2016/10/01

『自警録』より学ぶ!新渡戸稲造が教えてくれる、人としての心の持ちかた! - 知命立命 心地よい風景

『自警録』より学ぶ!新渡戸稲造が教えてくれる、人としての心の持ちかた! - 知命立命 心地よい風景



『自警録』より学ぶ!新渡戸稲造が教えてくれる、人としての心の持ちかた!

連戦連勝は、いかなる国の歴史、いかなる勇将の伝記においても、永続した戦役にはあり得ないという、昔の武士の言葉があります。
「勝つ事ばかり知りて負ける事を知らざれば、害その見にいたる」
孫子も同様に
「兵に常勢なきことは、水に常の形なきが如し」
と説いていますが、実は新渡戸稲造も『自警録』の中で、
「商売の勝運ばかりを目指していて、困難(失敗)を忘れる経営ではいけない」
と教示してくれています。
このように分かり易く、でもしっかりと心に響く言葉で訥々とその信念を説く『自警録』は、新渡戸稲造が「人としての心の持ちかた」を27の章に分けて教えてくれるものです。
そんな『自警録』から、幾つか気になるキーワードを拾い出してみましょう。
【理想】
「人はなんで活きているかというに、理想で活きている。
 ただ呼吸するだけならパンだけでもよい。
 この世に生きている甲斐には、なにか理想がなくてはならない。
 (中略)
 われわれのすべての働きは理想を実現せんがためで、理想なしにぶらぶら流れのまにまに活きているいことは存在というだけで、人間の生活をしているとは言いがたい。
 ことばを換えていえば、人間の生活なるものは理想を実地に翻訳することなりはせぬか。」
 (中略)
 理想があれば手なり足なりに現れる。
 ゆえに理想があるなら、つねにここが理想の実行するところだと考えをもてば、理想の実現せられぬところはない。」
【悪口(批評)】
「一つ、悪口は知事的なものが多い
 人の噂も七十五日、その実は寝も葉もないことが多い。
 数週間もすれば、記憶から消え、さらに1月もすれば評価が逆になっていることもある。
 二つ、悪口に大部分は介意の値なし
 かくのごとき時には、少し度胸を大きく持ち、今日あって明日なき言葉のはの、一風吹けば散り果てるものだと思うと、悪口もさほど不愉快に感ぜぬのみならず。
 三つ、知らぬ人の批評には弁解が要らぬ
 君を知らぬ人がからこれ批評をすることは、さほど意に介するに及ばぬ。
 すなわち君を知らぬ我が輩は君にいわゆる世間であるが、我が輩は君を何とも思わぬといった。
 四つ、かかる悪口は自然に消える
 これがために軽々しく一命を捨て、ヤケとなり、あるいは他を怨むことを要せぬ。
 ジッとしてそれを放任すれば、自然にその悪口も消え、真実のみが残って、最後の勝利を得る。
 五つ、言語よりも実行をもって弁解せよ
 これがために他人に迷惑を及ぼすのであれば、それは説明する必要もあるが、しからざればこれまた放任して置くべきものと思う。
 もし強いて弁解するなら、言語をもってせず実行をもって示すべきであると思う。
 六つ、悪口に対する理想的態度
 日ごろの修養如何によりてその価値が著しく違う。
 白隠和尚は世間の毀誉褒貶に無頓着であったというが、悪口に対してはこの心がけをもって世に処したい。
 いかに人はかれこれいうとも己れさえ道を踏むことを怠らずば、何の策も弄せずとも、いつの間にか黒白判然するものである。」
【心の剛柔】
「心の剛柔とは、善意にも悪意にも解せられる。
 剛が過ぎれば剛情となり、頑固となり、意気地となる。
 柔に過ぐれば木偶となり、薄志弱行となる。
 極端に失すればいずれも悪しくなるが、度を過ぎぬ以上は、すべからく剛毅でなければならぬ。
 自分の所信を貫徹するためには、一たび固めた決心を枉げぬ、あくまでも、左右の言にも耳を貸さずに猛進するくらいの強いところが必要である。
 さればといって、剛ばかりで、慈悲もなく、人情も捨て、全然柔和のところを失えば、これ他人に不幸を与うるのみならず、自分も心の全部を尽くすわけに行かぬから、常に不幸を感ずる。
 剛柔が能くその分を守りその調和を保ちて、はじめて円満なる人格を作り上げる。」
【人生の真味】
「たびたびいう通り人世は多数の人とともに乗り合う渡し舟のごときものである。
 人とともにこの世を渡るには、おだやかなに意気地ばらずに、譲り得るだけは譲るべきものと思う。
 僕のしばしば引用する『菜根譚』には、世渡りの秘訣は人に譲るにあることを繰り返してあるが、実にその通り、自分の権利を最大限に要求することははなはだ卑劣に陥る所以と思う。
 不思議なもので、人生には理屈をもって説き得られぬことがたくさんある。
 沙翁〔シェークスピア〕の言にも、
 「世の中には君の小さき哲学の夢にだも思わぬことが多い」
 と、昔時の物語にもある通り、出来るだけの力をもってなるべく多く握らんとすれば、かえってわずかの分量しか手に入らぬ。
 やわらかく握るほうがかえって多く握れる。
 これはむろん掴む工合にもよりけりであるが、ここに述べたのは粟とか米とかの例に用いたものである。
 鉄棒とか金棒とかならば、また例を変えねばなるまいけれども、恐らくこの世における幸福なるものは粟、米のごときもので、やわらかく握ったほうが余計に掴み得るものであるまいか。
 権利とか名誉とか利益とかいうものであれば、他に握りようもあるか知らぬが、僕は人生の妙味とか真の幸福とかを重く思うから、むしろやわらかく握って、すなわち自分は引っ込む態度で、なるべく人に譲るをもって、人生の真味を味わい得るものと思う。」
他にも、
・真の男には、蛮勇ではなく、思慮し実行する力と弱者への優しさが必要。
・本当に強い人間とは、己に厳しく、本当に譲れない所以外には寛容なもの。
・自分にやましい点がなく人を信じられれば、怖じけることはない。
・真の独立とは、世間のただ中にあって、精神的に果たすものである。
・成功は、見えやすい周囲の評価ではなく、自らの意志が決めるものである。
・好き嫌いで判断せず、寧ろ反対意見に耳を傾けるべきである。
・言葉はその人となりが現れ、人を深く傷つけることもあるので注意すべきである。
・人からの忠告は、大きな心で容れ、具体性を持って身に付けること。
・人への忠告は、まず褒めて、間接的にすることが肝要である。
・物事には全力を尽くし、その中でも自省する余力は残しておくべきである。
・教訓は人を責める道具ではなく、内省する為の基準である。
などといった言葉の散りばめられた『自警録』は、まさに新渡戸流の心のもちかた術ともいえるものです。
こうした様々な処世の指針を、 改めて賢人から学び取ってみてはいかがでしょうか。
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以下、参考までに『自警録』から一部抜粋です。
【自警録 新渡戸稲造
 とかく道徳とか仁義とかいえば、高尚遠大にして、通常人の及ばざるところ、たまたま及ぶことあれば、生涯に一度か二度あって、専門的に修むる者にあらざれば、単に茶話の料か、講義の題として聞くもののごとく思い流すの懼がある。
もちろん道徳の思想は高尚、その道理は遠大であろう。
しかしその効用と目的は日々の言行に現すほど、吾人の意識の中に浸み込ませるところにあると思う。
古の賢人も道はここにありと教えた。
なお賢人の曰うに、「言近くして旨遠きものは善言なり。
守ること約にして施すこと博きものは善道なり。
君子の言は帯より下らずして道存す」と。
 これを思えば道すなわち道徳はその性高くしてその用低く、その来たるところ遠くして、その及ぼすところ広く、田夫野人も守り得るものであるらしい。
 わが邦においては道徳に関する文字は漢語より成るもの多きがゆえに、学問なければ、道も修め得ぬ心地す。
仁義礼智などとは斯道の人にあらざれば解し能わぬ倫理として、素人のあえて関せざる道理のごとくみなす風がある。
これもそのはずであって、むかしは堅苦しき文字を借りて、聖人にも凡人にも共通なる考えを言い現す癖があった。
これはただに儒学のみでなく、仏教においても同然で、今日もなお解き難き句あれば「珍聞漢」とか、あるいは「お経の様」なりという。
また、かくのごときは独り本邦ばかりでない、西洋においても一時は解りきったことさえも、わざわざ自国の通用語を排してラテン語をもって、論説した時代もあった。
薬も長きむずかしき名を付ければ効能多く聞こゆるの例によりて、ややもすると、今もこの弊に陥りやすい。
 なるほど、なにごとにしても、理を究めんとすれば心理学の原理に入らざるを得ないから、容易ならざる専門的研究となるが、吾人の平常踏むべき道は藪の中にあるでなし、絶壁断巌を沿うでもない。
数千年来、数億の人々が踏み固めてくれた、坦々たる平かな道である。
吾人が母の胎内においてすでに幾分か聞いて来た道である。
孟子の、「慮らざる所にして知るものは人の良知なり」と言った通り、慮らずして、ほとんど無意識に会得してある教訓に従うを道徳と称するものでなかろうか。
 わが輩は決して道徳問題は、みなみな無造作に解するものと言うのではない。
一生の間には一回二回もしくは数回腸を断ち、胸を焦すような争が心の中に起こることもある。
しかしそんな難題は生涯に何回と一本か二本の指で数えつくせるくらいなものである。
これに反し、われわれの最も意を注ぐべき心掛は平常毎日の言行――言行と言わんよりは心の持ち方、精神の態度である。
平常の鍛錬が成ればたまたま大々的の煩悶の襲い来る時にあたっても解決が案外容易に出来る。
ここにおいてわが輩は日々の心得、尋常平生の自戒をつづりて、自己の記憶を新たにするとともに同志の人々の考えに供したい。
大正五年五月九日
南洋旅行の途上、信濃丸船中にて 新渡戸稲造
第一章 男一匹
神と獣類の間に立つ人