2016/10/31

平和な日本とは違い宗教戦争の真っ只中の欧米の宗教事情 - 逝きし世の面影

平和な日本とは違い宗教戦争の真っ只中の欧米の宗教事情 - 逝きし世の面影





平和な日本とは違い宗教戦争の真っ只中の欧米の宗教事情

2015年05月14日 | 宗教
『米国、クリスチャンの数が減少』2015年05月13日Sputnik 日本

米国ではクリスチャンの数が減少している。Pew Research Center (PRC)による報告書「米国の宗教風土の変化」に示された。USA Todayが報じた。
RPCが最初に同種の調査を行った2007年以来、最大の下げ幅。クリスチャンと自己規定する米国人は全体の78.4%から70.6%にまで減少した。老若、配偶者の有無を問わず、全階層が対象の調査。
一方で無神論・不可知論者はほぼ倍増。各、1.6%から3.1%へ、2.4%から4%へ増大した。宗教への無関心も拡大している模様。また、2010年以降に婚姻関係を結んだ米国人の実に39%が夫婦でそれぞれ信教を異にする混合婚である。1960年までに結婚した米国人夫婦では割合は19%にとどまっている。
米国の成人3万5000人が調査対象となった。

今回USA Todayが報じた『米国、クリスチャンの数が減少』の記述ですが、実に興味深い。
『最大の下げ幅』とは言うが、それでも圧倒的な多数である7割以上が自分をクリスチャンと既定している。対して倍増したとはいえ無神論者は3%の絶対的な少数派というか、この数字ではもはや『異端者』である。
アメリカでは不可知論者を加えても1割に到底到達しない少数派だけが、普通の日本人と同じ科学万能論者(宗教<科学)であり、他の人々の多くが逆の『宗教』が『科学』の上位に君臨する宗教者だった。
アメリカの7割の宗教信者の割合ですが、この数字はほぼダーウィンの進化論に否定的な人々の比率と一致しているのですから恐ろしい。
またUSA Todayの『実に39%が夫婦でそれぞれ信教を異にする混合婚である』との記述の意味ですが、この数値は7割以上が自分をキリスト教徒であると断定するアメリカではキリスト教徒と異教徒の仏教徒とかイスラム教徒とが婚姻するとの意味ではない。
アメリカ人が考える『信教を異にする混合婚』とは宗教の違いの意味では無くて、なんと同じキリスト教内の『宗派』の違いを指しているのである。
キリスト教イスラム教など一神教では婚姻は最も大切な宗教行事であり、対して『棄教』はもっとも重い重大犯罪となっている。(一神教ではもしも異宗教間の婚姻を認めると、どちらか一方が最も厳しい宗教犯罪の棄教することになる)パキスタンなどイスラム法国家では棄教は死刑なのです。
宗教に対して世界一寛容な日本人の常識では、到底理解出来ない恐ろしい話である。
キリスト教などの一神教徒にとっては些細な教義の違いしかない『同一宗教の中の他の別宗派』の人々は、信者たちにとっては『信教が異なる異教徒』だったのである。
西欧世界では同じキリスト教徒同士のカトリックとプロテスタントが血で血を洗う壮絶な殺し合いを延々と続けていた歴史があるが、これはネストリウス派(景教)を異端として弾圧したキリスト教創成期からの2000年の暗黒の歴史(魔女狩りなどの宗教裁判、宗教戦争)と繋がってるのである。
ナイチンゲールの逸話にもあるように戦争の残酷さでは際立っていた162年前のクリミヤ戦争ですが、今まで長年争っていた新教のイギリスと旧教のフランス、イタリアが連合して、同じキリスト教でも宗派が違う『東方正教』の盟主であるロシアを叩いた宗教戦争の側面がある。(19世紀中葉の西欧世界では、それまで殺しあっていた新教と旧教の争いが一段落していた)
同じく人類の歴史上最も壮絶だった第二次世界大戦でも宗教戦争の側面がある。ナチスドイツが暴れまわった欧州の犠牲者の数では無神論のソ連が2000万人で飛びぬけていて、二番目に多いのがカトリック(異宗派)のポーランドで800万人、三番目が異教徒のユダヤ人で600万人。今のウクライナ紛争にもWW2の宗教戦争の隠された本質部分が地下水脈で繋がっている。
今のアメリカが強引にすすめる意味不明の『対テロ戦争』ですが、『これは宗教戦争である』と見れば案外意味が分かりやすい。
世界最先端の先進国であると思われている今のアメリカですが、先進国としては例外的に宗教的な国家(政教一致の神聖国家)であり、そのことが最大の原因で未だに宗教戦争の真っ只中にあるのでしょうか。

『ヨーロッパのメディアから現代日本はこんなふうに見えている』

スイスのラジオ局が日本の宗教事情についての番組を作るために訪日するにあたり、現代日本の宗教事情について詳しく知る人物として神戸の4年制ミッションスクールの教授だった内田樹に、事前に質問状を送ってきている。
その質問状からは欧米の一神教世界から見る『現代日本のイメージ』がはっきりと示されていてたいへん興味深い。内田樹が和訳した質問状を掲載したい。
(1)
今日の日本に「日本の国民的信仰」というものは存在しますか?
(2)
単なる社会契約という以上の国民的な統合の軸というもの、アメリカ人における「市民宗教」(religion civique)に類するものは存在しますか?
(3)
あるとすれば、それは日本文化の宗教的層である「無常感」のようなものでしょうか?
(4)
物質主義的な文化は日本の霊的生活にどのような影響を及ぼしているでしょう?
(5)
それは伝統的な宗教実践や、「マーケット志向的」(orientés client)な新しい宗教運動の出現には関与しているでしょうか?
(6)
先祖伝来の宗教文化の次世代への継承は果されているでしょうか?
(7)
日本は新しい外来の新しい宗教的表現(例えば韓国におけるペンテコステ運動のような)ものに対して開かれているでしょうか?
外来の宗教的表現に対する日本人の態度は、すべての外来の文物に対する程度と同一のもの(興味は示すが、どこか不信感もある)でしょうか?
(8)
あなたはマンガの専門家でもありますけれど、霊的な問題意識はこの領域には入り込んでいるでしょうか?
マンガの世界から派生した独特なモラルというものは存在しているでしょうか?
(9)
現在政権の座にある日本の右翼( la droite japonaise actuellement au gouvernement)の政治的アジェンダには「宗教的」な面があるでしょうか?
(10)
神道は明治維新のもとで政治的目的のために功利的に利用されたのでしょうか?
(11)
靖国神社への参拝はその政治目的のひとつの実例なのでしょうか?
(12)
仏教もこのような歴史的変化によってその性格を変えたのでしょうか?
(13)
保守的言説が犠牲的精神や簡素さや愛国心や権威を讃えることと関連はあるのでしょうか?
(14)
「欧米由来の進歩的なヒューマニズム」に反対する言説と宗教の関係はどうなっているのでしょう?
(15)
戦後日本の「平和主義・平等主義的で寛容な」教育は物欲を煽ることで国を滅ぼしたとして糾弾されていますが、このような批判は日本国内ではどのように受け止められているのでしょうか?
(16)
個人主義は日本では敵と認定されたのですか?
(17)
民主主義的な価値観は日本では断罪されているのですか?
(18)
私が読んだものの中で、日本の社会学者たちは「無縁社会」(連帯を失った社会的危機)について言及していましたが、この概念は厳密にはどういうことを意味しているのでしょう?
(19)
意味の危機、未来への信頼の危機、アイデンティティーの危機、そういう危機感は日本の人口の高齢化とかかわりがあるのでしょうか?
(20)
日本の若者たちの一部が伝統的な社会経済の構造について無関心であることにかかわりがあるのでしょうか?
(21)
このような保守的言説には地理的に多少の偏り(都市部か地方か、中心か周縁か)があるのでしょうか?
(22)
戦後70年経ちましたが、日本は後戻りのできない方向に舵を切っているのでしょうか?(le Japon prend-il un virage irréversible ?)
(23)
あなたは坂本龍馬について言及していましたが、現在の日本が次第に閉じられた国になりつつあることに裏切られた気持ちを持っているのでしょうか?
(24)
あなたの父親は第二次世界大戦後の日本の再建にかかわってきたそうですが、あなたは(憲法九条に示されるような)平和主義的な日本はその終末を迎えていると考えていますか?


『隠れキリシタンが多すぎる不思議のネット世界』(日本の特殊事情)

『内田樹の研究室』2015.05.10『スイスのラジオ局から訊かれたこと』ですが、何とも思わせぶりに質問項目だけが列挙されているが、その答えは先送りされていて何処にもない。何時もの歯切れの良い(誰にでも分かりやすい)文章を書く内田樹が別人になっているのである。
密かにキリスト教のミッション(伝道活動)を行っているらしい隠れキリシタンの内田樹としては、スイスのラジオ局の質問内容が難しい。(下手に答えると自分が隠れキリシタンであることが世間にばれるので)答えに窮しているのである。だから熟考して、時間をかけてから返答をする心算なのでしょう。(逆に答える時間を与えないで返事を要求すると、うっかりと本心を喋る場合が有る)
スイスのラジオ局の24項目の質問ですが、自分が隠れキリシタンで有る事実を隠したい内田樹とは大違いで、普通の平均的な日本人なら考えるまでも無く即答できるのである。
平均的日本人は宗教的には融通無碍で自由平等、博愛主義なのでる。正月には神道の神社に初詣に行きお盆には先祖供養をおこない結婚式はキリスト教で、葬式は仏教で行う。日本人が取り入れないのはイスラム教のラマダン(断食月)程度で他は何でもクリスマスだけでは無くてバレンタインデーでもケルトのハロウインでもゲルマンのイースターでも、何でも面白そうなものは即座に取り入れる。そして日本的に改良して、人畜無害なレベルにまで宗教色を極限まで薄めてしまうのである。
世界中の宗教の中で唯一日本の古代からの『神道』には、そもそも小難しい教義そのものが存在しないのである。
神道の『かんながらのみち』(神ながらの道)とは、『目の前の森羅万象あらゆる事実を、ありのままを丸々そのまま受け入れる』なので原理的にひち面倒くさい教義を一切必要としないし、現在の様な科学万能の世の中では日本人の一人勝ち状態になるのは当然であった。(大人の平均的知的水準では日本人は世界中のトップである)
1910年生まれで第一次世界大戦も第二次世界大戦も両方経験しているフランスのノーベル医学生理学賞受賞者ジャック・モノーは『偶然と必然』で、『人間にとってどんなに不安で絶望的なことであろうとも、それが科学的で客観的な知識であるならば無条件で受け容れるべき』だとしているが、これは大科学者から改めて言われなくても日本人なら大昔から誰もが知っている。
モノーの『目の前に有る科学的な客観的事実を無条件で認める』とは、神道の『かんながらのみち』そのものであり、最も日本的な精神であったのである。

『無神論の立場で、「日本の宗教事情」を答えてみる』

(1)の問いですが、
もしも欧米世界のキリスト教の様な現実の世俗世界をこえる超越思想としてならば、今日の日本に『日本の国民的信仰』というものは一切存在しない。
過去には、1000年以上前に日本にも仏教や儒教の様な超越思想が入ってきたが即座に日本的に改編され、超越性を失っている。
100年ほど前にも同じようにキリスト教が日本に入ってくるが、短時間で変質して矢張り同じように超越性を失って日本化して仕舞っている。
日本の歴史上で宗教が超越性を持ったことは一度としてなく、常に現実の政治(世俗世界)に従属していた。
日本で歴史上一番西欧の一神教に近い『国家神道』でも政治の道具程度であり、宗教としてすこしも自立していない
本物の宗教(超越性、普遍性)など、日本国に限っては夢のまた夢である。
我が日本国では、他の全てに優先する超越的(普遍的)な『存在』とは、唯一『科学』だけなのです。
しかも我が日本国では、科学の優位性(科学の正しさ)を否定するものは何人であれ(一般人はもちろん、例え聖職者でも)例外なく即座に愚か者か狂人の何れか、あるいは両方として一般社会から排除されるという厳しい『鉄の掟』が存在している。
その意味では今の日本人の国民的信仰とは、科学の正しさを無条件に信じるという『科学教』?であると判断できる
(2)の、
単なる社会契約という以上の国民的な統合の軸。アメリカ人における「市民宗教」(religion civique)に類するものとして、我が日本国に存在するのがマグニチュード9の3・11大震災時に、欧米のマスコミが驚愕した『きずな社会』の存在である。
未曾有の大災害とか天変地異時には一つの例外もなく、後進国だけでは無くて欧米先進諸国でも必ず暴動や略奪が発生するのが世界の常識なのである。
だから日本国以外の世界中の普通の国には、必ず一つの例外も無く『本物の軍隊』が存在する。軍隊の本当の目的とは何か。(軍とは構造的に両刃の刃であり、内向きにも外向きにも自由に使える)
政府が国民に宣伝する『外国軍の侵攻』に備えているのではなくて、もしもの非常時に国民を力ずくで抑える『暴力装置』が、世間に秘密にしている『本当の目的』なのである。
ところが、唯一日本だけは暴動も略奪も騒乱も何も起きなかった。(欧米など外国のマスコミは静かな無政府状態と表現している
20年前の神戸でも4年前の東北でも同じで、暴動略奪どころか目の前で肉親を失い全財産を失っても、大声で嘆き悲しむ市民さえもがいなかった。
まるで殉教者のごとく微笑み、全員が静かに悲しみに耐えていたのである。
我が日本国では『絆』と言う、目に見えない強烈な超越宗教が人々を縛っていたのであろうか。
絆の語源は家畜の足を縛る紐のことで、日本独特のいわく因縁いいがたい『絆社会』とは、自分では絶対に抜け出せない愛おしい束縛のことなのです。

静かに耐え忍ぶ日本人被災民を事情を知らない欧米人は褒め称えたが、実は日本人ではこれは当然で、これ以外の対処方法が無い。仕方が無いのである。
個人社会の欧米など外国とは大違いで、日本の場合には『全員で、自分の周りの空気を読む』ことを基本とする恐るべき『自己規制』の絆社会だったのである
(3)の日本文化の宗教的層の質問ですが。
これはスイスのラジオ局が日本を根本的に勘違いしているだけでは無くて、仏教の根本原理を誤解しているのである。
そもそも2千数百年前にブッダがといた『無常感』とは命有るものは死に、形有るものは壊れる。奢れる盛者は何時かは滅びるとの、科学的な一般論を無知な一般大衆に説明した程度の話であり、他の宗教とは大違いで仏教では霊魂に付いて一切問題としていない。(霊魂不説)
また輪廻転生も一人の人間が何回も生き返るチベットのラマ教の話では無く、親のDNAが子供に受け継がれるとの生命科学の話と考えれば、
科学論として少しも矛盾しないばかりか仏教ほど近代科学に近い存在は無いのである。(アインシュタインは世界で最後に残る宗教は仏教であろうと予測している)

(4)以降の質問ですが、
2015年05月08日 社会の『一流の小説家は新聞記者と同じ仕事をしていた』の記述内容の正しさを改めて証明するような話である。
このスイスのラジオ局ですが、わざわざ日本国内に取材してまで作ろうとしている『日本の宗教事情』とは何か。

質問項目の(1)や(2)や(3)でも質問者の日本に対する余りの無知にうんざりなのに、(4)以降では『呆れ返って。口があんぐり』としか表現できない水準である。
新聞記事でもテレビラジオなどの放送でも同じでジャーナリストが記事を書く(報道番組を作る)のは、目の前の客観的な事実ではなく、解釈された事実でもなく、その記者自身の主張なのだ。書かれるべき内容の主要部分は取材対象にではなく、記者自身の脳内にある。記者が取材に行くのは、事実を積み重ねるためではなく、自己の主張に沿った情報をネタとして仕入れるためだった。
ジャーナリストの仕事というのは、事実を伝えるルポライターの仕事とも、事実を解釈する学者の仕事ともちがう。より近いのは、小説家だ。一流の小説家と一流のジャーナリストは、ほとんど同じ仕事をしていたのである。 
記者がある事件について記事を書くということは、いってみれば、司馬遼太郎が桶狭間の戦いについて生き生きと描写するのと同種の仕事をしているのである。(それにしてもキリスト教の欧米人の想像上の日本人と、現実の日本人との乖離は凄まじい。ほぼ一神教バンザイで思考停止した妄想状態なのである)
 
『政治』 ジャンルのランキング
コメント (8)   この記事についてブログを書く