2020/09/10

安岡正篤『人間はまず自己を得なければいけない。人間はまず根本的に自己を徹見する。これがあらゆる哲学、宗教、道徳の、基本問題である。』 | IQ.

安岡正篤『人間はまず自己を得なければいけない。人間はまず根本的に自己を徹見する。これがあらゆる哲学、宗教、道徳の、基本問題である。』 | IQ.



安岡正篤『人間はまず自己を得なければいけない。人間はまず根本的に自己を徹見する。これがあらゆる哲学、宗教、道徳の、基本問題である。』

2019年8月14日2020年2月6日









名言と真剣に向き合って、偉人の知恵を自分のものにしよう!





偉人

日本の哲学者 安岡正篤(画像)

ふむ…。

運営者

※名言の正確性

目次 [非表示]

考察

関連する黄金律

同じ人物の名言一覧

考察

『人間は自得から出発しなければならない。人間はいろんなものを失うが、何が一番失いやすいかといいますと、自己である。人間はまず自己を得なければいけない。人間はまず根本的に自己を徹見する。これがあらゆる哲学、宗教、道徳の、基本問題である。』







『自己を失う』というのは、『自分が何者であるかを見失う』ということである。例えば、ルソーのこの記事に書いた、



『生きるとは呼吸することではない。行動することだ。』







当時の私で言えば、『人からなんと言われるか、どう見られるかを気にして、自分の本性をひた隠しにし、あるいは出し惜しんでいた』というこの私の態度は、『自分が何者であるかを見失う』行為の、助長である。つまり、『本当は自分が振る舞いたい振る舞い』があるのに、それをすることによって、失うものや、代償を払うものがあることを気にしてしまい、本来の自分が埋没してしまっているのだ。







『自己を得る』というのは、そのルソーの記事に書いた、私の『勇気を出して立ち上がった』シーンを考えた時に、わかりやすい。私はつまり、それまで『呼吸』こそしていたが、『生きて』はいなかった。しかし、この人生が有限であり、唯一無二であるということを自覚し始めた時、この、たった一度の奇跡の人生を、立ち止まって真剣に考える時間を確保すべきだと確信したのである。







私はルソーのその記事に、こう書いた。



『私の人生は、あの時から始まった。』







親から強要されていたキリスト教について、余命を宣告された父親について、実に様々な複雑な事情を抱えていた私の思考は、『自己を得て』から、再稼働し始めたのだ。




---



徹見の英語

ピン留め

単語を追加



主な英訳 seeing clearly; seeing without obstruction; looking into every nook and corner

---

見性

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動検索に移動
見性(けんしょう)とは、人間に本来そなわる根源的な本性を徹見すること[1]。性(しょう)は本来、煩悩に汚されることはなく、それ自体で清浄なものであり、この自性清浄心に気づくことを指す[1]
性(しょう)を仏性法性心性ともいうので、見仏性、見法性、見心性、あるいは見心見性、などと使用する[1]

概要[編集]

における悟りであり、見性はただちに成仏であるとされた[1]。ただし、道元は見性を全く否定する禅を説く[1]

仏典における扱い[編集]

六祖壇経 [編集]

六祖壇経』では次のように説かれている。
一切法に於いて不取不捨ならば、即ち是れ見性し、仏道を成ず」。或いは、そのために『金剛般若経』を重んじることも説く。「善知識よ、若し甚深法界及び般若三昧に入らんと欲する者は、須く般若の行を修し、『金剛般若経』を持誦すべし、即ち見性することを得ん
若し仏に帰依すと言わば、仏は何処にか在る。……… 各々自ら観察して、錯(あやま)って心を用うること莫かれ。経文は分明に自らの仏に帰依すと言って、他仏に帰依すと言わず