2022/11/03

内村鑑三の「武士道に接木されたキリスト教」に関する間文化的哲学における一考察

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西南学院大学 人間科学論集 第10巻 第1号 23―39頁 2014年8月
内村鑑三の「武士道に接木されたキリスト教」に関する間文化的哲学における一考察
深 谷

Eine Betrachtung des in das Bushido <<gepfropfte>>
Christentum von Kanzo Uchimura unter dem interkulturellen philosophischen Gesichtspunkt
Jun Fukaya


はじめに

21世紀にはいって10数年あまりたち、国際社会のグローバル化はますます進んでいる。インターネットで、情報が瞬時に世界をかけめぐる一方、経済的・政治的違いによる様々な対立・紛争も生じている。異なる文化や宗教への理解と協調が求められる現代、日本では、再び脱宗教的な倫理観や哲学がブームになっている。その一つに武士道への興味の高まりがある。
武士道は、古代からある日本における「戦闘者」(サムライ)の倫理観である。19世紀末、当時の日本の国際連盟事務次官であり、クリスチャンの新渡戸稲造が、英語で「Bushido」(1900年)を著し、世界中に広まった。米国大統領ルーズヴェルト1が熱心な愛読者であったと言われている。
本稿では、主に2つのことを課題とする。第一に、武士道が現代のグローバル社会に与える意義は何か、特に、武士道には洋の東西を問わない価値の普遍性があるのかを解明する。そのためには、外国人が武士道の普遍性をどのように理解し、評価しているのか説明する。第二に、日本におけるキリスト教の土着化の一形態である「接木」の意味を明らかにする。特に、新渡戸稲造と並んで、近代日本の代表的なキリスト者である内村鑑三のキリスト教と武士道の関係を分析する。内村は、「武士道に接木されたキリスト教」という表現で、日本におけるキリスト教の土着を形容した。「接木」という異文化間の土着化の形態とはどのようなものか、先行研究などによって説明し、さらに間文化的哲学(Interkulturelle Philosophie)の分類と対比させることを試みる。
本稿は、決して日本人のユニークさを紹介する一つの日本人論を提示することを目的とするものではない。むしろ、文化間の差異を超えた人間としての倫理的な普遍性を探求する際の、一つの例を明らかにすることにある。固有の文化におけるアイデンティティーの中に、他の文化と通じ合う普遍性がどのように含まれ、構成されているのかについて考察する。
1.内村鑑三の生涯と武士道
本稿のテーマである内村鑑三の武士道的キリスト教を解明するにあたり、始めに、内村の生涯の概略を紹介しておきたい。
内村鑑三は、1861年3月、高崎藩の武家の長男として東京(当時の江戸)に生まれた。17歳で札幌農学校に入学し、翌年受洗した。同期に新渡戸稲造がいる。24歳で私費で渡米し、アマースト大学に入学、さらに神学を本格的に学ぼうと27歳でハートフォード神学校に入学したが、翌年退学する。帰国後、新潟や横浜、東京で教師をするが、1891年、第一高等中学校教員の時、不敬事件を起こし、退職する。この事件は、天皇の言葉である「教育勅語」に対し、奉拝を充分しなかったとして非難された事件である。(1924年1月9日)その後、内村は教育職を離れ、評論家として著作活動をする。『基督信徒の慰』、『求安録』、聖書注解など多数を著した。また、伝道者として、聖書研究会を自宅で開きはじめたが、会員が増え、講堂を新たに建設(今井館)した。彼は、外国の宣教師や、教会のキリスト教によらない、聖書のみのキリスト教を重視し、日本とイエスの2つの J への愛を実現することを生涯の目標とした。彼の立場は、「無教会主義」と呼ばれ、「教会が無い」という意味での無を説いた。
彼が発刊した雑誌「聖書之研究」は、1900年10月から彼の亡くなる1930年まで357号にいたるまで発刊された。彼は、様々な聖書研究会が自然発生的に生まれ、また消滅していくことを是としていた。キリストによる集いが、管理的な組織になって硬直化していくこと、特に聖職者や儀式によって、信仰が階層化されることを嫌った。
他方、集会への参加や規律は厳格であり、儒教の教師方法を見本としていた。2例えば、2回以上無断欠席した者は、除名されたと言われている。
内村の無教会主義は、不敬事件がきっかけで生まれた独特の立場であり、現在でもこの立場でキリスト教信仰をもつ者も存在する。詳細は割愛するが、「教会に捨てられた」内村が行きつく先が、聖書に基づく信仰であり、この点はルター主義に共通すると言える。
武士道が、彼の思想に占める位置を把握するために、岩野祐介の「内村鑑三の武士道」(2010)を参照したい。岩野は、内村が著した「武士道と基督教」に最も内村の武士道の特徴が表れていると指摘し、さらにそれが第一次世界大戦中(1916年)に書かれていることに着目している。キリスト教国であるにもかかわらず参戦した米国、西欧諸国に対する日本の在り方に関して、内村の考えが表されていると言う。欧米のキリスト教、特にアメリカは、物質主義になっており、そこにおけるキリスト教の限界と日本の武士道に基づく新たなキリスト教の進展が望まれる内容となっている。3 さらに、岩野は、内村の武士道は、
「理想主義的世俗道徳」にとどまり、明確な特徴づけを行っていたわけではない、と指摘する。内村が「武士道」と呼んでいたものは、彼自身の生い立ち(武家出身)に負う程度の、常識的な範囲の道徳性とみなされるものである。少なくとも、日本的固有性を改めて内村から取り出すことは困難である、と結論づけている。4
2.先行研究
先述の岩野の他に、内村に関連した先行研究を次に分析することにしたい。
内村の弟子のひとり、聖書学者の黒崎幸吉は、1943年に『武士道的基督教』を著した。黒崎は、武士道の精神は、「全身全霊を主君にささげる」ことであると説く。ささげる、とは、「主君の喜びが自分の喜びであり、主君の悲しみが自分の悲しみ」であるという「人格同化」のレベルにまで高まることであると言う。5 キリスト教の精神も、すべてをキリストにささげることであり、その点において、「日本の武士道ときわめて大なる精神の共通性を持っている」6と言う。また、日本にキリスト教が必要な理由は、武士階級以外の国民(農民・商人ほか)にとって武士道的精神をキリスト教によって浸透させることができるためである。さらに、キリスト教は、武士道に一層高い理想(絶対的・永遠なるものとの繋がり)を与えることができると言う。1943年当時の日本は、第二次世界大戦開戦直後であった。黒崎の武士道キリスト教は、内村の「無教会主義」の革新性を明らかにすることを目的としていたが、残念ながら、天皇に身をささげることを求められていた皇国思想を擁護する論理にすりかわってしまった。7
さらに、国谷純一郎の論文「内村鑑三における伝統と近代化―武士道キリスト教を中心として―」(1968年)は、武士道とキリスト教の関係を歴史的視点から分析しようとしたものである。ここでは、内村が武士道を「小なる光」、キリスト教を「大なる光」と比ゆ的にとらえていることに触れ、武士道はキリスト教によって完全なる人の道となると理解されている。さらに、武士道の徳目(正直、勇気、恥を知るなど)は、パウロの言葉やイエスの生き方に対応するものと主張される。結論として、武士道とキリスト教は、連続性があり、有機的なつながりをもったものであり、「武士道にキリスト教を接木」8 するという内村自身の表現を肯定したものとなっている。国谷の論文で、注目すべきことは、むしろこの連続性を容易に内村が認めていることを批判している点である。異文化の地でキリスト教を信じる際に、個人的レベルでは様々な葛藤や実存的決断がある。しかし、日本人という国民性のレベルでは、「2つの J(Japan, Jesus)」を愛することに苦闘する姿は、内村には見受けられない。国谷によれば、内村は、武士道を理性の光から現実を超越する理想主義と結びつけている、と指摘する。9 それによって、武士道とキリスト教との連続性が捉えられるのである。
また、彼は、武士道が「日本道徳」と言えるのか、という疑問も投げかけている。武士道は一部の支配階級の道徳であり、日本民族の倫理観を捉えるには限度がある。国谷によれば、大半の庶民の倫理観は、歌舞伎のなかで表現される「つらさ」であり、それをもとに、北森嘉蔵が『神の痛みの神学』をまとめた、と指摘する。10 武士道が日本道徳の全体を捉える視点としてふさわしいかどうかは、議論の余地があるであろう。
カルダローラの『内村鑑三と無教会』(1978年)は、無教会の成立や教会との関係、無教会の本質と構造や今日的状況など無教会の全体像を捉えた最初の研究と言える。11 その中で、彼は、武士道とキリスト教の関係を連続と断絶の二重性で捉える試みをしている。内村鑑三と海老名弾正のキリスト教への回心を例に出しながら、「キリスト教が儒教の精神と真の意味」を完成すると彼らは信じたと指摘する。儒教精神を基礎とする武士たちは、封建制度が明治維新によって崩壊し、道徳的体系も合わせて崩れる運命にあったが、主君の代わりに、人格神を置くことによって、武士道のエートスを保った。カルダローラは、これを「価値体系の再活用」と呼んでいる。12
マリンズの『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』(2005年)では、特に内村の無教会運動を分析している。(第4章)彼によれば、日本的キリスト教を特徴づけるものは、「儒教を志向する武士道の伝統」であると指摘する。13 そこでは、さらにカルダローラが無教会運動を「禅的キリスト教」と呼んでいることを批判している。内村は禅ではなく、「信仰による他力の救済」を強く訴えており、瞑想よりも聖書の教えや講義が無教会運動の核になっていると反論する。14 内村は、浄土教の阿弥陀仏信仰とキリスト教が非常に似ていることを指摘する15。マリンズの分析は、内村の無教会主義が、儒教を土台とした武士道に端を発しながらも、信仰による救済を説いた鎌倉仏教に接近する要素をキリスト教に見出そうとする内村のキリスト教理解を指摘したものと言える。
小野派一刀流17代宗家であり、牧師でもある笹森建美は、『武士道とキリスト教』(2013)の中で、武士道の「武」とは、「戈ホコ」を止めると言う意味で、戦いを止めることこそ、武の意味であると説いた。16 つまり、武器の扱いに熟達することが武士道ではなく、人の生き方、死に方を真剣に問う「道」であり、それはキリスト教と共通した点でもある。17 彼は、「接ぎ木」の意味を紹介している。それは、人工的な栽培技術であり、植物 A の幹や枝の切り口に、別の植物 B を密着させる方法である。それによって、B は A を通して育ち、単独で育つより病気に強く、収穫数があがったりするという。その際重要な点は、
A と B の相性であるという。内村や新渡戸は、武士道とキリスト教は、相性がよく、新たな価値を生むと考えていた、と笹森は推測している。18 また、彼によれば、内村や新渡戸は、武士道とは何かは理解していても、武道そのものを日々修練してはいなかったのでは、と疑問を呈している。19 その意味で、内村自身の台木としての武士道の資質に、若干の批判を加えている。
以上先行研究を概観してきたが、それらには主に次の二点が共通している。第一に、武士道を日本人の倫理観を代表するものと捉えていること。第二に、キリスト教と武士道に、神と人、主君と家来の関係において構造上の共通点があることである。第一の点に対しては、岩野が、武士道が本当に日本的固有性をもつものであるか、疑問を呈している。第二点目に関しては、国谷の指摘によれば、神を愛することと同時に、国を愛することに葛藤はなかったのか、という疑問が生じる。これらは、日本人のアイデンティティーとしての武士道の位置付け、また、武士道における普遍性と関連した課題であると考えられる。この課題に取り組むために、武士道を異文化として受容した外国人の立場から、武士道がどのようにみえるのか、参照していきたい。
3.武士道の普遍性とは?
外国人からみた武士道の普遍性を考察する際、今日最も積極的な発言をしている一人が、アレキサンダー・ベネットである。彼は、ニュージーランド出身で、京都大学大学院で学び、現在、関西大学国際部准教授、剣道7段の腕前である。彼は、雑誌のインタビューで、武士道は、「日本人が美とする価値観」であり、それは、人間として、世代を超えた普遍的な価値観であると言う。20 彼の著作、『武士の精神とその歩み:武士道の社会思想史的考察』(2009)には、武士道は、「名誉を重んじる象徴体系」21 であり、ナショナリズムと倫理主義で成立する「新宗教」22 としての側面があると言う。この著書で、ベネットは、武士道の普遍性を強調しているわけではない。武士道は、時代によって特徴が異なり、「戦闘的な武士の心性」(ハード武士道)、「武士の理想像・生き方」(ソフト武士道)、そして、内村、新渡戸に代表される「近代国家形成とともに作り出した概念」(明治武士道)の3つに分類される。23 明治武士道は、国家主義と結びつけられ、天皇を頭とした国粋主義、さらに軍国主義に焼き直されて、「日本人の魂」に変質していった。24
また、アメリカ人のナッシュは、著作『日本人と武士道』(2004)の中で、武士道の宗教的背景を巧みに分析している。彼によれば、武士道は、仏教から「死に親しむ心」を、禅宗から「絶対そのものを確知するための精神の鍛練法」を学んだと言う。さらに、神道から「主君に対する忠誠、祖先に対する尊敬、並びに親に対する孝行」を教えられ、孔子からは「平静仁慈にしてかつ処生の智慧に富むこと」、孟子から「同情心」を、王陽明から「知行合一」の教えを学んだと説明している。中国をはじめとする東洋思想のエッセンスを含んだ武士道は、ナッシュによると、騎士道やキリスト教の根本的な態度にも通じていると言う。25 武士道は、世俗の道徳体系にとどまらず、宗教のもつ超越的な次元に接点を持つと彼は考えた。26
実例として、幕末の武士の一人であり、内村鑑三が代表的日本人の一人に選んだ西郷隆盛を挙げている。西郷は、陽明学を深く学び、「敬天愛人」を生きる理念として掲げていた。天の法則に従い、人を愛する心をもつことを重視する西郷の姿は、「キリスト者」と言える、とまで語っている。27
また、台湾の元総統、李登輝は、グローバル化が進む現代こそ、アイデンティティーが重要であり、日本の根本精神である「武士道」の意義は大きいと考えている。28 彼は、聖書と並んで、新渡戸の『武士道』の中には、「現代の人類社会に通じる普遍の真理が隠されている」と指摘しつつ、日本国民の欠点に対し、
「武士道が大いに責任あること」をも認めている点を踏まえ、武士道の全面復活ではなく、今日でも通用する点を大事にすべきとしている。29 李は、武士道が説く「公義(Justice)」こそ、伝統的価値観が示されている点であり、かつ、永遠の真理であると考えている。30 また、武士道は、実践する知であり、「実践理性」であると言う。彼が、大陸の中国人を評価しない理由の一つに、日本人と同じように孔子や孟子の書に接しながらも、彼らは日本人のような武士道に培われた実践の精神が希薄であるから、と説明している。「論語読みの論語知らず」になって、口先ばかりで実行しない、と批判している。31
他にも、元 BBC の日本語部長で、柔道9段、将棋5段の腕前の、フリーライター、トレーヴァー・レゲットが著した『日本武道の心』32 では、イギリスの紳士の美徳と日本の武士道に触れている。彼によれば、紳士の美徳(正直、優しさ、自由、勇気)にかけているものは、冷静さと文化・教養であり、武士道にはそれがあるという。33 確かに、武士にとって、茶道は、「一期一会」に会する客人に対する礼儀であり、俳句は、辞世の句を読むためにも、不可欠な教養であった。
(ルース・ベネディクトの『菊と刀』は、彼女のリサーチの方法において時代的な制約があり、内容に関しても批判があるため、ここでは割愛する。)
武士道が、日本的固有性をもつものである点は、ベネットによっても明らかにされている。他方、それが日本人のみにとどまらず、普遍的価値を志向するものである側面は、武士道を体現した西郷隆盛の、「キリスト者」的な倫理観にも見出せる。李も武士道の公義が普遍的真理であると言及している。しかし、同時に武士道がナショナリズムや軍国主義に結びつき、負の側面を露呈した点も見逃されてはいない。幸か不幸か、『武士道』を著した新渡戸稲造は、武士道が軍国主義の原理に変質する前に世を去った。神を愛することと、国を愛することに矛盾を感じなかった内村の「理想主義」が、単純であったことが、武士道の倫理観が容易に国家の主君(当時の天皇)に身をささげること、それを実践することを可能にした、と言えるのではないだろうか。黒崎の『武士道的キリスト教』にある「人格同化」は、まさにそれを如実に表現していると思われる。
4.「接木」という土着化の意味
次に、内村の「武士道に接木されたキリスト教」に表現された「接木」という土着化の意味について分析し、さらに間文化的哲学の観点から考察を加えたい。
日本におけるキリスト教の受容に関して、代表的な研究『土着と背教』(1967年)を著した武田清子は、「キリスト教の土着方法」を5類型に分類した。それによると、キリスト教の受容には、第一に埋没型、第二に孤立型、第三に対決型、第四に接ぎ木型、第五に背教型があると言う。その中で、第四の接木型とは、「日本の精神的伝統に内在する諸価値の中から積極的可能性を潜在させたほうがと考えられる要素を選択し、そこにキリスト教の真理を受肉しようとする試み」である。34 特に、その価値として代表的なものは「武士道」である。内村鑑三ばかりでなく、新渡戸稲造もまた武家の出身である。彼らにとって、キリスト教の神と人との関係は、武士道のエートスを通して解釈されたと考えられる。
しかし、武田自身は、内村を対決型の典型例と捉えている。対決型とは、日本の伝統的古い価値・規範の内、キリスト教と相対立・矛盾する要素と対決しつつ、土着するタイプである35 という。実際に、内村がとった行動を考えると、対立したのは武士道ではなく、むしろ、教会という制度や宣教師たちであったことがわかる。36
武田の類型において、教会から離れる形態をとるものは、第五である。それは、キリスト教が日本的な精神土壌を含みながら歪んでいくこと(例えば、儒教的な倫理思想が浸透したり、教会が家族主義的共同体となること)に耐えられず、教会を脱会したり、背教者と呼ばれても、「キリスト教から触発されたある価値」を実現しようとしてキリスト者の群れを自発的に離れていった者をさす。37 このタイプは、キリスト教信仰を必ずしも捨てているわけではなく、むしろ「純粋に」保っているからこそ、教会の中で生じるキリスト教の「日本化」に耐えられなくなって、教会から離れていった例といえる。
これらの類型は、必ずしも個人に一つだけ該当するものではなく、「個人に複数の類型が重層的にみられる」と武田は言う。38 さらに、彼女は内村から対決、接木、孤立型のアプローチを引き出すことができると言う。39 そして、日本の精神風土へのキリスト教の土着において、接木型と対決型を望ましい在り方と考えている。40
また、土着の概念について、葛井は、次の3種類に区別している。第一に、「外来」の反対の概念としての「土着」である。それは、近代主義をまとった外来文化に対して、伝統主義の立場から、「在来固有文化」を守ろうとする態度である。第二に、「在来文化」の中に普遍性を見出す立場である。それは、伝統主義のマイナス面を克服するために、閉鎖的なナショナリズムを拒否する態度である。第三に、外来文化を受容するプロセスとして土着を位置付ける態度である。それは、外来対在来の二分法で、文化の出所を分けない態度である。41葛井は、キリスト教の土着は、第三のプロセスとしての土着を、さらに徹底したものであると言う。しかも、これら3つが、外来文化が受容する側の文化に同質化されるのに対して、キリスト教は、異質性を保ちつつ、在来文化との「緊張関係」を保持するという。42
葛井の立場から見ると、「接木」型とは、第二と第三を包含する形態と言えよう。在来文化(武士道)にキリスト教が接合され、両者の価値体系における共通性が融合するプロセスを経験する。武士道が、日本人の武士階級以外にも広がるためには、キリスト教の愛の精神が必要であった。また、武士道は、倫理体系であり、魂の救済を説く宗教ではない。キリスト教がその側面を補填したと言える。笹森は、接ぎ木するには A と B の相性が重要と指摘したが、その意味では両者は理想的な組み合わせだったのかもしれない。しかし、現実的には、武士道的キリスト教は、日本人には広まらなかった。それに関して、岩野は、「武士道的」要素が、かえってプロテスタント・キリスト教の倫理的に厳しい側面をクローズアップしてしまったため、キリスト教の民衆化を妨げる要因になったのでは、と指摘している。43 さらに、高橋三郎は、武士道を台木にすることは、日本的ナショナリズムを意味すると批判する。それは、武士道を理解する日本人にはいいかもしれないが、武士道がわからない民族には理解不可能であるという。すなわち、「武士道」は普遍性に欠けると批判する。44 武士道の普遍性に関しては、すでに触れたので繰り返さないが、ナショナリズムと容易に結びついた点は、明治期以降の日本の歴史が証明している。(軍人勅諭との関係等)
5.考察
明治時代の日本は、近代化を欧米の文化・制度を積極的に取り入れることによって進めた。キリスト教を武士道の精神土壌に受容することは、先進的な海外の倫理観を伝統的な日本文化に受容するという構図に当てはめるならば、間文化的哲学を提唱するヴィーマー(Wimmer)の中心主義(Zentrismus)の分類では、どれに合致するであろうか、それとも別の枠組みで考察すべきであろうか。まずは、試みてみたい。
彼によれば、中心主義は、以下の4つに分類できるという。45
拡張的中心主義(expansiv):一つの勢力が他を圧倒する、統合的中心主義(integrativ):他の立場をあえて批判せず、自らの目的のために努力する、分離的中心主義(separativ):自分の思考法・文化を隔絶したまま、他の文化をそのまま受け入れる、試行的中心主義(tentativ):他の文化との関わりの中で、両者において絶対的に有効な考えを要求することから始めるのではなく、有効性にたどり着くためにどうするかを、共に対話しながら追い求める。
彼によると、間文化哲学の方法論としては、4つ目のタイプ(ポリローグ[Polylog])が有効であると考えられている。基本的に、異文化間同士が、たがいの優劣を競うのではなく、同等であることを前提に、対話する点が重要である。
それでは、「武士道に接木されたキリスト教」が、どのタイプに分類されるのか考察したい。まず、武士道を「台木」とすることは、必ずしも武士道が強い勢力をもち、それがキリスト教を飲み込むことを意味していない。その意味で、少なくとも拡張的中心主義ではない。武士道が、キリスト教によってさらに「人の道」として発展する、と内村が指摘していることから、武士道が隔絶した状態のままではない。そこで、分離的中心主義でもない。問題は、の統合的中心主義にあるような、批判の回避やの試行的中心主義の「対話」を武士道とキリスト教の間で行ったか否かである。
カルダローラが指摘するように、武士道の主君の代わりに、キリスト教の人格神がおかれ、武士道のエートスが保持されたと言う。それは、「価値体系の再活用」であった。また、国谷は、武士道が「小なる光」、キリスト教を「大なる光」であり、武士道とキリスト教の連続性を指摘している。ここから生じる疑問、武士道がキリスト教と対立し、批判される要素をもっていなかったのではないか、という点である。
儒教を中心とした日本の倫理体系である武士道と、ギリシア哲学と並び西洋文化の土台を形成したキリスト教は、対話しあう者同士として存在するには、あまりに違いすぎたのかもしれない。もしそうであれば、の試行的中心主義にも該当しないであろう。では、接木はに属するのであろうか?
は、伝統的文化と外来文化の間に、「文化性の葛藤(Dilemma der Kulturalität)」が存在する。46 両者が互いに侵害し合わず、共存しつつも、対話を通して共通理解を積極的に求めることまではしないからである。武士道とキリスト教は、単に並列して存在するのではなく、明らかに武士道の側に組み換えが行われている。つまり、武士道における主君と家来の縦の関係に、キリスト教の神と人との関係があてはめられ、主君がキリストに入れ替わったのである。この点から、接木は、にも該当しないことが明らかである。
以上から、「武士道に接ぎ木されたキリスト教」は、中心主義の分類のどれにも該当しないことが明らかになった。先進的文化・倫理・宗教に飲み込まれるわけでもなく、強固に殻を閉じて隔絶するわけでもない。また、影響をまったく受けずにいるわけでもなく、対話的関係を通して共通理解を図ることもしない。部分的に適用可能なところを摂取、習得し、全体の構造は、原型をとどめるような文化受容は、対話型を重視する間文化的哲学の理論では説明しがたいのではないだろうか。
ここで、改めて武田の接ぎ木型土着方法について考察してみたい。彼女は、内村鑑三と札幌農学校同期であった新渡戸稲造のキリスト教受容について、興味深い分析をしている。それは、「古い皮袋に新しい酒をもる」という表現で、武士道にキリスト教が接ぎ木される意味を示しているものである。
古い皮袋にもられた酒はその中にひめられた醗酵素のゆえに、いつの間にか新しい酒に代わっており、しかも、新しい酒は皮袋を破ることなく、皮袋をもやがて新しい皮袋にと変容してゆく。そこには、日本文化に対する新しい価値(新渡戸の場合はキリスト教)の接ぎ木型土着方法のみごとな例がみられると言えるのではなかろうか。47
これは、マタイによる福音書9章17節以下の「新しい葡萄酒を古い革袋に入れるものはいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、葡萄酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しい葡萄酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長持ちする。」をモチーフにした類比である。武田は、接木的土着方法として、「古い革袋」を比喩にしているが、台木と接木の関係ほど革袋と酒の関係は単純ではない。なぜなら、台木と接木は、木として一体となるが、革袋と酒は、入れ物と液体としての本質は変わらないからである。また、「新しい酒」の意味も2種類考えられる。一つは、外から加わるまったく新しい酒(b)であり、もう一つは、すでに古い革袋の中にあった古い酒(a)が、変化して新しくなった酒(a’)である。新しい酒(b)も、革袋の中で変化し、別の酒になる(b’)。(実際にこの b’は、a’と区別がつかない)この両者は、革袋の中で、混ざり合いながら(a’+b’)「新しい酒」(c)になるのである。
武田の主張は、葡萄酒だけにとどまらず、革袋までも新しく変容するとまで言っている。そこが、きわめて特徴的である。聖句では、革袋はやぶれてしまうのだが、武田のたとえでは、古い革袋は、新しい酒が作用して、新しくなるという。それは、武士道が、キリスト教によって、キリスト教化するのではなく、武士道としてのレベルがアップすることを意味する。また、キリスト教が日本の精神文化の器に注がれることにより、西洋的なキリスト教から、日本的な、さらにより深みのある味わいに変化することでもある。
おわりに
内村の武士道的キリスト教は、その後、第二次世界大戦に向かうに当たって、日本のキリスト教界に曲解して継承された。武士道が、海外を侵略することを是とする「大日本帝国」の倫理にすり替わり、それとともに、日本化されたキリスト教(「大東亜の基督教」)に変質する根拠として、内村の「武士道的キリスト教」が位置付けられたのである。岩野は、内村のキリスト教は、この曲解を可能にするあいまいさがあった、と批判している。48
武士道は、従来から主君の人格をもって家来とのつながりを保つ特徴がある。その関係は、言葉や論理による厳密さによって保証される契約のようなものではない。神と人との契約関係を基礎とするキリスト教と、人格という人間存在全体による連関の構築という武士道は、人格的価値の継承という課題を新たに生み出したと言える。
このことは、言葉や論理に還元されにくい文化的価値の受容・伝承のプロセスに対して、間文化的哲学ができることは何かという課題を突きつけるのである。
<主な参考・引用文献>
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岩野 祐介「内村鑑三における信仰共同体の問題」現代キリスト教思想研究会 第7号
2009年 pp.37-50
……………「内村鑑三の武士道」アジア・キリスト教・多元性 現代キリスト教思想研究会 第8号 2010年 pp.31-43
内村 鑑三「接木の理」『内村鑑三全集』29巻 岩波書店1983年 pp.415-429
……………「武士道とキリスト教」『内村鑑三全集』22巻 岩波書店1982年 pp.161-
162
……………「基督信徒のなぐさめ」『内村鑑三全集』2巻 岩波書店1980年 pp.3-75葛井 義憲『キリスト教土着化論』朝日出版社 1979年
カルダローラ『内村鑑三と無教会』(田村光三他訳)新教出版社 1978年
国谷 純一郎「内村鑑三における伝統と近代化―武士道キリスト教を中心として―」明治大学教養論集 45巻、 1968年 pp.48-62
黒崎 幸吉『武士道的基督教』日英道書店 1943年笹森 建美『武士道とキリスト教』新潮社 2013年菅野 覚明『武士道の逆襲』講談社 2004年
関根 正雄(編著)『内村鑑三』人と思想 清水書院 1988年
武田 清子『峻烈なる洞察と寛容 ―内村鑑三をめぐって―』教文館 2000年
……………『土着と背教』新教出版社 1967年
ナッシュ,シュテファン『日本人と武士道』(西部邁訳)角川春樹事務所 2004年古屋 安雄「内村鑑三の無教会」『日本のキリスト教』教文館 2003年
ベネット,アレキサンダー『武士の精神とその歩み:武士道の社会思想史的考察』思文閣出版 2009年
星野 靖二「日本基督教思想史における『近代化』と『宗教』」思想史研究 1号、日本思想論研究会編 2001年3月
マリンズ『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』(高崎恵訳)トランスビュー 2005年李 登輝『武士道解題』小学館 2004年
レゲット,トレヴァー『紳士道と武士道:コモンセンスの思想、サムライの伝統』(大藏雄之助訳)麗澤大学出版会 2003年
………………………『日本武道のこころ』(板倉正明訳)サイマル出版会、1993年
Wimmer, Franz Martin:Interkulturelle Philosophie, Facultas Verlags− und Buchhandels
AG WUV, Wien,2004
<註>
1904年、日露戦争中、ハーバード大学同期生の金子堅太郎伯爵(高平小五郎外交官の説が有力)が、大統領に進呈したと言われている。彼は30冊を購入し、5人の子に一冊ずつ配ったと言う。
関根(1988),p.112
内村(1982),pp.161-162
岩野(2010),p.42
黒崎(1943),p.11
ibid., p.51
ibid., p.40
「接木」という表現は、植村正久も用いている。cf.「吾らは武士の長所を携へて、天地の主、救世の君を奉じ、十字架の精神に之を接木せんと欲するものなり」(植村正久『福音新報』1894年6月15日)(カルダローラ、p.51)
国谷(1968)、p.57
10 ibid., p.59
11
カルダローラ(1978),p.369(田村光三[訳者代表]あとがきより)原文は、Carlo Caldarola, The Mukyokai Movement in Japan : Western Christianity and Japanese Cultural
Identity,1971。
12
ibid., p.51
13
マリンズ(2005),p.91
14
ibid., p.92
15
ibid.
16
笹森(2013),p.22
17
ibid., p.11
18
ibid., p.50
19
ibid., p.54
20
Discover Japan 2,vol.26「人生に効く『武士道』入門。」 出版社 2013年2月号 p.26
21
ベネット、p.259
22
ibid., p.17 イギリス人の日本学者チェンバレン(B.H.Chamberlain)が新渡戸の『武士道』を「新宗教」にすぎない、と批判した点に触れつつ、新渡戸自身も武士道を「新宗教」と考えていた面を否定してはいない。
23
ibid., p.259
24
ibid., pp.17-18
25
ナッシュ(2004),p.93
26
ibid., pp.91-92
27
ibid., p.95
28
李(2004),p.291
29
ibid., pp.287-288
30
ibid., p.27
31
ibid., p.54
32
レゲット(1993)
33
ibid., p.42,45
34
武田(1967),pp.10-11
35
ibid., p.9
36
cf.内村鑑三「キリスト信徒のなぐさめ」(1893)「教会に捨てられし時」と自ら無教会を立ち上げる動機について触れている。(内村(1980)p.27,36、「教会に捨てらるる不幸は不幸なるべけれ共、爾に捨てられざれば足れり」p.37)
37
武田(1967),p.14
38
ibid., p.77
39
ibid.
40
星野(2001),p.145
41
葛井(1979)p.4
42
ibid., p.8
43
岩野(2010),p.43
44
古屋(2003),p.69
45
Wimmer, S.54-57
46
ibid., S.56
47
武田(1967),p.54
48
岩野(2010),p.32 註4より
西南学院大学人間科学部児童教育学科