2023/05/23

야나기 무네요시 - 위키백과, 柳宗悅, Yanagi Sōetsu

야나기 무네요시 - 위키백과, 우리 모두의 백과사전

야나기 무네요시

위키백과, 우리 모두의 백과사전.

야나기 무네요시
출생1889년 3월 21일
도쿄
사망1961년 5월 3일
도쿄
사인병사
성별남성
국적일본
학력1913년 도쿄 제국 대학
직업민예 연구가
종교기독교

야나기 무네요시(일본어柳宗悅1889년 3월 21일 ~ 1961년 5월 3일)는 일본에서 민예운동을 일으킨 사상가이자 미술평론가, 미술사학자이다.

학습원(學習院) 고등부에 재학할 때 문예지 《시라카바》(白樺)를 만들었다. 1913년 도쿄 제국 대학 철학과를 졸업하였다. 유럽 유학 후 귀국하여 1919년에서 1923년까지 도요 대학에서 종교학 교수로 있었다. '사라지는 한 조선 건축물에 대하여'를 1922년 《개조》(改造) 9월호에 발표하는 등의 논설 활동을 했고,[1] 1924년 서울에 조선 민속 미술관을 세우고 이조 도자기 전람회를 개최했다. 한국의 전통 미술 및 공예품에 많은 관심을 기울여 이에 대한 평론 및 수집을 하였다. 한국의 미를 설명하면서 한국 민족의 특성을 심도있게 분석하였다. 민예학에 조예가 깊었는데 그 대표적인 성과가 1936년 도쿄도 메구로구에서의 민예관 설립이다. 일제 강점기 광화문 철거 당시 철거를 강력하게 반대하여 타국의 문화유산에 대한 가치와 존중을 표한 사람으로 평가받고 있다. 1984년 9월 대한민국 정부로부터 보관문화훈장을 받았다.[2]

주요 저서[편집]

  • 수공의 일본
  • 나무아미타불
  • 차(茶)와 미(美)
  • 민예 40년
  • 공예로의 길
  • 미(美)의 법문
  • 야나기 무네요시 다도논집
  • 야나기 무네요시 묘호인논집
  • 야나기 무네요시 수필집
  • 공예문화
  • 수집 이야기
  • 조선을 생각한다
  • 야나기 무네요시 선집 (전 10권)
  • 신(神)에 대하여
  • 조선과 그 예술
  • 다도와 일본의 미

각주[편집]

  1.  「韓半島침략」감추려는 日本, 《동아일보》, 1982.4.13
  2.  야나기 日民藝協會長 先親 柳宗悅씨에 주는 勳章받아, 《경향신문》, 1984.9.19

외부 링크[편집]






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柳宗悦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
柳 宗悦
(やなぎ むねよし)
Soetsu.JPG
柳宗悦
誕生1889年3月21日
日本の旗 日本
東京府麻布区市兵衛町二丁目
(現:東京都の旗 東京都港区六本木
死没1961年5月3日(72歳没)
日本の旗 日本
東京都の旗 東京都目黒区
日本民藝館西館(旧柳宗悦邸)
墓地東京都東村山市萩山町1丁目16–1 小平霊園27区13側2番
職業思想家
美学
宗教哲学
最終学歴東京帝国大学文科大学哲学科心理学専修卒業
ジャンル美学
工芸
民芸
主題英米文学
日本民芸
アイヌ沖縄朝鮮台湾の文化
文学活動白樺派
民藝運動
主な受賞歴文化功労者(1957年)
配偶者柳兼子(旧姓:中島)
子供柳宗理(長男)
柳宗玄(次男)
柳宗民(三男)
親族柳楢悦(父)
勝子(母)
嘉納治五郎(叔父、勝子の弟)
柳悦孝(甥)
石丸重治(甥)
今村成和(甥)
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柳 宗悦(やなぎ むねよし、1889年明治22年)3月21日 - 1961年昭和36年)5月3日)は、民藝運動の主唱者である、日本美術評論家宗教哲学者[1]思想家。名前はしばしば「そうえつ」と読まれ、欧文においても「Soetsu」と表記される[注 1]

宗教哲学、近代美術に関心を寄せ白樺派にも参加。芸術を哲学的に探求、日用品に美と職人の手仕事の価値を見出す民藝運動も始めた。著書に『手仕事の日本』(1948年)、『民藝四十年』(1958年)など。

来歴[編集]

誕生[編集]

1889年(明治22年)3月21日[3]東京府麻布区市兵衛町二丁目に元海軍少将柳楢悦とその妻勝子の三男として生まれる[4][5][注 2]。1891年、宗悦が2歳の時に父はインフルエンザで死去、その後は母に育てられた[6]

教育[編集]

父・柳楢悦は爵位こそなかったが、没時は発足間もない貴族院議員に在任していた[7]。1895年に宗悦は、当時は入学の際に身分の条件があった学習院の初等学科に入学[7]し、西田幾多郎にドイツ語を、神田乃武鈴木大拙に英語を学んだ[6]。また中等科時代には、英語の教師で植物学者でもあった服部他之助に度々赤城山に連れて行かれ、自然に親しみ観察眼を養った[8]

中等科に進む頃に武者小路実篤志賀直哉らと知り合い交流し、同人文芸誌白樺』の創刊を準備する[4]。学習院在学中の1909年9月には、来日しエッチング教室を開いていたバーナード・リーチを、のちの『白樺』同人仲間と訪問[9]し、リーチと宗悦ら『白樺』同人との交流が始まった[9]

1910年に高等科を卒業[4]。学習院では優等生として知られており、卒業時には明治天皇から恩賜の銀時計[10][9]を授与された。この頃に妻となる中島兼子(当時東京音楽学校で声楽を専攻)と出会い交際を重ねる[11]

1910年4月、『白樺』を創刊する[12]。創刊当時、宗悦は神学に興味を持っており、初めて『白樺』に投稿した論文は「近世における基督教神学の特色」(1910年6月号)と題されたものであった[13]。この神学、宗教への関心から、1910年10月には東京帝国大学文科大学に進学する[13]

宗教に関心がありつつも、人生問題(老、病、死など)に対する「宗教的哲学的解釈」に不満を持った宗悦は、「実験と観察に基づいた科学」としての心理学によって人生問題へ科学的な答えを出すことに期待し、大学で心理学を専攻する[13]。1911年には最初の著作『科学と人生』を出版した[13]。この書籍では、当時流行していた心霊主義の影響が見られる[13]

ロダン・ブレイクへの傾倒[編集]

のちには西洋近代美術を紹介する記事も担当しており、やがて美術の世界へと関わっていく[14]。『白樺』では、オーギュスト・ロダンなどの西洋近代美術を日本へ紹介することにも尽力した。また、イギリスの詩人で画家、神秘思想家でもあるウィリアム・ブレイクに傾倒する。

当時、宗悦を含めた白樺同人たちはロダンに傾倒していた[15]。それを象徴するように、『白樺』第1巻第8号では「ロダン第七十回誕生記念号」という特集が組まれ、宗悦もそこに「宗教家としてのロダン」という論文を発表した[15]。この『白樺』第1巻第8号と浮世絵三十点をロダンに送ったところ、1911年の9月にロダンから直筆の礼状が送られてきた[16]。その礼状の中には、ロダンが3点のブロンズ像を『白樺』へ贈るということと、デッサン展の開催の依頼が記されていた[16]。ロダンからのブロンズ像は同年12月に横浜に入港し、宗悦が受け取りに横浜まで出向き、『白樺』の同人たちのもとに届けられた[17]。この時贈られたのは「ロダン夫人胸像」、「ある小さき影」、「巴里ゴロツキの首」の3点である[18]

民藝活動へ[編集]

1913年(大正2年)、東京帝国大学文科大学哲学科心理学専修を卒業[19]。卒業論文は残されていないが、のちに宗悦自身はこの時「心理学は純粋科学たり得るか」という論題に取り組んだと述べている[20]。この時の結論は心理学は純粋科学とはなり得ないというのであり、当時の主流であった実験心理学の流れに逆らうものであった[20]。また、アカデミズムに対する違和感を覚え、のちに妻となる中島兼子に、もう2度とアカデミズムには戻りたくないと述べた手紙を送っている[20]。このような経緯により、独自の学問を形成提起していくこととなった[20]。このころからブレイクの「直観」を重視する思想に影響を受け、これが芸術と宗教に立脚する宗悦独自の思想大系の基礎となった[21]

1914年(大正3年)2月、かねてから交際していた声楽家の中島兼子と結婚[22]。結婚後、しばらく二人は離れて住んだが、同年9月に宗悦の母の弟である嘉納治五郎が、千葉我孫子に別荘と農園を構えていた縁で、同地に転居した[22][23]。やがて我孫子には志賀直哉武者小路実篤白樺派の面々が移住し、旺盛な創作活動を行った[24]。陶芸家の濱田庄司との交友もこの地ではじまる[25]

前述のロダンから贈られたブロンズ像は、宗悦が自宅で保管していた[26]。1914年、朝鮮の小学校で教鞭をとっていた浅川伯教は、ロダンの彫刻を見に宗悦の家を訪れ、その際、手土産に「李朝染付秋草文面取壺」と呼ばれる陶磁器を持参した[27]。この陶磁器を見て宗悦は形の美の感覚が最も発達した民族は古朝鮮人であると認識するようになり、朝鮮の工芸品に注目するようになる[27][14]1916年(大正5年)以降、たびたび朝鮮半島を赴き、朝鮮の古仏像や陶磁器などの工芸品に魅了された[21] [25]

1914年12月、同年4月に『白樺』に発表したブレイク論をもとに書き下ろした『ヰ(ウィ)リアム・ブレイク』(洛陽堂)を出版[28]、750頁余りの大著で、宗悦をブレイクの研究に向かわせたリーチに本書を捧げると記されている[29]。当時、ブレイクの本国イギリスにおいても、まだ本格的な研究はされておらず、宗悦が示したブレイクを「無律法主義者」として捉えるという考え方は、本書の出版の40年以上後にようやくイギリスの研究者が指摘するようになった[30]

1919年(大正8年)に東洋大学教授となり[31]1921年(大正10年)からは明治大学予科にも出講した[31]

1923年(大正12年)の関東大震災(兄・悦多を亡くした)を機に京都へ転居した。同志社大学同志社女学校専門学部[32]関西学院の講師となる[31]木喰仏に注目し、1924年から全国の木喰仏調査を行う[14][25]。民衆の暮らしのなかから生まれた美の世界を紹介するため、1925年(大正14年)から「民藝」の言葉を用い[21]、翌年、陶芸家の富本憲吉濱田庄司河井寛次郎の四人の連名で「日本民藝美術館設立趣意書」を発表した[33]。『工藝の道』(1928年刊)では「用と美が結ばれるものが工芸である」など工芸美、民藝美について説いた[21][25]

1931年(昭和6年)には、雑誌『工藝』を創刊、民藝運動の機関紙として共鳴者を増やした。1934年(昭和9年)、民藝運動の活動母体となる日本民藝協会が設立される。1936年(昭和11年)に、実業家大原孫三郎の支援により、宗悦が初代館長となり東京駒場に日本民藝館を創設した[21]。また沖縄台湾などの南西諸島の文化保護を訴えた[14]

1957年(昭和32年)秋に「民藝理論の確立・日本民藝館の設立・民藝運動の実践の業績」により、文化功労者に顕彰された[34]

晩年[編集]

晩年はリウマチ心臓発作との闘病を余儀なくされつつも、執筆活動を続けた。1961年(昭和36年)4月29日、日本民藝館で昼食・談話時に脳出血で倒れ、昏睡が続いたが、5月3日午前4時2分に逝去した[35][注 3]享年72歳。5月7日、日本民藝館で葬儀を行った。

家族[編集]

1914年大正3年)、中島兼子と結婚、兼子は近代日本を代表するアルト声楽家だった。インダストリアルデザイナー柳宗理は長男、美術史家柳宗玄は二男、園芸家の柳宗民は三男。甥(兄・悦多(よしさわ)の子)に染織家の柳悦孝、柳悦博。他に美術史家の石丸重治、法学者の今村成和がいる。

朝鮮との関わり[編集]

1916年(大正5年)、朝鮮を訪問した際に朝鮮文化に魅了された柳は、1919年(大正8年)3月1日朝鮮半島で勃発した三・一独立運動に対する朝鮮総督府の弾圧に対し、「反抗する彼らよりも一層愚かなのは、圧迫する我々である」と批判した[注 4]。当時ほとんどの日本の文化人が朝鮮文化に興味を示さない中、朝鮮美術(とりわけ陶磁器など)に注目し、朝鮮の陶磁器や古美術を収集した。1920年6月『改造』に「朝鮮の友に贈る書」を発表、総督政治の不正を詫びた。

1924年(大正13年)4月、京城(現ソウル)の景福宮緝敬堂に「朝鮮民族美術館[21]を設立した[37]。李朝時代の無名の職人によって作られた民衆の日用雑器を常設展示、それらの美の評価を促した。

朝鮮民画など朝鮮半島の美術文化にも深い理解を寄せ、京城において道路拡張のため李氏朝鮮時代の旧王宮である景福宮光化門が取り壊されそうになると、これに反対抗議する評論『失はれんとする一朝鮮建築のために』を、雑誌『改造』に寄稿した。これが多大な反響を呼び、光化門は移築保存された。

1922年(大正11年)、『朝鮮とその藝術』(叢文閣)と、『朝鮮の美術』(私家版・和装本)を、他に編著で『今も続く朝鮮の工藝』(日本民藝協会編、限定版1930年、のち新版)を出版した。

『選集 第4巻 朝鮮とその藝術』(春秋社、1954年)や、集大成『全集 第6巻 朝鮮とその藝術』(全57篇、筑摩書房、1981年)がある。

1984年9月、韓国政府から宝冠文化勲章[34]を没後授与された[38]

後年の2013年には、韓国ソウル徳寿宮美術館(国立現代美術館 徳寿宮館)で開催された「柳宗悦」展に対しては、柳の歴史的評価を明確にしていないという非難も起きた。「朝鮮を愛した日本人」と捉えるか、「植民地イデオロギーの一助」を担ったとして否定するか韓国での捉え方は未だに分かれている[39]

交流、著述活動[編集]

  • 仏教学者禅者鈴木大拙は、柳の学習院高等科時代の英語教師であり、終生師事・交流した[注 5]。柳への弔辞「柳君を憶ふ」がある[40][注 6]
  • バーナード・リーチとの交友は終生続き、各・柳の編著で『バーナード・リーチ日本絵日記』(毎日新聞社、1955年/講談社学術文庫、2002年、補訂解説水尾比呂志)、リーチ・河井寛次郎濱田庄司述『焼物の本』(共同通信社、1985年、解説水尾比呂志。日本民藝館創立50周年記念で復刻)が刊行。
    2010年代には日本民藝館学芸部編・刊で、リーチ英訳版『美の法門 The Dharma Gate of Beauty』(岡村美穂子監修、2016年)、『バーナード・リーチ作品集』(鈴木禎宏解説、筑摩書房、2012年)、英文『柳宗悦とバーナード・リーチ往復書簡』(鈴木禎宏編、2014年)が刊行された。
  • 沖縄文化を生涯にわたり紹介し、1938年〜1940年にかけ沖縄県に4度滞在調査した[注 7][41]。『選集 第5巻 沖縄の人文』、集大成『全集 第15巻 沖縄の傳統』に詳しい。『琉球の文化』(式場隆三郎と共編)、『琉球の陶器』[注 8](復刻版[42]・1995年 榕樹社/1997年 榕樹書林に改名)がある。また共編著『沖縄文化論集』(新版・角川ソフィア文庫、2022年)がある。
  • 江戸時代に全国各地を廻国し造仏活動を行い、独特の「微笑仏」を残した木喰行道や妙好人の研究を行った。特に木喰研究は柳宗悦の木食仏発見が契機となったことで知られる。江戸時代前期に諸国を行脚した円空仏に関する論考もある。前者は『選集 第9巻 木喰上人』に、後者は『全集 第7巻 木喰五行上人』に詳しい。
  • 『全集』筑摩書房は、1980年(昭和55年)から開始したが完結に全12年を費やした。著作篇は1982年(昭和57年)に第20巻刊行で結んだが、1989年(平成元年)に第21巻「書簡集」(上・中・下)が、1992年(平成4年)には第22巻「資料 その他」(上・下)を、各・1万5千円前後での分冊刊行だった。
    大量の書簡収集に加え、新たに発見された未発表の原稿作品の発掘収録、資料や年譜の編集に10年以上費やしたためである。故に全巻揃いは古書値も高価である。
  • 機関誌『月刊民藝』は、1939年(昭和14年)4月号から1946年(昭和21年)7月号まで、戦局悪化による休刊を挟み発行された。1955年(昭和30年)より日本民藝協会で再び創刊した。2008年(平成20年)に『復刻版 月刊民藝・民藝』(不二出版)が出版。
  • 和装本による機関誌「工藝」は、全120号が1931年(昭和6年)から1943年(昭和18年)にかけ(114号目まで)、休刊を挟み1946年(昭和21年)から1951年(昭和26年)まで発行された。なお熊倉功夫『民芸の発見』(角川書店)巻末に「工藝 目次総目録」を収録。

著作[編集]

生前の刊行(一般向け)
  • 『宗教とその眞理』叢文閣、1919年
  • 『宗教的奇蹟』叢文閣、1921年
  • 『宗教の理解』叢文閣、1922年、普及版1928年
  • 『朝鮮とその藝術』叢文閣、1922年
  • 『神に就て』大阪毎日新聞社、1923年、西村書店、1948年
  • 『信と美』警酷社、1925年
  • 『工藝の道』ぐろりあそさえて、1929年
  • 『工藝美論』萬里閣書房、1929年、再版『美と工藝』建設社、1934年
  • 『美術と工藝の話』章華社、1935年、桃山書院、1946年
  • 『民藝とは何か』昭和書房〈民藝叢書〉、1941年
  • 『茶と美』牧野書店、1941年、乾元社、1952年
  • 『工藝』創元選書、1941年
  • 『工藝文化』文藝春秋、1942年
  • 『私の念願』不二書房、1942年
  • 『手仕事の日本』靖文社、1948年
  • 『民と美』上下 靖文社、1948年
  • 『南無阿弥陀仏』大法輪閣、1955年[注 9]
  • 『蒐集物語』中央公論社、1956年
  • 『茶の改革』春秋社、1958年
  • 『民藝四十年』宝(寶)文館、1958年
  • 『日本の民藝』宝文館、1960年

全集・編著[編集]

  • 『柳宗悦全集』全22巻(25分冊)、筑摩書房 - 刊行形式・年度は上記参照。
    • 1.科學・宗教・藝術・初期論集、2.宗教とその眞理・宗教的奇蹟、3.宗教の理解・神に就て
    • 4.ヰ(ウィ)リアム・ブレーク、5.ブレイクとホヰ(ウィ)ットマン
    • 6.朝鮮とその藝術、7.木喰五行上人、8.工藝の道、9.工藝文化、10.民藝の立場
    • 11.手仕事の日本、12.陶磁器の美、13.民畫(画)、14.個人作家論・船箪笥、15.沖縄の傳統
    • 16.日本民藝館、17.茶の改革 随筆(Ⅰ)、18.美の法門 随筆(Ⅱ)、19.南無阿彌陀佛、20.編輯録(編集後記ほか)
    • 21.書簡集(上中下)、22.未発表論稿・資料ほか(上下)
  • 「柳宗悦選集」 全10巻日本民藝協会編、春秋社、初版1954-55年/新装版1972年(最終重刷1995年)
    • 1.工藝の道、2.手仕事の日本、3.工藝文化、4.朝鮮とその藝術、5.沖縄の人文
    • 6.茶と美、7.民と美、8.物と美、9.木喰上人、10.大津絵
  • 「柳宗悦宗教選集」 全5巻、春秋社、初版1960年(重刷1975年ほか)- 第1・3・4巻は、保存(新装)版刊、1990年
    • 1.宗教とその真理、2.宗教の理解、3.神について、4.南無阿弥陀仏・一遍上人、5.宗教随想
  • 「私版本 柳宗悦集」 全6巻、春秋社、1973-74年、第6巻・1978年 - 元版は限定本、図版多数
    • 1.美の法門、2.心、3.船箪笥、4.蒐集物語、5.丹波の古陶、6.私の念願
  • 近代日本思想大系 24 柳宗悦集」 鶴見俊輔編・解説、筑摩書房、1975年
  • 「日本民俗文化大系6 柳宗悦」 水尾比呂志編・解説、講談社、1978年
  • 「朝鮮を想う」 高崎宗司編・解説、筑摩書房〈筑摩叢書〉、1984年
  • 「柳宗悦 南無阿弥陀仏」 紀野一義編・解説、春秋社〈こころの本シリーズ〉、1984年
  • 「茶と美」 戸田勝久解説、講談社、1986年。参考文献・年譜を収録
  • 「柳宗悦 手仕事の日本」 永六輔解説、小学館〈地球人ライブラリー〉、2000年 - 以上は品切・絶版
新版選集
  • 「仏教美学の提唱 柳宗悦セレクション」 2012年
  • 「朝鮮の美 沖縄の美 柳宗悦セレクション」 2012年
  • 「柳宗悦宗教思想集成 「一」の探究」 2015年
  • 「他力の自由 浄土門仏教論集成」 2016年 - 以上は各・書肆心水

文庫判[編集]

  • 「民藝四十年」解説水尾比呂志、ワイド版も刊
  • 「手仕事の日本」解説熊倉功夫(改版2009年)、ワイド版も刊 ※(電子版あり、以下も)
  • 南無阿弥陀仏 付心偈」解説今井雅晴、ワイド版も刊
  • 「工藝文化」解説外村吉之介
  • 「新編 美の法門」 水尾比呂志編・解説
  • 「柳宗悦民藝紀行」 水尾比呂志編・解説
  • 「柳宗悦茶道論集」 熊倉功夫編・解説
  • 「柳宗悦妙好人論集」 寿岳文章編、解説中見真理
  • 「柳宗悦随筆集」 水尾比呂志編・解説 - 以上は各 岩波文庫、1984‐1996年
  • 「茶と美」 戸田勝久編・解説(2000年)上記・講談社版を改訂
  • 「工藝の道」解説水尾比呂志(2005年)
  • 民藝とは何か 大文字版」解説水尾比呂志(2006年)※
  • 「手仕事の日本」(2015年)※ - 以上は各 講談社学術文庫
  • 「柳宗悦コレクション 1 ひと」[44]、「2 もの」、「3 こころ」
日本民藝館監修、解説中見真理ほか、2010-2011年

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 「宗悦」の読みは「むねよし」が正しいが、「そうえつ」と音読みされることが多く、本人自身、英文の解説ではYanagi Soetsuとクレジットしていた。公式サイトの英文表記も Soetsu となっている[2]
  2. ^ 柳の誕生当時、父楢悦は海軍少将で退役、元老院議官であった[5]
  3. ^ 逝去後に勤行が行われ、一旦病理解剖のために飯田橋警察病院に運ばれ、その日のうちに日本民藝館に戻った[36]
  4. ^ 1919年5月11日に執筆され読売新聞に掲載された「朝鮮人を想ふ」が最初の朝鮮に関する言及(『柳宗悦全集』第六巻収録)
  5. ^ 柳宗悦から鈴木大拙へ
    先生は、絶えず希望を持ち計画を立て、いつも何か新しい仕事を企てられているが、九十歳の老齢で、この旺盛な意欲を持たれ前進して行かれるのは驚くほかはない。恐らくこれがまた、先生をして長寿を保たせているその秘訣かと思われるが、嘗てブライスが私に言ったように全くirreplacable-man(かけがえのない人)という評が大いに当たっていよう。— 柳宗悦、「かけがえのない人」<コレクション1>ちくま学芸文庫、2010年12月 ISBN 9784480093318
  6. ^ 鈴木大拙から柳宗悦へ(弔辞)
    君は天才の人であった。独創の見に富んでいた。それはこの民藝館の形の上でのみ見るべきでない。日本は大なる東洋的「美の法門」の開拓者を失った。これは日本だけの損失でない、実に世界的なものがある。まだまだ生きていて、大成されることを期待したのであったが、世の中は、そう思うようには行かぬ。大きな思想家、大きな愛で包まれている人、このような人格は、普通に死んだといっても、実は死んでいないと、自分はいつも今日のような場合に感ずるのである。不生不死ということは、寞寞寂寂ということではない。無限の創造力がそこに潜在し、現成しつつあるとの義である。これを忘れてはならぬ。これは逝けるものを弔うの言葉でなくて、実は参会の方々と共に自分を励ます言葉である。— 鈴木大拙、「柳君を憶ふ」『民藝』2013年10月号(再掲)
  7. ^ p367「1938年12月27日~1939年 1月13日」p369「1939(昭和 14)年3月~4月、同年12月~1940(昭和15)年1月、同年7月~8月」並松信久2016『柳宗悦と沖縄文化』京都産業大学論集人文科学系列第49号
  8. ^ 初刊は、昭和書房〈民藝叢書〉全6巻(1941-43年・52年)、芹沢銈介装幀。刊行書目は、第1篇「民藝とは何か」(柳の著書)、第2篇「琉球の文化」、第3篇「現在の日本民窯」(式場と共編)、第4篇「琉球の陶器」、第5篇「満洲の民藝」(本山桂川著)、戦後刊で第6篇「岡山県の民藝」(外村吉之介著)
  9. ^ 単行判表記は「南無阿彌陀佛」。特製版(限定千部)も刊行。

出典[編集]

  1. ^ "柳宗悦"ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典コトバンクより2022年1月21日閲覧
  2. ^ About the Museum”. 日本民藝館. 2019年6月11日閲覧。
  3. ^ 水尾 2004, p. 13.
  4. a b c 思想家紹介 柳宗悦”. 京都大学大学院文学研究科・文学部. 2019年6月11日閲覧。
  5. a b 中見 2013, p. 16-17.
  6. a b 中見 2013, p. 17.
  7. a b 中見 2013, p. 19.
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  14. a b c d 増田穂 (2017年2月10日). “「直観」で見る「美」――『柳宗悦と民藝運動の作家たち』展 日本民藝館職員、月森俊文氏インタビュー”. シノドス. 2017年2月10日閲覧。
  15. a b 水尾 2004, p. 54.
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  36. ^ 水尾 2004, p. 465.
  37. ^ 東京国立近代美術館編 2021, p. 250.
  38. ^ 故柳宗悦に韓国文化勲章 - 東京文化財研究所、2021年1月30日閲覧。
  39. ^ 日本人民藝運動家の『柳宗悦』展が韓国で…工芸運動の観点から再解釈 中央日報日本語版 2013.06.06
  40. ^ 『民藝』第102号(1961年6月)「柳君を憶ふ / 鈴木大拙」 p4
  41. ^ 『季刊 新沖縄文学 80号 特集 沖縄と柳宗悦』(沖縄タイムス社、1989年)に詳しい[要文献特定詳細情報]
  42. ^ 柳宗悦 編「琉球の陶器」、平良邦夫 解題「沖縄学古典叢書3」榕樹社 ISBN 4947667281。他に「琉球の文化」と「芭蕉布物語」(各・松井健 解題)が新版
  43. ^ 没後半世紀経て版権が切れ、著作の多くがAmazon Kindle版で電子出版されている。
  44. ^ 英文版「JAPANESE FOLK CRAFTS 柳宗悦コレクション」(マイケル・ブレーズ英訳、出版文化産業振興財団、2020年)がある。

参考文献[編集]

関連文献[編集]

※伝記・評論は出版年順
  • 「民芸 理論の崩壊と様式の誕生」 出川直樹、新潮社、1988年 - 批判的立場での論考
    • 新編「人間復興の工芸 「民芸」を越えて」平凡社ライブラリー、1997年

図版書・案内[編集]

  • 『民藝圖(図)鑑』全3巻、日本民藝協会(田中豊太郎)編、寶(宝)文館、1960-63年 - 監修の図版解説
    • 新版『民藝図鑑』全3巻、柳宗悦監修、ちくま学芸文庫、2023年4月-6月
  • 『柳宗悦蒐集 民藝大鑑』全5巻、筑摩書房、日本民藝館、1981-83年 - 全集図録篇での刊行
    • 1.陶・磁 、2.陶・磁 、3.染・織、4.木・漆・金、5.絵・拓・彫
  • 「柳宗悦の世界―民藝の発見とその思想」 尾久彰三監修、平凡社〈別冊太陽〉、2006年
  • 「用の美―柳宗悦コレクション」 藤森武撮影、日本民藝館監修、世界文化社、2008年、改装版2021年
    • 全2冊:日本の美/李朝と中国、西洋の美(海外編)
  • 民藝の日本―柳宗悦と『手仕事の日本』を旅する」 日本民藝館監修、筑摩書房、2017年
    • 2017年に高島屋で行った展覧会の図録も兼ねる
  • 「柳宗悦―民藝 美しさをもとめて」 日本民藝館監修、平凡社〈別冊太陽〉、2021年
  • 日本民藝館手帖」 日本民藝協会ほか監修、ダイヤモンド社、2008年 - ※以下は入門書
  • 「柳宗悦の民藝 NHK美の壷」」 日本放送出版協会、2009年
  • 「柳宗悦 民藝の旅」 平凡社〈別冊太陽 太陽の地図帖〉、2011年
    • 「手仕事の日本」で紹介された品々を、改めて写真・地図で紹介
  • もっと知りたい 柳宗悦と民藝運動」 杉山享司監修、東京美術〈アート・ビギナーズ・コレクション〉、2021年

展覧会図録[編集]

復刻版[編集]

  • 「月刊民藝」 全12巻 不二出版、別冊(解説・総目次・執筆者索引)、2008年7月と12月に発行。

映像[編集]

  • 紀伊國屋書店ビデオ 「柳宗悦 学問と情熱 評伝シリーズ12」(1999年6月、26250円)、図書館・教育機関用
    • DVD「柳宗悦 美信一如 学問と情熱」(改訂版2006年、3360円)
  • 「兼子」(妻・兼子についてのドキュメンタリー映画)

ドキュメンタリー番組[編集]

関連項目[編集]

人物[編集]

その他[編集]

外部リンク[編集]


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야나기 무네요시

출처 : 무료 백과 사전 "Wikipedia (Wikipedia)"
야나기 무네요시
(야나기 무네요시)
Soetsu.JPG
야나기 무네요시
탄생1889년 3월 21일 일본 도쿄부 아자부구 시 효에마치 니쵸메 (현: 도쿄도 미나토구 롯폰기 )
일본의 국기

도쿄도의 국기
사망1961년 5월 3일 (72세몰) 일본 도쿄도 메구로구 일본 민예관 니시칸
일본의 국기
도쿄도의 국기
묘지도쿄도 히가시무라야마 시 하기야 마쵸 1가 16–1 고다이라 영원 27구 13측 2번
직업사상가 에스테티션

종교 철학자
최종 학력도쿄 제국 대학 문과 대학 철학과 심리학 전수 졸업
장르미학
공예
민예
주제영미 문학
일본 민속 예술
아이누 · 오키나와 · 조선 · 대만 문화
문학 활동자작나무
민족 운동
주요 수상 경력문화공로자 (1957년)
배우자야나기 카네코(구성:나카지마)
어린이야나기 종리 (장남)
야나기 종겐 (차남)
야나기 종민 (3남)
친족柳楢悦(아버지) 카츠 
(어머니) 가나 지 고로 (삼촌, 카츠코의 남동생) 야나기 타카히로 ( 조카)



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야나기 무네요시 , 1889년 ( 메이지 22년) 3월 21일 - 1961년 (  와 36년) 5월 3일 )은 민예운동 의 주창자인 일본 의 미술평론가 , 종교철학 자 [1] , 사상가 . 이름은 흔히 「소에츠」라고 읽히고, 유럽문에서도 「Soetsu」라고 표기된다 [주 1] .

종교 철학, 근대 미술에 관심을 갖고 자작파에도 참가. 예술을 철학적으로 탐구, 일용품에 아름다움과 장인의 수공예 가치를 찾는 민예운동도 시작했다. 저서에 『수공의 일본』(1948년), 『민예 40년』(1958년) 등.

내력 편집 ]

탄생 편집 ]

1889년(메이지 22년) 3월 21일 [3] , 도쿄 부 아자 부구시 효에마치 니쵸메에 전 해군 소장 · 야나기 楢悦과 그 아내 카츠코의 3남으로서 태어난 [4] [5] [주 2] . 1891년 종희가 2살 때 아버지는 독감으로 사망 한 후 어머니에게 자랐다 .

교육 편집 ]

아버지·야나기 楢悦은 작위야말로 없었지만, 몰시는 발족 얼마 안되는 귀족원 의원 에 재임하고 있었다 [7] . 1895년에 무네요시는 당시 입학할 때 신분조건이 있던 학습원의 초등 학과에 입학 [7] 하고, 니시다 기타로 에게 독일어를, 간다 노부 와 스즈키 오오졸 에게 영어를 배웠다 [6] . 또한 중등과 시대에는 영어 교사로 식물학자이기도 한 핫토리 타노스케에게 자주 아카기야마에 데려가 자연스럽게 친밀감 관찰 눈을 기른 [ 8 ] .

중등과로 나아가는 무렵에 무자 코지 실 아츠시 , 시가 나오야 등과 알게 교류해, 동인 문예지시라바나」의 창간을 준비한다 [4] . 학습원 재학 중인 1909년 9월에는 일본에 와서 에칭 교실을 열고 있던 버나드 리치를, 나중의 『자작나무』 동인 동료와 방문[9]해, 리치와 종기들 『백화』 동인과  교류 가 시작되었다 [9] .

1910년에 고등과를 졸업 [4] . 학습원에서는 우등생으로 알려져 있고, 졸업시에는 메이지 천황으로부터 은사의 은 시계 [ 10] [9] 를 수여받았다. 이 무렵에 아내가 되는 나카지마 카네코(당시 도쿄 음악학교에서 성악을 전공)과 만나 교제를 거듭한다 [11] .

1910년 4월, 「자작나무」를 창간한다 [12] . 창간 당시 종희는 신학에 흥미를 갖고 있었고, 처음으로 '자작나무'에 투고한 논문은 '근세에 있어서의 기독교 신학의 특색'(1910년 6월호)이라는 제목 이었다 . 이 신학, 종교에 대한 관심으로부터, 1910년 10월에는 도쿄 제국대학 문과대학 에 진학한다 [13] .

종교에 관심이 있지만, 인생문제(노, 병, 죽음 등)에 대한 '종교적 철학적 해석'에 불만을 가진 종희는 '실험과 관찰에 기초한 과학'으로서의 심리학에 의해 인생문제 에 과학적인 응답을 낼 것으로 예상하고 대학에서 심리학을 전공한다 [13] . 1911년에는 최초의 저작 『과학과 인생』을 출판했다 [13] . 이 책에서는 당시 유행하고 있던 심령주의 의 영향을 볼 수 있다 [13] .

로댕 브레이크에 대한 기울기 편집 ]

나중에는 서양 근대 미술을 소개하는 기사도 담당하고 있으며, 이윽고 미술의 세계에 관여해 간다 [14] . '자작나무'에서는 오귀스트 로댕 등의 서양 근대 미술을 일본에 소개하는 데도 노력했다. 또 영국의 시인으로 화가, 신비사상가이기도 한 윌리엄 브레이크 에 기울인다.

당시 종희를 포함한 자작나무 동인들은 로댕에 기울고 있었다 [15] . 그것을 상징하듯, 『자작나무』 제1권 제8호에서는 「로당 제70회 탄생 기념호」라는 특집이 짜여져, 종기도 거기에 「종교가로서의 로당」이라는 논문 을 발표했다 15] . 이 『자작나무』 제1권 제8호와 우키요에 30점을 로당에게 보낸 결과, 1911년 9월에 로당으로부터 친필의 예장이 보내져 왔다[16 ] . 그 예장 중에는, 로댕이 3점의 청동상을 『자작나무』에 준다고 하는 것과, 그림전의 개최의 의뢰가 적혀 있었다[16 ] . 로댕으로부터의 청동상은 같은 해 12월에 요코하마에 입항해, 소요가 받고 요코하마까지 향해, 「자작나무」의 동인들에게 전해졌다[17 ] . 이때 주어진 것은 '로당 부인 흉상', '어느 작은 그림자', '무리 고로츠키의 목'의 3점이다 [18] .

민예 활동에 편집 ]

1913년 (타이쇼 2년), 도쿄 제국 대학 문과 대학 철학과 심리학 전수를 졸업 [19] . 졸업 논문은 남아 있지 않지만, 후에 종열 자신은 이때 「심리학은 순수 과학인가 얻는가」라는 논제에 임했다고 말하고 있다[20 ] . 이 때의 결론은 심리학은 순수 과학이 될 수 없다는 것이고, 당시의 주류였던 실험 심리학의 흐름에 반대하는 것이었다 [20 ] . 또, 아카데미즘에 대한 위화감을 기억하고 나중에 아내가 되는 나카지마 카네코에게, 또 두 번 다시 아카데미즘에는 돌아가고 싶지 않다고 말한 편지를 보내고 있다[20 ] . 이러한 경위에 의해, 독자적인 학문을 형성 제기해 가게 되었다 [20] . 이 무렵부터 브레이크의 「직관」을 중시하는 사상에 영향을 받고, 이것이 예술과 종교에 입각하는 종열 독자적인 사상대계의 기초가 되었다[21 ] .

1914년 (다이쇼 3년) 2월, 일찍부터 교제하고 있던 성악가의 나카지마 카네코 와 결혼 [22] . 결혼 후 잠시 두 사람은 멀리 살았지만, 같은 해 9월에 종기의 어머니의 동생인 가나지 고로가 치바 아손자에게 별장과 농원을 짓고 있던 인연으로 동지 로 이사 했다 [ 22 ] 23] . 이윽고 아손자에게는 시가 나오야 , 무자 코지 실 아츠라 등 자작파 의 면면이 이주해, 왕성한 창작 활동을 실시했다 [24] . 도예가의 하마다 쇼지 와의 교우도 이 땅에서 시작된다 [25] .

전술 한 로댕으로부터 주어진 청동상은 종열이 집에서 보관하고 있었다 [26] . 1914년 조선의 초등학교에서 교편을 취하고 있던 아사카와 백교는 로댕의 조각을 보며 종기의 집을 방문해 그 때 수선산에 '이조 염부 추초문면취병'이라는 도자기를 지참했다 . 27] . 이 도자기를 보고 종열은 형태의 아름다움의 감각이 가장 발달한 민족은 고조선인이라고 인식하게 되고, 조선의 공예품에 주목하게 된다[27][ 14 ] . 1916년 (다이쇼 5년) 이후 자주 한반도를 향해 조선의 고불상이나 도자기 등의 공예품에 매료되었다 [21] [25] .

1914년 12월, 같은 해 4월에 『자작나무』 에 발표한 브레이크론을 바탕으로 새로 쓴 『주(위) 리암 브레이크』(낙양당)를 출판[28 ] 종열을 브레이크의 연구로 향하게 한 리치에 본서를 바치는 것으로 기록되어 있다 [29] . 당시 브레이크의 본국 영국에서도 아직 본격적인 연구는 되지 않았고, 종희가 제시한 브레이크를 「무율법주의자」로서 파악한다는 생각은 본서의 출판 40년 이상 후에 마침내 영국 연구자가 지적하게 되었다 [30] .

1919년 (다이쇼 8년)에 동양 대학교수가 되어 [31] , 1921년 (다이쇼 10년)부터는 메이지 대학 예과 에도 출강했다 [31] .

1923년 (다이쇼 12년)의 관동 대지진 (형·에다를 잃은)을 계기로 교토에 전거했다. 도시사대학 과 도시사여학교 전문학부 [32] , 간사이 학원 강사가 된다 [31] . 목장 불 에 주목해, 1924년부터 전국의 목장불 조사를 실시한다 [14] [25] . 민중의 생활 속 에서 태어난 아름다움의 세계를 소개하기 위해, 1925  ( 다이쇼 14년)부터 「민예」의 말을 이용 21 ] 네 명의 연명으로 「일본 민예 미술관 설립 취의서」를 발표했다 [33] . '공예의 길'(1928년 간)에서는 '용과 아름다움이 연결되는 것이 공예이다' 등 공예미, 민예미에 대해 설명했다 [21] [ 25 ] .

1931년 (쇼와 6년)에는 잡지 '공예'를 창간, 민예운동 의 기관지로 공명자를 늘렸다. 1934년(쇼와 9년), 민예운동의 활동모체가 되는 일본민예협회가 설립된다. 1936년(쇼와 11년)에, 실업가 오하라 손사부로 의 지원에 의해, 소요가 초대 관장이 되어 도쿄 고마바에 일본 민예관을 창설했다 [21] . 또 오키나와 · 대만 등의 남서 제도 의 문화 보호를 호소했다 [14] .

1957년 (쇼와 32년) 가을에 “민예이론의 확립·일본민예관의 설립·민예운동의 실천의 실적”에 의해, 문화공로자에게 현창되었다 [ 34 ] .

만년 편집 ]

만년은 류마티스 와 심장 발작과 의 투병을 강요당하면서도 집필 활동을 계속했다. 1961년 (쇼와 36년) 4월 29일, 일본 민예관에서 점심·담화시에 뇌출혈로 쓰러져 혼수가 계속되었지만, 5월 3일 오전 4시 2분에 체거했다 [ 35 [주3] . 향년 72세. 5월 7일 일본 민예관에서 장례식을 했다.

가족 편집 ]

1914년 ( 다이쇼 3년), 나카지마 카네코 와 결혼, 카네코는 근대 일본을 대표하는 알토 의 성악가 였다. 인더스트리얼 디자이너 의 야나기 종리 는 장남, 미술사 가의 야나기 겐겐 은 2남, 원예가의 야나기 종민 은 3남. 조카(오빠・에다(요시사와)의 아이)에게 염직가의 야나기 타카타카 야나기 히로 히로. 그 밖에 미술사가 이시마루 시게하루 , 법학자 이마무라 세이와가 있다.

조선과의 관계 편집 ]

1916년 (다이쇼 5년), 조선을 방문했을 때에 조선 문화 에 매료된 버드나무는, 1919년 (타이쇼 8년) 3월 1일 에 한반도 에서 발발한 삼·일독립 운동 에 대한 조선총독부 의 탄압에 대해 "반항하는 그들보다 더욱 어리석은 것은 압박하는 우리이다"라고 비판했다 [주 4] . 당시 대부분의 일본 문화인이 조선문화에 흥미를 보이지 않는 가운데 조선미술 ( 특히 도자기 등)에 주목해 조선의 도자기와 고미술을 수집 했다. 1920년 6월 '개조'에 '조선의 친구에게 주는 서'를 발표, 총독 정치의 부정을 사과했다.

1924년 (타이쇼 13년) 4월, 경성 (현 서울 )의 경복궁 효경당에 「조선민족미술관[21] 을 설립했다 [37] . 이조 시대의 무명의 장인에 의해 만들어진 민중의 일용 잡기를 상설 전시, 그 아름다움의 평가를 촉구했다.

조선민화 등 한반도 의 미술문화에도 깊은 이해를 갖고 경성에서 도로확장을 위해 이씨 조선시대의 구왕궁인 경복궁 광화문이 파괴될 것 같으면 이에 반대 항의 하는 평론 『실은 영원한 한조선 건축을 위해』를 잡지『개조』에 기고했다. 이것이 엄청난 반향을 불러 광화문은 이축 보존되었다.

1922년 (다이쇼 11년), 『조선과 그 예술』(총문각)과, 『조선의 미술』(사가판·화장본)을, 그 밖에 편저로 『지금도 계속되는 조선의 공예』(일본 민예 협회  ) , 한정판 1930년, 후에 신판)를 간행했다.

'선집 제4권 조선과 그 예술'( 춘추사 , 1954년)과 집대성 '전집 제6권 조선과 그 예술'(전 57편, 쓰쿠마 서방, 1981년)이 있다.

1984년 9월, 한국 정부로부터 보관문화훈장 [34] 을 몰후 수여되었다 [38] .

후년 2013년에는 한국 서울 의 덕수궁 미술관( 국립현대미술관 덕수궁관 )에서 개최된 '야나기 무네요시'전에 대해서는 야나기의 역사적 평가를 명확히 하고 있지 않다는 비난도 일어난다. 했다. '조선을 사랑한 일본인'이라고 파악할지, '식민지 이데올로기의 일조'를 맡았다고 부정할지 한국에서의 포착 방법은 아직도 나뉘어져 있다[39 ] .

교류, 저술 활동 편집 ]

  • 불교학자· 선자  스즈키 오오츠키 는 야나기의 학습원 고등과 시대의 영어 교사이며, 종생 사사·교류했다 [주5] . 버드나무에의 조사 「야나기군을 억부」가 있다 [40] [주 6] .
  • 버나드·리치 와의 교우는 종생 계속, 각·야나기의 편저로 “버나드·리치 일본 그림 일기”(매일 신문사, 1955년/코단샤 학술 문고, 2002년, 보정 해설 미즈오 히로시 ) , 리치 · 카와이 히로 지로 · 하마다 쇼지 술 『구이의 책』( 공동 통신사 , 1985년, 해설 미즈오 히로시. 일본 민예관 창립 50주년 기념으로 복각)이 간행.
    2010년대 에는 일본 민예 관 학예부편·간에서, 리치 영역판 “미의 법문 The Dharma Gate of Beauty ”(오카무라 미호코 감수, 2016년), “버나드·리치 작품집”(스즈키 요시히로 해설 , 쓰쿠마 서방 , 2012년), 영문 『야나기 무네요와 버나드 리치 왕복 서간』(스즈키 요시히로 편, 2014년)가 간행되었다.
  • 오키나와 문화 를 평생에 걸쳐 소개하고, 1938년~1940년에 걸쳐 오키나와현 에 4번 체재 조사했다 [주7] [41] . 『선집 제5권 오키나와의 인문』, 집대성『전집 제15권 오키나와의 진통』에 자세하다. 『류큐의 문화』( 식장 류조로 와 공편), 『류큐의 도기』[주 8] (복각판 [42] ·1995년 유키수사/1997년 유키서림으로 개명)이 있다. 또 공편저 『오키나와 문화논집』(신판· 카도카와 소피아 문고 , 2022년)이 있다.
  • 에도시대에 전국 각지를 환국해 조불활동을 하고 독특한 '미소불'을 남긴 목장행도와 묘호인 연구를 실시 했다 . 특히 목장연구는 야나기 무네요시의 목식불 발견이 계기가 된 것으로 알려져 있다. 에도시대 전기 에 여러 나라를 행각 한  공불에 관한 논고도 있다. 전자는 「선집 제9권 목장 상인」에, 후자는 「전집 제7권 목장 오행 상인」에 상세하다.
  • 『전집』 쓰쿠마 서방은 1980년( 쇼와 55년)부터 시작했지만 완결에 전 12년을 보냈다. 저작권편은 1982년(쇼와 57년)에 제20권 간행으로 맺었지만, 1989년(헤이세이 원년)에 제21권 「서간집」(상・중・하)이, 1992년(2004  ) 에는 제22권 「자료 그 외」(상·하)를, 각·1만 5천엔 전후에서의 분책 간행이었다.
    대량의 서간수집에 더해 새롭게 발견된 미발표 원고작품의 발굴수록, 자료나 연보 편집에 10년 이상 지출했기 때문이다 따라서 전체 권은 고서 값도 비싸다.
  • 기관지 '월간민예'는 1939년(쇼와 14년) 4월호부터 1946년(쇼와 21년) 7월호까지 전국 악화에 의한 휴간을 끼워 발행되었다. 1955년(쇼와 30년)부터 일본민예협회 에서 다시 창간했다. 2008년(헤세이 20년)에 『복각판 월간민예・민예』(후지출판)가 출판.
  • 화장본 에 의한 기관지 「공예」 는, 전120호가 1931년(쇼와 6년)부터 1943년(쇼와 18년)에 걸쳐(114호째까지), 휴간을 끼워 1946년(쇼와 21년)부터 1951년 (쇼와 26년)까지 발행되었다. 덧붙여 구마쿠라 코오『민예의 발견』(카도카와 서점) 권말에 「공예 목차 총목록」을 수록.

저작 편집 ]

생전의 간행(일반용)
  • 『종교와 그 진리』총문각, 1919년
  • "종교의 기적" Cong Wenge, 1921
  • 『종교의 이해』 叢文閣, 1922년, 보급판 1928년
  • 『조선과 그 예술』총문각, 1922년
  • 『신에 취해』오사카 매일 신문사 , 1923년, 니시무라 서점, 1948년
  • 『신과 미』경혹사, 1925년
  • 『공예의 길』그로리 놀이조차 1929년
  • "장인의 아름다움" Wanli Pavilion Study Room, 1929, 재판 "아름다움과 장인 정신" Jianshe, 1934
  • 『미술과 공예의 이야기』 장화사, 1935년, 모모야마 서원, 1946년
  • 『민예란 무엇인가』 쇼와서방〈민예총서〉, 1941년
  • "차와 미인" 마키노 서점, 1941, Qianyuan Society, 1952
  • 1941년 Chuang Yuan의 "Craftsmanship" 선정 도서
  • "공예 문화" Wenyi Chunqiu , 1942
  • 『내 염원』 후지서방, 1942년
  • 「수공예의 일본」야스분샤, 1948년
  • 『민과 미』상하 야스분사, 1948년
  • '미나미 무아미타 불' 대법 윤각 , 1955년 [주 9]
  • 『포집 이야기』중앙 공론사 , 1956년
  • 「차의 개혁」춘추사, 1958년
  • "민속예술 40년" 보물(보물) 박물관, 1958
  • 『일본의 민예』 보문관, 1960년

전집·편저 편집 ]

  • 『야나기 무네 에이 전집』전 22권(25분권), 쓰쿠마 서방 -간행 형식·연도는 상기 참조.
    • 1.과학·종교·예술·초기 논집, 2.종교와 그 진리·종교적 기적, 3.종교의 이해·신에 취하여
    • 4. ヰ(위) 리암 브레이크, 5. 브레이크와 호ヰ(위) 트맨
    • 6. 조선과 그 예술, 7. 목장 오행 상인, 8. 공예의 길, 9. 공예문화, 10. 민예의 입장
    • 11. 수공예의 일본, 12. 도자기의 아름다움, 13. 민축(화), 14. 개인 작가론·후나 箪笥, 15. 오키나와의 조통
    • 16. 일본민예관, 17. 차의 개혁 수필(Ⅰ), 18. 미의 법문 수필(Ⅱ), 19.
    • 21.서간집(상중하), 22.미발표 논고·자료 외(상하)
  • 「야나기 무네 에이 선집」전 10권 , 일본 민예 협회 편, 춘추사 , 초판 1954-55년/신장판 1972년(최종 중쇄 1995년)
    • 1. 공예의 길, 2. 수공예 일본, 3. 공예문화, 4. 조선과 그 예술, 5. 오키나와의 인문
    • 6. 차와 아름다움, 7. 백성과 아름다움, 8. 물건과 아름다움, 9. 목장 상인, 10. 오쓰 그림
  • 「야나기 무네 에이 종교 선집」전 5권 , 춘추사, 초판 1960년(중쇄 1975년 외) - 제1·3·4권은, 보존(신장) 판간, 1990년
    • 1. 종교와 그 진리, 2. 종교의 이해, 3. 하나님에 대해, 4 .
  • 「사판책 야나기무네 에이집」 전 6권 , 춘추사, 1973-74년, 제6권·1978년 - 원판은 한정책, 도판 다수
    • 1. 아름다움의 법문, 2.心偈, 3. 船箪笥, 4. 蒐集 이야기, 5. 탄바 의 고도, 6.
  • 근대 일본 사상대계 24 야나기무네 에이집」츠루미 슌스케
  • “일본 민속 문화 대계 6 야나기 무네 에이” 미즈오 히로시편·해설, 코단샤 , 1978년
  • “조선을 생각한다” 다카사키 소지 편·해설, 쓰쿠마 서방 <쓰쿠마 총서>, 1984년
  • 「야나기무네 에난 미나미 아야 불상기노 일 의편・해설, 춘추사〈마음의 책 시리즈〉, 1984년
  • 「차와 미」도다 카츠히사 해설, 코단샤 , 1986년. 참고문헌・연보를 수록
  • 「야나기 무네 히로시 수공예의 일본」에이로쿠 스케 해설, 쇼가쿠칸〈지구인 라이브러리〉, 2000년 - 이상은 품절·절판
신판 선집
  • 「불교미학의 제창 야나기 무네요리 셀렉션」 2012년
  • 「조선의 아름다움 오키나와의 아름다움 야나기 무네 에이 셀렉션」
  • 「야나기 무네 히로시 종교 사상 집성 「이치」의 탐구」2015년
  • 「타력의 자유 정토문 불교론 집성」 2016년

문고판 편집 ]

  • 「민예 사십년」해설 미즈오 히로시 , 와이드판도 간행
  • 「수공예의 일본」해설 구마쿠라 쿄오 (개판 2009년), 와이드판도 간 ※(전자판 있어, 이하도)
  • 미나미 무아미타 불 첨부 심장」해설 이마이 마사하루 , 와이드판도 간행
  • 「공예문화」 해설 외무 라 요시노스케
  • 「신편 미의 법문」 미즈오 히로시편・해설
  • 「야나기 무네 민족 藝紀行」 미즈오 히로시 편 · 해설
  • “야나기 무네 에다 다도 논집 ” 구마쿠라 쿄오 편 · 해설
  • "야나기 무네 묘묘 호인 논집"스다케 문장편, 해설 나카미 진리
  • 「야나기 무네 히로시 필집」미즈오 히로시 편 · 해설 - 이상은 각 이와 나미 문고
  • 「차와 미」 도다 카츠히사 편 · 해설 (2000 년) 상기 · 코단 사판을 개정
  • 「공예의 길」해설 미즈오 히로시(2005년)
  • 민예 란 무엇인가 대문자판」해설 미즈오 히로시(2006년)※
  • 「수공의 일본」(2015년)※ - 이상은 각 코단샤 학술 문고
  • 「야나기 무네 에이 컬렉션 1 사람」[44] , 「2 것」, 「3 마음」
일본 민예관 감수, 해설 나카미 진리 외, 2010-2011년

각주 편집 ]

주석 편집 ]

  1. ^ 「종기」의 독해는 「무네요시」가 옳지만, 「그렇다」라고 소리 읽히는 것이 많고, 본인 자신, 영문의 해설에서는 Yanagi Soetsu와 크레딧하고 있었다. 공식 사이트의 영문 표기도 Soetsu이다 [2] .
  2. ^ 버드나무의 탄생 당시, 아버지 기념은 해군 소장 으로 퇴역, 원로원 의관 이었다 [5] .
  3. ^ 체거 후에 근행이 이루어지고 일단 병 이해부를 위해 이이다바시 경찰 병원으로 옮겨져 그 날에 일본 민예관으로 돌아왔다[36 ] .
  4.  1919년 5월 11일에 집필되어 요미우리 신문에 게재된 「조선인을 상상」이 최초의 조선에 관한 언급
  5.  야나기 무네요시에서 스즈키 오오츠키로
    선생님은 끊임없이 희망을 가지고 계획을 세우고, 언제나 뭔가 새로운 일을 기획되고 있지만, 90세의 노령으로, 이 왕성한 의욕을 가지고 전진해 가는 것은 놀랄 수밖에 없다. 아마 이것이 또, 선생님을 하고 장수를 유지하게 하고 있는 그 비결일까 생각되지만, 거짓말해 브라이스가 나에게 말한 것처럼 전혀 irreplacable-man(교환할 수 없는 사람)이라고 하는 평이 크게 맞아 가자.— 야나기 무네요시, '갈수 없는 사람' <컬렉션 1> 치쿠마 학예 문고, 2010년 12월 ISBN 
  6.  스즈키 오오츠키에서 야나기 무네요 (조사)
    너는 천재의 사람이었다. 독창의 보기가 풍부했다. 그것은 이 민예관의 모양 높은 쪽으로만 보면 안된다. 일본은 큰 동양적 '미의 법문'의 개척자를 잃었다. 이것은 일본만의 손실이 아니라 실로 세계적인 것이 있다. 아직 살아 있고, 대성화되기를 기대했지만, 세상은 그렇게 생각하지는 않는다. 큰 사상가, 큰 사랑으로 싸여 있는 사람, 이런 인격은 보통 죽었다고 해도 실은 죽지 않았다고 자신은 늘 오늘 같은 경우에 느끼는 것이다. 부생불사라는 것은 과잉 쓸쓸함이 아니다. 무한의 창조력이 거기에 잠재하고 현성하고 있다는 의이다. 이것을 잊지 말아야 한다. 이것은 굳어지는 것을 되찾는 말이 아니고, 실은 참회의 분들과 함께 자신을 격려하는 말이다.— 스즈키 오오츠키, '야나기 군을 추억' '민예' 2013년 10월호(재게시)
  7.  p367 “1938년 12월 27일~1939년 1월 13일” p369 “1939(쇼와 14)년 3월~4월, 같은 해 12월~1940(쇼와 15)년 1월, 같은 해 7월~8월 '나미마츠 노부히사 2016 '야나기 무네 에츠와 오키나와 문화' 교토 산업 대학 논집 인문 과학 계열 제 49호
  8. ^ 초간은, 쇼와 서방<민예총서>전 6권(1941-43년·52년), 세리자와 슌스케 장폐. 간행서목은, 제1편 「민예란 무엇인가」(야나기의 저서), 제2편 「류큐의 문화」, 제3편 「현재의 일본 민요」(식장과 공편), 제4편 류큐의 도기」, 제5편 「만주의 민예」( 혼야마 가쓰라가 와 저), 전후간으로 제6편 「오카야마현의 민예」(외무라 요시노 스케 저)
  9.  단독심판의 표징은 "나모아미타불"이다. 스페셜 에디션(1,000장 한정)이 발매됩니다.

출처 편집 ]

  1. ↑ "야나기 무네요시" . 브리타니카 국제대백과사전 소항목사전 . 코트뱅크 에서 2022년 1월 21일 열람 .
  2. ↑ “ About the Museum ”. 일본민예관. 2019년 6월 11일에 확인함.
  3. 미즈오 2004 , 13면.
  4. c “ 사상가 소개 야나기 무네요시 ”. 교토 대학 대학원 문학 연구과·문학부. 2019년 6월 11일 열람.
  5. b 2013년 16-17페이지 참조 .
  6. b 2013년 17페이지 참조 .
  7. b 2013년 19면 참조 .
  8. ^ 2013년 , 19–20페이지 참조 .
  9. c 2013년 , 20면.
  10. ↑ “ 관보. 1910년 04월 05일 - 국립국회 도서관 디지털 컬렉션 ”. dl.ndl.go.jp . 2022년 1월 21일 열람.
  11. 2013 , pp. 21–22 참조.
  12. ↑ 도쿄 국립 근대 미술관 편 2021 , p. 246.
  13. e 2013 , 21면.
  14. d 마스다 호 (2017년 2월 10일) . 시노도스. 2017년 2월 10일에 확인함.
  15. bMizuo 2004 , 54페이지.
  16. bMizuo 2004 , 55페이지.
  17. Mizuo 2004년 , 페이지 55-56.
  18. 미즈오 2004 , 56면.
  19. "관보" 제286호, 다이쇼 2년 7월 12일, p.312
  20. d 2013년 , 23면.
  21. ↑ f “ 민예운동의 아버지, 야나기 무네요시 ”. 일본민예협회. 2017년 2월 10일 열람.
  22. bMizuo 2004 , 76쪽.
  23. 미즈오 2004 , 85면.
  24. ↑ “ 시라카와 문학관의 연혁, 아손코시 시라카와 문학관 ”. 아손코시 홈페이지. 2017년 2월 10일에 확인함.
  25. ↑ d “ 야나기 무네요시와 일본 민예관 ”. 일본 민예관. 2017년 2월 10일에 확인함.
  26. 미즈오 2004 , 87쪽.
  27. bMizuo 2004 , 88쪽.
  28.  2013년 25쪽 참조 .
  29. 2013 , pp. 25–26 참조.
  30.  2013년 26쪽 참조 .
  31. ↑ c 야나기 무네요시 - 도몬켄 아카이브 데이터베이스
  32. ↑ 동지사 인물지 94 야나기 무네요시
  33. ↑ “ 연혁 ”. 일본민예관. 2017년 2월 10일 열람.
  34. b 2013년 40쪽 참조 .
  35. Mizuo 2004 , pp. 462–465.
  36. Mizuo 2004 , 465쪽.
  37. ↑ 도쿄 국립 현대 미술관 편 2021 , p. 250.
  38. ↑ 고야나기 무네요에 한국문화훈장 - 도쿄문화재연구소 , 2021년 1월 30일 열람.
  39. 일본인민예운동가의 『야나기 무네요시』전이 한국에서… 공예운동의 관점에서 재해석 중앙일보 일본어판 2013.06.06
  40.  『민예』 제102호(1961년 6월) 「야나기 군을 기억
  41. ^ 『계간 신 오키나와 문학 80호 특집 오키나와와 야나기 무네요시』( 오키나와 타임스 사, 1989년)에 상세한 요문헌 특정 상세 정보 ]
  42. ^ 야나기 무네요 편 「류큐의 도기」, 히라라 쿠니오 해제 「오키나와 학 고전 叢書 3」 榕樹社ISBN 4947667281그 밖에 「류큐의 문화」와 「바쇼보 천 이야기」(각·마츠이 켄 해제)가 신판
  43. ^ 몰 후 반세기 경 판권이 끊어져, 저작의 대부분이 Amazon Kindle판으로 전자 출판되고 있다.
  44.  영문판 「JAPANESE FOLK CRAFTS 야나기무네 에이 컬렉션」(마이클 블레즈 영역, 출판 문화 산업 진흥 재단, 2020년)이 있다.

참고 문헌 편집 ]

관련 문헌 편집 ]

※전기・평론은 출판년순
  • 「민예 이론의 붕괴와 양식의 탄생」 데가와 나오키, 신 시오샤 , 1988년 - 비판적 입장에서의 논고
    • 신편 「인간 부흥의 공예 「민예」를 넘어」평범사 라이브러리, 1997년

도판서·안내 편집 ]

전시회 도록 편집 ]

복각판 편집 ]

  • 「월간민예」 전 12권 후지 출판, 별책(해설·총목차·집필자 색인), 2008년 7월과 12월에 발행.

영상 편집 ]

  • 기이쿠니야 서점 비디오 “야나기 무네요 학문과 열정 평전 시리즈 12”(1999년 6월, 26250엔), 도서관·교육 기관용
    • DVD “야나기 무네요시 미신 이치요 학문과 열정”(개정판 2006년, 3360엔)
  • 「카네코」 (아내·카네코에 관한 다큐멘터리 영화)

다큐멘터리 프로그램 편집 ]

관련 항목 편집 ]

인물 편집 ]

기타 편집 ]

외부 링크 편집 ]


Yanagi Sōetsu

From Wikipedia, the free encyclopedia
Yanagi Sōetsu
Soetsu.JPG
Yanagi in 1950
NationalityJapanese
MovementMingei (Folk craft)

Yanagi Sōetsu (柳 宗悦, March 21, 1889 – May 3, 1961), also known as Yanagi Muneyoshi,[1] was a Japanese art critic,[2] philosopher, and founder of the mingei (folk craft) movement in Japan in the late 1920s and 1930s.

Personal life[edit]

Yanagi was born in 1889 to Yanagi Narayoshi, a hydrographer of the Imperial Navy and Katsuko.[3]

His son, Sori Yanagi, was a renowned industrial designer.[3]

Career[edit]

In 1916, Yanagi made his first trip to Korea out of curiosity about Korean crafts. The trip led to the establishment of the Korean Folk Crafts Museum in 1924 and the coining of the term mingei by Yanagi, potters Hamada Shōji (1894–1978) and Kawai Kanjirō (1890–1966).

His theory of the "beauty of sorrow" (悲哀の美) in Korean art has been said to have influenced the development of the Korean idea of han. Following the March First Movement, Korea's independence movement in which thousands of Koreans died at the hands of the Japanese police and military, Yanagi wrote articles in 1919 and 1920, expressing sympathy for the Korean people and appreciation for Korean art.

In 1926, the Folk Art Movement was formally declared by Yanagi. He rescued lowly pots used by commoners in the Edo and Meiji periods that were disappearing in rapidly urbanizing Japan. In 1936, the Japanese Folk Crafts Museum (Nihon Mingeikan) was established.

He was also working together with Onta ware.

Mingei theory[edit]

The philosophical pillar of mingei is "hand-crafted art of ordinary people" (民衆的工芸minshū-teki kōgei). Yanagi Sōetsu discovered beauty in everyday ordinary and utilitarian objects created by nameless and unknown craftsmen. According to Yanagi, utilitarian objects made by the common people are "beyond beauty and ugliness". Below are a few criteria of mingei art and crafts:

  • made by anonymous crafts people
  • produced by hand in quantity
  • inexpensive
  • used by the masses
  • functional in daily life
  • representative of the region in which it was produced.

Yanagi's book The Unknown Craftsman has become an influential work since its first release in English in 1972. It examines the Japanese way of viewing and appreciating art and beauty in everyday crafts that include potterylacquertextiles, and woodwork.

Yanagi was editor of Kōgei ('Crafts'), the journal of the Japanese Folk Arts Association, issued between 1931 and 1951.[4]

Legacy[edit]

In 1984, Yanagi was posthumously awarded the Bogwan Order of Cultural Merit, the first to be awarded to a non-Korean.[5]

Yanagi was a considerable influence over the likes of potter Bernard Leach, sculptor Isamu Noguchi, and architect Bruno Taut.[3]

References[edit]

  1. ^ Sōetsu and Muneyoshi are alternate readings (pronunciations) of the same Chinese characters.
  2. ^ Cotter, Holland (16 December 1994). "ART REVIEW; From Japan, Paintings To Go, but With Charm"The New York Times. Retrieved 23 July 2019.
  3. Jump up to:a b c Rawsthorn, Alice (2018). Design as an Attitude. Zurich, Switzerland: JRP | Ringier. ISBN 978-3037645215.
  4. ^ Gosling, Andrew (2011). Asian Treasures: Gems of the Written WordNational Library of Australia. p. 71. ISBN 978-0-642-27722-0.
  5. ^ 야나기 무네요시 전jungle.co.kr (in Korean). Design Jungle. Retrieved 29 September 2018.

External links[edit]