dril las khungs, 2002 (1988), pp. 264-273.
53 Dalai Lama, “The Strasbourg Proposal”, Dharamsala and Beijing: Initiatives and Correspondence
1981-1993, Dharamsala: The Department of Information and International Relations, India,
1996 (1994), p. 45.
54 Dalai Lama, op. cit., 2002 (1988), p. 264.
55 これらの事例から分かるように、spyi という言葉が多く使われていることと、その意味合い
から chi sem が spyi sems であることはほぼ確実であろうと思われる。
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ダライ・ラマの用法についても同様で、「世界が相互に依存しあっている」というときの「世界」は ’dzam gling を用いているし(例えば、5 項目の和平プラン56や 1997 年声明57、ストラスブール提案58など)、相互依存している様相をすでに含意しているときは ’jig rten を用いている(例えば、1988
年声明59や 2005 年声明60など)。
ダライ・ラマが考える「世界」および「世間」とは、われわれの経験が教えると
ころの、緊密な相互依存関係によって成立している現実であって、仏教の教義に対
する信仰によるものでは決してない61。国境を越えて取り結ばれている近代経済や
環境破壊において顕著に見受けられるように、グローバリゼーションにともなう相
互依存関係の増大こそがモダニティにおいて最も重要視されるべき事柄である62。
株式の変動や越境汚染などを考えると、世界全体の緊密な相互依存関係はわれわれ
にとって実感できる切実な現実であろう。このような状況においては、地球的規模
で展開される相互依存関係の網の目から逃れることは誰にもできないのである。普
遍的責任は、このようなモダニティのありように対する理解から生まれている。
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56 Dalai Lama, “zhi bde’i sngon ’gro’i gros ’char don tshen lnga”, bod du lag bstar byas pa’i rgya
dmar gyi srid byus dang bya thabs, bod gzhung phyi dril las khungs, 2002 (1987), p. 249.
57 Dalai Lama, op. cit., 2005a, p. 207.
58 Dalai Lama, op. cit., 2002 (1988), p. 264.
59 Dalai Lama, op. cit., 2005a, p. 149.
60 Dalai Lama, op. cit., 2005a, p. 286.
61 すこし、文脈が異なるが、ダライ・ラマは仏教教義に対して以下のような姿勢をとっている。
アビダルマで説かれているような世界観は、現代のわれわれが科学的方法によって獲得した世
界観とは全く異なる。このような場合、仏教の主張が科学的分析によって誤りであると証明さ
れれば、その教理を捨てねばならないとダライ・ラマは考えている[Dalai Lama, The Universe
in a Single Atom, Morgan Road Books, New York, 2005c, p. 3. 和訳:ダライ・ラマ著、伊藤真
訳『ダライ・ラマ 科学への旅』サンガ、2007 年]。この柔軟な姿勢がモダニティに起因する
ものかというと、必ずしもそうではない。むしろ、仏陀が語ったとされる「比丘たち、あるい
は学者たちは、焼いて切って磨いだ金のように、正しく吟味して私の言葉を受け入れるべきで、
尊敬のゆえにであってはならない[tsong kha pa, drang ba dang nges pa’i don rnam par phye ba’i
bsten bcos legs bshad snying po zhes bya bzhugs so, ’bras spungs blo gsal gling dpe mdzod khang,
2001, p. 4.]」という言葉が示しているような、「健全な懐疑主義(healthy skepticism)[Dalai
Lama, op. cit., 2005c, p. 25.]」とダライ・ラマが呼ぶ精神に基づくものである。科学と仏教は対
立するどころか、その方法論において多くの共通性があることは Ibid.に詳しく書かれている。
62 Dalai Lama, Dialogues on Universal Responsibility and Education, New Delhi: Library of Tibetan Works and Archives, 1995, p. 82.
宗教と倫理 7 辻村:ダライ・ラマ 14 世における祈りとモダニティ
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spyi が意味するものは、ダライ・ラマが universal という訳語を当てているように、
以上のような相互依存関係によって成立している世界全体であり、われわれの誰一
人としてその関係性から逃れることはできないという普遍性である。
こういった世界観に立つ時、チベット人に対して特に責任を負わねばならない63
ダライ・ラマという立場にある人は、どのように祈りうるだろうか。その責務上、
チベット人の幸福と安寧を祈るのが当然であろうと想像できる。だが、「A」の②の
事例はその予想を裏切るものであった。3 月 10 日という記念すべき日の祈りにおい
て、祈られる対象がチベット人に絞られているのは全体のほぼ三分の一しかないの
である64。ダライ・ラマはチベット人に対する祈りを捧げている 1997 年の声明にお
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63 Dalai Lama, op. cit., 1999, p. 20.
64 しかも、チベット人が対象となっている声明の時期は 1992 年以降に集中している。その理
由は、1988 年のチベットの完全独立放棄を謳った「ストラスブール提案」を中心としたダラ
イ・ラマの外交政策の行き詰まりと、それに対するチベット人の落胆に配慮してのことかもし
れない。というのも、ダライ・ラマは 1994 年の演説において自身の外交政策とチベット人の反
応に対して次のように述べているからである。
「私もまた、われわれの国の独立の完全な回復をすべてのチベット人が望み、祈っているこ
とを知っている。(中略)私のアプローチが持続的な対話もしくはチベットの状況の全体的
な改善に貢献することにおいていかなる進展ももたらさなかったことを私は今や認めねば
ならない。さらにいえば、ますます多くのチベット内外のチベット人が、チベットの完全独
立を求めない宥和的な私の見解に落胆させられているという事実に気づいている。」[A. A.
Shiromany, Editor, The Political Philosophy of His Holiness the XIV Dalai Lama Selected Speeches
and Writings, New Delhi: Tibetan Parliamentary and Policy Research Centre, 1998, p. 442.]
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このような発言にいたる、ダライ・ラマの中国との外交を極めて簡単に要約すれば以下のよう
になる。チベットの独立問題を除く他のすべての問題について対話することができると、1979
年に鄧小平が述べたことを受け、1980 年から対話を持つ意思をダライ・ラマは表明しつづけて
きた[Ibid., p. 441.]。そして、1987 年には具体的な交渉の内容(①チベット全体を平和地域にす
ること。②民族としての存在を脅かす中国人の大量移住政策の放棄。③チベット人の基本的人
権と民主的自由の尊重。④チベットの自然環境の回復と保全および、中国が核兵器製造と核廃
棄物処分のためにチベットの土地を使用することの禁止。⑤将来におけるチベットの地位およ
びチベット人と中国人の関係についての真摯な交渉の開始)をまとめた「5項目の和平プラン」
を提示した。さらに 1988 年には、外交政策および武力による安全保障を中国側が担うという
完全独立放棄の姿勢を打ち出した「ストラスブール提案」を提示することによって、中国側に
対して平和的な解決を求めてきた。しかし、それに対して中国側が応じることはなく、政治外
交的手段において満足な結果を得ることができなかった。そのため、1991 年にカシャ(bka’
shag、内閣にあたる)は「ストラスブール提案の撤回(“Withdrawal of the Strasbourg Proposal
by Kashag the Cabinet of the Tibetan Government-in-Exile”)[Dharamsala and Beijing: Initiatives and Correspondence 1981-1993, Dharamsala: The Department of Information and International Relations, India, 1996 (1994), pp. 50-51.]」という声明を出している。
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いて、「この世界(’dzam gling)の関係がいっそう緊密になり、お互いがますます
相互に依存しているので、一つの国民の困難はもはやその国自身のみによって解決
できない。普遍的責任感(’dzam gling ’dir gzhan phan gyi bsam blo)がなければ、
われわれの将来は危機的状況に陥らざるをえない」65と述べている。国際的な政治
的・経済的相互依存性が高まっている状況だからこそ、国や民族にかかわらず、他
者の幸福に資することがチベット問題の解決につながる。そうであるがゆえに、「A」
の③のように、すべての有情の幸福を祈らずにはおれないのである。
とはいえ、このことは有情一般の幸福をチベット問題の解決の手段としてのみ考
えているということでは決してない。そのような考え自体、普遍的責任の意に反す
るものである。相互依存的関係にあるということは、お互いの幸福をお互いに支え
あうということである。よって、以下の考察にあるような責任感が求められること
となる。
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7、Responsibility:他者の幸福への積極的な関心と自己に対する決意を込めた祈り
Responsibility に関して3つのチベット語の用例が認められるが、ダライ・ラマ
によれば、’gan ’khur(責任)の意味合いは sems(心)の中に内在しているという66。
また、 gzhan phan gyi bsam blo(利他の考え)は上述のダライ・ラマによるスピリ
チュアリティの定義において登場したものでもあるが、ダライ・ラマが sems に重点
を置いていることから、gzhan phan gyi bsam blo(利他の考え)も sems の意味合
いに集約されると言ってよいであろう。
ダライ・ラマの普遍的責任(spyi sems)にいう sems は、菩薩(byang chub sems
dpa’ )における sems dpa’ を意味している67。sems dpa’ を字義どおりに訳せば勇
ましい(dpa’ )心(sems)となり、ダライ・ラマの説明によると、他者に関心を抱
き、他者のために行動する勇ましい決意であり、責任感をともなうものである68。
この責任感は、「すべてのものはその生において苦しみを欲さず、幸福や快適さを
求める」という、ダライ・ラマが普遍的に妥当すると考えている原則から生じるものである69。
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65 Dalai Lama, op. cit., 2005a, p. 207.
66 Dalai Lama, op. cit., 1999, p. 162.
67 Dalai Lama, op. cit., 1995, p. 5.
68 Ibid., p. 5.
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この原則と、相互依存的な現実の有り様にわれわれは常に直面してい
る。ゆえに、積極的に他者に対して関心を抱き、他者の役に立とうとする責任感を
持たねばならない。これが普遍的責任の主張するところである。
「B」はまさにこのような責任感に裏打ちされた実践の決意を表明したものとい
える。「A」において祈られた他者の幸福は、「B」において自らの実践の目的とな
り、その目的を達成する決意を込めた祈りとなっている。すなわち、spyi sems(普
遍的責任)の sems である。「B」における2つの祈りの事例は明白に菩薩の精神を
表すものであって、事実、「虚空が続く限り……」という言葉は、シャーンティデ
ーヴァ70(Śāntideva、zhi ba lha、寂天、7 世紀中頃~8 世紀中頃)の『入菩薩行論』
71廻向の章の第 55 偈である。これらの祈りは普遍的責任を表したものに違いないが、
一見すると、宗教的色彩の濃いものであるように思える。普遍的責任は仏教におけ
る縁起を基盤にしていると、これまで指摘されてきた72。ダライ・ラマ自身が認め
ているように73実際その通りである。だが、その着想が仏教にあるといえども、仏
教という宗教の枠を超えようとしているのも事実である。
その超脱は、「縁起」や「菩薩」といった仏教的概念が示す精神を、「普遍的責任」
という非仏教的な概念で表したことのなかに見出しうる。この概念の置き換えをもたらしたのは、グローバリゼーションの進展にともなう地球規模の相互依存関係の
拡大という社会構造の変化であった。
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69 Dalai Lama, op. cit., 1995 (1977), p. 24.
70 ナーランダー僧院で活躍した、ナーガールジュナ、ブッダパーリタ、チャンドラキールティ
に連なる中観帰謬論証派の学僧。中観帰謬論証派の哲学はチベット仏教において最高のものと
されている。
71 六波羅蜜を基礎に菩薩の実践について説かれた論書。ダライ・ラマが自身の説法や著作にお
いて何度も取り上げているもので、彼の思想形成において最も重要な影響を与えているものの
一つである。シャーンティデーヴァがナーランダー僧院の男性僧侶に対して説いたものとされ
ているため、肉欲に関する部分で女性の肉体の過失についての記述がある。しかし、それは聴
衆が男性であったことを反映したものにすぎないため、女性がこの部分を読むときは、男性の
肉体の過失として考えるようにダライ・ラマは述べている[ダライ・ラマ 14 世、前掲書、2001
年、170 頁]。言うまでもないが、ダライ・ラマは男女平等論者である。将来、女性がダライ・
ラマになりうることも認めている[ダライ・ラマ 14 世、ジャン=クロード・カリエール著、
新谷淳一訳『ダライ・ラマが語る』紀伊国屋書店、2000 年、234 頁]。
72 Chapela, Leonardo R., “Buddhist Guidelines on Economic Organizations and Development
for Future Tibet: Interviews with His Holiness the XIVth Dalai Lama and Prof. Samdhong
Rinpoche”, The Tibet Journal, Vol. XVII, No. 4 Winter, 1992, pp. 18-19. および、Cabezón, José
Ignacio, “Buddhist Principles in Tibetan Liberation Movement”, Engaged Buddhism, edited by
Chiristopher S. Queen and Sallie B. King, New York: State University of New York Press,
1996b, p. 301. がある。
73 Dalai Lama, op. cit., 1995, p. 97.
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というのも、この変化の影響力は宗教の如何
にかかわらず及んでいくからである。縁起という宗教的世界観を有しない者であっ
ても、地球的規模で展開している現実から眼をそむけるわけにはいかない。もはや、
縁起の示す相互依存的な現実は、仏教徒のみに通用するものとはいえないのである。
そうである以上、一人の人間として自らの為す影響力がともすれば地球的規模に及
ぶことを意識し、あるいは他者に、あるいはすべての生けるものに対し関心を抱か
ねばならない。菩薩という宗教的理想によらずとも、このような責任感を持つこと
は、世界経済や環境破壊といった単独の国家や民族では解決できない多くの現実に
よって要請されているのである。さればこそ、普遍的責任は、倫理道徳の問題でも、
ましてや宗教の問題でもなく、まさに生き残りをかけた現実問題であるとダライ・
ラマは主張するのである74。そのため、Engaged Buddhism という名のもとで普遍
的責任を概括する75には、余りあるものを感じずにはいられない76。モダニティの現
実が、仏教という枠に納まりきらない普遍的妥当性を与えているからである。そう
であるがゆえに、「B」の祈りを多くの人々と共有し、各人が自己自身に対して(「B」
の②)、他者の幸福を達成することができるように決意する(「B」の③)ことをダ
ライ・ラマは望んでいるのである。
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74 Ibid., p. 82.
75 Engaged Buddhism という文脈で普遍的責任を論じたものとしては、Bharati Puri, Engaged
Buddhism the Dalai Lama’s Worldview, New Delhi: Oxford University Press, 2006. および、
Cabezón, José Ignacio, op. cit., 1996b. がある。
76 このことは、Engaged Buddhism の文脈で論じたものの無益さや否定を意味するものでは決
してない。むしろ、極めて貴重で有益な先行研究である。筆者がこのようにいうのは次のよう
な理由による。ダライ・ラマ自身の思想の中核には仏教があるけれども、普遍的責任は、仏教
ひいては宗教自体の枠組みにとらわれてはいけないものとして提示されている。自分の信仰の
枠を超えて普遍的な道徳律があることを示したい [Dalai Lama, op. cit., 1999, p. 22.] と彼自身
が述べているように、普遍的責任を Buddhism という限定的な枠組みで理解されてしまうの
は、ダライ・ラマの本意ではないからである。とはいえ、普遍的責任感に基づいた実践が宗教
にかかわりなく行われねばならないというものではない。宗教の多様性についてのダライ・ラ
マの見解について上述したように、実践にあたって各人の最も適した宗教に従うのは有益な事
であるのは間違いない。よって、ダライ・ラマが言及しているわけではないが、仏教的動機に
よる普遍的責任の実践はもちろんのこと、キリスト教的動機に基づいた普遍的責任の実践やそ
の他様々なヴァリエーションが考えられるであろう。このように考えてくると、普遍的責任を
Engaged Buddhism という名のもとに置いておくには勿体無く感じられるのである。
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おわりに
ダライ・ラマの祈りを通して彼の宗教観について考察してきた。これまでの議論
を整理すれば次の 2 点にまとめることができよう。
第一に、世俗化が進み宗教の社会的影響力が衰退している現代において、人間に
とって宗教は必ずしも必要なものではなく、スピリチュアリティこそが必要である
とダライ・ラマは主張していた。宗教はスピリチュアリティを発展させるための手
段であり、薬と同じく各人各様に適した宗教を実践すべきであって、そのためにも
宗教の多様性が必要であるとする多元主義的な立場であった。これらの見解は、「祈
る対象に対する沈黙」として彼の祈りのなかにあらわれていた。
第二に、政治経済や自然環境など様々な領域において相互依存的関係が進んでお
り、誰もが苦しみを望まず幸福を望むからこそ、他者の幸福に対する「普遍的責任」
を抱かねばならない。この決意が祈りの中に表明されていた。この考えは、宗教的
枠組みを超えた、モダニティの現実が要請するものであった。
以上のように、ダライ・ラマはチベット仏教の最高指導者でありながら、仏教の
みならず宗教自体に対しても固執しない態度を表明している。ダライ・ラマの信じ
る宗教の本質とは、自らを律し他者に幸福をもたらさんとする心の資質を育むため
の「道具」である。ともすれば、われわれは「道具」に振り回されがちになる。そ
うならないためにも、「道具」を扱う人間にとって必要不可欠な心の質、すなわち
他者を思いやる心を確立することが必要である。このことは、単に仏教という枠の
中だけから導かれたものではなかった。ますます進展する相互依存関係によって成
り立っているモダニティの現実との邂逅によってもたらされたものであった。もは
や、宗教の枠組みを超えた問題にわれわれは直面している。そうであるからこそ、
他者の幸福に対して積極的に関心を抱き、責任感を持たねばならない。これがダラ
イ・ラマの云わんとする「人間の心であり、中心点」である。
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キーワード:
ダライ・ラマ 14 世、祈り、モダニティ、スピリチュアリティ、
普遍的責任
KEYWORDS:
The 14th Dalai Lama, prayer, modernity, spirituality,
universal responsibility