2023/09/21

Taechang Kim |「絶対矛盾的自己同一」とは何か: 続・「西田哲学」演習 黒崎 宏

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「絶対矛盾的自己同一」とは何か: 続・「西田哲学」演習 単行本 – 2022/2/18
黒崎 宏
(著)
5.0 5つ星のうち5.0 3個の評価

日本の独創的哲学者・西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」は、世界の哲学の基底をなす重要概念だった! 西田のみならず井筒俊彦ら多彩な論考を渉猟し、プロティヌス、道元、アインシュタインなど様々な思想・科学の鍵としての「矛盾的自己同一」を解明する。


著者について
1928生まれ。東京大学大学院哲学研究科修士課程修了。成城大学教授を長く務め、現在は、成城大学名誉教授。著書に『ウィトゲンシュタインの生涯と哲学』など。

登録情報
出版社 ‏ : ‎ 春秋社 (2022/2/18)
発売日 ‏ : ‎ 2022/2/18
言語 ‏ : ‎ 日本語
単行本 ‏ : ‎ 248ページ

5.0 5つ星のうち5.0 3個の評価
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上位レビュー、対象国: 日本


デビルマン

5つ星のうち5.0 極端なのがいい。2022年4月17日に日本でレビュー済み

黒崎宏はかなり極端な言語ゲーム一元論者ですが、今度はすべては「絶対矛盾的自己同一」だと主張しています。たとえば「AはBである」という文なら、「A」と「B」とはちがうのに同じであると言っているわけですから、「絶対矛盾的自己同一」だと言うのです。なるほど。そしてすべてはそのようになっていいると。科学哲学からはいった黒崎宏ですから、アインシュタインの相対性理論の説明もあって、十分に理解できているかどうかは自信がありませんが、とにかく「なるほど」の連続です。

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役に立ったレポート
Taechang Kim

西田幾多郎晩年の最も重要な核心概念である <絶対矛盾的自己同一>を井筒俊彦始め道元などとの相関参照を通じて徹底究明した黒崎広
成城大学名誉教授の力作. 一読し、改めて考えさせられたことが多かったので、目次を通して論究の幅と質の内実の共有を試みたい.
序ーすべては絶対矛盾的自
己同一

1 西田幾多郎の論文 <絶対矛盾的自己同一>を読む
II 井筒俊彦の論文 <意識と本質> を読む
III 井筒俊彦著《神秘哲学ー
ギリシャの部》を読む
<矛盾的自己同一> の先行者を求めて(1)
IV 井筒俊彦の論文 <理事無礙>から <事事無礙>へ>を読む
V ガリレイとアインシュタインにおける<相対性>と、西田幾多郎における <矛盾的自己同一>
VI 科学哲学者としての西田幾多郎の面目:《西田哲学選集》第二巻<科学哲学>論文集と末綱恕一《数理と論理》、および《西田幾多郎書簡集》を読む
VII いま一つの <矛盾的自己同一>ー<行為的直観>とは何か
VIII <矛盾的自己同一>でないものとあるもの <ハイブリッド>と<相補性>
IX もう一つの <矛盾的自己同一> <逆対応的>とは何か
X 付録1 哲学とは何か
2 西田幾多郎の自由論
3 西田哲学の系譜
4 修証一如
後書ー<矛盾的自己>(<相補的>)はこの世の <論理>
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黒崎 宏『「絶対矛盾的自己同一」とは何か/続・「西田哲学」演習』
32

KAZE2022年3月26日 07:23




☆mediopos2687  2022.3.26

黒崎宏といえば
ウィトゲンシュタイン研究だが
その研究がユニークだったのは
ウィトゲンシュタインと禅
そして道元・ナーガールジュナというように
ウィトゲンシュタインの「語り得ぬもの」に
仏教とくに禅の視点から「語る」試みを続けたことだ

その黒崎宏は1928年生まれ
すでに94歳となっている
その黒崎宏がおそらくはその研究の「結語」
とでもいえるテーマに選んだのが
「絶対矛盾的自己同一」である

『「西田哲学」演習』(2020年)に続き
その続編として
西田幾多郎はもとより井筒俊彦の論文からの
引用なども行いながら論じられている

「絶対矛盾的自己同一」のたとえとして
「うらを見せ おもてを見せて ちるもみじ」
という良寛の句が挙げられている

「おもて」と「うら」を同時に見ることはできないが
「葉」には「おもて」も「うら」もあり
その両方があってはじめて「葉」の全体であるように

物事の全体を観ようとするならば
ひとつの視点からすれば矛盾しているとしか言えない
別の視点もあわせ多視点的多面的に観る必要がある

「本書の窮極の結語」として
「αは、α1、α2、α3・・・・・・に於いて、
「矛盾的自己同一」である」
と述べられているが

「葉」の全体をとらえるためには
葉1、葉2、葉3・・・・・・というように
それぞれのどうしは矛盾してみえるけれど
「葉」としての全体を観る必要がある

逆説的にいえば
なぜ「矛盾」が現れるのかといえば
「視点」をもつということそのものが
部分的でしかないからだともいえる

ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』において
「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」
と言わざるを得なかったのも
言葉が世界を照らし出すということは
そのことそのものが世界の全体からすれば
世界を部分化して照らすしかなかったからなのだろう

それは老子の示唆するように
道が語り得るものであるとすれば
それは「常の道」ではない
「名が名づけうるものであれば
それは「常の名」ではない
といっているようなものだ

なにかを語るということは
「常」であることを離れるということになる

「絶対矛盾的自己同一」は
そうした矛盾そのもののありようを逆照射しながら
「うら」と「おもて」を
「一つのもの」としてとらえようとするものだ

一枚の葉を「うら」だけ
「おもて」だけにはできないように
すべての根源は矛盾をはじめから超えている

それにもかかわらず
私たちはそれを矛盾としてとらえてしまう
それを「無明」だということもできるだろうが

「生きる」ということが
「死」との矛盾において生きることであり
「語る」ということが
「沈黙」との矛盾において語ることであるように
私たちはそうした「矛盾」に身を置くことで
その「矛盾」を超える課題をもち得る
そんな存在だということもできるのかもしれない

おそらくそれは
世界があるということ
私があるということと
深く関わっているのではないだろうか

■黒崎 宏『「絶対矛盾的自己同一」とは何か/続・「西田哲学」演習』
 (春秋社 2022/2)
■黒崎 宏『「西田哲学」演習/ハイデガー『存在と時間』を横に見ながら』
 (春秋社 2020/3)

(黒崎 宏『「絶対矛盾的自己同一」とは何か』より)

「「うらを見せ おもてを見せて ちるもみじ」という句がある。良寛の辞世の句として、知られているものである。それはともかくとして、確かに万物万事、表もあれば、裏もある。何事にも、表裏があるのである。表裏があって、はじめて、一つのものなのである。

 しかし我々は、表裏を同時に見ることはできない。したがって我々は、何事も、その全体を一挙に見ることはできないのである。我々は、例えば、もみじの葉一枚でも、表を見て、裏を見て、やっとその全体を知ることができるのである。もみじの葉一枚ですら、我々は、それ自体を見ることはできず、その意味で、もみじの葉一枚ですら、それ自体は我々の経験界を超越しているのである。もみじの葉一枚ですら、表から見ればカクカクに見え、裏から見ればシカジカに見えるものとして、言語的に、概念的に、記述されるものなのである。その様な、言語的存在なのである。ここにおいて、「表から」とか「裏から」とかいった見る視点を無視して、ただ単に「カクカクに見える」と言い、また、訂正なしに「シカジカに見える」と言えば、それは矛盾である。しかし、この二つの言明が、ある一つのものについての、二つの視点からの見え方であるとすれば、そこには何の矛盾もない。しかも、その一つのものは、そのように二つの視点からみて、はじめてその全体像が把握できるものであるとすれば、そのような二つの言明の連言(「そして」で繋いだもの)は、必然なのである。この様な場合、西田幾多郎は、その一つのものを「(絶対)矛盾的自己同一(なるもの)」と言った。そこには、何の不自然さもないであろう。一般的に言えば、ある物事が「何であるか」という事は、最終的には、それについて多面的に言語的に語る事によってのみ、明らかになるのである。即ち、その本質が確定されるのである。そうであるとすれば、

「この世における万事・万物は、「(絶対)矛盾的自己同一」なのである」

と言えるのではないか。

 このことを、もっとも明確に示したのが、物理学では、まずはガリレイ(の「慣性の法則」)であり、更には、より進んだ形では、アインシュタイン(の「特殊相対性理論」)であり、哲学では西田幾多郎(の「西田哲学」)である。しかも、「数」には、数字に於いて定義される「数」をも含めて、「基数」と「序数」という二つの顔があり、その意味では、先に言った「この世における万事・万物」には、「数」をも含めてよいのである。(・・・)そうであるとすれば、西田幾多郎は、後に私は「二〇世紀におけるヘラクレイトス」とも言えるのではないか」と言うが、別の見方をすれば、「哲学におけるアインシュタイン」とも言えるのではないか。そして実際、西田は、アインシュタインにたいへん関心をもち、アインシュタイン訪日に一役買っていたのである。」

「  ある一つのものαがある。それは、視点aから見ればAに見え、視点bから見ればBに見える。この場合、その二つの見え姿AとBに於いて、「矛盾的自己同一」なのである、と言える。」

「葉は、表と裏において、「矛盾的自己同一」である。
 自然数は、基数と序数に於いて、「矛盾的自己同一」である。
 図<アヒル/ウサギ>は<アヒル>と<ウサギ>に於いて、「矛盾的自己同一」である。
 世界は、「個物的多」と「全体的一」に於いて、「矛盾的自己同一」である。
 人生は、自由と必然に於いて、「矛盾的自己同一」である。
 神は、超越と内在に於いて、「矛盾的自己同一」である。
 認識(行為的直観)は、行為と直観に於いて、「矛盾的自己同一」である。
 電子は、「波動性と粒子性に於いて、「矛盾的自己同一」である。
  等々」

「  αは、α1、α2、α3・・・・・・に於いて、「矛盾的自己同一」である。

ある意味で、これが本書の窮極の結語である。」







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