Taechang Kim MEMO
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年毎に、咲くや吉野の山桜 木を割りてみよ 花のありかを
(日本の古歌)
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桜の花を咲かせるものがあり、それは桜の花を超えたものです. それはこれとしてつかまえることはできません. 私たちのいのちも、自己を超えるものに生かされいるのです.
(竹村牧男:'いのちの深みへー仏教の立場から' :
牧村他編《自然といのちの尊さについて考える》p37)
この生死はすなわち仏の御(おん)いのちなり.
(道元:《正法眼蔵》'生死' ) 自己のいのちは、けっして
身体と意識された限りの個体に閉じこめられたようなものではありません.
自他平等性においては、空性である真如-本覚という究極の普遍(霊性)の中にあり、自他関係においては、空間的にも時間的にも重重無尽の関係性の中にあり、同時にまさにかけがえのない今-ここに生きています. あるいは生かされています.
しかも根源的には、仏の智恵の実現、霊性の十全な発揮へと、内側からも外側からも促されています. この仏の智恵とは、他者の救済にはたらくように、実は大悲を本質とするものでもあるのでした.
...ということは、もっとも深い地平の実相を明かせば、大悲に促されて大悲を
発揮していくように存在しているのが、私たちのいのちだということなのです.
<初めに大悲ありき>なのです." (同上、pp. 37-38 )
...ということは、もっとも深い地平の実相を明かせば、大悲に促されて大悲を
発揮していくように存在しているのが、私たちのいのちだということなのです.
<初めに大悲ありき>なのです." (同上、pp. 37-38 )
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매년 개화하자 요시노의 산 벚꽃 나무를 나누어 보자 꽃의 아리카 (일본의 고가)
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벚꽃을 피우는 것이 있고, 그것은 벚꽃을 넘은 것입니다. 그것은 이것으로 잡을 수 없습니다.
우리의 생명도 자기를 넘어서는 것에 살려 있습니다.
헤 불교의 입장에서 ': 마키무라 타편 《자연과 생명의 존중에 대해 생각한다》 p37) 이 생사는 즉 부처의 삶이다.
(도원:《정법안장》'생사' ) 자기의 생명은, 겨우 신체와 의식된 한의 개체에 갇힌 것 같은 것은 아닙니다. 자타 평등성에 있어서는, 공성인 진여 본각이라는 궁극의 보편(영성) 안에 있고, 자타관계에 있어서는, 공간적으로도 시간적으로도 중중무진의 관계성 속에 있어, 동시에 확실히 바꿀 수 없는 지금-여기에 살고 있다 또는 살아 있습니다.
게다가 근원적으로는, 부처님의 지혜의 실현, 영성의 십전한 발휘로, 내측에서도 외부로부터도 촉진되고 있습니다. 큰 슬픔을 본질로 하는 것이기도 했다. 생명이라는 것입니다.
<처음에 큰 슬픔>입니다."
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後戻りできない「環境問題」
我々はこのかけがえのない地球をどのように次世代へ手渡すのか
13名の気鋭の論客が地球社会の進むべき方向を探る
自然といのちの尊さについて考える
エコ・フィロソフィとサステイナビリティ学の展開
序文 竹村牧男 1
第1部 総論
いのちの深みへ——仏教の立場から 竹村牧男 17
序・体罰といのち 17
1 唯識思想の人間観 19
2 いのちを益するもの 23
3 仏となったいのち 26
4 いのちの根源としての仏の智慧 28
5 他者のいのちと自己のいのちの関係 31
6 重重無尽の関係性の中で 33
結 36
二つの世界観の適用誤謬について 中川光弘 39
1 はじめに 39
2 二つの世界観 41
3 機械論的世界観の適用誤謬とその是正の試み 43
4 二つの世界観の統合化の試み 53
◯近代農法と有機農業、自然農法/◯現代医療と東洋医学
5 仏教の世界観 56
6 おわりに 60
第2部 自然といのちを考える——哲学、心理学、倫理学から
〈いのち〉の三契機と〈尊さ〉への倫理学的視点 亀山純生 67
はじめに 67
1 〈いのち〉を浮上させる問題状況と〈いのち〉の意味限定の視角 69
2 全体概念としての〈いのち〉の意味の暫定的限定 72
3 〈いのち〉の倫理的性格——〈生命〉と〈いのち〉、〈私〉と〈いのち〉 78
4 〈私のいのち〉の三契機とその倫理的性格 84
5 〈いのち〉を〈尊ぶ〉 90
〈生活世界〉の構造転換
——“生”の三契機としての〈生存〉〈存在〉〈継承〉の概念とその現代的位相をめぐる人間学的一試論 上柿崇英 99
1 はじめに 99
2 “生”の三契機としての〈生存〉〈存在〉〈継承〉について 106
①人間存在における〈生活〉の概念と、その伝統的な理解
②“生”の三契機の定義とその“内的連関”
③“生”の三契機と〈生活世界〉の概念
3 〈生活世界〉の構造転換 117
①「生の三契機」の現代的位相
②〈生活世界〉の構造転換
③現代社会の比喩としての「ぶら下がり社会」
4 新たな人間学の地平のために——「〈倫理〉の中抜け現象」から考える 129
①「構造転換」に見られる「中抜け現象」——特に〈継承〉と“学校”、コミュニケーションと「情報システム」の視座から
②〈倫理〉の三層構造と〈倫理〉の「中抜け現象」
③結びにかえて
生命と倫理の基盤——自然といのちを涵養する環境の倫理 増田敬祐 157
1 私たちはどのような時代を生きているのか 157
2 自然といのちの再発見 163
3 〈人間の共同〉に関する根本問題 166
①公私二元論の問題
②市民社会論の限界
③むき出しの個人の誕生
④両面的乗り越え論の課題
4 環境倫理学におけるローカルな場所への注目 178
5 〈経験的自発性〉とその核心的契機としての〈インボランタリー性〉 180
6 人間存在を動揺させない社会を築くこと 186
アルバート・エリス博士から学ぶ——寛容について考える 菅沼憲治 203
1 カウンセラーの経歴 203
2 基本的懸念 205
3 スーパーヴィジョン 207
4 REBTカウンセリングの事例 208
1、事例/2、考察
5 コンテントとプロセス 245
6 耐性の受容 248
自然観と死生観をつなぐ——終末期患者の視線から 岩崎 大 251
1 断絶する自然といのち 252
2 見える問題と見えない問題 257
3 いのちの現場にある風景 260
4 臨床でつながる自然といのち 267
5 結 語 271
第3部 新しい知の創生へ——自然と人間のかかわりのために
自然といのちの尊さの根拠——宇宙的ヒエラルキーとバランス 岡野守也 279
根拠を問うこと 279
普遍的な根拠は見いだしうるか 281
価値づけとヒエラルキー 282
自己組織化│自己複雑化│階層構造化する宇宙 286
自然と人間のかかわり 榧根 勇 293
1 万物は生成・進化する 293
2 新しい哲学について 298
①ウィルバーの万物の理論
②ラズロのAフィールド
③清水の遍在的生命
④中田の脳理論
⑤情報の重要性
3 情報について 313
4 風土という知 318
5 日本の風土性 325
6 むすび 327
「存在の大いなる連鎖」のサステイナビリティ 秋山知宏 333
1 はじめに 333
2 メタフィジックスから統合的なメタフィジックスへ 338
①「存在の大いなる連鎖」
②「存在の大いなる連鎖」からポスト近代へのステップ
3 「存在の大いなる連鎖」とサステイナビリティ学 343
4 ポスト近代にふさわしい新しい知の探究 346
①「いのち」の深みへ
②「こころ」の深みへ
③「魂」と「霊」の深みへ
5 統合的な世界観——降りてゆく生き方 364
6 統合学としてのサステイナビリティ学 375
気候変動と自然・いのち、個人・社会 立入 郁 401
1 はじめに 401
2 自然への影響 403
①これまで
②これから
③人新世(人類世)
3 人間への影響 413
①IPCC・WG2のAR5から
②「気候難民」
4 温暖化の緩和策と将来の社会 420
5 これからの個人 425
6 まとめ 430
クルーグマン、クライン、キリスト、環境 ジェフリー・クラーク 437
農業生物学の再考——「〈いのち〉を活かしあう農業技術」としての獣害対策へ 関 陽子 453
はじめに——「疎外の触媒」としての獣害 453
1 〈いのち〉の活かしあい——ニホンザルへの「集落ぐるみの追い払い対策」から 460
2 「棲みわけ」と生物の主体性——今西錦司の生物哲学 466
3 『種の起源』の二つの「生存闘争」——垂直的進化と水平的進化 468
4 ダーウィンと今西錦司の娯主体性の進化論後——フジツボとカゲロウの関係 472
5 農業生物学の再構築——娯共生的合理性後の科学 475
東洋大学TIEPh・茨城大学ICAS共催国際セミナー
「持続可能な発展と自然・人間
——西洋と東洋の対話から新しいエコ・フィロソフィを求めて」開催の歩み 484
あとがき 中川光弘 485
執筆者紹介 489
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書評: 竹村牧男『ブッディスト・エコロジー ―共生・環境・いのちの思想―』
ノンブル社、2016 年、309 頁、定価 3,000 円+税
水谷香奈(文学部)
1 はじめに
2016 年は国内外において、不寛容や生きづらさを感じさせるニュースが多数飛び交った年であった。国内ではリオ五輪での金メダルラッシュなど明るい話題もあったが、一方で障害者施設で起きた元職員による刺殺事件は、差別なき社会の実現の難しさを我々に突きつけた。不適切な労働条件による事故・事件も相次いだ。世界に目を向けると、アメリカ大統領選で過激な発言を繰り返したドナルド・トランプ氏の当選と、イギリスの EU からの離脱決定が与えた衝撃は大きかった。両者の共通点の一つが、従来重視されてきた環境問題や移民問題などにおける国際協調への否定である。しかし、異質なものへの偏見や排除、環境や人間性の軽視と経済優先、そして自己(自国)の利益を最重要とする姿勢が何を生み出
すのか、私たちは過去において学んできたのではなかったか。
本書は、そのような現代においてこそ注目されるべき「共生・環境・いのち」の問題について、著者が 2002 年に東洋大学文学部に赴任して以降、長年にわたり蓄積してきた論攷を集成したものである。学術書ではないが、著者の専門である唯識思想のほか、華厳・密教・禅・浄土・律・天台等といった広範な仏教思想を縦横無尽に用い、時にはディープ・エコロジーと仏教との思想的関連にも言及しながら、仏教徒が環境問題等についてどのように対処すべきかというところまで視野に入れた考察が展開されている。書名の「ブッディスト」とは「仏教の」という形容詞であり、著者によればこの書名の意味は、「仏教の共生・環境・いのちをめぐる思想」(p. 308)である。本書の構成も、次のように書名に従い全体が三部に分かれ、それぞれに共生・環境・いのちを主なテーマとした論攷が配置されている。以下、その内容を概説したい。
Ⅰ 共生の思想
共生のあゆみと課題
自然と他者と――禅の立場から
東洋大学「エコ・フィロソフィ」研究 Vol.11 空海の人間観をめぐって――己心の中の曼荼羅という思想 Ⅱ 自己と環境
自然との共生と日本の思想
己事究明としてのエコ・フィロソフィ
仏教に基づく生活指針――新大乗戒の提唱 Ⅲ いのちの深みへ 人生の苦を見つめて
仏教の死生観――輪廻とは何か、そこからどう脱却するのか 仏教と神秘主義――禅と密教を中心にあとがき
2 「Ⅰ 共生の思想」の概要
本章では、まず「共生のあゆみと課題」として、共生に関する思想がどのように展開してきたのかを概観している。紹介されている内容は、大正時代に活動した仏教者椎尾弁匡の「ともいき」運動、
20 世紀後半に建築家の黒川紀章が提唱した共生の思想、井上達夫をはじめとする多くの論者が言及する共生の原理、共生社会システム学会の掲げる共生の概念や理念など多岐にわたる。総じて言えば、
「「共生」とは、相互の自立と個性を尊重し、決して同一化・同質化に導くものではなく、多様性や異質性を保持しつつ相互補完的な関係性を認識していくもの」(p. 19)だとする井上らの定義に代表されるであろう。このような共生についての仏教的な裏付けとして、著者は「①平等思想、②縁起思想、 ③特に華厳の縁起思想(六相円融義)、④大乗の理念、⑤善悪観、⑥行為論、⑦大拙の自由論」(p. 39)といった諸方面からその思想的根拠を探っている。
続く「自然と他者と――禅の立場から」では、主に唯識思想と禅思想に基づいて、心身と環境の一体性が述べられる。唯識思想では、深層意識の一種である阿頼耶識の中に主観面と対象面(自己の身体、環境世界)が備わっているとする。すなわち、私たちの心・身体・環境がワンセットになっているのであり、これをいま・ここ・自己の事実において自覚するのが禅であるとして、著者は鈴木大拙、十牛図、枯山水などの例を挙げながら、禅において説かれる自己と他者の一体性の中に、共生思想へとつながる視点を求めていく。
そして、「空海の人間観をめぐって――己心の中の曼荼羅という思想」において、自己とあらゆる他者とが浸透し合うという人間観・世界観を、唯識や禅とは異なるかたちで説く思想として、密教にも言及する。著者は空海の『吽字義』、『秘蔵宝鑰』、『弁顕密二教論』、『十住心論』、『即身成仏義』などを引きながら、空海の思想では自己は仏を本質としており、かつ自らの中に一切の他者を包摂していることを論じる。それはまさに己心の中に曼荼羅が展開すると言うべき人間観であり、著者はこのような「自己は本来、他者の全体である」という了解に基づけば、自己中心主義、エゴイズムを克服し、何事も他者との共生を実現しようとする方向に導くことができるとする(pp. 101-102)。
書評:竹村牧男『ブッディスト・エコロジー ―共生・環境・いのちの思想―』
3 「Ⅱ 自己と環境」の概要
本章では、まず「自然との共生と日本の思想」において、現代文明を主導してきた科学的な「分割して支配する」(p. 110)という立場により、多くの環境問題・社会問題が起きてきたことが指摘され、それに対して仏教がどのような提言をなし得るのかを概観する。「Ⅰ 共生の思想」で扱った内容とも一部重複しているが、ここでは新たに天台宗で説く「草木国土悉皆成仏」の思想にも言及することで、日本において伝統的に掘り下げられてきた自己と自然との関係に関する知を再評価・再解釈する意義が述べられる。そしてディープ・エコロジーで勧めるライフスタイルを、人間観・自然観を実際の生活に結びつける一つの実践例として紹介する。
続く「己事究明としてのエコ・フィロソフィ」では、仏教思想を中心にした環境論が本格的に展開される。ここでは、唯識思想に基づく自己の心身と環境に関する認識構造、天台の「山川草木悉皆成仏」説の成立背景と展開、道元の『正法眼蔵』に説かれる山水の説法について、それぞれ詳しく説明し、それらに共通して説かれている自己と世界との一体性と、ネスの主張するディープ・エコロジーには相通じるものがあることを検証する。自己の究明はエコ・フィロソフィの基盤となりうるというのが、著者の主張である。
さらに「仏教に基づく生活指針――新大乗戒の提唱」では、ネスが環境問題の解決などの重要な一要素として指摘するライフスタイルの転換について、仏教で用いられてきた戒律の面からの提言を試みる。仏教には出家者のための戒律(具足戒)や在家者のための戒律(五戒など)、最澄が重んじた『梵網経』の大乗戒などがあり、日本仏教では戒律がすたれる度に、戒律復興運動が展開された。著者はその中から、江戸期に活動した真言宗の慈雲尊者飮光に焦点を当て、慈雲が人々に広めた十善戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不貪欲・不瞋恚・不邪見)をまずは守ることが、現代人にとっては適切であろうとする。そして、十善戒に六波羅蜜と四無量心を加えた<新三聚浄戒>を提唱する。仏教における善悪とは、この世と未来の世にわたって、自他を益するか損するかにより決まることから、十善戒などを守ることは未来の他者をも益することになり、いわゆる世代間倫理の根拠ともなる。著者はネスが示したディープ・エコロジーのライフスタイルも参考にしつつ、仏教が「自然との共生・他者との共生・未来世代との共生をともに実現するような、さらに具体的な徳目やライフスタイルの指針を打ち出していくこと」(p. 225)が重要であるとする。
4 「Ⅲ いのちの深みへ」の概要
本章では、まず「人生の苦を見つめて」において、仏教で釈尊時代以来説かれてきた四聖諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)を『成唯識論』などに基づく解釈も含めながら解説し、苦とその超克法について考察する。仏教では、人生の様々な苦しみ(苦諦)の根底に無明があり(集諦)、そこからの解放(涅槃=滅諦)とは大乗仏教では生死のただ中において見出されるものである。その涅槃に至るための具体的方法(道諦)として、先に論じた<新三聚浄戒>などが挙げられる。著者は苦、とりわけ死に向
東洋大学「エコ・フィロソフィ」研究 Vol.11
き合う実存的な苦しみを超えるために説かれてきた輪廻思想などを紹介しながら、最終的には、自己とは何かを明きらめることで主体を確立することの重要性を説く。そして、主体を確立した後には、他力信仰によって自己への執着を断つことで、逆説的に「日常のただ中に、いわば仏のいのちを生きるような、他者に積極的に関わっていくような主体が実現することになる」(p. 254)と言う。
続く「仏教の死生観――輪廻とは何か、そこからどう脱却するのか」では、現代においてもオカルト的な興味や臨死体験談などと結びつけられている「死」について、仏教で説かれてきた伝統的な輪廻の仕組みや死後の存在(中有)を、十二縁起説などを用いて説明する。ただし、著者は輪廻説と無我説の整合性を考察する中で、仏教では主体が確立した後、生と死の二元対立を離れる「不生」の立場に立つことで死を超克することを、禅や密教に基づいて主張する。
さらに、「仏教と神秘主義――禅と密教を中心に」では、「不生」も含めて様々に表現される仏教の
「覚り」の世界について、『無門関』の第一則「趙州無字」、鈴木大拙と西田幾多郎の「見性」理解、
『中論』の空思想、そして密教で説かれる自己と世界の合一性などを例に挙げて説明する。そこには、主客融合、平等無差別的一への没入、現実世界からの超脱といった神秘主義的側面も見られる場合があるが、著者は仏教とはそこにとどまるものではなく、現実に生きる個としての人間の中に、自己を超えた存在(超個)としての仏が実現するのであり、この個と超個の矛盾的自己同一を見つめるのが仏教の覚りであると述べる。
5 おわりに
「あとがき」にもあるとおり、本書は共生、環境、そして我々の人生に横たわる苦しみや死といった問題へのアプローチとして、「具体的な社会実践のあり方よりも、その土台となるべき思想の探究」(p. 308)を中心に論じたものである。よって、応用面でやや不足があることは著者も認めているが、容易には全体像を理解しづらいほど多種多様な仏教思想を巧みに組み合わせ、全仏教的視点から現代社会の喫緊の課題とも言うべきこれらのテーマに即応した議論が展開されている点で、本書が持つ意義はひじょうに大きいと思われる。本書を契機として、このような仏教思想を基盤とした、より実践的な社会的取り組みが行われ、これらの思想が真に生きたものとして世の中に還元さ
れる機会が増えることを期待したい。評者自身にとっても、それは重要な課題であると感じている。
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서평 : 타케무라 마키오 『부디스트 에코로지-공생·환경·생명의 사상-』
논블사, 2016년, 309쪽,
미즈타니 카나(문학부)
첫번째로
2016년은 국내외적으로 무관용과 삶의 어려움을 느끼게 하는 뉴스가 다수 난무했던 해였다.국내에서는 리우 올림픽 금메달 러시 등 밝은 이슈도 있었지만 장애인 시설에서 일어난 전직 직원 피살 사건은 차별 없는 사회 구현의 어려움을 우리에게 알렸다.부적절한 근로조건으로 인한 사고·사건도 잇따랐다.세계로 눈을 돌리면 미국 대선에서 과격한 발언을 반복한 도널드 트럼프 당선과 영국의 EU 탈퇴 결정이 준 충격은 컸다.양자의 공통점 중 하나가 종래 중시되어 온 환경문제나 이민문제 등에 있어서의 국제공조에의 부정이다.그러나 이질적인 것에 대한 편견이나 배제, 환경이나 인간성의 경시와 경제 우선, 그리고 자기(자국)의 이익을 가장 중요하게 여기는 자세가 무엇을 낳았고
그런가, 우리는 과거에 두고 배워온 것이 아닌가.
본서는 그러한 현대에 있어서야말로 주목받아야 할 「공생·환경·생명」의 문제에 대해서 저자가 2002년 동양대학 문학부에 부임한 이후, 오랜 세월에 걸쳐 축적해 온 논박을 집성한 것이다.학술서는 아니지만 저자의 전문인 유식사상 외에도 화엄·밀교·선·정토·율·천태 등과 같은 광범위한 불교사상을 종횡무진 사용하고 때로는 딥에콜로지와 불교와의 사상적 관련성도 언급하면서 불교도가 환경문제 등에 대해 어떻게 대처해야 하는가 하는 점까지 염두에 둔 고찰이 전개되고 있다.서명의 '부디스트'란 '불교의'라는 형용사이며 저자에 따르면 이 서명의 의미는 '불교의 공생·환경·생명을 둘러싼 사상'(p. 308)이다.본서의 구성도 다음과 같이 서명에 따라 전체가 3부로 나뉘며 각각 공생·환경·생명을 주된 테마로 한 논박이 배치되어 있다.이하, 그 내용을 개략적으로 설명하고 싶다.
공생의 사상
공생의 아유미와 과제
자연스럽게 타자와 선의 입장에서
동양대 에코 필로소피 연구 Vol.11 공해의 인간관을 둘러싸고--기심 속 만다라는 사상Ⅱ 자기와 환경
자연과의 공생과 일본의 사상
자기사 규명으로서의 에코 필로소피
불교에 근거한 생활지침--신대승계의 제창Ⅲ생명의 깊은 곳으로 인생의 고통을 바라보고
불교의 사생관--윤회란 무엇인가, 거기서 어떻게 벗어날 것인가 불교와 신비주의--선과 밀교를 중심으로 뒤가
'Ⅰ 공생의 사상'의 개요
본장에서는 우선 「공생의 아유미와 과제」로서 공생에 관한 사상이 어떻게 전개되어 왔는지를 개관하고 있다.소개된 내용은 다이쇼 시대에 활동했던 불교자 시이오 벤코의 토모이키 운동,
20세기 후반에 건축가 구로카와 노리아키가 제창한 공생의 사상, 이노우에 타츠오를 비롯한 많은 논자들이 언급하는 공생의 원리, 공생 사회 시스템 학회가 내거는 공생의 개념이나 이념 등 다방면에 걸친다.대체로 말하면,
「공생」이란 상호의 자립과 개성을 존중해, 결코 동일화·동질화로 이끄는 것이 아니라, 다양성이나 이질성을 유지하면서 상호 보완적인 관계성을 인식해 가는 것」(p. 19)이라고 하는 이노우에 등의 정의로 대표될 것이다.이러한 공생에 대한 불교적 뒷받침으로서 저자는 「①평등사상, ②행운사상, ③특히 화엄의 재수사상(육상원융의), ④대승의 이념, ⑤선악관, ⑥행위론, ⑦대졸의 자유론」(p.39)과 같은 여러 방면에서 그 사상적 근거를 찾고 있다.
이어지는 자연과 타자와 선의 입장에서에서는 주로 유식사상과 선사상에 기초하여 심신과 환경의 일체성을 서술한다.유식사상에서는 심층의식의 일종인 아뢰야식 속에 주관면과 대상면(자기 신체, 환경세계)이 갖추어져 있다고 한다.즉, 우리의 마음·신체·환경이 한 세트로 되어 있는 것이며, 이것을 지금·여기·자기의 사실에 대해 자각하는 것이 선이라고 하여 저자는 스즈키 다이졸, 십우도, 고산수 등의 예를 들면서 선에서 설파되는 자기와 타자의 일체성 속에 공생사상으로 이어지는 시점을 요구해 나간다.
그리고 공해의 인간관을 둘러싸고-기심 속 만다라는 사상에서 자기와 모든 타자가 서로 침투한다는 인간관 세계관을 유식이나 선과는 다른 형태로 설파하는 사상으로서 밀교도 언급한다.저자는 공해의 『합자의』, 『비장보궐』, 『변현밀이교론』, 『십주심론』, 『즉신성불의』 등을 그으면서 공해 사상에서는 자기는 부처를 본질로 하고 있으며 스스로 안에 일체의 타자를 포섭하고 있음을 논한다.그것은 바로 기심 속에 만다라가 전개한다고 해야 할 인간관이며 저자는 이러한 자기는 본래 타자의 전체라는 양해를 바탕으로 하면 자기중심주의, 이기주의를 극복하고 어떤 일이든 타자와의 공생을 실현하려는 방향으로 이끌 수 있다고 한다(pp. 101-102).
서평 : 타케무라 마키오 『부디스트 에코로지-공생·환경·생명의 사상-』
3 'Ⅱ 자기와 환경'의 개요
본장에서는 우선 「자연과의 공생과 일본의 사상」에서 현대문명을 주도해 온 과학적인 「분할하여 지배한다」(p.110)라는 입장에 의해 많은 환경문제·사회문제가 발생해 왔음을 지적하고, 그에 대해 불교가 어떠한 제언을 이룰 수 있는지를 개관한다.「Ⅰ 공생의 사상」에서 다룬 내용과도 일부 중복되지만, 여기에서는 새롭게 천태종에서 설파하는 「초목국토실개성불」의 사상도 언급함으로써 일본에서 전통적으로 파고들어 온 자기와 자연과의 관계에 관한 지식을 재평가·재해석하는 의의가 있다.그리고 딥에콜로지에서 권하는 라이프스타일을 인간관·자연관을 실제 생활과 연결시키는 하나의 실천 사례로 소개한다.
이어지는 '기사규명으로서의 에코 필로소피'에서는 불교사상을 중심으로 한 환경론이 본격적으로 전개된다.여기에서는 유식사상에 기초한 자기 심신과 환경에 관한 인식구조, 천태의 「산천초목실개성불」설의 성립배경과 전개, 도원의 『정법안장』에 설명된 산수의 설법에 대해 각각 상세히 설명하고, 그들에게 공통적으로 설명되고 있는 자기와 세계와의 일체성과 네스가 주장하는 딥 생태에는 상통하는 것이 있음을 검증한다.자기 규명은 에코 필로소피의 기반이 될 수 있다는 게 저자의 주장이다.
더욱이 「불교에 근거한 생활지침--신대승계의 제창」에서는 네스가 환경문제의 해결등 중요한 한 요소로서 지적하는 라이프스타일의 전환에 대해서 불교에서 이용되어 온 계율면에서의 제언을 시도한다.불교에는 출가자를 위한 계율(具足界)재가자를 위한 계율(오계 등), 최징이 중시한 『범망경』의 대승계 등이 있으며, 일본 불교에서는 계율이 시들해질 때마다 계율 부흥 운동이 전개되었다.저자는 그 중에서도 에도기에 활동한 진언종의 자운존자 음광에 초점을 맞추어 자운이 사람들에게 퍼뜨린 십선계(不殺生·不盗度·不思音)를 우선적으로 지키는 것이 현대인에게는 적절할 것이라고 본다.그리고 십선계에 육파라밀과 사무량심을 더한 <신삼취정계>를 제창한다.불교에서 선악이란 이 세상과 미래의 세상에 걸쳐 자타를 이롭게 하느냐에 따라 결정되므로 십선계 등을 지키는 것은 미래의 다른 사람들에게도 이익이 되며 이른바 세대간 윤리의 근거가 되기도 한다.저자는 네스가 제시한 딥·에콜로지의 라이프스타일도 참고로 하면서 불교가 「자연과의 공생·타인과의 공생·미래 세대와의 공생을 함께 실현하는, 한층 더 구체적인 덕목이나 라이프스타일의 지침을 발표해 나가는 것」(p.225)이 중요하다고 한다.
4 'Ⅲ생명의 깊이로'의 개요
이 장에서는 먼저 '삶의 고를 바라보고'에서 불교에서 석존시대 이래 설파되어 온 사성체(고체·집체·멸체·도체)를 『성유식론』 등에 근거한 해석을 포함하면서 해설하고, 고와 그 초극법에 대해 고찰한다.불교에서는 인생의 여러 가지 괴로움(고체)의 근저에 무명이 있으며, 거기로부터의 해방(열반=멸체)이란 대승불교에서는 생사의 한가운데서 발견되는 것이다.그 열반에 이르기 위한 구체적 방법(도체)으로 앞서 논한 <신삼취정계> 등을 들 수 있다.저자는 고, 특히 죽음의 향배
동양대학교 에코 필로소피 연구 Vol.11
서로의 실존적 고통을 넘어서기 위해 설파되어 온 윤회사상 등을 소개하면서, 최종적으로는 자기가 무엇인지 밝힘으로써 주체를 확립하는 것의 중요성을 설명한다. 그리고 주체를 확립한 후에는 타력신앙에 의해 자기에 대한 집착을 끊음으로써 역설적으로 "일상 속에 말하자면 부처의 생명을 사는 것과 같은 다른 사람에게 적극적으로 관여해 나가는 주체가 실현되게 된다"(p. 254)고 말한다.
이어지는 「불교의 사생관--윤회란 무엇인가, 거기서 어떻게 탈피하는가」에서는 현대에 있어서도 오컬트적인 흥미나 임사 체험담 등과 결부되어 있는 「죽음」에 대해 불교에서 설파되어 온 전통적인 윤회의 구조나 사후의 존재(중유)를, 십이지 재수설등을 이용해 설명한다.다만 저자는 윤회설과 무아설의 정합성을 고찰하는 가운데 불교에서는 주체가 확립된 후 삶과 죽음의 이원 대립에서 벗어나는 '불생'의 입장에 서서 죽음을 초극할 것을 선이나 밀교를 바탕으로 주장한다.
나아가 불교와 신비주의-선과 밀교를 중심으로에서는 불생을 포함하여 다양하게 표현되는 불교의
'깨움'의 세계에 대해서 '무몬세키'의 제1칙 '조슈 무자', 스즈키 다이졸과 니시다 기타로의 '견성' 이해,
『중론』의 공상, 그리고 밀교에서 설파되는 자기와 세계의 합일성 등을 예로 들어 설명한다.거기에는 주객융합, 평등 무차별적 1에의 몰입, 현실세계로부터의 초탈이라고 하는 신비주의적 측면도 보이는 경우가 있는데, 저자는 불교란 거기에 머무르는 것이 아니라 현실에 사는 개로서의 인간 속에서 자기를 초월한 존재(초개)로서의 부처가 실현되는 것이며, 이 개와 초개의 모순적 자기동일을 바라보는 것이 불교의 깨달음이라고 말한다.
5 마지막으로
「뒷그림」에도 나와 있듯이, 본서는 공생, 환경, 그리고 우리의 인생에 가로놓인 괴로움이나 죽음과 같은 문제에 대한 접근으로서 「구체적인 사회 실천의 기본방향보다는 그 토대가 되어야 할 사상의 탐구」(p. 308)를 중심으로 논한 것이다.따라서 응용면에서 다소 부족함은 저자도 인정하고 있으나, 쉽게는 전체상을 이해하기 어려울 정도로 다종다양한 불교사상을 교묘하게 조합하여 전불교적 관점에서 현대사회의 매우 중요한 과제라고 할 수 있는 이러한 주제에 즉응한 논의가 전개되고 있다는 점에서 본서가 갖는 의의는 더욱 크다고 생각된다.본서를 계기로 이러한 불교사상을 기반으로 한 보다 실천적인 사회적 대처가 이루어져 이들 사상이 진정으로 살아있는 것으로서 세상에 환원됨
할 수 있는 기회가 늘어나길 기대한다.평자 자신에게도 그것은 중요한 과제라고 느끼고 있다.