2023/05/11

石田梅岩(1685-1744) 日本人の心 : 薩?正邦の思想環境


石田梅岩(1685~1744)の研究にみる日本人の心 : 薩?正邦の思想環境
法政大学創立者薩?正邦生誕 150周年記念連続講演会 : 明治日本の産業と社会 :第5回講演録
著者
喜田 勲

出版者
法政大学イノベーション・マネジメント研究センタ




雑誌名

法政大学イノベーション・マネジメント研究センタ

ー ワーキングペーパーシリーズ




29


ページ

1-39


発行年

2007-03-12


URL

http://hdl.handle.net/10114/10476




WORKING PAPER SERIES



















喜田 勳

法政大学イノベーション・マネジメント研究センター 編




石田梅岩(1685~1744)の研究にみる日本人の心

-薩埵正邦の思想環境-







さったまさくに

法政大学創立者 薩埵正邦生誕 150 周年記念連続講演会

―明治日本の産業と社会―第 5 回 講演録 2006 年 5 月 20 日(土)







2007/03/12




No. 29













































The Research Institute for Innovation Management, HOSEI UNIVERSITY



WORKING PAPER SERIES

















Isao Kida











Japanese Soul in the Works of Ishida Baigan (1685-1744): How did it Influenced to Thought of Satta Masakuni





In Commemoration of the Founder of Hosei University, SATTA Masakuni and his 150th Birth Anniversary









March 12, 2007




No. 29











































The Research Institute for Innovation Management, HOSEI UNIVERSITY





















法政大学創立者・薩埵正邦生誕 150 周年記念連続講演会―明治日本の産業と社会―

第 5 回



喜田勳(上智大学文学部教授、上智社会福祉専門学校長)

「石田梅岩(1685~1744)の研究にみる日本人の心 -薩埵正邦の思想環境-」









昨日(2006年5月19日)は、薩埵正邦先生の生誕記念日で、生誕150周年のご慶事を迎えられことに対して、心からのお慶びを申し上げます。



薩埵正邦先生は、ご承知の通り、国のあり方を模索する明治の黎明期にあって、また、明治政府の政治・外交・経済・文化の諸変革・諸施策が遂行される中、弱冠24歳という齢で、1880年(明治13年)、日本最初の私立法律学校、法政大学の前身である「東京法学社」を創設されました。

翌年、1881年には、「東京法学社」を「東京法学校」と改名し、爾来、「民衆の権利擁護・学問の自由」を理念に、明治政府の専制的権力に屈することなく、「東京法学校」の一層の発展のため、学校運営はもとより、法律の教授に専念されました。その後、10年を経て、1890年、34歳の薩埵正邦先生は、現在の京都大学である京都第三高等中学校の法学部教授に迎えられ、1897年6月14日、享年42歳の若さで逝去されるまで、波乱万丈の明治における知的リーダーとしてご活躍されました。

薩埵正邦先生に見る先見性と英断、学識と情熱・博愛の精神は、人々の高く評価するところであり、敬服の念を深めるころです。また、薩埵正邦先生の生涯の意味を、ボアソナード博士から薫陶を受け、「フランス近代法の影響を受けた法学者として、近代市民原理の法秩序を基盤とした近代国家日本建設のため、その生涯を捧げた」と位置付けられています。(1)

法政大学創立者 薩埵正邦先生のこうした偉業を讃える生誕150周年記念講演に、ご指名を頂き、身に余る光栄で、遅ればせながら深く感謝申し上げます。



さて、本日の講演題目は、「石田梅岩の研究にみる日本人の心―薩埵正邦の思想的環境―」です。

皆様もご存知の通り、薩埵正邦先生は、石田梅岩(1685年 貞享2年-1744年 延享2年)

を開祖とし、その教えを「石門心学」(2)とする道統の三学舎(3)の一つ、由緒ある「時習舎」











の舎主の家系(4)で、思想的には朱子学色の強い薩埵徳軒(1778-1836 )の末裔、薩埵家の長男として誕生いたしました。

因みに、薩埵とは、菩提薩埵・菩薩の意味で、「仏に次ぐ位にあって、大勇猛心で仏道を求め、慈悲の心で衆生を救う修行者」とされています。

薩埵正邦先生は、石門心学派の系譜を辿れば、確かに、石田梅岩との繋がりを確認できます。(5)

しかし、思想的側面で、つまり、薩埵正邦先生を動かす思想の基底・生き方に、石田梅岩の根本的思想・生き方が影響を及ぼしたか、それも、「日本人の心の系譜」という側面においても位置付け得るかどうかは、将に、重要、且つ、労力を要する難解な課題です。

従いまして、本日は、頂いた演題のプロローグ、つまり、主に「石田梅岩の研究にみる

『心』」についてしかお話し得ないことを、先ず、ご了承頂きたいと存じます。



講演内容の展開順序は、第一段階として「石田梅岩とは如何なる人物であったか」、第二段階として「石田梅岩は、何を伝えようとし、思想史からみれば如何に位置付けられるのか」、最後の第三段階として、また、今後の演題解明の糸口として、「薩埵正邦の思想の基底・生き方に、石田梅岩との類似点が見出されるか」、この三点の解明に向けて論を展開していきます。



資料としては、主に、石田梅岩の「都鄙問答」を扱い、時には「倹約 齊家論」も用います。また、梅岩の門弟が著した「石田先生事跡」「石田先生語録」も参考にします。(6)





一.「石田梅岩とは如何なる人物か」 ― 次の課題への問題提起と手掛り ―

[ 敬称略 ]

「石田梅岩とは如何なる人物か」を出来る限り浮き彫りにするため、次の三つの側面からのアプローチを試みます。同時に、次の課題への問題を提起し、また、その解明の手掛りを探っていきます。

1.「石田梅岩」との出会い

2.石田梅岩の生い立ちと石門心学の概要

3.石田梅岩及び石門心学は、研究者たちによって如何に評価されているか



1.「石田梅岩」との出会い

今から、30年程前、1977年に「福岡ユネスコ協会創立30年」を記念して、福岡で「第4回九州国際文化会議」が開催されました。私は、当時、カナダ・トロント大学大学院で研究に従事し、その発表論文の構想を練っていました。テーマは「戦後経済ナショナリズムの社会学的考察」です。主題は、「戦後日本の高度経済成長を可能にした要因は何













か」の解明で、特に、「日本の社会構造と日本人の精神性の特徴」を考察していました。取り扱っていた参考文献の中には、皆様もご存知の Robert Bellah の“Tokugawa Religion”

(1956年出版)、また、James C. Abegglen の“Japanese Factory”(1958年出版)があり(7)、何れ時間を取って、別な時に、「石田梅岩」の思想を辿らねばと意識し始めました。



Robert Bellah は、「近代化の国際比較論」では、欧米型の近代化を普遍的な尺度とする立場を取っています。そして、日本の近代化の要因は、徳川時代の「社会政治体制」と「宗教的倫理」にあるとします。特に、石田梅岩の「石門心学」が日本近代化推進のための精神的淵源であると位置付けています。

また、James C. Abegglen も、Bellah と同じ立場に立って、日本の前近代的・封建的要因が、近代化推進のための役割を果したと評価しています。つまり、非合理的な価値観に基づく「日本的経営」が、西洋の合理的精神性に基づく生産技術と結合して、日本の近代化に多大な成果をもたらしたとします。Abegglen が初めて命名した「日本的経営」、それは、ご承知の通り、「生涯雇用」「人柄と学歴による採用」「業績よりも年功による処遇」「集団的意志決定と集団的責任体制」「従業員福祉の温情的配慮」等の諸制度を意味します。この制度は、18世紀初頭の大阪、京都、江戸の「大商家の家訓」等にみる組織経営に源流を辿れ、また、「石門心学」との関係を伺わせるものです。

因みに、「日本的経営」は、高度経済成長の時は、世界各国から賞賛され、経済バブル崩壊後には非合理的と非難されます。ご記憶にあるかと思いますが、企業の構造改革に当たって、「画龍点睛」と言っていたトヨタの奥田会長やキヤノンの御手洗会長が、数年前、

「日本的経営」を堅持すると公表しました。挙って、企業格付け会社は、二社のランク付けを格下げしました。しかし、両企業とも世界経済に実力を存分に発揮して、高い評価を得ています。



寄り道いたしましたが、当時、つまり、1960・70年代は、東西冷戦構造のもと、米国が世界の主導権を掌握していた時代です。民主主義、そして、資本主義は西洋に起源があり、近代化のモデルは、特に、米国であり、米国の発展が「世界を計る近代化の普遍的な尺度」とされる国際近代化論が主流を占めていました。私は、それとは異なる立場で、所謂、単系的発展論ではなく、近代化への多系的・内発的発展論の立場にありました。(そ

れぞれの国には、それぞれの歴史に基づく近代化の発展過程があり、それぞれの民族・国民の価値観によって、それぞれの文化、或いは、社会・国家体制が構築されるとの立場。)

従って、Bellah や Abegglen の業績等を踏まえながらも、日本の内発的近代化過程で重

要な役割を果たしたとされる「石田梅岩の意義・歴史的位置付け」を考察しなければと思うようになりました。



しかし、20年数年の歳月が流れ(8)、やっと、1999年から2001年、3回の夏休













みを活用して、それも、以前に決めていたテーマではなく、「石田梅岩のいう『心を知る』とは何か」、これを主題に取り組み、発表もしました。その後、再び雑務に追われ、現在に至ってます。

従いまして、私の「石田梅岩研究」は、まだその緒に就いたばかりでございます。







2.石田梅岩(1685-1744)の略歴及び石門心学の概観

石田梅岩は、日本のルネサンス、人間性が、また、知性が新たに開花する元禄の時代(1688

-1703 年)と、財政改革が迫られ近代化が芽吹く享保の時代(1716-1735 年)とを、怏々しく、

生き抜いています。当時の日本人口は、2600万人程、全国的に流通・金融システムが整備され、経済の実権が新興商人階級によって掌握される時代です。経済・文化の中枢は、大阪・京都等の上方で、石田梅岩は、こうした活力ある地域、特に、京都を中心に活躍します。



梅岩は、「敵は本能寺にあり」で知られる、明智光秀が築城した亀山城を擁します丹波国の亀山藩領内で、1685年、農家の次男として誕生します。(貞享2年9月15日、5代将軍綱

吉在位、丹波國桑田群東懸:現在京都府亀岡市東別院東懸)亀山の地名は、現在、亀岡に改名され、京

都府の西に位置し、江戸初期の豪商、御朱印船貿易でも財を成す角倉了以の生地でもあり、彼の河川・治水工事の成果で、現在、亀岡の近隣にある桂川の渡月橋や、桂川の上流の保津川下りでも親しまれる地域です。

さて、石田梅岩の家柄は、定説ですが、米の収穫が十石以下の農家で、分家が許されず、従って、梅岩は、11歳の時、京都の商家に丁稚奉公に出されます。15歳の時、奉公先の事情で一旦帰郷し、23歳の時、京都上京の呉服商・黒柳家に奉公し直し、番頭にまで取立てられます。しかし、20年近く勤めた商家黒柳家を後にします。その期間、取り立てて言えることは、梅岩は、「人間は如何に生きるべきか」、「人間とは何か」を尋ね、寝食を忘れほど、読書・勉学にも没頭していたことです。

梅岩45歳の時、1729年(8代将軍吉宗在位、享保14年)、自宅(京都車屋町通り御池上ル東側)を開放して公開講釈・講義を始めます。それも、束修(受講料)をとらず、また、女性も自由に出入りできました。

毎日、自らの修行と人々への講釈を続け、また、門弟指導のため、月毎の月次会(経書等の講釈・提出されていた策問への答書をめぐる各自の討論・工夫)を開いています。(9) 或る大火事(下岡崎村)の時には、門弟と共に消火・救助に当たり、或る米価高騰の折には、難民・窮民の救

済にも励んでいます。

梅岩53歳の時、1737年、自宅を移転し(堺町通六角下ル東側)、活動範囲も京阪地域へ広がり、その地域での連続講釈が数十日にも及んだとされます。また、その頃、商人階級の教養の高さを窺い知る所ですが、斎藤全門(商家 近江屋仁兵衛)、木村重光(商家 大喜屋家平兵













衛)、富岡以直(商家 十一屋伝兵衛)、黒杉政胤(常陸下館藩士・河内國石川郡白木邑奉行)、神戸友周(備中松山藩士)、慈音尼蒹葭(近江、江戸心学の素地を築く)、手島堵庵(商家 近江屋嘉左兵衛)等が、梅岩

の教えを会得した門人として活躍し始めます。

梅岩55歳の時、1739年(八代将軍吉宗在位、元文4年)、公開講釈・講義開始から10年を経て、問答形式で構成された「都鄙問答」全四巻を刊行します。

因みに、志賀直哉で知られる「城崎温泉」に、梅岩は門人達と共に逗留して、「都鄙問答」の最後の推敲を重ねています。粋な面も伺えますが、梅岩の経済面は、門人たちの浄財によるとされています。

梅岩60歳の時、1744年9月(吉宗在位、延享元年)には「倹約 斎家論」全二巻が版行されます。

しかし、石田梅岩は、「斎家論」が世に出た直後、9月24日、享年60歳でその独身生活の生涯を終え、東山鳥辺野(現在、京都市東山区五条坂東鳥辺山)にある延年寺(現在、廃寺)に埋葬されます。



梅岩の教えは、主に、手島堵庵によって継承され、堵庵は、その教えと組織を、所謂、

「石門心学」として整え、石門心学が日本各地に広まる基盤を築きます。特に、堵庵の高弟・中澤道二(10)は、講釈のため九州を除く5畿(畿内:山城・大和・河内・和泉・摂津)7道(全国:

畿内・東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)27カ国(当時、全国68カ国)を精力的

に巡り、石門心学の普及・浸透に尽力します。

因みに、江戸には、1780年、関東一円の拠点ともなる学舎・講舎 参前舎(日本橋通塩

町)が設立されます。こうした門人達等の活動によって、石門心学は、農民・町人・武家

社会(幕府老中・藩侯・藩士・旗本御家人等)等、各階級に広く受け容れられていきます。

石門心学の最盛期は、天明期 (1781~1788 年)以降、文化・文政期(1804~1829 年)とされますが、梅岩没後 14 年後、1830年頃(11代将軍家斉在位 天保元年)には、拠点となる心学学舎・講舎は134舎にも及び日本34カ国に点在していたとされます。



以上が、石田梅岩の生い立ち並びに石門心学の概観ですが、次の一点に着目しました。それは、梅岩が人生における大転換(商家の番頭から、「人の道」を説く識者の道を歩む)をしたこと、にです。

ここで、非常に素朴な問い、二つの問いが生まれてきます。一、何故、梅岩は大転換をしたのか。

二、何を、梅岩は伝えたのか。

その前に、次の課題「研究者によって、どのように石田梅岩と石門心学は評価されているのか」、この課題に移り、引き続き、石田梅岩という人物を紹介します。



3.石田梅岩及び石門心学の諸評価















— 思想史的視点 -

先ず、思想史的視点からはどう評価されているか、和辻哲郎、柴田実、安丸良夫、丸山真男の研究を取り上げ、探って見ます。

① 和辻哲郎 ; 「日本倫理思想史」下巻 第七篇「町人道徳と町人哲学」 岩波書店 1969年

梅岩は、「儒学の性理の説」を理解して、普遍的人間の側面(人間の究極の原理=正直)を見極めた町人道徳を展開した。しかし、その意義は、武士道徳から町人道徳を規定したのであって、武士道に代わる新たな主導的道徳ではなかった。また、日本の近代化過程(幕藩体制

の打破過程)で、石門心学は、何ら主導的役割を果す力を持ち合わせていなかったとしてい

ます。(11)



② 柴田実 ; 「石門心学」日本思想体系42 岩波書店 1971年、修正舎舎主柴田鳩翁から4代目・当時明倫舎舎主・京大教授

当時の朱子学に影響された思想家と同様に、梅岩は、人間社会と自然に通ずる「一つの秩序の存在」を認め、これを「理」として肯定的に捉えている。梅岩は「人間性の同一性を把握し、それぞれに与えられた使命をよりよく生きる基盤・より普遍的倫理を把握し、自らもそのように生きた思想家」と位置づけています。(12)



③ 安丸良夫 ; 「日本の近代化と民衆思想」 青木書店 1975年

梅岩は当時の「心の哲学」を説く思想家の一人で、その哲学は、「自己を自覚し、その内面から全構造的に変革し、統一的な一つの人格に創り直す」思想と位置付けます。また、梅岩自身を、当時の民衆の要請に応え得る自己鍛練・自己形成で鍛えぬかれた人格者・力ある存在者の一人とします。しかし、石門心学は、日本の近代化過程においては限界があり、無力であった。現在も、日本社会の未解決の課題となっている。つまり、経済的価値を志向する主体と倫理的価値を志向する主体とが、対立・分裂したままである。石門心学も、主体において経済的価値と倫理的価値を統合し得る思想ではなかったとしています。

(13)







④ 丸山真男 ; 「日本政治思想史研究」 東京大学出版会 1985年

石門心学は、「学問としての理論的価値はなく、通俗道徳としての域を出ていない」と非常に厳しい評価を下します。(14)

因みに、後述する竹中靖一は、「丸山氏は・・石門心学を論評して、原理的一貫性を欠いたものと痛罵していられるが、しかし、氏の論議は、生の体験から苦心の思索を重ねた梅岩の学問を理解しうる立場ではない」と批判します。丸山真男は、また、前述した Robert

N. Bellah の著作「徳川時代の宗教」(1957 年公刊)の書評論文(「国家学会雑誌」掲載 1958 年)でも、 Bellah 氏が取扱った主要課題 「第六章 心学とその創始者・石田梅岩」に関して、











「一番凡庸で、説得力に欠ける」と評しています。(15)



— 経済・経営学的視点 -

次に、経済・経営学的視点からどう評価されているか、竹中靖一、作道洋太郎の研究を取り上げ、探って見ます。

① 竹中靖一 (やすかず): 「石門心学の経済思想」 ミネルヴァ書房 1998年、当時 大阪明誠舎理事、

近畿大学教授

石田梅岩・心門心学の学問的特徴の一つは、「生の哲学」であり、「行の哲学」とし、特に、経済・経営学的視点からの考察を要約すると、次のように指摘しています。

江戸元禄期には、全国流通・金融決済が整備され、また商品貨幣の需給法則によって価格が決定される商業社会が確立していた。そして、熊沢蕃山・荻生徂来が指摘するように、経済機構運営の実権は、新興商人階級が掌握していた。同時に、新興商人階級は、享保の改革(1731 年)の町人抑圧政策にあって、その存在・存立の意味・意義が問われていた。将に、石門心学(天人一体の世界観・性理の形而上学を踏まえた実践哲学)は、そうした状況下にある新興町人階級の自己意識(経済・経営・経済倫理意識)を基礎づける学問と位置付けています。

特に、次の点で、新興商人階級の自己意識を確立させ、成長させていったとします。

• 万人平等の町人意識の自覚

• 商取引当事者(仁を以って相手に対応し、正直の心において万物の法に従い、倹約を以って対処する者)の一対一の対等関係の自覚

• 収支決算及び財の運用における合理的精神、

また、所有・契約関係の尊重による信用体系の確立への自覚

• 商人の職分存立の意義(「万民の心を安むる」・「福を得て万民の心を安んずれば、天下の百姓【お

おんたから】というもの」)等に関しての自覚

• 商取引の活動に携わる商家の経営理念(家法・家訓)への自覚

しかし、石門心学は、近代化推進の萌芽を宿しながら、幕藩体制の教化政策に呼応する一面もあり、時代的制約があったと指摘しています。(16) [ 但し、石門心学に関係が深い三家の家

法(斎藤家=呉服商・近江屋、杉浦家=呉服商・大黒屋、由井家=大阪船場の木綿問屋・丹波屋)は、梅岩の経営 理念の具体化として継承されたとしています。(17) ]



④ 作道洋太郎 : 「江戸商人の革新的行動―日本的経営のルーツ―」 有斐閣 1978年

「江戸時代の商家経営」 宮本又次篇『江戸時代の商家活動』 日本経営史講座・第1巻日本経済新聞社、1977年

三井・住友・鴻池・中井家の経営理念を検討し、近世江戸期商人の活動は、心学の教義

に基礎を置いている、また、石門心学の経営思想が、幕藩体制に生きる町人達に自覚と自信を与えた効果は大きいと見ています。(18) さらに、「江戸時代の商家経営」において、石門心学と近代との繋がりを指摘しています。(19)















「大阪への心学の導入は、天明五年(1785 年)三木屋太兵衛(井上宗甫)によって行なわれ、心学明誠舎に発展した。・・堵庵は梅岩が展開した思想を簡素化し、・・経済生活においてもその倫理化を主張し た。商家経営における家長の責任について・・・近代の会社概念に近い思想を示すものといえよう。(20)・・明治維新に際して、・・大阪では心学明誠舎のみ生き残った。その再興は住友の総理事小倉正恒(1875~1961年)の尽力によるところが大きい。(21) 住友は心学舎の再建とならんで、壊徳堂の再興に力を注いでいるが、それは住友の同族経営における伝統的精神を培ってきた文化基盤と密接な関係を持つものであった。」



— 宗教的視点 -

続いて、宗教的視点からどう評価されているか、柴田実、田尻祐一郎、石川謙の研究を取り上げ、探って見ます。

① 柴田実氏 : 「石門心学」 日本思想体系42 岩波書店 1971年

梅岩が学問でたどり着いたところが、神道家の所説に合致するとし、日本思想史の上で意義深いとしています。(22)

かれが学問としてはそのはじめ朱子学を基本とし、老壮や仏教にも出入りしてその思索を深めつつ、その究極にいたりついたところが期せずして中世以来の神道家の諸説に合致し、いわば伝統的なものに帰ったとみることは、日本思想史の上において特に意義深いことではないかと思うのである。



③ 田尻祐一郎 : 「通俗道徳と『神国』『日本』―石門心学と富士講をめぐって―」源 了園 玉懸 博之 共篇

『国家と宗教』日本思想史論集 思文閣出版 1992年

梅岩の〈ナショナルなもの〉を論じ、「天より生民を降すなれば、万民はことごとく天の子なり」と言いえることは、「天」が梅岩のなかに確固としてあるとし、次のように述べています。(23)

梅岩には、日本人・・だけが本来的に選民で、その意味で「神国」であり、他民族はそれから排され た異質なものだという感覚はない。三国(中国・天竺・日本)世界像に立って、天地万物日月星辰を主宰し、普遍的な人としての道徳性を付与する天照皇太神宮(=無限抱擁的な象徴)の下での生き方が問題であった。



④ 石川謙 : 「石田梅岩と『都鄙問答』」 岩波書店 1993年、スタンフォード大学・ライプチッヒ大学留学後の法政大学及び和洋女子専門学校(現在、和洋女子大学)期間中に大作「石門心學史の研

究」(岩波書店 昭和13年)執筆。第二次大戦後、社団法人「石門心学会」理事長としても活躍。





梅岩は、日本でいう「神明」と中国でいう「鬼神」を、同一の概念と同一の神格として規定しているが、それは、性を知った人の境地であるとします。(24)

わが国の神明(恐らく、ひそかに、天照皇太神を想定して神明と呼んだのであろう)を、儒教にいう鬼神と同一の概念と神格とで、規定したらしく思われます。しかし、この二者を、同一概念、同一神格として把握したのは、梅岩における学問の原理、心を得た人、性を知った人にして初めて分かる境













地であるから、「ココハ工夫アルベキ所ナリ」と付け加えています。





— 比較近代化論的視点 -

Robert N. Bellah : 「徳川時代の宗教」池田昭訳 岩波文庫 1996年

紹介した Robert N. Bellah の「石田梅岩及び石門心学の評価」に関して、少々、付け加えます。

石田梅岩及び石門心学は、徳川時代の一般民衆の生活用式とそれを統括する道徳に最も影響を及ぼしたと捉えます。そして、梅岩の生き方・説くところは、自己を含めた他の人々にも「存在の根拠=神」との合一を求め、日々の生活は「存在の根拠への合一」への「自己修養」であるとします。この梅岩の生き方・石門心学に、日本の近代化を推進させる精神性の原点があると指摘します。(25)

因みに、1985年刊行の「徳川時代の宗教」(ペパーブック版)の「まえがき」で、「近代化論」に関し、本質的過ちを犯していたことを表明します。 それは、近代化の目的を経済成長・富・権力とし、その目的遂行の手段を「存在の根拠=神」との合一、そのための「自己修養」としたところに、主客転倒・本末転倒があったとします。そして、19世紀末からの日本の宗教(特に神道・儒教等)が、軍国主義的・民族主義的国家形成に利用されたことは、同じ過に陥っていたとします。

さらに、日本の近代化の成長を可能にした真の条件が、現下、否定されていることにも危惧しています。つまり、彼の言葉ですが、「・・存在に対する慈しみは、社会行為の動 機として非常に低い価値に置かれ、富と権力の蓄積が、高い価値に位置づけられている。それによって、自然・家・地域の荒廃、家族・家庭の崩壊、集団の要求による人間尊厳の犠牲等がもたらされている」と指摘し、「・・日本が優越さを持続すると予想することは、ほとんどむつかしい」と警告しています。



以上、九人の研究者のそれぞれの学問領域(思想史的視点・経済・経営的視点・宗教的視点・比較文

化史的視点等)からの意義付け・評価を概観することで、石田梅岩を紹介してまいりました。

非常に示唆に富むもの、賛同し得るもの、疑問に思う点等があると思いますが、それぞれの研究者に対する吟味・評価は、今後の課題にしたいと思います。

只、「石田梅岩及び石門心学」に関する研究が、種々の学問的領域からアプローチされていること、このことに注目して、先ず、本題解明の手掛かりとして、次のように総括してみました。

一、「都鄙問答」及び「倹約 斉家論」は、少なくとも、哲学的・倫理的・経済学的・政 治的・宗教的領域における「意味の世界」で構成されています。

二、「意味の世界」は、石田梅岩と言う主体者の知的活動によって創造されたものです。少々、込み入った表現になりますが、「意味の世界」は、人間の知的活動を可能にする意識に基づいています。意識は「感覚的・美的・悟性的且つ理性的・倫理的・宗 教的













意識」から成り立っています。従って、「意味の世界」は、そうした意識の主体者によって創り出されたといえます。

三、梅岩の生き様・生き方は、「認識」に基づく「行為」の合一を目指し、王陽明の言葉を借りれば「知行合一」の生き様・生き方で、将に、実存的主体者としての生き方といえます。

因みに、安丸良夫が指摘するように、もし、梅岩の哲学を「自己を自覚し、その内面から全構造的に変革し、統一的な一つの人格に創り直す」思想であれば、18世紀中葉において、日本の実存的思想・哲学の誕生の兆しがあったともいえます。

以上、第一段階のテーマ「石田梅岩とは如何なる人物か」を終え、次のテーマに向かいます。





二.「石田梅岩は、何を伝えようとし、思想史からみれば如何に位置付けられるのか」



Ⅰ. 石田梅岩の「心を知る」とは

先に取り扱った竹中靖一は、「丸山氏の論議は、生の体験から苦心の思索を重ねた梅岩の学問を理解しうる立場ではない」と論破しています。また、安丸良夫は、梅岩の学問に対し、「自己を自覚し、その内面から全構造的に変革し、統一的な一つの人格に創り直す思想」と評価しています。

もし、そうであれば、「梅岩の生の体験とは何か」が、大きな問題として、浮かび上がってきます。「生の体験」の中でも、梅岩が、番頭から、日銭の足しにもならない「人の道」を説く識者になることを決意して、その道に日々精進し得た「転換を可能にした体験とは、一体何であってか」(26)が、非常に重要な課題となってきます。

この課題に関して、梅岩自身は、「都鄙問答」(27)で、「学問ノ至極(シゴク)トイフハ、心ヲ盡(ツク)シ性ヲ知リ、性ヲ知レバ天ヲ知ル。・・・心ヲ知ルトキハ天理ハ其中(ソノナカ)ニ備(ソナワ)ル」、と断言しています。そう断言できるのは、梅岩自身が、「實知(ジッチ)セズバ何ヲ以テ道ヲ説(トカ)ン」というように、「実知」したからです。

従って、梅岩における人生の転換を可能にさせた「『心を知る』とは、何か」が、これからの課題となってきます。



1.梅岩自身の転換の起因となったのは何であったのか。

梅岩の人生における転換を可能にした要因が、「心を知った」ことにあるので、従って、梅岩の内面の軌道を、時期を追って考察していきます。



① 道から心へ ― 尋ね求める梅岩―

イ)「先生廿三歳の時、京都へ登り、上京の商人何某の方へ奉公に在付給へり、はじめは神道をした













ひ志したまふは、何とぞ神道を説弘むべし、若し聞人なくば、鈴を振り、町々を廻り成とも、人の人たる道を勤めたしと願ひ給へり、かく志したまふ故、下京へ商ひに出給ふにも、書物を懐中し、少しのいとまも、心がけまなび給へり、朝は傍輩の起きざるうちに、二階の窓に向かい書を見給ひ、夜は人寝静まりて後、書をみたまい・・」(28)



ロ)「先生三十五六歳の頃まで、・・かなたこなたと師を求めたまへども、何方にても師とすべき人なしとて、年月を暦給ひしに、了雲老師にまみへ給ひ・・ 師として事へ給へり、其後は日夜 他事なく、いかんいかんと心を盡くし、工夫し給う事、一年半も過ける頃、」(29)

「此ぞと心定らず、心に合る所なく、年月これを歎しに、或所に隠遁の學者あり、此人に出會物語の上、・・汝は心を知れりとも思ふらめど、未知、學びし所雲泥の違あり。心知らずして聖 人の書を見るならば、毫釐の差千里の謬と成るべしと云へり。・・

或時彼人云、汝何の為に学問致し候や。答て云、五倫五常の道を以て、我より以下の人に、教んことを志すと云。

彼人の云、道は道心と云て心なり、子曰温故而知新。可以為師矣。故とは師より聞所、新とは我發明する所なり、發明して後は、學所我に在て、人に應ること窮なし、此を以て師と成べし。然るを汝心を知ざれば、自迷居て、且他も迷せ度候や。心は一身の主なり、身の主を知らざれば、風来者にて宿なし同然成り、・・此に於て茫然として疑を生ず・・然に疑の發はいま だ得ざると決定し、夫より他事心に不入、明暮如何々々と心を盡身も労、日を過こと一年半計なり。」

(30)







以上のことから、次のように要約し得ます。

梅岩の内面には、一つに、人の道(五倫五常の道)を歩みたい、また、人の道を他の人に教えたいという人間の行為・実践に係る強い欲求、つまり、「意志的志向性」が窺え得ます。一つに、「人の道とは何か」を知りたいとする人間の認識に係る旺盛な知的欲求、つまり、

「知的志向性」が指摘できます。

また、梅岩の知的領域において、「人の道とは何か」の問いが生まれ、回答を得るための必要な知識(データ)が整えられますが、回答を得られず、闇の状態にあります。

つまり、この一連の知的活動は、感覚的意識(empirical consciousness)の世界ではなく、悟性的意識(intellectual consciousness)の世界に働く悟性(intellect)によって導かれています。しかし、多くの知識を蓄積しても闇の状態にある梅岩は、老師了雲によって、「何も知っていない」ことを「知り=会得」します。つまり、「知ある無知(docta ignorantia)」と「無知の無知(indocta ignorantia)」(31) の境界線、つまり、知的地平線上に辿り着きます。そして、

「人の道とは何か」ではなく、むしろ、その問いを発する「身の主、心を知る」ことが、最も大切であるとのヒントを得て、「身の主=心=自己とは何か」の新たな問いに向かいます。













② 心から心の目へ ― 知り得た梅岩―

イ)「某時先生四十歳ばかりなり、正月上旬の事なりけるが、母の看病し居たまひしに、用事ありて扉を出たまふとき、忽然として年來のうたがひ散じ、堯舜の道は孝弟のみ、魚は水を泳り、鳥は空を飛、道は上下に察なり、性は是天地萬物の親と知り、大ひに喜びをなし給えり、」(32)



梅岩が二十数年来尋ね求めてきた「身の主である心=自己」を「知った・会得した」時の情況です。そして、梅岩は、この悟り、この洞察で、知り得た理解内容を言葉で自由に表現し、もしかして、人々にも伝授し得る識者の道が開かれていくかに思えます。

因みに、理解内容の一つ、「天と天地万物の関係」について、「都鄙問答」の冒頭で、次のように簡潔に表現しています。



オホヒナルカナ


ケンゲン


トリテ ム


チスブ


ヲ クモユキアメホドコシテ


ヒンブツシキ カタチヲ


ケンダウヘンクワヲノヲノタヾスセイメイヲ



「 大 哉

也。」(33)


乾元萬物 資始 。乃統レ天。 雲行雨施 。 品物流レ形 。乾道變化 各


正二性命一



( 意訳 :最も偉大で、且つ霊妙・絶妙なことに、天によって天地万物は生まれ、また、育まれ、天の根源的生命の躍動が、この宇宙全体に一貫流通し、宇宙全体として秩序付けられ、万物の調和が保たれている。或る時は、雲となり、或る時は、雨となり、変化して森羅万象が生々し、在りて在るもの全て、それぞれに与えられた命に則って、成長・発展している。)

ここで、「知る=会得する」ことに関して、その特徴を次に要約することができます。

イ.「知る=会得する」という出来事は、予測もし得ない時と場所で、突然に起こります。ロ.「知る=会得する」という出来事は、模索の苦悩と暗闇の状態(緊張が持続する状態)から、

照然歓喜の状態(開放感に充たされた状態)に変容させます。そして、感覚的世界での快感とは比べようもない深い喜び・喜悦に満たされ、心の無限なる広大さの体験をもたらせます。

ハ.「知る=会得する」ことは、感覚的意識(empirical consciousness)の世界の出来事ではなく、所謂、身の主である心において、つまり、悟性的意識(intellectual consciousness)の世界の諸要因によって起こります。それも、具体的なもの(感覚的世界)と抽象的なもの(意味の世界)との要となります。

ニ.「知る=会得する」ことは、熟考されている「関連性のある知識(データ)」の中の、「ある事柄とある事柄との関係」を把握することになります。

ホ.「知り=会得した」理解内容は、心に同化・蓄積され、次への問いの地平・視点とな ります。



③ 心の目から心の主へ ― 質す梅岩―

イ)「某後都にのぼり、師にまみへ給ひ、・・師曰、汝が見たる所は、盲人象を見たる譬のごとく、あるひは尾を見、あるひは足をみるといへども、全體を見ることあたはず、汝、我性は天地萬物の親と見たる所の目が殘りあり、性は目なしにてこそあれ、某目を今一度はなれきたれとありければ、先生それより又日夜寝食を忘れ、工夫したまふ事、一年餘を經て、・・」(34)



















ロ)「ソレヨリシテ又昼夜・・工夫シ侍シニ、或時ニ夜半ニ成テ草臥フシケルガ、夜モ明クレドモ、夫レヲモ知ラズ臥シ居タルニ、裏ノ森ニシテ雀鳴声聞ケバ、我腹ノ中ハ大海ノ中の静々タルニ似テ如晴天。某時雀ノ声ハ大海ノ静々ト波ノ静ナル処ニ、鵜ノ声ガ水ヲ分テ入ルガ如シ。コヽニ於テ忽然トシテ自性見識ノ見ヲ離レ得タリ。

呑尽心モ今ハ白玉ノ赤子トナリ(テ)ホギヤノ一音。夫ヨリシテ後ハ自性ハ大ナルコトモ万物ノ親ト云ウコトモ思ハズ、迷タトモ思ハネバ・・。」(35)



やっとのことで「心」を会得し、有頂天になっている梅岩に対し、老師了雲は、「自性ハ万物ノ親ト見タル処ノ目ガ残リ有リ。自性ト云フ物目ナシニテコソ有レ」と、再び、厳しく諭します。

この諭しの意味は、梅岩の「会得した理解内容自体」に対する批判ではなく、梅岩の「知り=会得した」段階では、未だ「知る=会得する」段階に至らず、不完全であることを示唆するものです。

そこで梅岩は、一年余り日夜寝食を忘れる程、心をつくして工夫に工夫を重ね、再び、大きな体験、「全ての存在からしては、(赤子のように)ちっぽけな存在ですが、全ての存在との一体感=充足感」に満たされます。それによって梅岩は、「自性見識の見」から離れ得て、それ以後、「知る=会得するとは何か」に関しては、老師に尋ねることもなく、新たに付け加えることもなく、迷うこともなくなりました。



以上のことを言い換えますと、梅岩は、人間の知的活動における悟性的意識の世界から、

「質す=判断する」次の段階に進むことを促されます。つまり、「理性的意識(rational

consciousness)の世界」に立入ると、この段階では、理性、即ち、「質し・判断する力」が始

動し、統括していきます。

従って、理解内容に対し「真であるかどうか」の問いが発せられ、続いて、理解内容自体が、「問いの回答として全ての条件を充たし得ているかどうか」の自明性を求め、吟味が重ねられます。そして、理解内容の「必然性」と理解内容以外には他にはありえないとの

「不可能性」が把握されます。さらに、理解内容が、蓋然的なものか、或いは、責任を持って是とすべきか否かの理解に進み、最後に、責任を持って「真」と断じることができます。

遂に、梅岩は、「知った=会得した」理解内容自体に対し、「真」であると判断することによって、梅岩の「心」は、「実在の世界=天に通じ、天の命が躍動する世界=心の本来的世界」に新たに生きることになります。



梅岩は、こうした経験を通して、「感覚の世界」・「理解内容=意味の世界」を超え得、「自己」が「天からの命(いのち)に在り、その命(いのち)に生きている」ことの喜びを、先に取り













扱った「都鄙問答」の冒頭文の続きで、次のように表現しています。

アタフ タノシミ ゲニ カナ クハ

「・・・天ノ與ル 樂 ハ、實面白キアリサマ哉。何ヲ以テカコレニ加ヘン。」

( 意訳 : 天の霊妙・絶妙な偉大な業の内に在り、与えられた性命に則り活きる至福の豊かさは、この上なく心にかない、至上の喜びである。)



さて、第二段階の考察で、尋ね求める「人の道」が、「心(身の主=自己)」を知るにあると諭され、そこで、梅岩は「心」を尋ね求め、「心は何であるか」、「天とは何か、天との関係は何であるか」等の洞察を得て、その理解内容を「真」と断じ、「実在の世界=天の命(い

のち)の躍動する世界=心の本来的世界」に生き始めたことを明らかにしてきました。

また、梅岩は、「知る=会得する」経験をし、「知る=会得するとは何であるか」の理解を得、それを然りと断じ、「知る=会得するとは何であるか」を、遂に、「知り=会得する」ことになりました。



ここで、「心」とは何か、また、梅岩がどのように変容したのか、この二点を纏めてみます。

一.「心」とは何か:

「事実・実在」を「知る=会得する」力である。

「知り会得する力の働き」とは何か:

イ.尋ね求めるものをどこまでの知ろうとする働き、所謂、純粋で無制約な知的志向性 = pure desire to know everything about everything)の働きがある。

ロ.問いを立て、関連する一連の知識(データ)を整え、回答への糸口(ヒント)と閃きを得、その理解内容を表現・言語化し得る働き。因みに、その働きの力を悟性と言います。

ハ.「理解内容が真であるかどうか」の自明性を求め・質す働き、さらに、「理解内容が否・然り」と断じる働き。所謂、理性の力の働きです。

「知り・会得するための過程・構造(=human cognitional structure)」とは何か:

イ.経験・理解・判断の各段階と各段階での働きから成り立っている。

従って、「知り・会得するとは何か」を「知り・会得する」ためには、先ず、「 知り・会得する」ことの経験、次に、「知り・会得した」経験に基づき、「知り・会得するとは何か」の理解、最後に、「知り・会得するとは何かの理解内容」に対する「然り」の判断、こうした一連の内的諸行為の連携がなければならないことになります。

ロ.「心」に在る「知り・会得する過程=本来的認識構造」は、梅岩の言うところの天から授かった「心」の「性」に相当し、心の性の一つの側面を意味します。



二.梅岩がどのように変容したのか:













梅岩は、「知る・会得する」に至るまでの「本来的認識構造」を「知り・会得している」

(36) ので、梅岩は、悟性的・理性的意識の自己同化(self-appropriation of one’s own intellectual and rational consciousness)を成し遂げ、理性的意識の主体者となったと言えます。



因みに、梅岩の教え・石門心学が、中国宋代の「朱子学」の特徴、主知主義の傾向があるとされますが、それは、「心とは何か、知るとは何か」の徹底した探求を基にした「事実・実在」を把握しようとする学問的姿勢に由来しているかと思われます。



さて、梅岩は、「温故而知新、可以為師矣(ふるきをたづねてあたらしきをしるは、もってしたるべし)」とあるように、「師=識者」となる立場に到達し、「師=識者」になることを決心(けつじょ

う)します。しかし、ここに至っても、再び、大きな課題を抱えることになります。梅岩

には、自己を「認識者」から「行為者」へと変容させる力がなく、次のように嘆きます。

「我本心決定スルカラハ、レン直クニ道ノオコナハルゝコトハ下リ坂ニ車ヲ推スガ如ク力ヲ入レズ行ハルベシト思ヒシニ、扨ヽ(さてさて)行ヒ難キコトハ天ニ梯子ヲカケテ上ルガ如シト思フ。」(37)

「何故、識者の道への第一歩が踏み出し得ないのか」、「認識者から行為者となるため、如何なる課題が横たわっているのか」、梅岩の「心」を更に辿ってゆかねばなりません。つまり、心にある「知る=会得する」以外の「他の力とその構造」を解明することが迫られています。しかし、その前に、梅岩が、「我に於いて会得する所なり」(38)とする「天」に関して、簡単に述べてみます。



④ 天( 無極・太極 )

梅岩が、「心ヲ盡(ツク)シ性ヲ知リ、性ヲ知レバ天ヲ知ル。・・・心ヲ知ルトキハ天 理ハ其中(ソノナカ)ニ備(ソナワ)ル」(39)と言っている「天」は、「全ての存在の全てに亙って成り立たせている、存在の根拠・主体」として捉えています。また、天の存在の在り方が、天地万物の存在の在り方と全く異なるので、「太極・無極、或いは、理・性・気」とも表現します。

さらに、梅岩の言う「天」に関し、次のように纏められます。

「『天』は、全くの善・全くの智であり、全くの秩序・調和=礼であり、全くの在り方・成り方、つまり、義であり、生み・育む全くの営みである仁であり、同一主体として全くの一であり、全てにおいて全てである『命』」。(40)

因みに、天・気・仁との関係で、「仁ハ天ノ一元気ナリ、天ノ一元気ハ万物ヲ生ジ育( ヤシナ)フ。」と説き、「天」が、「人の心」に宿っているので、(41) 人は有限的存在(偶然的・

条件的・制約的存在)であるにも拘わらず、「心=心の性=心の本質」は、「無限なる遥か彼方

=天及び万物」を際限なく志向し得る力、また、「天の命が躍動する世界=実在の世界」に達しえる力としても、梅岩は捉えています。















⑤ 「知行合一」に向かう梅岩 - 認識者から行為者へ -

本題に戻ります。ご存知の通り、「認識する」ことと「行う」こととは、互いに領域を異にします。そのため、梅岩自身は、「自己は天の中にあり、天に向かって生きている」との認識と「天に向かって、如何に生きていくか」の実践に係る領域との狭間に立たされます。

通常、如何に生きるかは全くの自由でありますが、同時に、不安・暗闇の状況に置かれます。梅岩には、「行い得る世界(=天の命が躍動する世界=実在の世界)」への責務が、依然、重く圧し掛かっていますが、幸い、梅岩には心惹かれる「識者の道」が、「実践に向けての大きな可能性」となっています。(42)





魅せられる善・価値 ― 理性的主体から倫理的・実存的主体へ ―

この課題は、倫理の領域の問題と言えます。この領域で働く知的活動の意識は、倫理的意識です。(43)

認識の領域では、「心」の力として、「純粋で無制約な知的志向性」が、問いを促し、洞察へと向かわせ、「事実・実在=天の命が躍動する世界」を知り・会得するよう働きま した。行為に係る倫理的意識( moral consciousness )の領域では、「心」の力として、「善への純粋で無制約な志向性=意志的志向性」が始動します。

梅岩の場合、主体の同一性、また、「認識と行為の一貫性」から、数ある生き方の中から、「人の道を説く識者の道」を選択しました。選択肢の中から、「識者の道」を選び取るためには、「識者の道」に関しての「善さ・価値」が質されます。同時に、「識者の道」に惹かれている梅岩自身の「心の高尚さ」が質されます。さらに、ある場合は、「識者の道」に心惹かれること自体の正当性が問われ、また、「識者の道」が自己実現と他者への貢献に結びつくかが、質されます。これらの問を通して、識者の道を歩み得ることの確実性を得、魅せられた価値を、全責任をもて引き受け得ます。つまり、価値判断が下されます。

梅岩は、「本心決定スル」としていますので、既に価値判断を下しています。つまり、梅岩は、「心」は「事実・実在を知り・会得する力」であると同時に、「心」は、「魅せ られた善さ・価値」を「行い得る世界」に「具体的に創造するよう促す力」であることを知り・会得しています。

梅岩は、従って、「心」にある「善への志向性」が、自己を新たに創造するよう促し、統括していく力であり、さらに、公共の善・価値・秩序(例えば、よりよき教育・経済・政治等の制

度)の創造を促し、統括していく力でもあることも心得ていることになります。

もし、梅岩自身が、識者への道の第一歩を実際に踏み出し、自己を創造していく存在者と成り得たなら、梅岩は、「認識と行為の一貫性」における倫理的意識過程を自己に同化し得、理性的主体を統括・止揚して倫理的・実存的主体(善に向かうか、善を放棄するかの主体=己 を











創造し得る主体)と成り得たことになります。(44)



それでは、何故、識者の道を歩むことを決定(けつじょう)したのにも拘わらず、梅岩は、その第一歩を踏み出し得ないのでしょうか。それは、一つには、心に備わる「力の豊かさ」に問題があり、一つには、心に備わる「新たな力」を要したからです。

心に備わる力の豊かさは、端的に言えば、「実在を知り・会得する」力を養い・育て ること、また、行い得る世界に「価値を創造する」力を養い・育てることによります。それらによって、「心を整え・統べる」力が一層備わっていきます。(45)

因みに、この『心の豊かな力』を、梅岩は「心に得て身に行う力=徳」としています。

(46)







魅せられた価値の創造 ― 倫理的主体を止揚する宗教的主体 ―

さて、心に備わる新たな力とは何か、それを深く会得する出来事が、梅岩に起こります。

(47) それは、老師了雲が病に伏し、既に末期で、身も心も梅岩に委ね、梅岩はその介護を一人負っていた時のことです。梅岩が頼まれごとを行った時、梅岩の心が入っていなかったからでしょうか、老師了雲は「汝がなす所、かくのごとくなれば、看病をさぞむさくおもふらん」と、看病の必要のないことを言い渡します。看病を断られた梅岩自身は、次の間に退き、一人涙します。翌日、同門の弟子を介して、老師に詫びを入れ、ようやく許されるという出来事がありました。



この出来事は、何を意味するか。梅岩が、「天」を知り得、また、天に生き得たこと、さらには、「識者の道」を歩むことを決心(けつじょう)し得たこと、これら全ては、老師了雲の導きがあったからに他なりません。それは、老師了雲の梅岩に対する心の深さ、言い換えれば、心の中枢・中核である「天の心、即ち、生み・育む心=仁=愛」によるものです。(48))

しかし、梅岩には、天から授かった命の「仁・愛の心」が強固なものとしては養われていなく、従って、梅岩の「仁・愛の心」が老師の心に伝わっていないことを強く戒めたことになります。

梅岩にとっては、余命いくばくもない老師了雲の最後の諭し・戒めです。



そして、梅岩は、次のことを会得していくことになります。

1)「仁・愛の心」は、天及び天地万物を際限なく志向する力である。

2)「仁・愛の心」は、天と同じく、身と心の全ての力の中枢、全てを統べる力である。

3)「仁・愛の心」は、自己を含めた人を「人の道に」生み・育み得る力である。



梅岩にとって識者の道は、「天の命(いのち)にあり、天に向かって成っていく」自己自身













を新たに生み・育み・完成させていく道、端的に言えば、自己を創造する唯一の道とな ります。また、識者の道は、「天の命(いのち)の中にある」人々が、「天に向かって成っていく道」へと新たに生まれ・創造するよう導き得る道であり、最も価値のある「天の生み・育む力=創造の力=仁の力」に参与することに他なりません。(49)

従って、「識者の道」を歩むことは、梅岩にとって「天の命(いのち)の躍動する世界=実在の世界に生き、自己を活かす」ことを意味します。こうして梅岩は、心の中核であり、

「心に得て身に行う最上の力=仁・愛の心」を養い育てるによって、長年の望であり、「天ニ梯子ヲカケテ上ルガ如ク」行い難かった「識者の道」の第一歩を、遂に踏み出すことになります。

以前に触れましたとおり、梅岩は識者の道を歩み出し、自己を倫理的・実存的主体者として完成・創造し得ました。そのためには、宗教的主体者となることの肝要さも、梅岩は十二分に会得したことになります。



結 論

ここで、第二段階での問い、「梅岩自身の転換の起因は何か」、また、「梅岩は何を伝えようとしたのか」の結論に移ります。

先ず、「梅岩の大転換の起因とは何か」:

~ 梅岩が、「心ヲ盡(ツク)シ性ヲ知リ、性ヲ知レバ天ヲ知ル」と説くように、「人間の本来性」はもとより「天」を会得し、それによって「天に活きる」ことが出来たからです。

二 「天の中にある自己」を「天に向う自己」として創造し、同時に、他者が「人の道」に新たに生まれ・創造し得るよう導き得る存在者に成ったからです。

つまり、梅岩自身が「実在の世界を知り・会得する」ことにより、感覚的・悟性的且つ理性的意識を自己に同化し得ました。また、「行い得る世界に善・価値を創造する」ことにより、倫理的=実存的・宗教的主体者となり、「実在の世界=天の命が躍動する世界」に活き得るように成ったからと言えます。



次に、「梅岩は何を伝えようとしたのか」:

梅岩が、「学問ノ至極」と断言するように、「心ヲ盡シ性ヲ知リ・・天ヲ知ル」ことが、人に課せられた最も大切な課題であるということです。

従って、梅岩の代表作で、数少ない著作、特に「都鄙問答」は、「心ヲ盡シ性ヲ知リ・・天ヲ知ル」ための道筋を辿り得る人生における案内書と位置付けられます。



続いて、石田梅岩が会得した「心」とは:

一『身の主=心』は、「事実・実在を知る=会得する力」である。

・「知り・会得する本来的(普遍的)認識構造」を知り・会得し得る。













・梅岩自身を含めた天地万物の存在の根拠である『天』を知り得、同時に、『心』の存在の根拠・意味・命(いのち)が『天』にあることを知り・会得し得る。

・「生き方の実践的可能性」を弁え、「知識と行為の一貫性に基づく本来的(普遍的)倫理意識構造」を知り・会得し得る。

二『心』は、善さに魅せられ、よりよい善・価値を実在の世界に創造する力である。

三『心』は、中枢・統括の力として、「仁・愛(=生み・育む)」の力(最高の徳)を備えてい る。四『心』は、感覚的主体・悟性的且つ理性的主体であり、また、倫理的(実存的)・宗教的主

体へと止揚し得る力である。

五『心』は、『天』に向かって成っていく自己創造の主体である。

六『心』は、天から授かったもので、「古今ニ通リテ一」・「我心モ心ハ古今一ナリ」と 言うように(50)、人である限り、同一・同質の心である。

第二段階の考察の終わりに、梅岩の思想が「思想史からみれば如何に位置付けられるのか」、簡潔に述べてみたいと思います。

今までの考察からすれば、梅岩は、江戸幕藩体制下の中期にあり、西洋近代哲学の祖と言われるデカルトに勝るとも劣らない、日本における「人間とは何か」の近代哲学、つまり、認識・倫理・宗教等の実存的学問の基盤を基礎付ける思想家・哲学者・実践家と言っても過言ではないと思料します。



三 薩埵正邦先生の思想の基底・生き方に、石田梅岩との類似点が見出されるか

最後に、「薩埵正邦先生の思想の基底・生き方に、石田梅岩との類似点が見出されるか」、その触りだけでも、取り扱ってみたいと思います。

梅岩の思想の一つに、「万物ハ天ノ子」「天ノ心ハ人ナリ」とする人の命の尊さ・霊妙さに基づく「人間の平等」があります。また、「天子ヨリ以ッテ庶民ニ至ルマデ、壱ニ皆身修ムニ何ゾ士農工商ニカハリアラン」とする「人間同士の対等」、さらには「士農工商ハ天下ノ治マル相(タスケ)トナル」とする社会における「職業の使命・天下の使命」があります。

(51)



もし、薩埵正邦先生に「梅岩の人間の平等・対等思想、また、職業の役割・天下の使命等の思想」が受け継がれていれば、欧米の近代国家構築の基盤となる、例えば、1776年の「アメリカの独立宣言」の条項、また、1789年の「フランスの権利宣言」には、非常に親しみ易さがあったと思われます。つまり、独立宣言の冒頭では、「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、創造主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付され、その生命、自由及び幸福の追求が含まれていることを信じる。また、これらの権利を確保するために人類のあいだに政府が組織されること・・」と謳われ、権利宣言の第一条では、「人は、自由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、生存する。社会的差別は、共同の利益に基づくものでなければ、設けられない」と宣言されています。因みに、これらの宣言には、「自由と権利」が謳歌されていますが、この時点では、どちら













にも「博愛の精神」・「仁愛の精神」が含まれていません。



メイ シヨクブン シラ


ツトメオコナフ


ヲサマリ


トヽノヒ


ヲサマリ



さて、梅岩の思想で、「天ノ命ゼル 職分ヲ知セ、 力


行 トキハ、身


脩 テ家


齊 、國 治



タイラカ


(52)



テ天下 平 」が強調されます。 例えば、「倹約 斉家論」では、職分の一つ、「商いの道」

が示され、信用及び仁愛を基にした「天下の治まるための商い」の実践が、如何に肝要かが説かれます。梅岩の論理的な展開の中で、当然、「天下治まる政の基盤・法」に関しても、法の根源(人倫の大原)である「天」(53)に如何に根差すべきか、この課題は、大変重要な課題となります。

従って、薩埵正邦先生が、「自然科学の領域」の学問より、先ず、明治黎明期の喫緊な課題として、日本の近代国家形成の基盤である「法(無形學)」の研究・教育(54)に生涯を捧げた生き方は、「人の道=五倫五常の道」を究める石田梅岩の生き様に、重なり合うところがあるかと思料いたします。



老婆心ながら、付加することですが、時習者舎主の薩埵徳軒は、「世界の人は皆我が子也」と「仁・愛」の精神に生きた人柄であったと記されています。(55)そして、徳軒は、薩埵正邦先生誕生20年前まで生存していますので、石田梅岩が説く「仁・愛」の精神が、六歳で四書五経の「大學」を暗誦し得た正邦先生へと伝承されていく可能性を否定し得ません。

因みに、薩埵正邦先生が、法政大学の前身、東京法学校を去ることに関し、諸説ありますが、学校の更なる発展と繁栄を願う、「仁・愛の精神」・「慈しみの心」の発露であるとしても不思議ではなく、この「仁・愛の精神」・「慈しみの心」は、Bellah が最も憂慮す る

「日本社会で欠落していく精神」です。現下、日本の諸企業等で、例えば、小林陽太郎富士ゼロックス会長が言われる「社会的責任( CSR = CORPORATE SOCIAL RESPONSIBILITY)等の公共善」が、問題視される兆しは、大いに歓迎されることと思料いたします。



最後に、正邦先生が誕生され、幼少期を過ごされた場所は、京都西陣織りで知られる今出川千本東入般舟院にある時習舎で、現在、嘉楽中学校となっています。また、正邦先生の当時の菩提寺は、京都御所の西北にある大徳寺の奥院 芳春院でした。

長時間を頂き、多くの課題を残しましたが、本日頂いた記念講演を、この辺りで、終わらせて頂き、皆様のご清聴に、深く感謝申し上げます。ありがとうございました。




注( 1) 松尾章一「薩埵正邦小伝(二) -法政大学の創立者- 」法政大学社会学部機関誌 『社会労働研究』第 14 巻

3号 1968 年参照。





注(2) ★ 「心学」の言葉の由来について

中国の宋学発展過程で、陸象山(1139~1192)が「心即理」の自らの学を「心学」とし、それを受けて王陽明(1472~1528)がこれを更に展開し、中国では心学は陸王学を意味し、また儒学(聖学)の本質を捉えたとされている朱子学も心学を意味する。





日本では、近世初頭に藤原惺窩(1561~1619)、林羅山(1583~1657)らが新たに朱子学をもとに儒学を起した。1650年(慶安三年)に著された「心学五倫書」(著者不明)という書籍で、始めて「心学」という言葉が使われたとされる。その著の内容は、一貫として「誠を中心に天理を重んじ私欲を去るべきこと」が説かれている。儒学のなかで、朱子学・陽明学を取扱う貝原益軒(1630~1714)、中江藤樹(1608

~1648)は自らの学を「心学」と呼んでいる。





★ 「石門心学」の言葉の由来について

石田梅岩(1685~1744)は、自己の教え・学に対し、儒学、或いは朱子学、陽明学、または、心学とは称えなかった。梅岩の教え・梅岩の学を「心学」としたのは、梅岩の死後、高弟の一人であった、次に紹介する京都の手島堵庵(1718~1786)である。梅岩の死後、堵庵は、1779年安永3年に江戸在住の楠山無適に宛てた手紙の中で「心学」の文字を用い、これが文字として最初に残る文献である。因みに、内容は、「門下の中澤道二・植村嘉兵衛を江戸に送り、二人が心学を江戸で広めようとするに当り、支援を願う」というものである。また、「石門心学」の名称は、朱子学派・陽明学派等の心学と区別するため、石田梅岩門流の心学を「石門心学」と呼ばれていた。



注(3) ★ 石門心学の道統「三学舎」について

石田梅岩の弟子 手島堵庵が、石門心学の教化・普及のため、会輔等を開く講舎として以前の講舎・五楽舎(17

65年、富小路三条下ル)に代わり、新たに会輔席の場として「修正舎」(1773年、五条通東洞院東入)、時習舎 (1779年、今出川千本通東入、西陣)、明倫舎(1782年、室町錦小路上)を設立した。この三舎を、石門心学の道統として、石門心学派の管理・統制の要とした。例えば、門人に指導者の資格を与える際、この三舎の「三舎連名印鑑の認可状」を授与した。



★ 手島堵庵(1718~1786)について

手島堵庵は、京都の素封の商家に生まれ、18歳で梅岩に師事した。堵庵、27歳の時に梅岩を失い、44歳の頃、家業を長男健 (和庵 )に譲り、その後、20数年間を心学教化・普及運動に専心し、石門心学派の管理・統制体制を確立していった。

・石門心学の管理・統制に関して:

堵庵は、石門心学の講釈・著作活動はもとより、生前の梅岩が開催していた月例会を組織的に運営・拡大するため、1773年に「会友大旨」を出版し、門弟の会合(=会輔)の趣旨と規約を定めた。また、会輔(=「文を以って友を会し、友を以って仁を輔く」)に用いる文書(「 四書」「近思録」「小学」「都鄙問答」「斎家論」)を定め、講釈の際に用いる書物も検定済みの書物のみとした。さらに、会輔運営のため、役職( 都講・輔仁司・会友司)・選任基準、禁誡等を定め、また、多くの学舎を統括・統率する上記三学舎を置いた。

・石門心学の教化・普及について:

例えば、毎月三日に男女児童(7歳~15歳)を集め、講話をし、事前にその内容を刷って配り、日常の行儀作法・心得を指導する等、少年児童・婦女子に及ぶ石門心学の教化方法を確立していった。





・堵庵時代の心学の普及地は、近畿地方十箇國(山城・丹波・丹後・大和・和泉・河内・紀伊・摂津・ 播磨・近江・若狭)、中部地方二箇國(美濃・信濃)、関東地方一箇國(武蔵=江戸)の十五箇國で、講舎・学舎は、1

785年天明5年には22舎に及んでいる。

・堵庵の門下について:

堵庵門下には、65名以上の心学者がおり、上記の江戸參前舎 中澤道二(第一代舎主)、手島和庵(京都明倫舎第二代舎主)、上河淇水(明倫舎第三代舎主)、寺井譲元(京都修正舎)、中山甫門(大阪心学始祖)、中井利安(大阪心学始祖)、植村賢蔵(美作心学の始祖、京都時習舎舎主)・淺井祐敬等の心学者を輩出している。また、中沢道二の他に、石門心学を講釈する者として、布施松翁(1725~1784年)、脇坂義堂(?~1

818)、鎌田柳泓(1752~1821年)、薩埵徳軒 (1778年 ~1836年 )、柴田鳩翁(1783~

1839)等を挙げることができる。

・手島堵庵の死後:

嗣子和庵と堵庵の養子上河淇水が明倫舎を主宰、淇水が和庵の後を承けて明倫舎三世舎主となった。以後、明倫舎主は手嶋(上河)家の血統で代々相続されている。

・堵庵の著作について:

「我つえ 上・中・下」1759年、「町人身體柱立」、「坐談随筆」、「前訓 男子之部・女子の部」、「女児 ねる りさまし」、「有べかかり 上・下」、「会友大旨」等の約二十著作がある。



注(4) 時習舎 舎主 薩埵徳軒 (1778 年 安永 7 年~1836 年 天保7年)及その家系等について:

時習舎は、記述の通り、石門心学の会輔等を開催する講舎として、手島堵庵によって1779年(安永8年)に今出川通千本東入に開設され、明倫舎及び修正舎と共に、石門心学の総本山としての地位にあり、第一舎主は植村嘉兵衛で、嗣子植村嘉右衞門(教道)が後を継ぐが、諸事情により、薩埵徳軒(明倫舎第二代舎主 上河淇水の俊秀な高弟)が、1805年 文化2年から時習舎舎主となる。以後、文化後半期から文政中期頃まで、京都心学界及び畿内心学界の再興隆に大きな業績を残した。1830年天保元年、徳軒は新しく楽行舎を設立し、183

1年に時習舎舎主を嗣子薩埵誠齋に継がせたが、翌1832年に誠齋が逝去したため、義子薩埵玄蔵(号 天放)が時習舎舎主となった。薩埵玄蔵(号 天放)は、北小路大學介(京御所官吏)が設立した教諭所(儒学施講の場)の講師を務める等、天保中期の京都心学界において、修正舎 舎主 柴田遊翁、恭敬舎 入江義質と共に重きをなした。

薩埵徳軒の門下には、柴田鳩翁、薩埵誠齋、薩埵天放、近藤龍徳、杉本左近、奥田玄深、等がいる。因みに、徳軒の父薩埵元雄(-1797年)は、号を藁川と称し、参州吉良之荘吉田村から京都に移り住み、儒学者として活躍し、門下には徳軒を指導した猪飼敬所(京都心学者、上記教諭所の講師も務める)がいた。



注(5) 薩埵正邦に至る 石門心学者の系譜 (一部、略式)は、脚注の後にある「別紙1」を参照。

注(6)「堵鄙問答」は、齋藤全門による『但馬入湯道之記』にあるように、梅岩が 1738 年4月末から5月初旬にかけ、門弟 齋藤全門、木村重光、小森賣布、手島堵庵、良哲、亦榮らと但馬の宿に留まり、「『都鄙問答』の校合」にあたり、1739 年には全 4 巻として、出版された。また、「倹約・齊家論」は、1744 年5月の梅岩の自序があるように、同年9月に「倹約・齊家論」二巻として 9 月に刊行され、その 9 月24日に梅岩が死去しているので、















梅岩自身の第二作であると同時に、梅岩の最後の作品である。

「石田先生事跡」は、「梅岩先生事跡草稿」の巻頭で記されているように、編輯者は齋藤全門、小森賣布、杉浦止齋、校正は手島堵庵・富岡以直で、既には1776年安永5年頃に著されていた。また、「石田先生語録」は、「梅岩先生事跡草稿」の末尾に、「先生門人及び或る人等の問いに対し給ふ語を書写したる草稿、没後、塾に遺るもの集るに若干巻となれり」とあるように、齋藤全門、杉浦止齋等がそれらを定本に仕上げようとした。原本(梅岩自筆の草稿:一部、京都上河家蔵)及び門人による転写のもの(杉浦本、問答集:柴田家蔵、京都明倫舎蔵本等)を整理すると、梅岩の285問答(1737-1744)から構成されている。

上記、「都鄙問答」、「倹約・齊家論」、「石田先生事跡」及び今回出版にあたって整理された「石田先生語録」は、柴田実編「石田梅岩全集」(岩波書店 1992年版)に収められている。



注(7) Robert Bellah の“Tokugawa Religion”(1956年出版)は、R.N.ベラー著 堀一郎 池田昭訳 「日本近代化と宗教倫理」として未来社から1962年に出版されている。また、James C. Abegglen の“Japanese Factory”

(1958年出版)は、 J.アベグレン著 占部都美監訳「日本の経営」としてダイヤモンド社 から1958年に出版されている。





注(8) 1980年代は、日本の高度経済の最盛期であり、日米経済摩擦の絶頂期でもあり、その間の歴史的事象を簡潔に記しておく。

1980年:米国議会に「米国は日本の植民地である」とする「第二次ジョーンズレポート」が提出される。

1982年:米国は、経常収支赤字に伴い世界最大の債権国から債務国に転落する。

1982年:米国議会下院歳入委員会での「第三次ジョーンズレポート」では、「自由貿易による世界経済と日本国民の生活水準向上のため、日本の不公正な政治経済構造を転換すべきである」と勧告する。

1982年:日本は世界最大の純債権国家とし、国際社会では米国の地位と逆転し、経済大国に躍り出る。

1985年:3月、米ソ包括軍縮交渉再会により、東西緊張緩和が推進され、軍事力による対立的均衡から協調的均衡へ向かう。

1985年:5月、「プラザ合意」を契機に、米国の経済力低下対応策として、主要先進国による政策協調が始動し始める。

1986年:4年以内の終結を目指し、自由貿易による世界経済の維持・発展のため、ウルグアイラウンドの交渉が開始された。

1989年:反響を巻き起こした J.フォローズ論文・K.ウォルフォーレン論文等では、国際社会に通用しない

「日本特殊論」を展開する。こうした傾向性は、1972年に、既に、米国商務省から一冊の図書が発行された頃から始まっていた。本の題名は、邦訳で「株式会社・日本」と題して、「政府と産業界の親密な関係」を地道なデータに基づき分析し、当然、政府と産業界の相互作用のする親密な関係を非難する意味合いを含んでいる。

1989年:日米首脳会談で、対外不均衡是正のため、相互に障壁となっている経済構造問題の識別と解決のため、日米構造問題協議の開催が決定された。同年9月から1990年4月までに4回の協議が重ねられた。



注(9) ★ 梅岩の日常生活は次のよう纏めることができる。基本的な日課

・未明に、起床・洗面、掃除・身支度、朝の御勤め、簡単な朝食を済ませて暫しの休息

・明け方(夏至:AM4:45、冬至:AM7:00)から辰の刻(AM8:00―9:00時頃)まで、「講





釋」

・昼間、時を定めず「来訪者への講釋」

・夕方前には、掃除・手洗いして、夕の御勤め

・暮れ(夏至:PM7:15、冬至:4:55)から戌の刻(PM8:00―9:00頃)まで、「講釋」

・その後、門人達が講釋で疑問を抱いたことに応える「質疑応答」

・亥の刻(PM10:00―11:00頃)、門人達の帰宅後、「学問の書」に時を過ごす

・「明け・昼・暮れの講釋」等の間隙をぬって「学問の書」に時を過ごす

・夏の夜は子の刻(AM0:00)に、また冬の夜は丑の刻 (AM2:00) に就寝

以上、「石田先生事蹟」手島堵庵校正 1806年( 文化3年 )日本思想体系7『近世庶民教育思想 石門心学・下』日本図書センター1979年 378~390頁参照

★ 「都鄙問答」に用いられる書籍については、脚注の後に添付した別紙2を参照注(10) 中澤道二に関しては、次に述べておく。

中沢道二( 1725 ~1803年 、商家 亀屋久兵衛 )は、京都西陣の機織の商家に生 まれ、40歳後半に堵庵の門弟になり、以後、約25年間心学の普及に専念した。特に道二は、多くの藩邸(陸奥泉・下野足利 ・近江大溝・丹波亀山・播州山崎藩等)に招かれ、藩候・その家族・藩士・旗本御家人に講釈し、武士階級にも門弟を得ていた。また時には、老中松平定信の意を受け、佃島の人足寄場でも講釈した。道二没後も、弟子・脇坂義堂が武士階級と関係し、人足寄場でも講釈していた。また、道二の講釈は、「道二翁道話」六篇十五巻として門人達によって編集され、1795年から1824年にかけて刊行された。



注(11) 和辻哲郎「日本倫理思想史」下巻 第七篇「町人道徳と町人哲学」 岩波書店 1969年第11版 609~6

24頁参照。

「梅岩は、儒教道徳の普遍人間的な側面を強調し、それによって儒教道徳を町人の方へ奪取しようとしているかに見える。しかも彼は・・士道からの町人規定に沿って、遂行しているのである。・・ 梅岩は、その町人的体験にもとづき、正直を究極の原理とする町人哲学を展開した・・・。儒学の性理の説を極めて切実に理解し、その上に立って修行の方法を工夫した・・・。十八世紀は、儒学のなかにも、国学のなかにも、幕府の政権を是認しない思想が醸成せられて来た時期である。しかしそれと平行する現象は、町人の立場からは現れて来なかった。ヨーロッパにあっては、封建的なものを打破して行く力は、ブルヂョワのなかから芽え出て来たのであるが、そのブルヂョワに相当する江戸時代の町人は、文芸、美術、演劇、音楽等の創造において常に主導権を握っていたにかかわらず、政治と道徳との領域において、遂に主導権を握るには至らなかった。」



注(12) 柴田実「石門心学」 日本思想体系42 岩波書店 1971年 第1版 451頁参照。

「士の道をいへば士農工商に通ひ、士農工商の道をいへば士に通ふ」(斉家論下)とも言われるように、梅岩には道の普遍性に対する深い信念があり・・・。・・・まして梅岩以降の心学の広範な普及とその主観的な意図とは、それが簡単に町人の哲学・町人の倫理とのみ言い切れないものであることを証している。・・・・「凡て道を知ると云は、此身このままにして足たるを知て、外に望むことなきを、学問の徳とす。」(都鄙問答巻一)・・・性を知り道を行う楽しみはもっと積極的なもので、「天の与る楽は、実面白きありさま哉。何を以てかこれに加





へん」(都鄙問答巻一)とさえいわれる。正直と倹約の実践を通じて、人々にこの安心、この喜びを知らせようとしたのが、かれの心学の根本精神であったとすべきであろう。

注(13) 安丸良夫「日本の近代化と民衆思想」 青木書店 1975年第4刷 33~34頁、49頁、52頁参照。

商人たちは、一面では正直や倹約につとめ道徳的でなければならないと思いながら、他面では貪欲や瞞着が利益をうみだすという観念にとらわれていた。・・梅岩の思想の固有な意味は、貪欲や瞞着や奢侈と混ざり合ってしばしばその手段となっていた商人道徳の通俗性をつきぬけて、一元化し純粋化したということである。梅岩の「心性」の哲学に基礎づけられたとき、貪欲等々を根源的に排除した不変の生活原理が確立され、商人たちは自分の営為の正当性に確信をもった新しい人間となることができるのである。・・・こうした民衆的諸思想に共通する強烈な精神主義は、強烈な自己を鍛練にむけて人々を動機づけたが、そのためにかえってすべての困難が、自己変革―自己鍛練によって解決しうるかのような幻想を生み出した。この幻想によって、 自然や社会が主要な探求対象となり、国家や支配階級の策術を見ぬくことがきわめて困難となった。近代社会の展開にともなって利害対立や生存競争がますます一般化すると、人間の道徳や良心はその過程にまきこまれて無力になり、利害対立や生存競争の担い手としての利己的主体と普遍的人会い表を間的道徳の担い手としての価値的主体との分裂が決定的なものになってゆかざるをえない。・・・だが、経済的破滅によって、広汎な民衆の思想形成の努力のすべてが無になってしまったのではない。



注(14) 丸山真男「日本政治思想史研究」 東京大学出版会 1985年新装第2版 146~147頁参照。

折衷的傾向は、享保の後年頃から主として庶民層に普及した心学―いはゆる心門心学―において極点に達する。心学の枢軸をなす思想はやはり宋学であるが、そこには宋学のもっている Geschlossenhiet は見るかげもなく失はれ、神道と妥協するは勿論・・・仏教・・・老荘・・といふごとく個人修養の具となるものは一切取り入れる態度に出た。・・・此処では心学の内容そのものに雑多な思想系列が流入混淆しているのである。そうして凡そ原理的一貫性を欠いた単なる寛容主義がなんら学問的なトレランスの名に値しない以上、心学は通俗道徳としての普及性をいかに誇ろうとも、理論的価値においては、折衷考会い表を証派の上にでるものではなかった。・・・藤原惺窩を以って始まった近世儒学の思想的展開は徂来によって一まづピリオドが打たれた。



注(15) 丸山真男「丸山真男集」第七巻「ベラー『徳川時代の宗教』につて」岩波書店 1996年 235~289頁参照。

注(16) 竹中靖一「石門心学の経済思想」 ミネルヴァ書房 1998年増補版 33 ~34頁参照。

将軍吉宗は、・・商品貨幣経済の自転法則に挑戦したが、・・商業社会が確立していて、絶大な封建権力 をもってしても、経済法則を左右できない状態となっていた。しかし、農業の振興を第一とした享保改革の過程を通じて、町人は圧政政策にあい、受難期を迎えることとなった。このような風潮にたいして、勇敢に反駁し、町人存立の意義を高調したところに、石田梅岩の偉大さがあった。石門心学は、だから、勃興の頂点にたった町人が、深刻な受難期の試練をうけつつ、町人道を基礎づけようとする精神的自覚の所産である。それは、たゆまない、しかも地味な本商人の経済倫理の自覚形態である。



注(17) 竹中靖一は、「当時の町家が心学者に家法の起草を依頼した」とし、宮本又次の見解(「石門心学と商人意識」 講座『心学』第二巻 雄山閣 14~15 頁)を挙げて、堵庵及び門弟の脇坂義堂と両者に親交が深かった近江





の豪商中井源左衛門の「家訓」にも影響を及ぼしたとしています。

注(18) 作道洋太郎、瀬岡誠他著「江戸商人の革新的行動―日本的経営のルーツ―」 有斐閣 1978年。



注(19) 作道洋太郎「江戸時代の商家経営」 宮本又次篇『江戸時代の商家活動』 日本経営史講座・第1巻 日本経済新聞社 1977年。



注(20) 作道洋太郎は、中井信彦氏や安岡重明氏が指摘した、三井における大元方を三井同族の「共同財産」の管理機構として捉えた考え方にもつらなるとしている。 (中井信彦「三井家の経営―使用人制度とその運営―」『社会経済史学』 第31巻第6号 1966年 91~101頁参照)

注(21) 宮本又次「壊徳堂と明誠舎と住友」『経済人』 第29巻 第11 1975年。



注(22) 柴田実「石門心学」 日本思想体系42 岩波書店 1971年 第1版 474頁参照。



注(23) 田尻祐一郎「通俗道徳と『神国』『日本』―石門心学と富士講をめぐって―」源 了園 玉懸 博之 共篇 『国家と宗教』日本思想史論集 思文閣出版 1992年 313頁参照。



注(24) 石川謙「石田梅岩と『都鄙問答』」 岩波書店 1993年 147頁参照。



注(25) Robert N. Bellah 「徳川時代の宗教」池田昭訳 岩波文庫 1996年第1版 332頁参照。

心学は、極東において最も古く、最も強力な宗教伝統の一つを、孟子にまでさかのぼって利用した。この伝統は、その時代の都市階級の欲求に適合させることによって、心学は、苦しみ悩んでいた商人の生活に意味をもたらし、さらに彼らのエネルギーを、社会に対し最も深い意味をもち得るような方向性に向けたのである。

「徳川時代の宗教」で強調したのは、宗教信条と行為が、社会的・経済的状態を近代化すると言う点にあったが、これはまったく適切であった。・・・梅岩は、商人も武士と同じように社会に貢献していると主張し、商人の尊厳に関心を持った人物である、と指摘した。梅岩が富を獲得する手段として道を説いた、とは書かなかった。彼自身の生活は、質素なものであって、ほとんどどんな世俗的な財産も蓄積しなかった。彼は、現代日本の先駆者であるとともに、審判者でもある。



注(26) 「都鄙問答 巻ノ二 或ル学者商人ノ学問ヲを譏ノ段」柴田実編『石田梅岩全集 上巻』 清文堂出版 1994年71頁参照。



注(27) 前掲「都鄙問答 巻ノ三 生理問答ノ段」 柴田実編『石田梅岩全集 上巻』 清文堂出版 101頁参照。

注(28) 前掲「石田先生事蹟」373~374頁参照。注(29) 前掲「石田先生事蹟」375頁参照。

小栗了雲に関して:

「了雲老師 姓は平、族は小栗、名は正順、了雲と號し、一に海容軒と稱す。某侯の大夫たり。故ありて致仕し京師に隠居玉ふ。嘗て性理の蘊奥を究め且釋老の學に通じ、生徒に教授し玉へり。享保十四年己酉冬十月十九日卒し玉ふ。享年六十歳。平安京極四條の街永養寺に葬ると云ふ。」

以上、前掲「石田先生事蹟 附録 姓名爵里」『石田梅岩全集』下巻 柴田実編 清文堂 1994年

641頁参照。



注(30) 前掲「都鄙問答」日本思想体系・七 『近世庶民教育思想 石門心学・下』日本図書センター 1979年 64















0~641頁。



注(31) 「知ある無知(docta ignorantia)」 :無知であることが解る領域で、従って、問いを立てて熟考するが、未

だに答を得られない領域。

「無知の無知(indocta ignorantia)」:無知であることが解り得ない領域で、従って、問いさえも立てられな

い領域。



注(32) 前掲「石田先生事蹟」375頁参照。

また、「石田先生語録」柴田実校注 「石門心学」日本思想体系四二 岩波書店 1972年 55頁では、次のように記述している。

「正月上旬ニ用事ニツキ門ニ出ルコト有シニ忽然トシテ聞く。某ノ時アヲギ見レバ鳥ハ空ヲ飛、フシテ見レバ魚ハ淵ニ躍、自信ハ是レハダカ虫、自性ハ是レ天地万物ノ親ト知リ、喜悦誠ニ大ナリ。天ノ原生シ親マデ呑尽シ自讃ナガラモ広キ心ゾ」

更に、梅岩は、洞察を得た心境を次のようにも述べている。

「性ヲ知リタシト修行スル者ハ得ザル所ヲ苦ミ、是ハイカニコレハ如何ニト、日夜朝暮ニ困ウチニ忽然トシテ開タル、其時ノ嬉サヲ喩テイハヾ、死タル親ノ蘇生、再ビ來リ玉フトモ其樂ニモ劣マジ。・・・我ニ至極ノ樂ヲ畫ト望人アラバ、豁然トヒラケツヽ、手ノ舞足ノ踏所ヲ忘シ者ヲ畫ベシ。」

以上、前掲「都鄙問答 巻ノ三 生理問答ノ段」 柴田実編『石田梅岩全集 上巻』 清文堂出版 106頁参照。



注(33) 前掲「都鄙問答 巻ノ三 生理問答ノ段」 柴田実編『石田梅岩全集 上巻』 清文堂出版 3頁参照、また、この一文は「周易 乾之卦彖伝」からの引用である。



注(34) 前掲「石田先生事蹟」375頁参照。

注(35) 前掲「石田先生語録」柴田実校注 「石門心学」日本思想体系四二 岩波書店 1972年 55頁参照。

また、梅岩は、「天」を「知り・会得した」後も、感覚的世界においては、以前と全く変わりのないことを次のように述べている。

「釋尊は暁の明星をみて大悟し玉ひ、唐土の霊雲は桃花を見て悟れしにあらずや、悟て後は星を月と見るべき

や、又悟ざる前には桃を桜と見るべきや、」

以上「都鄙問答」日本思想体系・七 『近世庶民教育思想 石門心学・下』日本図書センター 1979年

639頁

更に、次のようにも述べている。

「年久シク如何如何ト思フ所ヨリ、忽然トシテ疑ヒ晴ルコトアリ。然ルニ一ヶ月ヤ二ヶ月ニ疑ヒヲ起シ、是ニ於テモ彷彿ト開クコトアリトイヘドモ喜コト少シ。少キユヘニ勇氣出ズ。又信心堅固ニシテ入立時ハ、假令辻ニ立テナリトモ、此味ヒヲ世ニ傳ヘ殘サント思フ勇氣モ出ルナリ。・・・如斯謂散スハ實ニ鄙夫トイフベケレド、我志ヲ述ンタメナリ。」

以上、前掲「都鄙問答 巻ノ三 生理問答ノ段」 柴田実編『石田梅岩全集 上巻』 清文堂出版 106頁参照、





梅岩のこの体験に関して:

竹中靖一氏は、「自性見識の見をはなれるとは、主観を脱して客観に徹し、天地と一体となることである。・・

















天人一体の極致にたつことである。・・そこに、人倫の根本にふれるものを感じ、・・」と解釈し、梅岩は宋儒の形而上学(天人一体の世界観)をもって、この体験に哲学的基礎を与えたとしている。

前掲「心門心学の経済思想」 143頁参照





柴田実氏は、「自性見識の見を離れたとする伝記記事は、性を知ることが何らか特殊神秘的体験に俟たねばならぬことを物語るものではなく、却ってそれが極めて日常的な体験の上に証しえるものであることをいうものと解せられる。このことは、彼の学を・・もっとも実践的な道たらしめ、人々がその日常的業務に従いつつ学 びかつ自証することのできるものという特性をもつことになった。」

前掲「石門心学」 142頁参照



注(36) 人間の本来的認識構造に関して,“Cognitional Structure”,“COLLECTION Papers by BERNALD LONERGAN ”,

Edited by F. E .Crowe, S. J. Herder and Herder, New York, 1967,208頁参照。

“Where knowing is a structure, knowing knowing must be must be reduplication of the structure. But if knowing is conjunction of experience, understanding, judging, then knowing knowing has to be a conjunction of (1) experiencing experience, understanding, judging, (2) understanding one’s experience, understanding, judging,(3) judging one’s understanding of experience, understanding, judging to be correct.”



注(37) 前掲「石田先生語録 巻百三十一 或士問曰、朱子学ニテ事ヲ取」『石門心学』90頁。

注(38) 前掲 「都鄙問答 巻ノ一 都鄙問答ノ段」 柴田実編『石田梅岩全集 上巻』 清文堂出版 41頁参照。注(39) 「都鄙問答 巻ノ二 或ル学者商人ノ学問ヲを譏ノ段」71頁参照

梅岩の言う「天」に関しての一部を、前掲「都鄙問答 巻三 生理問答の段」(『近世庶民教育思想 石門心学・下』697-871頁、112頁、及び「石田先生語録 巻廿三 或人性ノ字ヲ問」『石田梅岩全集』下巻 3

01頁から、抜粋して紹介する。

「天は形なうして心の如し、地は形有て物の如し、其生々する所は活物の如し。・・・其物を暫く名づけて、理とも性とも善とも云。」

「儒ニテハ性ト云ハ、即チ天ニ有ル所ノ理ナリ。何ヲ以ッテコレヲ理と云ハズシテ性ト云ナレバ、理ハ是レ汎ク天地ノ間ダ、人ヤ畜類艸木ヤ石カワラ等マデニ有ル上ニテハ理ト云、性ト云ハ是レ我ニ在ルノ理、只々コノ道理ヲ天ヨリ受ケ我ニ有所「トナス」故ニ、コレヲ性ト云フ。」



天=「理」とは何かを、主に朱子学ではどのように理解していたかを記しておく。

・「その究竟至極、名の名づく可きなきを以っての故に特にこれを太極という」(朱子文集、三六、答陸子静)「太極只一箇理字」(朱子語録、一、傑録)、「太極只是天地万物理」(朱子語録、一、淳録)、「何者不出於理」( 朱子語録、六五一、賀孫録)、「大極非是別為一物。即陰陽而在陰陽。即五行而在五行。即万物而在万物」(朱子語録、九四、広録)、「自大極至万物化生。只是一箇道理包括。非是先有此而後有彼。但統一箇大源。由体而断達用。従微而至著耳」(朱子語録、九四、端蒙録)。

右記に叙述されているように、天とは、存在の根源、・始源・超越・普遍・完全・全体性として捉えていることが窺える。

・「曰、如陰陽五行錯綜不条緒。便是理」(朱子語録、一、祖道録)とあるように、理の条緒の中に秩序・規範・法則・一貫性が解釈される。

・理は万物の生成・発展の根拠であり、万物の生成・発展を成り立しめる根拠でもある。また、「性即天理」であり「性則純是善底」(朱子語録、四、節録)であるので、理は善である。さらに朱子は、周濂渓の通書の「厥彰厥微。匪霊弗瑩(その彰かなる、その微なるは、霊に匪・あらざれば瑩・あきらかならず)」を注釈して、理の深微は理の所在である「心」の霊妙な働きをもってしても、測り知れないとしている。

・理としての仁に関しては、「仁は性なり。性はただこれ理のみ」(朱子語録、二十、端蒙録)、「仁只是一箇仁 。不是是一箇大底仁。其中又有一箇小底仁」、「仁は是根。愛是苗」(朱子語録、佐録)「仁只是愛底道理」(朱子語録、泳録)としている。















・「理は条理あり。仁義礼智皆これ有り」(朱子語録、六、節録)。理の所在である「心」は、従って、仁義礼智の性である。



注(40) 前掲「石田先生語録 巻廿三 或人性ノ字ヲ問」『石田梅岩全集』下巻 301~302頁参照。

「性ト云ハ是レ我ニ在ルノ理、只々コノ道理ヲ天ヨリ受ケ我ニ有所「トナス」故ニ、コレヲ性ト云フ。性ノ字、生に従ヒ心ニ従フ。是レ人ト生レ來リ是ノ天ノ理ヲ我ガ心ニ具フ。方ニコレヲ名ケテ性ト云。此性ヲ分ツテ大 ワリニシテ云ヘバ、仁義禮智ノ四ツ心ナリ。此ノ四ツヲ天ニ有テハ元享保利貞ト云。天命ノ元ヲ得テ我ニ在ル、 コレヲ仁ト云。天命ノ享ヲ得テ我ニ在ル、コレヲ義ト云。天命ノ貞ヲ得テ我ニ在ル、コレヲ智ト云。性ト命ト本ト二ツニ有ラズ、一物ナリ。天ニ有ルニヨリテ凡テコレヲ命ト云、人ニ有ル上ヘニテハコレヲ性ト云。・・・天ヨリ萬物ヘ賦ル處ニテハ命トナシ、人ノ手前ヘ受ル所ニテハ性トナシ、元享利貞ハ天ノ道ニシテ古今替ザル常ナリ。仁義禮智人タル物ノ綱ト云。綱ト云コトハ人倫ノ至極ヲスベテノコサズ、故ニ綱ト云。然バ仁義禮智ノ心ハ即チ性ナリ。天ノ元享利貞ハ即チ皆我身ニ具ル物ナリ。天ヨリ來ル故ニ吾性ヲ知レバ即チ自然ニ天ヲ知リ、知リ得テ見レバ直ニ人ハ天也。」



注(41) 梅岩は、『天』を知り=会得し得る『心』に関して、次のように述べている。

前掲「都鄙問答 巻之二 或学者商人の学問を譏の段」677頁、「都鄙問答 巻之三 性理問答の段」702頁、「都鄙問答 巻之四 或人天地開闢の説を譏の段」750頁参照、『近世庶民教育思想 石門心学・下』。

「心を知るときは、天理は其の中に備わる。」「天の心は人なり、人の心は天なり。」

「仁義礼智の性は、古今相續て不變、是天地に有りては元亨利貞と云。名は替われども、萬物の理は一なり、一物を知り得れば、一物の中に、萬物の理はこもれり、・・・汝も一理を明し得ならば、其時のこそ神聖(かみ)生其中(そのうちにあれます)・・・、」



注(42) 人間主体における「認識と行為」に関して、また、その過程と意義に関して、参考に記載しておく。

“So far, our reflection on the subject have been concerned with him as a knower, as one that experiences, understands, and judges. We have now to think of him as a doer, as ones that deliberates, evaluates, chooses, acts. Such doing, at first sight affects, modifies, changes the world of objects. But even more it affects the subject himself. For human doing is free and responsible. Within it is contained the reality of morals, of building up or destroying character, of achieving personality or failing in that task. By his own acts the human subject makes himself what he is to be, and he does so freely and responsibly; indeed, he does so precisely because his acts are the free and responsible expressions of himself.”

以上、“ A Second Collection Bernald Lonergan S.J. ”, Edited by W. R. Ryan, S. J. And B. T. Tyrrell,

S. J., Darton, Longman & Todd, London, 1974



倫理的領域での理性的意識について、“Insight ”, Bernard J. F. Lonergan, “Insight- A Study of Human Understanding ”, Philosophical Library, New York, 1968, p.611 を参照すると、次のように述べられている。

“I become rationally self-conscious inasmuch as I am concerned with reasons for my own acts, and this occurs when I scrutinize the object and investigate the motives of a possible course of action.”



注(43) 認識構造(認識)と倫理構造(倫理・行為)の関係について、前掲“ Insight ” p.618 を参考にすると、次のように述べられている。

“As metaphysics is corollary to the structure of knowing, so ethics is a corollary to the structure of knowing and doing; and as ethics resides in the structure, so the concrete applications of ethics are worked out by sprit inasmuch as it operates within the structure to reflect and decide upon the possible courses of action that it grasps. ”



「認識と行為」の一貫性の要請に基づく「一連の過程=倫理的構造」とその過程での働きを、次のように要約 できる。

イ 「善への志向性=倫理的志向性」は、「行為者としての行為」に関する「確実性」を質す次の三種類の問いを促し、その応えを行為者に迫る働きをする。

a 行為において実践可能な具体的方向性を質す

実践可能なそれぞれの営みが、「具体的にどのような営みなのか」・「どのような可能性を助長・拡大させ、どのような可能性を犠牲にするのか」「どのような影響を及ぼすのか」・「実際に可能なのか」等を





質す問いである。

b 実践可能な対象を志向している動機を質す問い

「志向している対象に対して、本当に同意できるか」・「志向している対象を実現することが、どれほど有益なのか、また、どれほど望まれているものなのか」・「志向している対象は、最初の想い(実践的可能性)と符合し、それをよりよく遂行・発展させるものなのか」・「志向している対象を実現するのは、今なのか」等の質問である。

前者 a の問いで、志向している対象を明白にし、その対象の「善さ」が顕著に顕れてくる。そして、後者 b の問いで、志向している動機を一層に明確にし、志向している対象の善さに更に惹きつけられ、選ぶべき対象(価値)と位置づけ、選択(価値判断)し得る情況が、益々、醸成される。それぞれの問いに対する十分な応え(対象の実現に向けての確実性)が得られるなら、通常は、それ以上に質す必要性はなくなる。

つまり、志向している対象が、具体的に可能であり、明確な効果があり、快く同意し得るものであり、確かに有益であり、倫理的に(=知識と行為の一貫性の要請に基づく)課せられたものである等のことが明確になってくるからである。しかし、或る場合は、新たな次の問いが起こる。

c 選ぼうとしている可能な具体的営み(価値)と選ぼうとしている主体に関しての問

それらは、「惹かれること自体、正しいのか」・「選ぼうとしているそのもの(価値)は正しいのか」・「 自己の向上に繋がるのか」・「本当に他者に対して貢献し得るのか」・「含蓄のある他の生き方が、まだ解かっていないからなのか」等の問いである。

上記の c の問いで、「志向している価値」と「志向している主体」の関係が把握され、「志向している価値を選ぶか、否か・その価値を実践するか、否か」へと向かわせる。

ロ 「善への志向性=倫理的志向性」には、「実践可能な具体的方向性」の内容が明白になると、その「善さ」へより惹きつける働きがある。

ハ 「善への志向性=倫理的志向性」には、惹かれた「善さ」の中から、その一つ(価値)を選択(価値判断)し得るよう仕向けていく働きがある。

ニ 「善への志向性=倫理的志向性」には、納得(決心=けつじょう)して選択した価値を「行い得る世界(天地万物の世界)」に「新しい意味のある実在」として付与するよう導く働きがある。

ホ 「善への志向性=倫理的志向性」には、善、価値に向かう際、惹かれ・魅せられる等のより豊かな感情を引き起こす重要な働きがある。

換言すれば、善への志向性には、天地万物である「経験し得る(感覚的)世界」が知的志向性の働きによって「知られ得る世界(可知性で構成され秩序付けられている世界)」となったように、「知られ得る世界」が「善さの世界(善さで構成され秩序付けられている世界)」であることを明らかにするように志向し得る

「力」である。また、この力は、志向性自体が既に方向付けられている対象(天地万物の善さの全体及び善さの全体を成り立たせている善自体)を志向し得る力である。

従って、「行い得る世界(価値の序列で構成され秩序付けら得る世界)」に知り得た善さを実現し得るよう志向する力である。端的に言えば、「価値の創造(生み出し育むこと)を始動する力」である。

また、「善の志向性」である「価値の創造を始動する力」は、人の生き方そのものを「価値」に向けて創





造し得るように促し、価値の創造によって日常生活を構築し得るよう始動する力である。そして、日常生活の構築を可能にする価値の世界が常に起こり得るよう、共同の善さ・秩序を追及し、それらを実際に有効な「実在」へと創造し得るよう促す力である。つまり、人が「善さ」に惹かれるのは創造のためであると言える。

“The intention of the intelligible, the true, the real, becomes the intention of the good, the question of value, of what is worthwhile, when the already acting subject confronts his world and adverts to his own acting in it. ・・・

There is good of value. It is by appealing to value or values that we satisfy some appetites and do not satisfy others, that we approve some systems for achieving the good of order and disapprove of others, that we praise human persons as good or evil and their action as right or wrong. ”

以上、前掲“ The Subject ”,“ A Second Collection Bernald Lonergan S.J. ” p.81を参照



注(44) 倫理的・実存的主体とは何か、前掲 “ The Subject ”,“ A Second Collection Bernald Lonergan S.J.”, p.79,83 で、端的に、次のように述べられている。

“ It is intention of the good in this sense that prolongs the intention of the intelligible, the true,

the real, that founds rational self-consciousness, that constitutes the emergence of the existential subject. ”

“ The existential subject freely and responsibly makes himself what he is, so too he makes himself good or evil and his actions right or wrong.”



注(45) 従って、梅岩には、「知る」・「行う」領域において、相当の修行を積まなければならないことが、次の資料内容で窺える。

前掲「石田先生事蹟」『近世庶民教育思想 石門心学・下』388 頁参照

「先生曰、生質(生まれつき)理屈者にて、幼少の頃より、友にも嫌はれ、只意地の悪き事有りしが、十四、五歳の頃ふと心付て、是を悲しく思えより、四十歳のころは、梅の黒焼のごとくにて、すこし酢があるやうにおぼえしが、五十歳の頃に至りては、意地悪き事は、大概なきやうにおもへり」、「先生五十歳の頃までは、人に對し居給ふに、何にしても意にたがひたる事あれば、にがり顔し給ふ様に見えしが、五十餘になりたまひては、意に違ひたるか、違はざるかの気色、少しも見え給はず、六十歳の頃、我今は楽になれたりとのたまえり、」



注(46) 前掲「都鄙問答 巻之四 學者ノ行状心得難キヲ問ウノ段」137頁、心に得て身に行う力を、特に、次のように言っている。

「徳トハ心ニ得テ身ニ行ウヲ云」



注(47) 前掲「石田先生事蹟」『近世庶民教育思想 石門心学・下』376 頁。

「先生、師の看病しゐたまいしに、たばこをのまんと乞給ひければ、先生承り、たばこに火を吸つけ、きせるの吸口を、そと紙にてぬぐひ、ゆびさしたまひければ、大ひに師の心にたがひ、師曰、汝がなす所、かくのごとくなれば、看病を、さぞむさくおもふらんとて、即時に先生を退けだし給へり、其時師の看病する者は、先生唯一人なるに、少しも近付ヶ給はざりけり、先生力なく次の間へ退き、涙をながし居給ふ、翌日同門の弟子来り、師へ、先生のあやまちを詫言せしにより、ようやく許されて、またつかへ給へり・・・」



注(48) 梅岩が『心』を会得する以前、或る老儒に『心』と何かを尋ねた時、果物の実を割りそこには芽吹く苗の形があるのを見せられ、これが「仁」と言われた事も合わせて深く弁えられたと考えられる。そのことについて次のように述べている。

「心ヲ知ルノ、性ヲ知ルノトアレバ、我ガ性ヲ知ラネバスマヌコトト思ヒ、何トゾ知リタシト心ヲ付テ問テ見

シ時、或ル儒ノ云、惣ジテ果ノ子?ヲ割テ見レバ又生ズル所ノ苗ノ形アリ。コレ即チ仁ナリト云ハレタリ・・ガテンユカザルヲ後ニゾ思ヒアタレリ。

カタジケナキコトハ尊師ニ逢奉リ、真道ヲ聞カカリ出入リ三年目程ニ成、病気付玉ヒ、末期ニ至テ漸薄々本心如是カト知リ、尊師死後ニ至テ彌々(イヨイヨ)決定セリ。」



以上、前掲「石田先生語録 巻百三十一 或士問曰、朱子学ニテ事ヲ取」『石門心学』91頁参照。

















注(49) 「仁ハ天ノ一元気ナリ、天ノ一元気ハ万物ヲ生ジ育(ヤシナ)フ。此心ヲ得ルヲ學問ノ始トシ、終トスル。呼吸存スル間ハ、心ヲ以テ性ヲ養フヲ我任トスルコトナリ。少シニテモ仁愛ヲ行ヒ義ニ合ヘバ安楽ナリ、我心ノ安楽ニナルヨリ外ニ教ノ道アランヤ」



以上、前掲「都鄙問答 巻之三 性理問答ノ段」『石田梅岩全集』上巻 清文堂出版 112 頁参照



注(50) 前掲「都鄙問答 巻之一 孝ノ道ヲ問ウノ段」『石田梅岩全集』上巻 清文堂出版 21頁参照、及び「都鄙問答巻之三 性理問答ノ段」105頁参照。



注(51) 例えば、梅岩が公開講釈を始めた際、女性も自由に聴講することが歓迎され、また、講釈し得る門弟には、記述の通り、商人階級の人々だけでなく、常陸下館藩士・河内國奉行 黒杉政胤、備中松山藩士 神戸友周等の武士階級や慈音尼蒹葭もいる。梅岩の継承者たちも、老若男女、また、身分を問わず、誰もが聴講できる体制を整えた。

このことは、それぞれが、「人の道」に目覚め、天からの命を自己のものとして、それぞれが自己を創造し得ることを願ってのである。つまり、人は天から授かった命を、自己のものとして責任をもって、それぞれに開花させていく勤めがあること、言い換えれば、人として互いが認め合う、生きていくための「命に与えられたそれぞれの義務と権利」が伺える。同時に、天から与えられた平等の「命」を、「人の道」において「如何に天に向かって生きていくか」の対等な生き方としての、それぞれの階級(役割・職業)の使命があることを窺わせる一例である。

注(52) 前掲「都鄙問答 巻之一 孝ノ道ヲ問ウノ段」『石田梅岩全集』上巻 清文堂出版 21 頁参照、及び「都鄙問答巻之三 性理問答ノ段」105 頁参照。



注(53) 前掲「都鄙問答 巻之一 都鄙問答ノ段」4頁、「都鄙問答 巻之三 性理問答ノ段」99頁、「都鄙問答 巻之一 播州ノ人學ノ事ヲ問ノ段」60頁『石田梅岩全集』上巻 清文堂出版参照。

梅岩は、「天」が成り立たせている秩序に基づく天地万物の現象世界(感覚の世界)を対象とする学問より、先ずは、「天」の世界にある「心の世界(形なき世界)」を知ることによって、人間社会を如何に創り上げていくかの重要さを、次のように記している。

「人倫ノ大原ハ天ニ出テ、仁義禮智ノ良心ヨリナス。」、「仁義禮智ノ良心ハ、ソノ五倫ヲ行(オコナハ)スル心ナリ、汝ハ此心ノ一ナルコトヲ不知」、「故(カカルガユヱ)ニ心ヲ知ルヲ學問ノ初メト云。」「心ヲ知ラズシテ法ヲ説ハ、桶大工ノコトヲ傳聞(ツタヘキヽ)輪ヲ斲(ケヅル)ガ如シ・・・コノユヱニ心ヲ知ルヲ要トス。」



注(54) 薩埵正邦による「東京法學社開校乃趣旨」「法律雜誌」第133号 時習社 明治13年9月 2~5頁

「明治十三年九月一二日東京法學社ヲ駿臺北甲賀街二開ク此日學友諸君ノ蕡臨ヲ辱フシ學生諸君ノ臨席セラルヽハ本社ノ面目何事カ之二若カム余ヤ淺學ヲ顧ミス敢テ本社教員ノ末席コ班シタルモノハ聊カ 希圖スル所アレハナリ仍テ左二其趣旨ヲ陳シ以テ祝辭に代エムト欲ス

今余儕同士ノ者相謀リテ本社ヲ設立スルノ目的ハ我同胞兄弟ヲシテ權理義務ノ何タルヲ辯識シ且皇國ノ法典ヲ熟知セシメ以テ明治ノ文明ヲ椑補セムト欲スル二在リ

凡ソ學ヲ大別スルトキハ則チ二種アリ一ハ無形學(スシヤムス・モラーアル)二シテ人間行爲ノ標準トナルヲ

















目的トスル所ノ道學法學及ヒ文地理物理性理ノ諸學即是ナリ此無形有形ノ二學ハ其二世上有要ノ學ナルハ論ヲ俟ザルナリ・・・然り而して有形學ハ假令妄想ノ誤アルモ人ヲシテ幸福ヲ享けシメ社會ヲシテ盛大ナラシム ルノ妨ケトナルナシ・・・無形學ノ誤謬ハ社會ヲ滅亡スルニ足ルト謂ヒシ所以ナリ・・・

本社ヲ設立シ我同胞兄弟ト共ニ法律ヲ研究シ以經濟學即チ是ナリ又其一ハ有形學(スシアムス・マテマチツク・エビジュク)ニシテ宇宙間ノ顯象ヲ説明スルヲ目的ト為ス所ノ天テ法學ノ普及ニ至リ終ワリニ法律ハ何人ト雖

モ之ヲ知ラサルモノニ非ズト見做ストノ法言ヲシテ其實ニ近キニ至ラシメムト欲スル所以ナリ」

注(55) 松尾章一「薩埵正邦小伝(二) -法政大学の創立者-」 法政大学社会学部機関誌『社会労働研究』第 14 巻3号 1968 年 58 頁 注(2)「徳軒薩埵先生事跡略」の引用参照。





主な参考文献:

1. 石川謙著「石門心學史の研究」 岩波書店 1975年 第3版発行

2. 竹中靖一著「石門心学の経済思想」 ミネルヴァ書房 1998年増補版

3. Bernard J. F. Lonergan, “ Insight A Study of Human Understanding ”, Philosophical Library , New York, 1968

4. “COLLECTION Papers by BERNALD LONERGAN ”, Edited by F. E .Crowe, S. J. Herder and Herder, New York, 1967

“A Second Collection BERNALD LONERGAN S.J. ”, Edited by W. R. Ryan, S. J. And B. T. Tyrrell, S. J.,

Darton, Longman & Todd , London, 1974

5. J. Eduardo Perez Valera, S. J.著「不思議の国の私-B.ロナーガンによる哲学と方法への入門-」(株)ぎょうせい 2005 年









日 時: 2006 年 5 月 20 日(土) 15:00~16:30

会 場: 法政大学市ヶ谷キャンパス ボアソナード・タワー25F イノベーション・マネジメント研究センター セミナー室

司 会: 洞口治夫(法政大学大学院

イノベーション・マネジメント研究科教授)














本文関連写真



五樂舎跡:富小路三条下ル





















時習舎跡:今出川千本通東入











脩正舎跡:五条通東洞院東入

























石田梅岩肖像画 (石田家所蔵)















薩埵徳軒肖像画





















石田家邸宅 (梅岩の生地 :京都府亀岡市東別院東懸)















梅巌講釈の圖 享和 2 年板 「石田勘平一代記」より















京都 大徳寺奥院 芳春院 (薩埵正邦先生の当時の菩提寺)











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薩埵正邦に至る 石門心学者の系譜 ( 一部、略式 ) 別紙1















石田梅岩


齋藤全門 鎌田一窓 脇坂義堂 略木村重光

小森賣布

杉浦止齋 略

神戸友周黒杉政胤

富岡淨敬 布施松翁 鎌田柳泓 略慈音蒹葭



中澤道二 大島有隣 中村徳水・・・・・・・・・・・・・・略・・・・・・・・(江戸 參前舎 舎主系譜)有山薫圃





手島堵庵

(1718-

1786 )


手島和庵 上河淇水 手島齋庵 手島毅庵・・・・・・・略・・・・・・・・・(京都 明倫舎 舎主系譜) (1747- (1748-

1791) 1817)



(參州 薩埵元雄)

(-1797 )


薩埵徳軒 (1778-


薩埵誠齋 薩埵天放 薩埵雄助 薩埵正邦 (京都 時習舎 舎主系譜) (-1832) (-1841) (-1862) ( 1856-





寺井譲元


1836 )


1897 )

柴田鳩翁 柴田遊翁 柴田敏齋 柴田講堂・(京都 修正舎 舎主系譜)









中井利安淺井祐敬






奥田頼杖


奥田玄深 近藤道徳 奥田玄宗・・・略・・・(京都 樂行舎 舎主系譜)



中山甫門 入江到身 入江義質・・・・・・・略・・・・・・・・ (京都 恭敬舎 舎主系譜)



略 略 略












別紙2

論語【漢】 一三三(七五)



孟子【漢】 一一六(五四)






「都鄙問答」にある参考・引用書一覧表(著書作成のため参考として使用された回数)

中庸【漢】 二〇( 九)



大学【漢】 二〇( 五)

易経【漢】 一四( 七)



書経【漢】 十二( 三)

小学【漢】 一一( 一)

礼記【漢】 一一( 一)

孝経【漢】 七( 三)

日本紀【国】 七( 五)

和論語【国】 六( 二)



近思録【漢】 四( 一)

詩経【漢】 四( 三)

字彙【漢】 四

性理大全【漢】 四( 一)

太極図説【漢】 四( 一)

徒然草【国】 四( 二)



法華経【仏】 四( 一)






Hosei University Repository

[円光大師語・歌]【仏】 四



大原問答【仏】 三( 一)


観無量寿経【仏】 三( 一)

史記【漢】 三

資治通鑑【漢】 三( 一)

説文解字【漢】 三程子(二程全書)【漢】 三

韓文集【漢】 二( 一)

景徳燈録【仏】 二

華厳経【仏】 二

語孟字義【漢】 二

人物備考【漢】 二

釈子通鑑【仏】 二

荀子【漢】 二( 一)

性理字義【漢】 二

素問【漢】 二( 二)

無量寿経【仏】 二

老子【漢】 二( 二)

一枚起請文【仏】 一( 一)



韻府【漢】 一

[円光大師語]【仏】 一往生要集【仏】 一


観心略要集【仏】 一

顔氏家訓【漢】 一

居家必要【漢】 一

九条殿遺誡【国】 一

[御高札]【国】 一



西方要訣【仏】 一

三国史(志)【漢】 一

三社託宣【国】 一

三蔵法数【仏】 一

四部録坐禅儀【仏】 一

釈氏錙銖【仏】 一



朱子語録【漢】 一聖徳太子明眼論【仏】 一

寿量無辺経【仏】 一( 一)

随願往生経【仏】 一( 一)

[世尊見星悟道語]【仏】 一千載集【国】 一

荘子【漢】 一( 一)

大戴礼【漢】 一

涅槃経【仏】 一


般若燈論【仏】 一

毘婆娑論【仏】 一

文中子【漢】 一






(括弧内の数字は、「都鄙問答」本文中に引用された回数)

風俗通【漢】 一



[仏土章]【仏】 一



北条九代記【国】 一

無門関【仏】 一

名義集【仏】 一

蒙引【漢】 一

文選【漢】 一

[遊行上人歌]【仏】 一



維摩経【仏】 一

楊子法言【漢】 一( 一)

六祖壇経【仏】 一

李卓吾集【漢】 一

臨済録【仏】 一

[霊雲志勤禅師語]【仏】 一倭漢朗詠集【国】 一




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