早稲田大学大学院文学研究科紀要 第67輯(2022年3月)
Bulletin of the Graduate School of Letters, Arts and Sciences of Waseda University Vol.井筒俊彦と牟宗三における「思考と存在」 67 (Mar.2022) 優秀修士論文概要
井筒俊彦と牟宗三における「思考と存在」
── 東アジアの「現代哲学」をめぐる試論 ──
伊 勢 康 平
本論文では、井筒俊彦の「東洋哲学」と牟宗三の「中国哲学」のなかで意識と存在、ないし心と物がもつ関係に焦点をあて、両者を比較した。とくに、両者の仕事をアーレントのいう「現代哲学」の条件
──カントの批判哲学によって人間の思考が及ばない存在の領域(=到達不可能な物自体)が想定され、
「思考と存在の統一」という信念が機能しなくなったあとに、いかに両者の関係性を調停するか──に対する東アジア的な応答として読めないかという問いを立てて、おなじ理論的平面に配置しようと試みた。
大胆にまとめれば、井筒も牟も、東アジアの思想は思考と存在の統一性を特徴とすると主張していた。
たとえば晩年の井筒は、「東洋哲学の共時的構造化」を掲げてアジアの思想を再構築し、「東洋哲学」の根本的な性質を「意識即存在」という命題に集約させた。他方の牟は、独自のカント読解をつうじて、「中国哲学」では人間もまた知的直観をもち、物自体に到達しうると説いていた。
こうした類似性があるにもかかわらず、歴史上、両者につながりはなかった。じっさい井筒は、新儒家などのように東アジアのべつの地域で同様に伝統的なテクストを読みなおそうとした人々がいたことには無頓着だったようにみえる。それは井筒の「東洋哲学」を論じる人々もおおむね同様だ。近代に東アジアの思想を再構築した試みとして、京都学派と新儒家を比較する研究は散見されるが、井筒の「東洋哲学」はまだ、このような比較がなされていないのが現状である。こうした状況が、東アジアの「現代哲学」として井筒と牟を読解することの背景にある。
第1章では井筒を論じた。第1、2節では「現代哲学」の条件を念頭に、井筒の「東洋哲学」の輪郭を描いた。かれのいう「意識即存在」とは、意識が物を分節する過程と、諸存在が一なる「存在」から分かれていく過程を、相関するふたつのプロセスと捉えたうえで、あらゆる分節がとりのぞかれる一点、つまり「意識と存在のゼロ・ポイント」で両者が統合されるというものだ。また、ゼロ・ポイントは意識にとって不可能な虚無ではなく無限のエネルギー体=「無限宇宙に充溢する存在エネルギー」であり、あらゆる観念や物質がこの純粋な力動性からもたらされる。事実、意識と存在の分節プロセスは、ゼロ・ポイントという宇宙論的な頂点で統合されるだけでなく、根本的には「存在」から人間の言語までを包括する分節エネルギー一般を意味する「コトバ」という力動的な概念によって一元的に縫合される。本論文では、このような「東洋哲学」の性質を「唯動論」と名づけた。
このような性質から、井筒の哲学には否定性がないとしばしばいわれる。だが筆者は、それは厳密には正しくないと考える。第3節では『スーフィズムと老荘思想』を分析しながら、当時の井筒が人間と一なる「存在」の合一可能性に厳格な制限を設けており、明らかに否定神学的な言説を展開していることを論じた。第4節では、『スーフィズムと老荘思想』と「東洋哲学」を比較し、前者では不可能なものとされた事柄が、後者では可能なものとしてゼロ・ポイントに回収されていることを確認した。ここ
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から考えられるのは、井筒は「東洋哲学」という枠組みを構築するにあたって否定性を消去したのではないかということだ。本論文では、その理論的なメカニズムを解析し、井筒が東洋と西洋を否定性の有無で対比している点などを確認したうえで、かれが「東洋」の名を冠する思想体系をあらたに構想するにあたって、否定的なものの存在を不要と判断したのではないかと仮に結論づけた。
第2章では、牟宗三なりの「現代哲学の条件」へのアプローチといえる「二層の存在論」(執着の存在論/執着のない存在論)を分析した。第1節で二層の存在論を提示するまでの牟の問題意識を確認したのち、第2節で「執着のない存在論」における心と物の関係性を検討した。牟の戦略は、人間の心が無限性と有限性のふたつの様態をもつことを肯定することである。このふたつの様態が二層の存在論に対応する。すなわち、執着の存在論には有限心・感性的直観・現象が属し、他方で無限心・知的直観・物自体が執着のない存在論に属する。牟によれば、中国哲学では道徳的実践をつうじて天と心が貫通し、両者が一体となることによって無限心が実現されると考えられていた。この無限心は主体と対象、心と物を区別せず、感応の運動がもたらす知的作用=知的直観をつうじて、心も物も一元的に捉えるという。
牟自身はこうした自身の議論を「唯心論」と呼び、多くの先行研究もそれに従っている。しかし牟は、自身の思想体系の頂点に天も道も心も物も包摂する絶対的な存在 - 力動の原理である「本体宇宙論的実体」をすえていたのである。これを根拠に、本論文ではかれの体系もまた唯動論的な構造をもつと指摘した。また本論文では、執着のない存在論は「道徳」という語のなかで想定されている人間と宇宙の関係性が中国と西洋とで異なることによってのみ成立しており、そのかぎりでこの理論をめぐるもっとも根本的な問題は、(カント読解の妥当性よりも)宇宙論的差異が根拠としてどれほど有効なのかだと主張した。また、補論的な位置づけとなった第3節では、二層の存在論の構図に依拠する「良知の自己否定」からの近代化論を論じた。
さいごの第3章では両者の比較を行なった。第1節では類似性に、第2節では差異に着目した。第1節では類似性として以下の点をあげた。1)両者は思考(意識/心)と存在の統一性を肯定する。2)統一性は所与の経験世界からは異質な次元(意識と存在の「深層」/執着のない存在論)で認められ、次元の変容には実践が関与する。3)統一性の究極的な根拠として、絶対的な力動性が前提される。この三点を受けて、唯動論の概念をあらためて定義した。唯動論とは、絶対的な力動性の原理を体系の頂点にすえおき、その展開をつうじてさまざまな様態や関係性をもつ諸存在や意識の生成を説明するような、一元論的な思考の形式である。唯動論には、力動性の前提および共有というふたつの傾向がある。絶対的なものとして前提された力動性は、諸存在を生成するだけでなく、人間の思考一般の内部に共有される。根本的に同種の力動性を共有することによって、思考と存在の関係は、究極的にはある統一性によって把握されることになる。この性質の典型的な表現として、牟や杜維明、井筒らが論じる「内在超越」の問題に言及した。
さらに同節では、両者の仕事が「現代哲学の条件」に十分に応えうるかを検討した。両者における思考と存在の統一性の根拠は、東洋/中国の異なる宇宙論にあるが、それによってカントが強いる(とアーレントが語る)条件から統一性を回復できるかには疑問の余地がある。その理由として、筆者は「万物の終わり」という論考におけるカントの中国思想および神秘主義一般の批判を参照し、カントが自身の批判哲学によって制限すべき対象として、中国思想や神秘主義を明確に意識していたことを指摘した。
ここからつぎの主張が導かれる。知的直観にかんする牟の主張や、一種の神秘主義的実践をつうじた意識と存在の統一を説く井筒の議論は、カント自身が抑えようとした思想の形態をカント以後にふたた
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井筒俊彦と牟宗三における「思考と存在」
びもちだし、それを根拠にカントの思想、ひいては西洋哲学一般を乗り越えようとした(あるいはそのオルタナティヴを提示しようとした)にすぎないのではないか。であれば、それはたんに哲学の歴史を単にひっくり返しただけではないのか。つまり、西洋と東洋の宇宙論の差異を根拠に東アジアの思想をオルタナティヴとして提示するには、おそらくより根本的な読みかえか、より巧妙な文脈設定が必要なのである。
いまの段階で根本的な読み替えを提示することは困難だが、第2節では、文脈設定の一例として「宇宙技芸」にかんする許煜の仕事を簡単に導入した。だがそのまえに、まずは井筒と牟の差異が精神性と地域性という対比で示されることを確認した。井筒の「東洋」の概念は、思想の構造に着目した精神的なものであって地理的な領域や民族とは関係がなく、ときにヨーロッパを「東洋」のなかへ取り込んでしまう。このように理論上無限に拡大しうる領域に「東洋」という名をつけたことの政治性を本論文では問題視した。他方の牟は、一貫して「中国」を問題にし、井筒に比べれば地域性を重視した思想家である。牟の二層の存在論は中国の伝統の素朴な肯定にとどまらず、むしろ中国思想自体を改良しようとするものではあったが、本論文では牟が「文化的」な面にかぎってきわめて民族主義的な発言をしていることは問題だと考えた。
こうした課題を受けて、伝統的な宇宙論の差異を強調するための文脈設定の問題にくわえ、精神性と地域性のあいだでいかに距離感を保てばよいかという問題を提起した。そのうえで、許煜の仕事がこれらふたつの問いに一定の解をあたえうることを示した。
まず、許が肯定するのは宇宙論的差異そのものではない。異なる宇宙論はあくまで技術との関連性のなかで提示され、多様な宇宙技芸を構成しうるかぎりで妥当性を得る。つまり許は、技術論を介在させることによって、宇宙論的差異を語ることがそのまま近代的なテクノロジーの問題に接続されるような文脈を設定した。つぎに、宇宙技芸への問いは、たえず地域性を要請する。そこでは「精神的」領域を拡大させるのではなく、むしろ地域差が強調される。それと同時に、たえず思弁性によって地域性を再発明し、あらゆる「故郷回帰」の誘惑に抗い続けることが要請される。この再発明は困難であり、許自身もなしえているとはいえない。だがそれは、許個人の議論にとどまらず、いわば現代東アジア哲学のひとつの共通の課題として、広く参与されるべきものである。
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