Amazon.co.jp: 対談評釈 イエスの言葉/禅の言葉 : 上田 閑照, 八木 誠一: Japanese Books
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対談評釈 イエスの言葉/禅の言葉 Tankobon Hardcover – May 27, 2010
by 上田 閑照 (著), 八木 誠一 (著)
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私たちが当面している心と文化の危機、その由来を訪ね突破口を探る。イエス物語を禅の公案として読み、道元が言い止める「言葉を超えた経験」をパウロの「十字架の出来事」に重ねる。新しい次元のリアリティが生成する場所と、自覚する心、両者を媒介しつつその関係を壊しもする言語の作用──宗教の言葉に現代の像を探って。
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288 pages
Product description
内容(「BOOK」データベースより)
イエスの言葉と禅の語録に埋もれている、人を生かす力の源からの呼び声を探して。文化が大きな曲がり角に立っているという、共通の危機意識を土俵として対話する。情報革命とグローバル化が具現する精神の現実―自閉する自我、稀薄なリアリティ。宗教のはじまりにある経験とその自覚に、リアルな生命感への突破口を求め、言語のダイナミックスに、世界を立ち上げる力と、経験を奪う負の力の由来とを突き止める。対話篇「いきいきと生きるために」。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
上田/閑照
1926年生まれ。専攻、宗教哲学。京都大学文学部哲学科を卒業後、マールブルク大学に学ぶ。Dr.Phil.取得(マールブルク大学)、文学博士(京都大学)。現在、京都大学名誉教授
八木/誠一
1932年生まれ。専攻、新約聖書神学、宗教哲学。東京大学とゲッチンゲン大学に学ぶ。文学博士(九州大学)、名誉神学博士(スイス、ベルン大学)。現在、東京工業大学名誉教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
Product Details
Publisher : 岩波書店 (May 27, 2010)
Publication date : May 27, 2010
Language : Japanese
Tankobon Hardcover : 288 pages
ISBN-10 : 4000221809
ISBN-13 : 978-4000221801
Dimensions : 5.31 x 0.98 x 7.68 inchesAmazon Bestseller: #547,464 in Japanese Books (See Top 100 in Japanese Books)#2,677 in Introduction to ReligionCustomer Reviews:
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caritas77
5.0 out of 5 stars 頂上対決Reviewed in Japan on February 20, 2023
序章 この空虚な世界は、どこから来たのか
直立して我と言う
我ならざるもの
人間がおかしくなる原理
世界の空虚化
世界の見えない二重性
言葉が立ち上げ、言葉が壊す
経験を奪うもの
第一章 我は、我ならずして、我なり
楠の神様
不安の根
自我主義の構造
自己を忘れる
万法に証せられる
迷いの現象学
言語と「我」
純粋経験
私の底に汝があり、汝の底に私がある
私は花だ
第二章 回心と汝 ―― 経験への道
覚とは何か
自覚の現象学
目覚める
神の子の誕生
一と無
おのずから
回心
何かおかしい、何か虚しい
最初の自覚
道を求める
見える
とともに
一体の調べ
自然が自然を自覚している
衆生無辺
「十牛図」の中の回心
共同性の問題
「我と汝」と「一切衆生」
第三章 心の場所
言葉から出て、言葉に出る
イエスは「不立文字」である
イエスの「おのずから」の道
場所と働きと ―― 「作用的一」
バショロジー
表現言語とヴァーチャル・リアリティ
「我」の場所
第四章 天地と人間をつなぐ気流
西田幾多郎の「……において」
なにもない
天地と人間 ―― 二重の「世界」
気流としての言葉
人が神の中に、神が人の中に
神の働き
人の子
覚の人イエス
道 ―― 人々の中へ
転換の方策
第五章 宗教の言葉
宗教の言語とは何か
言葉の力と危険性
言葉が経験を奪う
解脱という経験
言葉によって「開く」
禅の言葉
言葉を超えたもの
言葉が「開け」を照らす
共同的なるものをめぐって
虛語 ―― もう一つの言葉の働き
「カチン/笑い」 ―― 根源的な言葉
根源語と詩との間
禅語の特徴
殺す力
転換の証言
終章 イエスが立つ場/一人が生きる場
対話を終えて 経験・自覚・言葉
「我ならずして」を開く対話 上田閑照
知られざる満月 八木誠一
のうちわけです。
また、諸文書引照箇所一覧
仏道をならふといふは 『正法眼蔵』「現成公案」巻
自己とは他なし 清沢満之「絶対他力の大道」
自己をはこびて万法を 『正法眼蔵』「現成公案」巻
私は、神に対して生きるために ガラテヤ人への手紙 二章19-20節
私はキリストが聖霊の力に基づき ローマ人への手紙 一五章18-19節
赤肉団上に一無位の真人あり 『臨済録』
次いで、世の終わりが来る コリント人への第一の手紙 一五章24節
私が神の御子を異邦人たちのうえに ガラテヤ人への手紙 一章16節
「闇から光が輝き出よ」と コリント人への第二の手紙 四章6節
第八図 人牛倶忘 「十牛図」
第九図 返本還源 「十牛図」
第十図 入鄽垂手(にってんすいしゅ) 「十牛図」
ある人がエルサレムからエリコに ルカ福音書 一〇章30-36節
サウロは、なおも主の弟子たちを脅迫し 使徒行伝 九章1-9節
第一図 尋牛 「十牛図」
第二図 見跡 「十牛図」
第三図 見牛 「十牛図」
第四図 得牛 「十牛図」
第五図 牧牛 「十牛図」
第六図 騎牛帰家 「十牛図」
第七図 忘牛存人 「十牛図」
第八図 人牛倶忘 「十牛図」
第九図 返本還源 「十牛図」
第十図 入鄽垂手 「十牛図」
あたたちが知っている通り マルコ福音書 一〇章42-44章
菩提心を発すというは 『修証義』第四章「発願利生」
教外別伝 不立文字
心法無形、十方に通貫す 『臨済録』
三界無法、何処にか心を求めん 『碧巌録』第三十七則
その神は私たちを新しい契約に コリント人への第二の手紙 三章6節
「俺たちの父祖はアブラハムだ」 マタイ福音書 三章9-10節
大地がおのずから実を結ぶ マルコ福音書 四章28節
なぜあなたたちは着物のことで マタイ福音書 六章28-29章
「何を食べようか」 ―― 思い煩うな マタイ福音書 六章31-34章
うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく 『正法眼蔵』「現成公案」巻
但能く縁に随って旧業を消し 『臨済録』
愛する者たちよ ヨハネの第一の手紙 四章7-8節
夫れ学般若の菩薩は 『禅宗四分録』「坐禅儀」
遠山無限碧層層 『碧巌録』
好雪片片不落別処 『碧巌録』
為君幾下蒼竜窟 『碧巌録』
話尽山雲海月情 『碧巌録』
十年帰不得忘却来時道 『寒山詩』
神は……あなたがたの中で働き ピリピ人への手紙 二章13節
私は自分が欲する善は行わず ローマ人への手紙 七章19-20章
何を食べようかと……思い煩うのをやめなさい ルカ福音書 一二章22-23節
カラス……は蒔きもせず、刈りもしない ルカ福音書 一二章24-28節
汝等諸人……道の為に頭を聚む 『興禅大燈国師遺戒』
無事是れ貴人 『臨済録』
あなたは殺すことはない マタイ福音書 五章21、27、33、43節
自性霊妙……名づけて不殺生戒と為す 「無相心地戒(一心戒文)」
物来つて我を照らす 西田幾多郎「知識の客観性について」
物の見えたる光 『三冊子』芭蕉
虚空咲点頭 『普燈録』
又香厳智閑禅師 『正法眼蔵』「渓声山色」巻
一切誓うな マタイ福音書 五章34-35節
あなたがたも……「姦淫するな」と マタイ福音書 五章27-28節
イエスはオリーブ山に行かれた ヨハネ福音書 八章1-8節
ある安息日に、イエスが マルコ福音書 二章23-28節
パリサイ派の人々と……イエスのもとに集まった マルコ福音書 七章1-15節
洗礼者ヨハネが荒野に現れ マルコ福音書 一章4-11節
の引照です。
若い読者は、出典を一々あたってみられるとよろしいでしょう。
漢語は一字をもって表意します。聖書の用語は、ヘブライ語、ギリシア語いずれにしても表音します。漢語の含意をピタリとあてましょう。
八木氏はキリスト教とくにプロテスタントの神学に精通されている方です。当方はカトリックですが、聖書史のあとに、歴史的キリストの考え方も参考に学びましたので、八木氏の表現は、読みやすいと思います。
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ぱすと〜る
5.0 out of 5 stars 自分の内奥で、自分を生かす何かReviewed in Japan on April 15, 2020
「生かされている」と言います。わたしたちは、自分一人の力で生きているのではなく、誰かによって、何かによって、生かされています。まわりの人びとに支えられています。あるいは、たとえば、会ったことはないけれども農業漁業で食をもたらしてくれる人びとに、わたしたちは生かされています。
けれども、そのような誰かだけでなく、わたしたちの中にはわたしたちを生かす何かがあります。いのちがあります。わたしたちの内奥には、わたしたちを土や木の人形にとどめず、わたしたちに息をさせ、動かし、考えさせ、感じさせ、愛させ、生かす何かがあります。
旧約聖書・創世記2:7 「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」
紀元前数世紀のユダヤの人びとは、それを「命の息」と呼びました。
本書の著者の一人、八木先生によれば、一世紀、イエスはそれを「人の子」あるいは「神の支配(国)」あるいは「聖霊」と呼び、パウロは「キリスト」と呼びました。
もう一人の著者である上田先生は、「限りない開け」「我は、我ならずして、我」という表現をしました。
イエスに学んだ者と禅に学んだ者が語り合い聞きあい、イエスに学び、禅に学ぶ消息がこの本には記されています。
「もし二つの全く独立して成立発展した宗教に基本的一致があれば、それは両教の相対性というよりは、むしろ真理性の証明になると思ったのです」(p.269、八木さん)。
「異なる登山口では月の見え方が違う」(p.285、八木さん)。
ぼくはキリスト教の牧師ですが、本書は、仏教を学び資格を持つ方から頂戴したものです。
この方とは、数年間、キリスト教や仏教の本の読書会を続け、まさに、八木さんの言う真理性の何分の一かを教えていただきました。感謝いたします。
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建具屋の半公
5.0 out of 5 stars 上田、八木思想入門Reviewed in Japan on June 11, 2010
本書は、日本を代表する宗教学者二人による対談だ。上田は禅とエックハルト、八木は新約聖書学の泰斗であることは、おそらく言う必要はないだろう。
対談は、まず、話題となるテクストが掲げられ、それをめぐってなされる。初めに問題となるテクストが提示されるので、禅あるいは聖書に親しみがない読者にも、なにが問題となっているのかわかりやすい。印象的な文章が紹介されているので、聖書あるいは禅への入門として、本書は役に立つだろう。
しかし本書は、禅や聖書の入門としてはたらくだけではない。上田、八木それぞれは、独創的な研究で知られる宗教学者であり、本書に収められた対談は、かれら二人の研究への導入としても役に立つのである。その意味からすれば、巻末にでも読書案内のようなものがあってよかったように思われる。上田も八木も多産な学者ゆえに、本書を読んでかれらの考えに興味を抱いても、では次に何を読もうかと思った時に、おそらく、途方にくれるだろう。
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