2016/10/20

今なぜ新渡戸稲造の武士道なのか | 神田嘉延 研究室

今なぜ新渡戸稲造の武士道なのか | 神田嘉延 研究室

今なぜ新渡戸稲造の武士道なのか

 今なぜ新渡戸稲造の武士道なのか
神田 嘉延
        
 実践的な倫理体系の武士道
 新渡戸は、朱子学的な儒学思想からではなく、陽明学の知行合一の実践的な個人の人格の成長、倫理の形成を武士道の基本原理として重視した。この意味からの西郷隆盛を典型的な武士とみたのである。新渡戸が西郷隆盛を典型的な武士とみたのは興味あることである。西郷は明治維新で活躍し、新政厚生徳の旗を掲げた西南戦争で命を落とした。新渡戸の武士道の理解をしていくうえで、西郷の生き方をみていくことは大切なことである。
 西南戦争では大分からも多くの旧武士が参加している。その典型が、福沢諭吉のふるさとの中津からは、百余名が参戦した増田宋太郎のつくった「共憂社」の存在も大分から武士道を考えていくうえで、必要なことである。共憂社のメンバーを中心にした中津隊は、西郷へと進軍した。この決起に呼応して、県北一帯に約2万人参加の農民一揆が起きる。福沢諭吉は西南戦争の鎮定後に「丁丑公論」で政府の専制をほうっておけば、際限あることなしとして、これを防ぐ術は、抵抗する一法あるのみと、西南戦争に起ち上がった西郷を抵抗の精神と書いたが、厳しい言論統制のなかで、公表されたのは死後である。
 新渡戸の「武士道」は、日本人のもっている精神を国際的に紹介するためであった。このために、キリスト教との比較を含めて欧米人にも理解できるように書かれたものである。新渡戸はアメリカ滞在中に 武士道を英語で書いて出版した。

 新渡戸稲造とはどんな人であったのか。
 陸奥国岩手郡(現在の岩手県盛岡市)に、盛岡藩士新渡戸十次郎の三男として生まれる。13歳になった頃、できたばかりの東京英語学校(後の東京大学)に入学する。そして、その後に、札幌農学校(後の北海道大学)の二期生として入学する
 札幌農学校で教鞭をとっていたクラーク博士の影響のあった4人組と共に入学する。四人組みは、岩崎、内村、宮部であり、東京の英語学校以来の親友である。岩崎は鹿児島大学の前身のひとつになった第7高等学校造士館の初代の館長である。
 新渡戸は札幌農学校でキリスト教の洗礼をうける。農学校卒業後、級友達とともに道庁に就職した。そこで、畑の作物を食い散らすイナゴの大群を退治するために各地の農村を駆け巡る。学問を志して東京帝国大学に進学する。しかし当時の農学校に比べ、東大の研究レベルの低さに失望して退学する。新渡戸は、キリスト教のなかでもクエーカー教徒であった。クエーカーの証言は、平和、男女・民族の平等、質素な生活、個人が誠実であり続けることである。
 1884年(明治17年)、「太平洋の架け橋」になりたいとアメリカに私費留学し、ジョンズ・ホプキンス大学に入学する。この頃に新渡戸稲造は伝統的なキリスト教信仰に懐疑的になっており、クエーカー派の集会に通い始め正式に会員となった。ジョンズ・ホプキンス大学を中途退学して官費でドイツへ留学する。ボン大学などで聴講した後、ハレ大学(現マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク)より農業経済学の博士号を得る。
 クェーカーたちとの親交を通してメアリー・エルキントンと出会い、1891年(明治24)に、国際結婚をする。日本に帰国して、札幌農学校教授に任命される。
 新渡戸稲造は世界平和のために尽力した人であり、地域振興の発展のために実践的に農学を研究した学者でもあり、青年達に未来を託す教育者でもあった。
 新渡戸は、台湾総督府の民政長官となった同郷の後藤新平より1899年(明治32年)から2年越しの招聘を受け、1901年(明治34年)に農学校を辞職して、台湾総督府の技師に任命される。台湾における糖業発展の基礎を築くことに貢献した。
 1909年(明治42年)、新渡戸の音頭取りで、「郷土会」が発足した。自主的に自由な立場から各地の郷土の制度、慣習、民間伝承などの事象を研究し調査することを狙いとしたものである。
 1911年、1932年と、アメリカと日本の関係悪化のときに、日本政府から正式に派遣される。1919年から日本政府代表として、国際連盟の仕事に7年間就く。1933年2月に日本は国際連盟を脱退する。新渡戸は、国際人として国際連盟事務次長を勤める。1920年(大正9年)の国際連盟設立に際して、教育者で『武士道』の著者として国際的に高名な新渡戸が事務次長に選ばれる。新渡戸は当時、東京帝国大学経済学部で植民政策を担当していたが辞職した。新渡戸の国際連盟の仕事で尽力したことに、国際連盟の規約に人種的差別撤廃提案をして過半数の支持を集めた。しかし、議長を務めたアメリカのウィルソン大統領の意向により否決されている。
 太平洋問題理事長として渡米して、アメリカの各地で講演し、両国の親善に尽くす。しかし、日本政府は国際連盟の脱退により、国際的孤立をする。新渡戸稲造は体調がすぐれないなかで、国際連盟脱退の年、8月にカナダで平和の望みを捨てず日本側代表として演説する。1ケ月後病に倒れてカナダのビクトリアで死亡(71歳)する。
 教育者・社会運動家としての新渡戸稲造の側面は大きい。札幌農学校、第1高等学校、東京大学、京都大学で教授、校長として教育にあたる。札幌農学校では、学校教育を受けられない青年を対象に勤労者の夜間学校を札幌の豊平の貧困地帯につくる。
 東京女子大学の初代の学長として、女子教育に尽力する。郷里岩手の産業組合の指導を引き受ける。また、加川豊彦とともに、医療協同組合運動を若い医師とともにつくる。日本を滅ぼすのは軍閥ということで、軍国主義に警戒する。

 新渡戸稲造の武士道の内容
 義とはなにかー武士道の光
り輝く最高の支柱

 義は勇と並ぶ武士道の双生児である。「義」は、武士道の光輝く最高の支柱である。正義の道理は絶対的な命令である。ここで、正義とはなにかということを深く考えることが必要である。武士が重んじることは節義なりというが、節義は人の体でいえば骨のようなもので、骨なければ首も正しく上にあることができず、手もとることもできず足を立つこともできない。学問ありても節義なければ世にたつことができない。
 義とは人が失われた楽園を再び手中にするためのものである。悪辣な陰謀が軍事的策略として、まっかな嘘が謀略としてまかりとっていた時代に、正義を考えた徳である。それは、素直で、正直な、男らしい徳はもっとも光り輝く宝であり、行動することによって、まさにその精神は認められたのである。
 正義とは人間としてのあたりまえの嘘をつかない、人を騙さない、弱い者をいじめないという人間としての温かい慈愛の精神をもって生きる道である。
 現代は、国際化という名のもとに世界的規模で弱肉強食の競争社会が蔓延しているなかで、人を騙したり、嘘をついたり、相手を蹴落とすために謀略を施したりする社会的風潮が強くなっている。現実は、残酷に人を平気でいためつけたりする世相がみえるなかで、人間としてのあたりまえの節義をもって生きることがどんなに大切な時代であるのか。この時代に生きるなかで日本人としての正義のあり方を考えるうえで武士道から学ぶことは大きい。子どものなかさえもいじめの問題が深刻になり、自殺者がでるほどである。節義を重んじる、正義で生きるという言葉は、教育の世界にとっても重要である。現代の青少年教育のなかで、正義ということは、「ださい」「あほらしい」「くそまじめ」と思われることで、なかなか真剣に考える機会が失われている。これは、現代の世相のなかで、教育者自身が、道徳退廃に犯されている側面をみたときに、若者が発する言葉である。

     礼儀作法は、ある一定の結果を達成するための、もっとも適切な方法を長い年月にわたって実験してきたことの結果である
 何かなすべきことがあるとすれば、それをなすための最善のやり方がきっと存在するはずである。そして最善の方法とは、一番無駄がなく、もっとも奥ゆかしいものである。礼儀を守るための道徳的な訓練が必要である。優雅な作法は、力を内に蓄えさせるというのが新渡戸の主張である。
 奥ゆかしさは、無駄を省いたやり方であるとすれば、優雅な作法を絶えず実践することは余分な力を内に蓄えるにちがいない。立派な作法は、休止状態にある力を意味する。礼法を通じてほんとうに高い精神的な境地に達することができるのであろうかと新渡戸は問い、精神的修養のひとつの大成として、茶の湯の作法をあげる。
 茶の湯の基本である心の静けさ、感情の穏やかさ、落ち着いた立ち振る舞いは、まっとうな思考と率直な感情の第一条件である。礼儀は慈愛と謙遜という動機から生じ、他人の感情に対する優しい気持ちによってものごとを行うので、いつも優美な感受性として表れる。礼の必要条とは、泣いている人とともに泣き、喜びにある人とともに喜ぶことである。このような教訓的必要条件はそれが日常生活の細々とした点に及ぶとき、人の注意をあまりひかない繊細な行為の中に表れる。新渡戸は、以上のように、礼儀は優美な感受性であり、慈愛と謙遜の他人にたいする優しい感情によって行うものであると。
 
  名誉とは、苦痛と試練に耐えうるために存在する
誉という感覚は個人の尊厳とあざやかな価値の意識を含んでいる。

 名誉は武士階級の義務と特権を重んじるように幼児のときから教え込まれたと新渡戸はみる。過ちを犯した少年の振る舞いに「人にわらわれるぞ」「体面を汚すなよ」「恥ずかしくないのか」と言われる。羞恥心は人類の道徳意識の出発点であると新渡戸稲造は考える。名誉の繊細な掟がおちいりがちな馬鹿げた恥を知るという感情、病的な行き過ぎの感情が起きるが、その克服には、寛容と忍耐を説くことによってはっきりと相殺される。
徳川家康の言葉である「人の一生は重荷を負うて行くが如し。急ぐべからず。堪忍は無事長久の基。・・・・。己を責めて人を責むるばからず」と新渡戸は紹介し、この言葉の大切をのべている。さらに、西郷南州の敬天愛人の言葉を引用している。
 名誉はこの世で最高の善であるというのが新渡戸の主張である。名誉は境遇から生じるものではなく、自己の役割をまっとうに努めることにあるのだ。若者に追求しなければならない目標は冨や知識ではなく、名誉である。多くの若者が敷居を超えるとき、世に出て名を成すまでは二度とまたがないと自分自身に誓ったものである。多くの母親は息子達が錦を飾るということばどおりに故郷に帰るまで再会を拒んだ。
 恥となることを避け、名を勝ち取るためにサムライの息子はいかなる貧困も甘受し、肉体的、あるいは精神的苦痛のもとに厳しい試練に耐えたのである。彼らは、若いときに勝ち得た名誉は年がなつにつれて大きく成長することを知っていた。新渡戸は。以上のように名誉を勝ち取っていくことは、若者成長にとって大切なことであるとするのである。
 名誉という言葉は、広く若者が誇りをもつということにみてほしい。名誉の意味を権力志向と結び絶対的な権威による名誉心ではない。若者が成長していくうえで、自己の社会的役割、自己のもっている個性を社会にみつめていくことであり、それは、自我の形成においても大切な課題である。
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