2023/05/10

稲盛和夫が「経営の神様」と呼ばれた本質的理由、「挫折続き」だから生まれた人生哲学 連載:企業立志伝|ビジネス+IT

稲盛和夫が「経営の神様」と呼ばれた本質的理由、「挫折続き」だから生まれた人生哲学 連載:企業立志伝|ビジネス+IT



稲盛和夫が「経営の神様」と呼ばれた本質的理由、「挫折続き」だから生まれた人生哲学


連載:企業立志伝
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2022年8月24日、「経営の神様」と呼ばれた稲盛和夫氏が90歳で亡くなりました。1959年、27歳で創業した京セラを、創業以来黒字経営を続ける超優良企業に育て上げ、1984年に設立した第二電電(現KDDI)は、今や「au」ブランドで知られる大企業に成長しています。さらに、「誰がやっても立て直せない」といわれたJALの再建のために、無報酬で同社の会長に就任。陣頭指揮を執りわずか3年で再生させるなど、その見事な経営手腕が「神様」と称される大きな理由です。ただし、一代で大企業を築いた経営者は他にも多くいる中、なぜ稲盛氏のもとには世界中から話を聞きたがる経営者が集まったのでしょうか。稲盛氏の人生をたどると、仕事だけでなく生きるうえで大切にしたくなる考え方が見えてきました。


経済・経営ジャーナリスト 桑原 晃弥
「経営の神様」稲盛和夫氏の軌跡に学ぶ、人生で大切にしたいこと

(Photo/Koichi Kamoshida/Getty Images)

<目次>ガキ大将だった少年時代、「挫折続きの人生」の始まり
人の2倍努力、それでも思い通りにいかない進学就職
問題だらけの会社で知った、仕事を継続するために最も重要なこと
「稲盛さんについていく」、京セラ誕生の裏に厚い人望
今は貧弱でも、日本一そして世界一に
社員との3日間に及ぶ話し合いで知った、経営理念の大切さ
「アメーバ経営」導入、稲盛流の経営手法を確立
現KDDI設立、成功に導いた「ベンチャーの意地」
不可能と言われたJAL再建、なぜ3年で実現できたのか

ガキ大将だった少年時代、「挫折続きの人生」の始まり 稲盛氏は1932年、父・畩市(けさいち)、母・キミの次男として鹿児島市で生まれています。家で小さな印刷屋を営んでいた父親は真面目な仕事ぶりで知られていましたが、稲盛氏によると「利益なき繁忙」(『ガキの自叙伝』p18)であり、子ども7人の9人家族での生活は楽ではありませんでした。

 家族は多く、両親も仕事に忙しかったことから、落ち着いて勉強する環境でもなく、両親からも「勉強せい」と言われることのなかった稲盛氏は小学校1年生の時こそ「オール甲」だったものの、以後は勉強もしないで戦争ごっこに明け暮れるガキ大将だったといいます。

 そのため鹿児島一の名門・鹿児島第一中学校を目指したものの、受験に失敗。中学は国民学校高等部に進むことになります。稲盛氏の「挫折続きのままならない人生」(『ガキの自叙伝』p14)の始まりです。

 ガキ大将だった稲盛氏にとって、昨日までの子分たちが一中の制服姿で歩くのを見るのは、とても惨めな気持ちだったといいます。さらに不運は続きます。結核の初期症状の肺浸潤にかかり、微熱の続く状態で再び鹿児島第一中学校を受験しますが、またも失敗。

 「もう就職するしかない」と進学をあきらめかけますが、担任の強い勧めもあって私立鹿児島中学校を受験、進学を果たすことになります。


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人の2倍努力、それでも思い通りにいかない進学就職 1948年、稲盛氏は鹿児島市高等学校第三部(現・玉龍高校)に進学しますが、この頃には体力もすっかり回復、中学受験で受けた屈辱をバネに、勉強に身を入れるようになります。その頃の口癖はこうです。


「俺は出来が悪いから、人の2倍努力する」

(『ど真剣に生きる』p59)


稲盛和夫氏のあゆみ

(参照:『ど真剣に生きる』) この頃、稲盛氏は父親が製造していた紙袋の行商を経験しています。大小十種類くらいの紙袋を自転車に積み、鹿児島市内の商店にとび込み営業を行います。最初はまったく相手にされませんでしたが、やがて菓子問屋を通して鹿児島市内の多くのお菓子屋さんに納品できるようになります。

 学生の商売としては上出来でしたが、「緻密に計算して値付けしていたら、収益はずっと違っていただろう」(『ガキの自叙伝』p43)と、のちになっても思い出すこともあり、この体験は「値決め」を大切にする稲盛氏の原体験にもなっています。

 病気の経験から稲盛氏は、大阪大学の医学部を目指しますが、結果は不合格。浪人する余裕はないため、地元の鹿児島大学の工学部応用化学科に進んだ稲盛氏は一生懸命に勉強に励み、担当の先生から「君なら、どの会社でも採用してもらえる」と太鼓判を押されるほどになります。しかし、当時は就職難であり、地方の新設大学の稲盛氏は東京や大阪の有名企業を受けても相手にされませんでした。

 空手をやっており、腕っぷしには自信のあった稲盛氏は、「いっそのことインテリやくざにでもなってやろうか」(『ガキの自叙伝』p51)とまで思いつめますが、最終的には担任教授の紹介で京都の碍子製造会社、松風工業への就職が決まります。

 「一生懸命がんばっていれば、いいことはあるもの」(『ど真剣に生きる』p62)が当時の稲盛氏の心境でした。

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