가탁 (假託)
1거짓 핑계를 댐.
2 어떤 사물을 빌려 감정이나 사상 따위를 표현하는 일.
3 어떤 일을 그 일과 무관한 다른 대상과 관련지음.
당대에 광범위한 공감층이 형성되면서 김삿갓의 이름으로 많은 위작, 가탁이 행해졌다.
en.wikipedia.org›Adhyāsa
Adhyāsa - 위키피디아 영어
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Adhyāsa (Sanskrit:अध्यास Superimposition ) is a concept in Hindu philosophy referring to the superimposition of an attribute, quality, or characteristic of one entity onto another entity.
In Advaita Vedanta, Adhyasa means a false superimposition of the characteristics of physical body (birth, death, skin color etc.) onto the atman, and also the false superimposition of the characteristics of Atman...
Khyativada - 위키피디아 영어
Part of a series on Hinduism Hindus History Timeline Origins History Indus Valley CivilisationHistorical Vedic religionDravidian folk religion Śramaṇa Tribal religions in India Traditions Major traditions Shaivism Shaktism Smartism Vaishnavism List Deities Trimurti Brahma Vishnu Shiva Tridevi Saraswati Lakshmi Parvati Other...
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샹까라에서 덧놓음(가탁)의 의미와 의의 - DSpace Home
Adhyāsa or superimposition known widely as a kind of meditation in the Upaniṣads is a trace that shows properly a turning point from meditative knowledge to Self-knowledge.... of 'adhyāsa', i.e. meditative practice, epistemological error, and methodological strategy. First, adhyāsa as meditative practice takes the form of 'to meditate by...
『유식삼십송』의 가설(假說)과 『브라흐마 수뜨라 주석』 서문의 가탁(假託) 비교 - 샹까라에 미친 유식불교의 ....
이 글은 바수반두의 『유식삼십송』, 스티라마띠의 『유식삼십송석』에 등장하는 가설(upacāra) 개념과 샹까라의 『브라흐마 수뜨라 주석』 서문에 등장하는 가탁(adhyāsa) 개념을 비교함으로써 전자가 후자에 어떤 영향을 미쳤는지 살펴보고자 한다. 이로부터 유식불교가 샹까라의 철학에 미친 영향과 관련하여 그 사례를 제공하려고 하고, 더 나아가 불교가 베단따 철학에 어떤 의미의 영향을 미쳤는지 그 성격과 범 ...
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학술정보
The Meaning and Significance of Adhyāsa in Śaṅkara
무료
(2010) 박효엽
1회 피인용
인도철학회 / 인도철학
원문 2건(무료/비로그인)다운로드
국토연구원 외 136곳
우빠니샤드에서 명상의 일종으로 알려져 있는 덧놓음(가탁)은, 이를 수용하고 변용하면서 ‘베단따’라는 체계를 정립하는 샹까라에게 세 가지 의미로 나타난다. 세 가지 의미란 명상적 수행으로서의 덧놓음, 인식론적 결함(오류)으로서의 덧놓음, 방법론적 전략으로서의 덧놓음이다. 첫째, 명상적 수행으로서의 덧놓음은, 유속성 브라흐
학술논문
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中央大学学術リポジトリ
https://chuo-u.repo.nii.ac.jp › record › files
小嶋洋介 저술 · 2017 — Le ma-ya- chez Toshihiko IZUTSU. 小 嶋 洋 介. 要 旨. 「東洋哲学」を思想視座 ... まず,一般に専門家によって「付託」と訳される adhya-sa(時代が下ると adhya-ropa ...
本質と自己
中央大学学術リポジトリ
https://chuo-u.repo.nii.ac.jp › record › files
小嶋洋介 저술 · 2017 — Le ma-ya- chez Toshihiko IZUTSU. 小 嶋 洋 介. 要 旨. 「東洋哲学」を思想視座 ... まず,一般に専門家によって「付託」と訳される adhya-sa(時代が下ると adhya-ropa ...
―自然の存在学のために:井筒俊彦における〈マーヤー〉―
L’Essence et le soi : ‹Pour une ontologie de la nature›
Le maya-
chez Toshihiko IZUTSU
小 嶋 洋 介
要 旨
「東洋哲学」を思想視座として戦略的に提起し,西洋哲学を中心軸とするの
ではない,新たな哲学確立の必要を示唆した碩学,井筒俊彦の意思を,本論考
は踏襲するものである。井筒は,主著『意識と本質』において,イスラーム
哲学の用語を援用しつつ「普遍的本質」(マーヒーヤ)と「個別的本質」(フ
ウィーヤ)の二相を提起している。しかし,この二相の本質を単に並行的に論
述することに,井筒の「本質」論の要諦が存するわけではない。両者の差異を
認識しつつ,両者の合一を探求する点にそれはある。本論考は,その理論的深
化・進展のための試みの一つである。ここでは,インド哲学の主潮流をなすと
言える「有」の問題を,ヴェーダーンタ哲学の論理からアプローチすることを
課題とする。そのための探究の機軸となるのは,井筒の「マーヤー」に関する
論考である。ブラフマンという絶対「有」を「普遍的本質」として立てるヴェー
ダーンタ哲学において,マーヤーは「幻影」として,究極的には排除されるも
のと見なされるが,井筒による創造的解釈を通じて,マーヤーの新たな意味を
探究し,そこに「自己」の問題が介在していることに,我々は着目する。
キーワード
本質,自己,井筒俊彦,マーヤー,ヴェーダーンタ哲学
― 227 ―
序
本論考は,拙稿「物と生命」(『人文研紀要』第84号2016年)に続く一編で
ある。また,拙稿「自己と自然」(『中大仏文研究』第49号,中大仏文研究会,
2017年)とも連動している。
「物と生命」では,美術史家,ケネス・クラークによる「地中海の芸術
家」セザンヌと「北方の芸術家」ファン・ゴッホという分類項の考察から
出発して,終結部で,井筒俊彦が『意識と本質』1)において提起する「本質」
の二つの位相という問題に到達した。イスラーム哲学の用語を援用して
井筒が提示する本質の二相とは,「普遍的本質」(マーヒーヤ)と「個別的
本質」(フウィーヤ)である。前者は,プラトン主義に典型的に見られるよ
うな,「人間の意識の分節的機能によって普遍者化され一般者化され,さ
らには概念化された形でそれらの事物が提示する「本質」」〔I-6. 36〕であ
る。後者は,本居宣長における「ものの心」のように,個々の事物に内在
する「本質」,「これ」として直感的に把持される「個物」に固有の本質で
ある〔Cf. I-6. 32-34〕。しかし,この二相の本質を単に並行的に論述する
ことに,井筒の「本質」論の要諦が存するわけではない。両者の差異を認
識しつつ,両者の合一を探求しなければならない。「物と生命」では,「瞬
間のポエジー」として簡単に触れたが,本論考では,その理論的深化・進
展のために,インド哲学の主潮流をなすと言える「有」の問題を,シャン
カラ(700~750)を中心に興隆するヴェーダーンタ哲学の視座からアプロー
チすることを課題とする。そこに「自己」の問題が存在していることに,
我々は着目する。そのための探究の先導となるのは,井筒による「マー
ヤー」論である。第一節にて,ウパニシャッドにおいて特有のブラフマン
とアートマンの合一の問題に関して論究する。第二節にて,合一の理論的
要諦となるヴェーダーンタにおけるマーヤーの意味について論究する。結
― 228 ―
びにて,「有」を基胎とする哲学から,マーヤーを機軸とする哲学への転
換の可能性を示唆する。
1 .汝はそれなり
「序」で示した如く,井筒俊彦の「本質」論の要諦は,「普遍的本質」と
「個別的本質」との合一のテーマであると考えられるが,この主題が,イ
ンド哲学の主旋律にあることを,本節で概説する。
インド哲学は,紀元前 8 ~ 7 世紀のウパニシャッド文献から,その自覚
的な歩みが始まると一般的に言われている。ウパニシャッドに記される最
初期の哲学者たち,ウッダーラカ・アールニ(紀元前 8 世紀後半)は「有」
(ブラフマン=梵)の哲学を興し,次にヤージュナヴァルキヤ(紀元前 7 世紀)
は,「自己」(アートマン)の本質を本格的に探究した最初の哲学者である
とされるが 2),彼らにとって,その哲学の出発点から,「有」と「自己」
は単純に弁別できるものではないと見なされ,両者の関係をめぐる思索の
多岐多様にわたる変奏が,インド哲学の豊穣な旋律を生み出していると考
えられる。つまり,根底に響いているのは「梵我一如」という主旋律であ
る。井筒は「TAT TVAM ASI(汝はそれなり)」と題する論考3)を著してい
るが,その中で,このタイトルの文こそ,ブラフマンとアートマンの合一
のテーマを収約する言葉であるとして,次のように記している。
Tat tvam asi(「汝はそれなり」)は,ウパニシャドの宗教的・哲学的
思想の精エッセンス
髄を一文に収約したものとされ,特にヴェーダーンタ哲学の
伝統では「大
マハーヴァーキヤ
文章」(=根本命題)と称され,古来インド系思想の特徴
ある基礎概念として絶大な働きをなしてきたものである。「汝はそれ
なり」。「汝
トヴァム
」とは個我,すなわち個的人間の主体性の中心軸,いわゆ
るアートマンのことであり,「そ
タット
れ」とは全存在世界の根源的リアリ
本質と自己
― 229 ―
ティ,万有の形而上学的最高原理,いわゆるブラフマンのこと。要す
るに,「汝はそれなり」とは,アートマンとブラフマンの一致,すな
わち,個的人間の主体性は,その存在の極処において,全宇宙の究極
的根抵である絶対者,ブラフマン,と完全に一致するということを意
味する。〔I-10. 305-306〕
ただし,「アートマンとブラフマンの一致とか合一とか言っても,実は
両者は元来一体なのであって,ただ普通の人間の場合はまったく自覚され
ていない」だけで,「それがある時,突然自覚される」,その「主体的覚知
の瞬間を「汝はそれなり」という命題で収約的に示す」のである。その
時,ブラフマンは全存在世界もしくは宇宙そのものとして把握される〔Cf.
I-10. 306〕。『マーンドゥーキャ・ウパニシャド』の冒頭に示されているよ
うに,「実にこのすべて〔=万有,全存在世界〕はブラフマンであり,こ
のアートマンはブラフマンである」〔I-10. 307〕。いわば,「自己は全宇宙
という一なるもの」だと言えるのである。もちろん,個我であるアートマ
ンは,「多」として存在する存在者である。しかし,「一」なるブラフマン
自体(万有,全存在世界)に内在的に顕現するものである。ここには,「一
神論」と現象世界のあらゆる事物に神性を見る「汎神論」とを逆接的に接
合させる理路がある。言い換えれば,「一即多」もしくは「一即一切」の
原型的思索が働いているのである。この問題を究明するためには,自己と
自我の弁別が筆頭テーマであることに留意しなければならない。インド哲
学研究者,宮元啓一によれば,「仏教も含むインド哲学では,自己(アー
トマン,プルシャ,self)と身心(カーヤ・チッタ)」とは本来異なり,「身心
を自己だと錯覚することがあらゆる迷妄のもとである」と見なされる,「そ
の意味で,身心をまとめていわゆる自我(ego)だと考え」,その自我を自
己と弁別する。「自己はおのずから,無媒介に,自立的に,いわば自己反
― 230 ―
省的・自己回帰的にその存在が確立しているもの」であり,それに対して,
自我は認識対象であり,かつ自己がそれを介して世界を認識する媒体」で
ある。自己は「それを生じしめる原因」も「それを滅ぼす原因」も持たな
い,「自己は不生不滅,常住不変」である。「それに対して,自我である身
心は生じては滅するものであり,無常」,「無常な自我を常住な自己と錯覚
するからこそ,あらゆる煩悩の中核を成す我執が生じ,その我執があらゆ
る迷妄のもととなり,人を苦しみの輪廻的生存に縛りつける」のである
〔Cf. M. 149-150〕。つまり真に「有る」と言えるのは,「ブラフマン=自
己(アートマン)」のみであると論じているのだ。故に,ヴェーダーンタ哲
学を代表する哲学者として著名なシャンカラは,我々が生存し行為してい
る現象として顕現する世界とは,「幻影」(マーヤー)であると見なす。現
象世界に生きる「我」や「汝」として相対的に現われる「私」,すなわち
日常的に生活し行為する「自我」としての私は「幻影」(マーヤー)である。
そのマーヤーとしての「自我」ではないものとして真の「自己」を理解す
る必要がある。それは恒常不変のものなので,いわゆる「輪廻」という生
死の反復からも,本来,解脱しているものである。そのような自己は対象
として捉えられるものではないが故に,言葉によって認識されるものでは
ない。シャンカラの『ウパデーシャ・サーハスリー』(韻文編・18・57)に
おいて,「アートマンはつねに唯一であり,苦痛をもたず,変化しない,
と〔理解する〕人びとにとっては,アートマンはけっして言葉によって表
示されることも,また認識されることもない4)」。故に,『に非ず,に非ず』,
『これは私ではない,これは私ではない』と,否定を重ねることによって
しか,アートマンに至ることはできない(Cf.『ウパデーシャ・サーハスリー』
散文編・ 2 ・ 1 )〔M. 155〕。
自己は,「客体」として把持されることのない「主体」であるという観
点から主客の二元的弁別を否定していくことが,「に非ず,に非ず」であ
本質と自己
― 231 ―
る。マーヤーという幻影の皮を剝いでいくことである。この究極に「有」
が把持される。その時,現象世界とはマーヤーであり,真に存在するもの
ではないという理路に至る。しかし,そこにある問題点は明白である。ブ
ラフマン(梵=「有」)とは,一神教の「神」と同等ではないか。その絶対
的実在を前提としていて,その存在証明はなし得ないものだ。つまり「語
り得ないもの」である。同時に,そのブラフマン=神という超越的レベル
に,我々の生きる現象世界の存在を根拠づけることになる。すると,個々
の「自己」には,真の自由も,意思もないことになる。しかし,神は否応
なくある,「何故なし」の「有」である。このような「神」は,徹底的な
「懐疑」を貫徹するならば,宗教としては成立しても,理論的探求を旨と
する哲学の立場としては,不合理な信仰対象として退けるべきものではな
いか。このように考察すると,西洋哲学の歴史において,デカルトの「我」
が登場するのは必然と言えるかもしれない。いわゆる近代的「自我」の正
当性の所以がそこにあるのかもしれない。少し検討してみよう。
まず,デカルトの「我」とは,誰もが思い浮かべる「私は考える,故に
私はある」Je pense, donc je suis という著名なテーゼに示される。彼の複
数のテクスト中に,同文は認められるが,例えば,『哲学原理』5)において,
以下のように表記されている。
〔…〕何らかの仕方で疑うことができるものについて,そのすべてを
拒否し,それを偽であるとさえするならば,たしかに,神もなく天も
物体もないと容易に想定できるであろうし,また,われわれ自身が手
も足ももたず,最後には身体ももたないとさえ容易に想定できるであ
ろう。しかし,だからといって,そのように思惟しているわれわれが
無であると想定することはできない。なぜなら,思惟しているものが,
思惟しているまさにそのときに存在しないとみなすことは矛盾して
― 232 ―
いるからである。したがって,「われ思惟す,ゆえにわれあり」ego
cogito, ergo sum というこの認識は,すべての認識のうちで,順序に
したがって哲学する人ならだれもが出会う,最初の最も確実な認識で
ある。〔D. 65(I・7)〕
デカルトの哲学における自我の実在論は,ウパニシャッドに始まるアー
トマンの哲学と近接しているように思われる。特に,シャンカラの以下の
ような文言には,デカルトと相似する理路が示されている。
〔…〕自己は,自己である状態であるがゆえに,自己を否定する想定
は不可能である。なぜなら,誰にとっても,自己は偶然的なものでは
ないからである。それは,おのずから成立しているものであるゆえ。
なぜなら,自己は,自アートマン
己を認識する手段を必要として成立するのでは
ないからである。なぜなら,知覚などの認識手段は,まだ知られてい
ない認識の対象を成立させるために,自己によって用いられるからで
ある。なぜなら,認識手段を必要としない虚空などの事物は,おのず
から成立している,と誰によっても容認されないからである。しかし
自己は認識手段などの日常の活動の拠り所であることのゆえに,まさ
に,認識手段などの日常の活動以前に成立している。そして,このよ
うなものを否定することは不可能である。なぜなら,否定されるのは,
偶然的なものであって,みずからの本質ではないから。なぜなら,火
の熱は,火によって否定されないから。同様に,「わたくし自身,今,
現在している事物を知っている。わたくし自身,過ぎ去ったこと,そ
して,それより以前に過ぎ去ったことを知った。わたくし自身,未来
のこと,そして,それよりも,もっと,未来のことを知るであろう」
と,そのように言われるからである。過去,未来,および現在の状態
本質と自己
― 233 ―
によって認識の対象が変化するとしても,知っているもの[=わたく
し自身]に変化は存在しない,それは,常に,[永遠の]現在をそれ
の固有の性質として有するものであるからである。そのように,たと
い肉体が灰になるとしても,自己は断絶しない,それは[永遠の]現
在という固有の性質を有するゆえ。あるいは,それは〔永遠の現在
と〕異なる,固有の性質を有すると想像され得ないのである。このよ
うに,まさに否定され得ない固有の性質を有するものであるゆえ,自
己/アートマンは結果でないものである6)
。
デカルトによれば,「私」には思惟する自由が与えられている。言い換
えれば,それは限りなく疑うことのできる能力である。「神は存在しない,
世界は存在しない」という想定も可能である。つまり,「に非ず,に非ず」
という否定を重ねることができる。しかし,思惟の自由は,「私」が実在
するからこそ可能である。「私は実在する」というテーゼが絶対根拠とし
て提起される。私は思惟しているという事実自体が,私の「実在」を照示
しているのである。同様に,シャンカラの説くアートマンは,思惟や行為
といった活動以前に成立しているものだ。「自己は実在する」,やはりこの
テーゼが,あらゆる思惟や行為に先立つ根本原理であるという点におい
て,デカルトとシャンカラは通底する。しかし,両者が異なるのは,シャ
ンカラにとって,アートマンはブラフマンと一体である点である。上記引
用文中で否定される,「偶然的なもの」とは現象世界に属するもの,生成,
変化,消滅する様々な事物のことである。真の自己は,「偶然的なもの」
(=現象するもの)ではないが故に,変化しない,永遠の現在,すなわち「恒
常的なもの」であると言えるのだが,その恒常不変・普遍的なものとは,
端的にブラフマンである,自己の「本質」はブラフマンであるが故に,日
常的に「われ」,「汝」,「かれ」等と弁別される「私」(自我)は,真の「自己」
― 234 ―
とは言えない。デカルトにおいても,神は否定されるわけではない。むし
ろ,私が実在することの,絶対的な根拠となっている。しかし,だからこ
そ私と神は弁別される。私と神が合一するなどということは不可能である
という論理が導かれる。例えば,以下に引用する文章から,デカルトの神
の存在証明の理路が洞察される。
〔…〕この最高に完全な存在者〔神〕の観念は,精神自体によって作
られたものでも,何かキマイラのような本性を表しているものでもな
く,そこに必然的存在が含まれるがゆえに存在せざるをえない,真実
で不変の本性を表している〔…〕。〔D. 107(I・15)〕
〔…〕われわれは神の観念,すなわち最高の存在者の観念を自らのう
ちにもっているのであるから,いかなる原因によってそれをもってい
るのかを当然調べてみることができる。そして,われわれはその観念
のうちにきわめて大きな無辺性を見いだすので,その観念は,すべて
の完全性を真に包括するもの,すなわち現実に存在する神によってで
なければ,われわれのうちに付与されえなかったことが,そこから確
信されるほどである。というのも,無からは何も生じないこと,ま
た,より完全なものは,より不完全なものから,これを作用因や全体
因として産出されないこと,それだけでなく,われわれのうちに何ら
かの事物の観念あるいは映像があって,そのあらゆる完全性を実際に
含んでいる何か原型のようなものが,われわれ自身のうちであれ外で
あれ,どこにも存在しないということはありえないこと,これらは自
然の光によって明白であるからである。
そして,われわれがその観念をもっているかの最高の完全性は,わ
れわれのうちには見いだされないのであるから,このこと自体からし
て,その完全性はわれわれとは異なる何らかのもの,すなわち神のう
本質と自己
― 235 ―
ちにある,あるいは少なくともかつてあったと,われわれは正しく結
論する。また,ここからそれらの完全性が今もあることが最も明証的
に帰結されるのである。〔D. 116-117(I・18)〕
デカルトにとって,「神」は「完全な存在者」であり,「無辺」(=無限)
なものである。不完全で有限な存在である「私」が,神と合一するなどと
いうことはあり得ない。その意味では,インド哲学的には,デカルトの
「私」は「自我」のレベルに存する。しかし,「完全なもの」からこそ「不
完全なもの」は生じる。「完全なもの」,「無辺なもの」の観念を我々が抱
くということが,「完全な存在者」である神の実在を証する。デカルトに
とって,「神」の観念は我々が任意に作った概念や創作物などではあり得
ない,神自身から由来する「生得観念」であるからである。ここで示した
のは,極めて簡略化した形でのデカルト哲学の一側面にすぎないが,我々
が確認したいのは次の点である。デカルトの「自我の実在」には,「神の
絶対的実在」の無条件な前提があること,その点で,中世神学との連続性
を認めざるを得ない。デカルト主義哲学は,超越的「神」,あるいはより
正確には,神の「超越」を前提としている。ただし,絶対的神の純粋一元
論を理論的に突き詰めず,神と人間,精神と物質といった二元性を肯定し
ているのである。それに対し,ヴェーダーンタ哲学の潮流は,このような
二元論を超克する,もしくは,無条件で二元論を肯定する思索に落着する
ことはないと言える。大雑把に問題を整理すると,西洋哲学において神
は「超越」であり,近代は神の問題を棚上げして哲学を「人間の視座」に
特殊化して展開することを可能とする道を選択したのである。ヴェーダー
ンタ哲学においては,「超越」する神を「内在」へと転移させる理路を探
究する,もしくはこの二つの背反するパースペクティヴを同時に可能とす
る思索を展開する。もちろん,ヴェーダーンタにおいて「神」の実体的
― 236 ―
「有」は絶対に否定されることがない。神の「有」の概念は,インド哲学
一般において,思想的な「大地」とでも言うべきものだからだ。その点,
インド哲学の異端思想である仏教は,実体的「有」を否定する,「無」や
「空」の哲学を展開する。我々は,いずれ仏教哲学と本格的に取り組まな
ければならないが,その前に,仏教と対立するかに見える「有」の哲学を,
さらに論究する必要がある。ヴェーダーンタの運動自体は, 8 世紀のシャ
ンカラと共に盛期を迎えるので,ブッダの登場(紀元前 6 世紀)よりもは
るかに後世だが,基となる紀元前 8 ~ 7 世紀に遡るウパニシャッドの系譜
を鑑みれば,仏教にしても,インドにおける「有」の大地より芽吹いた思
想であることは間違いないからだ。興味深いのは,井筒の解釈によれば,
ヴェーダーンタ哲学やそれを代表するシャンカラの哲学と仏教は,「絶対
矛盾的」に通底する認識を懐胎しているのである。その理路を,次節にて
論究する。
2 .マーヤーとしての世界
1993年 1 月 7 日に急逝する井筒が,遺著となる『意識の形而上学―
『大乗起信論』の哲学』に取り掛かる前に『思想』(岩波書店)誌上に,二
本の論考を発表している。一本は我々がすでに言及した「TAT TVAM ASI
(汝はそれなり)―バーヤジード・バスターミーにおけるペルソナ転換の
思想」(『思想』1989年 6 月)であり,もう一本は「マーヤー的世界認識―
不二一元論的ヴェーダーンタの思惟構造をめぐって」(『思想』1990年 1 月)7)
である。この両論考は,『意識と本質』において提起された,「普遍的本
質」(マーヒーヤ)と「個別的本質」(フウィーヤ)との合一問題の延長上に
ある論究であると考えられる。前者の論考は,副題に見られるように 9 世
紀に活躍したイスラーム神秘主義者(スーフィー)の一人として著名なバー
ヤジード・バスターミーの思想と,特に,彼の神秘体験と連動する言語
本質と自己
― 237 ―
表現の問題を論じたものである。イスラーム神秘主義(スーフィズム)は,
正統イスラーム思想・神学の観点からは異端とされる。そこでは,自己と
神との合一体験が要となる,すなわちその場合,「神」の絶対的超越性と
いうタブーに抵触するからである。このスーフィズムが,インド哲学にお
ける「梵我一如」のテーゼを受容している可能性を,井筒は示唆してい
る。特にバスターミーには,「自己神化」の極所において発したコトバが
残されており,ヴェーダーンタ哲学との類縁が推定される。例えば,anta
dha-ka(アンタ・ザーカ)〔汝はそれ(である)〕という一文は,ヴェーダー
ンタの Tat tvam asi のアラビア語における直接的再現であるという説を英
国オックスフォードの教授であったぜーナーが唱えている由,井筒が紹介
している〔Cf. I-10. 310〕。その是非が,井筒にとっても我々にとっても最
重要の問題であるわけではない。井筒が着目するのは,霊性的体験の高み
におけるコトバの特殊性である。バスターミーの発する言葉は,「神と人
とのあいだの我・汝関係の境界線はゆらぎ,流動化して,どちらがどちら
なのか不分明になる」境域において「神人合一」の体験を伝えるもので,
日常的な意味分節の範疇を逸脱してしまう。井筒は次のように記す。
〔…〕この境位での神・人「対話」において,神はバスターミーに向っ
て「まことに汝は我である」(Inna-ka an-a)と言い,「我こそ汝,汝こ
そ我」(Ana- anta wa-anta ana-)と言う〔…〕。これに応えてバスターミー
の側では,「我こそ汝」と言う〔…〕。勿論,「我」バスターミーは「汝」
神だ,ということ。〔I-10. 334〕
しかし,「人と神との本来的同一性を表現するこの命題でも,なお主語
と述語,「我」と「汝」とが,文法的形式の上で区別されている」が故に,
バスターミーは満足しなかったと言う。遂には,Ana- ana-「我は我である」,
― 238 ―
Anta anta「汝は汝である」というトートロジカルな命題に至る。それ以
上に,これは「我! 我!」「汝! 汝!」という叫びとして理解する方
が真実に近いと,井筒は考察する〔Cf. I-10. 334〕。神と我とのペルソナ転
換,合一のテーマが,このようなコトバの変容として現われることが指摘
されている。井筒は,「自己探求」の道が「自己無化」に通じ,「自己無化」
の裏面で,「神探求」が進行している事態を暴き,それがコトバの日常的
な意味の脱落,変容と密接に関連していることを指摘している〔Cf. I-10.
346〕。その理路の井筒による精緻な解説の紹介は,ここでは必要あるま
い。このトートロジカルな命題は,禅の有名なテーゼ「山是山」と相似し
ているが,禅同様,スーフィズムにおける「神=自己」探求の要諦は,理
論探究よりも宗教的実践や直覚的体験にあると考えられる。シャーマニズ
ム的体験なのだ。その理論的な認識に関しては,ヴェーダーンタに依る必
要がある。
もう一篇の論考「マーヤー的世界認識」を,井筒は,次のような文から
始める。「「マーヤー」(ma-ya-)というと,人はすぐ 8 世紀の哲人シャンカ
ラ(Śańkara)の名を憶う」。しかし,主題をシャンカラの思想に限定せず,
もう少し広い視点から,古典的不二一元論それ自体の「マーヤー」につい
て論じるのだと付言している〔Cf. I-10. 370〕。文献学的研究から想定され
る異論・批判を考慮してのことであろう。また,論文の終結部には,過去
から受け継いだ思想伝統を本気で尊重するならば,テクストの示唆する思
惟可能性の筋道を辿って,創造的解釈を行なうことの必要性が強く強調さ
れている〔Cf. I-10. 428-431〕。ここでの論が,伝統的なシャンカラの不二
一元論解釈から逸脱していることを自覚しての文であろう。我々は,ここ
で考察するのが井筒独自の解釈であることを承知した上で,この創造的読
解を重視する。焦点は「マーヤー」の意味にある。すでに触れているが,
マーヤーは一般に「幻影」と訳される。アートマンとブラフマンとの「合
本質と自己
― 239 ―
一」を考える際の困難への理論的解答として,シャンカラが現象世界を
マーヤー(幻影)と規定したのである。シャンカラ哲学の位置づけに関し
て,専門家の一般的な解釈例として,例えば,前田専学は以下のように要
約する。
我々の内なるアートマンと絶対者ブラフマンとは同一であると言う
知識は,たとえ聖典の教えるところであるとしても,現実の人間存在
を直視するとき,この輪廻の苦悩の中に沈んでいる者が果してブラフ
マンと同一であり得るか,と言う大きな疑問に逢着して,およそ受け
入れ難いものに見えると言わねばならない。シャンカラの努力は,輪
廻の中に在って解脱を求める者に,この受け入れ難い真理を,いかに
理解し易く,かつ効果的に説明し,教えるかと言うことに注がれたの
である。このためにかれは,無明(avidya-, ajña-na)の観念をヴェーダー
ンタ哲学に導入し,ブラフマン=アートマン以外の一切の現象世界
は,我々の身体・感覚器官・統覚機能(buddhi)に至るまで,無明の
ために誤って想定されたものにすぎない。従って本来実在しないもの
である。無明の立場においては,様々な限定的添性(upa-dhi)のため
に,個我はブラフマンと別異であるかのように見えるが,勝義の立場
からすれば全く同一である,と教えた。個我とブラフマンとは異なっ
ておりかつ同一であると主張する,当時のヴェーダーンタの伝統的な
不一不異説(Bheda-bhedava-da)に対して,シャンカラの立場は不二一
元論(Advaitava-da)と呼ばれ,ヴェーダーンタ哲学は実在論的ブラフ
マン一元論から,幻影主義的ブラフマン一元論へと変容したのであ
る8)
。
我々を覆う幻影(マーヤー)を取り払うことで,「ブラフマン=アートマ
― 240 ―
ン」という真の実在を認識し,輪廻という苦からの解脱が可能になるとい
う理路がある。ここで実在論的ブラフマン一元論と呼ばれている学説は,
流出論的一元論とも呼ばれ,ヴェーダーンタの根本経典『ブラフマ・スー
トラ』が提起する論である。つまり現象世界はブラフマンから直接流出し
たものであると見なす。すると,現象世界に生きる個我(アートマン)は,
ブラフマンの一部であると言える。故に,アートマンはブラフマンとは異
なっており,かつ異なっていない関係にある,すなわち「不一不異」(不
一=差異・不異=同一)の関係にある。ブラフマンの「本質」は受け継ぎな
がら「分化」したものと考えるのである。宮元啓一に従えば,シャンカ
ラは,『ブラフマ・スートラ』における「流出論的一元論から流出論を排
除し,しかも一元のみあって世界は幻影であるとする「不二一元論」(別
名,幻影論)を主張した」〔M. 154-155〕のである。つまり,真実にはブラ
フマンとしてのアートマン(自己)の一元があるのみで,そのブラフマン
(=アートマン)から世界は流出しない,世界流出の原因は無明である。こ
の点を踏まえると,冒頭での井筒の文言,シャンカラに限定されない観点
からヴェーダーンタを把持するとは,この流出論的一元論と幻影論的一元
論,(井筒は,前者を「開展説」(パリナーマ・ヴァーダ),後者を「仮現説」(ヴィ
ヴァルタ・ヴァーダ)と記す)〔Cf. I-10. 426〕,そのどちらかに限定する立場
からではなく,両局を含めて「マーヤー」の問題を考察する旨を宣言して
いるのだと推察される。幻影論の問題は,次の点に現われる。宮元による
と,「シャンカラにとって,世界は幻影(マーヤー)です。当然,輪廻転生
も幻影ですから,自己の本質はただ認識主体であることだけであり,因果
応報・自業自得の担い手としては見られません。ですから,シャンカラ
は,自己は認識主体であるがゆえに認識対象たり得ないということを強調
します。したがって,シャンカラによれば,自己は世界外存在であるこ
とになります」〔M. 154-155〕。自己が「世界外存在」であるとは,アー
本質と自己
― 241 ―
トマン(=ブラフマン)が現象世界に属していないことを意味する。では,
アートマン(=ブラフマン)は我々の生きる世界を超越しているのか,二
元論ではないか,と考えられるが,そうではなく,そもそも現象世界は幻
影であり,実在しないのだという理路である。ならばその内実を明示しな
くてはならない。言い換えれば,現象世界において日常的に存在している
と思っている「私」(自我)は,実は実在しない。この私の幻影を吹き払っ
て,真実の自己を見出さなければならない。見出された「自己」は,アー
トマンであり,ブラフマンである。ここには自我の否定を通して真の「自
己」に至る,「神人同一」と同じ構想がある。しかし,如何にしてそれは
果たされるか? スーフィーは,宗教的脱我(ex-tase)によって,いわば
シャーマン的無媒介的直覚によって行なう。シャンカラの特質は,それを
哲学的認識によって行おうとする点にある。マーヤーの要因,なぜ現象世
界が存在するかのように見えるのかというと,無明の働きによるというこ
とになる。問題は,無明が我々の認識作用の本質にあるのならば,どこま
で行っても無明の闇を吹き払えないかもしれない。アートマンがブラフマ
ンであることによって,その杞憂はないと考える。しかし,それは堂々巡
りではないか。アートマンがブラフマンであるという確証はどこより生じ
るのか。また,それを杞憂と見なすのならば,無明の要因は何かが問題と
なる。すべてがブラフマンならば,なぜ,絶対存在であるはずのブラフマ
ンにおいて無明は生じるのかが,根本問題となる。この問題を討究するに
あたり,井筒は「マーヤー」の意味を問い直す。「幻影」と訳しただけで
は,意味が判然としない。つまり,それが実在しない,端的に「ない」も
のだとすると,絶対「有」であるはずのブラフマンに,「無」が生じるこ
とを意味するのではないか。結局「有」と「無」の二元論に帰着しないの
か,と考えられるからだ。とりあえず,井筒の論に従って問題を討究しよ
う。井筒によれば,ヴェーダに遡る神話形象的把握は,マーヤー概念の本
― 242 ―
源として,その概念の史的形成を貫いて影響を与え続けている。井筒は次
のように記す。
そもそも「マーヤー」は,ヴェーダにまで遡る古い語ことば
であり,人格
的絶対者,神,すなわち宇宙万有の主宰者,としての「 梵
ブラフマン
」の創造
的機能の巨大な力が,この「マーヤー」という語の意味領域の中心部
を占める。ただし,創造力とはいっても,例えば旧約聖書「創世記」
の物語る神の天地創造譚に現われているような,本物の実在論的創出
という意味での「創造」であるよりも,むしろ存在世界,存在的事物
事象を仮現せしめる能力としての了解への傾向性が圧倒的に強い。こ
のことについては,古代サンスクリットでの「マーヤー」(ma-ya-)の
通俗的意味が,魔術,幻術,妖術,手品などであり,このオカルト的
能力を行使する専門家(魔術使い,幻術師)などが通常,「マーヤー師」
(ma-ya-vin, m-ayin)と呼ばれていた事実が示唆的である。ウパニシャッ
ドにおいて,宇宙を主宰する最高神(I
-śvara)は,まさにこの意味で
の「幻術者」(マーヤー師)と考えられ,この名称をもって呼ばれてい
る(例えば『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャド』IV, 9-10)。
このような古代的神話形象の世界像においては,マーヤーは当然,
神自身の不可思議な能力,「あたかも幻術師が幻
マーヤー
術によっていろいろ
な事物事象を幻出させるように」(シャンカラ),神が,我々の現象世
界を,我々の目の前に現前させる宇宙的幻力を意味する。「マーヤー」
は神の4 4
,世界現出能力(ma-ya-ś-akti)である。〔I-10. 376〕
神そのものの幻力によって,現象世界の虚妄性は作られる。我々人間は,
ある意味,神に騙されて,この虚妄であり偽りの現実世界に生まれ,生き,
死んでいくのである。続けて,この「幻力」の持つ「騙し」,「欺瞞」のテー
本質と自己
― 243 ―
マが,バスターミーに影響を与えたことについて井筒は縷説するが,簡略
化して言えば,この見地では,マーヤーを生み出す主体は神である。しか
し,神自身さえもが制御不可能な力として働くのが,マーヤーであるとい
う理路になる。
〔…〕存在の虚妄性,夢幻性の現出は神自らの責に帰される。存在を
そのような形で,そのようなものとして現出させるのは,ほかならぬ
神の幻力である,というのであるから。しかも,本来的に神に内属す
るマーヤーの力は絶大である。客観的な存在世界,そこに現われる
一切の存在者,森羅万象,がこの幻力の所産であるばかりではない。
神自身すら―つまり全宇宙の絶対的主宰者としての至
イーシュヴァラ
高神までも
が―実はマーヤーの所産なのである。神は「自分自身の幻力によっ
て」(svama-yaya-)神という限定性を帯びて自分自身を仮現させる。あ
る意味では,神は自分のマーヤーによって迷わされるとも言うことが
できる。要するに,万有を迷妄的に現象させるマーヤーの力は,神を
眩まし騙すほどまでに劇烈であるということだ。〔I-10. 380〕
重要なのは,このように考えると,固有の形象を伴った,「限定性を帯
びた」,「個」として顕現する「神」は,「マーヤー」の力によって顕現す
ると言える。それはすでに「絶対無分別」の境位にあるブラフマンとは次
元が異なることになる。ウパニシャッドは,ヴェーダの神話的形象として
の神が,本質的には「有」(サット)であると把持することから始まる。つ
まり,絶対無分別・無限定の「存在」である。それがウッダーラカ・アー
ルニーの「有」(ブラフマン=梵)の概念であり,インドにおける「哲学」
の端緒なのである。すると,ブラフマン自体に次元の差異があると想定す
る必要が出てくる。井筒は,以下のように概説する。
― 244 ―
〔…〕絶対無限定的ブラフマン観念の導入は,不二一元論の意識論・
存在論の全体的パラダイムの中における神の位置を変えてしまう。も
はや神は窮極の実在それ自体ではない。たとえ依然として神をマー
ヤーの主体と考えるにしても,絶対的存在リアリティとしてのブラフ
マンの純粋性との関連において考察すれば,神は第二次的,第二義的
位置に貶められざるを得ない。なぜなら,マーヤー的幻力をもつとい
うことそれ自体が,ひとつの根源的限定だからである。言い換えれば,
神は,マーヤー的幻力によって制限され制約された一種の現象的 444
―
より正確に言えば,現象的存在次元に一歩近付いた―ブラフマンで
あるにすぎない。つまり,同じブラフマンではあっても,あらゆる限
定の彼方なる「至高のブラフマン」(「上梵」)ではなくて「低次のブラ
フマン」である。しかもこの「低次のブラフマン」をその低次性にお
いて成立させるマーヤーという限定は,〔…〕不二一元論的哲学のシ
ステムにおいては,「無明」(avidya-)の同義語であり,「無明」とは根
源的無知を意味する。認識能力そのものの根底にひそむ迷妄性。迷妄
性とは,この場合,事物をあるがままに把えることのできないとい
う,根源的な認識能力の欠損である。とすれば,上述の神話形象的思
惟によるかぎり,神の内にはこういう意味での無知がひそんでいるの
であって,神はこれに内在する根源的無知によって世界を創造すると
いうことになる。〔I-10. 382-383〕
マーヤーの主体に関して,「「高次のブラフマン」それ自体は,本性的に
不生不滅,時空を越えて不動不変であって,それが幻力を発揮するなどと
いうことは理論上絶対に不可能である」〔I-10. 383〕。すると,マーヤーの
主体は,「人間的主体の構造」,「意識の認識機構」そのものの中に,幻影
現出の働きの源を求めるべきである〔Cf. I-10. 383-384〕。しかし,すでに
本質と自己
― 245 ―
確認したように,「梵我一如」(ブラフマン・アートマンの合一)というウパ
ニシャドの大命題に照らすならば,「人間意識は宇宙的実在原理としての
ブラフマンのコピー」〔I-10. 384〕であると言える。このアポリアを如何
に乗り越えるか。井筒は,ブラフマンの「高次・低次」の二重構造をその
まま反映して,アートマンも二重構造を示すと見なす。すなわち,「高次
のブラフマンに対応する本源的アートマンと,低次のブラフマンを内的に
コピーする低次のアートマン」である。「低次のアートマン」とは,「非アー
トマン」であり,この非アートマンは不二一元論では「個
ジーヴァ
我」(ja-va)と呼
ばれる。「個我」とは,「普通の人間の認識主体」のことであり,この「個我」
こそ,マーヤー的世界現出の主体であると考えられるのである〔Cf. I-10.
385〕。このように捉えると,「梵我一如」の問題は,絶対無分別の相であ
る「一」なる「ブラフマン」の位相と,「個我」が現出する別異相,つま
り「多」なる現象の位相との,差異と一致の問題であることが了解される。
ただし,個我は実在しない。「有」哲学の本質論の観点から言うと,ブラ
フマンのみが「本質」である。では,神話的意味を離れて考察すると,こ
の人間主体世界に現出する「マーヤー」とは何だと言えるか。井筒は,同
義語,反義語からアプローチする。興味深い詳細の理路は割愛して,井筒
の解説の要点のみ記す。まず,一般に専門家によって「付託」と訳される
adhya-sa(時代が下ると adhya-ropa)という同義語について,シャンカラによ
る定義を二例挙げる。
まず,「何か(A)を正しく認識せず,(誤って)別の何か(B)をそれの
かわりに認知してしまうこと」(『ブラフマ・スートラ釈』序)というのが,
シャンカラによる一番簡単な定義である。井筒によれば,「原義的には何
か(A)の上に何か別のもの(B)を据える,かぶせることである」,つま
り「かぶせ」のことである。また,A の上に B を重ねかぶせると,A の本
当の姿形は見えなくなる。この見地から,この語は「陰覆」「隠蔽」を意
― 246 ―
味するsamvrtiの同義語とされる。日常的によく起こる「見当違い」「聞き
違い」など対象誤認は,この具体的ケースである〔Cf. I-10. 387-388〕。よ
り哲学的に一歩を進めると,以下のように考えられる。
次に,「付
かぶせ
託とは,以前に認識された何かを,過去把持的に,他の何か
に移して(それをその形で我々の目の前に)顕現させて見せることである」
(『ブラフマ・スートラ釈』序)と,シャンカラは上記した簡略な定義を言い
換えている。例として,蛇と縄の例を挙げる。以前に認識された何かとし
て,例えば蛇がある。他の何かとして,目の前に縄があるとする。薄暮の
中で,それが縄であることを私は知らず,記憶にある属性から判断して,
それを蛇だと思う。ごく単純な誤認経験の例だが,根底にあるのは「無知」
である。A が A であること,縄が縄であることを知らないことが問題なの
だ。「無知」は,avidya- という語であり,実は「無明」を意味する。「かぶせ」
とは,無明=無知のことである。さらに,「これは本当は縄だった」と気
付くとき,それは,B(蛇)という属性が,剝ぎ取られることである。言
い換えれば,誤った判断が取り消されることである。つまり,「取り消し」
ba-dha(バーダ)が,重要な意味を持つ。「知識」を得るとは,無知を取り
消すことである,簡便化して言えば,そこに「取り消し可能なもの」と「取
り消し不可能なもの」という二項対立を提起できる〔Cf. I-10. 388-389〕。
さて,この井筒の要を得た論解から明確になることは,「取り消し可能な
もの」を消去し,「取り消し不可能なもの」を認識することが,知の営み
であるということだ。そして,その絶対に取り消し不可能なものの極点に,
ブラフマン=有があるというのが,シャンカラの不二一元論哲学の根幹な
のである〔Cf. I-10. 390-393〕。
「世界」(jagat),すなわちブラフマンならざるもの,一見ブラフマ
ンと対立するかに思われるブラフマン以外のもの,は実は存在しない
本質と自己
― 247 ―
ものである。全てはブラフマンであり,ブラフマンに対して「他のも
の」は存在しない。換言すれば,いま我々の目の前に現象している森
羅万象,世界,「他のもの」は全て本当はブラフマンそのものにほか
ならないということである。我々が何を見,何を経験しても,結局,
ブラフマンを見,ブラフマンを経験しているのである。ただし普通の
場合,我々はそれらが例外なしにブラフマンであるということに気づ
いていない。全てはブラフマン体験であるのに,我々はブラフマンな
らざる「他のもの」を見たり聞いたりしているものと思いこんでいる。
そういう目で見られた世界がマーヤーである。「世界は偽」とは,そ
の意味である。〔I-10. 395〕
マーヤーは,幻影と訳されるが,非―存在や無ではない。ブラフマン=
有を基体としているからだ。問題はアートマンの方にある。一般に「個我」
と訳されるが,真のアートマンは,その「本質」がブラフマンである。そ
れに対し,鏡に映った自分の顔を真の自分だと思い込むように,非アート
マンを自己だと思い込んだ個我が,ブラフマンという絶対無分節の地に,
「無明」(=「付託」)という分節線を重ね書きするのだと言えよう。仮に真
のアートマンを「自己」と呼び,非アートマンを「自我」と呼べば,日常
的に他者と相対的,弁別的に把持されるのは,後者の「自我」であり,そ
のような自我否定のモチーフが,マーヤー論の重要課題であることが理解
される。我々は,付託を「分節すること」だと上記したが,不二一元論で
は,「マナス」という心的機能を提起する。端的に言えば,それは「分節心」
もしくは「分別心」を意味すると言う〔Cf. I-10. 403〕。分節することによっ
て,個々の現象が,何々であると対象化して認識し得る。広く言えば,知
覚作用である。あらゆる生物が有している能力である。例えば,「食物」
を食物として知覚する,つまり「食物」と「非―食物」を分別しなければ,
― 248 ―
生物は生きていけない,生に必須の能力である。同時に,主体と客体を弁
別する基軸の現出を,そこに見ることもできよう。一方,人間は生への関
与性とは関係なく,例えば「花」を「花ならざるもの」と弁別して,「花」
という「名」と共に認識する。生の秩序とは別次元で「意味」を,つまり
は,「名」(意味=現象)を付与する。端的に言えば,そこにコトバの働き
を見ることができる。井筒は次のように論解する。シャンカラをはじめ不
二一元論の思想家達は,この「マーヤー的存在秩序,いわゆる現象界が,
「名(ナーマ)・形(ルーパ)」(na-ma-ru-pa)の世界」であることを繰り返し
説いている。「名(と)形」とは,「コトバの喚起する意味分節的表象形態 444444444
」
すなわち「語コトバ
」である〔Cf. I-10. 416〕。
〔…〕存在分節の標識としての「名」が,ひとつひとつ独自の―本
来的には浮動的だが,ある程度まで固定的な―意味表象的境界線を
ブラフマンの表面に,縦横無尽に引き散らし,その境界線にそって個
別的に事物事象が描き出されるというわけである。絶対無分節,すな
わち絶対的一4
であるブラフマンが,コトバによって把捉され,様々な
「名」を付されることによって,限りない個別的差異性の多層多重に
錯雑する現象的多4
者として顕現するのだ。〔I-10. 416〕
我々が日常的に把持する「現象世界」とは,すでに分節された「多」な
る個物の世界である。すなわちマーヤーという「分別」相である。しかし,
このように考察してくると,「絶対無分別」の極致としての「一」なるブ
ラフマンを,我々の意識,特にコトバが,それを把持し得ると言えるので
あろうか。知覚した段階で,それは分節,すなわち「差異」として現出す
るからだ。ここで井筒は,ここまで存在論的に把持された「有」に対し,
「意識」論の観点を提起する。真のアートマンが,意識に映ずる光景とは
本質と自己
― 249 ―
如何なるものか。大乗仏教などにも通じるイメージであるとして,井筒は
次のように描出する。
ここには流れる時間もない,何物の動きもない,もの4 4
を眺める主体も
なく,客体として眺められるもの4 4
も無い。ただ永遠の静寂の中で,ブ
ラフマンの有
4
性の極致が,万象同時開顕(いわゆる totum simul「全体一
挙に」)の形で炳現しているだけ。だから,この形而上的有
4
性の極限
的境位にあってはありとあらゆる 4444444
存在者が如実に現成しているにもか
かわらず,何ものも何々4 4
として
444
は存在していない。まだ何ものも「名」
の支配下〔…〕に入ってはいないのだ。一切が,そのような絶対的無
記名性において湛然と存在しているのみである。〔I-10. 406-407〕
この時,重要なのは,「万物のこの次元は,人間の意識にとっては,完
全に無
4
にひとしい。存在論的には有充実の極致,人間意識にとっては無」
であることだ。「人間のこころ 444
の自然的認識能力は全くこれに近づくこと
ができないという意味での無」なので,「相対的無」であるにすぎない。
しかし,「存在の絶対無差別的,無分節的境位であるという意味で,そし
てその意味でのみ,純粋に存在論的な無
4
,いわば絶対無」であると言え
る〔Cf. I-10. 407〕。「絶対無分別」の相という意味で,「絶対有」と「絶対
無」は通底する。それは,指向的意識,何かを対象として捉える通常の意
識には把持することの不可能な次元なのである。アートマンの二段階に相
応するように,不二一元論において,ブラフマンにも二つの次元性が想定
されている。一つは,「絶対無差別的,不生不変,全一的存在リアリティ」
である究極レベルのブラフマンを「無属性(ニルグナ)(=無限定)ブラフ
マン」,もう一つは,「人間意識が志向的に」接近することにより,「分節」
されてしまう変質したブラフマンを「有属性(サグナ)(=有限定)ブラフ
― 250 ―
マン」と分類されることを紹介した後,次のように井筒は記す。
人間意識は無属性ブラフマンを,その本源的無限定性において見出
すことはできない。ブラフマンは,常に必ず,(有)意味的に分節さ
れた姿でのみ人間意識に現われる。だから,いかなる形でそれが起こ
るにせよ,ブラフマンと意識の出合いがあるとすれば,その出合いの
第一歩から,ブラフマンはすでにマーヤー化されていると考えざるを
得ない。ということは,しかし,両者の出合いの最初の瞬間から,ブ
ラフマンはブラフマンとしての姿を隠してしまうということ。だか
ら,有属性ブラフマン現成の第一段(万物の無時間的一挙開顕)も,人4
間意識にとっては
44444444
,ブラフマン自体の生なま
の現われではなくて,何かそ
れとは別のもの(例えばプラトン的イデアのようなもの)の現われでしか
あり得ない。〔I-10. 410〕
このように井筒の解釈を辿ってくると,マーヤーとはブラフマンを隠蔽
する「覆い」,「かぶせ」であり,除去すべき障害物であるとばかりは,言
えなくなる。「名・形」(ナーマ・ルーパ),すなわち「コトバ」によるマー
ヤー的存在秩序においてしか,そもそも形象を持たない本源的ブラフマン
を了解することはできないからである。そうすると「マーヤー」には,隠
蔽と顕現という背反する二方向の働きが同時に作用していることがわか
る。西洋哲学に照示すると,それがハイデガーの説く非―隠蔽性を意味す
る「アレーテイア」としての「真理」,「存在」を隠蔽しつつ明るみにもた
らす「真理」論と相似していることに気がつく。本論考のテーマで言え
ば,「梵我一如」,言い換えれば「一即多」もしくは「一即一切」と形式化
される公式の,まさに「即」の次元,「あいだ」をめぐる問題であること
が察せられる。井筒の「マーヤー的世界認識」の中では,コトバの根底
本質と自己
― 251 ―
的論究にまでは至らないが,『意識と本質』で論じられているように〔Cf.
I-6. 53-54〕,普遍的本質と個別的本質の合一である「瞬間のポエジー」が,
芭蕉の句という「コトバ」によって成就することを想起すれば,井筒哲学
の要諦が,コトバの問題に帰着することが推察される。それは同時に,仏
教においては,現象世界を成立させている「縁起」の問題に繫がることが
推察されるが,本論考以降に関わるべき主題である。
結 び
ヴェーダーンタ哲学の窮極的「本質」の位相に,「絶対有」としてのブ
ラフマンがある。しかし,井筒の読みは,その位相が,論理的に討究する
ならば「絶対無分別の相」でなければならないこと,形を成さない「混沌」
であることを指摘する。それを「もの」として対象化して捉えた時点で,
主体と客体の二元性に分割され,「絶対」存在とは言えなくなる。「現象世
界」へと頺落する。ブラフマンとは,「ブラフマンが有る」と,主語―述
語形式で把握することのできない境位にある。絶対的「主体」であって,
客体には転じ得ないものである。バスターミーに倣って,「有は有」とトー
トロジカルに表現するしかないようなもの,「絶対無分別の相」と相違な
い次元にある。「絶対有」と「絶対無」は,「絶対無分別」であるという極
において通底する。しかしながら,ヴェーダーンタ,ならびにインドの哲
学・思想,あるいは宗教のほぼ全幅において,例外的に仏教を除いて,あ
くまで「有」の実在が否定されるわけではない。「有は有」であって,「無」
ではないのである。「有」は,結局,弁別的世界である現象世界を「超越」
した実在である。その意味で,「有」のレベルに「本質」が措定されてい
るのであり,それは明らかに「普遍的本質」なのである。「個」として存
在する我々の「自己」は,アートマンとして,あくまでブラフマンと本来
的に同一であるが故に,実在が可能なものであると説く時,アートマンと
― 252 ―
いう「個別的本質」は,ブラフマンという「普遍的本質」に従属したもの
でしかない。「有」の実在は,絶対に否定することのできないものであり,
絶対「実在」論であるのだ。ヴェーダーンタ哲学の歴史的展開において,
『ブラフマ・スートラ』における不一不異論と呼ばれる流出論(開展説)か
ら,シャンカラによる根本的な解釈の変更が行なわれ,幻影論(仮現説)
になることによって,不二一元論ヴェーダーンタ哲学が完成,主流となる
ことはすでに概説した。その理由は,このブラフマンの絶対唯一性を純粋
化することにあると理解されよう。流出論によれば,現象世界とブラフマ
ンが本質的に同一である。しかし,現象世界は変化し,変容していくもの,
生成し消滅するものだ。要は,インドの宗教的な直覚が捉えた「輪廻」す
る世界である。だが,普遍的本質としてのブラフマンは,輪廻から「解脱」
した存在である。不変・普遍の絶対性・永遠性を特質とする。現象世界か
ら切断されながら,我々が「有」であることを如何に論解するか。そのよ
うな問いに対して,インド哲学・思想における制度的思想条件の中から捻
出された解法の一つが,不二一元論であると言える。ところで,このよう
な実体的「有」を仏教は否定する。その場合,普遍的本質は「無」であり,
転変変化する現象世界がそのままで「本質」であると考える。「絶対有」
と「絶対無」を通底させた時,井筒は明らかに仏教を念頭に置いていると
考えられる。この点を考慮すると,井筒が,流出論=開展説を含んだ上で,
「マーヤー」という視座を立てることで,何を問題としたのかが理解され
よう。井筒は,「有」の超越性を解体する,「脱―構築」の理路を,ヴェー
ダーンタの哲学自体の内部に提示しようとしたのではないか。例えば,有
はアートマンである,その「アートマン」に力点を置けば,個我に分節さ
れた現象世界の「生起」が,すなわち「有」と言えるのではないか。つまり,
超越的「有」の哲学であるヴェーダーンタにおいても,「有」は,マーヤー
としての現象世界の出現と同時にしか「有る」とは言えない,それ故,現
本質と自己
― 253 ―
象世界,端的に世界の現出に「有」という本質現出の根元が存在するとい
う解釈である。世界は,「差異」の現出としてある。故に個々の現象,個
物が存在する。すなわち自我と他我が存在する。しかし,その差異は,絶
対的なものではない。マーヤーである。マーヤーの元凶を,井筒は,コト
バであると考える。ヴェーダーンタにおいては,このマーヤーとしての差
異=コトバの覆いを除去することで,アートマンとしての個我が,ブラフ
マン=有であることで,悟り=解脱を得るという理路になる。もし,この
有が「無」と同等であるならば,世界を支える絶対的基盤が存在しないと
いうことになる。しかし,本当にそうなのか。「有」の実在も,マーヤー
の世界におけるコトバの働きに依るのではないか。理論的には,このよう
な普遍的本質はない,本質は「無」であると提起することもできるのであ
る。もし,ブラフマンを「有」ではなく,「有」でも「無」でもない絶対
無分別の次元,「混沌」と提起するならば,アートマンとしての「自己」に,
新たな意味を付与することが可能であろう。マーヤーに生じる分節,差異
とは,そもそも「私」がそれを認識,知覚することによって現出する。花
を花として,個物として知覚するのは,「私」である。それは,「私」と花
という「他」を弁別することでもある。しかし,その分別はどこに生じて
いるのか。花が,自存的に花という実体を持っているわけではない。それ
は,私が「私ならざるものとして」花を対象化する,すなわち差異化する
ことによって現出している。つまり,「私」が,差異現出の結節点なのだ。
一般的な意味での私が,差異の体系の結果として生じる「自我」であると
すれば,自我現出の根元において,私が私となる以前,前客体的「自己」
の働き,つまり差異生成の原初的働きがあるのではないかと考えられる。
もちろん,「自己」とは何かという問いに,ここで決定的な解答を提示す
るのは不可能である。しかし,現時点で我々は,「自己」とは,マーヤー
としての分節された世界を形成する働き,「個」としての結節点の現われ
― 254 ―
自体のことではないかと考える。自己と自己ならざるものの差異現成の働
き,自おの
ずから己(個)となる働きである。それが意識であるか,身体であ
るかといった問いは,とりたてて問題ではない。あるいは両者であるとも
言えるし,ないとも言える。それがロボットのような機械の身体であろう
が,人造知能のような固有の身体をもたない意識であってもかまわない。
差異形成の「場」を開くものであるならば,それこそが自己なのではない
かと我々は考える。そこに「実体」はない,「いま・ここ」という,ある
時・空の特異点に「この」私という差異が生じる,そこに「自己」の働き
がある。それは「鏡」の現象であるとも言える。自己が自己分化すること
によって,一挙に他者たち,他の事物が現成する世界が開華する。しかし,
その世界は「鏡」,実体を欠く虚像,すなわち「マーヤー」である。実は,
この「有」の実在を措定しない道を果敢に踏み入ったのが仏教であり,哲
学的に「空」の哲学としての大乗仏教が展開するのだと言える。その哲学
の要諦は,やはり「自己」であると考えられる。この問題は,別稿にて論
究する。
註
1) 井筒俊彦『意識と本質』(『井筒俊彦全集 第六巻』慶應義塾大学出版会,
2014年),〔単行本初出,岩波書店,1983年〕。以降,引用・参照に際しては,
I-6と略号を付し,続けてページ数を記す。
2) 宮元啓一『インド人の考えたこと―インド哲学思想史講義』春秋社,
2008年,35-36頁。以降,引用・参照に際しては,M と略号を付し,続けて
ページ数を記す。
3) 井筒俊彦「TAT TVAM ASI(汝はそれなり)」(『井筒俊彦全集 第十巻
意識の形而上学 1987年-1993年』慶應義塾大学出版会,2015年)。以降,
引用・参照に際しては,I-10と略号を付し,続けてページ数を記す。
4) シャンカラ『ウパデーシャ・サーハスリー―真実の自己の探求―』前田
専学訳,岩波文庫,1988年,140頁(韻文篇第18章 -57)。
本質と自己
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5) ルネ・デカルト『哲学原理』山田弘明,吉田健太郎,久保田進一,岩佐
宣明訳・注解,筑摩書房(ちくま学芸文庫),2009年。以下,引用に際しては,
Dと略号を付し,続けてページ数を記す。
6)『ブラフマ・スートラ―シャンカラの註釈(上)―』湯田豊訳・注,大東
出版社,2006年,725頁(Ⅱ・ 3 ・ 7 )。
7) 井筒俊彦「マーヤー的世界認識」(『全集 第十巻』前掲)。以降,引用・
参照に際しては,I-10と略号を付し,続けてページ数を記す。
8) 前田専学『ヴェーダーンタの哲学』平楽寺書店,1980年,91-92頁