2016/10/07

新渡戸稲造 ~ 太平洋の架け橋|凛として愛

新渡戸稲造 ~ 太平洋の架け橋|凛として愛

凛として愛

50代の主婦です。
日本人の生き方を考えて行ければと思います。


私が、素晴らしい内容だと思うブログを中心にご紹介させていただいています。

普通の主婦目線で、祖国について考えて行きたいと思っています。

ご一緒に良い国をつくるために考えましょう!



2016年03月09日
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今週は、共産主義について書いていますが、今日国連人権委員会であまりにも酷い話がありましたね。日本の男系天皇を変えろなどと言う発言をしようとしていたとか・・・
http://www.sankei.com/politics/news/160309/plt1603090006-n1.html
もう、日本人としては許せないことです。
国連についてもう一度考える機会になればと思い、新渡戸稲造のお話を取り上げてみました。
動画も併せて是非見て頂ければと思います。

新渡戸稲造 ~ 太平洋の架け橋
武士道と聖書とに立脚して、新渡戸は日米両国の架け橋たらんと志した。

■1.日本だって? そんな国はどこにあるんだ。■

1884(明治17)年9月、小型汽船でサンフランシスコに着いた稲造は、列車で大陸横断を目指した。ある駅でプラットフォームに降りて景色を眺めていると、「ジョン、ジョン」と無遠慮に呼びかけてくる男がいた。当時のアメリカ人は中国人を見ると誰でもジョンとかチャイナマンと呼んで、馬鹿にしているので、稲造は自分が中国人に間違えられているな、と知った。

「わたしはジョンという名ではない」と言うと、「ほう、そうかい。お前は豚のしっぽのような頭髪をどうしたのだ?」 当時の清国人は頭の周囲を剃り、真ん中の髪だけを長く編んでたらしていた。「僕は日本人だ」と稲造が言うと、「日本だって? そんな国はどこにあるんだ。中国の一部か?」

こいつ何も知らないな、と呆れたが、太平洋の架け橋になろうと決心していた稲造は、祖国の事を一人でも多くのアメリカ人為知らせたいという気持ちから、冷静に、懇切丁寧に教えてやった「これから洗濯屋でもするのか?」と聞かれて「大学で経済学を勉強するのだ」と答えると、その男はひどく驚いて、列車の中から3,4人のアメリカ人乗客を連れ出して言った。

この少年は日本という国から来た人で、決して洗濯屋などする人じゃない。大学で、経済学とかいうむつかしい学問をするそうだ。日本は中国の一部じゃなくて、中国の東にある独立国なんだとさ。

新渡戸稲造、23歳にして初めてアメリカに上陸した時のことであった。(この頃は、まだ養子入りした叔父の太田姓を名乗っていた。)

■2.武士道と聖書と■

新渡戸は明治維新の6年前、文久(1862)年に盛岡の武家に生まれた。5歳の時の「袴着の儀」を、後年、英文の著書「思い出」の中で次のように書いている。

私が5歳に達したときに士になる儀式が行われた。初めて袴をつけ、初めて刀を帯び盛装して、集まった親戚一同の居並ぶ真中にしつらえた碁盤の上に私はのせられ、刃のぴかぴか光る短刀を帯にさしてもらったとき、全身をしゅーんとしたものが貫くように感じ、自分がえらく重要な者になった感じがした、、、

後に世界的なベストセラーとなった「武士道」の中で「危険な武器をもつことは、一面、彼に自尊心や責任感をいだかせる」と書いているのは、この時の思い出もあったであろう。

新渡戸の家は盛岡藩で新田開拓や水路建設に貢献してきた。明治9(1876)年初夏、明治天皇が東北・北海道方面ご巡幸の途次、新渡戸家に立ち寄られ、開拓に貢献してきた祖父・伝(つとう)、父・十次郎の功績を賞され、今後家族の者、子孫も父祖の志をつぎ農事に励むように、とのお言葉と金一封を賜った。当時、稲造は東京外語学校で勉強中であったが、このお言葉に感激した。

こうして私は、開墾事業は我が家の伝統であり、我が国民のため、さらに重要なことは陛下のため、この方面に少しでも寄与することが、私の責任であると考えるようになった。

御下賜金は一家の全員に分配され、稲造は記念のためにかねてから欲していた英文の聖書を買った。金縁革表紙の立派な本であった。武士道と聖書と、東西文化の架け橋たらんとの志はこの頃から芽生えていた。

■3.武士の子として■

稲造はボルチモアのジョンズ・ホプキンス大学で、経済学、農政学、農業経済などを学び始めた。養父が苦しい家計をやりくりして送金してくれるが、それが一時途絶えた事があった。
稲造はたちまち窮迫して、一日に一回しか食事ができず、あとはパンと水でしのがねばならなかった。アメリカ人の学友が見かねて援助を申し入れたが、稲造はきっぱりと断った。武士の子として、施しを受けることを潔しとしなかったのである。

この頃、アメリカ人にとって未知の国である日本の話を聞きたいという講演依頼がぽつぽつと来るようになった。最初の講演の前、司会者が紹介の言葉を述べている間に、動悸は激しくなり、膝頭は震えた。このまま逃げ出したいとさえ思ったが、武士としてあるまじき事である。「えいっ」と内心で自分自に気合いを入れた。「こうなったら、上手にやろうなどと小賢しい事を考えず、思ったままをぶちまけてやろう!」と覚悟を決めた。

このような経験を何度かするうちに、数百人の聴衆を前にしても原稿なしですらすら話せるようになり、またニューヨークやフィラデルフィアなどからも講演を依頼されるようになった。同時に講演料で生計のゆとりも得られるようになった。

■4.メリーとの出会い■

ボルチモアで稲造はキリスト教の一派、クエーカーに出会った。集会でも静寂のうちに、自らの「内なる光」を見つめようとする姿勢に、身体が震えるような感動を覚えた。その誠実、簡素、純一さは、稲造が幼少時から叩き込まれていた武士道の精神と共鳴しあうものがあった。
クエーカーの集まりで、稲造はメリー・パターソン・エルキントンというフィラデルフィアの名門の令嬢と出会い、お互いに惹かれ合うようになった。稲造はジョン・ホプキンス大学で3年学んだ後、さらにドイツに3年留学して、博士号を得る。その間、メリーと文通を続け、アメリカ経由で帰国する際にフィラデルフィアに立ち寄ってメリーとの結婚式をあげた。双方の家は国際結婚に大反対であったが、二人の信仰で結ばれた決意は固く、家族も認めざるをえなかった。

日清戦争前の日本は、アメリカ人にとっていまだ極東の未開の一小国であり、そんな国の一青年とフィラデルフィアの名門エルキントン家の令嬢が結婚したというニュースは全米で一大センセーションを巻き起こした。こうして明治24(1891)年2月9日、稲造はメリーを伴って、帰国した。6年半ぶりの祖国であった。

■5.日本の学校には宗教教育がないとは!■

日本に戻った稲造は、札幌の農学校教授に就任、農業経済学を教える傍ら、北海道庁の技師を兼任して、開拓の指導にあたった。さらにはメリーが縁者の遺産を受け取ると、それを元手に貧困家庭の子供たちを教える夜学校を設立した。

しかし、こうした大車輪の活躍のうちに過労がこうじてノイローゼとなり、医者とメリーの勧めに従って、南カリフォルニアで療養生活を送ることとした。温暖で湿気の少ない気候に、稲造の病み衰えた心身は徐々に回復していった。

そうしたある日、稲造はふとドイツ留学中、ベルギーに出向してラヴェレー教授と言葉を交わした時のことを思い出した。
日本の学校には宗教教育がないとは! それでどのようにして子孫に道徳教育を授けることができるのですか」と教授は驚いた顔で聞いてきた。その時は答えることはできなかったが、以来、この問いは稲造の念頭を離れることはなかった。稲造はそれに答えようと、療養中の時間を使って書き上げたのが英文の「武士道」であった。

■6.世界中で読まれた「武士道」■

「武士道」は明治33(1900)年11月にフィラデルフィアで出版された。「武士道とは何か」「武士道の源を探る」「義-武士道の光り輝く最高の支柱」と始まり、「義」「仁」「礼」「誠」「名誉」などの徳目を西洋の事績も豊富に引用しながら、武士道こそ日本人の道徳の形成したものである事を述べた。たとえば、「仁」の章ではこんな一節がある。

フリードリッヒ大王が「朕は国家の第一の召使いである」と書いたとき、法律学者たちは、自由の発達が新しい時代に到達したのだ、と正しくも信じた。

あたかも時を同じくして日本の東北の山間部にある米沢では、上杉鷹山はまさに同一の宣言をしていたのだ。「国家人民の立てたる君にして、君のために立てたる国家人民にはこれ無く候。[2,a]

おりしも明治37、38(1904,5)年の日露戦争で大国ロシアを破った原動力として日本人の国家への忠節と勇武の精神に世界の関心が集まっており、それを外国人にも分かりやすく説いた本として「武士道」はドイツ語、フランス語、ポーランド語、ノルウェー語、ハンガリー語、ロシア語、中国語に訳され、世界中で広く読まれた。

米国大統領セオドア・ルーズベルトは「武士道」を読んで感銘を受け、60冊も買い求めて子供や友人に送り、さらにアナポリス海軍兵学校、ウェストポイント陸軍士官学校の生徒たちにも読むように勧めた。英文の名著「武士道」によって、稲造は「太平洋の架け橋たらん」とした若き日の志を果たしたのである。

■7.「ミカドの使わされた平和の大使」■

カリフォルニアにおける2年間の療養生活で心身の健康を回復した稲造は、台湾総督・児玉源太郎、民政長官・後藤新平の熱心な要請に従って、台湾の農業開発に打ち込む。稲造の進めた品種改良や機械化によって、台湾のサトウキビ生産は飛躍的発展を遂げ、砂糖の世界五大産地の一つにまでなった。[b]

台湾における農業開発が軌道に乗ると、後藤新平はこれほどの人物をいつまでも役所仕事につなぎとめておくべきではないと考え、京都大学教授に推した。さらにその後、文部大臣の要請により第一高等学校校長に就任、学生たちと親身に交わりながら人格陶冶に尽くした。

明治44(1911)年、第一回の日米交換教授として3度目の渡米。時あたかもカリフォルニアの日系移民排斥が日米摩擦を激化させていた。これはアメリカ側の日本に関する無知に原因があると見た稲造は、米国民を啓蒙することが自らの使命であると考えた。カリフォルニアのスタンフォード大学を皮切りに、東部のコロンビア大学、母校ジョンズ・ホプキンス大学、中西部のイリノイ大学など、全米の大学において166回もの講演を行った。

またタフト大統領と会談し、バートン上院議員と昵懇になって議会での排日法提出を未然に防いだ。ある新聞は稲造を「ミカドの使わされた平和の大使」と賞賛した。

■8.国際連盟の事務局次長となる■
大正8(1919)年、パリで第一次世界大戦の講和条約が調印され、国際連盟が誕生した。西園寺公望公爵を中心とする日本の全権団は、国際連盟の規約に人種平等条項を入れる事を提案し、過半数の支持を集めたが、議長を努めたウィルソン米国大統領の策略で否決された。[c]

しかし、戦勝国中の有力国日本から国際連盟の事務局次長を出すことになり、ちょうどパリに旅行で立ち寄った稲造に白羽の矢がたった。国際社会の尊敬を集め、日本文化についても造詣の深い新渡戸稲造こそ、連盟事務局次長という重職にふさわしい人間はいなかった。

事務総長はイギリスのドラモンド卿であったが、ヨーロッパ各国への国際連盟精神普及のための講演は、7、8割を稲造が担当した。この点についてドラモンド卿は「ただ演説が上手であるばかりでなく、聴講者に深い感動を与える点において、わが連盟事務局中、彼に及ぶ者はいない」と述べていた。また中国人やインド人からは「新渡戸先生は、ひとり日本の誇りを高めたのみならず、われわれ東洋人の地位を高めてくれた」と感謝されていた。

事務局次長として、稲造は国際間の学術文化交流を目的として国際知的協力委員会を創設し、さらに幹事長として活躍した。この委員会には、アインシュタインやキューリー夫人、フランスの哲学者ベルグソン、文学者ポール・バレリーなど世界的に著名な文化人が顔を揃えた。この委員会は今日のユネスコ(国際連合教育科学文化機構)の前身となった。稲造は特にベルグソンと親交を結び、議論を交わした。

■9.国を思ひ世を憂ふればこそ■
国際連盟事務次長としての7年間の重責を果たした後、稲造は険悪化する日米関係を好転させようと必死の努力を続ける。当時、アメリカでの排日移民法成立、日本側の満洲事変に対して、双方の非難は激しさを加える一方であった。

昭和7年4月から稲造は71歳の老躯を駆って1年間アメリカに滞在し、カリフォルニアでは排日派政治家と精力的に会談して、排日移民法の撤回を要求してやまなかった。フーバー大統領との会見では、両国の忍耐による協力と平和維持を説いた。さらにスチムソン国務長官と全米に向かってラジオ放送を行い、満洲事変に関して日本の立場を堂々と主張した。各地での講演も百回を超えた。

翌年3月に帰朝すると、日米関係を深く懸念されている昭和天皇は稲造をお召しになり、1時間あまりにわたって説明を聴かれ、その労を深くねぎらわれた。この時の感銘を後の講演で、稲造はこう語っている。

日本人は日本の国のために、自分の持てる才能を生かして、国のため、世界のために尽くすことがすなわち陛下に忠誠を尽くすことであり、国民としての義務をはたすことである。

5ヶ月後の8月、休む間もなく、稲造はバンクーバーでの太平洋会議に参加するために出発。しかし9月13日、バンクーバー近郊の美しい港町ビクトリアにて激しい腹痛に襲われて入院、そのまま10月15日に帰らぬ人となった。享年72歳。

国を思ひ世を憂ふればこそ何事も忍ぶ心は神ぞ知るらん
晩年に詠んだ歌である。太平洋の架け橋として一生を捧げた古武士の生涯であった。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(130) 上杉鷹山 ~ケネディ大統領が尊敬した政治家~
 自助、互助、扶助の「三助」の方針が、物質的にも精神的にも
美しく豊かな共同体を作り出した。
b. JOG(145) 台湾の「育ての親」、後藤新平
 医学者・後藤新平は「生物学の法則」によって台湾の健全な
成長を図った。
c. JOG(053) 人種平等への戦い
 虐待をこうむっている有色人種のなかでただ一国だけが発言に
耳を傾けさせるに十分な実力を持っている。すなわち日本である。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 井口朝生、「新渡戸稲造」★★、成美堂出版、H8
2. 新渡戸稲造、「武士道」★★、三笠書房・知的生き方文庫、H5

新渡戸稲造の国連での国際紛争の見事な解決のお話です。



伊勢先生今日も素晴らしいお話をありがとうございました。
新渡戸稲造という人は、お札に登場するまで知りませんでした。
学校の歴史では登場しなかった人でしたが、こんなに素晴らしい方がいらしたことを、ぜひ子供たちに教えて欲しいと思います。
今の国連を見ていると、どう考えても国際社会へ貢献している組織ではなく、ますます世界を混乱に陥れているとしか思えません。
まあ、国連は日本では誤解されがちですが、平和を守る組織ではなく『連合軍』つまり第二次世界大戦の戦勝国という意味ですから、とても平和を構築するためのものではないのですが・・・
それにしても、これだけ社会を混乱に導く原因の一つは、今の国連事務総長の能力にもあると思います。何もしないどころか、あまりにも偏り過ぎの人事と自己保身しか考えない姿勢にあるように思います。次期の国連総長もかなり酷そうですけれど・・・
やはり、新たな世界平和への組織が必要なのではないでしょうか。
最後までお読みいただきありがとうございました。(凜)
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