2022/04/19

殉教 日本人は何を信仰したか : 山本 博文: 순교 일본인은 무엇을 믿었는가

Amazon.co.jp: 殉教 日本人は何を信仰したか (光文社新書) : 山本 博文: Japanese Books

殉教 日本人は何を信仰したか (光文社新書) 
Paperback Shinsho – November 17, 2009
by 山本 博文  (著)
4.4 out of 5 stars    18 ratings

260 pages
November 17, 2009
Product description
内容(「BOOK」データベースより)

桃山時代から江戸時代初期にかけて、豊臣秀吉や徳川家康といった時の権力者によってキリスト教は弾圧を受け、四千人とも言われる大量の殉教者が出た。これは世界に類を見ない特殊な出来事であるが、そもそもなぜ為政者たちは、キリスト教を厳しく弾圧しなければならなかったのか?また、宣教師や日本人キリシタンたちは、なぜ死を賭けてまで信仰に固執したのか?そこには、信仰心以外の“何か”があったのではないか?―本書では、クリスチャンだった遠藤周作氏の名著『沈黙』に加え、キリシタン迫害の様子を伝える数々の史料を批判的に読んでいくことで、「殉教」から見えてくる日本人特有の気質や死生観を明らかにしていく。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
山本/博文
1957年岡山県生まれ。東京大学文学部卒業。’82年、同大学院修了。文学博士。現在、東京大学史料編纂所教授。『江戸お留守居役の日記』(講談社学術文庫)で第40回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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Publisher ‏ : ‎ 光文社 (November 17, 2009)
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山本 博文
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4.4 out of 5 stars
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picander
4.0 out of 5 stars 神の沈黙など問わず、慶んで殉教した
Reviewed in Japan on December 3, 2009
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日本での殉教は十分覚悟のうえ、宣教師達は来日した。
弾圧への抵抗はキリスト教の美徳ではない(ゆえに島原の乱で命を落としたキリシタンは殉教ではない)。
まず、殉教は大いなる名誉であった。過酷な拷問の果て息絶えていく司祭は慶びに満ち溢れており、周囲の信者もそれをみて狂喜した。
その点で、遠藤周作の『沈黙』で神の沈黙に葛藤するロドリゴは、遠藤の歴史作家としての才能が見出した極めて近代的人物だという著者の主張は理解できる。
ただ、遠藤はそれを知った上で現代の宗教小説として殉教を描いたのだろうから、読者は改めて遠藤の炯眼にも唸らされることになる。

帯にもあるように、当時の日本の弾圧が世界史的に特異な出来事で、なぜ権力者が過酷な弾圧を加えたのか、なぜ信者たちはそれでも死を賭して信仰を守ったのか、
そこにある「信仰心以外の何か」を解説する一冊だと思って読んだが、その点についてはっきりと論を展開しているわけではない。
書いているうちに問題意識も変化したと後書きにあるし、通読してこの課題の難しさがよくわかる。
ただ、南蛮貿易の起点としてキリスト教を保護・利用するのではなく、過酷な弾圧に傾いた背景には、
異教であるはずのキリスト教が、武士道を土壌として簡単に根を張り出芽する事実に権力者の恐れたからに違いない。
一宗教の勢力拡大ではなく、武士の心の内部を徐々にキリスト教が侵食し、最終的には武士の支配する封建社会を無化する存在になると考えた権力者の恐怖は想像に難くない。
戦後、焼け野原の日本に米国の民主主義が浸透したスピードを想起するならば、当時の弾圧を愚かな排外主義だと断じることもできないだろう。
キリスト教弾圧史、殉教史としてよくまとまっており、日本人にとっての信仰と権力の関係を考える入り口だといえる。
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ソコツ
VINE VOICE
4.0 out of 5 stars 嬉々とした殉教と、遺体に群がる民衆
Reviewed in Japan on December 8, 2009
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日本キリスト教史上の最重要事件の一つ、「殉教」に関する鮮烈なイメージを提供してくれる好著。江戸時代の成立前後、武士出身者をはじめとする日本人キリシタンたちは、信仰に殉じ自らの命を放棄することを積極的に選んでいった。大義のために死を怖れない潔き武士たちのメンタリティがその背後にはあったが、しかしそうした要因だけでは説明できない強烈な殉教への情熱が、様々な殉教者たちの具体例から示唆される。50人の司祭や信徒が火刑されたという報告をうけ「再現できないほど嬉しそうな顔」をしたある司祭の話など、現代の常識からすればまさに不気味である。
また、これらの殉教者たちを「聖人」と崇め、彼らの衣服や死体を「聖遺物」として取得しご利益を得ようと奮闘する民衆信徒たちの姿も興味深い。まだ処刑前の司祭から衣服を破り取ろうとする者、火刑の火が鎮火する前に死体を奪取しようと試み大やけどを負う者、遺体に大挙して群がり官憲から追い払われる者たちなど、とにかく物すごい熱心さで「聖遺物」の獲得を希求した。こうした現世利益的な信仰のあり方は、西洋(特に中世)の民衆カトリシズムとも共通するものであり、よって民衆レベルでは西洋も日本も近似したキリスト教受容をする傾向がある、と著者は述べる。納得のいく指摘だ。
それから付記しておくと、これら近世初期頃の日本人キリシタンに見られた圧倒的な信仰熱の模様は、やはり今年刊行された浅見雅一氏の『キリシタン時代の偶像崇拝』でも論じられていたところであり、本書とあわせて読むと、この時代の「キリスト教弾圧」の真相はかなりよく理解できるようになるだろう。
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Werner W.
5.0 out of 5 stars 武士道としてのキリスト教
Reviewed in Japan on May 11, 2011
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地球の裏側から、死を覚悟で日本にやってきた宣教師たちの使命感はどれほどのものだったのか。
なぜキリシタンたちは、異国から渡ってきたばかりの教えのために、すすんで命をなげだしたのか。
遠藤周作には理解できなかった当時のキリスト教徒たちのメンタリティが、説得力をもって描かれています。
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ykozuka-22
4.0 out of 5 stars 文化の吹き溜まりと武士道の変化
Reviewed in Japan on February 16, 2012
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 その昔、遠藤周作の「沈黙」 沈黙 (新潮文庫) を読みキリスト教の伝来、浸透、そして殉教が起きた理由がもう一つ分からなかった。
本書は、その理由に迫るものであると断言する。
筆者は、読み物としての殉教ではなく、歴史的な必然と為政者の動きによる変化をも含め、殉教が起きた背景をつまびらかにし、読者の疑問に応えている。
また、武士道とも密接に関係があることも示唆している。キリスト教の殉教においては、武士が戦闘者から官僚に変化する時代とマッチしたことも大きいのではないかと感じた。
 一方で、世界の極東の位置し、海流等の理由により地球の吹き溜まりとも言える「日本」が、如何にして成立したか、如何にして他文化を取り入れ成熟していったかを思わないではいられない。私は、そこに日本の愚直なまでの真面目さと強さを感じないではいられない。
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Amazon Customer
5.0 out of 5 stars とても為になった
Reviewed in Japan on May 2, 2013
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大変為になった。本を読む事はこう言う事だ。
良い本に、安く出会って、幸福です。
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かず
2.0 out of 5 stars 日本人の神を考えさせられた
Reviewed in Japan on November 15, 2017
 「殉教者が出ると、その遺体に集まり、なんとか聖遺物を手に入れようとする民衆の姿は、信仰のゆえと考えれば納得できないわけではないが、お守りを手に入れようとする熱狂だと考えれば、これも土俗的な信仰の延長線上にあるようにも見える。」と言う。
 近世の日本人は殉教者に寄ることは、神社の神に参拝する感覚だったのだろうか。

 「キリスト教の教えは抵抗することを許していない。抵抗するどころか喜んで殺されるのが殉教である。したがって、天草・島原の一揆の犠牲者は殉教者には数えられていない」
殉教者が何とも幸せそうに死んでいく描写が多々描かれている。今のイスラムのテロも殉教者のイメージで何の咎も感じない。殉教は我々生きている限り、いい意味でも悪い意味でも永遠になくらないものだろう。
「宣教師の殉教に罵声を浴びせるような元信者が出てくるという事実を見るとき、日本人の心変わりの恐ろしさに暗澹たる気持ちになるのも事実である。遠藤周作氏は、背教者になったフェレイラに次のように言わせている。この国の者たちがあの頃信じたものは我々の神ではない。彼等の神々だった。それを私たちは長い長い間知らず、日本人が基督教徒になったと思いこんでいた"」と。
 日本人は亡くなった宣教師に罵声を浴びせる。少し前までは、宣教師に従順であったのに。変わり身が早いは第二次大戦後もそうだ。今もそうだ。あっという間に民主党から自民党支持へと。日本人には本当の信念は薄いのではないか。
「遠藤氏がフェレイラに言わせた次の言葉はどうであろうか。日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力をもっていない。日本人は人間を超えた存在を考える力も持っていない。」と。
 日本人の神はハ百神だと言われる。針供養さえある。何にでも神になる。まわりにあるものすべて神と言えようか。友達になりそうな神ばかりだ。
一方では天をもひっくり返す大いなる神がある。死後の世界は生前の行為で厳格に決められる。ぼくは、そんな神に見入ってもろいたくない。やはり、日本の神を愛する。
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Kindleユーザー
5.0 out of 5 stars 沈黙の検証
Reviewed in Japan on December 29, 2009
日本は、キリスト教の殉教者を大量に出した国。
同じアジアのキリスト教に暖かくはなかった、中国でも、韓国でも、
これほどの殉教者はでていない。
遠藤周作の”沈黙”を史料と照らし合わせ検証しつつ、
なぜ、日本で、これほど大量の殉教があったかを、
つまびらかに、、。

キリスト教の弾圧といっても、
当初は、かなり見せしめ的な要素が強く、
自分から、信者であると明らかにしなければ、殺されなかったものを、
自ら明らかにして、嬉々として殺されていった。
表向き、信仰を捨てたとしても、
信仰をもって、地をはって生きて行くのを、
潔としなかったのだろう。
武士道精神と比較して論じていた。
そして、”神の沈黙”を問題視するのは、現代人の考え方であり、
当時の人々にとっては、問題ではなかったのだ、、という事も、
ちょっと目の覚める思いだった。
時代による、考え方の違いまで、検証できるとは、、。

これからも、神は文字、言葉としては、沈黙するだろう。
どこに神の言葉を探し、納得し、
信仰し続けるのか?
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hiraku
5.0 out of 5 stars 十分知的好奇心を満たしてくれます
Reviewed in Japan on August 25, 2010
山本博文「殉教 日本人は何を信仰したか」を読了。自分の信じた宗教の為に死んでいった人々がこの日本にはたくさんいました。武士階級から民衆まで。南蛮から来た宣教師達。皆、自分の信仰を守る為に死を選んだのでした。日本の殉教者は世界的に見ても多いらしい。それはなぜか、作者は探る。

天正遣欧使節関連で読んだ書であるが、彼らが生きた安土桃山時代が理解できる。(天正遣欧使節の記述はなし)その時代背景、何故キリスト教が広まったか、何故命を賭けるまでの信仰が生まれたのか理解できる。その日本的な時代背景・精神構造があったからこその殉教であった。

鎖国・禁教が広まっても、隠れキリシタンとして信仰は生き続いた。その信仰は日本風に変化し、もはやキリスト教とはいえないものに変質していった、という最後の記述は悲しみを伴う。命を賭けて守ろうとした殉教者達との比較、そもそも日本人の信仰はキリスト教ではなかったという記述が、「極東」を感じさせずにはいられない。
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===
recluse
TOP 1000 REVIEWERVINE VOICE
3.0 out of 5 stars 大きな問題への取っ掛かり
Reviewed in Japan on November 28, 2009
16世紀から17世紀における、今では想像もできない大規模なキリスト教徒の増加というのは私にとってはいつも大きな疑問でした。この本がその答えを与えてくれるのではと思い読んでみました。読後感はこの問題のスケールの大きさです。というわけで、この作品にはこのような大きな疑問に対する明確な回答は呈示されていません。ここに展開されるのは大規模なスケールで見られた殉教という現象に対するより限定的な描写です。なぜこのような幕府側の弾圧が起きたのかに対する大きな分析はありません。殉教という現象も、むしろ武士階級のエートスがキリスト教という外的な触媒によって引き起こされたというわけです。ということになると、宣教師側の殉教に対する熱意も、そこには大きなすれ違いが根底にはあったというわけです。「終わりに」の部分では、17世紀以降の日本におけるキリスト教の土俗的な信仰化が指摘されます。そこにはキリスト教とpaganとの相互作用という普遍的なテーマが潜んでいるというわけです。著者の関心は、遠藤周作の「沈黙」という作品に触発されたものです。この「沈黙」という作品の相対化こそが著者の執筆の狙いだったのでしょうか。このささやかな狙いには成功したようです。
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MacMan
5.0 out of 5 stars 筆者の『武士と世間』を読了後に本書を手に取った
Reviewed in Japan on April 1, 2011
殉死の考えは日本のみならず人類に共通して古より根付いているが(日本ではたしか平安の頃からそうした事柄をすでに史実から読み取ることが可能だったのだと思う)、本書ではキリスト教が日本に広がり始めた時代における殉教の考えや行為に焦点を定め、過去を紐解いてくれている。当時の人々の壮絶な生き様は、今日の私たちからすると想像を絶する内容と言って良いのではないだろうか。生と死に対する普段からの接し方や理解が古今では異なることは明らかだと思う。また良いこととは何か、悪いこととは何なのか、善悪の判断基準さえをも揺るがしかねない史実の列挙と言える本書かもしれない。副題である「日本人は何を信仰したか」は、正に本書の肝なのだと思う。

新書というカテゴリーということで一般素養の育成に貢献する本書なわけだが、そのベースは念入りに調べ上げられていると思う。洋の東西における価値観の接点がどのような経緯をもって最終的に収束をし、鎖国へと結びついたのかについて判り易く、そして丁寧に解説をしてくれている。
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SGGK-K.K
4.0 out of 5 stars 「転んだ」人の記録が乏しい
Reviewed in Japan on May 23, 2011
「殉教」とは宗教の教えに従って生命を落とすことだ。本書には16〜17世紀の日本で、為政者の苛烈な弾圧に対して、宣教師やキリシタンがむしろ喜んで死刑の責苦を受けたと記述されている。その数は4千人であり、キリスト教の歴史でも例を見ない大きな弾圧だったとのこと。
しかし、当時数十万人にものぼったと言われる日本のキリシタンの総数から考えれば、「殉教」したのは少数派だ。迫害に耐え切れずに教義を捨てることを「転ぶ」と呼んだとのこと。圧倒的な人は「転ぶ」か「隠れキリシタン」となって生き延びるしかなかったと言える。私自身は、教義をまもって死んだ人の強さよりも、多くの「転んだ」人々の葛藤や弱さが知りたかった。
明治政府によって禁教令が解かれた後も、第2次世界大戦に向かう流れのなかで、日本のキリスト教団は組織や幹部の延命のために靖国神社に参拝し、戦争協力への道を進むようになった。つまり、「お国のために死ね」とは言っても、「キリストのために死ね」とは言わなかったわけだ。
「殉教」の実相に迫ろうとするなら、むしろ、「転んだ」人々に視点をあてるべきではなかったかと感じる。内容は面白いが、そこに不満を感じるので4点。
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革命人士
4.0 out of 5 stars 嬉々として死に至ったキリシタン
Reviewed in Japan on December 9, 2009
斬首の際、首を処刑人に突き出す。火あぶりの時、火の付いた小枝を自分の元へ引き上げる。禁教初期、日本のキリシタンたちは、自分こそがキリシタンだと取締りの役人に名乗りを上げ、殉教することを願い出たし、弾圧が完成するころの水責め、穴吊りなどの阿鼻叫喚の拷問にもひるむことはなかった。老人から子どもまで、「棄てる」と一言言えばすぐ縄を解かれたにもかかわらずである。この死に至る心性とはなんなのかを本書は探っている。

著者も驚いているのは、日本人ばかりではなく、宣教師たちも死を従容として受け入れている。キリスト教に対する組織的弾圧は、ローマを除けば日本くらいとのことだ。本書を読んでいると、キリシタンたちの尋常ではない意志の強さを感じる。この意志の源泉を著者は当初、武士的エートスにあると見ていたが、文献研究が進むにつれ、ヨーロッパと同様、聖遺物を初めとするキリスト教信仰のレベルが高い段階に到達していた、と著者は見る。

1次資料に依拠して書いているので。元和大殉教、24聖人など臨場感豊かに書かれている(逆に言えば、臨場感を感じる殺害シーンが続くので、恐がりな人には勧めない)。文章は極めて平易ながら、「江戸初期キリシタンの心性」という高度なテーマもしっかりフォローできている。もう少し突っ込んだ分析があってもよかったかも知れないが、本書の記述である程度はつかめる。
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순교 일본인은 무엇을 믿었는가 (광문사 신서) :
Amazon.co.jp : 순교 일본인은 무엇을 믿었습니까 (광문사 신서)

순교 일본인은 무엇을 믿었는가 (광문사 신서) 
Paperback Shinsho – November 17, 2009
by 야마모토 히로후미 (저자)
4.4 out of 5 stars 18 ratings

260 페이지
November 17, 2009
Product description
내용(「BOOK」데이터베이스에서)

모모야마 시대부터 에도 시대 초기에 걸쳐 도요토미 히데요시와 도쿠가와 이에야스 같은 때의 권력자에 의해 기독교는 탄압을 받아 4천명이라고도 불리는 대량의 순교자가 나왔다. 이것은 세계에 유례없는 특별한 사건이지만, 원래 왜 정자들은 기독교를 엄격히 탄압해야했는가? 신앙에 고집했는가? 거기에는, 신앙심 이외의 “무언가”가 있었던 것이 아닌가?―본서에서는, 기독교인이었던 엔도 주작씨의 명저『침묵』에 가세해, 그리스도 박해의 모습을 전한다 수많은 사료를 비판적으로 읽어 가는 것으로 순교에서 보이는 일본인 특유의 기질과 사생관을 밝혀 간다.
저자 약력 (「BOOK 저자 소개 정보」에서)
야마모토/히로부미
1957년 오카야마현 출생. 도쿄 대학 문학부 졸업. '82년, 동 대학원 수료. 문학 박사. 현재, 도쿄 대학 사료 편찬소 교수. 「에도 유머 거역의 일기」(코단샤 학술 문고)에서 제40회 일본 에세이스트·클럽상을 수상 (본 데이터는 이 서적이 간행된 당시에 게재되고 있던 것입니다)
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야마모토 히로부미
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4.4 out of 5 stars
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picander
4.0 out of 5 stars
Reviewed in Japan on December 3, 2009
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일본에서의 순교는 충분히 각오 후, 선교사들은 일본에 왔다.
탄압에 대한 저항은 기독교의 미덕이 아니다(따라서 시마바라의 난으로 목숨을 잃은 그리스도인은 순교가 아니다).
우선 순교는 큰 명예였다. 가혹한 고문의 한숨 끊어져 가는 사제는 경이로움이 넘치고 있어 주위의 신자도 그것을 보고 광희했다.
그 점에서 엔도 주작의 '침묵'에서 하나님의 침묵에 갈등하는 로드리고는 엔도의 역사 작가로서의 재능이 발견한 극히 근대적 인물이라는 저자의 주장은 이해할 수 있다.
다만, 엔도는 그것을 알고 현대 종교 소설로서 순교를 그렸을 것이기 때문에, 독자는 다시 엔도의 안구에도 씹히게 된다.

띠에도 있듯이 당시 일본의 탄압이 세계사적으로 특이한 사건으로 왜 권력자가 가혹한 탄압을 가했는지, 왜 신자들은 그래도 죽음을 내고 신앙을 지켰는지,
거기에 있는 「신앙심 이외의 무엇인가」를 해설하는 1권이라고 생각해 읽었지만, 그 점에 대해서 분명히 논을 전개하고 있는 것은 아니다.
쓰고 있는 동안 문제 의식도 변화했다고 후기에 있고, 통독해 이 과제의 어려움을 잘 알 수 있다.
다만, 남만 무역의 기점으로서 기독교를 보호·이용하는 것이 아니라, 가혹한 탄압에 기울어진 배경에는,
이교일 것인 기독교가 무사도를 토양으로 쉽게 뿌리를 내고 출아하는 사실에 권력자의 두려움 때문임에 틀림없다.
일종교의 세력 확대가 아니라, 무사의 마음의 내부를 서서히 기독교가 침식해, 결국에는 무사가 지배하는 봉건사회를 무화하는 존재가 된다고 생각한 권력자의 공포는 상상하기 어렵지 않다 .
전후, 타는 밭의 일본에 미국의 민주주의가 침투한 스피드를 상기한다면, 당시의 탄압을 어리석은 배외주의라고 단절할 수도 없을 것이다.
기독교 탄압사, 순교사로서 잘 정리되어 있어, 일본인에게 있어서의 신앙과 권력의 관계를 생각하는 입구라고 할 수 있다.
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소코츠
VINE VOICE
4.0 out of 5 stars 기쁜 순교와 시신에 몰리는 민중
Reviewed in Japan on December 8, 2009
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일본 기독교 사상의 가장 중요한 사건 중 하나인 '순교'에 관한 선명한 이미지를 제공해주는 호저. 에도시대의 성립 전후, 무사 출신자를 비롯한 일본인 그리스도인들은 신앙에 순종하여 자신의 생명을 포기하는 것을 적극적으로 선택했다. 대의 때문에 죽음을 두려워하지 않는 깨끗한 무사들의 정신이 그 뒤에는 있었지만, 그런 요인만으로는 설명할 수 없는 강렬한 순교에 대한 열정이 다양한 순교자들의 구체예에서 시사되고 있다. 한다. 50명의 사제나 신도가 ​​화형당했다는 보고를 받아 '재현할 수 없을 정도로 기쁜 듯한 얼굴'을 한 한 사제의 이야기 등 현대의 상식으로 하면 바로 섬뜩하다.
또한 이들 순교자들을 '성인'이라고 숭배하고 그들의 옷과 시체를 '성유물'로 얻고 이익을 얻으려고 분투하는 민중신도들의 모습도 흥미롭다. 아직 처형전의 사제로부터 의복을 찢어려고 하는 사람, 화형의 불이 진화하기 전에 시체를 탈취하려고 시도 큰 화상을 입은 사람, 시신에 대거해 무리 관헌으로부터 쫓겨나는 사람들 등, 어쨌든 물건 대단한 열정으로 '성유물' 획득을 희구했다. 이러한 현세 이익적인 믿음의 본연의 자세는 서양(특히 중세)의 민중 카트리시즘과도 공통되는 것이므로 민중 수준에서는 서양도 일본도 근사한 기독교 수용을 하는 경향이 있다고 저자는 말한다. 납득이 가는 지적이다.
그리고 부기해 두면, 이들 근세 초기 무렵의 일본인 키리시탄에 보여진 압도적인 신앙열의 모양은, 역시 올해 간행된 아사미 마사이치씨의 「키리시탄 시대의 우상 숭배」에서도 논해지고 있었다 그런데 본서와 함께 읽으면 이 시대의 '기독교 탄압'의 진상은 꽤 잘 이해할 수 있을 것이다.
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Werner W.
5.0 out of 5 stars 무사도로서의 기독교
Reviewed in Japan on May 11, 2011
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지구의 뒤편에서 죽음을 각오로 일본에 온 선교사들의 사명감은 어느 정도였는가.
왜 그리스도인들은 이국에서 건너온 가르침 때문에 죄송합니다.
엔도 주작에는 이해할 수 없었던 당시의 기독교인들의 멘탈리티가 설득력을 가지고 그려져 있습니다.
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ykozuka-22
4.0 out of 5 stars
Reviewed in Japan on February 16, 2012
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 그 옛날, 엔도 주작의 '침묵' 침묵(신쵸 문고)을 읽고 기독교의 전래, 침투, 그리고 순교가 일어난 이유가 또 하나 몰랐다.
이 책은 그 이유에 육박한다고 단언한다.
필자는 독서로서의 순교가 아니라 역사적인 필연과 위정자의 움직임에 의한 변화를 포함해 순교가 일어난 배경을 부드럽게 해 독자의 의문에 부응하고 있다.
또 무사도와도 밀접하게 관계가 있는 것도 시사하고 있다. 기독교 순교에 있어서는, 무사가 전투자로부터 관료로 변화하는 시대와 매치한 것도 큰 것은 아닐까 느꼈다.
 한편, 세계의 극동의 위치해, 해류 등의 이유에 의해 지구의 불어 모이기라고도 할 수 있는 「일본」이, 어떻게 해서 성립했는지, 어떻게 다른 문화를 도입해 성숙해 갔는지를 생각하지 말아 아니. 나는 거기에 일본의 어리석은까지의 진지함과 힘을 느끼지 말아야 한다.
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Amazon Customer
5.0 out of 5 stars
Reviewed in Japan on May 2, 2013
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대변위가 되었다. 책을 읽는 것은 이렇게 말하는 것이다.
좋은 책에 싸게 만나서 행복입니다.
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카즈
2.0 out of 5 stars 일본인의 신을 생각하게 했다
Reviewed in Japan on November 15, 2017
 순교자가 나오면 그 시신에 모여 어떻게든 성유물을 손에 넣으려는 민중의 모습은 믿음 때문에 납득할 수 없는 것은 아니지만 부적을 손에 넣으려는 열광 그렇다고 생각하면 이것도 토속적인 신앙의 연장선 위에 있는 것처럼 보인다.”라고 말한다.
 근세의 일본인은 순교자에게 들르는 것은, 신사의 신에 참배하는 감각이었을까.

 「기독교의 가르침은 저항하는 것을 용서하고 있지 않다. 저항하는 커녕 기꺼이 죽이는 것이 순교이다. 따라서 아마쿠사 시마바라의 일소의 희생자는 순교자에게는 세지 않고 있다」
순교자가 어떻게든 행복하게 죽어가는 묘사가 많이 그려져 있다. 지금의 이슬람 테러도 순교자의 이미지로 아무것도 느끼지 않는다. 순교는 우리 살아있는 한 좋은 의미든 나쁜 의미든지 영원히 사라지지 않을 것이다.
"선교사의 순교에 목소리를 낼 수있는 전신자가 나온다는 사실을 볼 때, 일본인의 마음 변태의 두려움에 암울한 기분이되는 것도 사실이다. 엔도 주작씨는 배교자가 되었다 나는 페레이라에게 다음과 같이 말했다.이 나라의 사람들이 그때 믿었던 것은 우리의 신이 아니다. 그들은 신이었다. 기독교도가 되었다고 생각하고 있었다" "라고.
 일본인은 죽은 선교사에게 탄성을 받게 한다. 조금 전까지는 선교사에게 순종했는데. 변신이 빠른 것은 제2차 대전 후에도 그렇다. 지금도 그렇다. 순식간에 민주당에서 자민당 지지로. 일본인에게는 진정한 신념은 얇은 것이 아닐까.
「엔도씨가 페레이라에게 말하게 한 다음 말은 어떨까. 일본인은 인간과는 완전히 격절한 신을 생각하는 능력을 가지고 있지 않다. 일본인은 인간을 넘은 존재를 생각하는 힘도 가지고 있지 않다.」 그리고.
 일본인의 신은 하백신이라고 한다. 바늘 공양조차 있다. 무엇이든 신이 된다. 주위에 있는 무슨 모두 신이라고 말할 수 있는가? 친구가 될 것 같은 신뿐이다.
한편으로는 하늘을 뒤집는 큰 신이 있다. 사후의 세계는 생전의 행위로 엄격하게 결정된다. 나는 그런 신을 보고 싶지 않다. 역시 일본의 신을 사랑한다.
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Kindle 사용자
5.0 out of 5 stars 침묵 확인
Reviewed in Japan on December 29, 2009
일본은 기독교 순교자를 대량으로 낸 나라.
같은 아시아의 기독교에 따뜻한 것은 아니었고 중국이나 한국에서도
이 정도 순교자는 나오지 않았다.
엔도 주작의 "침묵"을 사료와 비추어 검증하면서,
왜 일본에서 이렇게 많은 양의 순교가 있었는지를
부드럽게,,.

기독교의 탄압이라고 해도,
처음에는 꽤 보여주는 요소가 강하고,
자신으로부터, 신자라고 밝히지 않으면, 살해되지 않았던 것을,
스스로 밝히고, 기쁘게 죽여갔다.
앞으로 믿음을 버리더라도,
믿음으로, 땅을 쓰고 살아가는 것을,
결코 없었을 것이다.
무사도 정신과 비교해 논하고 있었다.
그리고 "하느님의 침묵"을 문제시하는 것은 현대인의 생각이며,
당시 사람들에게는 문제가 아니었던 것,
조금 깨어나는 생각이었다.
시대에 따라, 생각의 차이까지, 검증할 수 있다고는,.

앞으로도 하나님은 문자, 말로는 침묵할 것이다.
어디에 하나님의 말씀을 찾아 납득하고,
계속 믿는가?
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히라쿠
5.0 out of 5 stars 충분히 지적 호기심을 충족
Reviewed in Japan on August 25, 2010
야마모토 히로부미 「순교 일본인은 무엇을 믿었는가」를 독료. 자신이 믿은 종교를 위해 죽어간 사람들이 이 일본에는 많이 있었습니다. 사무라이 계급에서 민중까지. 남만에서 온 선교사들. 모두 자신의 믿음을 지키기 위해 죽음을 선택했던 것이었습니다. 일본 순교자는 세계적으로 봐도 많은 것 같다. 그것은 왜, 저자는 찾는다.

천정견 유럽사절 관련으로 읽은 책이지만, 그들이 살았던 안도 모모야마 시대를 이해할 수 있다. (천정견 유럽사절의 기술은 없음) 그 시대 배경, 왜 기독교가 퍼졌는지, 왜 생명을 내기까지의 신앙이 태어났는지 이해할 수 있다. 그 일본적인 시대 배경·정신 구조가 있었기 때문에 그 순교였다.

쇄국·금교가 퍼져도 숨은 그리스도인으로서 신앙은 살아났다. 그 믿음은 일본풍으로 변화해, 더 이상 기독교라고는 할 수 없는 것으로 변질해 갔다, 라고 하는 마지막 기술은 슬픔을 수반한다. 목숨을 걸어 지키려는 순교자들과의 비교, 원래 일본인의 신앙은 기독교가 아니었다는 설명이 '극동'을 느끼지 못할 수 없다.
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recluse
TOP 1000 REVIEWERVINE VOICE
3.0 out of 5 stars 큰 문제에 걸려
Reviewed in Japan on November 28, 2009
16세기부터 17세기까지, 지금은 상상도 할 수 없는 대규모 기독교인의 증가라는 것은 나에게 있어서는 항상 큰 의문이었습니다. 이 책이 그 대답을 주는 것이라고 생각해 읽어 보았습니다. 독후감은 이 문제의 스케일의 크기입니다. 그렇기 때문에 이 작품에는 이러한 큰 의문에 대한 명확한 답변은 제시되어 있지 않습니다. 여기에 전개되는 것은 대규모 스케일에서 보인 순교라는 현상에 대한 보다 한정적인 묘사입니다. 왜 이런 막부측의 탄압이 일어났는지에 대한 큰 분석은 없습니다. 순교라는 현상도 오히려 무사계급의 에이토스가 기독교라는 외부 촉매에 의해 일어났다는 것입니다. 그렇다면 선교사 측 순교에 대한 열의도 거기에는 큰 엇갈림이 근본적으로 있었다는 것입니다. 「마지막으로」의 부분에서는, 17세기 이후의 일본에 있어서의 기독교의 토속적인 신앙화가 지적됩니다. 거기에는 기독교와 pagan의 상호 작용이라는 보편적인 테마가 숨어 있다는 것입니다. 저자의 관심은, 엔도 주작의 「침묵」이라고 하는 작품에 촉발된 것입니다. 이 「침묵」이라고 하는 작품의 상대화야말로 저자의 집필의 목적이었을까요. 이 겸손한 목표에 성공한 것 같습니다.
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MacMan
5.0 out of 5 stars
Reviewed in Japan on April 1, 2011
순사의 생각은 일본뿐만 아니라 인류에 공통적으로 옛부터 뿌리 내리고 있지만 (일본에서는 확실히 평안의 무렵부터 그러한 일을 이미 사실로부터 읽는 것이 가능했다고 생각한다), 본서에서는 기독교가 일본에 퍼지기 시작한 시대의 순교의 생각이나 행위에 초점을 맞추어 과거를 풀어주고 있다. 당시 사람들의 장절한 삶은 오늘의 우리에게서 하면 상상을 끊는 내용이라고 말하는 것이 좋지 않을까. 삶과 죽음에 대한 평소의 접하는 방법이나 이해가 옛날에는 다른 것은 분명하다고 생각한다. 또 좋은 것은 무엇인가, 나쁜 것은 무엇인가, 선악의 판단 기준조차도 흔들 수 있는 사실의 열거라고 할 수 있는 본서일지도 ​​모른다. 부제인 '일본인은 무엇을 믿었는가'는 바로 본서의 간이라고 생각한다.

신서라는 카테고리라고 하는 것으로 일반 소양의 육성에 공헌하는 본서인 것이지만, 그 베이스는 철저히 조사되고 있다고 생각한다. 서양의 서양에서의 가치관의 접점이 어떤 경위를 가지고 최종적으로 수렴을 하고, 쇄국으로 연결되어 있었는지에 대해 알기 쉽고, 정중하게 해설을 해주고 있다.
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SGGK-KK
4.0 out of 5 stars "넘어진" 사람의 기록이 부족하다
Reviewed in Japan on May 23, 2011
'순교'란 종교의 가르침에 따라 생명을 떨어뜨리는 것이다. 본서에는 16~17세기 일본에서 위정자의 가혹한 탄압에 대해 선교사나 그리스도인이 오히려 기꺼이 사형의 책고를 받았다고 기술되어 있다. 그 수는 4천명이며, 기독교의 역사에서도 예를 보지 않는 큰 탄압이었다는 것.
하지만 당시 수십만 명에 이르렀다고 하는 일본의 그리스도인 총수로 생각하면 '순교'한 것은 소수파다. 박해를 견디지 ​​못하고 교리를 버리는 것을 '굴려'라고 부른다는 것. 압도적인 사람은 '굴러다' 또는 '숨어 그리스도인'이 되어 살아남을 수밖에 없었다고 말할 수 있다. 나 자신은 교리를 가로질러 죽은 사람의 힘보다 많은 '굴러간' 사람들의 갈등과 약점을 알고 싶었다.
메이지 정부에 의해 금교령이 풀린 후에도 제2차 세계대전으로 향하는 흐름 속에서 일본의 기독교단은 조직이나 간부의 연명을 위해 야스쿠니 신사에 참배하고 전쟁 협력에의 길을 진행 되었다. 즉, “나라를 위해 죽어라”라고는 해도 “그리스도를 위해 죽어라”라고는 말하지 않았던 것이다.
'순교'의 실상에 다가가려고 한다면 오히려 '넘어진' 사람들에게 시점을 맞추어서는 안 됐을까 느낀다. 내용은 재미 있지만, 거기에 불만을 느끼기 때문에 4점.
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혁명인사
4.0 out of 5 stars 기쁘게 죽음
Reviewed in Japan on December 9, 2009
참수 때, 목을 처형인에 내밀었다. 불 넘치는 때, 불이 붙은 나뭇가지를 자신의 곁에 끌어 올린다. 금교 초기, 일본의 그리스도인들은 자신이 그리스도인 것으로 단속의 임원에게 자칭을 올려 순교하는 것을 바라며 탄압이 완성될 무렵의 물책, 구멍 매달기 등의 아비규환의 고문에도 흠뻑 일은 없었다. 노인으로부터 아이까지, 「버린다」라고 한마디 곧 줄을 풀렸음에도 불구하고이다. 이 죽음에 이르는 심성이란 무엇인가를 본서는 탐구하고 있다.

저자도 놀란 것은 일본인뿐 아니라 선교사들도 죽음을 종용으로 받아들이고 있다. 기독교에 대한 조직적 탄압은 로마를 제외하면 일본 정도라는 것이다. 이 책을 읽고 있으면, 그리스도인들의 심상이 아닌 의지의 힘을 느낀다. 이 의지의 원천을 저자는 당초 무사적 에이토스에 있다고 보고 있었지만, 문헌 연구가 진행됨에 따라 유럽과 마찬가지로 성유물을 비롯한 기독교 신앙의 수준이 높은 단계에 도달하고 있었다. 그리고 저자는 본다.

1차 자료에 의거해 써 있으므로. 원화대 순교, 24성인 등 현장감 풍부하게 쓰여 있다(역으로 말하면, 현장감을 느끼는 살해 장면이 계속되므로, 무서운 사람에게는 권하지 않는다). 문장은 지극히 평이면서 '에도 초기 그리스도인의 심성'이라는 고도의 테마도 제대로 팔로우할 수 있다. 좀 더 돌진한 분석이 있어도 좋았을지도 모르지만, 본서의 기술인 정도는 잡는다.
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