(マーク・マリンズ、高崎恵訳、トランスビュー、2005)-日本への宣教(=キリスト教布教)を「異文化マーケティグ」を考えるヒントに
■日本への宣教(=キリスト教布教)を「異文化マーケティグ」を考えるヒントに■
いまだに全人口の 1%を越えることのない日本のキリスト教人口、なぜそうなのかについての探求はこれまでにも多くなされてきたが、本書の特徴はこれまであまり着目されることの少なかった、「キリスト教土着」に大きな焦点をあてたことにある。
私自身はキリスト教徒ではないが、キリスト教そのものは知的に理解する必要があるとは思ってきたし、近年非常に増えている「キリスト教式結婚式」を持ち出すまでもなく、日本人はとくに若年層を中心に「キリスト教的なもの」に親近感を抱いているようだ。
しかし、今後も日本では信者になろうとする者はきわめて少数だろう。人生の通過儀礼の一つである結婚式をキリスト教式にしたとしても、信者でもないのに、出生や葬儀をキリスト教式にする者が増えるとは、とうてい考えられない。
明治維新以後のキリスト教布教は、もっぱら米国のプロテスタント系教会が中心となってきた、(P.20~26に日本で伝道を行ったキリスト教団のリストが掲載されているが、驚くべきほどの多さである!)。
しかし、キリスト教徒となった日本人のなかには、外国人宣教師のミッションのやり方にはしっくりこない者や拒否反応を示した者がいた。
旧士族の儒教的エートスの持ち主であった内村鑑三の無教会運動を筆頭に、独特の聖書解釈により日本人のためのキリスト教の展開をはじめた者が少なからず存在する。
これらはみな、キリスト教を普及させたい側の論理ではなく、キリスト教を受容したい側の論理からの強い熱望がそうさせたのであった。
内村鑑三にインスパイアされた人たち(・・すべて男性である!)は、日本の伝統である精神修養、自己修養の道としてのキリスト教を開拓している。しかし、これらの教団に従ったのは、主として知識人を中心にした、知的な中産階級に留まった。
なおざりにされた一般大衆は、「キリスト教土着」という方向に進み始める。ペンテコステ的という、異言や癒しなどの心霊主義的、体験型の信仰なキリスト教の道へと進んだのである。
しかし、この道の行き着く先は、そもそもの土着型新興宗教と同じ土俵に入っていくこととなり、敗戦後の社会変動に際して、一時的には信者は増えたものの、ついには日本に定着することなく今日に至っている。
土着型もカリスマは創設者一代限り、カリスマは継承されないまま家が組織を引き継いでいるが、信者の高齢化だけでなく、少子化のなか、新たな信者も獲得できずに衰退していくのは致し方のないところであろう。
「魂の争奪戦」としての布教活動は、ビジネスでいえばマーケティングと同じ活動であるが、この活動において、キリスト教は日本市場では失敗したといってもいい過ぎではない。韓国と比べるとその差は歴然である。
キリスト教が日本に定着しなかった理由には、日本人自身による「無意識の取捨選択」が働いているというべきだろう。
著者もいうように、日本の民俗信仰にける「祖先と死者の霊をめぐる土着の信仰や慣習」はきわめて根強いものがあり、たびたびの社会変動を経ても根本的に変化することはなかったのである。
現在ではこれが、マスコミと連動したいわゆるスピリチュアル・ブームとなって、さらに顕在化され強化される方向にあるとすらいえる。現代的な衣装をまとっていても、日本人の民間信仰の本質は「祖先と死者の霊」を抜きにしては成り立たないのである。
そしてまた、生きた人間と人間の関係が、自立した個人を基礎にした社会ではないことも、キリスト教の浸透を阻んでいる大きな理由の一つである。近代化された日本においても西洋的な意味での社会は存在せず、人間関係は依然として「世間」が中心である。
キリスト教は「世間」からみれば他者以外の何者でもない。土着化したときには「世間」のなかに取り込まれたときには、すでにキリスト教ではなくなているというべきかもしれない。
免疫系の比喩でいえば、キリスト教という異物に対する免疫反応は拒絶するか、取り込んで自分のものとしてしまうかの二つしかない。その意味では、キリスト教はもはや日本では増えることはないだろうが、多くの日本人は無意識のうちに取捨選択してキリスト教の要素をすでに何らかの形で取り込んでしまっているといってもよいかもしれない。しかも自分に都合のいい、「いいとこ取り」という形で。これは冒頭で言及した「キリスト教式結婚式」に端的にあらわれている。
本書は、さまざま観点から読むことのできる興味深い研究書である。キリスト教の土着運動を描くことによって浮かび上がってくるのは、日本というもの、日本人というもの、つまり「世間」についてであり、また新しい思想や教義を異なる文脈をもつ文化に移植することの困難さについてである。
ビジネスマンとしての私が興味をもつのは、とくに後者の点である。布教の成功とは、その教えによってどれだけの数の魂を救うことができたかということで測ることができるが、どこまでオリジナルな本質を保ったまま、現地に土着化するかという課題として残る。
これはビジネス用語を使えば、カスタマイズによるローカリゼーションであるが、宗教も思想の一つである以上、同様のメカニズムが働いているとみて問題ないであろう。
万人向けの本ではないので、すべての人に薦めるつもりはないが、日本とは何かを考える人には、面白い視点を提供してくれる本であることは間違いない、といっておこう。
<初出情報>
■bk1書評「宣教(=キリスト教布教)をマーケティグの観点から考えるヒントに」投稿掲載(2010年12月23日)
■amazon書評「宣教(=キリスト教布教)をマーケティグの観点から考えるヒントに」投稿掲載(2010年12月23日)
* 1年前に執筆していながら未発表だった文章を、大幅に圧縮して「書評」として投稿。ブログでは、原型に戻したうえで字句の修正を行った。
<書評への付記>
「第5章 自己修養の道」の「2. 川合信水と基督心宗教団」で、川合信水を描いて実弟の肥田春充(ひだ・はるみち)に触れていないのは大いなる不満である。
なぜ、肥田春充が創始者の「強健術」がグンゼで普及したのか(・・川合信水は教育担当者として私企業のグンゼに招かれて労働者の指導にあたっていた)、そしてまた「肥田式強健術」の極意の型といわれるものに「聖十字架操練法」なんて技法があるのか、この本を読んではじめて、そのミッシングリンクが「川合信水と基督心宗教団」であることがわかった。
肥田春充の「肥田式強健術」については、あらためてこのブログで紹介したいと考えている。
「第6章 第二波の土着運動」の「3. 手島郁郎と原始福音運動」で、「幕屋(まくや)運動」について詳しく書かれているのはありがたい。「土着したキリスト教」において、創始者の息子ふたりが、原始キリスト教を突き抜けてユダヤ教の専門研究者になっているのは面白い。日本人の原点追求志向のなせるわざか。
米国でもキリスト教原理主義者がユダヤ教に改宗して、イスラエルの入植者になっているケースが多々あることも知っておくべきことだろう。
追記(2011年2月18日)
なお、この書評(初出)は投稿先の bk1 でも紹介していただいている。
bk1 書評ポータルにて紹介 2010年12月30日
追記(2011年9月17日)
『鉄人を創る肥田式強健術 (ムー・スーパー・ミステリー・ブックス)』(高木一行、学研、1986)-カラダを鍛えればココロもアタマも強くなる! と題して肥田春充の「肥田式強健術」について紹介する記事を書いた。これで少し肩の荷が下りた
2010年12月24日金曜日
書評『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』(マーク・マリンズ、高崎恵訳、トランスビュー、2005)-日本への宣教(=キリスト教布教)を「異文化マーケティグ」を考えるヒントに
■日本への宣教(=キリスト教布教)を「異文化マーケティグ」を考えるヒントに■
いまだに全人口の 1%を越えることのない日本のキリスト教人口、なぜそうなのかについての探求はこれまでにも多くなされてきたが、本書の特徴はこれまであまり着目されることの少なかった、「キリスト教土着」に大きな焦点をあてたことにある。
私自身はキリスト教徒ではないが、キリスト教そのものは知的に理解する必要があるとは思ってきたし、近年非常に増えている「キリスト教式結婚式」を持ち出すまでもなく、日本人はとくに若年層を中心に「キリスト教的なもの」に親近感を抱いているようだ。
しかし、今後も日本では信者になろうとする者はきわめて少数だろう。人生の通過儀礼の一つである結婚式をキリスト教式にしたとしても、信者でもないのに、出生や葬儀をキリスト教式にする者が増えるとは、とうてい考えられない。
明治維新以後のキリスト教布教は、もっぱら米国のプロテスタント系教会が中心となってきた、(P.20~26に日本で伝道を行ったキリスト教団のリストが掲載されているが、驚くべきほどの多さである!)。
しかし、キリスト教徒となった日本人のなかには、外国人宣教師のミッションのやり方にはしっくりこない者や拒否反応を示した者がいた。
旧士族の儒教的エートスの持ち主であった内村鑑三の無教会運動を筆頭に、独特の聖書解釈により日本人のためのキリスト教の展開をはじめた者が少なからず存在する。
これらはみな、キリスト教を普及させたい側の論理ではなく、キリスト教を受容したい側の論理からの強い熱望がそうさせたのであった。
内村鑑三にインスパイアされた人たち(・・すべて男性である!)は、日本の伝統である精神修養、自己修養の道としてのキリスト教を開拓している。しかし、これらの教団に従ったのは、主として知識人を中心にした、知的な中産階級に留まった。
なおざりにされた一般大衆は、「キリスト教土着」という方向に進み始める。ペンテコステ的という、異言や癒しなどの心霊主義的、体験型の信仰なキリスト教の道へと進んだのである。
しかし、この道の行き着く先は、そもそもの土着型新興宗教と同じ土俵に入っていくこととなり、敗戦後の社会変動に際して、一時的には信者は増えたものの、ついには日本に定着することなく今日に至っている。
土着型もカリスマは創設者一代限り、カリスマは継承されないまま家が組織を引き継いでいるが、信者の高齢化だけでなく、少子化のなか、新たな信者も獲得できずに衰退していくのは致し方のないところであろう。
「魂の争奪戦」としての布教活動は、ビジネスでいえばマーケティングと同じ活動であるが、この活動において、キリスト教は日本市場では失敗したといってもいい過ぎではない。韓国と比べるとその差は歴然である。
キリスト教が日本に定着しなかった理由には、日本人自身による「無意識の取捨選択」が働いているというべきだろう。
著者もいうように、日本の民俗信仰にける「祖先と死者の霊をめぐる土着の信仰や慣習」はきわめて根強いものがあり、たびたびの社会変動を経ても根本的に変化することはなかったのである。
現在ではこれが、マスコミと連動したいわゆるスピリチュアル・ブームとなって、さらに顕在化され強化される方向にあるとすらいえる。現代的な衣装をまとっていても、日本人の民間信仰の本質は「祖先と死者の霊」を抜きにしては成り立たないのである。
そしてまた、生きた人間と人間の関係が、自立した個人を基礎にした社会ではないことも、キリスト教の浸透を阻んでいる大きな理由の一つである。近代化された日本においても西洋的な意味での社会は存在せず、人間関係は依然として「世間」が中心である。
キリスト教は「世間」からみれば他者以外の何者でもない。土着化したときには「世間」のなかに取り込まれたときには、すでにキリスト教ではなくなているというべきかもしれない。
免疫系の比喩でいえば、キリスト教という異物に対する免疫反応は拒絶するか、取り込んで自分のものとしてしまうかの二つしかない。その意味では、キリスト教はもはや日本では増えることはないだろうが、多くの日本人は無意識のうちに取捨選択してキリスト教の要素をすでに何らかの形で取り込んでしまっているといってもよいかもしれない。しかも自分に都合のいい、「いいとこ取り」という形で。これは冒頭で言及した「キリスト教式結婚式」に端的にあらわれている。
本書は、さまざま観点から読むことのできる興味深い研究書である。キリスト教の土着運動を描くことによって浮かび上がってくるのは、日本というもの、日本人というもの、つまり「世間」についてであり、また新しい思想や教義を異なる文脈をもつ文化に移植することの困難さについてである。
ビジネスマンとしての私が興味をもつのは、とくに後者の点である。布教の成功とは、その教えによってどれだけの数の魂を救うことができたかということで測ることができるが、どこまでオリジナルな本質を保ったまま、現地に土着化するかという課題として残る。
これはビジネス用語を使えば、カスタマイズによるローカリゼーションであるが、宗教も思想の一つである以上、同様のメカニズムが働いているとみて問題ないであろう。
万人向けの本ではないので、すべての人に薦めるつもりはないが、日本とは何かを考える人には、面白い視点を提供してくれる本であることは間違いない、といっておこう。
<初出情報>
■bk1書評「宣教(=キリスト教布教)をマーケティグの観点から考えるヒントに」投稿掲載(2010年12月23日)
■amazon書評「宣教(=キリスト教布教)をマーケティグの観点から考えるヒントに」投稿掲載(2010年12月23日)
* 1年前に執筆していながら未発表だった文章を、大幅に圧縮して「書評」として投稿。ブログでは、原型に戻したうえで字句の修正を行った。
目 次
まえがき
第1章 日本製キリスト教という問題
1. 宗教伝播の問題
2. 日本の場合
3. 土着運動という盲点
第2章 さまざまなキリスト教
1. ローマ・カトリック教会とプロテスタント・ミッション教会
2. 超教派から教派へ
3. 札幌バンドと熊本バンド
4. 明治期のミッション教会
5. 国家主義への適応
6. 戦後の状況
7. 多彩な土着運動
8. 土着化の新たな類型論
第3章 カリスマと準教祖
1. 日本人が拒否したもの
2. 日本文化の多様性と聖書の多元性
3. カリスマと準教祖
4. 「霊の世界」のあらわれ方
第4章 無教会運動とは何か
1. 日本製キリスト教の源泉
2. 内村鑑三の精神遍歴
3. 士族の儒教倫理
4. 預言者としての内村鑑三
第5章 自己修養の道
1. 松村介石と道会
2. 川合信水と基督心宗教団
3.宗教体験と自己修養
第6章 第二波の土着運動
1. 村井じゅんとイエス之御霊教会
2. 大槻武二と聖イエス会
3. 手島郁郎と原始福音運動
4. 日本製使徒キリスト教の特徴
第7章 日本人キリスト教徒と死者の世界
1. 祖先崇拝と霊魂信仰
2. プロテスタント神学と祖先崇拝の衝突
3. 民俗宗教への取り組み
4. 日本人の目で聖書を読む
5. イエス之御霊教会の身代わり洗礼
6. 死霊の救済
7. 世界の再呪術化
第8章 何がキリスト教移植を阻むのか
1. 成長と衰退のパターン
2. 土着化は万能薬か
3. 日本におけるキリスト教のジレンマ
4. 黙殺された次元
5. 押し寄せる韓国キリスト教
6. 韓国キリスト教のシャーマニズム化
7. パウロ・チョー・ヨンギの日本宣教
8. 日本グレースアカデミーにおける癒し
9. 韓国ペンテコステ派と現世利益
第9章 日本製キリスト教のとらえ方
1. 日本製キリスト教の「道」
2. カリスマとその継承
3. 現代日本人のキリスト教観
4. 土着運動が示唆するもの
キリスト教土着運動教団別資料
訳者解説
著者プロフィール
マーク・マリンズ(Mark R. Mullins)
1954年アメリカ合衆国アラバマ州に生まれる。アラバマ大学卒業、リージェント大学(カナダ)を経てマックマスター大学(カナダ)で博士号取得。宗教社会学専攻。1985年から日本在住。四国学院大学、明治学院大学を経て、上智大学比較文化学部教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。
高崎 恵(たかさき・めぐみ)
1963年生まれ。国際基督教大学卒業、同大学大学院で博士号取得。文化人類学専攻。東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所COE特別研究員、オックスフォード大学クィーンエリザベスハウス客員研究員を経て、国際基督教大学、東京女子大学、東洋大学非常勤講師(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。
<書評への付記>
「第5章 自己修養の道」の「2. 川合信水と基督心宗教団」で、川合信水を描いて実弟の肥田春充(ひだ・はるみち)に触れていないのは大いなる不満である。
なぜ、肥田春充が創始者の「強健術」がグンゼで普及したのか(・・川合信水は教育担当者として私企業のグンゼに招かれて労働者の指導にあたっていた)、そしてまた「肥田式強健術」の極意の型といわれるものに「聖十字架操練法」なんて技法があるのか、この本を読んではじめて、そのミッシングリンクが「川合信水と基督心宗教団」であることがわかった。
肥田春充の「肥田式強健術」については、あらためてこのブログで紹介したいと考えている。
「第6章 第二波の土着運動」の「3. 手島郁郎と原始福音運動」で、「幕屋(まくや)運動」について詳しく書かれているのはありがたい。「土着したキリスト教」において、創始者の息子ふたりが、原始キリスト教を突き抜けてユダヤ教の専門研究者になっているのは面白い。日本人の原点追求志向のなせるわざか。
米国でもキリスト教原理主義者がユダヤ教に改宗して、イスラエルの入植者になっているケースが多々あることも知っておくべきことだろう。
追記(2011年2月18日)
なお、この書評(初出)は投稿先の bk1 でも紹介していただいている。
bk1 書評ポータルにて紹介 2010年12月30日
追記(2011年9月17日)
『鉄人を創る肥田式強健術 (ムー・スーパー・ミステリー・ブックス)』(高木一行、学研、1986)-カラダを鍛えればココロもアタマも強くなる! と題して肥田春充の「肥田式強健術」について紹介する記事を書いた。これで少し肩の荷が下りた
서평『메이드 인 재팬의 기독교』
(마크 마린스, 타카사키 메구미 역, 트랜스뷰, 2005)
-일본 선교(=기독교 포교)를「이문화 마케티그」로 생각하는 힌트로
「아타마의 서랍」은 살아있는 힘이다!:
서평 『메이드 인 재팬의 기독교』
(마크 마린스, 타카사키 메구미 역, 트랜스뷰, 2005)-일본 선교(=기독교 포교)를 '이문화 마케티그'로 생각하는 힌트로
2010년 12월 24일 금요일
서평『메이드 인 재팬의 기독교』(마크 마린스, 타카사키 메구미 역, 트랜스뷰, 2005)
■일본 선교(=기독교 포교)를 '이문화 마케티그'로 생각하는 힌트로 ■
아직까지 전체 인구의 1%를 넘지 않는 일본의 기독교 인구, 왜 그런지에 대한 탐구는 지금까지도 많이 이루어져 왔지만, 이 책의 특징은 그동안 별로 주목받지 못했던 '기독교 토착'에 큰 초점을 맞췄다는 데 있다.
나 자신이 기독교인은 아니지만 기독교 자체는 지적으로 이해할 필요가 있다고 생각해 왔고, 최근 매우 증가하고 있는 '기독교식 결혼식'을 들고 나올 필요도 없이 일본인들은 특히 젊은 층을 중심으로 '기독교적인 것'에 친근감을 갖고 있는 것 같다.
그러나 앞으로도 일본에서는 신자가 되려는 사람은 극히 소수일 것이다.인생 통과의례 중 하나인 결혼식을 기독교식으로 한다고 해도 신자도 아닌데 출생이나 장례를 기독교식으로 치르는 사람이 늘어날 줄은 도저히 상상할 수 없다.
메이지 유신 이후의 기독교 포교는 전적으로 미국의 개신교계 교회가 중심이 되어 왔다(P.2026에 일본에서 전도를 행한 기독교단의 리스트가 실려 있는데, 놀라울 정도로 많다!).
그러나 기독교인이 된 일본인 중에는 외국인 선교사의 미션 방식에 불편하거나 거부반응을 보인 사람이 있었다.
옛 사족 유교적 에토스의 소유자였던 우치무라 간조의 무교회 운동을 필두로 독특한 성경 해석으로 일본인을 위한 기독교 전개를 시작한 자들이 적지 않게 존재한다.
이들은 모두 기독교를 보급하려는 쪽 논리가 아니라 기독교를 수용하고 싶은 쪽 논리의 강한 열망이 그렇게 만들었다.
우치무라 간조에 영감을 받은 사람들(...모두 남성이다!)은 일본의 전통인 정신수양, 자기수양의 길로서의 기독교를 개척하고 있다.그러나 이들 교단을 따른 것은 주로 지식인을 중심으로 한 지적 중산층에 머물렀다.
등한시된 일반 대중은 기독교 토착이라는 방향으로 나아가기 시작한다.펜테코스테적이라는 이언과 치유 등 심령주의적 체험형 신앙의 기독교 길로 나아간 것이다.
그러나 이 길이 닿는 곳은 원래의 토착형 신흥종교와 같은 씨름판으로 들어가게 되어 패전 후 사회변동에 즈음하여 일시적으로는 신자가 늘어났지만, 마침내는 일본에 정착하지 못하고 오늘에 이르고 있다.
토착형도 카리스마는 창설자 일대에 한해 카리스마는 계승되지 않은 채 집안이 조직을 계승하고 있지만 신자의 고령화뿐만 아니라 저출산 속에서 새로운 신자도 획득하지 못하고 쇠퇴해 가는 것은 어쩔 수 없는 부분일 것이다.
「영혼의 쟁탈전」으로서의 포교 활동은 비즈니스로 말하면 마케팅과 같은 활동이지만, 이 활동에서 기독교는 일본 시장에서는 실패했다고 해도 과언이 아니다.한국과 비교하면 그 차이는 역력하다.
기독교가 일본에 정착하지 못한 이유에는 일본인 자신에 의한 무의식의 취사선택이 작용하고 있다고 해야 할 것이다.
저자도 말했듯이, 일본 민속신앙에 있어서 「조상과 죽은 자의 영혼을 둘러싼 토착 신앙이나 관습」은 극히 뿌리 깊은 것이 있어, 종종의 사회변동을 거치면서도 근본적으로 변화하지는 않았던 것이다.
현재는 이것이 언론과 연동된 이른바 스피리추얼 붐으로 더욱 가시화되고 강화되는 방향에 있다고도 할 수 있다.현대적인 의상을 입고 있어도, 일본인 민간 신앙의 본질은 「조상과 죽은 자의 영혼」을 제외하고는 성립되지 않는다.
그리고 또한 살아있는 인간과 인간의 관계가 자립적인 개인을 기초로 한 사회가 아니라는 점도 기독교의 침투를 막고 있는 큰 이유 중 하나이다.근대화된 일본에서도 서양적 의미에서의 사회는 존재하지 않으며 인간관계는 여전히 '세상'이 중심이다.
기독교는 세상에서 보면 다른 사람 말고는 아무것도 아니다.토착화되었을 때는 「세상」속에 포섭되었을 때에는, 이미 기독교가 아니게 되었다고 해야 할지도 모른다.
면역계 비유로 말하면 기독교라는 이물질에 대한 면역반응은 거절하거나 끌어들여 자기 것으로 만들어 버리는 두 가지밖에 없다.그런 의미에서 기독교는 더 이상 일본에서는 늘어나지 않겠지만, 많은 일본인들은 무의식중에 취사선택하여 기독교의 요소를 이미 어떤 형태로든 수용해 버렸다고 해도 좋을지도 모른다.게다가 자신에게 편리한 '좋은 자리 잡기'라는 형태로.이는 서두에서 언급한 기독교식 결혼식에 단적으로 드러난다.
이 책은 다양한 관점에서 읽을 수 있는 흥미로운 연구서이다.기독교 토착운동을 그리면서 떠오르는 것은 일본이라는 것, 일본인이라는 것, 즉 '세상'에 대한 것이며, 또 새로운 사상이나 교리를 다른 맥락을 가진 문화에 이식하는 것의 어려움에 관한 것이다.
비즈니스맨으로서 내가 관심을 갖는 것은 특히 후자의 점이다.포교의 성공은 그 가르침으로 얼마나 많은 영혼을 구할 수 있었는가로 측정할 수 있지만, 어디까지 독창적인 본질을 유지한 채 현지에 토착화할 것인가 하는 과제로 남는다.
이것은 비즈니스 용어를 사용하면 커스터마이즈에 의한 현지화이지만 종교도 사상의 하나인 이상, 같은 메커니즘이 작용하고 있다고 보아 문제 없을 것이다.
만인을 위한 책이 아니기 때문에 모든 사람에게 추천할 생각은 없지만, 일본이 무엇인가를 생각하는 사람에게는 재미있는 시각을 제공해 주는 책임에는 틀림없다고 말해 두자.
<초출정보>
■ bk1 서평「선교(= 기독교 포교)를 마케티그의 관점에서 생각하는 힌트로」투고 게재 (2010년 12월 23일)
■amazon 서평「선교(=기독교 포교)를 마케티그의 관점에서 생각하는 힌트로」투고 게재 (2010년 12월 23일)
* 1년 전에 집필하고 있으면서 미발표였던 문장을, 대폭 압축해 「서평」으로서 투고.블로그에서는, 원형으로 되돌린 후에 자구의 수정을 실시했다.
목차
전갈이
제1장 일제 기독교라는 문제
1. 종교 전파의 문제
2. 일본의 경우
3. 토착 운동이라는 맹점
제2장 다양한 기독교
1. 로마 가톨릭교회와 개신교 선교회
2. 초교파에서 교파로
3. 삿포로 밴드와 구마모토 밴드
4. 메이지 시대의 선교 교회
5. 국가주의에 대한 적응
6. 전후의 상황
7. 다채로운 토착 운동
8. 토착화의 새로운 유형론
제3장 카리스마와 준교주
1. 일본인이 거부한 것
2. 일본 문화의 다양성과 성경의 다원성
3. 카리스마와 준교주
4. '영의 세계'가 나타나는 방식
제4장 무교회 운동이란 무엇인가
1. 일제 기독교의 원천
2. 우치무라 간조오의 정신 편력
3. 사족의 유교 윤리
4. 예언자로서의 우치무라 간조오
제5장 자기 수양의 길
1. 마츠무라스케이시와 도회
2. 가와이 노부미즈와 기독심 종교단
3) 종교체험과 자기수양
제6장 제2의 물결 토착 운동
1. 무라이 준과 예수의 영교회
2. 오오츠키타케지와 성 예수회
3. 테지마 이쿠로와 원시 복음 운동
4. 일제 사도 기독교의 특징
제7장 일본인 기독교인과 죽은 사람의 세계
1. 조상 숭배와 영혼 신앙
2. 개신교 신학과 조상 숭배의 충돌
3. 민속 종교에 대한 대처
4. 일본인의 눈으로 성경을 읽다
5. 예수님의 영신 교회의 대체 세례
6. 사령의 구제
7. 세계의 재주술화
제8장 무엇이 기독교 이식을 막는가
1. 성장과 쇠퇴의 패턴
2. 토착화는 만능약인가?
3. 일본의 기독교 딜레마
4. 묵살된 차원
5. 밀려드는 한국 기독교
6. 한국 기독교의 샤머니즘화
7. 파울로 조용기의 일본 선교
8. 일본 그레이스 아카데미의 치유
9. 한국펜테코스테파와 현세이익
제9장 일제 기독교를 받아들이는 법
1. 일제 기독교의 '길'
2. 카리스마와 그 계승
3. 현대 일본인의 기독교관
4. 토착 운동이 시사하는 바
기독교 토착운동 교단별 자료
역자 해설
저자 프로필
마크 멀린스(Mark R. Mullins)
1954년 미국 앨라배마 주에서 태어나다.앨라배마대 졸업, 리젠트대(캐나다)를 거쳐 맥매스터대(캐나다)에서 박사학위 취득.종교사회학 전공. 1985년부터 일본에 거주. 시코쿠 학원대학, 메이지 학원대학을 거쳐 조치 대학 비교문화학부 교수(본 데이터는 이 서적이 간행되었을 당시에 게재되었던 것).
타카사키 메구미(타카사키 메구미)
1963년생.국제기독교대학 졸업, 동 대학 대학원에서 박사학위 취득.문화 인류학 전공도쿄외국어대 아시아아프리카언어문화연구소 COE 특별연구원, 옥스퍼드대 퀸엘리자베스하우스 객원연구원을 거쳐 국제기독교대학 도쿄여대 동양대 시간강사(본 데이터는 이 서적이 간행될 당시 게재된 것).
<서평에의 부기>
「제5장 자기 수양의 길」의 「2. 카와이 신수와 기독심 종교단」에서, 카와이 신수를 그려 친동생 히다 하루미치를 건드리지 않은 것은 큰 불만이다.
왜 히다 하루미쓰가 창시자인 강건술이 군제에서 보급되었는지(·가와아이 신수는 교육 담당자로서 사기업인 군제에게 초청되어 노동자를 지도하고 있었다), 그리고 또 「히다식 강건술」의 비법형이라는 것에 「성십자가 조련법」이란 기법이 있는지, 이 책을 읽고 나서야 그 미싱 링크가 「카와아이 신수와 기독심 종교단」임을 알았다.
히다 하루미츠의 「히다식 강건술」에 대해서는, 재차 이 블로그에서 소개하고 싶다고 생각하고 있다.
「제6장 제2파 토착운동」의 「3. 테지마 이쿠로와 원시복음운동」에서, 「막부야 운동」에 대해 자세하게 쓰여져 있는 것은 고맙다.토착 기독교에서 창시자의 아들 둘이 원시 기독교를 뚫고 유대교 전문 연구자가 된 것은 재미있다.일본인의 원점 추구 지향의 나른한 기술인가.
미국에서도 기독교 원리주의자들이 유대교로 개종해 이스라엘 정착민이 된 경우가 허다하다는 것도 알아야 할 일이다.
추가(2011년 2월 18일)
덧붙여 이 서평(초출)은 투고처의 bk1에서도 소개받고 있다.
bk1 서평 포털에 소개 2010년 12월 30일
추가(2011년 9월 17일)
철인을 만드는 히다식 강건술(무 슈퍼 미스터리 북스)(타카기 일행, 학연, 1986)-몸매를 단련하면 몸도 마음도 강해진다! 라는 제목으로 히다 하루미쓰의 「히다식 강건술」에 대해 소개하는 기사를 썼다. 이것으로 조금 어깨가 가벼워졌다.