2023/05/05

意識の形而上学 - 本願力 의식의 형이상학

意識の形而上学 - 本願力

意識の形而上学
提供: 本願力

大乗起信論』を読むアプローチとして、井筒俊彦氏(1914~1993)の『意識の形而上学』が面白かったので、「Ⅲ「真如」という仮名」の一節をUP。仮名(けみょう)という概念は、『論註』などでも、実体のないものに仮につけた名、という意で使われるのだが、判りにくい概念である。概念とは言葉によって分別されているのだが、その言葉を超えた領域をあえて言葉による表現をするのが仮名という言葉であろう。なお、真宗では真如の顕現相である、なんまんだぶについて垂名示形(名を垂れ形を示す)ということがいわれるのだが、イスラム神秘学の哲学者イブヌ・ル・アラビーの存在(ウジユード)に関するイスラーム学者である東洋哲学者の井筒氏の考察は、参考になること多である。もちろん御開山は哲学者ではなく、市井の念仏者であったのだが、お残くださったご著作に形而上の補助線を入れることによって、時代を超えて迫ってくるものがある。『教行証文類』は、御開山の信心の形而上の書です、と聞いたことがあったのだが、さもありなんと思ふ。ともあれ御開山は「顕浄土真仏土文類」の決釈で飛錫の『念仏三昧宝王論』を引いて「説より無説に入り、念より無念に入る」とのたまへりと、真如の体は本来言葉にはできず、心に思うこともできない。その言葉であらわすことのできない世界を言葉によって言葉を離れ、言葉でもって言葉を否定するというのだとされておられるのであった。脚注は林遊が付した。





目次 [非表示
1 Ⅲ「真如」という仮名
2 Ⅳ 言語的意味文節・存在文節
Ⅲ「真如」という仮名

 一般に東洋哲学の伝統においては、形而上学は「コトバ以前」に窮極する。すなわち形而上学的思惟は、その極所に至って、実在性の、言語を超えた窮玄の境地に到達し、言語は本来の意味指示機能を喪失する。そうでなければ、存在論ではあり得ても、形而上学ではあり得ないのだ。

 だが、そうは言っても、言語を完全に放棄してしまうわけにもいかない。言語を超え、言語の能力を否定するためにさえ、言語を使わなくてはならない。いわゆる「言詮不及(言葉で説くだけでは 及ばない)」は、それ自体が、また一つの言語的事態である。生来言語(ロゴス)的存在者である人間の、それが、逆説的な宿命なのであろうか。

 この点に関して、人はよく偉大なる「沈黙」について云々する。あたかも、形而上学的体験の極所においては、じっと黙りこんでしまいさえすれば、それで全ての問題が解決するかのように。

だが、皮肉なことに、「沈黙」は「コトバ」へのアンチテーゼとしてのみ体験的意義を発揮するのだ。言語を否定するための「沈黙」もまた、依然として言語的意味連関の圏内の一事項にすぎない。

 元来コトバにはなんの関係もない路上の石ころの「沈黙」にも深玄な意味がある、と言う人があるが、そもそも石ころの「沈黙」に深玄な意味を賦与するのは、人間の意味志向的意識であることを憶うべきである。「沈黙」は、決して言語の支配圏を超越しきってはいないのだ。まして、形而上学の樹立を目指す哲学的思惟の場合、いたずらに「沈黙」を振りかざしてみても、いささかも問題の解決になりはしない。いかに言語が無効であるとわかっていても、それをなんとか使って「コトバ以前」を言語的に定立し、この言詮不及の極限から翻って、言語の支配する全領域(=全存在世界)を射程に入れ、いわば頂点からどん底まで検索し、その全体を構造的に捉えなおすこと──そこにこそ形而上学の本旨が存する。そしていま、『大乗起信論』は、まさにそれを試みようとするのである。

 右のような事態にかんがみて、東洋哲学の諸伝統は、形而上学の極所を目指して、さまざまな名称を案出してきた。曰く「絶対」、曰く「真(実在)」、曰く「道(タオ)」、曰く「空」、曰く「無」等々。いずれも、本来は絶対に無相無名であるものを、それと知りつつ、敢えて、便宜上、コトバの支配圏内に曳き入れるための仮りの名(『起信論』)のいわゆる「仮名けみょう」)にすぎない。

 プロティノスの「一者」という名もまた然り。「一者」(to hen)という名称が、純然たる仮名にすぎないことを、プロティノス自身が次のように明言している(Enn.Ⅳ)。曰く、自分が「一者」という名で意味しようとしているものは、本当は一者でも何でもない。それは「有の彼方(epekeina ousias)」「実在性の彼方(epekeina ousiãs)」「思考力の彼方(epekeina noù)」なるもの、つまり言詮の彼方なる絶対窮極者なのであって、それにピタリと適合する名称などあるはずがない。しかし、そんなことを言っていては話にならないので、「強いて何とか仮りの名を付けるために、止むを得ず、一者と呼んでおく」。またそれに言及する必要がある場合「かのもの(ekeîno)」という漠然として無限定的な語を使ったりもするが、「実は、厳密に言えば、かのものともこのものとも言ってはならないのである。どんな言葉を使ってみても、我々はいわばそれの外側を、むなしく駈け廻っているだけのことだ」(Enn.Ⅵ.9)と。意識と存在のゼロ・ポイントの本源的無名性と、「一者」という名の仮名性とを説き尽して余すところなし、というべきであろう。

 これと全く同じ趣旨で、『起信論』は「真如」という仮名を選び取る。この語が一つの仮りの名、すなわち便宜的な符丁にすぎないことを、『起信論』のテクストは次のように明言する。

「一切諸法(=全ての存在分節単位、一切の内的・外的事物事象)は、ただ妄念(=意識の意味分節作用)に依りて(相互間の)差別有るのみ。もし心念(=分節意識)を離るれば、則ち一切の境界(=対象的事物)の相(=形姿)なし。是の故に、一切の法は、もとよりこのかた(=本来的には)言説の相(=コトバで表わされる意味単位としての事物の様相)を離れ、名字(=個々別々の事物の名称)の相を離れ、心縁(=思惟対象)の相を離れ、畢竟(=本源的には)平等(=一切の存在にわたって絶対無差別)にして、変異あることなく破壊す可からず、唯だ是れ一心(=絶対全一的な意識)のみなるを、故(ことさら)に(=強いて)真如と名づく。」
「一切の言説は仮名にして実なく、ただ妄念に随えるのみにして不可得(=コトバでは存在の真相は把提できない)なるを以ての故に、真如と言うも、また相(=この語に対応する実相)の有ることなし。言説の極(=コトバの意味指示作用をギリギリのところまで追いつめて)、言(ごん)に依りて言を遣(や)るを謂うのみ(=コトバを使うことによって、逆にコトバを否定するだけのこと)……」
「当に知るべし、一切の法は(=本源的には)説く可からず、念ず(=思惟す)可からず。故に(=こういう事情をはっきり心得たうえで、敢えて)真如となす(=真如という仮名を使う)なり」と。(大乗起信論#衆生心の真如の門

「真如」とは、字義どおりには、本然的にあるがままを意味する。「真」は虚妄性の否定、「如」は無差別不変の自己同一性。もとサンスクリットの tathatā の漢訳で、原語的にも「ありのまま性」の意。真にあるがまま、一点一画たりとも増減なき真実在を意味する、とでも言っておこうか。

 だが、この語が仮名にすぎないということは、一体、どういうことなのであろうか。さきに列挙したいろいろな名称が、全部、仮名であることを我々は承知している。それらのどの一つも本当の名でないならば、どの名を選んで形而上学的窮極者の名としても、結局、同じことなのであろうか。「真如」の代りに、例えば「道(タオ)」とか「無」とかいっても同じことなのか。いや、決してそんなことはない。「真如」と「道」と「無」との間には、歴然たる違いがある。それぞれの術語の背景にある言語的意味のカルマが違うからだ。同じく意識と存在のゼロ・ポイントを指示するにしても、例えば「真如」と「道」では、意味指示のアプローチが、文化パタン的に、全然違っている。では、なぜそんなことになるのか。

仮名にせよ何にせよ、あるものに何々という名をつけることは、たんに何々という名をつけるだけのことではない。命名は意味分節行為である。あるものが何々と命名されたとたんに、そのものは意味分節的に特殊化され特定化される。「真如」という仮名によって名指される意識と存在のゼロ・ポイントは、「道」という別の仮名によって名指される意識と存在のゼロ・ポイントとは、それぞれの文化パタン的含意の故に、意味指示的に別物である。

我々はここで、どうしても意味分節ということに考察の焦点を合わせなければならない。

Ⅳ 言語的意味文節・存在文節

前章で一言したように、ネオ・プラトニズム的哲学伝統の絶頂をなすプロティノスは、己れの考想する形而上学的存在体系の極点を「一者」と名づけながら、これは仮名であって本名ではない、本当は「一者」には全く名が無いのだ、と主張する。 名が無い、とは言語を絶対的に超越する、ということ。「一者」は、厳密にはこれを「一者」とも呼べないことは勿論、あらゆる形でのコトバの接近を拒否するところの「口では言えないもの」(アッレートン to arreton)であると言う。こんな主張をコトバですること自体、実は、皮肉きわまる規則違反(!)であることは重々承知の上で……。

 形而上学的思惟の極限に至って、なぜ言語が、その意味指示的有効性を喪失してしまうのか。

 それは、この極限的境位においては、「形而上的なるもの」は絶対無分節だからである。無辺際、無区分、無差別な純粋空間の、ただ一面の皓蕩[浩蕩]たる拡がり。このようなものを、このようなものとして、そのまま、把捉することにおいては、言語は完全に無能無力である。

 このことは、言語が元来、意味分節(=意味による存在の切り分け)を本源的機能とするということを物語っている。対象を分節する(=切り分け、切り取る)ことなしには、コトバは意味指示的に働くことができない。絶対無分節的な「形而上学的なるもの」を、例えば「真如」と名づけたとたんに、それは真如なるものとして切り分けられ、他の一切から区別されて、本来の無差別性、無限定性、全一性を失ってしまう。だからこそ『起信論』は、「真如」という語を使いながら、それをあくまで仮名けみょうにすぎないと強調し、仮名だ、仮名だ、本名と間違えてはいけない、とあれほど繰り返すのだ。 「言真如亦無有相[1]」(=「真如」とは言うけれども、この特定の語が喚起するような意味イマージュに該当する客観的事態が実在するわけではない)と。

 上来、私は既に何遍も、決定的重要性をもつキータームとして、「分節」という語を使ってきた(ついでながら、仏教古来の術語に「分別ふんべつ」という語──原サンスクリットvikalpa──があって、ほぼ「分節」と同義である。しかし「分節」とならべて見ると、「分別」は、少くとも現代日本語の口語的用法では、道徳論的含意の響を強くもちすぎるので、思想の純哲学的構造化を目指す本小論の本旨には適さない)。

 右に一言したように、「分節」とは、字義どおり、切り分け、分割、区劃づけ、を意味する。区劃機能を行使するものは、この場合、コトバの意味。つまり、ここでいう「分節する」とは、本源的に、言語意味的事態である。我々の実存意識の深層をトポスとして、そこに貯蔵された無量無数の言語的分節単位それぞれの底に潜在する意味カルマ(=長い歳月にわたる歴史的変遷を通じて次第に形成されてきた意味の集積)の現象化志向性(=すなわち自己実現、自己顕現的志向性)に促されて、なんの割れ目も裂け目もない全一的な「無物」空間の拡がりの表面に、縦横無尽、多重多層の分割線が走り、無限数の有意味的存在単位が、それぞれ自分独自の言語的符丁(=名前)を負って現出すること、それが「分節」である。我々が経験世界(=いわゆる現実)で出遇う事物事象、そしてそれを眺める我々自身も、全てはこのようにして生起した有意味的存在単位にすぎない。存在現出のこの根源的事態を、私は「意味分節・即・存在分節」という命題の形に要約する。

 いま述べたような意味での「分節」が、具体的にどんなものであるか、は形而上学的思惟の極限(=意識と存在のゼロ・ポイント)において最も端的に看取される。本論の主題をなす『起信論』の説く「真如」や、プロティノスの語る「一者」だけではない。先刻挙げた様々な思想伝統を代表する仮名の示唆するものは全て、「形而上学的なるもの」の極限的境位について、同じ「分節」の問題を提起する。例えば老荘の「道タオ」。

「道」は老荘的思惟の考想する真実在のあり方だが、それは、極限的には絶対の「無」であり「無名」(『老子』)である。[2] 「無名」、名をもたない、すなわち、絶対無分節であるということ。「夫れ道は、未だ始めより(=本源的境位においては)封(=分割線、区劃線)有らず」と荘子は言う。[3]それは、ただ純粋な「無」の空々漠々たる拡がり、渺茫びょうぼうたる絶対無分節の浄域、「広莫の野」。現象的事物は、そこには影すらない。

 この絶空の平面に、言語の下意識的な存在分節的働きで、数かぎりない事物(=意味分節的区劃、「封」)が現出してくる。『老子』のいわゆる「無名」→「有名」の転換だ。

 「道」という仮名によって示唆される絶対実在の「無」的、「無名」的、極限境位を、荘子は彼一流のミュトス的形象に映して「混沌」の神のイメージを描く。この場合、「渾沌」とは、普通の意味でのカオス、すなわち種々様々なものがゴチャゴチャに混在している状態、ではなくて、まだ一物も存在していない非現象、未現象の、つまり絶対無分節の、「無物」空間を意味する。

 その昔、まだ現象世界が存在していなかった太古の時代に、「渾沌」の神が居た、と荘子は語り出す。この神の顔は目も鼻も口も耳もない全くのノッペラボウ。同情した友人の神々が、苦心惨憺してその顔の表面に「穴」を鑿(ほ)ってやる。ところが、「穴」が全部鑿りあがって、目と鼻と口と耳が開いたとたん、「渾沌」の神はパッタリ死んでしまったのだった、と。[4]
 想像的形象性豊かなこの説話の語る「渾沌」の死は、たんに死んで居なくなってしまった、ということではない。むしろそれは実在の決定的な次元転換を意味する。絶対無分節の、本源的非分節、から分節態へ。非現象性から現象性への存在的次元転換──というより次元転落という方が荘子の真意に近いか──である。とにかく、コトバの意味分節機能にはこのような存在論的作用がある、ということだ。

 存在世界の現出における言語の意味分節機能の決定的重要性を、より端的に示すものとして、ウパニシャド・ヴェーダーンタ哲学の名色論がある。「名色」(nāma-rūpa「名とかたち」、すなわち、語とそれの喚起する意味形象)。

 ヴェーダーンタ哲学では、「形而上的なるもの」は「梵」(ブラフマン)と呼ばれる。 「梵」もまた、その窮極の境位においては絶対無分節であって、それを特に「上梵」(または「無相ブラフマン」nirguna-Brahman)と呼び、それに対立する現象的分節態におけるブラフマンを「下梵」(または「有相ブラフマン」saguna-Brahman)と名づける。

 シャンカラをはじめとする不二一元論的ヴェーダーンタ哲学の思想家たちは、絶対無分節態における「上梵」に対して我々の現象世界は、同じく「梵」ではあっても「下梵」であり、「名とかたち」の存在次元であることを強調する。この場合、「名」とは意味分節の標識としての語(コトバ)であり、「かたち」とは、事物の外形だけではなく、皿なら皿という名称の指示するものの属性、用途など、そのものを限定的に構成する一切を含意する。

上述したように、「分節」というのは、区劃し、分割し、分別し、分開させること。もともと分割線が引かれていない、いわば未分の塊りのごときカオス状の「無物」空間の表面に言語的分割線(すなわち意味表象的境界線)を引いていく。「名」が付くと、それぞれのものは、語の意味形象的差異性によって、相互差違的に自己同一性を得る。つまり、一々が有意味的存在モナドとして現象してくるのだ。こうして、我々が現にそこに生きている現実世界は、無数の「名」によって現象する重々無尽の意味連関組織、意味分節単位の網目構造、としての力動的な全体性であり、内的緊張に充ちた全包摂的意味分節磁場なのである。そして、それがウパニシャド・ヴェーダーンタの形而上学的──存在論的思惟の発端となるのだ。「名」、すなわちコトバ、の介入なしには、形而上学が存在論に展開することはあり得ない。いや、「形而上学的なるもの」の「無」的極限それ自体すら、「名」の排除という形で、否定的に深くコトバに関わってくるのであって、そのことは、「真如」の仮名性を論じたとき、すでに我々の覚証したところである。

 ヴェーダーンタの「名色(=名とかたち)」思想が問題になるとき、よく引用される『チャーンドーギャ・ウパニシャド』(Chāndogya‐upaniṣad)の一節(Ⅵ.1)が、この事態を次のように説明している。勿論、全体が比喩的言辞だ。曰く、

 一塊の土を手に取り、様々に切り分け、それを材料としていろいろな器物を作り出す──茶碗、皿、鉢、壺、等々。それらは全部、「名色」的相互差異性によって、それそれ別のものである。が、それらのどのひとつを取って見ても、土である。茶碗、皿、鉢、壺、等々、全てが土であるということは共通で、その点ではまったく何の違いもない。違いはただ、それぞれの「名とかたち」(=言語意味分節的単位としてそれぞれが獲得した自己同一性)による。土であることは全部に共通する実在性の真相。個々別々の器物は、「名とかたち」、すなわちそれを指示する語(コトバ)と、その語の喚起する意味分節形象の違いのみ、と(もっとも、ここで「名色」以前の実在性の真相とされている土も、比喩的言語のコンテクストをはずして考えれば、意味分節による「名色」的自己同一性にすぎないことは、言うまでもないのだが……)。

 誰でも日常経験している事態のこの描写は、無分節的「梵」と、それの現象的分節態とのあいだの形而上学的・存在論的関係を、ごく卑近な比喩によって巧みに説き明かす。現象的世界、すなわち千態万状のものの世界、の現出において言語の意味分節機能の果す役割がヴェーダーンタ哲学ではどのようなものとして考えられているかということは、もはや、多言を要さずして明らかであろう。

 最後に、いままで述べてきた思想伝統とは全く系統の違う人格一神教的啓示宗教(イスラーム)のコンテクストにおいて、言語的分節の概念が、形而上学的にいかに枢要な働きをしているか、について一言して、「存在分節・意味分節」を主題とする本章を結ぶことにしよう (ちなみに、イスラーム哲学は西暦十三世紀に至って、初期のギリシャ哲学一辺倒の状態を脱して、独自の、真にイスラーム的と呼ばれるにふさわしい、哲学思想の創出期に入るのであって、創造性豊かなこの時期の発端を画する哲学者、イブヌ・ル・アラビー Ibn al-`Arabī の、「存在一性論」として世に有名な形而上学を、ここではイスラーム哲学思想の代表として取り上げることにする)。

 イスラームと言えば、人はすぐ唯一絶対の人格神、アッラーの名を憶う。それが常識だ。イスラームを信奉していない異教徒の場合だけでなく、普通一般のイスラーム教徒でもそのとおり。全存在世界を創造し、支配し、自ら存在そのものである神は、アッラーを措いてほかにはない。イスラームでは、正統的神学(=教義学)の思想も哲学的思惟も、いやしくも存在とか実在とかを云々するかぎり、存在性・実在性の窮極の境位を必ず神アッラーとする。ごく当然のことであって、敢えて疑問を呈出するには当らない、と誰でも考える。

 しかし、同じイスラームの正統派的哲学でも、イブヌ・ル・アラビーの「存在一性論」(waḥda al-wujūd)などになると、問題は急に複雑になってくる。宗教と信仰のコトバが神と呼ぶものを、彼は哲学のコトバの次元で「存在ウジユード」(wujūd)と呼び、しかもこの「存在」の窮極位を、プロティノスの「一者」のように存在の彼方におく。 プロティノス的「実在性と思考の彼方」は、そのままイブヌ・ル・アラビーの「存在」に当てはまる、それが存在の彼方でありながら、しかも全存在世界の太源である点でも。
 無名無相、それは一切の「……である」という述語づけを受けつけない。「神である」とすら言えない。神以前の神は、普通の意味での神ではないからである。だから、イブヌ・ル・アラビーにとって、「存在(ウジユード)」というのも、窮極的には一つの仮りの符丁であって、彼の考えている絶対的真実在の本当の名称ではない。

 こうして、イスラーム哲学においても、「形而上的なるもの」は、その極限的境位においては、絶対無分節であって、一切のコトバを超え、「名」を超える。しかし、コトバを超え「名」を超えるこの真実在(「存在(ウジユード)」)には、自己顕現への志向性が、本源的に内在している。宗教的言辞で言うなら、「隠れた神」は「顕われた神」にならずにはいられないのだ。

 自己顕現タジャリー(tajalli)へのこの本源的志向性に促されて、無名無相の「存在( ウジユード)」は、次第にヴェーダーンタのいわゆる「名ナーマとかたちルーパ」の存在次元に降りてくる。その第一段が「アッラー」としての自己顕現の段階である。これは無分節者が無分節性を離れる第一歩である。つまりコトバの介入が、もうこの段階から始っているのだ。
 事の真相を知るためには、我々は、「アッラー」という語が一つの「名」であることを忘れてはならない。イスラームの正統神学では、「アッラー」を神の「至大の名イスム・アアザム」(ism azam)とする。だが、至大であろうと至高であろうと、「名」は「名」なのであって、我々がすでにコトバの支配圏内に踏みこんでいることは明らかである。

 さて、いまも一言したように、「アッラー」は、無名無相の絶対的真実在が、「名とかたち」によって自己分節する最初の段階であって、それに続いて無数の下位的「神名」が出現し、それらの意味連関構造が、いわゆる現象的存在世界を作り出す。

 それら無数の「神名」(asmā Allāh)各々の性格や、それらの相互関係を考究する思想分野を、伝統的なイスラーム神学では「神名論」と名づけ、教義学の重要な課目としてきた。教義学的には「神名」は神的「属性」(sifat Allāh)として取り扱われる。だが、現代哲学的に読みなおしてみれば、伝統的な「神名論(=アッラーの諸属性の研究)」が、結局、言語意味的分節論にほかならない、ということは指摘するまでもないであろう。ここで特に注目しておきたいのは、イスラーム哲学において、神的実在の自己顕現の全プロセスが、「アッラー」を第一段とする無数の「神名」の働きによって現成するとされていること、裏から言えば、すなわち、コトバの介入なしには存在の分節があり得ない、ということが、この上もなく明瞭に主張されている点である。

 一見、分節論などというものから程遠く思われる人格一神教的啓示宗教の濃密な雰囲気のただ中で、およそこのような考え方が成立し得たということ──より具体的に言うなら、ユダヤ・イスラーム的宗教特有の、いわゆる神の世界創造説を、このような形で分節論的に読みなおし得たということ──は、最盛期のイスラーム思想界における思惟の形而上学的衝迫がいかばかりであったかを物語る。

 無名無相の窮極的超越者が、「アッラー」を第一とする「神名」群を形相(イデア)的通路と して、種々様々な存在者を分出創出し、ついに絢爛たる現象世界として自己顕現するに至ると説く「存在一性論」の哲学的思惟構造を、分節論的に解釈しなおすことによって、事実、我々は、「生ける神」アッラーへの熾烈な信仰に裏づけられたイスラーム的形而上学の真面目に触れることができるのではないか、と思う。

 ウパニシャド・ヴェーダーンタ哲学の「名色論」にしても、イスラーム存在一性論の「神名論」にしても、「名」の存在論的重要性が異常なほどに強調されているのを我々は見た。これと同じ思想が、もっと端的な形で、先述した『老子』の「無名→有名」という存在次元転換のフォーミュラに言表されていた。

「無名」から「有名」へ。「無名」は「無」に等しい。『老子』によれば、およそいかなる「名」ももたないものは、ものではない。「名」があって、はじめて「無」が「有」になり、そこにはじめてものが出現する。西欧のキリスト教世界において、嬰児の命名式が一つの厳粛な事件であることが憶い合わされる。「名づけ」がものを、正式に、存在の場に喚び出すのだ。

「名」が、言語的意味分節の標識であるということは、もはや繰り返すまでもないだろう。

  以上、私は幾つかの思想伝統を思いつくままに取り上げて、それらの提唱する、言語意味分節・即・存在分節的形而上学の様々に異る形態を、大急ぎで通観した。

 だが、それにしても、私見によれば、言語意味分節論は東洋哲学──少くともその代表的な大潮流の一つ──の精髄であって、いったんこれについて語りだせば止めどなくなってしまう恐れがある。思い切って、このあたりで、一応、切りあげて、本論の直接の主題である『起信論』の「真如」概念の分節論的構造に話を戻すことにしよう。


元の位置に戻る↑ 訓読;真如というも亦相あること無し。
元の位置に戻る↑ 『老子』に「無明天地之始(無明は天地の始めなり)」とあり、老子は無を天地に先立つものとした。その無が天地を生ずるとしていた。
元の位置に戻る↑ 『荘子』斉物論篇第二。(金谷治訳注より)
「夫れ道は未だ始めより封(ほう=さかい。井筒氏によれば意味分節区画)有らず。言は未だ始めより常ならず。是れが為に畛(しん=田を区切るあぜ、さかいの意)有り。請う、その畛を言わん。左有り、右有り、論(ろん)有り、議(ぎ)有り、分(ぶん)有り、辯(べん)有り。競(きょう)有り、争(そう)有り。此れを之れ、八徳と謂う。六合(りくごう=天地と四方の六。宇宙全体の意。)の外は聖人は存して論ぜず、六合の内は論じて議せず。春秋の世を経するは先王の志なれば、聖人は議して辯ぜず。故に分なるものには、分けらざるもの有り。辯なるものには、辯ぜざるものあり。曰(いわ)く、何ぞや。聖人は之を懐(いだ)くも、衆人は之を辯じて以て相示す。故に曰く、辯なるものは見えざればなり、と。」
訳:いったい、道とはもともと〔無限定で〕境界分別をもたないものであり、言葉とはもともと一定した意味内容を持たないものである。こういうことからして〔道を言葉によってあらわすとなると〕対立差別が生まれることになる。その対立差別について述べてみよう。左があって右があり、論が立って議が起こり、分類があって区別があり、競りあいがあって争いがあるというのがそれで、これを八つの徳(──すなわち道を離れて得られるもの)と名づける。〔そこで〕この宇宙の外のことについては聖人はその存在を否定はしないが、それについて論を立てることはしない。 また宇宙の中のことについては、聖人は論を立てても細かい議論はしない。諸国の年代記にみえる治策や古代の王たちの記録については、聖人は議論はしても〔善し悪し〕の分別は立てない。そもそも分類するということは分類しないものを残すことであり、区別するということは区別しないものを残すことである。それはどういうことか。聖人は道をそのままわが胸に収めるのであるが、一般の人々は道に区別を立ててそれを他人に示すのである。そこで、区別するということは〔道について〕見ないところを残している、というのである。
元の位置に戻る↑ 『荘子』応帝王篇第七。(金谷治訳注より)
南海の帝を儵(しゅく)と為し、北海の帝を忽(こつ)と為し、中央の帝を渾沌(こんとん)と為す。儵と忽と、時に相(あ)い与(とも)に渾沌の地に遇(あ)ふ。渾沌これを待つこと甚だ善(よ)し。儵と忽と、渾沌の徳に報いんことを諜(はか)りて曰わく、人みな七竅(しちきょう)有りて、以て視聴食息す。此れ独(ひと)り有ること無し。嘗試(こころ)みに之を鑿(うが)たんと。日に一竅を鑿てるに、七日にして渾沌死せり。
訳:南海の帝を儵といい、北海の帝を忽といい、中央の帝を渾沌といった。 儵と忽とはときどき渾沌の地で出会ったが、渾沌はとてもよく彼らをもてなした。 儵と忽とはその渾沌の恩に報いようと相談し、 「人間にはだれにも〔目と耳と鼻と口との〕七つの穴があって、それで見たり聞いたり食べたり息をしたりしているが、この渾沌だけはそれがない。 ためしに穴をあけてあげよう」ということになった。そこで一日に一つずつあけていったが、七日たつと渾沌は死んでしまった。◇人間の有為の賢しらさが自然の純朴さを破壊することを説く。「混沌、七竅(しちきょう)に死す」と古来から有名な寓話。
ちなみに御開山は、「また他力と申すことは、義なきを義とすと申すなり。義と申すことは、行者のおのおののはからふことを義とは申すなり。如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず」(消息 P.779)とされておられた。不可思議の誓願を人間の有為の思惟ではかることは仏智を疑う自力であるというのであろう。


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의식의 형이상학
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『대승기신론』을 읽는 어프로치로서, 이즈츠 토시히코씨(1914~1993)의 『의식의 형이상학』이 재미있었기 때문에, 「Ⅲ「진여」라는 가명」의 일절을 UP. 가명이라는 개념은 '논의' 등에서도 실체가 없는 것에 임시로 붙인 이름이라는 뜻으로 사용되는데, 알기 어려운 개념이다. 

개념이란 말에 의해 분별되고 있지만, 그 말을 넘은 영역을 굳이 말에 의한 표현을 하는 것이 가명이라는 말일 것이다. 덧붙여 진종에서는 진여의 현현상인, 난만다부에 대해 서명시형(이름을 늘어뜨린 형태를 나타낸다)이라고 하는 것이 말해지지만, 

이슬람 신비학의 철학자 이브누르아라비의 존재(우지유드) 에 관한 이슬람 학자인 동양 철학자의 이즈츠씨의 고찰은, 참고가 되는 것 많다. 

물론 미개산은 철학자가 아니고, 이치의 염불자였지만, 남겨 주신 저작에 형이상의 보조선을 넣는 것으로, 시대를 넘어 다가오는 것이 있다. 『교행증문류』는 오가야마의 신심의 형이상의 책입니다. 어쨌든 오카이야마는 「현정토진불토문류」의 결석으로 히석의 「념불삼매보왕론」을 끌고 「설보다 무설에 들어가, 념보다 무념에 들어간다」라는 설탕과 진정 몸은 본래 말할 수 없고, 마음에 생각할 수도 없다. 그 말로 표현할 수 없는 세계를 말로 말을 떠나 말로 말을 부정한다는 것으로 여겨지고 있는 것이다. 각주는 임유가 붙었다.










목차 [ 숨기기 ] 

1 Ⅲ 「진여」라는 가명
2 Ⅳ 언어적 의미절과 존재절


Ⅲ「진여」라는 가명


 일반적으로 동양철학의 전통에 있어서 형이상학은 「코토바 이전」에 궁극한다. 즉 형이상학적 사유는 그 극소에 이르고 실재성의 언어를 넘은 궁현의 경지에 도달하고 언어는 본래의 의미지시기능을 상실한다. 그렇지 않으면 존재론이 될 수 있더라도 형이상학이 될 수 없다.


 하지만, 그렇게 말해도, 언어를 완전히 포기해 버릴 수도 없다. 언어를 넘어 언어의 능력을 부정하기 위해서도 언어를 사용해야 한다. 이른바 '말할 수 없는(언어로 말하는 것만으로는 미치지 않는다)'는 그 자체가 또 하나의 언어적 사태이다. 생명언어(로고스)적 존재자인 인간의 그것이 역설적인 숙명일까.


 이와 관련하여 사람은 잘 위대한 "침묵"에 대해 말한다. 마치 형이상학적인 체험의 극소에 있어서는, 가만히 침묵해 버리기만 하면, 그래서 모든 문제가 해결하는 것처럼.


하지만 아이러니하게도 '침묵'은 '코토바'에 대한 안티테제로서만 체험적 의의를 발휘하는 것이다. 언어를 부정하기 위한 '침묵'도 여전히 언어적 의미 연관의 권내의 한 사항에 불과하다.


 원래 코토바에는 아무런 관계도 없는 거리의 돌 무렵의 「침묵」에도 심각한 의미가 있다고 하는 사람이 있지만, 원래 돌 무렵의 「침묵」에 심각한 의미를 부여하는 것은, 인간의 의미 지향적 의식임을 기억해야 한다. '침묵'은 결코 언어의 지배권을 초월하지 않았다. 그런데 형이상학의 수립을 목표로 하는 철학적 사유의 경우 장난스럽게 '침묵'을 뿌려봐도 조금도 문제의 해결이 되지는 않는다. 아무리 언어가 무효라고 알고 있어도, 그것을 어떻게든 사용해 「코토바 이전」을 언어적으로 정립해, 이 말의 불극의 극한으로부터 휘두르고, 언어가 지배하는 전 영역(=전 존재 세계) 를 사정거리에 넣어 말하자면 정점에서 바닥까지 검색하고 그 전체를 구조적으로 다시 잡는 것── 거기에야말로 형이상학의 본지가 존재한다. 그리고 지금 『대승기신론』은 바로 그것을 시도하려고 하는 것이다.


 오른쪽과 같은 사태에 관해서, 동양철학의 여러 전통은 형이상학의 극소를 목표로 다양한 명칭을 고안해 왔다. 가라앉는 '절대', 가라앉는 '진(실재)', 가라앉는 '길(타오)', 가라앉는 '하늘', 가라앉는 '무' 등등. 모두, 본래는 절대로 무상무명인 것을, 그것이라고 알면서, 굳이, 편의상, 코토바의 지배권내에 예를 들어 가기 위한 가짜의 이름(『기신론』)의 이른바 「가나케미오')에 불과하다.


 프로티노스 의 '한자'라는 이름도 또연. "한자"(to hen)라는 명칭이 순연한 가명에 불과하다는 것을 프로티노스 자신이 다음과 같이 명언하고 있다(Enn.Ⅳ). 왠지, 자신이 「한 사람」이라고 하는 이름으로 의미하려고 하고 있는 것은, 사실은 혼자도 아무것도 아니다. 그것은 "유의 그분(epekeina ousias)" "실재성의 그분(epekeina ousiãs)" 하는 명칭 등 있을 리가 없다. 그러나 그런 말을 해서는 이야기가 되지 않기 때문에, "강하게 어떻게든 임시의 이름을 붙이기 위해, 멈출 수 없고, 혼자라고 부른다". 또 거기에 언급할 필요가 있는 경우 '카노모노(ekeîno)'라는 막연하게 무제한적인 단어를 사용하기도 하지만, '실은 엄밀히 말하면 카노모노라도 이 것이라고 말해서는 안 된다. 왜냐하면 어떤 말을 사용해 보더라도 우리는 말하자면 그것의 바깥쪽을 헛되게 고르고 있을 뿐이다」(Enn.Ⅵ.9)라고. 의식과 존재의 제로포인트의 본원적 무명성과 '한자'라는 이름의 가명성을 설득하여 남을 곳 없이 해야 한다.


 이와 똑같은 취지로 '기신론'은 '진여'라는 가명을 선택한다. 이 단어가 하나의 임시 이름, 즉 편의적인 부정에 불과하다는 것을 『기신론』의 텍스트는 다음과 같이 명언한다.


“모든 제법(=모든 존재분절단위, 일체의 내적·외적 사물사건)은 단지 망념(=의식의 의미분절작용)에 따라(상호간의) 차별이 있을 뿐. =분절 의식)을 놓으면, 법칙 일체의 경계(=대상적 사물)의 상(=형모) 없음.꼭 그러므로, 일절의 법은, 물론 이 분(=본래적으로는) 언설의 상(=코토바로 나타내어지는 의미단위로서의 사물의 양상)을 떠나, 명자(=개별 별개의 사물의 명칭)의 상을 떠나, 심연(=사유 대상)의 상을 떠나, 축축(= 본원적으로는) 평등(=일체의 존재에 걸쳐서 절대 무차별)로 하고, 돌연변이 있는 일 없이 파괴할 수 없고, 유일하게 부디 일심(=절대 전일적인 의식)만 되는 것을, 고(말씀 )에 (=강하고) 진여라고 이름 붙인다." "
일체의 언설은 가명으로 해 실수없고, 단지 망념에 따르는 것만으로 해서 불가득(=코토바에서는 존재의 진상은 파제할 수 없다) 되는 것을 이후로, 진실이라고 말하는 것도, 또 상(=이 단어에 대응하는 실상)이 있는 것 없음.언설의 극(=코토바의 의미 지시 작용을 아슬아슬하게까지 따라잡아), 말(곤)에 의하여 말을 송(야)루를 우려할 뿐(=코토바를 사용하는 것에 의해서, 반대로 코토바를 부정하는 것만))
… , 무심코(=사유한다) 가능하지 않다. 그러므로(=이런 사정을 확실히 마음 얻은 데다, 굳이) 진여로 이루는(=진여라고 하는 가명을 사용한다)가 된다」라고. ( 대승기신론 #중생심의 진여문 )


「진여」란, 자의대로는, 본연적으로 있는 그대로를 의미한다. 「참」은 허망성의 부정, 「여」는 무차별 불변의 자기 동일성. 원래 산스크리트의 tathatā의 한역으로, 원어적으로도 「있는 그대로 성」의 뜻. 참에 있는 그대로, 일점 일화하거나 모두 증감하지 않는 진실재를 의미한다,라고라도 말할까.


 하지만 이 단어가 가명에 불과하다는 것은 도대체 어떤 일일까. 아까 열거한 여러 명칭이 모두 가명임을 우리는 알고 있다. 그들 중 하나가 진짜 이름이 아니라면 어떤 이름을 선택하고 형이상 학적 궁극자의 이름으로도 결국 같은 것일까? 「진여」 대신에, 예를 들면 「길(타오)」이라든지 「무」라고 해도 같은 것인가. 아니, 결코 그런 일은 없다. '진여'와 '길'과 '무' 사이에는 역연한 차이가 있다. 각각의 술어 배경에 있는 언어적 의미의 카르마가 다르기 때문이다. 마찬가지로 의식과 존재의 제로포인트를 지시하더라도, 예를 들면 「진여」와 「길」에서는 의미지시의 어프로치가 문화 패턴적으로 전혀 다르다. 그럼, 왜 그런 일이 되는 것인가.


가명이든 무엇이든, 어떤 것에 무언가라는 이름을 붙이는 것은 단지 무언가라는 이름을 붙이는 것만은 아니다. 명명은 의미 분절 행위이다. 어떤 것이 무언가로 명명되었을 때에 그 자체는 의미분절적으로 특수화되고 특정화된다. 「진여」라는 가명에 의해 지명되는 의식과 존재의 제로 포인트는, 「길」이라고 하는 다른 가명에 의해 명지되는 의식과 존재의 제로 포인트란, 각각의 문화 패턴적 함의 때문에, 의미 지시적으로 별개이다.


우리는 여기에서 아무래도 의미분절이라는 것에 고찰의 초점을 맞추어야 한다.


Ⅳ 언어적 의미절·존재절


전장에서 한마디처럼, 네오플라토니즘적 철학 전통의 절정을 이루는 프로티노스는, 자신의 고상하는 형이상학적 존재체계의 극점을 '한자'라고 명명하면서, 이것은 가명이며 본명에서는 아니, 사실은 '한자'에는 전혀 이름이 없다고 주장한다. 이름이 없다고는 언어를 절대적으로 초월한다는 것. '한 사람'은 엄밀하게는 이것을 '한 사람'이라고도 부를 수 없는 것은 물론, 모든 형태로의 코토바의 접근을 거부하는 곳의 '입으로는 말할 수 없는 것'(알레톤 to arreton)이라고 말한다 . 이런 주장을 코토바로 하는 것 자체, 실은, 아이러니 굉장한 규칙 위반(!)인 것은 중대 인지의 위에서…


 형이상학적 사유의 극한에 이르러 왜 언어가 그 의미지시적 유효성을 상실해 버리는 것인가.


 이것은, 이 극한적 경위에 있어서는, 「형이상적인 것」은 절대 무분절이기 때문이다. 무변시, 무구분, 무차별한 순수한 공간의, 단지 일면의 낭탕 늘어나는 확산. 이러한 것을 그대로 파악할 때 언어는 완전히 무능력하다.


 이것은 언어가 원래 의미분절(= 의미에 의한 존재의 구분)을 본원적인 기능으로 한다는 것을 이야기하고 있다. 대상을 분절(=절단, 잘라내기) 없이는, 코토바는 의미 지시적으로 일할 수 없다. 절대 무분절적인 「형이상학적인 것」을, 예를 들면 「진여」라고 명명한 것과 같이, 그것은 진실한 것으로서 나누어져 다른 일절로부터 구별되어, 본래의 무차별성, 무제한성, 전일 성을 잃어 버린다. 그러므로 '기신론'은 '진여'라는 단어를 사용하면서 그것을 어디까지나가나케미오에 지나지 않는다고 강조하고, 가명이다, 가명이다, 본명과 잘못해서는 안 된다, 라고 그렇게 반복하는 것이다. 「언진여양무유상 [1]」(=「진여」라고는 말하지만, 이 특정의 말이 환기하는 의미 이마주에 해당하는 객관적 사태가 실재하는 것은 아니다)라고.


 상래, 나는 이미 몇 편이나, 결정적 중요성을 가지는 키텀으로서, 「분절」이라고 하는 단어를 사용해 왔다(이어서, 불교 고래의 수술어에분별후베츠라는 단어──하라 산스크리트 vikalpa──가 있고, 거의 「분절」과 동의이다. 그러나 「분절」이라면 보면, 「분별」은, 적어도 현대 일본어의 구어적 용법에서는, 도덕론적 함의의 울림을 너무 강하게 찼기 때문에, 사상의 순철학적 구조화를 목표로 하는 본소론 의 본지에는 적합하지 않다).


 오른쪽에 한마디한 대로, 「분절」이란, 자의대로, 잘라내기, 분할, 구 파괴를 의미한다. 구정기능을 행사하는 것은 이 경우 코토바의 의미. 즉, 여기서 말하는 「분절한다」란, 본원적으로, 언어 의미적 사태이다. 우리의 실존 의식의 심층을 토포스로서 거기에 저장된 무량 무수의 언어적 분절 단위 각각의 바닥에 잠재하는 의미 카르마 현상화 지향성(=즉 자기 실현, 자기 현현적 지향성)에 촉구되어 아무런 균열도 균열도 없는 전일적인 "무물" 공간의 확산 표면에 종횡 무진, 다중 다층 분할 선이 달리고 무한수의 유의미적 존재단위가 각각 자신의 독자적인 언어적 부정(=이름)을 지고 현출하는 것, 그것이 「분절」이다. 우리가 경험세계(=이른바 현실)에서 나오는 사물사건, 그리고 그것을 바라보는 우리자신도 모두는 이런 식으로 생긴 유의미적 존재단위에 불과하다. 존재현출의 이 근원적 사태를 나는 '의미분절·즉·존재분절'이라는 명제의 형태로 요약한다.


 지금 말한 것과 같은 의미에서의 「분절」이 구체적으로 어떤 것인지는 형이상학적 사유의 극한(=의식과 존재의 제로 포인트)에서 가장 단적으로 간취된다. 본론의 주제를 이루는 '기신론'이 설교하는 '진여'나 프로티노스가 말하는 '한자'만이 아니다. 앞서 열거한 다양한 사상 전통을 대표하는 가명이 시사하는 것은 모두 「형이상학적인 것」의 극한적 경위에 대해 같은 「분절」의 문제를 제기한다. 예를 들어 노장의 "길타오".


「길」은 노장적 사유의 고상하는 진실재의 본연의 방법이지만, 그것은, 극한적으로는 절대의 「무」이고 「무명」(「노자」)이다. [2] 「무명」, 이름을 가지지 않는, 즉, 절대 무분절이라고 하는 것. "남편길은 아직 시작보다(=본원적 경위에 있어서는) 봉(=분할선, 구 파선) 없음"이라고 장코는 말한다. [3] 그것은 단지 순수한 "무"의 빈 막막한 퍼짐,渺茫병아리타루 절대 무분절의 정역, 「광막의 들」. 현상적 사물은 거기에 그림자조차 없다.


 이 절공의 평면에, 언어의 하의식적인 존재분절적 일로, 수많은 사물(=의미분절절구구, 「봉」)이 현출해 온다. '노자'의 이른바 '무명'→ '유명'의 전환이다.


 「길」이라고 하는 가명에 의해 시사되는 절대 실재의 「무」적, 「무명」적, 극한 경위를, 장자는 그 일류의 뮤토스적 형상에 비추어 「혼돈」의 신의 이미지를 그린다. 이 경우, 「혼돈」이란, 통상의 의미에서의 혼돈, 즉 여러가지 다양한 것이 고차고차에 혼재하고 있는 상태,가 아니고, 아직 하나도 존재하지 않는 비현상, 미현상, 즉 절대 무분절의 "무물"공간을 의미한다.


 그 옛날, 아직 현상 세계가 존재하지 않았던 태고의 시대에, 「혼돈」의 신이 있었다고, 소코는 말한다. 이 신의 얼굴은 눈도 코도 입도 귀도 없는 완전히 노뻬라보우. 동정한 친구의 신들이 고심 참혹하고 그 얼굴의 표면에 '구멍'을 쑤시게 한다. 그런데 , 「구멍」이 전부 오르고, 눈과 코와 입과 귀가 열렸다고 하면 , 「혼돈」의 신은 확실히 죽어 버린 것이었다, 라고. [4]
 상상적 형상성이 풍부한 이 설화가 말하는 ‘혼돈’의 죽음은 가끔 죽어 없어져 버렸다는 것이 아니다. 오히려 그것은 실제적인 결정적인 차원 변환을 의미한다. 절대 무분절의, 본래 비분절,에서 분절태로. 비현상성에서 현상성으로의 존재적 차원전환──이라기보다 차원전락이라는 것이 장자의 진의에 가까운가──이다. 어쨌든, 코토바의 의미분절 기능에는 이러한 존재론적 작용이 있다는 것이다.


 존재 세계의 현출에 있어서의 언어의 의미 분절 기능의 결정적 중요성을, 보다 단적으로 나타내는 것으로서, 우파니샤드·베단타 철학의 명색론이 있다. "명색"(nāma-rūpa "명과 형태", 즉 단어와 그것의 환기의 의미 모양).


 베단타 철학에서는 '형이상적인 것'은 '범'(브라프만)이라고 불린다. '범'은 또한 궁극의 경계에서 절대 무분절이며, 특히 '상범'(또는 '무상 브라프만' nirguna-Brahman)이라 불리며, 그와 대립하는 현상 분절의 블러프만 "하부"(또는 "유상 브라프만" saguna-Brahman)이라고 부른다.


 샹카라를 비롯한 불2일원론적 베단타 철학의 사상가들은 절대 무분절태에 있어서의 「상척」에 대해 우리의 현상세계는, 마찬가지로 「범」이라도 「하조」이며, 이름과 형태의 존재 차원임을 강조한다. 이 경우, 「이름」이란 의미분절의 표지로서의 단어(코토바)이며, 「모양」이란, 사물의 외형뿐만 아니라, 접시라면 접시라고 하는 명칭의 지시하는 것의 속성, 용도 등, 그 것을 한정적으로 구성하는 일체를 함의한다.


상술한 바와 같이, 「분절」이란, 구분, 분할, 분별, 분개시키는 것. 원래 분할선이 그려지지 않은, 이른바 미분의 덩어리 때 혼돈 모양의 「무물」공간의 표면에 언어적 분할선(즉 의미표상적 경계선)을 그려 간다. "이름"이 붙으면, 각각은 단어의 의미 형상적 차이에 의해 상호 차별적으로 자기 동일성을 얻는다. 즉, 일단이 유의미한 존재 모나드로서 현상해 오는 것이다. 따라서 우리가 실제로 거기에 살고 있는 현실세계는 무수한 '이름'에 의해 현상하는 중대무진의 의미연관조직, 의미분절단위의 망목구조로서의 역동적인 전체성이며, 내적 긴장에 충만한 전포섭적 의미 분절자장인 것이다. 그리고 그것이 우파니샤드 베단타의 형이상학적── 존재론적 사유의 발단이 되는 것이다. "이름", 즉 코토바의 개입 없이는 형이상학이 존재론에 전개될 수 없다. 아니, 「형이상학적인 것」의 「무」적 극한 그 자체조차, 「이름」의 배제라고 하는 형태로, 부정적으로 깊게 코토바에 관련되어 오는 것이며, 그 것은, 「진여」의 가명성 을 논할 때 이미 우리의 각증한 곳이다.


 베단타의 '명색(=이름과 모양)' 사상이 문제가 될 때 자주 인용되는 '챈도기아 우파니샤드'(Chāndogya-upaniṣad)의 절(Ⅵ.1)이 이 사태를 다음과 같이 설명합니다. 물론, 전체가 비유적 언론이다. 얕은,


 한 덩어리의 흙을 손에 들고, 여러가지로 나누어, 그것을 재료로서 여러가지 기물을 만들어낸다──찻잔, 접시, 그릇, 항아리, 등등. 그들은 전부, "명색"적 상호차이성에 의해, 그것 그것 다른 것이다. 하지만, 그들 중 하나를 가지고 봐도 흙이다. 찻잔, 접시, 화분, 항아리 등 모두가 흙이라는 것은 공통이며, 그 점에서는 전혀 아무런 차이가 없다. 차이는 단지, 각각의 「이름과 형태」(=언어 의미 분절적 단위로서 각각이 획득한 자기 동일성)에 의한다. 토양인 것은 전부에 공통되는 실재성의 진상. 개별 별개의 기물은, 「이름과 형태」, 즉 그것을 지시하는 단어(코토바)와, 그 단어의 환기하는 의미 분절 형상의 차이만, 그리고 진상으로 여겨지는 흙도, 비유적 언어의 컨텍스트를 벗어나고 생각하면, 의미 분절에 의한 「명색」적 자기 동일성에 지나지 않는 것은, 말할 필요도 없지만……).


 누구나 일상 경험하고 있는 사태의 이 묘사는, 무분절적 「범」과, 그것의 현상적 분절태와의 사이의 형이상학적·존재론적 관계를, 극히 비근한 비유에 의해 능숙하게 설명한다. 현상적 세계, 즉 천태 만상의 것의 세계의 현출에 있어서 언어의 의미 분절 기능이 하는 역할이 베단타 철학에서는 어떠한 것으로 생각되고 있는가 하는 것은, 더 이상, 다언을 필요로 하지 않고 하고 분명할 것이다.

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 마지막으로, 지금까지 말해 온 사상 전통과는 전혀 계통이 다른 인격 일신교적 계시 종교(이슬람)의 컨텍스트에 있어서, 언어적 분절의 개념이, 형이상학적으로 어떻게 추구하는 일을 하고 있는지,에 대해 한마디 하고, 「존재분절・의미분절」을 주제로 하는 본장을 맺기로 하자. 적이라고 불리는 철학 사상의 창출기에 들어가는 것으로, 창조성 풍부한 이 시기의 발단을 묘사하는 철학자, 이브누르아라비 Ibn al-`Arabī의, 「존재 일성론」으로서 세상에 유명한 형이상학을 여기서는 이슬람 철학 사상의 대표로 다루기로 한다).

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 이슬람이라고 말하면, 사람은 곧 유일하게 절대의 인격신, 알라의 이름을 기억한다. 그것이 상식이다. 이슬람을 신봉하지 않은 이교도의 경우뿐만 아니라, 보통 일반 이슬람교도에서도 그대로. 전 존재세계를 창조하고 지배하며, 스스로 존재 그 자체인 하나님은 알라를 대처해 밖에는 없다. 이슬람에서는, 정통적 신학(=교의학)의 사상도 철학적 사유도, 아무렇지도 않게 존재라든지 실재라든지를 운운하는 한, 존재성·실재성의 궁극의 경위를 반드시 신 알라로 한다. 매우 당연한 일이며, 굳이 의문을 제출하기에는 맞지 않는다고 누구나 생각한다.


 그러나 같은 이슬람의 정통파적 철학에서도 이브누 르 아라비의 '존재 일성론'(waḥda al-wujūd) 등이 되면 문제는 갑자기 복잡해진다. 종교와 신앙의 코토바가 하나님이라고 부르는 것을, 그는 철학의 코토바 차원에서 “존재우지유드(wujūd)라고 부르고, 게다가 이 「존재」의 궁극위를, 프로티노스의 「한자」와 같이 존재의 그분에게 둔다. 프로티노스적 「실재성과 사고의 그분」은, 그대로 이브누르아라비의 「존재」에 해당되는, 그것이 존재의 그분이면서, 게다가 전 존재 세계의 태원인 점에서도.
 무명 무상, 그것은 일체의 「… "신이다"라고조차 말할 수 없다. 하나님 이전의 하나님은 평범한 의미에서 하나님이 아니기 때문입니다. 그러므로, 이브누 르 아라비에 있어서, 「존재(우지유드)」라고 하는 것도, 궁극적으로는 하나의 임시의 부정이며, 그의 생각하고 있는 절대적 진실재의 진짜 명칭은 아니다.


 이와 같이 이슬람 철학에서도 「형이상적인 것」은 그 극한적 경위에 있어서는 절대 무분절이며 일절의 코토바를 넘어 「이름」을 넘는다. 그러나, 코토바를 넘어 「이름」을 넘는 이 진실재(「존재(우지유드)」)에는, 자기현현에의 지향성이, 본원적으로 내재하고 있다. 종교적 언론으로 말한다면 '숨겨진 신'은 '표현된 신'이 되지 않고는 있을 수 없는 것이다.


 자기현현 타자리(tajalli)에의 이 원천적 지향성에 촉구되어, 무명 무상의 「존재(우지유드)」는, 점차 베다란타의 이른바 「이름나마그리고모양루퍼'의 존재 차원으로 내려온다. 그 제1단이 「알라」로서의 자기현현의 단계이다. 이것은 무분절자가 무분절성을 떠나는 첫걸음이다. 즉 코토바의 개입이 이제 이 단계부터 시작되고 있는 것이다.
 일의 진상을 알기 위해서는 우리는 '알라'라는 단어가 하나의 '이름'이라는 것을 잊지 말아야 한다. 이슬람의 정통 신학에서 "알라"를 하나님의 "가장 큰 이름이스무 아자무(ism azam)이라고 한다. 하지만, 지대하든 지나치게 높든, '이름'은 '이름'이므로, 우리가 이미 코토바의 지배권 내에 밟고 있는 것은 분명하다.


 그런데, 지금도 한마디 했던 것처럼, 「알라」는, 무명 무상의 절대적 진실재가, 「명과 형태」에 의해 자기 분절하는 최초의 단계이며, 그 뒤에 무수한 하위적 「신명 '가 출현해, 그 의미 연관 구조가, 소위 현상적 존재 세계를 만들어낸다.


 이들 무수한 '신명'(asmā Allāh) 각각의 성격과 그 상호관계를 고구하는 사상분야를 전통적인 이슬람 신학에서는 '신명론'이라고 명명하여 교리학의 중요한 과목으로 왔다. 교리학적으로 '신명'은 신적 '속성'(sifat Allāh)으로 취급된다. 하지만 현대철학적으로 다시 읽어보면 전통적인 '신명론(=알라의 여러 속성 연구)'이 결국 언어 의미적 분절론에 불과하다는 것은 지적할 필요도 없다. 그럴 것이다. 여기서 특히 주목하고 싶은 것은 이슬람 철학에서 신적 실재의 자기현현의 전체 프로세스가 '알라'를 제1단으로 하는 무수한 '신명'의 일에 의해 현성된다고 하는 것, 뒤 즉, 즉, 코토바의 개입 없이는 존재의 분절이 있을 수 없다는 것이, 역시 명료하게 주장되고 있는 점이다.


 보기, 분절론 등이라는 것에서 멀리 생각되는 인격 일신교적 계시 종교의 농밀한 분위기 가운데서, 대략 같은 생각이 성립할 수 있었다는 것──보다 구체적으로 말한다면, 유대·이슬람적 종교 특유의 이른바 신의 세계창조설을 이런 형태로 분절론적으로 다시 읽을 수 있었다는 것──는 최성기의 이슬람 사상계에 있어서의 사유의 형이상학적 충박이 얼마인지를 이야기한다 .


 무명 무상의 궁극적 초월자가, 「알라」를 제일로 하는 「신명」군을 형상상(이데아)적 통로로서, 여러가지 다양한 존재자를 분출 창출, 드디어 맹렬한 현상 세계로서 자기 현현 하기에 이르렀다고 말하는 '존재 일성론'의 철학적 사유구조를 분절론적으로 해석하여, 사실, 우리는 '살아가는 신' 알라에 대한 치열한 신앙을 뒷받침한 이슬람적 형이상학 의 진지한 얼굴을 만질 수 있는 것이 아닐까, 라고 생각한다.

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 우파니샤드 베단타 철학의 '명색론'에서도 이슬람 존재 일성론의 '신명론'으로 해도 '명'의 존재론적 중요성이 비정상적으로 강조되고 있는 것을 우리 는 보았다. 이와 같은 사상이 좀 더 단적인 형태로 앞서 언급한 '노자'의 '무명→유명'이라는 존재차원 전환의 포뮬러에 꼽혔다.


「무명」에서 「유명」으로. 「무명」은 「무」와 같다. 「노자」에 의하면, 대략 어떠한 「이름」도 갖지 않는 것은, 것이 아니다. 「이름」이 있어, 처음으로 「무」가 「유」가 되어, 거기에 처음으로 것이 출현한다. 서구의 기독교 세계에서 우아의 명명식이 하나의 엄숙한 사건임을 기억한다. 「명명」이 물건을, 정식으로, 존재의 장소에 불러내는 것이다.


'이름'이 언어적 의미분절의 표지라는 것은 더 이상 반복할 필요도 없을 것이다.


  이상, 나는 몇 가지 사상 전통을 생각해 낸 채로 채택해, 그 제창하는, 언어 의미 분절·즉·존재 분절적 형이상학의 여러가지 다른 형태를, 급하게 통관했다.


 하지만, 그렇다고 해도, 사견에 의하면, 언어 의미 분절론은 동양 철학──조금 그 대표적인 대조류의 하나──의 정수이며, 일단 이것에 대해 말하면 멈출 수 없게 될 우려가 있다 . 과감하게, 이 근처에서, 일단, 줄여, 본론의 직접적인 주제인 「기신론」의 「진여」 개념의 분절론적 구조에 이야기를 되돌리기로 하자.

원래 위치로 돌아가기↑ 훈독;진여라고 하는 것도 亦相 있는 일 없음.
원래 위치로 돌아가기↑ 『노자』에 「무명천지유시(무명은 천지의 시작)」라고 있어, 노자는 무를 천지에 앞서는 것으로 했다. 그 무기가 천지를 일으킨다고 했다.
원래 위치로 돌아가기↑ 『장자』 제물론편 제2. (가나야 치역주에서)

「남편길은 아직 시작보다 봉(호=사카이. 이통씨에 의하면 의미분절 구획)없고.말은 아직 시작보다 늘지 않아. =전을 구분하는 아제, 사카이의 뜻)있음.청한다,그 버릇을 말하지.왼쪽 있어, 오른쪽 있어,론(론)있어, 의(기)있어, 분(분)있어, 있어.경(경)있고, 쟁(그래)있음.이기심을 빚어, 팔덕과 우린.록합(리쿠고=천지와 사방의 6.우주 전체의 뜻.)의 밖은 성인은 존재하고 논하지 않고, 육합의 안은 논하고 의지하지 않고.춘추의 세상을 거치는 것은 선왕의 뜻이라면, 성인은 의하고 하지 않고. 되는 것에는, 망할 수 있는 것 있어.이와쿠, 무엇인가. 보아야 한다고.」
번역 : 도대체 길과는 원래 [무한정으로] 경계분별을 갖지 않는 것이며, 말과는 원래 일정한 의미내용을 가지지 않는 것이다. 이런 식으로 [길을 말로 표현하면 대립차별이 태어나게 된다. 그 대립 차별에 대해 말해 보자. 왼쪽이 있고 오른쪽이 있고, 이론이 서서 의가 일어나고, 분류가 있어 구별이 있어, 경쟁이 있어 싸움이 있다는 것이 그래서, 이것을 8개의 덕(──즉 길을 떠나 얻을 수 있는 것)이라고 명명한다. [거기서] 이 우주의 밖에 대해서는 성인은 그 존재를 부정하지 않지만, 그것에 대해 논의를 하지는 않는다. 또 우주 안에 대해서는 성인은 논의를 세워도 세세한 논의는 하지 않는다. 나라의 연대기로 보이는 치책이나 고대의 왕들의 기록에 대해서는, 성인은 논의는 해도 [선하고 나쁜]의 분별은 세우지 않는다. 원래 분류한다는 것은 분류하지 않는 것을 남기는 것이며, 구별한다는 것은 구별하지 않는 것을 남기는 것이다. 그것은 무엇인가? 성인은 길을 그대로 내 가슴에 담는다. 그래서 구별한다는 것은 [길에 대해] 보지 않는 곳을 남기고 있다는 것이다.
원래 위치로 돌아가기↑ 『장자』 응제왕편 제7. (가나야 치역주에서)
난카이의 황제를 슈쿠로 하고, 북해의 황제를 굶주림으로 하고, 중앙의 황제를 혼돈으로 한다. 儵과 忽과, 때로는 상(あ)이 여호와에게 渾沌의 땅에 우(あ)ふ. 혼돈 이것을 기다리는 것 심한 선(요)해. 儵과 忽과, 渾沌의 덕에 보답하는 것을 諜(唐)하고 짖는, 사람 모두 七竅(시치쿄) 있어, 그래서 시청식식한다. 독독이 있는 것 없음. 요시(마음) 미노유키를 아오이 탄토. 날에 젓가락을 쑤시고 있는데, 7일로 하고 혼돈 죽게 해.
번역 : 난카이의 황제를 황이라고 하고, 북해의 황제를 흠이라고 하며, 중앙의 황제를 혼돈이라고 한다. 함과 하악은 때때로 혼돈의 땅에서 만났지만, 혼돈은 매우 잘 그들을 대접했다. 儵과 忽은 그 혼돈의 은혜에 보답하려고 상담하고, "인간에게는 누구에게도 [눈과 귀와 코와 입의] 일곱 개의 구멍이 있고, 그래서 보거나 듣거나 먹거나 숨을 쉬고 하고 있지만, 이 혼돈만은 그것이 없다. 거기서 하루에 하나씩 열어 갔지만, 칠일이 지나면 혼돈은 죽어 버렸다. ◇인간의 유위의 현명함이 자연의 순박함을 파괴하는 것을 설한다. 「혼돈, 시치쿄(시치쿄)에 죽는다」라고 옛부터 유명한 우화.
그건 그렇고, 가이 야마는 "다른 힘으로 말하는 것은 의로운 것을 의롭게한다고 말할 것입니다. 죄송합니다 유즈에, 부처와 부처와의 어머니는 히나리, 범부의 가라히 히무라. 소식 (P.779 )이라고 여겨졌다. 불가사의의 서원을 인간의 유위의 사유로 하는 것은 부치를 의심하는 자력이라는 것이다.