2016/10/01

「真の国際人」新渡戸稲造 (2)日米の平和を求めて | PHPオンライン 衆知|PHP研究所

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「真の国際人」新渡戸稲造 (2)日米の平和を求めて
 
2012年09月05日 公開
藤井茂 (新渡戸基金事務局長)
新渡戸の晩年、日米関係は険悪の一途を辿る。「協調の役目は自分にしかできない」 新渡戸は不利を承知で、アメリカに赴いた。
降りかかった国内での苦難
 鮮やかで清新な意識をヨーロッパの人たちの間に強烈に残し、新渡戸は昭和2年(1927)春、帰国した。日本に帰ったら新聞にでも目を通してゆったりとした気分で過ごしたいと思っていたが、日に日に我が国の行く末に苦々しいものを感じていくことになる。
 それが端なくもあらわれたのが、昭和7年(1932)2月の愛媛県松山市での新渡戸の発言であった。
 「日本を滅ぼすものは共産党か軍閥である。そのどちらが怖いかといえば軍閥である」とオフレコで記者に語ったことが、翌日の新聞にでかでかと出てしまったのである。
 2月5日に新渡戸の発言をいち早く取り上げたのは、地元の海南新聞(現愛媛新聞)だった。「新渡戸氏の奇怪な主張」「新渡戸氏の自決を促す」「カブトを脱いだ新渡戸博士」などと同新聞は1カ月余り、過激な見出しで執拗に彼の発言を追及している。ついには、神経痛で新渡戸が入院している聖路加病院にまで帝国在郷軍人会本部の役員が押しよせ、かつての発言を撤回させたうえに陳謝させてさえいる。
 しかし、その後の結果は誰の目にも明らかだ。新渡戸の発言したように日本はつき進み、人的にも物的にも多大な犠牲をこうむって完膚なきまでの敗けを喫したことは承知の通りである。
 それにしても、同社に時勢を冷静に見る、たとえば桐生悠々のような新聞人が1人としていなかったのだろうか。現在のマスコミ関係者は、この新渡戸の松山事件を厳しく見つめ、他山の石とするべきである。
「自分にしかできない」覚悟の渡米
 それからほどない4月、新渡戸はアメリカに旅立った。大正13年(1924)7月に排日移民法が施行されたのに憤慨してから、二度とその地を踏むまいと誓っていた新渡戸がアメリカに赴く決意をしたのは、一説には昭和天皇に後押しされたからと言われている。新渡戸にとってそれは「暗黒の中に入っていく(ような)気持ち」だった。
 その心持ちを新渡戸は渡米直前の大阪英文毎日(3月19日)の「編集余録」に、次のように書いて自らを納得させている。
 「上司の不興を買い、群集の怒りを招くのは、私の家の伝統なのだ。私の曾祖父(維民)は封建領主と意見をあえて異にしたかどで、(下北半島へ)追放に処せられた。私の祖父(傳)は、維新戦争の際は負けた賊軍側だったが、幾度脅迫を受けたか知れぬ。私自身の父(十次郎)は、いわゆる蟄居閉門中に死んだ」
 しかし新渡戸は、これら3代の父祖はすべて「政治的な罪で罰せられ」た「名誉ある禁固の形」であるとして一種の誇りさえもっていた。それを考えれば、自分がアメリカに交渉に行くことなど何でもないことだと自ら納得できたのである。
 折悪しく、新渡戸の渡米直前には満州国建国が、渡米直後には犬養毅首相の暗殺などが相次いだため、アメリカの世論は日本を軍国主義化の一途をたどりつつある国と決めつけていた。しかし、新渡戸には、自分にとってまったく不利なことでも、それが日米の平和の構築、戦争の回避という大きな目的のためなら甘んじて受ける寛厚な度量があった。むしろこの役目は自分にしかできない、こういうときにこそ自分が引き受けるべきだと、彼は次のような憂国の歌を詠んでアメリカへ向かった。
 「国を思ひ世を憂うればこそ何事も 忍ぶ心は神ぞ知るらん」
 新渡戸の主たる目的は、日本の満州政策についてアメリカの誤解を解き、対日感情を和らげることだった。新渡戸には「中国大陸は無政府状態にあるので、満州国を建国した日本こそが防波堤となってソ連の進出を食い止めている。なにもそれ以上に中国の土地を欲しいというのではない」という確固たる認識があった。それをアメリカは分かっておらず、まして日本人は口べたなので、あえて自分が代弁しにアメリカへ赴くのだという強い思いがあった。
 そのため彼はアメリカで100回以上もの講演をこなし、各地で日本の立場を切々と説いた。しかし同年6月にフーバー大統領と会見したとき、彼から「最近起こった暗殺(犬養首相のこと)は、われわれみんなにショックを与え狼狽させた。日本は国際的政治に通暁した公僕を1人失った。私は日本の指導的立場の人たちが将来日本をどうしようとしているのか不安である」と言われるなど、新渡戸は非常に厳しい立場に立たせられている。このようなフーバー大統領の言からも分かるように、アメリカの世論はすでに日本にはまったく厳しく(反対に中国には好意的だった)、新渡戸の講演などでくつがえるという期待は薄かった。新渡戸はなおも全米各地で講演し、翌8年(1933)3月24日に帰国している。彼の傷心はいかばかりだったろうか。
 しかし、その彼に、またもや追い討ちをかけるような出来事が発生した。彼が評判を上げて帰ってきた国際連盟を、日本がいとも簡単に脱退してしまったのである。帰国して3日後のことであった。
 それでも、新渡戸は最後まで諦めなかった。同年8月、体調不良をおして、カナダで開催された第5回太平洋会議に日本の団長として出席し、改めて国際平和を訴えたのである。しかし、ビクトリア市で病床に臥し、10月15日、ついに帰らぬ人となった。
 こういう一連の流れを追ってきてあらためて思うことだが、いまの日本および日本人に決定的に足りないのは、不利なことにも、いや不利を承知で敢然と立ち向かう新渡戸稲造のような人格と識見をもった存在そのものであることを強く感じるのである。