日本のキリスト教史
日本の歴史 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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Category:日本のテーマ史 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本のキリスト教史(にほんのキリストきょうし)では、日本におけるキリスト教の歴史とその展開について述べる。
日本の宗教全般については「日本の宗教」を参照のこと。
世界のキリスト教の歴史については、「キリスト教の歴史」を参照のこと。
概要[編集]
「日本にいつキリスト教が到来したか?」という日本の歴史上の問いに関しては、ネストリウス派キリスト教(中国で景教と呼ばれたもの)が5世紀頃、秦河勝などによって日本に伝えられたとする説・研究がある[注釈 1][1][注釈 2]。ただし、歴史的証拠や文書による記録が少なく、はっきりしない点も多い。
歴史的・学問的に見て証拠が多く、高等学校日本史の文部科学省検定済教科書で、キリスト教の日本への最初の伝来となっているのは、「1549年にカトリック教会の修道会であるイエズス会のフランシスコ・ザビエルによる布教」である[要出典]。
戦国時代のさなかであり、当初は、ザビエルたちイエズス会の宣教師のみで、キリスト教の日本布教が開始された。
宣教師たちは、日本人と衝突を起こしながらも布教を続け、時の権力者織田信長の庇護を受けることにも成功し、順調に信者を増大させた。
しかし、豊臣秀吉の安土桃山時代には、勢力を拡大したキリスト教徒が、神道や仏教を迫害する事例が起こった[信頼性要検証][注釈 3][注釈 4]。他、ポルトガル商人によって日本人が奴隷貿易の商品となって海外に人身売買[注釈 5][注釈 11]されているという話も出ており[注釈 7][28][29][30]、これを耳にした秀吉は、バテレン追放令を発布し、宣教を禁止した[信頼性要検証][注釈 12]。秀吉が奴隷貿易に怒って追放令を発したとの説もあるが、最新の研究はこの説を否定している[32]。
しかし、この時は南蛮貿易の利益が優先され、また下手に弾圧すると、九州征伐で平定したばかりの九州での反乱が考えられたため(当時の日本では、特に宣教開始の地である九州地方でキリシタン大名や信者(キリシタン)が多かった)、本格的な追放は行われず、宣教活動は半ば黙認されていた。だが、サン=フェリペ号事件が起きたころ、秀吉はキリスト教の本格的な弾圧を開始した。
やがて時代が移り、関ヶ原の戦いで勝利を収めて豊臣政権に代わって、天下統一を成し遂げた徳川家康の江戸時代には、一時的に布教は認められた。しかし、その後は江戸幕府が禁教令を出し、キリスト教を禁教として鎖国政策を採ったため、宣教師はもちろん、外国人も許可無しでは日本に入国できなくなった。
一方で檀家制度を整備して、キリスト教徒をあぶり出すため、庶民に踏み絵を踏ませた。その間、江戸時代の末まで、一部の信者たちが密かにキリスト教の信仰を伝えていくこととなった。この信者たちのことは「隠れキリシタン」と呼ばれている。
やがて明治維新が起き、江戸時代は終わった。明治には欧米列強と不平等条約を結ばされ、諸外国と対等になろうと必死であった明治政府は日本の近代化を図り、富国強兵や殖産興業、文明開化といった政治・法律・経済・軍事など、西洋式に倣ってあらゆる分野の改革を断行した。その中には、国内でのキリスト教の布教・国民の信仰許可も含まれており、完全ではなかったものの信教の自由が法的にも保障された。
以後、キリスト教は再度日本での布教を開始していった。戦国時代ではカトリックが主であったが、明治以降はプロテスタントや正教会など、各派が布教を行った。この時、クリスマスなどのいくつかの行事が日本に持ち込まれ、日本の文化の一つとして定着していった。
第二次世界大戦が始まると、「敵国の宗教」ともみなされたキリスト教も神道や仏教など他の宗教と同じく、政府・大本営から戦争協力を命じられ、それを拒絶した宗教団体は、特別高等警察から徹底的に弾圧されることとなった。第二次世界大戦がと日本の敗北で終結すると、日本ではほぼ完全な形での信教の自由が日本国憲法で(第20条)保障され、不自由のないキリスト教の布教が開始された。
英国国教会[33]とルーテル教会[34]はフランシスコ・ザビエルを崇敬し、命日の12月3日を記念日としている。日本二十六聖人についてもルーテル教会、英国国教会、聖公会は殉教した日の2月5日または翌日の2月6日を記念日としている[35]。
現在、キリスト教の文化は(教会での結婚式やクリスマスなどに象徴されるように)日本の文化に様々な影響を与えている。しかし、日本は公的機関が宗教の割合を詳しく調査していないので不明な点もあるが、キリスト教の信者そのものは、カトリック・プロテスタント・正教会の全てを合計しても、日本人全体の1%前後程度といわれている。文化庁の宗教年鑑では、信者数で1%となっている[36]。また、CIAの調査によると、日本のキリスト教徒の割合は1.5%ほどと推定されている[37]。東京基督教大学の日本宣教リサーチによれば、2014年の日本のキリスト教人口は約104万人で、日本の全人口のうち、0.82%となっている[38]。2018年も信者数の概数は105万人で、対人口比で0.83%で、概数は変わっていない[39]。
各国の宗教団体には普遍的に見られることだが、日本のキリスト教団体も、教義や伝道方法への考え方の相違、行動方針や政治的主張を巡っての対立があり、多くの諸団体に分かれている。それぞれの団体は、協力、もしくは対立関係にある。
戦国時代から安土桃山時代[編集]
背景[編集]
16世紀、ドイツ(当時の神聖ローマ帝国)でマルティン・ルターが起こした宗教改革が各国に波及しており、カトリックのお膝元のイタリアでさえ教皇の権威に陰りが見えていた。
カトリック教会は、権威を取り戻すために遠くアジアでの布教活動も視野に入れ始めていた。信者数が増えればプロテスタント勢力への牽制にもなる。また、金銭的な問題からも、アジア布教は急務と教会上層部は考えていた。当時は贖宥状(免償符)への風当たりが強くなったため、売り上げが急減しており、カトリックの財政事情に影響を及ぼしていた。アジアの有力者を信者にすれば、カトリック教会への莫大な献金が期待できた。なお、贖宥状の金銭での売買は、トリエント公会議の決議によって1563年に禁止されている。
このようなヨーロッパの宗教事情が、日本にイエズス会やフランシスコ会の宣教師が入国する下地となっていった。
宣教師は、アジアへ活発に派遣されていった。まず、植民地化が進んでいたインドや東南アジアに大量に送り込まれた。宣教師たちはさらに東にも目を向け、やがて極東にまで進出してくるようになった。
フランシスコ・ザビエルによる宣教活動[編集]
イエズス会(カトリック教会の修道会)の創設メンバーの一人で、西インドで宣教活動に従事していたバスク人司祭フランシスコ・ザビエルがマラッカで知り合った「ヤジロウ」(アンジロウとも)という日本人によって、日本のことを知り興味を抱いたことが、日本における宣教活動のきっかけとなった。
1549年に始まるザビエルによる宣教活動が、日本へのキリスト教の最初の伝来で、これは歴史事実として教科書等に記述されて、一般にも広く知られている。
フランシスコ・ザビエルとイエズス会[編集]
ザビエルは、ヤジロウやコスメ・デ・トーレス、ジョアン・フェルナンデスらとともに8月15日(この日は「聖母マリアの被昇天の祭日」に当たり、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げた。)鹿児島に上陸し、2年3か月にわたって宣教活動を行った。
ザビエルは「日本国王」(天皇)の宣教許可を得ようと薩摩藩から平戸、山口、堺を経て京にたどりついたが、当時の京都は戦乱で寂れきっていた。天皇の権威も失墜しており、征夷大将軍も不在であったため、ザビエルは目的を果たせなかった。その後、言語や文化の違いなど多大な困難を乗り越えながら、徐々に日本人協力者を得ることができ、700名ほどに洗礼を授けた。各地を旅する中で、ザビエルは日本文化に中国が大きな影響を与えていると見抜き、中国宣教を志して広東の上川島に上陸したが、中国本土を目前にして病没した。
日本人を「もっとも優秀で理性的な国民」であると評価したザビエルは、イエズス会本部にさらなる宣教師の派遣を依頼。それに応えて優秀な人材が積極的に日本に送られた。ザビエル以降、ガスパル・ヴィレラ、ルイス・デ・アルメイダ(豊後府内に日本最初の病院を開設)、ルイス・フロイス(織田信長や豊臣秀吉と会見し、『日本史』を記す)、ガスパール・コエリョなどのイエズス会員が日本に来航し、布教活動にあたった。
また、ザビエルは日本の首都に神学部、法学部、ならびに医学部を兼ね備えたカトリック系の総合大学を建学するという夢を抱いていたが、彼の夢は1913年にイエズス会士によって上智大学が東京に建学したことによって叶えられた(ただし、上智大学において医学部は設置されていない)。なお「上智」とは「ソピアー」の訳である。
日本での布教活動[編集]
日本では、他の植民地化されたアジア地域と異なりヨーロッパの影響が及ばず、本国の軍事的・経済的な支援が無かった。そのため、宣教師たちはまずその土地の大名などの有力武将と会見し、南蛮貿易の利益などを訴えながら布教の許可を得ると共に、安全の確保を図った。これ以前、1543年にはポルトガルの船が種子島に難破しており、火縄銃などが伝来していた。大名は、独自に南蛮人との交易の道を模索している真っ最中であり、その南蛮との窓口になりうるザビエルたちは、来日当初、大名たちから基本的に歓迎された。
布教の中心的な役割を果たしたのは、ロレンソ了斎・籠手田氏・一部氏[40]・木村氏[41](末次平蔵の父親の末次興善[42]・セバスチャン木村)・ガスパル西・トマス西らなど、肥前国の平戸島・生月島の者達であった。
この過程の中でキリスト教に触れた大名たちの中にも、洗礼を受けるものが現れた。彼らがキリスト教を信仰した理由は、キリスト教の理念に真剣に惹かれた者の他、単に南蛮との貿易をより円滑かつ大規模に行いたいため、または南蛮の文化や科学技術を習得する目的から信仰するようになった者もいた。彼らはキリシタン大名と呼ばれており、特に有名なものとして大友宗麟、大村純忠、有馬晴信、結城忠正、高山友照および高山右近親子、小西行長、蒲生氏郷などがいる。
なお布教当初は、言葉の問題や、ヤジロウが聖書のデウス(神)を「大日」と訳したこと、ザビエルらが仏教発祥の地であるインド(天竺)から来たこと、日本人の間で「外来の宗教と言えば仏教」という考えが強かったことなど、複数の要因からキリスト教は「天竺教」「南蛮宗」などと呼ばれ、仏教の一派と誤解されることも多かった。布教当初、「知らずに仏教用語を使っていたことがキリスト教の正確な理解を妨げている」と認識したザビエルらは、すぐに仏教用語をできるだけ廃した「原語主義」を採用していくこととなる。
イエズス会の宣教方針に則り、日本における宣教方針は、日本の伝統文化と生活様式を尊重すること、日本人司祭や司教を養成して日本の教会を司牧させることにおかれた。これは同時代のヨーロッパ人の、非ヨーロッパ文化に対する態度としては他に例をみないものであった。「適応主義」と呼ばれたこの指針によって日本での宣教は順調に進んだ。しかし日本人には司祭になる能力も適性もないと考えて軽視したフランシスコ・カブラルが布教長であった時代、ポルトガル人と日本人たちの間で溝が深まって宣教活動が停滞した。
イエズス会本部からの巡察師として日本を訪れたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは各地を回って実情を視察した上で、カブラルを解任してその方針を否定、従来行われていた適応主義の復活を命じた。ヴァリニャーノは日本人司祭の養成を急務とし、各地にセミナリオ(小神学校)とノビシャド(修練院)、コレジオ(大神学校)を設置した。これらの学校では当時の学術語であったラテン語、日本語および哲学・神学、自然科学、音楽、美術、演劇、体育と日本の古典を必修科目として学習させていた。これは人文主義的素養を重視したイエズス会の教育方針によるもので、イエズス会による教育は日本の明治以降の学校教育の先取りともいえるものであった。
さらにヴァリニャーノは将来の日本を担う少年たちに直接ヨーロッパを見せ、同時にヨーロッパに日本の存在をアピールしようと天正遣欧使節(1582年 - 1590年)を企画。イエズス会員に伴われた四人の少年たち(伊東マンショ、原マルティノ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン)はヨーロッパ各地で熱狂的な歓迎を受け、使節の企画は大成功を収めた。
宣教師の受けた誹謗中傷[編集]
宣教師に対する誹謗中傷の中でも顕著なものに、人肉を食すというものがある[43]。フェルナン・ゲレイロの書いた「イエズス会年報集」には宣教師に対する執拗な嫌がらせが記録されている。
司祭たちの門口に、夜間、死体を投げこみ、彼らは人肉を食うのだと無知な人たちに思いこませ、彼らを憎悪し嫌悪させようとした[44]
さらに子どもを食べるために宣教師が来航し、妖術を使うために目玉を抜き取っているとの噂が立てられていた[45]。仏教説話集『沙石集』には生き肝を薬とする説話があり[46]仏教徒には馴染みのある説といえ、ルイス・デ・アルメイダ等による西洋医療に対する悪口雑言ともとれるが、仏僧である大村由己が執筆した『九州御動座記』にある宣教師が牛馬を生きたまま皮を剥いで素手で食べるとの噂とも共通するものがある。
社会的摩擦[編集]
日本初の南蛮外科医である修道士ルイス・デ・アルメイダは、有馬晴純は領内にあった十字架を倒し、キリスト教徒が元の教えに強制改宗するように命じたと1564年十月十四日付、豊後発信の書簡で言及している[2]。1563年十一月七日頃[3]には横瀬浦港にある修道院が焼かれ、次いですぐにキリシタンの農民たちの家が焼かれたという[4]。1573年には深堀純賢によってトードス・オス・サントス教会が焼き払われた[5]。こうしてキリスト教と仏教の信者間での対立関係が悪化していたが[6]、日本におけるイエズス会の責任者であるヴァリニャーノは寺社の破壊を禁じていた[47][注釈 3]。
豊臣秀吉とキリスト教[編集]
織田信長は宣教師たちに対して好意的であった。信長の後を継いだ豊臣秀吉も基本的に信長の政策を継承し、宣教師に対して寛大であった。
しかし、秀吉の天下統一目前の1587年、九州征伐の途上で宣教師やキリシタン大名によって多数の神社や寺が焼かれ、仏教徒が迫害を受けている[信頼性要検証]ことを知り、また、日本人がポルトガル商人によって奴隷として海外に売られていた[注釈 7][注釈 11][注釈 5][注釈 12][注釈 8]こと、そして最大の要因である長崎・浦上・茂木がイエズス会領となり且つ要塞化されている[注釈 13]ことなどを理由とし九州征伐完了直後、筑前箱崎において、秀吉に謁見するため長崎から来ていた布教責任者であるガスパール・コエリョに対し、バテレン追放令を発布し宣教師の国外退去命令とキリスト教宣教の制限を表明した(この時、秀吉がバテレン追放令を発布した理由については、さまざまな説がある。詳細はバテレン追放令の項を参照)。
これに対してコエリョは、有馬晴信などキリシタン大名に秀吉と敵対するよう要請、さらに武器・弾薬の支援を約束した[51]。しかし有馬晴信は、既に天下人の座をほぼ手中に収めていた秀吉と敵対する気はなく、この要請は実現されなかった。以後、イエズス会は秀吉を刺激するのを恐れ、公の宣教活動をしばらく控えるようになる。
一方、秀吉は追放令を発布こそしたが、以後も実質上キリシタンは黙認したため迫害などはほぼ行われなかった。なぜなら秀吉はポルトガルを通じての南蛮貿易に積極的であったため、追放令の徹底を図らなかったと考えられている[注釈 14]。そのため、宣教師たちは立場こそ不安定だったものの、この時点ではまだかなり自由な宣教活動を続けていた。
1591年、インド総督の大使としてヴァリニャーノに提出された書簡(西笑承兌が秀吉のために起草)によると、三教(神道、儒教、仏教)に見られる東アジアの普遍性をヨーロッパの概念の特殊性と比較しながらキリスト教の教義を断罪した[54]。秀吉はポルトガルとの貿易関係を中断させることを恐れて勅令を施行せず、1590年代にはキリスト教を復権させるようになった[55]。勅令のとおり宣教師を強制的に追放することができず、長崎ではイエズス会の力が継続し[56]、豊臣秀吉は時折、宣教師を支援した[57]。
現在、神奈川県中郡大磯町の澤田美喜記念館に伝わる絵巻物『ご聖体の連祷と黙想の図』は、この時期の1592年(天正20年)に製作されたと目され、日本に現存するもので最古級のキリスト教絵画とされる[58]。
しかし、豊臣政権の末期になってスペイン領であったフィリピンとのつながりが生まれ、フランシスコ会やドミニコ会などの修道会が来日するようになると事態は複雑化する。彼らは日本宣教において、当時のイエズス会の(社会的に影響力を持つ人々に積極的に宣教していくという)やり方とは異なるアプローチを試み、貧しい人々の中へ入っての直接宣教を試みた。けれども、これらの修道会がイエズス会のように日本文化に適応する政策をとらずに秀吉を刺激した(たとえば日本では服装によって判断されると考えたイエズス会員の方針と異なり、彼らは托鉢修道会としての質素な衣服にこだわった)ことや、イエズス会とこれら後発の修道会の対立が激化したことで、日本での宣教師の立場は徐々に悪化していく。
そして1596年のサン=フェリペ号事件をきっかけに、秀吉はキリスト教への態度を硬化させ、1597年、当時スペインの庇護によって京都で活動していたフランシスコ会系の宣教師たちを捕らえるよう命じた。これが豊臣秀吉の指示による最初のキリスト教への迫害であり、司祭や信徒あわせて26人が長崎で処刑された(日本二十六聖人の殉教)[注釈 15]。
江戸時代[編集]
秀吉没後、実権を掌握した徳川家康は当初キリスト教宣教を黙認していた。たとえば1598年にはスペイン人宣教師ヘロニモ・デ・ヘスースにスペイン船来航の斡旋を依頼し、江戸における教会の建設と布教許可を与えており、東京駅八重洲北口遺跡からはこの頃のキリシタン墓が、帰依したと思われるアジア人の人骨とともに見つかっている[60]。家康はキリスト教そのものには一貫して無関心であった。これは、三河一向一揆で宗教に苦しめられた記憶があったからとの説がある。家康は将軍職を徳川秀忠に譲り、大御所として駿府に引退した後の1607年にもイエズス会員フランシスコ・パジオを引見し、外国人宣教師の滞在と布教の許可を与えている。
しかし一方で家康は海外との貿易の実利を求めていた。1600年にオランダ船リーフデ号が漂着し、イングランド人航海士ウィリアム・アダムスやヤン・ヨーステンが家康に仕え始めると、家康は、彼らから最新の欧州事情の情報を得た。かつての強国スペイン・ポルトガルに対して、新興のイングランドやオランダがアルマダの海戦や八十年戦争(オランダ独立戦争)などで勝利して追い上げている当時のヨーロッパ情勢を理解し、両陣営を競わせながら貿易の実利を得ることを狙っていたのである(ウィリアム・アダムスは、実際にアルマダの海戦に参戦していた)。
また、プロテスタント国家のオランダは「キリスト教布教を伴わない貿易も可能」と主張していたため、家康にとって宣教師やキリスト教を排除する理由はない代わりに積極的に保護する理由もなかった。事実、オランダは東南アジアの植民地において、(経済的な搾取や文化の弾圧は行っていたものの)現地の宗教や政治形態に対してはあまり干渉しない方針を基本としていた。
しかし1612年に岡本大八事件(有馬晴信がからんだ疑獄事件)が起こると、関係者がどちらもキリシタンであったことから、家康はそれまでの態度を一転して諸大名と幕臣へのキリスト教の禁止を通達、原主水などキリシタンであった旗本が改易された。翌年になると側近以心崇伝の手による「排吉支丹文」によってキリスト教信仰の禁止が明文化され、全国で迫害が行われるようになった。1616年に徳川家康が亡くなると、「東照大権現」とされて神として祀られたこともキリスト教禁止に影響を与えたとする見方もある[61]。
1616年のニ港制限令は、イギリス商館長リチャード・コックスが江戸にいる間のことだったが、これはコックスがオランダとイギリスに関してした発言が彼が意図した以上に幕府に警戒感を抱かせたことが発端となった可能性が指摘されている[62][注釈 16]。
1619年に京都で52名が殉教し、1622年に長崎で55名が殉教(元和の大殉教)、1623年江戸でも55名が殉教した。以後、禁教令の解除まで約250年の間、キリスト教徒は幕府と幕府の庇護する仏教徒、神道信者などにより迫害されることになる。
ただ、禁令の徹底は地方によって異なり、例えば松前藩などは、幕府に対して「領内にはキリシタンはなし」と報告していたものの、実際には取り締まりは緩く、多くのキリシタンが本州から逃れてきていた。松前藩のこの姿勢は、1637年に島原の乱が起きてキリスト教禁止の命令が徹底されるまで続いた[68]。
一方、神仏習合・多神教の宗教的秩序の上にあり、天皇・院(太上天皇)自らが神道の祭祀を主宰し、仏教の祈祷を実修し続けてきた朝廷にとって、一神教のキリスト教は早くから警戒され、排除が試みられる対象であった。キリスト教禁止は江戸幕府と朝廷が連携・協同して取り組める方針で朝幕関係にとっても望ましかった[69][70]。
アメリカ合衆国の歴史家ジョージ・エリソンはキリスト教徒迫害の責任者をナチスのホロコーストで指導的な役割を果たしたアドルフ・アイヒマンと比較した[71][72]。
島原の乱[編集]
1637年に肥前島原と肥後天草で百姓身分の者たち(農民やかつてキリシタン大名の家臣であった元武士たちなどから構成された)3万人が蜂起した事件は、幕府に衝撃を与えた。これが島原の乱である。蜂起の直接的原因は島原藩と唐津藩(天草を所領)による残酷な収税制度にあったが、同地にはキリシタン大名であった有馬晴信、小西行長の統治時代に入信したキリシタンが多く、一揆の盟約結成の求心力としてキリスト教信仰を基盤においた内部統制も行われたこと、そのことが一向宗、法華宗などのような求心性の強い宗教勢力が排他的な一揆的結合の核となって強大な政治勢力を築いた事態の再来する危機を感じさせたこと、さらには幕藩体制のゆがみが明るみに出ることを幕府が恐れたことから「キリシタンによる反乱」と単純化されて規定され、原城陥落後に1名の内通者を除く参加者全員が殺害された。なお、当時の島原藩主松倉勝家は、農民の生活が成り立たないほどの収奪を行ったかどで斬首され、同様に唐津藩主寺沢堅高は天草の領地を没収されて、その後自害している(江戸期を通じて、一藩の藩主が切腹でなく斬首となったのはこの松倉勝家の1例のみである)。
この事件を重く見た幕府は、禁教を徹底させる観点から、カトリック国であるポルトガルとの断交を望むようになり、1638年にはカピタン・モールの将軍への謁見を拒否している。また、キリシタンをあぶりだすために絵踏や、キリシタンを密告した者に報奨金を与えようとした。だが幕府は、ポルトガルがマカオからもたらす中国産の生糸などに日本市場が大きく依存していたことから、ポルトガルとの貿易の途絶をためらった。
しかし、1639年に、オランダ商館長のフランソワ・カロンが江戸に参府した際に、幕府はオランダの植民地である台湾経由でも中国産の生糸などを確保できることをカロンから確認できたことで、ポルトガルとの断交に踏み切ることになった。そして、長崎奉行や西国大名に、ポルトガル船の来航の禁止と、九州沿岸の防備体制の確立を求めた通達(「第五次鎖国令」)を発布し、ポルトガルを長崎の出島から追放した。1641年には、商館にあった西暦に関するものを理由として、オランダの商館も平戸から長崎の出島に移転され、商船の入港が統制・制限されるようになった。各地で宗門改制度や檀家制度が整備されると、キリスト教の禁止は幕藩体制の根幹に組み込まれていく。
キリスト教の禁令はローマカトリック教会に限定されていたわけではなく、平戸のオランダ倉庫はキリスト教の年号(1639年)を使用したことを理由に破壊され[73]、オランダ人墓地も同時期に破却、死体は掘り返され海に投棄された[74]。1654年、ガブリエル・ハッパルトは長崎での陸上埋葬の嘆願をしたが、キリスト教式の葬儀や埋葬は認められず、日本式で行うことを条件に埋葬が許可された[75][76][77][注釈 17]。
オランダ人の記録によると、徳川家光はオランダ人の宗教がポルトガル人の宗教と類似したものであると理解しており、オランダ人を長崎の出島に監禁した理由の一つにキリスト教の信仰があったとしている[81][注釈 18]。
エンゲルベルト・ケンペルは1690年代の出島において、オランダ人が日本人による様々な辱めや不名誉に耐え忍ばなければならなかったと述べている。キリストの名を口にすること、宗教に関連した楽曲を歌うこと、祈ること、祝祭日を祝うこと、十字架を持ち歩くことは禁じられていた[82][注釈 19]。
鎖国[編集]
壊滅したかに見えたキリスト教徒たちであったが、九州の一部などでは信徒たちが宣教師たちの教えを口伝えに伝え、水方や帳方といった信徒組織を形成することで、親から子へ、子から孫へと密かに信仰を伝えていった。これが隠れキリシタン(潜伏キリシタン)である。彼らは仏教徒を装いながらも信仰をひたすら守り、キリスト教を自由に信仰できる日が来るのを待ち続けた。
それでも発覚する場合があり、一つの地域で大勢のキリシタンが一斉に見つかり、信仰共同体が崩壊する、いわゆる「崩れ」がたびたび起こった。濃尾崩れのように、信者の大量処刑により、キリシタンがほぼ根絶されて幕を閉じた事件もあれば、浦上一番崩れや浦上二番崩れ、天草崩れのように、混乱を恐れ江戸幕府が、信者を赦免した事例もある。
ヨーロッパのカトリック教会は、キリスト教徒が完全追放された日本に興味を持ち続けた。日本における教会の発展と受難の物語はヨーロッパで語り継がれ、多くの人々がこの東洋の国への再宣教の日が来ることを待ち続けた。
鎖国令以降、江戸期の日本に渡航した数少ない宣教師の一人に、イタリア人教区司祭ジョバンニ・シドッチがいる。シドッチは鎖国下の日本への渡航を願い、教皇庁に許しを求めていた。教皇庁は殉教することが明白な地に司祭を送ることはできないと拒絶したが、シドッチの再三の願い出に教皇クレメンス11世は特別な許可を与えた。
1708年、シドッチは苦労の末に屋久島へ上陸したが、すぐに捕らえられ、長崎を経て江戸に送られ、死ぬまで切支丹屋敷にいた。江戸では儒学者新井白石が取り調べにあたったが、シドッチの人格の高潔さと学識に感銘を受け、尋問というよりは対話という形で、多くの新知識を学び取った。その成果が『西洋紀聞』『采覧異言』である。
アイヌへの布教[編集]
アイヌは、数多くのカムイを崇拝する独自の宗教観を有していた。
江戸時代の初期、蝦夷地(現在の北海道)の一部を治めていた松前藩は、アイヌが「日本風俗に化し染まぬ様」にすることを掟としており、日本語使用、和人風の服装をした場合は罰則があったため、独自の宗教観を保っていた[85]が イエズス会のジロラモ・デ・アンゼリス神父、カリワーリョ神父がやってきて、大千軒岳の麓に生活し、布教を行った。[68][86] 島原の乱以後、徳川家光は、キリシタンをなくすように指令を出し、松前藩は106名のエゾキリシタンを1639年(寛永16年)に処刑した。
ロシア人も交易を目的として上陸する一方、正教を布教したりしていた。明治以降色丹島に集められた北千島アイヌの集落には、教会が建てられ、キリスト教を信仰していたとする記録が残っている[87]。樺太アイヌにもロシア正教会が布教を行った記録があるが、改宗者は少数であったことが報告されている。
1779年、厚岸にロシア人イワン・アンチーピンが上陸するできごとがあった。幕府は、すでに千島列島や択捉島に住むアイヌに、キリスト教が布教されている情報を得ていたため、国泰寺を建立するなどして、キリスト教が広まらないようにした[88]。
幕末から明治[編集]
アメリカ合衆国からの要求をきっかけに、日本は西洋諸国に門戸を開くようになった。1858年には日米修好通商条約や日仏修好通商条約などが結ばれたことで、外交使節や貿易商と共に多くの宣教師たちが来日した。
1846年4月30日にバーナード・ジャン・ベッテルハイム医療宣教師が琉球王国に到着し、8年間迫害の中で宣教活動を行い、琉球語に聖書を翻訳した[注釈 20][89][90][91][92]。
カトリック教会の復興とキリスト教解禁[編集]
カトリック教会のローマ教皇庁は、鎖国期を通じて日本への再宣教の方策を模索していたが、19世紀半ばには日本に開国の兆しありと見て、フランスに本部を置くパリ外国宣教会 (Missions Étrangères de Paris; M.E.P.) に日本への宣教師派遣を依頼した。こうして1844年にテオドール・フォルカード (Théodore-Augustin Forcade) 神父(司祭)が那覇に派遣され、2年滞在して日本への渡航許可を再三求めたが、果たせず1846年に帰国した。しかし、同年にフォルカードを初代教区長として日本使徒座代理区が設立され、その後1855年からユジェンヌ・エマニュエル・メルメ・カション (Eugène-Emmanuel Mermet-Cachon)、プリュダンス・セラファン=バルテルミ・ジラール (Prudence Séraphin-Barthélemy Girard)、ルイ・テオドル・フューレ (Louis-Théodore Furet) の3人の司祭が那覇に赴任して日本語を学んでいたが、1858年に日仏修好通商条約が結ばれたことで、日本入国が可能になった。メルメ・カションは函館に赴き、ジラールは江戸を経て横浜に拠点を構えた。ジラールは1862年、横浜に開国以来最初のカトリック教会となる聖心教会(その後移転し、現在の山手教会)を建てた。このころ、ヨーロッパのカトリック教会の強い関心が日本に寄せられていた証左として、1862年に「日本二十六聖人」の列聖が行われたことがあげられる。
1864年になってフューレは長崎に土地を購入、後から加わったベルナール・プティジャン (Bernard-Thadée Petitjean) 神父(後に司教)と共に1865年に教会堂を建てた。これが大浦天主堂である。一か月後、教会を訪れた婦人たちが自分たちは禁教下で信仰を守り続けた潜伏信徒(隠れキリシタン)であることを告白、神父は驚愕した。これを「長崎の信徒発見」という。信仰を表明した信徒の多くはカトリック教会に復帰して司祭の指導を受けるようになった。
しかし、彼らは同時に寺請制度を拒否したために長崎奉行所が迫害に乗り出し(浦上四番崩れ)、1867年に成立した明治新政府も慶応4年3月15日(1868年4月7日)に五榜の掲示という高札を掲示してキリスト教禁教を継続した[93]ため、信徒への拷問や流刑などが行われた[94]。明治政府が刑事罰を与えたキリスト教徒はカトリックに留まらず、他の地方でも東北で正教会への日本人改宗者が投獄されるなど、キリスト教弾圧が全国的に行われた。
だが、明治政府の予想に反して、キリスト教禁止と信徒への弾圧は諸外国の激しい抗議と反発を引き起こした。岩倉使節団が欧米諸国を視察した際、キリスト教の解禁が条約改正の条件であるとされ、1873年(明治6年)にキリスト教禁止令は解かれた[注釈 21]。
カトリック教会の動向[編集]
1846年から、日本での宣教を委託されていたパリ外国宣教会は、復興当初から宣教のみならず教育事業と社会福祉事業に力を注いでいた。
なお、1884年(明治17年)には、信者数は30,230名、司祭数54名、伝道士252名、教会数は84であった。
教育事業[編集]
1872年にはプティジャン司教の招きによってフランスからサン・モール会(現:幼きイエス会)が招かれている。最初の5人の修道女たちは横浜に修道院と孤児院を建てた。1888年には彼らの手で築地教会の近くに高等仏和女学校が開かれた。これが後の雙葉学園の前身である。プティジャン司教は同じくフランスの女子修道会であるショファイユの幼きイエズス修道会にも修道女の派遣を依頼、これに応えて1877年に来日した4名は神戸で孤児院と学校(後の大阪信愛女学院)を開いた。1878年にはシャルトル聖パウロ修道女会が来日、函館に仏蘭西女学校を開設し、1882年には神田教会の敷地内に孤児院や小学校を建てた。同学校は白百合学園へと発展していく。1887年には、パリ外国宣教会の招致に応えて5人のマリア会員が来日し、翌年東京都に暁星学園が創立された。さらにマリア会によって1891年には長崎市に海星学園が、1898年には大阪市に大阪明星学園が、1901年には横浜市にセント・ジョセフ学院が創立された。
なお、キリシタン時代の日本において活躍したイエズス会は、「日本にカトリック高等教育機関を」という教皇庁の求めによって明治期の終わりになって来日し、1913年に上智大学を開いている。
社会福祉事業[編集]
この時期、パリ外国宣教会の司祭たちは、政府によって活動を制限されていたため、日本人信者の協力を得て慈善事業・社会福祉事業に力を注ぎ、主に下層階級への宣教活動を行った。
1877年には築地教会の信徒であった本多善右衛門によって浅草にフランス語学校「玫瑰(まいかい)学校」(後の浅草教会)が設立された。この学校は児童福祉施設としても機能していた。1888年、パリ外国宣教会の司祭ジャン・ピエール・レイは、玫瑰学校に収容されていた孤児たちが青年へと成長し、職業訓練等が必要になり、もっと大きな施設が必要と考え、高木甚三郎の協力を得て関口に移転し「聖母仏語学校」(後のカトリック関口教会)を設立した。これらを代表とする学校は、表向きは「フランス語学校」であるが、実態は児童福祉施設であり、また政府によって活動を制限されていた外国人宣教師たちの宗教活動を補助するための機関でもあった。
1873年に来日した司祭のジェルマン・レジェ・テストウィードは、1880年に西関東・東海道地方を担当した。この巡回伝道の旅行中、足柄街道筋の水車小屋で30歳ぐらいの盲目の女性ハンセン病患者と出会い、療養所の設立を決意する。1889年、静岡県御殿場市に療養所を設立。彼は上司に設立許可を願うにあたり「らい患者が現世の苦しみによって永遠の生命を得ることができたら苦しみも又幸せとなるでしょう。そのために病院を建て、そのことを教えたいと思います。こうして彼らは肉体の救いと共に魂のたすかりを得ると思います」と説明した。彼はこの病院に「主における復活」の意味で「神山復生病院」と命名、これが日本最初のハンセン病療養所となった。1898年には、ジャン・マリー・コール[注釈 22] により熊本県熊本市にもハンセン病療養所(待労院)が創設された。
1878年に長崎県の外海地区(現・長崎市)に赴任したマルク・マリー・ド・ロは、この地域の人々の生活が貧しく、孤児や捨子も多く、特に海難事故で一家の働き手である夫や息子を失った家族が悲惨な生活を送っていることを知り、1880年に孤児院を開設し、1883年には救助院(黒崎村女子救助院)を設立して授産活動を開始する。この施設に修道女として入院した婦人たちは、ド・ロの技術指導に基づき、織布、編物、素麺、マカロニ、パン、醤油の製造などを行った。ここで製造されたシーツやマカロニ、パンなどは外国人居留地向け、素麺や醤油などは内地向けに販売された。
このように、パリ外国宣教会に委託されたカトリック教会は、下層階級を中心に宣教活動の一環として積極的に慈善事業を行った。
教区の変遷[編集]
1846年に設立されパリ外国宣教会に委託された日本使徒座代理区は、1876年に日本北緯使徒座代理区、日本南緯使徒座代理区の2区に分割された。日本北緯使徒座代理区は横浜に司教座を置いて北海道、東北、関東および中部の各地方を管轄区域とし、日本南緯使徒座代理区は長崎に司教座を置いて近畿、中国、四国、九州の各地方を管轄した。日本北緯使徒座代理区は、1877年に司教座を東京築地教会に移し、1891年には北海道と東北地方を分離(函館使徒座代理区)して東京大司教区となった。日本南緯使徒座代理区は、1888年に日本中部使徒座代理区が新設されたことにより近畿、中国、四国の3地方を委譲し、管轄は九州地方のみに縮小。同年、司教区に昇格して長崎司教区となった。
プロテスタント教会の動向[編集]
プロテスタントの宣教師として最初に来日したのは1859年5月到来の米国聖公会ジョン・リギンズ (John Liggins) と6月来日のチャニング・ウィリアムズ (Channing Moore Williams) であった。これを皮切りに1859年中には,「ヘボン」とよばれたアメリカ合衆国長老教会の医師ジェームズ・カーティス・ヘップバーン (James Curtis Hepburn) (10月17日)をはじめとし、アメリカ・オランダ改革派教会から派遣された宣教師サミュエル・ブラウン (Samuel Robbins Brown) とグイド・フルベッキ (Guido Herman Fridolin Verbeck)、医療宣教師ダン・B・シモンズ (Danne B.Simmons) などが続々と来日した。さらに翌年の1860年にはバプテスト教会のジョナサン・ゴーブル (Jonathan Goble)、1861年にはアメリカ・オランダ改革派教会(ダッチ・リフォームド、現RCA)の牧師ジェームズ・バラ (James Ballagh) などが日本の土を踏んだ。これがプロテスタント各教派の最初の宣教師グループである。
やや遅れて1869年にはアメリカ伝道委員会(アメリカン・ボード) (American Board of Commissioners for Foreign Missions) のダニエル・クロスビー・グリーン (Daniel Crosby Greene) が来日し、1873年には米国メソジスト監督教会宣教師メリマン・ハリス (Merriman Colbert Harris) が函館に着任した。
近代以降の日本のプロテスタントを語る上で欠かせない三つの流れがある。それは「横浜バンド」、「熊本バンド」、そして「札幌バンド」である。ここでいうバンドとは「団体」という意味である。
1863年にヘボンの開いた横浜英学所(ヨコハマ・アカデミー)はジェームズ・バラの弟ジョンに引き継がれ、バラ学校と呼ばれていた(バラ学校は1880年に築地居留地に移転して築地大学校となる)。1872年、押川方義(東北学院創立者)らバラ学校の青年たちが信仰を告白し、洗礼を受けた。このグループが「横浜バンド」である。同じ年、横浜に最初の教会「日本基督公会」(海岸教会)が開かれた。1873年にはサミュエル・ブラウンの自宅に集まった青年たちによって「ブラウン塾」が発足。生徒の中には前出の押川方義のほか、青山学院の院長となる本多庸一や、明治学院創設メンバーである井深梶之助、植村正久らがいた。このバラ学校とブラウン塾の流れから1877年に東京一致神学校が生まれ、1887年に東京一致英和学校(築地大学校の後身)・東京英和予備学校と統合した上で白金に移転して明治学院が誕生した。また,一時帰国していたブラウンと共に1869年に来日したメアリー・キダー (Mary E. Kidder) が、ヘボンの診療所で教育していた。ここから後のフェリス女学院が誕生する。
1871年、熊本洋学校に教師として招かれた元陸軍士官L・L・ジェーンズ (Leroy Lancing Janes) は会衆派教会の熱心な信徒であり、彼の感化によって教え子たちが信仰に入った。「熊本バンド」(1876年)と呼ばれたこのグループは、熊本洋学校廃止によってジェーンズが大阪英学校に移るとこれに従い、ジェーンズが勧めたことで(新島襄が1875年に開いた)同志社英学校に加わった。その中に宮川経輝、小崎弘道(同志社第二代社長)、海老名弾正(第八代同志社総長)らのメンバーがいた。
札幌農学校(現在の北海道大学)で教壇に立ったW・S・クラーク (William Smith Clark) とメリマン・ハリスの薫陶を受けた教え子によって結成されたのが「札幌バンド」(1877年)である。クラークの教え子たちの中には佐藤昌介、大島正健、内村鑑三、新渡戸稲造、植物学者の宮部金吾、土木工学の広井勇らがいた(内村鑑三はのちに「無教会主義」を唱えることになる)。
日本のプロテスタントはこれらのグループを核として発展した。横浜バンドの流れから「日本基督教会」が、「熊本バンド」から日本組合基督教会が生まれた。そしてアメリカとイギリスの聖公会の流れから日本聖公会が、メソジスト系の諸派から日本メソヂスト教会が誕生した。
1872年にはジェームス・ハミルトン・バラ宣教師によって横浜に日本基督公会が設立され、1873年(明治6年)にはキリシタン禁制が解除された。フルベッキ宣教師が日本政府左院の翻訳顧問となり、グリーン牧師やジェームス・カーティス・ヘボン宣教師らとともに新約聖書翻訳に取り組んだ[96]。初期の宣教師たちの宿願であった日本語訳聖書の出版事業もこの時期精力的にすすめられ、1880年に新約聖書、1888年に旧約聖書が出版された。
1873年までに、ほとんどのプロテスタントの教派が来日した[注釈 23]、1874年創立の神戸の摂津第一公会は、当初から会衆制を採った[97]。
1880年にはイギリス発祥のキリスト教青年会(YMCA)の日本支部が発足した。
1882年時点で日本に在留していた宣教師は138名であった[98]。初期の宣教師は聖書信仰と保守的な神学を持ち、その宣教の情熱の背景にはアメリカの大覚醒と呼ばれたリバイバルがあった[99][100]。循環するリバイバルがアメリカのキリスト教の特徴である[101]。ブラウンら宣教師は大覚醒運動の影響を受けていた[102]。アメリカの宣教師によって日本に福音主義(エヴァンジェリカリズム)が伝えられた[注釈 24][103][104]。
福音派(特にホーリネス運動)の源流の一つで「松江バンド」(1893年)も特筆に値する。1890年の聖公会牧師バークレー・バックストンの松江市での伝道が始まりであり、竹田俊造、三谷種吉、堀内文一らを輩出。1897年9月26日にバックストンの招きにより、パゼット・ウィルクスが来日し、日本伝道隊(1904年)や日本イエス・キリスト教団、関西聖書神学校などの設立に関わった。三谷種吉は日本最初の音楽伝道者であり、今も歌われる讃美歌「ただ信ぜよ」、「神は愛なり」を歌いながら、伝道した[105]。
1878年5月15-17日に、第一回全国基督教信徒大親睦会が開催され、1880年に第二回が開かれていたが、1882年は耶蘇退治の迫害があった。1883年の5月8-12日に開催された第三回全国基督教信徒大親睦会からリバイバルが起こり、全国的に広がった。5月14日の基督教大演説会には四千人を集めた。1884年の同志社リバイバルは、3月17日の祈祷会で最高潮を迎え、200名の学生が信仰を告白して、洗礼を受けた[100]。
「日本のプロテスタントは教育中心、上流階級と中流階級に対する伝道を行ってきた」といわれる[注釈 25][106]。日本の初期のプロテスタントの指導者は特に知識階級、佐幕派の士族階層が中心だった[107][注釈 26][108][注釈 27]。
教育事業[編集]
アメリカの宣教師を中心に、日本での明治初期のミッションスクール創設にあたっては、カトリックより早く、日本における女子教育の嚆矢ともいえる。
1869年(明治2年)、アメリカの宣教師らが東京を視察し、ミッションスクール「カロザース塾」を開校、現在の女子学院中学校・高等学校の源流となる。
1870年(明治3年)、米国改革派教会が婦人伝道師メアリー・エディー・キダーを派遣しフェリス女学院を創設する。
1871年(明治4年)には、1861年から横浜に滞在していたジェームズ・H・バラの要請に応え、米国婦人一致外国伝道協会 (WUMS) のメアリー・P・プラインらにより〈ドリーマス・スクール〉が設立される(現:横浜共立学園中学校・高等学校)。
1873年(明治6年)、米国伝道会から派遣された女性宣教師イライザ・タルカットとジュリア・ダッドレーが神戸の宣教師団の支援の元に私塾を開校(現:神戸女学院中学部・高等学部)。
正教会の動向[編集]
日本における正教会伝道は、1861年にはロシア正教会のニコライ・カサートキンが来日し、函館の領事館付き修道司祭に着任したのが嚆矢である。当初からニコライは「日本人への伝道・日本正教会の建設」を志して修道司祭となっており、活動を領事館付き司祭の枠にとどめる考えはなかった。派遣したロシア正教会上層部もまた同様の考えであった。その後もニコライは、この基本方針を貫いた。
函館・仙台の人士が初期の信徒を構成したため、函館・東北地方での浸潤がまず始まった日本の正教会だが、1872年に神田駿河台の土地2300坪を得て、宣教の拠点とした。1874年5月には布教会議が東京で開催される。1880年にはニコライは主教に叙聖され、この時からロシア正教会から派遣される主教を待たずに司祭・輔祭を叙聖することができるようになり、日本正教会の神品が増加する環境が整った。1880年には現存するものの中では日本最古の木造教会建築である、石巻ハリストス正教会の聖使徒イオアン会堂が完成。1891年には東京復活大聖堂(ニコライ堂)が竣工する。
また出版事業に重きを置いたニコライにより、各種祈祷書・聖歌譜が日本語に活発に翻訳されていった。1882年に帰国した山下りんにより各地の聖堂のイコンが描かれていった。また日本に着任していた修道司祭アナトリイの甥でもありピアノ・チェロの奏者でもあったヤコフ・チハイが同年頃に来日し、聖歌教師として聖歌の普及に努めた。正教会は急速に教勢を拡大していく。
しかし1891年の大津事件にみられるように日本の対露感情が悪化していく中、ロシア正教会から伝道された日本の正教会もまた各地で迫害を受けていく。1904年にはついに日露戦争が開戦される。この時、ニコライ主教は日本にとどまり、「諸君は皇軍の為に祈れ」と言い、苦難の下にあった日本人正教徒たちを激励し続けた。ニコライは内面では、度重なるロシア軍の敗報に苦悩していたが[109]、あくまで日本人の指導者・日本の正教会の主教という姿を貫き通すことになる。同時に日露戦争時、日本の正教会は日本政府と協力し正教徒ロシア人捕虜の世話に当たり、「日本正教会」でありかつ「日本人のためだけではない正教会」である姿を両立させることとなった。
日露戦争終結直後、日比谷焼打事件の際には東京復活大聖堂もあわや暴徒に襲撃されるところであったということからも、当時の日本の正教会が置かれた立場が垣間見える[110]。こうした逆境にもかかわらず、1911年、ニコライが大主教に昇叙された年には、日本正教会の教勢は教会数265箇所、信徒数31,984名、神品数41名、聖歌隊指揮者15名、伝教者121名に達した。これは当時の日本にあって、カトリック教会に次ぐ規模であった。
明治最後の年、1912年にニコライは永眠、76歳であった。この時、明治天皇から恩賜の花環が与えられた。外国人宣教師の永眠に際して花環が与えられたのは異例のことであった。ニコライの伝道はその後、日本ハリストス正教会に結実する。
明治から大正[編集]
明治初期から中期にかけては、国を挙げて欧化政策が進められたため、西欧精神の中枢であるキリスト教に関心を持つ日本人が増えてきた。福澤諭吉がキリスト教国教会論を主張し、上流階級がキリスト教に殺到した時代である[111][99]。なお、1895年のカトリック教会は、信徒数50,302人、司教4人、司祭はパリ外国宣教会士88人、マリア会士27人、邦人司祭20人であった。プロテスタントは1888年末に249教会、信徒15,514人、宣教師451人、日本人教役者142人、神学校14校、神学生287人、年間の受洗者は約7,000人を数えた。正教徒の信徒数は17,000人であった。
しかし明治中期以降、日本が富国強兵政策をとって近代国家への歩みを模索し、国粋主義的思想が強まるようになるとキリスト教への見方にも変化が起こる。1889年に発布された「大日本帝国憲法」では日本が立憲君主制国家たることを宣言しているが、この中で信教の自由は限定的なものとされた。さらに天皇に対する忠誠を説く「教育勅語」(1890年)で明治日本における天皇の位置づけが明確に示された。国家の核としての天皇と国家神道の位置づけが明確にされたことで、キリスト教に対する風当たりが強まっていく。このような風潮を象徴するできごとが内村鑑三の不敬事件(1891年)であった。また、政府は大逆事件(1911年)で幸徳秋水を処刑したが、キリスト教に批判的な立場から、彼の遺作である『基督抹殺論』の刊行を認めた。
このような情勢の中でも、この時期、様々なキリスト教的社会福祉事業や社会運動が起こっている。キリスト教精神がようやく日本社会に浸透し、社会への働きかけという形で実を結び始めたことの証ともいえる。
カトリック教会の動向[編集]
高等教育や出版活動において日本のカトリック教会は、プロテスタントに大きく遅れをとっていた。
明治末期になると、パリ外国宣教会による日本の独占司牧体制に無理があることは、同会の一部でも認められ、今後の教会の発展には他の修道会の来日が必要であるとの意見が出始めた[注釈 28]。
しかし、パリ外国宣教会の内部からは、十分な内部変革の動きが無かったこともあり、日露戦争前後の時期になると、日本人の司祭や信徒の一部から「パリ外国宣教会の宣教活動は、近代国家となった日本では十分な成果を挙げ得ないもの」として、教会改革の必要性を唱える者が現れた。例えば長崎教区で教会改革を目指した司祭の平山牧民[注釈 29]および一部の信徒らは、慈善活動を通じて下層階級への宣教事業に力を入れる同会に不満を持ち、高等教育や学術活動に強いイエズス会の誘致運動を行い、教皇庁にその必要を主張する意見の具申を行っている[112]。また東京大司教区では、知識人層を対象にした出版活動や青年運動が展開され、パリ外国宣教会の中には日本人の若手カトリック知識人の活発な活動に期待する宣教師も存在した。
しかし、日本人信者によるパリ外国宣教会の司牧体制に向けた批判活動は、平山牧民の追放や前田事件を引き起こし、結果的にイエズス会の招致は実現したが、教会の改革運動は低調な状態に陥ってしまった。その後、1916年に岩下壮一を中心として結成された第2次公教青年会の会長に山本信次郎が就任し、再び知識人活動や青年運動が盛り上がった。
教育事業[編集]
日露戦争後の1905年11月、教皇ピオ10世は、アメリカ人司教のウィリアム・ヘンリー・オコンネルを親善使節として明治天皇宛てに親書を託し派遣した。
教皇使節の日本訪問は、日露戦争時に戦地のカトリック教会が日本により保護されたことに対して、ローマ教皇が明治天皇に感謝の意を表するために行われたものだが、同時に日本のカトリック教会の現状視察という別の目的を持っていた。この訪問を機縁に、日本のカトリック教会もフランスのパリ外国宣教会の独占から多様化された。スペインよりドミニコ会、ドイツより神言会、イエズス会、フランシスコ会、カナダよりフランシスコ会、ドミニコ会、イタリアよりサレジオ会が来日した。この多様化によって教育事業においても、従来の初等中等教育から高等教育にも取組んだ。
1906年にピオ10世より「日本に高等教育機関を設置すること」の要請を受けたイエズス会は、1908年に3人のイエズス会員を派遣する。その後、1911年に財団法人上智学院を設立、1913年に専門学校令による大学(上智大学)を開校した。1916年には、聖心女子学院高等専門学校(後の聖心女子大学)が設立され、カトリックは貧民層のためという印象は薄れた。
社会福祉事業[編集]
このような流れの中でも、社会福祉事業は続けられた。
1926年、司祭のアルベール・アンリ・シャルル・ブルトン[注釈 30] によって神奈川県鎌倉市に結核療養所「聖テレジア療養所」が設立された。また女子教育においても1907年、司祭のルイ・ルラーブ[注釈 31] によって京都府宮津市に宮津裁縫伝習所が創設され、後の京都暁星高等学校へと発展する。
本所教会焼討ち事件[編集]
1905年9月5日、ロシア帝国と締結されたポーツマス条約に、日露戦争時の増税による耐乏生活を強いられてきた民衆の不満が爆発した。(日比谷焼打事件)翌9月6日23時頃、本所地区に決起した暴徒は、本所教会を襲い一帯の信者の住居と共に本所教会は焼討ちされた。暴動が鎮まった後も敵意は教会に向けられたため、当時の東京大司教であったピエール・マリー・オズーフは時勢を考え、本所教会の主任司祭を日本人に交代した。
プロテスタント教会の動向[編集]
この時期はプロテスタントにとっても困難な時期ではあったが、売買春の廃絶を目指した日本基督教婦人矯風会(1886年)の発足や、石井十次による岡山孤児院(1887年)、石井亮一の聖三一孤女学院(1891年、後の滝乃川学園)のような養護施設活動、山室軍平による救世軍運動(1895年)などキリスト教的社会福祉事業、社会運動、廃娼運動が起こっている。セツルメント運動や神戸・灘での生活協同組合(現コープこうべ)なども、キリスト教文化の影響下に生まれた運動として挙げることができる。
また、この時期、自由主義神学、高等批評が導入され、日本の教会に混乱を与えることになる。1885年にドイツ普及福音教会のウィルフリード・スピンナーが来日し、聖書は人間の宗教的な記録であると主張した。またこの派からオットー・シュミーデルも来日する。この立場は、新神学と呼ばれたが、彼ら自身は「最も進歩せる学術的キリスト神学」と称した。これは日本組合基督教会に強い影響を与えた。
1887年には大日本帝国政府司法大臣らの招聘でアメリカ・ユニテリアン協会からユニテリアンの宣教師が来日し、三位一体、キリストの神性を否定した。熊本バンドの小崎弘道はリベラルな新神学を受け入れ、1889年に同志社学院で開催されたキリスト教青年会の夏期学校で、「聖書のインスピレーション」と題して講演をした。また、1891年に金森通倫も「モーセ五書は、ユダヤ人の伝説や神話の寄せ集めである」と主張した[111][100]。
1892年には日本基督教会で「日本の花嫁事件」が起こり、田村直臣牧師が免職になった。1893年に東京帝国大学の井上哲次郎教授は、『教育と宗教の衝突』を発表して内村鑑三を非難し、キリスト教と日本は相容れないとした[99][100]。それに対して柏木義円は『同志社文学』第59号に「勅語と基督教」を掲載して反論した[114]。
1897年にはドイツの普及福音教会が東京に東郷坂教会を設立し、ユニヴァーサリズムを支持する赤司繁太郎が1946年まで牧師を務めた[115][116]。
1901年5月に20世紀大挙伝道の働きの中で、リバイバルが起こり、1907年にはプロテスタント人口が約6万人となった[111]。
1901年9月から、リベラル神学を巡って、植村・海老名論争が起こる。1902年に福音同盟会は総会を開き、イエス・キリストの神性を確認し、海老名を追放したが、植村も十全霊感を否定した[111]。
1903年には、それまで各教派別に編纂されていた讃美歌集を一つにまとめた共通『讃美歌』が作成された。
1904年の日露戦争では、海老名弾正、植村正久、井深梶之助、本多庸一が主戦論を唱え、内村鑑三、柏木義円、白石喜之介が非戦論を唱えた。トルストイの影響を受けた、キリスト教社会主義者の安部磯雄、木下尚江、西川光次郎、石川三四郎、片山潜らも無抵抗主義の非戦論だった[100]。
1907年には救世軍の創立者ウィリアム・ブースが来日した。2万人を超える群集がブース大将を歓迎し、彼は西園寺公望、大隈重信、明治天皇に面会した。1912年に救世軍病院が開設される[117]。
1909年10月には、日本におけるプロテスタント宣教開始50年を祝って、宣教開始50年記念会が開催された。
1910年の朝鮮併合後に朝鮮総督府(日本統治時代の朝鮮)は、日本基督教会の指導者植村正久に朝鮮宣教を持ちかけた。植村は朝鮮併合には賛成していたものの、朝鮮宣教は断ったため朝鮮総督府は、日本組合基督教会の指導者海老名弾正に朝鮮宣教を命じた。日本組合基督教会は、同年10月の第26回定期総会で全会一致をもって「朝鮮人伝道」を決議し、渡瀬常吉を派遣。日本組合基督教会は朝鮮総督府より莫大な資金援助を受けて朝鮮植民地伝道を繰り広げた[118][119][111][120]。
明治(1868年-1912年)の終わりから大正(1912年-1926年)にかけて、明治後半にみられた国粋主義への傾きが一時的に退潮した。1912年の神仏基による三教会同は、ようやくキリスト教の地位が宗教界で同等なものとみなされたかのような印象を与えたが、その一方で昭和(1926年-1989年)に入ってキリスト教が国家の統制下に組み込まれていくことへの伏線となった。この時期、日本基督教会の信徒であった賀川豊彦は労働組合運動など活発に社会運動を行なったが、彼の設立した消費組合は後の生活協同組合へとつながった。
1918年には中田重治、内村鑑三、木村清松が再臨運動を展開した。1919年11月、淀橋教会の祈祷会から、ホーリネス・リバイバルが起き、四重の福音を唱えるホーリネスは教勢を拡大していった[111][99]。
教育事業[編集]
1910年6月にエディンバラ宣教会議が開催され、日本からは本多庸一、井深梶之助、原田助などが出席した。この大会の決議により、東京女子大学が設立された[注釈 32]。
1918年12月の大学令公布を受けてプロテスタント系の専門学校の間でも大学昇格運動が起こり、1920年に同志社大学、1922年に立教大学、1932年に関西学院大学が設立された。
青山学院も高木壬太郎院長の下で大学昇格を目指した。しかし高木の急死(1921年)、関東大震災による校舎壊滅(1923年)などの不運も重なって、青山学院の大学昇格は戦後まで持ち越しとなった。
正教会の動向[編集]
大正以降の正教会の動向については、日露戦争・ロシア革命の影響が大きく、反露感情・反共感情の広がりと母教会(ロシア正教会)に対する共産主義政権による弾圧もあり、他教派とは歴史的に置かれた環境が異なるために独特の経緯をたどった部分が少なく無い。
昭和初期以前、明治末から既に日露戦争に代表される日露関係の悪化から、日本正教会は日本において他教派よりも一層厳しい立場に置かれていた。正教側は、正教はロシア専有の宗教ではなく世界の聖公使徒教会であると主張していたが(これは世界の正教会と共通する見解[121])、世間からは「露教」と誤解する向きが根強かった。1894年にギリシャ正教会のディオニシオス大主教が来日してニコライ主教とともに奉神礼を行ったことを、「正教会が蒙っていた冤罪を雪ぐべき好機会」であったと記した三井道郎の回想記の一節にも、当時の日本正教会が置かれた状況が垣間見える[122]。
戦前戦中昭和[編集]
昭和初期には軍部が擡頭すると、軍国主義のイデオロギーとして国家神道が利用されるようになり神道以外の宗教団体への圧力が強まった。特に教育や思想の分野において国粋主義が強化されたことで西洋の宗教であるとみなされたキリスト教は苦しい立場におかれることになった。特に1931年の満洲事変勃発以降はその傾向が強まった。
1930年代後半になると、1936年における日独防共協定の締結など、ナチス・ドイツへの接近が強まっていく。当時のドイツでは、ナチズムと「アーリアン学説」の広まりを背景として、キリスト教は、ユダヤ教と同じセム系一神教(アブラハムの宗教)であることを理由として、厳しい統制を受けた。そのような時代背景において、日本におけるナチス・ドイツへの関心の高まりも、結果としてキリスト教に対する圧力を高めた。
1939年、帝国議会によって戦争遂行のため宗教団体を統制する目的で「宗教団体法案」が可決成立し、翌1940年4月1日から施行された。これによって、日本のキリスト教界において多くの団体が政府に協力した[注釈 33]。
カトリック教会の動向[編集]
カトリック教会では、1933年から1934年にかけて奄美カトリック迫害が起こった[111]ほか、1932年には上智大生靖国神社参拝拒否事件が起こり、靖国参拝の強要に反対した学生への弾圧を受けて日本のカトリック教会は「靖国参拝は宗教活動に当たらない」との見解「第一聖省訓令」「祖国に対する信者のつとめ」を出し、以後戦争については沈黙した(ただ、司祭や信徒の中には天皇の神性を否定して逮捕された者もいる)。このように、軍国化していく日本において、社会的な迫害の対象に置かれるなど困難な社会的状況にあったため、1931年には、映画「殉教血史 日本二十六聖人」を製作公開するなど、キリスト教徒への偏見を払拭する試みが行われた。なお、1940年の登録信者数は119,324人であった。
教育事業[編集]
困難な社会的状況の中、神言会の司祭であったヨゼフ・ライネルスは、1922年2月18日に設立された名古屋知牧区の初代教区長に就任すると、宣教とともに教育の重要性を唱えた神言会の意志を受け、教育機関の設立に奔走する。1932年1月、名古屋市に南山中学校(現在の南山学園)を設立し、初代理事長および校長を務めた。
社会福祉事業[編集]
このような状勢の中でも、社会福祉事業は続けられた。パリ外国宣教会の司祭であったヨゼフ・フロジャックは、1927年、東京市中野療養所の結核患者の一人を見舞ったことを契機に療養所訪問を始めた。1929年には野方町丸山に民家を借用し、療養所から退院させられて行き場所のない患者5名を収容する。1930年には中野療養所の近くに「ベタニアの家」を建設し、患者15名を収容した。同年、女子患者のため、別に民家を借用して患者5名を収容する。1932年、今度は患者の子供を救済するため「ナザレトの家」を建設し、男児10数名を収容、さらに1933年、療養農園「ベトレヘムの園」を建設し、軽患者の男女60名を収容した。1934年、ベトレヘムの園隣接地を買収し、養護施設「東星学園」(現在のベトレヘム学園)を建設、ナザレトの家の児童33名を移し、ナザレトの家は乳児院に転換する。1936年には学園児のため、「東星尋常小学校」を開校した。
フロジャックは事業開始直後から周囲の無理解と資金難に苦しみながらも事業を維持し、戦中、戦後も多くの社会福祉施設や幼稚園・学校を設立した。ベタニアの家はその後、社会福祉法人「慈生会」へと発展し、また教育事業は東生学園へと発展した。
宗教団体の設立[編集]
1941年5月、日本のカトリック教会は、宗教団体法に従いローマ教皇直属である日本の各司教区と日本に所在する修道会をすべて統合する団体として日本天主公教教団を設立、初代統理者に東京の土井辰雄司教を選出した[注釈 34]。
プロテスタント教会の動向[編集]
プロテスタントでは、朝鮮の長老派が神社参拝を拒んでいたため、日本政府は1938年6月末、同じ長老派系統の日本基督教会大会議長富田満を派遣して朱基徹牧師ら朝鮮の長老派を説得させるが、朱基徹らは拒んだため、殉教することになる。朝鮮の教会は、約70名の牧師が投獄、拷問に遭い50名が殉教し、2,000名の信徒が投獄され、約200の教会が閉鎖された[123]。
1939年に成立した宗教団体法を受けて青山学院で開催された皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会の決議に基づいて、1941年にプロテスタント32教派が自発的に統合し、日本基督教団が結成された。これにともない、日本各地のプロテスタント系神学校の大半は1943年に日本東部神学校・日本西部神学校・日本女子神学校の3校に統合された[124]。さらに1944年には男子校2校の再統合により日本基督教神学専門学校が設立された(同時に日本女子神学校も日本基督教女子神学専門学校と改称)[注釈 35]。
このような大合同の動きに最後まで抵抗したのは同志社大学で、学徒出陣によって授業継続が困難となった状況下でも同大神学科は廃止されることなく終戦を迎えた[125]。
この困難な時代、日本のキリスト教界において多くが国家に妥協する一方、戦争反対を表明した一部の教会、再臨信仰を咎められたホーリネス系教団、神社参拝を拒否した美濃ミッション等には徹底した弾圧が加えられ、解散に追い込まれた。ホーリネス弾圧の中で命を落とした者に小山宗祐、菅野鋭、斉藤保太郎、辻啓蔵、小出朋治(獄中での死亡順)、竹入高、池田長十郎、佐野明治(出獄後死亡)などがいる[99]。
正教会の動向[編集]
戦時下の中で、正教徒の外交官である杉原千畝は「命のビザ」を発行し、ナチスの虐殺からユダヤ人を生命の危機からを助けた。イスラエルの回復を祈るホーリネス系のキリスト者が逃れてきたユダヤ人たちを受け入れた。旧約の神の民のうち、ある人は日本から渡米し、また再建されたイスラエルに帰還していった[126][127]。
1931年、大主教ニコライの後継者であるセルギイ・チホミーロフは府主教に昇叙された。だが、共産主義政権(ソ連)の下で弾圧されその監視下にあるロシア正教会の意思・決定に忠実なセルギイに対し、亡命ロシア人や日本人信徒から様々な反発が起こった。
このような状況下で、セルギイを、その任から解き日本人を主教にするよう日本政府から圧力がかかった。日本正教会は抵抗することもなく、1940年、セルギイは引退を余儀なくされ、代わってニコライ小野帰一が主教に着座した。その後も当局の監視は続き、高齢のセルギイは1945年に特別高等警察に逮捕され拷問を受け、約1ヶ月拘留された[128]。釈放後の同年8月10日、終戦の5日前にセルギイは死去した。拷問による衰弱死といわれている。
戦後昭和から平成前半[編集]
1945年8月に第二次世界大戦が日本の降伏と連合国の勝利により終結すると、進駐してきたGHQの指示によって国家による神社への保護(国家神道)が廃止されたことにより、キリスト教各派は自由に活動できるようになった。さらに1945年10月、宗教団体法が撤廃され宗教法人令が公布・施行されると、戦時中に統合・監督的束縛を加えられていたキリスト教各派は、一斉に組織の再編に着手すると共に、日本各地で大規模な布教を開始した。
1946年、日本国憲法によって完全な信教の自由が認められると、海外のキリスト教諸団体は活発に宣教師を派遣するようになった。さらに、かねてから準備されていた口語訳聖書も出版(新約1954年、旧約1955年)された。
カトリック教会の動向[編集]
1945年11月に全国臨時教区長会議を開催、従来の教団組織を改称し、翌12月には天主公教教区連盟[注釈 36]を設置した。さらに1947年5月に全国教区長会議および教区連盟理事会が開かれて、今後の事業計画や活動方針を示すと共に、「教区長共同教書」が発表され、大々的に布教活動が行われた。その結果、登録信者数は1946年の108,324人から1950年には143,461人に増加し、さらに1955年には212,318人、1968年には344,343人となって戦前をはるかに凌ぐ比率で増加した。
また世界レベルでは、二つの世界大戦を防げなかったことと、戦後も冷戦構造の中で精神的な指導力を発揮できないことへの反省から、1962年以降、カトリック教会で「アジョルナメント」(現代化)を目指した公会議(第2バチカン公会議)が行われた。この会議では、カトリック教会の冷静な現状認識と今後の方向性が確認された。その中でヨーロッパ中心的な思考にとらわれすぎていたカトリック教会の姿勢が正され、もっと世界規模の視野を持って、教会のあり方を考える必要性が痛感された。
公会議のこのような精神に沿って、教会生活全体の見直しが行われたが、その一環として典礼の国語化が進められた。日本でもミサをはじめとする典礼の日本語式次第と、典礼の中で用いられる日本語聖歌(典礼聖歌)が作成された。また公会議では他宗教、特にキリスト教他教派への敬意と対話という方針がはっきりと打ち出された(「エキュメニズム」と呼ばれる宗教間対話の動きは、元々プロテスタントの中から起こったもので、1910年のエディンバラ宣教会議を嚆矢とする)。
こうしたエキュメニズムの精神にそってプロテスタント諸教派とカトリック教会の聖書学者が結集して聖書の翻訳事業が行われることになった。ここに共同訳聖書(1978年)が完成し、さらに共同訳聖書における問題点を改善して出版されたのが新共同訳聖書(1987年)である。
1981年には、史上初めてローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が来日。東京、広島、長崎を訪れ、「平和アピール」を発表するなどした。
プロテスタント教会の動向[編集]
1956年2月にビリー・グラハムが来日し、日本における最初のビリー・グラハム伝道大会が開かれた[111]。
1959年は、プロテスタント宣教百周年記念行事が、エキュメニカル派と福音派で別々に開かれた。エキュメニカル派では日本キリスト教協議会、日本基督教団を中心として開催された。その後1970年の大阪万博では、カトリック教会とエキュメニカル派のプロテスタントとの共同によるキリスト教館の出展があった。この頃から日本基督教団では、教会派と社会派が対立し、教団紛争と呼ばれる紛争状態に入った[111][90][92]。
一方、福音派(聖書信仰派)は、イムマヌエル綜合伝道団の蔦田二雄、ホーリネスの車田秋次、日本キリスト改革派教会のマキルエン、常葉隆興、岡田稔、聖書キリスト教会の尾山令仁らを指導者として、1959年に日本宣教百年記念聖書信仰運動を展開し、翌年日本プロテスタント聖書信仰同盟の発足を見た。この働きが新改訳聖書(新約1965年、旧約1970年)の出版と日本福音同盟の成立(1968年)につながった。エキュメニカル派は世界教会協議会 (WCC) と交わりを持ち、福音派は世界福音同盟、ローザンヌ運動と交わりを持っている[117][129][130]。
1974年に日本で最初の日本伝道会議が開催され、イギリスのジョン・ストットが招かれた。70年代は福音派の協力関係が結ばれ、聖書信仰の教会が教勢を伸ばした時代であり、「はばたく日本の福音派」と呼ばれている[111][131][132]。
1999年10月末に、京都市の国立京都国際会館で「世界宣教会議」が開催され、奥山実牧師が委員長を務めた。この「世界宣教会議」は、『キリスト教年鑑』2001年版によって「日本キリスト教史上最大規模の『世界宣教会議』」と呼ばれている[133]。
正教会の動向[編集]
西方教会諸派が戦後に日本で教勢を回復する一方で、日本正教会は戦後を迎えてもなお安定することはなかった。第二次世界大戦も他教派と同様に正教会にとり苦悩の原因であったが、それ以上の長期に亘る苦悩の原因としてソビエト連邦の存在があったためである。共産主義諸国で弾圧を受けており、経済的・人的援助はロシア正教会から行われなかったにも拘わらず、正教会は「アカ」のレッテルを貼られて各地で教勢を衰退させた。
また、日本正教会内部も、ソビエト連邦による弾圧・監視下にあるモスクワ総主教庁の意思の真正性に対する疑問から、母教会たるロシア正教会との関係をどのような形にするのかについてロシア革命直後から戦後しばらくまで様々な立場に割れた状態が続いており、これも教勢衰退の原因となった。
1970年になってモスクワ総主教庁とアメリカ正教会と日本正教会の合意が成立し、日本正教会はロシア正教会を母教会とする自治教会の祝福を得ることで、ようやく教会組織の安定を得た。
2000年5月には史上初めてモスクワ総主教アレクシイ2世が日本を訪問した(逆に言えば日本正教会はロシア正教会の子教会であるにも拘わらず、モスクワ総主教が訪日したことが歴史上実に一度も無かったことを意味する)。来日時、アレクシイ2世は日本正教会の首座主教の着座式を執り行うとともに、天皇とも会見している。また、着座式にはアメリカ正教会からも首座主教の出席があった。
混乱の時代を経ながらも、日本正教会は明治の日本語訳による奉神礼を守り続けて今日に至っている。
平成後半から令和[編集]
文化庁宗務課の統計によると、2020年12月31日時点で日本におけるキリスト教人口は1,915,294人で、対総人口比率は1.1%である[134]。
2019年末時点でのキリスト教人口の内訳は、カトリック教会880,277人、プロテスタント諸教派総計341,066人、日本ハリストス正教会9,468人、末日聖徒イエス・キリスト教会128,132人[135]、2013年時点で、エホバの証人215,966人などである[136]。
「宗教年鑑 令和3年度」(文化庁編、2021年)によると、都道府県別人口100人あたりのキリスト教徒数トップ5・ワースト5は下記の通りである。
順位 | 都道府県 | 人数 | 順位 | 都道府県 | 人数 |
---|---|---|---|---|---|
1位 | 東京都 | 6.2人 | 43位 | 福島県 | 0.39人 |
2位 | 長崎県 | 4.8人 | 44位 | 島根県 | 0.39人 |
3位 | 神奈川県 | 3.3人 | 45位 | 岩手県 | 0.34人 |
4位 | 沖縄県 | 2人 | 46位 | 富山県 | 0.30人 |
5位 | 兵庫県 | 1.1人 | 47位 | 福井県 | 0.27人 |
2008年11月24日、日本のカトリック教会は、長崎市の長崎県営野球場において「ペトロ岐部と187殉教者列福式」を挙行した[137]。これは日本カトリック史上初めて日本で行われた列福式であった。
2009年には、日本プロテスタント宣教150周年を記念して、エキュメニカル派、福音派、聖霊派の三派の共同になる日本プロテスタント宣教150周年記念大会が開催された[92]。
2010年5月に、エディンバラ宣教会議100周年を記念して世界宣教東京大会が開催。初日に大川従道牧師らが説教した。また閉会式で尾山令仁牧師が日本の犯した罪を謝罪し、これにこたえてアメリカ合衆国の代表が日本に原爆を投下した罪と世界に対して犯した罪を謝罪した[138][139]。
2013年4月11日付のカトリック新聞オンラインに「旧日本軍に殺された司教、列福へ一歩前進」という記事が掲載された[140]。内容は、「日中戦争中に起きた正定事件によって殺害された司教ら9人の列福運動が、オランダで進んでいる」というものだったが、この虐殺事件の真偽が問題視され、西村眞悟がブログ上で抗議する[141]など波紋を呼んだ。
2016年、京都府木津川市に、コプト正教会系列の聖母マリア・聖マルココプト正教会が開設された。
2019年11月23日-26日の日程で第266代ローマ教皇フランシスコが来日(1981年の第264代教皇ヨハネ・パウロ2世以来、2度目の教皇来日)。教皇来日のテーマは、「すべてのいのちを守るため〜PROTECT ALL LIFE」[142]。フランシスコ教皇は東京都、広島県、長崎県を訪問し、東日本大震災被災者との交流、皇居での今上天皇(徳仁)との会見や総理大臣官邸での安倍晋三首相との会談、東京ドームでの5万人ミサなどを行う。
主な聖書翻訳[編集]
2003年に、新日本聖書刊行会は、差別用語を中心に改訂し、新改訳第3版を発行。そして宗教改革500年の2017年に、新改訳の大幅な改訂が実施され、新改訳2017を発行。ほとんどの節に何等かの改訂が施された。フランシスコ会聖書研究所は、2011年にそれまでバラで発行していた聖書の合冊版を発行。日本聖書協会はカトリック側と共同で新共同訳の改訂に着手し、2018年に聖書協会共同訳を発行。新改訳2017も聖書協会共同訳も初刷で改訂箇所が見つかり、それぞれ発行された翌年に改訂している。
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 日本キリスト教歴史大事典編集委員会『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年、ISBN 9784764240056、の「景教」の項目。広隆寺が何らかの役割を担っていた、といった記述もある。複数の文献が掲載されている。
- ^ 景教の日本への伝播によってイエス・キリストの誕生時の物語も日本にも伝わり、そのイメージを重ねる形で聖徳太子が馬小屋の前で生まれたとされ、その幼名が厩戸皇子となったとする説もいくつかの通俗本などで書かれているが、これに関しては証拠があるわけではなく、想像の域を出ない。
- ^ a b c ポルトガル商人はキリスト教の教会を破壊し、キリストの肖像画を燃やさせた領主の港へも来航して宣教師と対立した[6]。
- ^ キリスト教に敵対的な領主は領内の十字架を倒し、キリスト教徒を元の教えに強制改宗するように命じたり(1564年十月十四日)[2]、1563年十一月七日頃には修道院とキリシタンの農民たちの家を燃やした[3][4]。1573年にはトードス・オス・サントス教会が焼き払われている[5]。このようにキリスト教と仏教の信者間での対立関係が悪化していた[6]。
- ^ a b 1587年6月18日付(伴天連追放令の前日)の11か条の「覚」は宣教師が朝鮮半島に日本人を売っていたと糾弾しているが[7]、朝鮮半島との貿易は対馬宋氏の独占状態であり[8]、宣教師が初めて朝鮮半島を訪れたのは1593年である。ポルトガルの奴隷貿易に関しては少数の中国人や日本人等のアジア人奴隷の記録が残されているが[9]、具体的な記述は『デ・サンデ天正遣欧使節記』と『九州御動座記』に頼っている。いずれの記録も歴史学の資料としては問題が指摘されている。 『デ・サンデ天正遣欧使節記』は日本に帰国前の少年使節と日本にいた従兄弟の対話録として著述されており、両者の対話が不可能なことから、フィクションとされている[10]。『デ・サンデ天正遣欧使節記』は宣教師の視点から日本人の同国人を売る等の道徳の退廃、それを買うポルトガル商人を批判するための対話で構成されている。 豊臣秀吉の功績を喧伝する御伽衆に所属した大村由己の執筆した『九州御動座記』は追放令発令(天正15年6月)後の天正15年7月に書かれており、キリスト教と激しく対立した仏教の元僧侶の観点からバテレン追放令を正当化するために著述されており以下のような記述がある。牛馬をかい取、生なから皮をはぎ坊主も弟子も手つから食し親子・兄弟も無礼儀上䣍今世より畜生道有様目前の二相聞候。
ポルトガル人が牛や馬を買い、生きたまま皮を剥いで素手で食べるとの記述については、ヨーロッパ人が化物だと決め付けることは東アジアでは一般的であり[11]、実際に目撃したものを著述したとは考えられない。宣教師に対する罵詈雑言や噂、作り話をもとにした虚構であるとの指摘がなされている[12]。
- ^ 1555年、ポルトガル商人が日本人の奴隷の少女を買い取ってポルトガルに連れ帰ったとイエズス会士が告発を行っている[16]。
- ^ a b c イエズス会は1555年の最初期の奴隷取引からポルトガル商人を告発している[注釈 6]。イエズス会による抗議は1571年のセバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許公布の原動力としても知られている[17]。日本人奴隷の購入禁止令を根拠に奴隷取引を停止させようとした司教に従わないポルトガル商人が続出、非難の応酬が長期に渡り繰り返される事態が続いた[18][19][20]。ポルトガル国王やインド副王の命令に従わず法執行を拒否して騒動を起こすポルトガル商人や裁判官等も数多くいたという[21][注釈 3]。
- ^ a b 天正遣欧使節記の目的をヴァリニャーノはポルトガル国王やローマ教皇に対して政治的、経済的援助を依頼するためと書き残している。天正遣欧使節記はポルトガルの奴隷貿易に関連して引用されることがある。宣教師によって記述された情報はポルトガル王室への奴隷貿易廃止のロビー活動[15]として政治的な性質を帯びており、宣教師側がポルトガル王室から政治的援助を受けるため、さらにポルトガル商人を批判して奴隷売買禁止令の執行実施を促すために生み出した虚構としての側面からも史料批判が必要と考えられる[注釈 7]。
- ^ 豊臣秀吉は「人心鎮撫の策」として、遊女屋の営業を積極的に認め、京都に遊廓を造った。1585年に大坂三郷遊廓を許可。89年京都柳町遊里(新屋敷)=指定区域を遊里とした最初である。秀吉も遊びに行ったという。オールコックの『大君の都』によれば、「秀吉は・・・・部下が故郷の妻のところに帰りたがっているのを知って、問題の制度(遊廓)をはじめたのである」やがて「その制度は各地風に望んで蔓延して伊勢の古市、奈良の木辻、播州の室、越後の寺泊、瀬波、出雲碕、その他、博多には「女膜閣」という唐韓人の遊女屋が出来、江島、下関、厳島、浜松、岡崎、その他全国に三百有余ヶ所の遊里が天下御免で大発展し、信濃国善光寺様の門前ですら道行く人の袖を引いていた。」 [23]のだという。
- ^ 江戸幕府が豊臣秀吉の遊郭を拡大して唐人屋敷への遊女の出入り許可を与えた丸山遊廓を島原の乱後の1639年(寛永16年)頃に作ったことで、それが「唐行きさん」の語源ともなっている[24][25]。秀吉が遊郭を作ったことで、貧農の家庭の親権者などから女性を買い遊廓などに売る身売りの仲介をする女衒が、年季奉公の前借金前渡しの証文を作り、本人の意志に関係なく性的サービスの提供の強要が横行した(性的奴隷)。日本人女性の人身売買はポルトガル商人や倭寇に限らず、19世紀から20世紀初頭にかけても「黄色い奴隷売買」、「唐行きさん」として知られるほど活発だった[26]。
- ^ a b デ・サンデ天正遣欧使節記では、同国民を売ろうとする日本の文化・宗教の道徳的退廃に対して批判が行われている[13]。日本人には慾心と金銭の執着がはなはだしく、そのためたがいに身を売るようなことをして、日本の名にきわめて醜い汚れをかぶせているのを、ポルトガル人やヨーロッパ人はみな、不思議に思っているのである。— デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969、p232-235
デ・サンデ天正遣欧使節記はポルトガル国王による奴隷売買禁止の勅令後も、人目を忍んで奴隷の強引な売り込みが日本人の奴隷商人から行われたとしている[13]。
また会のパドレ方についてだが、あの方々がこういう売買に対して本心からどれほど反対していられるかをあなた方にも知っていただくためには、この方々が百方苦心して、ポルトガルから勅状をいただかれる運びになったが、それによれば日本に渡来する商人が日本人を奴隷として買うことを厳罰をもって禁じてあることを知ってもらいたい。しかしこのお布令ばかり厳重だからとて何になろう。日本人はいたって強慾であって兄弟、縁者、朋友、あるいはまたその他の者たちをも暴力や詭計を用いてかどわかし、こっそりと人目を忍んでポルトガル人の船へ連れ込み、ポルトガル人を哀願なり、値段の安いことで奴隷の買入れに誘うのだ。ポルトガル人はこれをもっけの幸いな口実として、法律を破る罪を知りながら、自分たちには一種の暴力が日本人の執拗な嘆願によって加えられたのだと主張して、自分の犯した罪を隠すのである。だがポルトガル人は日本人を悪くは扱っていない。というのは、これらの売られた者たちはキリスト教の教義を教えられるばかりか、ポルトガルではさながら自由人のような待遇を受けてねんごろしごくに扱われ、そして数年もすれば自由の身となって解放されるからである。— デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969、p232-235デ・サンデ天正遣欧使節記は、日本に帰国前の千々石ミゲルと日本にいた従兄弟の対話録として著述されており[13]、物理的に接触が不可能な両者の対話を歴史的な史実と見ることはできず、フィクションとして捉えられてきた[14]。遣欧使節記は虚構だとしても、豊臣政権とポルトガルの二国間の認識の落差がうかがえる[注釈 8]。伴天連追放令後の1589年(天正17年)には日本初の遊郭ともされる京都の柳原遊郭が豊臣秀吉によって開かれたが[22][注釈 9]、遊郭は女衒などによる人身売買の温床となった[注釈 10]。宣教師が指摘した日本人が同国人を性的奴隷として売る商行為は近代まで続いた[26][27]。
- ^ a b 歴史家の岡本良知は1555年をポルトガル商人が日本から奴隷を売買したことを直接示す最初の記述とし、これがイエズス会による抗議へと繋がり1571年のセバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許につながったとした。岡本はイエズス会はそれまで奴隷貿易を廃止するために成功しなかったが、あらゆる努力をしたためその責めを免れるとしている[31]。
- ^ 長崎はもともと小さな寒村に過ぎなかったが、カリオン神父は
と述べている[48]。大村純忠は新町長崎と茂木の寄進状を天正八年四月二十七日(1580年6月9日)付で発行、都市の無期限使用権と治外法権を与える代わりに、港の関税、入港税を永久に確保し、徴収のための役人を常駐させることにした[49]。大村純忠のポルトガル船の誘致、新町長崎と茂木の寄進の打診は1579年秋にヴァリニャーノが訪問した際になされていたが、イエズス会は1580年10月、1582年12月において論議し申し出を受け入れることを裁決した。その理由として、戦争が絶えずある日本で、イエズス会は全資産を長崎に有しているため、安全な土地を持つ必要があること、戦渦や迫害により土地を追われたキリシタンのための避難所となること、ポルトガル船が来航することで、イエズス会の必要とする必需品がもたらされること、いつでも同地を手放すことができる自由裁量権があること等を挙げている[50]。
- ^ 追放令を命じた当の秀吉は勅令を無視し、イエズス会宣教師を通訳やポルトガル商人との貿易の仲介役として重用していた[52]。1590年、ガスパール・コエリョと対照的に秀吉の信任を得られたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは2度目の来日を許されたが、秀吉が自らの追放令に反してロザリオとポルトガル服を着用し、聚楽第の黄金のホールでぶらついていたと記述している[53]。
- ^ 英国国教会は豊臣秀吉が26人の殉教者を処刑した日の翌日である2月6日を1959年に記念日とした[59]。アメリカ福音ルター派教会でも、2月5日を記念日としている。
- ^ イギリス商館長リチャード・コックスは着任早々、オランダ人がイギリス人と称して海賊行為を行い、イギリス人の悪評が立っていることに衝撃を受けたという[63]。オランダ人に対抗するためにリチャード・コックスはオランダがスペイン王国の一部であるためオランダ人は反逆者であり、いずれ日本国を滅ぼすかもしれないと幕府に訴えた。またオランダは英国のおかげで独立しており、オランダは英国の属国だとの風評を立てた[64]。 オランダ商館長ヤックス・スペックスもコックスと同様に、オランダ総督をオランダ国王として虚偽の呼称を使用し、オランダ国王がキリスト教王国の中でも最も偉大な王であり、全ての王を支配しているとの風評を広げようとした。コックスはこれを逆手にとり、自国がオランダよりはるかに優れていることを大名や役人の前で説明したが、島津家久はこれを信じて、オランダ人でなくイギリス人に薩摩での貿易を許可するとの言質をとることに成功した[65]。1616年、ニ港制限令はイギリス人とオランダ人を長崎と平戸に閉じ込めることを決定した。コックスは秀忠に謁見しようとしたが、家康宛ての書状であるとの表向きの理由で拒否された[66]。さらに宣教師も追い打ちをかけて、連邦共和国を巡ってスペインが困っているのは、イギリスの支援があるからであり、イギリス人が正統な国王に対して対抗する手段を与えたとの有害な事実を広めた[67]。
- ^ 現存する最古の西洋人墓碑は江戸時代後期、元出島オランダ商館長ヘンドリック・ホットフリート・デュルコープ(1736-1778)のものである。オランダの日誌によるとキリスト教式の葬儀が異例ながら許された[78][79]。墓碑は1779年1月4日に設置された[80]。
- ^ 家光はキリスト教への恐怖からオランダ人を出島に移したが、外国との貿易に付随する政治的な利害関係を排除するためでもあった[81]。
- ^ 島原の乱において幕府の軍事支援要請にオランダ人は応じた。そのことでオランダはイギリスを含むヨーロッパ諸国から強く非難された[83]。ジョバンニ・フランチェスコ・ジェメリ・カレリはオランダ人が行っていた踏み絵をイギリス人が拒否したと記述しているが[84]、オランダ人が踏み絵をしたという一次資料は残されていない[83]。ガリヴァー旅行記でもオランダ人が踏み絵をしていたとの風評が描かれている。
- ^ 日本のプロテスタントは1859年を日本宣教初年とし、プロテスタント宣教50周年、100周年、150周年を祝っているため、ベッテルハイムを巡って議論がある。
- ^ 1873年2月24日、政府は、明治6年太政官布告第68号(布告三十日間掲示及従来ノ高札面除却)により、従来の高札を撤去した。これにより、キリシタン禁制を定めた高札(五榜の掲示の第3札)は事実上廃止され、江戸時代初期以来つづけられてきたキリスト教に対する禁教政策に終止符が打たれた。
- ^ ジャン・マリー・コール (Jean-Marie Corre)
1850年6月28日フランスのブリュターニュに生まれる。1875年パリ外国宣教会宣教師として来日、主として天草地方において伝道に従事した後、長崎の神学校に教師として配属された。その後、熊本に転じ苦難の中にハンセン病患者の救済に当たり収容施設である待労院を設立した。1911年2月9日熊本で死去。 - ^ モラヴィア兄弟団など未上陸の教派もある
- ^ ただし、エキュメニカル派(リベラル派)と福音派(聖書信仰)は福音主義についての解釈が異なる
- ^ 「日本の教会は、他の国々の教会の始まりとは異なって、人々の運動が起こらなかった。最初の指導者たちや教会員の多くは武士出身であり、金銭には潔白だったが、当時の特権的な知識階級だった。」
- ^ 試みに新信仰を告白したる当時の青年に就いてその境遇を調査せよ。植村正久は幕人の子に非ずや。彼は幕人の総てが受けたる戦敗者苦痛を受けたる者なり。本多庸一は津軽人の子に非ずや。維新の時に於ける津軽の位地とその苦心とを知る者は、誰れか彼らが得意ならざる境遇の人なるを疑う者あらんや。井深梶之助は会津人の子なり。彼は国破れて山河ありの逆境を経験したる者なり。押川方義は伊予松山の人の子なり。松山も亦佐幕党にして今や失意の境遇にあるものなり。」 「時代と戦わんとする新信仰を懐抱する青年が多く戦敗者のうちより出でたるは、共に自然の数なりきと言わざるべからず。総ての精神的革命の多くは時代の陰影より出づ」 "
- ^ 古屋安雄は日本のプロテスタントが知識階級、没落した士族階級中心であったことから、リベラル神学を受け入れてしまったのだと指摘する。
- ^ 1889年9月に大阪で行われた宣教師会議の時、他の宣教団の来日を必要とするという意見を述べたものが1名、また別に今後の時勢を見て他会へ来日要請することを考慮に入れるべきであるとするものが1名いたという。(ASMEP,Vol.573,Pierre-Marie Osouf à un pére,Tokio,17 août 1889.)
- ^ 平山要五郎(通称 牧民)
1859年、長崎県五島市岐宿町水ノ浦に生まれる。1889年2月10日に司祭に叙階された。五島列島では島田喜蔵に次いで2番目に叙階された司祭である。イエズス会の来日の実現に向けて働きかけたが、当時の長崎司教クーザンの強い反発を買い、破門に近い「聖職停止」の処分を受けた。1918年5月25日死去。 - ^ アルベール・アンリ・シャルル・ブルトン (Albert-Henri Charles Breton)
1882年7月16日、フランスのサン-タングヴェールにて生まれた。アラスの神学校で神学を学んだのち、1901年パリ外国宣教会に入会した。1905年6月司祭に叙階、同年8月に日本派遣を命じられ函館に赴任した。翌年新潟、さらに1907年には青森県弘前に転任した。1908年、青森に赴任しフォーリー神父のもとで助任司祭を務めたが小児麻痺を発病し、治療のためにフランスに帰国した。アメリカ経由で日本に帰る途中、カルフォルニアの日本からの移民の実情を視察して帰任した。鎌倉七里ケ浜に土地を求め、聖テレジア療養所を設立、鎌倉教会および東京本郷教会の司祭を兼任した。1931年福岡司教に任ぜられ福岡に転じた。1940年引退。第二次世界大戦中も日本に留まったが一時スパイの疑いで憲兵隊に逮捕されたことが伝えられている。1954年8月11日、鎌倉において死去。 - ^ ジャン・ルイ・ルラーブ (Jean-Louis Relave)
1857年12月17日フランス南部リヨン市郊外のセント・ジェルジス村で生まれた。パリ外国宣教会経営の神学校に学び、1885年司祭となった。直ちに宣教師として日本に派遣され、京都において伝道生活を送った後、宮津教会に転任し生涯を同地で過した。キリスト教布教のかたわら教育活動にも熱心で暁星女子高等学校を創立するなど女子教育に献身した。1940年、健康を害し1941年2月1日死去。 - ^ 「大学」を称しているが実際は専門学校令に準拠した専門学校である。
- ^ 日本基督教団と日本天主公教教団は、政府に求められて戦争協力を表明し、戦後になってこの事象を非難された時、教会と信徒を守るためには他に選択肢がなく、苦渋の決断であったと弁解した。
- ^ 終戦後、日本天主公教教団は廃止され、新たにカトリック中央協議会が組織された。
- ^ 日本基督教神学専門学校と日本基督教女子神学専門学校は戦後の学制改革により東京神学大学となった。
- ^ 1948年にカトリック教区連盟と改称、1953年8月24日にカトリック中央協議会となった。
出典[編集]
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- ^ OKAMOTO Yoshitomo. Jūroku Seiki Nichiō Kōtsūshi no Kenkyū. Tokyo: Kōbunsō, 1936 (revised edition by Rokkō Shobō, 1942 and 1944, and reprint by Hara Shobō, 1969, 1974 and 1980). pp. 728-730
- ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 496-497 "If that is the case, the king had then sent copies of the same order to India at least three times: in 1603, when Aires de Saldanha published it, in 1604, with Martim Afonso de Castro, and in 1605."
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- ^ The English and the Control of Christianity in the Early Edo Period, Timon Screech, Japan Review 24 (2012), p. 32, "The dénouement of summer 1616 occurred while Cocks was in Edo; indeed, I have argued here that Cocks’s presence was the trigger. But he sorely overplayed his hand. Cocks’s remarks caused alarm more widespread than he could have intended. As well as banishing the bateren shūmon, Hidetada decided to confine the English and the Dutch.177"
- ^ The English and the Control of Christianity in the Early Edo Period, Timon Screech, Japan Review 24 (2012), p. 30 "Little has been said above about the Dutch. Their base was beside that of the English on Hirado. On first arrival in Japan, Cocks and Saris were shocked to find that individual Dutchmen (not the Company itself) were billing themselves as “English,” which they did so as to engage in piracy without sullying their own country’s name.161 Not withstanding the honours given to Addames, the reputation preceding the English was accordingly not good."
- ^ The English and the Control of Christianity in the Early Edo Period, Timon Screech, Japan Review 24 (2012), p. 31, "The best strategy was to link the Dutch to the Jesuits, which was intensely done after the first change in shogunal attitude in winter 1613–1614, after Saris had left and Cocks had gained some purchase on the situation in Japan. Jacques Speckx (1585–1652), chief of the Dutch factory, he reported, proclaimed that in Asia, “he took the Graue Moris [graf Maurits (1567–1625)] and the Estates of Holland to be as much as the King of England, if not more.”166 Yet Cocks countered, telling Matsura Takanobu that the Dutch were “natural vassals of the King of Spain,” and “in open rebellion cast hym offe,” referring to the Spanish Netherlands. Takanobu should beware, for the Dutch “might breed some alteration in the harts of his owne vasseles to doe as the Hollanders had done,” with wider ramifications, to “make others as themselves are, to the over throwe of the state of Japan.”167 Cocks pursued a dual line: the United Provinces were rightfully part of Catholic Spain, so the Dutch were rebels, and, though this was contradictory, it was England that had secured such independence as the Dutch enjoyed, and so, in a manner, was overlord to them. He informed the Hirado court “that all might heare” how, “the King of England has vassales much greater than the prince (or county [count]) w’ch governs the Hollanders, and that their state or government was under the command of the King of England, he having garrisons of English soldiers in their cheefest fortes, or places of strength they had.”168"
- ^ The English and the Control of Christianity in the Early Edo Period, Timon Screech, Japan Review 24 (2012), p. 31-32 "Cocks was drawing attention to the Cautionary Towns, placed under English control as surety for Elizabeth’s enormous loans to the Dutch cause.170 But it was stretching the point to imply that the United Provinces were under English rule in any comprehensive way. Still, on hearing a Dutchman claim “their kinge of Holland to be the greatest kinge in Christendome, and that held all the others under,” Cocks weighed in: “I was not behindhand to tell him hee need not lye so oude, for that they had no kinge at all in Holland, but wer governed by a count, or rather, they governed him,” that is, he was an elected stadtholder, not a king, which to a Japan just emerging from civil war might seem dangerously loose. And Cocks continued, forgetting Spain: “If they had any kinge of which they might boast, it was the Kinge ma’tes of England, who hitherto have been their protector, otherwise they had never bragged of their states.”171 "
- ^ The English and the Control of Christianity in the Early Edo Period, Timon Screech, Japan Review 24 (2012), p. 32, "Cocks found himself blocked. James’s latest letter, brought on the Thomas or Advice, was refused, ostensibly on the grounds it was addressed to Ieyasu (recently deceased), and Cocks was allowed no audience.178 All the sub-factories were closed, with trade thereafter conducted only from Hirado. Cocks lamented they “might as wel banish vs right out of Japon as bynd vs to such a order.”179 He was informed by Kakuzeamon that it was temporary, until Japan was cleared of priests, after which trade would be reexpanded.180 But no reexpansion came."
- ^ The English and the Control of Christianity in the Early Edo Period, Timon Screech, Japan Review 24 (2012), p. 33, "Hidetada, now free of his father, made large-scale alterations to Ieyasu’s dispensation, not just with reference to international commerce. “[E]very one complayneth,” said Cocks, “that matters aer worse than in the ould mans daies, and that this man doth nothing but change offecers and displace tonos [daimyo].”181 The sequence with which this paper has engaged ended that autumn. The Jesuits were gone, or at least should have been. They were not supine, however; though few in number and living in hiding (as in England), they leaked out damaging facts. They tried to turn the tables over the matter of the United Provinces, pointing out the King of Spain was only troubled there because of English support, and “thenglish were they w’ch gave hem [the Dutch] meanes to stand against their naturall prince.”182"
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- 『日本に眠るパリ外国宣教会宣教師列伝』武内博
- 横浜市歴史博物館(井上 攻)「速報 日本最古級のキリシタン信仰画「ご聖体の連祷と黙想の図」の展示」『横浜市歴史博物館ニュース』No.46号 2019年(平成31年)2月2日発行 6~7頁
関連文献[編集]
- 日本基督教史 上巻(山本秀煌、1925年) - Google ブックス
- 日本基督教史 下巻(山本秀煌、1925年) - Google ブックス
- 鈴木範久『日本キリスト教史 -年表で読む-』教文館、2017年。ISBN 978-4-7642-7419-8。OCLC 1003285994。
関連項目[編集]
- キリスト教の歴史
- キリスト教年表
- 修道会
- キリスト教主義学校(ミッションスクール)
- 日本のクリスチャン有名人一覧
- 日本におけるカトリック教会
- 日本の末日聖徒イエス・キリスト教会
- 日本のプロテスタント教派一覧
- キリシタン
- 日本の宗教
- ローマ字
- 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産
外部リンク[編集]
일본의 기독교사
일본의 역사 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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Category:일본의 테마 역사 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
일본의 기독교사 (일본의 기독교)에서는 일본 에서의 기독교 의 역사와 그 전개에 대해 설명한다.
일본의 종교 전반에 대해서는 「일본의 종교」를 참조.
세계 기독교의 역사에 대해서는 「기독교 의 역사」를 참조.
개요 [ 편집 ]
「일본에 언제 기독교가 도래했는가?」라고 하는 일본의 역사상 의 질문에 대해서는, 네스트리우스파 기독교( 중국 에서 경교 라고 불린 것)가 5세기 경, 진하승 등에 의해 일본 에 전해져 설과 연구가 있다 [주석 1] [1] [주석 2] . 다만, 역사적 증거나 문서에 의한 기록이 적고, 분명하지 않은 점도 많다.
역사적·학문적으로 봐 증거가 많고, 고등학교 일본사의 문부 과학성 검정제 교과서로, 기독교의 일본에의 최초의 전래가 되고 있는 것은 , “ 1549 년 에 가톨릭 교회 의 수도회 '예수회 의 프란시스코 자비엘 에 의한 포교 '이다 [ 요출전 ] .
전국 시대 의 사나카이며, 당초는 자비엘들 예수회의 선교사만으로 기독교 일본 포교가 시작되었다.
선교사들은 일본인 과 충돌을 일으키면서도 포교를 계속해 때의 권력자 오다 노부나가 의 비호를 받는 데에도 성공해 순조롭게 신자를 증대시켰다.
그러나 도요토미 히데요시 의 안도 모모야마 시대 에는 세력을 확대한 기독교도가 신도 와 불교 를 박해하는 사례가 일어났다 [ 신뢰성 요 검증 ] [주석 3] [주석 4] 그 외, 포르투갈 상인에 의해 일본인이 노예 무역 의 상품이 되어 해외에 인신매매 [주석 5] [ 주석 11 ] 되고 있다고 하는 이야기도 나와 있고 이를 들었던 히데요시는 배틀렌 추방령을 발포하고 선교를 금지했다 [ 신뢰성 요 검증 ] [주석 12] . 히데요시 가 노예 무역에 화를 내고 추방령을 발했다는 설도 있지만, 최신의 연구는 이 설을 부정하고 있다[32 ] .
그러나, 이때는 남만 무역 의 이익이 우선되고, 또 서서히 탄압하면, 규슈 정벌에서 막 정정한 규슈에서의 반란 이 생각 되었기 때문에(당시의 일본에서는, 특히 선교 개시의 땅인 규슈 지방에서 키리시탄 다이묘 나 신자( 키리시탄 )가 많았다), 본격적인 추방은 행해지지 않고, 선교 활동은 중반 묵인되고 있었다. 하지만 산페리페호 사건이 일어났을 무렵 히데요시는 기독교의 본격적인 탄압을 시작했다.
이윽고 시대가 옮겨, 세키가 하라의 싸움 으로 승리를 거두고 도요토미 정권을 대신해, 천하 통일을 이룬 도쿠가와 이에야스의 에도 시대에는, 일시적으로 포교 는 인정 되었다 . 그러나 그 후에는 에도 막부가 금교령을 내고 기독교를 금교로 쇄국 정책을 채택했기 때문에 선교사는 물론 외국인도 허가 없이는 일본에 입국할 수 없게 되었다 .
한편 단가 제도를 정비하고 기독교 도를 끌어내기 위해 서민에게 발판을 밟았다. 그동안 에도 시대 말까지 일부 신자들이 비밀리에 기독교 신앙을 전해 가게 되었다. 이 신자들을 ' 숨겨진 그리스도인 '이라고 불린다.
이윽고 메이지 유신이 일어나 에도 시대는 끝났다. 메이지 에는 구미 열강과 불평등 조약을 맺어, 외국과 대등하게 되려고 필사적이었던 메이지 정부는 일본의 근대화를 도모해, 부국 강병이나 식산 흥업 , 문명 개화 등 의 정치 · 법률 · 경제 · 군사 등 서양식에 따라 모든 분야의 개혁을 단행했다. 그 중에는, 국내에서의 기독교의 포교·국민의 신앙 허가도 포함되어 있어 완전하지는 않았지만 신교의 자유가 법적으로도 보장 되었다 .
이후 기독교는 다시 일본에서의 포교를 시작했다. 전국 시대에는 가톨릭이 주였지만, 메이지 이후에는 개신교 와 정교회 등 각파가 포교를 실시했다. 이때 크리스마스 등 여러 행사가 일본에 반입되어 일본 문화 의 하나로 정착해 갔다.
제2차 세계대전이 시작되면 '적국의 종교'로 여겨진 기독교도 신도나 불교 등 다른 종교와 마찬가지로 정부·대본영에서 전쟁 협력을 명령받아 그것을 거절 한 종교 단체 는 특별 고등 경찰 에서 철저히 탄압되게 됐다. 제2차 세계대전이와 일본의 패배 로 종결하면, 일본에서는 거의 완전한 형태로의 신교 의 자유 가 일본국 헌법 으로( 제20조 ) 보장되고, 부자유 없는 기독교의 포교가 개시되었다 .
영국 교회 [33] 와 루터르 교회 [34] 는 프란시스코 자비엘을 숭경 하며 , 내일 12월 3일을 기념일로 하고 있다. 일본 26성인 에 대해서도 루터교회, 영국교회, 성공회는 순교한 날의 2월 5일 또는 다음날의 2월 6일을 기념일로 하고 있다[35 ] .
현재 기독교 문화는 (교회에서의 결혼식 이나 크리스마스 등에 상징되는 것처럼) 일본 문화에 다양한 영향을 주고 있다. 그러나 일본은 공공 기관이 종교의 비율을 자세히 조사하지 않았기 때문에 불분명한 점도 있지만, 기독교 신자 그 자체는 가톨릭 · 개신교 · 정교회의 모든 것을 합계해도 일본인 전체의 1% 전후 정도라고 한다. 문화청의 종교연감에서는 신자수로 1%로 되어 있다 [36] . 또한 CIA 의 조사에 따르면 일본 기독교인의 비율은 1.5% 정도로 추정되고 있다 [37] . 도쿄기독교대학 의 일본선교리서치에 의하면, 2014년 일본의 기독교 인구는 약 104만명으로, 일본의 전 인구 중, 0.82%로 되어 있다[38 ] . 2018년에도 신자수의 개수는 105만명으로, 대인구비로 0.83%로, 개수는 변하지 않았다 [39] .
각국의 종교단체는 보편적으로 볼 수 있지만 일본의 기독교 단체도 교리와 전도방법에 대한 사고방식의 차이, 행동방침과 정치적 주장을 둘러싼 대립이 있어 많은 단체들에게 분리된다. 각 단체는 협력 또는 대립 관계에 있습니다.
전국 시대부터 아즈치 모모야마 시대 [ 편집 ]
배경 [ 편집 ]
16세기 독일 (당시의 신성 로마 제국 )에서 마르틴 루터 가 일으킨 종교 개혁이 각국 에 파급되고 있어, 가톨릭 의 무릎의 이탈리아조차도 교황 의 권위에 그늘이 보였다.
가톨릭 교회는 권위를 되찾기 위해 멀리 아시아 에서의 포교 활동도 시야에 들어가기 시작했다. 신자 수가 늘면 개신교 세력에 대한 견제가 된다. 또, 금전적인 문제로부터도, 아시아 포교는 급무와 교회 상층부는 생각하고 있었다. 당시에는 속유장 (면상부)에 대한 풍당이 강해졌기 때문에 매출이 급감하고 있어 가톨릭의 재정사정에 영향을 미치고 있었다. 아시아의 유력자를 신자로 하면 가톨릭교회에 대한 막대한 헌금을 기대할 수 있었다. 덧붙여 구속상 금전에서의 매매는 트리엔트 공회 의의 결의에 의해 1563년 에 금지되고 있다.
이러한 유럽 종교사정이 일본에 예수회나 프란시스코 회 선교사 가 입국하는 기초가 되어 갔다.
선교사는 아시아에 활발하게 파견되어 갔다. 우선 식민지화가 진행되고 있던 인도 와 동남아시아 에 대량으로 보내졌다. 선교사들은 한층 더 동쪽으로도 눈을 돌리고, 이윽고 극동 까지 진출해 왔다.
프란시스코 자비엘의 선교 활동 [ 편집 ]
예수회 ( 가톨릭 교회 수도회 ) 의 창립 멤버 중 한 명으로 서인도에서 선교활동에 종사하던 바스크인 사제 프란시스코 자비엘이 말라카에서 알게 된 '야지로우' ( 안지 로우 모두 ) 라는 일본인 에 의해 일본 일을 알고 흥미를 안은 것이 일본에서의 선교 활동의 계기가 되었다.
1549년 에 시작되는 자비엘에 의한 선교활동이 일본에 대한 기독교의 첫 전래로, 이것은 역사 사실로서 교과서 등에 기술되어 일반적으로도 널리 알려져 있다.
프란시스코 자비엘과 예수회 [ 편집 ]
자비엘은 야지로우와 화장품 드 토레스 , 조안 페르난데스 등과 함께 8월 15일(이 날은 '성모 마리아의 피승천의 축일'에 해당하고, 자비엘은 일본을 성모 마리아에 바쳤다.) 가고시마 에 상륙 했다 . , 2년 3개월에 걸쳐 선교 활동을 실시했다.
자비엘은 '일본 국왕'( 천황 )의 선교 허가를 얻으려고 사쓰마번 에서 히라도 , 야마구치 , 사카이 를 거쳐 교토에 뒤따랐지만, 당시의 교토는 전란으로 외로웠다. 천황의 권위도 실추하고 있어 정이 대장군 도 부재했기 때문에 자비엘은 목적을 이루지 못했다. 그 후 언어와 문화의 차이 등 엄청난 어려움을 극복하면서 서서히 일본인 협력자를 얻을 수 있어 700명 정도로 세례를 받았다. 각지를 여행하는 가운데, 자비에르는 일본 문화에 중국이 큰 영향을 주고 있다고 간파해 중국 선교를 뜻하고 광동의 카미카와섬에 상륙했지만, 중국 본토를 눈앞에 두고 병몰 했다 .
일본인을 「가장 우수하고 이성적인 국민」이라고 평가한 자비엘은, 예수회 본부에 한층 더 선교사의 파견을 의뢰. 이에 부응하여 우수한 인재가 적극적으로 일본으로 보내졌다. 자비에르 이후, 가스파르 빌레라 , 루이스 데 알메이다 ( 분고후 내에 일본 최초의 병원을 개설), 루이스 플로이스 (오다 노부나가 와 도요토미 히데요시 와 회견해, 「일본사」를 기록한다), 가스펄 코에료 등의 예수 회원이 일본에 내항해 포교활동에 이르렀다.
또한 자비엘은 일본의 수도에 신학부 , 법학부 및 의학부를 겸비한 가톨릭계 종합 대학을 건학하겠다는 꿈을 안고 있었지만, 그의 꿈은 1913년 예수회사 에 의해 상지 대학 이 도쿄 에 건학한 것에 의해 이뤄졌다(단, 상지대학에 의학부는 설치되어 있지 않다). 또한 「상지」란 「소피아」의 번역이다.
일본에서의 포교 활동 [ 편집 ]
일본에서는 다른 식민지화 된 아시아 지역과 달리 유럽 의 영향이 미치지 못하고 본국의 군사적·경제적인 지원이 없었다. 그러므로 선교사들은 우선 그 토지의 다이묘 등 유력무장과 회견하고 남만 무역 의 이익 등을 호소하면서 포교의 허가를 얻으면서 안전 확보를 도모했다. 이전 1543년 에는 포르투갈 의 배가 종자도 에 난파되어 화조총 등 이 전래하고 있었다. 다이묘 는, 독자적으로 남만인과의 교역의 길을 모색하고 있는 한가운데이며, 그 남만 과의 창구가 될 수 있는 자비엘들은, 일본에 처음, 다이묘들로부터 기본적으로 환영되었다.
포교의 중심적인 역할 을 완수한 것은 로렌소 료사이 · 타테다씨 ·일부씨 40] · 키무라씨 [ 41 ] ( 말차 평장의 아버지의 말차 흥선[42 ) · 가스펄 서쪽 · 토마스 서쪽 등 히젠 나라 의 히라도 섬 · 이즈키 섬 의 사람들이었다.
이 과정 속에서 기독교에 접한 다이묘들 중에도 세례를 받는 것이 나타났다. 그들이 기독교를 믿는 이유는 기독교의 철학에 진지하게 끌린 사람 외에, 단순히 남만과의 무역을 보다 원활하고 대규모로 하고 싶기 때문에, 또는 남만의 문화나 과학 기술을 습득한다 목적으로부터 신앙하게 된 자도 있었다. 이들은 키리시탄 다이묘 라고 불리며, 특히 유명한 것으로 오오토모 종린, 오 무라 준타다 , 아리마 하루노부 , 유키 타다마사 , 타카야마 토모테루 및 타카야마 우근 부모와 자식, 코니시 유키나가 , 가모 씨향 등이 있다.
덧붙여 포교 당초는, 말의 문제나, 야지로우가 성경 의 데우스 (신)를 「대일」이라고 번역한 것, 자비엘등이 불교 발상지인 인도 ( 텐축 )로부터 온 것, 일본인간 그래서 ‘ 외래 종교라고 하면 불교 ’라는 생각이 강했던 것 등 여러 요인들로부터 기독교는 ‘천축교’ ‘남만종’ 등으로 불리며 불교의 일파로 오해되는 경우도 많았다 . 포교 당초 “모르고 불교 용어를 사용하고 있었던 것이 기독교의 정확한 이해를 방해하고 있다”라고 인식한 자비엘들은 곧 불교 용어를 가능한 한 폐한 “원어주의”를 채용해 나갈 것 된다.
예수회의 선교방침에 따라 일본의 선교방침은 일본의 전통문화와 생활양식을 존중하는 것, 일본인 사제나 주교를 양성하여 일본의 교회를 사목 시키는 것에 놓였다 . 이것은 동시대의 유럽인의 비유럽 문화에 대한 태도로서는 그 밖의 예를 보지 않는 것이었다. 「적응주의」라고 불린 이 지침에 의해 일본에서의 선교는 순조롭게 진행되었다. 그러나 일본인에게는 사제가 되는 능력도 적성도 없다고 생각해 경시한 프란시스코 카브랄이 포교장이었던 시절 포르투갈인과 일본인들 사이에 흩어져 선교활동이 정체 됐다 .
예수회 본부로부터의 순찰사로서 일본을 방문한 알레산드로 바리냐노는 각지 를 돌고 실정을 시찰한 뒤 카브라르를 해임하고 그 방침을 부정, 종래 행해지고 있던 적응주의의 부활을 명했다 . 발리냐노는 일본인 사제의 양성을 급무로 하고, 각지에 세미나리오 (초신학교)와 노비샤드 (수련원), 코레지오 (대신학교)를 설치했다. 이들 학교에서는 당시의 학술어였던 라틴어, 일본어 및 철학·신학, 자연과학, 음악, 미술, 연극, 체육과 일본의 고전을 필수 과목 으로서 학습시키고 있었다. 이것은 인문주의적 소양을 중시한 예수회의 교육 방침에 의한 것으로, 예수회에 의한 교육은 일본의 메이지 이후의 학교 교육의 선취라고도 할 수 있었다.
게다가 발리냐노는 장래의 일본을 담당하는 소년들에게 직접 유럽을 보여, 동시에 유럽에 일본의 존재를 어필하려고 천정견 유럽 사절(1582년 -1590 년 ) 을 기획 . 예수 회원에 동반된 4명의 소년들( 이토 맨쇼 , 하라 마르티노 , 치요이시 미구엘 , 나카우라 줄리안 )은 유럽 각지에서 열광적인 환영을 받아 사절 기획은 대성공을 거두었다.
선교사가 받은 비방 중상 [ 편집 ]
선교사에 대한 비방 중상 중에서도 현저한 것에 인육을 먹는 것이 있다 [43] . 페르난 게레이로가 쓴 '예수회 연보집'에는 선교사에 대한 집요한 괴롭힘이 기록되어 있다.
사제들의 문구에 야간 시체를 던져 그들이 인육을 먹는다고 무지한 사람들에게 생각하지 않고 그들을 증오하고 혐오시키려고 하였다[44 ]
또한 아이를 먹기 위해 선교사가 내항하고 요술을 사용하기 위해 눈을 빼고 있다는 소문이 세워졌다 [45 ] . 불교 설화집 『사석집』에는 생명 을 약 으로 하는 설화 가 있어 스님인 오 무라 유미가 집필한 '규슈 어동좌기'에 있는 선교사가 우마를 살아 남은 껍질을 벗겨 맨손으로 먹는다는 소문과도 공통되는 것이 있다.
사회적 마찰 [ 편집 ]
일본 최초의 남만 외과의 사인 수도사 루이스 데 알메이다 는, 아리마 하루준은 영내 에 있던 십자가를 쓰러뜨리고, 기독교도가 원래의 가르침에 강제 개종 하도록 명령했다고 1564년 10월 14일자, 분고 발신의 서한으로 언급하고 있다 [2] . 1563년 11월 7일경 [3] 에는 요코세 포항에 있는 수도원이 구워지고, 이어 곧바로 그리스도인 농민들의 집이 구워졌다고 한다 [4] . 1573년에는 후카호리 준켄에 의해 토도스 오스 산토스 교회가 태워졌다 [5] . 이와 같이 기독교와 불교 신자 간의 대립 관계가 악화되었지만 [ 6] 일본에서 예수회의 책임자 인 발리냐노는 사사의 파괴 를 금지했다 [47] [주석 3] .
도요토미 히데요시와 기독교 [ 편집 ]
오다 노부나가 는 선교사들에게 호의적이었다. 노부나가의 뒤를 이은 도요토미 히데요시 도 기본적으로 노부나가의 정책을 계승해, 선교사에 대해서 관대했다.
그러나, 히데요시의 천하 통일 눈앞의 1587년 , 규슈 정벌 의 도상에서 선교사나 그리스도인 다이묘 에 의해 다수의 신사 나 절이 구워져, 불교도가 박해를 받고 있는 [ 신뢰성 요 검증 ] 것을 알고, 또, 일본인이 포르투갈 상인에 의해 노예 로서 해외에 팔리고 있었다 [주석 7] [주석 11 ] [주석 5] [ 주석 12 ] 영이 되고 또한 요새화되고 있는 [주석 13] 일 등을 이유로 규슈 정벌 완료 직후, 치 쿠마에 하코사키에 있어서, 히데요시에 속견하기 위해 나가사키에서 온 포교 책임자인 가스펄 코에료에 대해, 배틀 렌 추방령 를 발포해 선교사의 국외 퇴거 명령과 기독교 선교의 제한을 표명했다(이 때, 히데요시가 배틀렌 추방령을 발포한 이유에 대해서는, 다양한 설이 있다. 자세한 것은 배틀렌 추방령의 항 을 참조 ) .
이에 대해 코에료는 아리마 하루노시 등 기독교 다이묘에게 히데요시와 적대하도록 요청, 또한 무기·탄약의 지원을 약속했다 [51] . 그러나 아리마 하루신은 이미 천하인의 자리를 거의 수중에 담고 있던 히데요시와 적대할 생각은 없고, 이 요청은 실현되지 않았다. 이후 예수회는 히데요시를 자극하는 것을 두려워 공중 선교활동을 잠시 삼키게 된다.
한편, 히데요시는 추방령을 발포해야 했지만, 이후에도 실질상 그리스도인은 묵인했기 때문에 박해 등은 거의 이뤄지지 않았다. 왜냐하면 히데요시는 포르투갈을 통한 남만 무역에 적극적이었기 때문에, 추방령의 철저를 도모하지 않았다고 생각되고 있다[주석 14 ] . 그 때문에 선교사들은 입장이야말로 불안정했지만 이 시점에서는 아직 꽤 자유로운 선교활동을 계속하고 있었다.
1591년 인도 총독 의 대사 로 발리냐노 에 제출된 서한(서소승승이 히데요시 를 위해 기초)에 따르면 삼교( 신도 , 유교 , 불교 ) 에서 볼 수 있는 동아시아 의 보편성을 유럽 의 개념 의 특수성과 비교하면서 기독교 의 교리를 단죄했다 [54] . 히데요시 는 포르투갈 과의 무역관계를 중단시키는 것을 두려워하고 칙령을 시행하지 않고, 1590 년대 에는 기독교 를 복권하게 되었다 [55] . 칙령대로 선교사 를 강제적으로 추방할 수 없고, 나가사키 에서는 예수회 의 힘이 계속되어 [56] , 도요토미 히데요시 는 때때로 선교사지원 [57] .
현재, 가나가와 현 나카군 오이소초의 사와다 미키 기념관 에 전해지는 그림 두루마리 『성체의 연상과 묵상의 그림』은, 이 시기의 1592년 (텐쇼 20년)에 제작된 것으로 보이며, 일본에 현존한다 그것으로 가장 고급의 기독교 회화로 여겨진다 [58] .
그러나 도요토미 정권의 말기가 되어 스페인 령이었던 필리핀 과의 관계가 태어나 프란시스코회나 도미니코 회 등의 수도회가 일본에 오게 되면 사태는 복잡해진다. 그들은 일본 선교에서 당시 예수회의 (사회적으로 영향력을 가진 사람들에게 적극적으로 선교해 간다는) 방식과는 다른 접근법을 시도하고 가난한 사람들 속으로 들어가 직접 선교를 시도 했다. 그러나 이러한 수도회가 예수회와 같이 일본 문화에 적응하는 정책을 취하지 않고 히데요시를 자극했다. 로서의 질소한 의복을 고집한 것)이나, 예수회와 이들 후발의 수도회의 대립이 격화한 것으로, 일본에서의 선교사의 입장은 서서히 악화해 간다.
그리고 1596년 의 산페리페호 사건을 계기로 히데요시는 기독교에 대한 태도를 경화시키고, 1597년 당시 스페인의 비호에 의해 교토에서 활동하고 있던 프란시스코 회계의 선교사들을 잡을 것을 명령 했다 . 이것이 도요토미 히데요시의 지시에 의한 최초의 기독교에의 박해이며, 사제나 신도 아울러 26명이 나가사키에서 처형되었다(일본 26성인의 순교) [ 주석 15 ] .
에도시대 [ 편집 ]
히데요시 몰후 실권을 장악한 도쿠가와 이에야스 는 당초 기독교 선교를 묵인하고 있었다. 예를 들면 1598년 에는 스페인인 선교사 헤로니모 데 헤스스 에게 스페인 선내항의 알선을 의뢰해, 에도에 있어서의 교회의 건설과 포교 허가를 주고 있어, 도쿄역 야에스 북쪽 출구 유적에서는 요즘의 키리시탄 무덤 이 , 귀의 했다고 생각되는 아시아인 의 인골과 함께 발견되고 있다 [60] . 이에야스는 기독교 그 자체에 일관되게 무관심했다. 이것은 미카와 일향일규 로 종교에 시달린 기억이 있었기 때문이라는 설이 있다. 이에야스는 장군직을 도쿠가와 히데타다 에게 양도해, 대고소 로서 쇼 후에 은퇴한 후의 1607년 에도 예수 회원 프란시스코 파지오 를 인견해, 외국인 선교사의 체재와 포교의 허가를 주고 있다 .
그러나 한편 이에야스는 해외와의 무역 실리를 요구하고 있었다. 1600년 에 네덜란드 배 리프데호가 표착해, 영국인 항해사 윌리엄 아담스나 양요 스텐 이 이에야스를 섬기기 시작했을 때, 이에야스는 그들로부터 최신의 유럽 사정의 정보를 얻었다. 과거의 강국 스페인 포르투갈 에 대해 신흥의 영국 과 네덜란드가 알마다의 해전 이나 80년 전쟁 (네덜란드 독립 전쟁) 등으로 승리해 추격하고 있는 당시의 유럽 정세를 이해하고, 양 진영을 겨루게 하면서 무역의 실리를 얻는 것을 노리고 있었던 것이다(윌리엄 아담스는, 실제로 알마다의 해전에 참전하고 있었다).
또한 개신교 국가의 네덜란드는 “그리스도교포교를 수반하지 않는 무역도 가능하다”고 주장했기 때문에 이에야스에게 선교사나 기독교를 배제할 이유는 없고 대신 적극적으로 보호할 이유도 없었다. 사실 네덜란드는 동남아의 식민지 에서 (경제적인 착취나 문화의 탄압은 하고 있었지만) 현지 종교나 정치형태에 대해서는 그다지 간섭하지 않는 방침을 기본으로 하고 있었다.
그러나 1612년 에 오카모토 다이하치 사건 ( 아리마 하루노부 가 얽힌 의옥 사건)이 일어났을 때, 관계자가 둘 다 그리스도인이었기 때문에, 이에야스는 지금까지의 태도를 일전 하여 제 다이묘 와 막신 에게 기독교 금지를 통달, 원주수 등 그리스도인이었던 깃발이 개역되었다. 이듬해가 되면 측근 이심 숭전의 손에 의한 「배길지단문」에 의해 기독교 신앙의 금지가 명문화되어 전국에서 박해가 이루어지게 되었다. 1616년 에 도쿠가와 이에야스가 죽으면, 「토쇼대권현」으로 여겨져 신으로서 모셔진 것도 기독교 금지에 영향을 주었다고 하는 견해도 있다[61 ] .
1616년 니항 제한령은 영국 상관장 리처드 콕스가 에도에 있는 동안이었지만, 이것은 콕스가 네덜란드와 영국에 관해 한 발언이 그가 의도한 이상으로 막부에 경계감을 안겨 일이 발단이 된 가능성이 지적되고 있다 [62] [주석 16] .
1619년 교토에서 52명이 순교하고, 1622년 나가사키에서 55명이 순교( 원화의 오순교 ), 1623년 에도에서도 55명이 순교했다. 이후 금교령 해제까지 약 250년 동안 기독교도는 막부와 막부의 비호하는 불교도, 신도신자 등에 의해 박해되게 된다.
다만, 금령의 철저는 지방에 따라 다르고, 예를 들면 마츠마에 번 등은 막부에 대해 「영내에는 키리시탄은 없음」이라고 보고하고 있었지만, 실제로는 단속은 느슨해, 많은 키리시탄이 혼슈로부터 도망쳐 오고 있다 했다. 마츠마에번의 이 자세는, 1637년 에 시마바라의 난이 일어나 기독교 금지의 명령이 철저하게 될 때까지 계속되었다 [68] .
한편, 신불습합· 다신교 의 종교적 질서 위에 있어, 천황 ·원( 타이가미 천황 ) 스스로가 신도 의 제사를 주재해, 불교 의 기도를 실수해 온 조정에 있어서 , 일신교 의 기독교는 일찍부터 경계되어 배제가 시도되는 대상이었다. 기독교 금지는 에도 막부 와 조정이 연계·협동해 임할 방침으로 아침막 관계에 있어서도 바람직했다 [69] [70] .
미국 의 역사가 조지 엘리슨은 기독교 박해의 책임자를 나치 의 홀로 코스트 에서 지도적인 역할을 한 아돌프 아이히만 과 비교했다 [71] [72] .
시마바라의 난 [ 편집 ]
1637년 에 히젠 시마바라 와 히고 아마쿠사 에서 백성 신분의 자들(농민이나 일찌기 키리시탄 다이묘의 가신이었던 전 무사들 등으로 구성되었다) 3만명이 봉기한 사건은 막부에 충격을 주었다. 이것이 시마바라의 난 이다. 봉기의 직접적인 원인은 시마바라번 과 가라쓰번 (아마쿠사를 소령)에 의한 잔혹한 수세제도에 있었지만, 동지에는 키리시탄 다이묘였던 아리마 하루신, 코니시 행장의 통치 시대에 입신한 키리 시탄 이 많다 , 일섭 의 맹약 결성의 구심력으로서 기독교 신앙을 기반으로 한 내부 통제도 행해진 것, 그것이 일향종, 호화종 등과 같은 구심성이 강한 종교 세력이 배타적인 일규 적 결합 의 핵과 되어 강대한 정치 세력을 쌓은 사태의 재래하는 위기를 느끼게 한 것, 심지어 막번 체제의 왜곡이 밝기에 나올 것을 막부가 두려워한 것으로부터 「키리시탄에 의한 반란」이라고 단순화되어 규정 하원 성 함락 후 1명의 내통자를 제외한 참가자 전원이 살해되었다. 덧붙여 당시의 시마바라 번주 마츠쿠라 카츠야 는, 농민의 생활이 성립되지 않을 정도의 수탈을 실시했는지에서 참수되어, 마찬가지로 가라쓰 번주 테라자와 켄 타카은 아마쿠사의 영지를 몰수해, 그 후 자해하고 있다(에도기를 통해, 한번의 번주가 절복이 아니고 참수가 된 것은 이 마쓰쿠라 카츠야의 1례뿐이다).
이 사건을 무겁게 본 막부는, 금교를 철저하게 하는 관점에서, 카톨릭국인 포르투갈과의 단교를 바라게 되어, 1638년에는 카피탄·몰의 장군에의 속견을 거부 하고 있다 . 또, 그리스도인을 넘기기 위해 그림책 이나 그리스도인을 밀고한 자에게 보상금을 주려고 했다. 하지만 막부는 포르투갈이 마카오 에서 가져오는 중국산 생사 등에 일본 시장이 크게 의존하고 있었기 때문에 포르투갈과의 무역 중단을 주저했다.
그러나, 1639년 에 네덜란드 상관장의 프랑소와 카론이 에도에 참부했을 때, 막부는 네덜란드의 식민지인 대만 경유에서도 중국산의 생사 등을 확보할 수 있는 것을 카론으로부터 확인할 수 있었던 것으로 , 포르투갈 와의 단교에 밟히게 되었다. 그리고 나가사키 봉행 이나 서국 다이묘에 포르투갈선의 내항 금지와 규슈 연안의 방비 체제의 확립을 요구한 통달(「제5차쇄 국령」)을 발포하고, 포르투갈을 나가사키의 데지마에서 추방 했다 . 1641년 에는, 상관에 있던 기원 에 관한 것을 이유로, 네덜란드의 상관도 히라도에서 나가사키의 데지마 로 이전되어 상선의 입항이 통제·제한되게 되었다. 각지에서 종문개 제도와 단가제도가 정비되면 기독교 금지는 막번체제의 근간에 편입된다.
기독교 금령은 로마 카톨릭 교회에 한정되지 않았으며, 히라도의 네덜란드 창고는 기독교 연호(1639년)를 사용한 것을 이유로 파괴되어[73], 네덜란드인 묘지 도 같은 시기 에 파각, 시체는 파고 바다에 투기되었다 [74] . 1654년, 가브리엘 하팔트는 나가사키에서의 육상 매장의 탄원을 했지만, 기독교식의 장례식이나 매장은 인정되지 않고, 일본식으로 실시하는 것을 조건으로 매장이 허가되었다[75][ 76 ] [ 77] [주석 17] .
네덜란드인 의 기록에 따르면, 도쿠가와 이에미츠는 네덜란드인의 종교가 포르투갈인의 종교와 유사하다는 것을 이해하고 있으며, 네덜란드인을 나가사키의 데지마에 감금한 이유 중 하나인 기독교 신앙 거기 있었다 [81] [주석 18] .
엥겔베르트 켐펠 은 1690 년대 데지마 에서 네덜란드인들이 일본인 에 의한 다양한 모욕과 불명예를 견뎌야 했다고 말했다. 그리스도 의 이름을 말하는 것, 종교와 관련된 노래를 부르는 것, 기도하는 것, 공휴일을 축하하는 것, 십자가를 가지고 다니는 것은 금지되어 있었다 [ 82 ] [ 주석 19] .
쇄국 [ 편집 ]
괴멸했는지 보인 기독교인들이었지만, 규슈의 일부 등에서는 신도들이 선교사들의 가르침 을 말로 전하고, 수방이나 장방이라고 하는 신도 조직을 형성하는 것으로, 부모로부터 아이에게, 아이로부터 손자에게 비밀리에 신앙을 전해 갔다. 이것이 숨겨진 키리시탄 (잠복 크리시탄)이다. 그들은 불교도를 가장하면서도 믿음을 오로지 지키고, 기독교를 자유롭게 믿을 수 있는 날이 오기를 기다렸다.
그래도 발각하는 경우가 있어, 한 지역에서 많은 기리시탄이 일제히 발견되어, 신앙 공동체가 붕괴하는, 이른바 「붕괴」가 자주 일어났다 . 농미 무너지는 것처럼, 신자의 대량 처형에 의해, 키리시탄이 거의 근절되어 막을 닫은 사건도 있으면, 우라카미 제일 무너지고 우라카미 2번 무너지고, 아마쿠사 무너짐과 같이, 혼란 을 두려워 에도 막부 가 , 신자를 사면한 사례도 있다.
유럽의 가톨릭 교회는 기독교인이 완전히 추방된 일본에 관심을 계속했다. 일본에서의 교회의 발전과 수난의 이야기는 유럽에서 전해져, 많은 사람들이 이 동양의 나라에의 재선교의 날이 오기를 기다리고 있었다.
쇄국령 이후, 에도기 일본에 도항한 몇 안되는 선교사 중 한 명이 이탈리아인 교구 사제 조반니 시드치가 있다 . 시드치는 쇄국하의 일본으로의 도항을 바라고 교황청 에 용서를 요구하고 있었다. 교황청은 순교하는 것이 명백한 땅에 사제를 보낼 수 없다고 거절했지만 시드치의 재삼의 소원에 교황 클레멘스 11세는 특별한 허가를 주었다 .
1708년 , 시드치는 고생 끝에 야쿠시마 에 상륙했지만, 곧바로 잡히고, 나가사키를 거쳐 에도에 보내져 , 죽을 때까지 절 지단 저택 에 있었다. 에도에서는 유학자 아라이 시라이시가 조사해 왔지만, 시드치의 인격의 고결함과 학식에 감명을 받아 심문이라기 보다는 대화라는 형태로 많은 신지식을 배웠다. 그 성과가 ' 서양 기문 ' ' 구람 이언 '이다.
아이누에 대한 포교 [ 편집 ]
아이누 는 수많은 카무이를 숭배하는 독자적인 종교관을 가지고 있었다.
에도 시대의 초기, 에조지(현재의 홋카이도)의 일부를 다스리고 있던 마츠마에번은 , 아이누가 「일본 풍속 으로 화해 물들지 않는 모양」으로 하는 것을 갚고 있어, 일본어 사용, 일본인풍의 복장을 했을 경우는 벌칙이 있었기 때문에 독자적인 종교관을 유지하고 있었다[85]가 예수회의 지로라모 데 안젤리스 신부, 칼리와요 신부가 와서, 대천채악의 기슭 에 생활 하고 , 포교 를 갔다 했다. [68] [86] 시마바라의 난 이후, 도쿠가와 이에미츠는 , 그리스도인을 없애도록 지령을 내, 마츠마에번은 106명의 에조기리탄을 1639년(관영 16 년 ) 에 처형했다.
러시아인 도 교역을 목적으로 상륙하는 한편, 정교를 포교하기도 했다. 메이지 이후 색 단도에 모인 키타지마 아이누의 마을에는 교회가 세워져 기독교를 믿고 있었다는 기록이 남아 있다 [87] . 가타아이누 에도 러시아 정교회 가 포교를 한 기록이 있지만 개종자는 소수였던 것으로 보고되고 있다.
1779년, 후안 에 러시아인 이반 안티핀이 상륙하는 사건이 있었다. 막부는 이미 치시마 열도 와 택포도 에 사는 아이누에게 기독교가 포교되고 있는 정보를 얻고 있었기 때문에 국태사를 건립하는 등 기독교가 퍼지지 않도록 했다 [ 88 ] .
막부 말기에서 메이지 [ 편집 ]
미국 으로부터의 요구를 계기로, 일본은 서양 제국에 문호를 열게 되었다. 1858년 에는 미·일 수호통상조약 과 일불 수호통상조약 등이 맺어져 외교사절이나 무역상과 함께 많은 선교사들이 일본에 왔다.
1846년 4월 30일에 버나드 장 베테르하임 의료 선교사 가 류큐 왕국 에 도착하여 8년간 박해 속에서 선교 활동을 하고 류큐어로 성경을 번역했다 [ 주석 20] [89] [90] [ 91] [92] .
가톨릭 교회 부흥과 기독교 해금 [ 편집 ]
가톨릭 교회 의 로마 교황청 은 사슬 국기를 통해 일본으로의 재선교 방책을 모색하고 있었지만, 19세기 중반에는 일본에 개국의 조짐이 있다고 보고 프랑스에 본부를 둔 파리 외국 선교회 ( Missions (Étrangères de Paris; MEP)에게 일본에 선교사 파견을 의뢰했다. 이렇게 1844년 에 테오도르 폴카드 (Théodore-Augustin Forcade) 신부 ( 사제 )가 나하 에 파견되어 2년 체재해 일본으로의 여행 허가를 재삼 구했지만, 과연 1846년에 귀국 했다 . 그러나 같은 해에 폴카드를 초대교 구장으로 일본 사도자리 대리구가 설립 되어 그 후 1855년 부터 유젠느 에마뉘엘 멜메 카션 (Eugène-Emmanuel Mermet-Cachon), 퓨던스 세라판 바르텔미 지랄 (Prudence) Séraphin-Barthélemy Girard, 루이스 테오도르 퓨레 (Louis-Théodore Furet)의 3명의 사제가 나하에 부임하고 일본어를 배우고 있었지만,1858년 에 일본 불수호통상조약이 맺어 일본 입국이 가능해졌다. 멜메 카션은 하코다테 에 가서 지랄은 에도를 거쳐 요코하마에 거점을 두었다. 지랄은 1862년 , 요코하마에 개국 이래 최초의 가톨릭 교회가 되는 성심 교회(그 후 이전해, 현재의 야마테 교회 ) 를 세웠다. 이 무렵, 유럽의 가톨릭 교회의 강한 관심이 일본에 전해지고 있던 증좌로서, 1862년에 「일본 26성인」의 열성이 행해진 것을 들 수 있다 .
1864년 이 되어 퓨레는 나가사키에 토지를 구입, 나중에 더해진 베르나르 -Thadée Petitjean 신부(나중에 주교 )와 함께 1865년 에 교회당을 세웠다. 이것이 오우라 천주당 이다. 한 달 후, 교회를 방문한 부인들이 자신들은 금교하에서 신앙을 지키고 있는 잠복 신도(숨겨진 기독교인)임을 고백, 신부는 경악 했다 . 이것을 「나가사키의 신도 발견」이라고 한다. 신앙을 표명한 많은 신도들은 가톨릭 교회에 복귀하여 사제의 지도 를 받게 되었다.
그러나 그들은 동시에 사청 제도를 거부했기 때문에 나가사키 봉행소가 박해에 나서고(우라카미 4번 무너짐), 1867년에 성립한 메이지 신정부도 경응 4년 3월 15일(1868 년 4 월 7 일 ) 에 오류의 게시 라고 하는 고찰을 게시해 기독교 금교를 계속했다 [93] 때문에, 신도에의 고문이나 유형등이 행해졌다 [94] . 메이지 정부가 형사벌을 준 기독교도는 가톨릭에 머무르지 않고, 다른 지방에서도 동북에서 정교회에 대한 일본인 개종자가 투옥되는 등 기독교 탄압이 전국적으로 이루어졌다.
하지만 메이지 정부의 예상과는 달리 기독교 금지와 신도에 대한 탄압은 외국의 격렬한 항의와 반발을 일으켰다. 이와쿠라 사절단이 구미 제국을 시찰했을 때, 기독교의 해금이 조약 개정의 조건이라고 여겨져 1873년(메이지 6년)에 기독교 금지령은 풀렸다[ 주석 21 ] .
가톨릭 교회의 동향 [ 편집 ]
1846년 부터 일본에서 선교를 위탁받았던 파리 외국선교회는 부흥 당초부터 선교뿐만 아니라 교육사업과 사회복지사업에 주력하고 있었다.
덧붙여 1884년 (메이지 17년)에는, 신자수는 30,230명, 사제수 54명, 전도사 252명, 교회수는 84였다.
교육 사업 [ 편집 ]
1872년 에는 프티장 주교의 초청에 의해 프랑스로부터 생 몰회(현: 어린 예수회 )가 초대되었다. 처음 5명의 수녀들은 요코하마에 수도원과 고아원을 세웠다. 1888년 에는 그들의 손으로 츠키지 교회 근처에 고등불화녀학교가 열렸다. 이것이 나중에 히바 학원 의 전신이다. 프티장 주교는 마찬가지로 프랑스의 여자 수도회인 쇼파이유의 어린 예수 수도회에도 수도녀의 파견을 의뢰, 이에 응해 1877년 에 일본에 온 4명은 고베에서 고아원과 학교(후의 오사카 신애여학원 )을 열었다. 1878년 에는 샤르트르 성 바울 수녀회가 일본에 와서 하코다테에 불란 서녀학교를 개설하고, 1882년 에는 간다 교회 부지 내에 고아원과 초등학교를 세웠다. 동학교는 백유리학원 으로 발전해 나간다. 1887년 에는 파리 외국선교회의 초청에 응하여 5명의 마리아 회원이 일본에 오고, 다음 해 도쿄도에 효성학원이 창립 되었다 . 또한 마리아회 에 의해 1891년에는 나가사키시 에 해성학원 이, 1898년 에는 오사카시 에 오사카 명성학원이 , 1901년 에는 요코하마시 에 세인트 조셉 학원이 창립되었다.
덧붙여 기독교 시대의 일본에서 활약한 예수회 는, 「일본에 가톨릭 고등 교육 기관을」라고 하는 교황청의 요구에 의해 메이지기의 끝이 되어 일본을 방문해, 1913년에 상치 대학 을 열고 있다 .
사회복지사업 [ 편집 ]
이 시기, 파리 외국 선교회 사제들은 정부에 의해 활동을 제한되어 있었기 때문에 일본인 신자의 협력을 얻어 자선 사업 · 사회 복지 사업에 힘을 쏟고 주로 하층 계급에 선교 활동을 실시 했다.
1877년 에는 츠키지 교회의 신도였던 혼다선 우에몬에 의해 아사쿠사 에 프랑스어 학교 「마이카이 학교」(후의 아사쿠사 교회 )가 설립되었다. 이 학교는 아동 복지 시설로서도 기능하고 있었다. 1888년 파리 외국 선교회 사제 장 피에르 레이 는 현주학교에 수용되어 있던 고아들이 청년으로 성장하여 직업훈련 등이 필요하게 되어 더 큰 시설이 필요하다고 생각하며 타카기 치사 부로 의 협력을 얻어 세키구치 에 이전해 「성모 불어 학교」(후의 카톨릭 세키구치 교회 )를 설립했다. 이들을 대표하는 학교는 앞면은 「프랑스어 학교」이지만, 실태는 아동 복지 시설이며, 또한 정부에 의해 활동을 제한되고 있던 외국인 선교사들의 종교 활동을 보조하기 위한 기관이기도 하다. 했다.
1873년 에 일본에 온 사제인 제르만 레제 테스트위드 는 1880년 서관동·도카이도 지방을 담당했다. 이 순회 전도 여행 중 아시가라 가도근의 수차 오두막에서 30세 정도 맹인 여성 한센병 환자를 만나 요양소 설립을 결의 한다 . 1889년 시즈오카 현 고텐바시 에 요양소를 설립. 그는 상사에게 설립허가를 희망함에 있어서 “라이 환자가 현세의 고통에 의해 영원한 생명을 얻을 수 있다면 고통도 또 행복해질 것입니다. 그 때문에 병원을 세우고 그 것을 가르치고 싶습니다. 이렇게 해서 그들은 육체의 구원과 함께 영혼의 돌을 얻는다고 생각합니다.”라고 설명했다. 그는 이 병원에 '주님의 부활'이라는 의미에서 '가미야마 부생 병원 '이라고 명명, 이것이 일본 최초의 한센병 요양소가 되었다. 1898년 에는 장마리 콜 [주석 22] 에 의해 구마모토현 구마모토시 에도 한센병 요양소( 대로원 )가 창설되었다.
1878년 나가사키현 의 외해지구 (현· 나가사키시 )에 부임한 마르크 마리 드로 는 이 지역의 사람들의 생활이 가난하고, 고아와 처자도 많고, 특히 해난사고로 일가의 일꾼 이다 남편과 아들을 잃은 가족이 비참한 생활을 보내고 있다는 것을 알고, 1880년에 고아원을 개설해, 1883년에는 구조원(쿠로사키무라 여자 구조원)을 설립 해 수산 활동 을 개시 한다 . 이 시설에 수도녀로 입원한 부인들은 드로의 기술지도에 따라 직포, 편물, 국수, 마카로니, 빵, 간장 제조 등을 실시했다. 여기서 제조된 시트와 마카로니, 빵 등은 외국인 거류지용, 국수와 간장 등은 내지용으로 판매되었다.
이처럼 파리 외국선교회에 위탁된 가톨릭교회는 하층계급을 중심으로 선교활동의 일환으로 적극적으로 자선사업을 했다.
교구의 변천 [ 편집 ]
1846년 에 설립되어 파리 외국선교회에 위탁된 일본 사도자리 대리구는 1876년에 일본 북위사도자리 대리구, 일본 남위사도자리 대리구의 2구로 분할 되었다 . 일본 북위사도자 대리구는 요코하마에 주교좌를 두고 홋카이도, 도호쿠, 관동 및 중부의 각 지방을 관할 구역으로 하고, 일본 남위사도자 대리구는 나가사키에 주교좌를 두고 긴키, 중국, 시코쿠, 규슈 의 각 지방을 관할했다. 일본 북위사도좌 대리구는 1877년 주교좌를 도쿄 츠키지 교회 로 옮겨 1891년 에는 홋카이도와 도호쿠 지방을 분리(하코다테 사도자 대리구)하여 도쿄 대주교구가 되었다. 일본 남위 사도자리 대리구는 1888년 에 일본 중부 사도자리 대리구가 신설된 것에 의해 긴키, 중국, 시코쿠의 3개 지방을 위양해, 관할은 규슈 지방에만 축소. 같은 해 주교구로 승격하여 나가사키 주교구 가 되었다.
개신교 교회의 동향 [ 편집 ]
개신교 선교사로 처음 방문한 것은 1859년 5월 도래의 미국 성공회 존 리깅스 (John Liggins)와 6월 일본의 차닝 윌리엄스 (Channing Moore Williams)였다. 이를 시작으로 1859 년 중에는 “헤본”이라고 불린 미국 장로교회의 의사 제임스 커티스 헵번 (James Curtis Hepburn)(10월 17일)을 비롯해 미국 네덜란드 개혁파 교회 에서 파견 선교사 사무엘 브라운 (Samuel Robbins Brown)과 귀도 허베크 (Guido Herman Fridolin Verbeck), 의료 선교사 댄 B. 시몬스 (Danne B.Simmons) 등이 잇달아 일본에 왔다. 또한 다음 해인 1860년 에는 침례교 회의 조나단 고블 (Jonathan Goble), 1861년 에는 미국 네덜란드 개혁파교회(더치 리모델드, 현 RCA)의 목사 제임스 장미(James Ballagh) 등이 일본의 흙을 밟았다. 이것은 개신교 각 교파의 첫 선교사 그룹입니다.
다소 늦게 1869년 에는 미국 전도위원회 ( American Board of Commissioners for Foreign Missions ) 의 다니엘 크로스비 그린 (Daniel Crosby Greene)이 일본에 오고, 1873년 에는 미국 감리교 감독 교회 선교사 메리만 해리스 (Merriman Colbert Harris)가 하코다테에 입임했다.
근대 이후 일본의 개신교를 말하는 데 빼놓을 수 없는 세 가지 흐름이 있다. 그것은 「요코하마 밴드」, 「구마모토 밴드」, 「삿포로 밴드」입니다. 여기서 말하는 밴드란 ‘단체’라는 뜻이다.
1863년 에 헤본이 열린 요코하마 영학소(요코하마·아카데미)는 제임스·바라의 동생 존에 계승되어, 장미 학교라고 불렸다(장미 학교는 1880년에 츠키지 거류지로 이전해 츠키지 대학교 된다). 1872년 오시아 가 와 방의 ( 도호쿠 학원 창립자) 등 장미학교 청년들이 신앙을 고백하고 세례를 받았다. 이 그룹이 「요코하마 밴드」이다. 같은 해 요코하마에 최초의 교회 「일본 기독 공회」(해안 교회)가 열렸다. 1873년 에는 사무엘 브라운의 자택에 모인 청년들에 의해 「브라운 학원」이 발족. 학생 중에는 전출의 오시카와 방의 외에, 아오야마 학원 의 원장이 되는 혼다 켄이치 나, 메이지 학원 창설 멤버인 이후카지노스케, 우에무라 마사히 사 등이 있었다. 이 장미 학교와 브라운 학원의 흐름으로부터 1877년 에 도쿄 일치 신학교가 태어나, 1887년 에 도쿄 일치 영화학교(츠키지대학교의 후신)·도쿄영화 예비학교와 통합한 후 백금으로 이전해 메이지 학원 탄생했다. 또한, 1869 년 에 일시 귀국했던 브라운과 함께 일본에 도착한 메리 키더(Mary E. Kidder)는 헤본 클리닉에서 교육을 받았다. 여기에서 나중 페리스 여학원이 탄생한다.
1871 년 구마모토양학교 에 교사로 초청된 전 육군사관 L. L. 제인스 (Leroy Lancing Janes)는 회중파 교회의 열심한 신도이며 그의 감화에 의해 가르침들이 믿음에 들어갔다. 「구마모토 밴드」( 1876년 )로 불린 이 그룹은, 구마모토양학교 폐지에 의해 제인스가 오사카영학교로 옮겨지면 이에 따라, 제인스가 추천한 것으로(신시마노가 1875 년 에 열린 ) 학교 에 가입했다. 그 중에 미야가와 케이테이 , 코자키 히로미치 (도시사 제2대 사장), 새우 명탄정 (제8대 도시사 총장) 등의 멤버가 있었다.
삿포로 농학교 (현재의 홋카이도 대학 )에서 교단에 선 W·S·클라크 (William Smith Clark)와 메리만 해리스의 가오루를 받은 가르침에 의해 결성된 것이 「삿포로 밴드」(1877년 ) 이다 . 클라크의 가르침 아이들 중에는 사토 마사스케 , 오오시마 마사타케, 우치무라 감조 , 니와 토 이나조 , 식물학자 미야 베 카네고 , 토목 공학의 히로이 용 등 이 있었다 된다).
일본 개신교는 이들 그룹을 핵으로 발전시켰다. 요코하마 밴드의 흐름으로부터 「일본 기독교 회」가, 「구마모토 밴드」로부터 일본 조합 기독교회가 태어났다. 그리고 미국과 영국의 성공회의 흐름으로부터 일본 성공회가 , 메소지스트계의 제파로부터 일본 메소스트 교회가 탄생했다.
1872년에는 제임스 해밀턴 장미 선교사에 의해 요코하마 에 일본 기독공회가 설립되었고, 1873년(메이지 6년)에는 키리시탄 금제가 해제되었다. 풀베키 선교사가 일본 정부 좌원 의 번역 고문이 되어, 그린 목사나 제임스 커티스 헤본 선교사들과 함께 신약성경 번역 에 임했다 [96] . 초기 선교사들의 숙원이었던 일본어 번역 성경 의 출판 사업도 이 시기 정력적으로 진행되었고, 1880년 에 신약성서, 1888년 에 구약성경이 출판되었다.
1873년 까지 대부분의 개신교 교파들이 일본에 왔다 [주석 23] , 1874년 창립의 고베 섭진 제일공회 는 처음부터 회중제를 채택했다 [97] .
1880년에는 영국 발상 기독교 청년회 (YMCA)의 일본 지부가 발족했다.
1882년 시점에서 일본에 체류하고 있던 선교사는 138명이었다 [98] . 초기 선교사는 성경 신앙 과 보수적 신학을 가졌고, 그 선교의 열정의 배경에는 미국의 대각성이라고 불리는 리바이벌이 있었다 [ 99 ] [ 100 ] . 순환하는 부흥이 미국 기독교의 특징이다 [101] . 브라운 등 선교사는 대각성 운동의 영향을 받고 있었다 [102] . 미국의 선교사에 의해 일본에 복음주의 (에반젤리카리즘)가 전해졌다 [주석 24] [103] [104] .
복음파 (특히 호리네스 운동 )의 원류의 하나로 ' 마츠에 밴드 '( 1893년 )도 특필할 만하다. 1890년 의 성공회 목사 버클리 백스턴 의 마쓰에시 에서의 전도가 시작되어, 다케다 슌조 , 미타니 종길 , 호리우치 후미이치 등을 배출. 1897년 9월 26일 백스턴의 초청으로 파제트 윌크스가 일본에 오고 일본 전도대 ( 1904 년 ) 와 일본 예수 그리스도 교단 , 간사이 성서 신학교 등의 설립에 관여했다. 미타니 타네요시는 일본 최초의 음악 전도자이며, 지금도 노래되는 찬송가 「단지 믿어라」, 「하나님은 사랑이야」를 부르면서 전도했다 [105] .
1878년 5월 15-17일에 제1회 전국기독교신도대친파회가 개최되어 1880년 에 제2회가 열렸지만, 1882년 에는 야소퇴치의 박해가 있었다. 1883년 5월 8-12일에 개최된 제3회 전국기독교신도대친파회 에서 리바이벌이 일어나 전국적으로 퍼졌다. 5월 14일 기독교 대연설회에는 4천명을 모았다. 1884년 동지사 리바이벌 은 3월 17일 기도회에서 최고조를 맞아 200명의 학생이 신앙을 고백하고 세례를 받았다[100 ] .
"일본의 개신교는 교육 중심, 상류계급과 중류계급에 대한 전도를 해왔다"고 한다 [주석 25] [ 106 ] . 일본의 초기 개신교 지도자는 특히 지식계급, 사막파의 사족계층이 중심이었다 [107] [주석 26] [108] [주석 27] .
교육 사업 [ 편집 ]
미국의 선교사를 중심으로 일본에서의 메이지 초기의 미션 스쿨 창설에 있어서는, 가톨릭보다 빨리, 일본에 있어서의 여성교육 의 효야라고도 할 수 있다.
1869년 ( 메이지 2년 ) 미국 선교사들이 도쿄를 시찰하고 미션 스쿨 '카로저스 학원'을 개교, 현재 여자학원 중학교 ·고등학교 의 원류가 된다.
1870년 (메이지 3년), 미국 개혁파 교회가 부인 전도사 메리 에디 키더를 파견 해 페리스 여학원을 창설한다.
1871년 ( 메이지 4년)에는, 1861년 부터 요코하마에 체재하고 있던 제임스·H·장미 의 요청에 응해, 미국 부인 일치 외국 전도 협회 (WUMS)의 메리·P·플라인 등에 의해<드리머스·스쿨 >가 설립된다(현:요코하마 공립학원 중학교·고등학교 ).
1873년 (메이지 6년) 미국 전도회에서 파견된 여성 선교사 이라이자 탈캇과 줄리아 다들리가 고베 선교사단의 지원으로 사학원을 개교 ( 현 : 고베 여학원 중학부 고등학부 ).
정교회 동향 [ 편집 ]
일본에 있어서의 정교회 전도는, 1861년 에는 러시아 정교회 의 니콜라이·카사트킨 이 일본에 방문해, 하코다테 의 영사관 첨부 수도사제 에 착임한 것이 범야이다. 당초부터 니콜라이는 「일본인에의 전도·일본 정교회의 건설」을 뜻해 수도 사제가 되어 있어, 활동을 영사관 첨부 사제의 틀에 머무를 생각은 없었다. 파견한 러시아 정교회 상층부도 같은 생각이었다. 그 후도 니콜라이는 이 기본 방침을 관철했다.
하코다테· 센다이 의 인사가 초기의 신도를 구성했기 때문에, 하코다테·도호쿠 지방에서의 침윤이 우선 시작된 일본 의 정교회이지만, 1872년에 간다 스루가다이의 토지 2300평을 얻어, 선교 의 거점으로 했다. 1874년 5월에는 포교회의가 도쿄에서 개최된다. 1880년 에는 니콜라이는 주교 에 서성 되어 이때부터 러시아 정교회에서 파견되는 주교를 기다리지 않고 사제·스케제를 서성할 수 있게 되어 일본 정교회 의 신품 이 증가 하는 환경이 갖추어졌다. 1880년 에는 현존하는 것 중에서는 일본에서 가장 오래된 목조 교회 건축인 이시노마키 해리스토스 정교회의 성사도 이오안 회당이 완성 . 1891년 에는 도쿄 부활 대성당(니콜라이당)이 준공한다.
또 출판사업에 중점을 둔 니콜라이에 의해 각종 기도서 ·성가보가 일본어로 활발하게 번역되어 갔다. 1882년 에 귀국한 야마시타 린 에 의해 각지의 성당의 이콘이 그려져 갔다. 또 일본에 착임하고 있던 수도사제 아나톨리의 조카 이자 피아노 첼로의 연주자이었던 야코프 치하이가 같은 해에 일본에 와서 성가 교사로서 성가의 보급에 노력 했다 . 정교회는 급속히 교세를 확대해 나간다.
그러나 1891년 오쓰 사건 에서 볼 수 있듯이 일본의 대로 감정이 악화되어 가는 가운데 러시아 정교회에서 전도된 일본 정교회도 각지에서 박해를 받고 있다. 1904년 에는 마침내 러일전쟁이 개전된다. 이때 니콜라이 주교는 일본에 머물며 “제군은 황군을 위해 기도하라”며 고난 밑에 있던 일본인 정교도들을 계속 격려했다. 니콜라이는 내면에서는, 거듭되는 러시아군의 패보에 고뇌하고 있었지만 [109] , 어디까지나 일본인의 지도자·일본의 정교회의 주교라는 모습을 관통하게 된다. 동시에 러일전쟁시 일본 정교회는 일본 정부와 협력해 정교도 러시아인 포로를 돌보는 '일본 정교회'이자 '일본인을 위해서만이 아닌 정교회'인 모습 을 양립시킨다 일이 되었다.
러일 전쟁 종결 직후, 히비야 야키타 사건 때에는 도쿄 부활 대성당도 아와야 폭도에 습격되는 곳이었다는 것에서도, 당시의 일본의 정교회가 놓여진 입장이 엿볼 수 있다[110 ] . 이러한 역경에도 불구하고, 1911년 , 니콜라이가 대주교로 승서된 해에는, 일본 정교회의 교세는 교회수 265개소, 신도수 31,984명, 신품수 41명, 성가대 지휘자 15명 , 전교자 121명을 도달했다. 이것은 당시의 일본에 있어, 가톨릭 교회에 이은 규모였다.
메이지 마지막 해, 1912년 에 니콜라이는 영면, 76세였다. 이때 메이지 천황 으로부터 은사의 화환이 주어졌다. 외국인 선교사의 영면에 꽃환이 주어진 것은 이례적인 것이었다. 니콜라이의 전도는 이후 일본 해리스토스 정교회 에 결실한다.
메이지에서 다이쇼 [ 편집 ]
메이지 초기부터 중기까지는 나라를 들고 유럽 정책이 진행되었기 때문에 서구 정신의 중추인 기독교에 관심을 가진 일본인이 늘어났다. 후쿠자와 유키치 가 기독교 국교 회론을 주장하고, 상류 계급이 기독교에 쇄도한 시대이다 [111] [99] . 또한 1895년 가톨릭교회는 신도수 50,302명, 주교 4명, 사제 는 파리 외국선교회사 88명, 마리아회사 27명, 일본인 사제 20명이었다. 개신교는 1888 년 말 249교회, 신도 15,514명, 선교사 451명, 일본인 교역자 142명, 신학교 14교, 신학생 287명, 연간 수세자는 약 7,000명을 세었다. 정교도 신도 수는 17,000명이었다.
그러나 메이지 중기 이후 일본이 부국강병 정책을 취하여 근대국가로의 행보를 모색하고 국수 주의적 사상이 강해지면 기독교에 대한 견해에도 변화가 일어난다. 1889년 에 발포된 ' 대일본 제국 헌법 '에서는 일본이 입헌 군주제 국가였음을 선언하고 있지만, 이 중 신교의 자유는 한정적인 것으로 여겨졌다. 게다가 천황에 대한 충성을 설교하는 「교육 칙어」( 1890년 )로 메이지 일본에서의 천황의 자리매김이 명확하게 나타났다. 국가의 핵으로서의 천황과 국가신도 의 자리매김이 명확하게 된 것으로, 기독교에 대한 바람이 강해져 간다. 이러한 풍조를 상징하는 사건이 우치무라 감조의 불경사건 ( 1891년 )이었다. 또 정부는 대역사건 (1911년)에서 유덕덕추수 를 처형했지만 기독교에 비판적인 입장에서 그의 유작인 '기독말살론'의 간행을 인정했다.
이러한 상황 속에서도 이 시기 다양한 기독교 사회복지사업과 사회운동이 일어나고 있다. 기독교 정신이 드디어 일본 사회에 침투해 사회에의 일을 하는 형태로 열매를 맺기 시작한 것의 증거라고도 할 수 있다.
가톨릭 교회의 동향 [ 편집 ]
고등교육 과 출판활동에서 일본의 가톨릭교회는 개신교에 크게 뒤쳐져 있었다.
메이지 말기가 되면, 파리 외국선교회에 의한 일본의 독점사목 체제에 무리 가 있는 것은, 동회의 일부에서도 인정되고, 향후의 교회의 발전에는 다른 수도회의 일본 방문이 필요 하다 의 의견이 나오기 시작했다 [주석 28] .
그러나 파리 외국 선교회의 내부에서는 충분한 내부 변혁의 움직임이 없었을 수도 있고, 러일 전쟁 전후의 시기가 되면, 일본인의 사제나 신도의 일부로부터 「파리 외국 선교회 의 선교 활동은 근대국가가 된 일본에서는 충분한 성과를 꼽을 수 없는 것”으로 교회개혁의 필요성을 주창하는 자가 나타났다. 예를 들어 나가사키 교구 에서 교회 개혁을 목표로 한 사제의 히라야마 목민 [주석 29] 및 일부 신도들은 자선 활동을 통해 하층 계급에 대한 선교 사업에 힘을 쏟는 동회에 불만을 가지고 고등 교육과 학술 활동 에 강한 예수회 의 유치운동을 하고 교황청 에 그 필요를 주장하는 의견의 구신을 하고 있다 [112] . 또 도쿄대주교구에서는 지식인층을 대상으로 한 출판활동과 청년운동이 전개되어 파리 외국선교회 중에는 일본인 젊은 카톨릭지식인의 활발한 활동에 기대하는 선교사도 존재했다.
그러나 일본인 신자에 의한 파리 외국 선교회의 사목 체제를 향한 비판 활동은 히라야마 목민의 추방이나 마에다 사건을 일으켜, 결과적으로 예수회의 초청은 실현되었지만, 교회의 개혁 운동 은 저조한 상태에 빠져 버렸다. 그 후, 1916년 에 이와시타 장이치를 중심으로 결성된 제2차 공교 청년회의 회장에 야마모토 신지로가 취임해, 다시 지식인 활동이나 청년 운동이 고조되었다.
교육 사업 [ 편집 ]
러일 전쟁 후 1905년 11월, 교황 피오 10세는 미국인 주교의 윌리엄 헨리 오콘넬을 친선 사절로 메이지 천황 앞으로 친서를 맡기고 파견 했다 .
교황 사절의 일본 방문은 러일 전쟁 때 전지의 가톨릭 교회가 일본에 의해 보호된 것에 대해 로마 교황이 메이지 천황에게 감사의 뜻을 나타내기 위해 행해졌지만, 동시에 일본의 가톨릭 교회의 현황 시찰이라는 또 다른 목적을 가지고 있었다. 이 방문을 기연으로 일본의 가톨릭교회도 프랑스 파리 외국선교회의 독점에서 다양화되었다. 스페인보다 도미니코회 , 독일보다 신언 회 , 예수회 , 프란시스코회 , 캐나다에서 프란시스코회 , 도미니코회, 이탈리아보다 살 레지오회가 일본에 왔다. 이 다양화에 의해 교육사업에 있어서도 종래의 초등중등교육에서 고등교육에도 임했다.
1906년 피오 10세부터 '일본에 고등교육기관 설치' 요청을 받은 예수회 는 1908년 3명의 예수 회원을 파견한다. 그 후, 1911년 에 재단법인 상치학원을 설립, 1913년 에 전문학교령 에 의한 대학 ( 상치 대학 )을 개교했다. 1916년 에는 성심여자학원고등전문학교(후의 성심여자대학 )가 설립되었고, 가톨릭은 빈민층 때문이라는 인상은 희미해졌다.
사회복지사업 [ 편집 ]
이러한 흐름 속에서도 사회복지사업은 계속됐다.
1926년 , 사제의 알베르 앙리 샤를 브루턴 [주석 30] 에 의해 가나가와현 가마쿠라시 에 결핵 요양소 '성 테레지아 요양소'가 설립되었다. 또 여자교육에 있어서도 1907년 , 사제의 루이 르러브 [주석 31] 에 의해 교토부 미야즈시 에 미야즈 재봉 전습소가 창설되어, 후의 교토 효성 고등학교 로 발전한다.
본소교회 불타는 사건 [ 편집 ]
1905년 9월 5일 러시아 제국과 체결된 포츠머스 협약 에 러일 전쟁 때의 증세에 의한 내핍 생활을 강요받아 온 민중의 불만이 폭발했다. ( 히비야 야키타 사건 ) 다음날 9월 6일 23시경, 본소지구에 결기한 폭도는 본소교회를 덮쳐 일대의 신자의 주거와 함께 본소 교회는 소토되었다. 폭동이 진정된 뒤에도 적의는 교회를 향해 당했기 때문에 당시 도쿄 대주교였던 피에르 마리 오즈프는 시세를 생각해 본소 교회의 주임 사제를 일본인으로 교체 했다 .
개신교 교회의 동향 [ 편집 ]
이 시기는 개신교에게도 어려운 시기였지만, 매매 봄의 폐절을 목표로 한 일본 기독교 부인 교풍회 ( 1886 년 )의 발족이나, 이시이 주지 에 의한 오카야마 고아원 ( 1887년 ), 이시이 료이치 의 성 삼일고녀학원( 1891년 , 후 타키노가와학원 )과 같은 양호시설 활동, 야마무로군평 에 의한 구세군 운동( 1895년 ) 등 기독교 사회복지사업, 사회운동, 폐창운동 이 일어나고 있다. 세츠르멘토 운동이나 고베·탄에서의 생활협동조합(현 코프 고베 ) 등도 기독교 문화의 영향하에 태어난 운동으로 들 수 있다.
또 이 시기, 자유주의 신학 , 고등 비평이 도입되어 일본의 교회에 혼란을 주게 된다. 1885년 독일 보급복음교회 인 윌프리드 스핀너가 일본에 오고 성경은 인간의 종교적인 기록이라고 주장했다. 또 이 파로부터 오토 슈미델 도 일본에 온다. 이 입장은 신신학이라고 불렸지만 그들 자신은 '가장 진보할 수 있는 학술적 그리스도 신학'이라고 칭했다. 이는 일본 조합기독교회 에 강한 영향을 미쳤다.
1887년 에는 대일본 제국 정부 사법부 장관 들의 초빙으로 미국·유니테리안 협회 로부터 유니테리안 선교사가 일본에 왔으며 삼위 일체 그리스도의 신성을 부정했다. 구마모토 밴드 의 고자키 히로 미치는 리버럴한 신신학을 받아들여, 1889년 에 동지사 학원 에서 개최된 기독교 청년회 의 여름 학교 에서, 「성경의 영감」이라고 제목을 붙여 강연을 했다. 또, 1891년 에 가나모리 통륜 도 「모세 5서는 , 유태인 의 전설이나 신화의 모임이다」라고 주장했다 [111] [100] .
1892년 에는 일본 기독교회에서 ' 일본의 신부 사건'이 일어나 다무라 나오토미 목사가 면직이 되었다. 1893년 에 도쿄제국대학의 이노우에 테츠지로 교수는 '교육과 종교의 충돌'을 발표하고 우치무라 감삼을 비난하고, 기독교와 일본은 상용할 수 없다고 했다 [99] [100] . 그에 대해 카시와기 요시엔 은 『동지사 문학』 제59호에 「칙어와 기독교」를 게재해 반론했다 [114] .
1897년에는 독일의 보급복음교회가 도쿄에 도고 자카교회를 설립하고 유니버셜리즘 지지하는 아카시 시게타로가 1946년까지 목사를 맡았다 [115] [116] .
1901년 5월 에 20세기 대거 전도의 일 속에서 리바이벌이 일어나 1907 년 에는 개신교 인구가 약 6만명이 되었다 [111] .
1901년 9월부터 리버럴 신학을 둘러싸고 우에무라·새우명 논쟁이 일어난다. 1902년 복음동맹 회는 총회를 열고 예수 그리스도 의 신성을 확인하고 새우 이름을 추방했지만 우에무라도 십전 영감을 부정했다[111 ] .
1903년 에는 그동안 각 교파별로 편찬되어 있던 찬미가집을 하나로 정리한 공통 '찬미가'가 작성 되었다 .
1904년 의 러일전쟁 에서는 에비나 탄정 , 우에무라 마사히 사, 이후카지노스케, 혼다 켄이치가 주전론을 주창하고, 우치무라 감조, 카시와기 요시엔, 시라이시 키노 스케 가 비전 론 을 주창 했다 . 톨스토이 의 영향을 받은 기독교 사회주의자인 아베 이소오 , 키노시타 나오에 , 니시카와 미츠지로 , 이시카와 미시로 , 카타야마 잠수부 무저항주의의 비전론이었다 [100] .
1907년 에는 구세군 의 창립자 윌리엄 부스가 일본에 왔다. 2만명이 넘는 군집이 부스 대장을 환영했고, 그는 니시조지 공망 , 오쿠마 시게노부 , 메이지 천황 을 면회했다. 1912년 에 구세군 병원이 개설된다 [117] .
1909년 10월 에는 일본에서 개신교 선교 개시 50년을 축하하며 선교 개시 50년 기념회가 개최되었다.
1910년 조선 병합 이후 조선총독부 ( 일본통치시대 조선 )는 일본 기독교회의 지도자 우에무라 마사히사 에게 조선선교를 들었다. 우에무라는 조선병합에는 찬성했지만 조선선교는 거절했기 때문에 조선총독부는 일본조합기독교회의 지도자 새우명탄정에 조선선교 를 명 했다 . 일본 조합 기독교회는, 같은 해 10월의 제26회 정기 총회에서 전회 일치를 가지고 「조선인 전도」를 결의해, 와타세 죠요시를 파견 . 일본 조합기독교회는 조선총독부보다 막대한 자금원조를 받아 조선식민지 전도를 펼쳤다 [ 118 ] [119] [111] [120] .
메이지(1868년-1912년)의 끝에서 다이쇼(1912년-1926년)에 걸쳐, 메이지 후반에 보여진 국수주의에의 기울기가 일시적으로 퇴조했다. 1912년 의 신불기에 의한 삼교회는 마침내 기독교의 지위가 종교계에서 동등한 것으로 간주된 것 같은 인상을 주었지만, 그 한편으로 쇼와(1926년-1989년)에 들어가 그리스도 교가 국가의 통제하에 편입되어 가는 것에 대한 복선이 되었다. 이 시기 일본기독교회 신도였던 카가와 토요히코 는 노동조합운동 등 활발히 사회운동을 했지만 그의 설립한 소비조합은 나중에 생활협동조합으로 이어졌다 .
1918년 에는 나카타 시게 하루 , 우치무라 감조 , 기무라 키요마츠 가 재림운동을 전개했다. 1919년 11월 요도바시 교회 의 기도회에서 호리네스 리바이벌이 일어나 4중 복음을 주창하는 호리네스는 교세를 확대해 나갔다 [111] [99] .
교육 사업 [ 편집 ]
1910년 6월에 에든버러 선교회의가 개최되어 일본에서는 혼다 쇼이치 , 이후 카지노스케 , 하라다스케 등이 참석했다. 이 대회의 결의에 의해 도쿄 여자 대학 이 설립되었다 [주석 32] .
1918년 12월의 대학령 공포를 받아 개신교계의 전문 학교 사이에서도 대학 승격 운동이 일어나 1920년 에 동지사 대학 , 1922년 에 릿쿄 대학 , 1932년 에 간사이 학원 대학이 설립되었다.
아오야마 학원 도 다카기 임타로 원장 아래 대학 승격을 목표로 했다. 그러나 다카기의 급사(1921년), 관동대지진 에 의한 교사괴멸(1923년) 등의 불운도 겹쳐 아오야마학원의 대학 승격은 전후까지 이월되었다.
정교회 동향 [ 편집 ]
다이쇼 이후의 정교회 의 동향에 대해서는, 러일 전쟁 · 러시아 혁명 의 영향이 크고, 반로 감정·반공 감정의 확산과 모교회( 러시아 정교회 )에 대한 공산주의 정권에 의한 탄압도 있어, 타교파와는 역사적으로 놓인 환경이 다르기 때문에 독특한 경위를 따르는 부분이 적지 않다.
쇼와 초기 이전, 메이지 말부터 이미 러일 전쟁으로 대표되는 러일 관계의 악화로부터, 일본 정교회는 일본에 있어서 타교파보다 한층 엄격한 입장에 놓여 있었다 . 정교 측은 정교가 러시아 독점 종교가 아니라 세계 성공 사도 교회라고 주장했지만 (이것은 세계 정교회와 공통된 견해 [121]), 세상에서는 "노교" 라고 오해 하는 방향이 뿌리 깊었다. 1894년 에 그리스 정교회 의 디오니시오스 대주교가 일본에 와서 니콜라이 주교 와 함께 봉신례를 실시한 것을, 「정교회가 짊어지고 있던 분죄를 눈 덮어야 할 좋은 기회」였다고 기록한 미쓰이 도로의 회상 기의 한절에도 당시의 일본 정교회가 놓여진 상황이 엿볼 수 있다 [122] .
전전전 중 쇼와 [ 편집 ]
쇼와 초기에는 군부 가 옹두하자 군국주의의 이데올로기로서 국가신도가 이용되게 되어 신도 이외의 종교단체에 대한 압력이 강해졌다. 특히 교육과 사상의 분야에서 국수주의가 강화됨에 따라 서양 종교로 여겨진 기독교는 괴로운 입장에 처하게 되었다. 특히 1931년 만주 사 변발발 이후에는 그 경향이 강해졌다.
1930년대 후반이 되면, 1936년 에 있어서의 일독방공협정 의 체결 등, 나치·독일 에의 접근이 강해져 간다. 당시 독일에서는 나치즘 과 ' 아리안 학설 '의 확산을 배경으로 기독교는 유대교 와 같은 셈계 일신교( 아브라함의 종교 )임을 이유로 엄격한 통제를 받았다. 이러한 시대 배경에서 일본의 나치 독일에 대한 관심의 증가도 그 결과 기독교에 대한 압력을 높였다.
1939년 제국 의회 에 의해 전쟁 수행을 위해 종교단체를 통제할 목적으로 ' 종교단체 법안 가결성립되어 다음 1940년 4월 1일부터 시행되었다. 이에 따라 일본의 기독교계에서 많은 단체가 정부와 협력했다 [주석 33] .
가톨릭 교회의 동향 [ 편집 ]
가톨릭 교회에서는 1933년 부터 1934년 에 걸쳐 아마미 가톨릭 박해 가 일어났다 [111] 외, 1932년 에는 가미치 다이세 야스쿠니 신사 참배 거부 사건이 일어나 야스쿠니 참배의 강요에 반대한 학생에 대한 탄압을 받아 일본 의 가톨릭 교회는 “야스쿠니 참배는 종교 활동에 해당되지 않는다”는 견해 “제일성성 훈령” “조국에 대한 신자의 괴롭힘”을 내고 이후 전쟁에 대해서는 침묵했다(단, 사제나 신도 중에는 천황의 신성을 부정하여 체포된 자도 있다). 이처럼 군국화해 가는 일본에서 사회적인 박해의 대상에 놓여지는 등 어려운 사회적 상황에 있었기 때문에 1931년에는 영화 ‘순교혈사 일본 26성인’을 제작 공개 한다 . 등 기독교인에게 편견을 불식하는 시도가 이루어졌다. 덧붙여 1940년 의 등록 신자수는 119,324명이었다.
교육 사업 [ 편집 ]
어려운 사회적 상황 속에서 신언회 사제였던 요제프 라이넬 스는 1922 년 2월 18일에 설립된 나고야 시마키구의 초 대교 구장으로 취임하면 선교와 함께 교육의 중요성을 주창 한 신언회의 의지를 받아 교육기관의 설립에 분주한다. 1932년 1월, 나고야시 에 남산 중학교 (현재의 남산 학원 )를 설립해, 초대 이사장 및 교장을 맡았다.
사회복지사업 [ 편집 ]
이러한 상황 속에서도 사회복지사업은 계속됐다. 파리 외국선교회의 사제였던 요제프 프로잭 은 1927년 도쿄시 나카노 요양소의 결핵 환자 중 한 명을 훔친 것을 계기로 요양소 방문을 시작했다. 1929년 에는 노가타마루 마루야마 에 민가를 차용해, 요양소로부터 퇴원시켜 가는 곳이 없는 환자 5명을 수용한다. 1930년 에는 나카노 요양소 근처에 「베타니아의 집」을 건설해, 환자 15명을 수용했다. 같은 해 여자 환자를 위해 별도로 민가를 빌려 환자 5명을 수용한다. 1932년 , 이번에는 환자의 아이를 구제하기 위해 「나자렛의 집」을 건설해, 남아 10수명을 수용, 한층 더 1933년, 요양 농원 「베트레헴의 정원」을 건설해, 경환자의 남녀 60 명 을 수용했다. 1934년 베트레헴의 원 인접지를 인수해, 양호시설 「동성학원」(현재의 베트레헴학원)을 건설, 나자렛의 집의 아동 33명을 옮겨, 나사렛의 집은 유아원으로 전환한다. 1936년 에는 학원아를 위해 ‘동성 심상초등학교’를 개교했다.
프로잭은 사업 개시 직후부터 주위의 무이해와 자금난에 시달리면서도 사업을 유지하고, 전중, 전후에도 많은 사회복지시설과 유치원·학교를 설립했다. 베타니아의 집은 그 후 사회복지법인 '자생회'로 발전하였고, 또 교육사업은 동생학원으로 발전 했다 .
종교 단체 설립 [ 편집 ]
1941년 5월 일본의 가톨릭교회는 종교단체법에 따라 로마교황 직속 인 일본 각 주교구 와 일본에 소재하는 수도회 를 모두 통합하는 단체로서 일본천주공교교단을 설립, 초대통리자에게 도쿄의 도이 타츠오 주교를 선출했다 [주석 34] .
개신교 교회의 동향 [ 편집 ]
개신교에서는 조선 장로파가 신사 참배를 거부했기 때문에 일본 정부는 1938년 6월 말 같은 장로파 계통의 일본 기독교회 회의장 토미타 만을 파견하여 주기 철 목사 등 조선 장로파 를 설득 시킨다 . 하지만 주키 토오루 등은 거부했기 때문에 순교 하게 된다. 조선의 교회는 약 70명의 목사가 투옥, 고문을 당하고 50명이 순교하고, 2,000명의 신도가 투옥되어 약 200의 교회가 폐쇄되었다[123 ] .
1939년 에 성립한 종교단체법을 받아 아오야마학원 에서 개최된 황기 2천6백년 봉축전국기독교신도대회의 결의에 근거하여 1941년 개신교 32교파가 자발적으로 통합하여 일본기독교단 가 결성되었다. 이에 따라 일본 각지의 개신교계 신학교의 대부분은 1943년 에 일본 동부 신학교 · 일본 서부 신학교 · 일본 여자 신학교 의 3개교에 통합되었다 [124] . 게다가 1944년 에는 남자교 2교의 재통합에 의해 일본기독교신학전문학교가 설립되었다(동시에 일본여자신학교도 일본기독교여자신학전문학교로 개칭) [주석 35] .
이와 같은 대합동의 움직임에 끝까지 저항한 것은 동지사대학 으로, 학도 출진 에 의해 수업 계속이 곤란해진 상황하에서도 동대신 학과 는 폐지되지 않고 종전을 맞았다 [125] .
이 어려운 시대, 일본의 기독교계에서 대부분이 국가에 타협하는 한편, 전쟁 반대를 표명한 일부의 교회, 재림 신앙을 훼손된 호리네스계 교단, 신사 참배를 거부 한 미노 미션 등에 는 철저 탄압이 가해져 해산에 몰렸다. 호리네스 탄압 속에서 목숨을 잃은 사람에게 고야마 무네 , 스가 노 에이 , 사이토 호타로 , 츠지 케이조 , 코이데 토모 하루(옥중 사망 순서), 타케 이리 타카 , 이케다 나가쥬로 , 사노 메이지 (출옥 후 사망 ) ) 등이 있다 [99] .
정교회 동향 [ 편집 ]
전시하 속에서 정교도 의 외교관 인 스기하라 센고쿠 는 '생명의 비자'를 발행하고 나치 의 학살로부터 유대인 을 생명 의 위기로부터 도왔다. 이스라엘의 회복을 기도하는 호리네스계 그리스도인들이 탈출해온 유대인들을 받아들였다. 구약의 하느님의 백성 가운데, 어떤 사람은 일본에서 도미하고, 또 재건된 이스라엘로 귀환해 갔다[126] [ 127] .
1931년 대주교 니콜라이의 후계자인 세르기이 티호미로프 는 부주교 로 승서되었다. 하지만 공산주의 정권( 소련 ) 하에서 탄압되어 그 감시하에 있는 러시아 정교회의 의사·결정에 충실한 세르기이에 대해 망명 러시아인과 일본인 신도로부터 다양한 반발이 일어났다.
이런 상황 하에서 세르기이를 그 임에서 풀어 일본인을 주교로 하도록 일본 정부로부터 압력이 걸렸다. 일본 정교회는 저항하지 않고, 1940년 , 세르기이는 은퇴를 강요당하고, 대신 니콜라이 오노 귀이치가 주교에 앉았다. 그 후도 당국의 감시는 계속되고, 고령의 세르기는 1945년 에 특별고등경찰 에 체포되어 고문을 받고, 약 1개월 구류되었다 [128] . 석방 후 같은 해 8월 10일, 종전 5일 전에 세르기이는 사망했다. 고문에 의한 쇠약사라고 한다.
전후 쇼와에서 헤세이 전반 [ 편집 ]
1945년 8월에 제2차 세계대전이 일본 항복 과 연합국 의 승리에 의해 종결되면, 진주해 온 GHQ 의 지시에 의해 국가에 의한 신사에의 보호( 국가신도 )가 폐지됨으로써 기독교 각 파는 자유롭게 활동할 수 있게 되었다. 게다가 1945년 10월, 종교단체법이 철폐되어 종교법인령이 공포·시행되면, 전시중에 통합·감독적 속박을 가하고 있던 기독교 각파는, 일제히 조직의 재편에 착수한다 이와 함께 일본 각지에서 대규모 포교를 시작했다.
1946년 일본 헌법 에 의해 완전한 신교의 자유가 인정되면 해외 기독교 제단체는 활발히 선교사를 파견하게 되었다. 게다가 얼마 전 준비된 구어역 성경 도 출판(신약 1954년 , 구약 1955년 )되었다.
가톨릭 교회의 동향 [ 편집 ]
1945년 11월에 전국임시교구장회의를 개최, 종래의 교단조직을 개칭하고, 다음 12월에는 천주공교교구연맹 [주석 36]을 설치 했다 . 게다가 1947년 5월에 전국교구장회의 및 교구연맹이사회가 열리고, 향후의 사업계획이나 활동 방침을 나타내는 것과 동시에, 「교구장 공동교서」가 발표되어 대대적으로 포교활동이 행해졌다. 그 결과 등록신자수는 1946년 108,324명에서 1950 년 143,461명으로 증가했고, 1955년 212,318명, 1968년 344,343명으로 전전을 훨씬 능가하는 비율로 증가했다.
또 세계 레벨에서는, 2개의 세계 대전 을 막지 않았던 것과, 전후도 냉전 구조 중에서 정신적인 지도력을 발휘할 수 없는 것에 대한 반성으로부터, 1962년 이후, 가톨릭 교회에서 「아조르나먼트 」 ( 현대화)를 목표로 한 공회의( 제2 바티칸 공회의 )가 행해졌다. 이 회의에서는 가톨릭 교회의 냉정한 현상 인식과 앞으로의 방향성이 확인되었다. 그 가운데 유럽 중심적인 사고에 너무 많이 쏟아져 있던 가톨릭 교회의 자세가 정해졌고, 더 세계적인 시야를 가지고 교회의 본연의 방법을 생각할 필요성이 통감되었다.
공회의 이러한 정신에 따라 교회생활 전체의 재검토가 이루어졌지만, 그 일환으로 전례의 국어화가 진행 되었다 . 일본에서도 미사를 비롯한 전례의 일본어 식에 따라 전례 속에서 사용되는 일본어 성가(전례 성가)가 작성 되었다. 또 공회의에서는 타종교, 특히 기독교 타교파에 대한 경의와 대화라는 방침이 분명히 내세워졌다(「에큐메니즘」이라고 불리는 종교간 대화의 움직임은, 원래 개신교 중에서 일어난 것으로 , 1910 년 의 에든버러 선교 회의를 능선으로 한다).
이러한 에큐메니즘의 정신에 따라 개신교 제교파와 가톨릭 교회의 성서학자가 결집하여 성경 번역 사업이 이루어지게 되었다. 여기에 공동역성서 ( 1978년 )가 완성되고, 또한 공동역성서에 있어서의 문제점을 개선하여 출판된 것이 신공동역성경(1987 년 ) 이다 .
1981년 에는 사상 처음으로 로마 교황 요한 바울 2세가 일본에 왔다. 도쿄, 히로시마, 나가사키를 방문해 '평화 어필'을 발표하는 등했다.
개신교 교회의 동향 [ 편집 ]
1956년 2월에 빌리 그레이엄이 일본에 왔으며 일본 최초의 빌리 그레이엄 전도대회가 열렸다 [111] .
1959년 에는 개신교 선교 백주년 기념 행사가 에큐메니컬파와 복음 파로 따로 열렸다. 에큐메니컬파에서는 일본 기독교 협의회 , 일본 기독교단을 중심으로 개최되었다. 그 후 1970년 의 오사카 박람회 에서는 가톨릭 교회와 에큐메니컬파의 개신교와의 공동에 의한 기독교관의 출전이 있었다. 이 무렵부터 일본기독교단 에서는 교회파와 사회 파가 대립하여 교단분쟁이라 불리는 분쟁상태에 들어갔다 [111] [90] [92] .
한편, 복음파( 성서 신앙 파)는 임마누엘 합합 전도단 의 가쓰다 니오 , 홀리네스 의 차다 아키지 , 일본 그리스도 개혁파 교회 의 마키 루엔 , 토요바 다카오키 , 오카다 미나리 , 성서 그리스도 교회 의 오야마 레이닌 등을 지도자로서, 1959년 에 일본 선교 백년 기념 성서 신앙 운동을 전개해, 다음 해 일본 개신교 성경 신앙 동맹 의 발족을 보았다. 이 일이 신개역 성서 (신약 1965년 , 구약 1970년 )의 출판과 일본복음동맹 의 성립( 1968년 )으로 이어졌다. 에큐메니컬파는 세계교회협의회 (WCC)와 교제를 갖고, 복음파는 세계복음동맹 , 로잔 운동 과 교제를 갖고 있다 [117][129] [130]。
1974년 일본 최초의 일본 전도회의가 개최되어 영국 존 스토트가 초청되었다. 1970년대는 복음파의 협력관계가 맺어져 성경신앙의 교회가 교세를 늘린 시대이며 '하바타쿠 일본의 복음파'로 불리고 있다[111][131] [ 132 ] .
1999년 10월 말에 교토시 의 국립교토국제회관 에서 '세계선교회의'가 개최되어 오쿠야마 미나토 목사가 위원장을 맡았다. 이 '세계선교회의'는 '기독교연감' 2001년판에 의해 '일본기독교 사상 최대 규모의 '세계선교회의''로 불리고 있다[133 ] .
정교회 동향 [ 편집 ]
서방교회 제파가 전후에 일본에서 교세를 회복하는 한편, 일본 정교회 는 전후를 맞이해도 안정되지 않았다. 제2차 세계대전도 타교파와 마찬가지로 정교회에 취해 고뇌의 원인이었지만, 그 이상의 장기에 걸친 고뇌의 원인으로서 소련의 존재가 있었기 때문 이다 . 공산주의 국가에서 탄압을 받고 있으며 경제적·인적 원조는 러시아 정교회에서 이루어지지 않았음에도 불구하고 정교회는 '아카'의 레텔을 붙여 각지에서 교세를 쇠퇴 시켰다 .
또한 일본 정교회 내부도 소비에트 연방에 의한 탄압·감시하에 있는 모스크바 총주 교청의 의사의 진정성에 대한 의문에서 모교회인 러시아 정교회와의 관계를 어떠한 형태로 하는지 에 대해 러시아 혁명 직후부터 전후 잠시까지 다양한 입장으로 깨진 상태가 계속되고 있어 이것도 교세 쇠퇴의 원인이 되었다.
1970년 이 되어 모스크바 총주 교청과 미국 정교회 와 일본 정교회의 합의가 성립해, 일본 정교회는 러시아 정교회를 모교회로 하는 자치 교회의 축복을 얻음으로써, 드디어 교회 조직의 안정을 얻었다.
2000년 5월에는 사상 처음으로 모스크바 총주교 알렉시이 2세가 일본을 방문했다(역으로 말하면 일본 정교회는 러시아 정교회의 자교회임에도 불구하고 모스크바 총주교가 방일한 것이 역사 상실하게 한번도 없었다는 것을 의미한다). 일본에 방문했을 때, 알렉시이 2세는 일본 정교회의 수좌 주교 의 착좌식을 집행하는 것과 동시에, 천황 과도 회견하고 있다. 또, 착좌식에는 미국 정교회에서도 수좌 주교의 출석이 있었다.
혼란의 시대를 거치면서도 일본 정교회는 메이지의 일본어 번역에 의한 봉신례를 계속 지켜 오늘에 이르고 있다.
헤세이 후반부터 레이와 [ 편집 ]
문화청 종무과의 통계에 의하면, 2020년 12월 31일 시점에서 일본에 있어서의 기독교 인구는 1,915,294명으로, 대총 인구 비율은 1.1%이다 [134] .
2019 년 말 시점에서 기독교 인구 내역은 가톨릭 교회 880,277명, 개신교 제교파 총계 341,066명, 일본 해리스토스 정교회 9,468명, 후기 성도 예수 그리스도 교회 128,132명 [ 135] , 2013 의 증인 215,966명 등이다 [136] .
「종교연감령화3년도」( 문화청 편, 2021년)에 의하면, 도도부현별 인구 100명당 기독교도 수 톱 5·워스트 5는 아래와 같다.
순위 | 도도부현 | 인원수 | 순위 | 도도부현 | 인원수 |
---|---|---|---|---|---|
1명 | 도쿄도 | 6.2명 | 43비트 | 후쿠시마현 | 0.39명 |
2자리 | 나가사키현 | 4.8명 | 44비트 | 시마네현 | 0.39명 |
3자리 | 가나가와현 | 3.3명 | 45비트 | 이와테현 | 0.34명 |
4 | 오키나와현 | 2명 | 46비트 | 도야마현 | 0.30명 |
5자리 | 효고현 | 1.1명 | 47비트 | 후쿠이현 | 0.27명 |
2008년 11월 24일, 일본의 가톨릭 교회는 나가사키시 의 나가사키 현영 야구장 에서 「페트로 기부와 187 순교자 열복식」을 거행했다 [137] . 이것은 일본 가톨릭 사상 처음으로 일본에서 열린 열복식이었다.
2009년 에는 일본 개신교 선교 150주년을 기념하여 에큐메니컬파, 복음파, 성령파 삼파의 공동이 되는 일본 개신교 선교 150주년 기념대회가 개최되었다 [92] .
2010년 5월 에 에든버러 선교회의 100주년을 기념하여 세계선교 도쿄대회가 개최. 첫날 오가와 종도 목사들이 설교했다. 또 폐회식에서 오산령인 목사가 일본이 저지른 죄를 사죄하고, 이에 대항하여 미국 대표가 일본에 원폭을 투하한 죄와 세계에 대해 저지른 죄를 사죄했다 [138] [139] .
2013년 4월 11일자의 가톨릭 신문 온라인에 「구일본군에 살해된 주교, 열복으로 한 걸음 전진」이라는 기사가 게재되었다[140 ] . 내용은, 「일중 전쟁 중에 일어난 정정 사건 에 의해 살해된 주교들 9명의 열복 운동이, 네덜란드 에서 진행되고 있다」라고 하는 것이었지만, 이 학살 사건의 진위가 문제시되어, 니시무라 마사오 가 블로그상에서 항의하는 [141] 등 파문을 불렀다.
2016년 교토부 기즈가와시에 콥토 정교회 계열의 성모 마리아 성 마르코콥토 정교회가 개설되었다.
2019년 11월 23일 - 26일 일정으로 제266대 로마 교황 프란시스코 가 일본 방문(1981년 제264대 교황 요한 바울 2세 이래, 두 번째 교황 내일). 교황 일본의 주제는 "모든 생명을 지키기 위해 ~ PROTECT ALL LIFE" [142] . 프란시스코 교황은 도쿄도, 히로시마현, 나가사키현을 방문해, 동일본 대지진 피해자 와의 교류, 황궁 에서의 금상 천황( 덕진 )과의 회견이나 총리 대신 관저에서 의 아베 신조 총리와의 회담, 도쿄돔 에서 5만명 미사 등을 실시한다.
주요 성경 번역 [ 편집 ]
2003년에, 신일본 성서 간행회는, 차별 용어를 중심으로 개정해, 신개역 제3판을 발행. 그리고 종교개혁 500년의 2017년에 신개역의 대폭적인 개정이 실시되어 신개역 2017을 발행. 대부분의 절에는 몇몇 개정이 있었다. 프란시스코회 성서 연구소는 2011년에 지금까지 장미에서 발행했던 성경의 합권판을 발행. 일본 성서 협회는 가톨릭 측과 공동으로 새로운 공동 번역의 개정에 착수하고, 2018년에 성서 협회 공동 번역을 발행. 신개역 2017도 성서협회 공동역도 초쇄로 개정 개소를 발견해 각각 발행된 다음 해에 개정하고 있다.
각주 [ 편집 ]
주석 [ 편집 ]
- ↑ 일본 기독교 역사 대사전 편집 위원회 “일본 기독교 역사 대사전” 교문관, 1988년, ISBN 9784764240056 ,의 「경교」의 항목. 히로타카 지가 어떠한 역할을 담당하고 있었다는 기술도 있다. 복수의 문헌이 게재되어 있다.
- ^ 경교의 일본에의 전파에 의해 예수 그리스도의 탄생시의 이야기도 일본에도 전해져, 그 이미지를 거듭하는 형태로 세이토쿠 태자가 마구간 앞에서 태어났다고 되어, 그 유명이 칸토 왕자가 되었다고 하는 설도 일부 통속본 등으로 쓰여져 있지만, 이에 관해서는 증거가 있는 것은 아니고, 상상의 역을 나오지 않는다.
- ^ a b c 포르투갈 상인은 기독교 교회를 파괴하고 그리스도의 초상화를 태운 영주의 항구로도 내항하여 선교사와 대립했다[6 ] .
- ↑ 기독교에 적대적인 영주는 영내의 십자가를 쓰러뜨리고 기독교도를 원래의 가르침으로 강제 개종 하도록 명령 하거나( 1564년 10월 14일) [2] , 1563년 11월 7일경에는 수도원과 그리스도인 농민들의 집을 불태웠다 [3] [4] . 1573년에는 토도스 오스 산토스 교회가 불태워지고 있다 [5] . 이와 같이 기독교와 불교 신자 간의 대립 관계가 악화되었다 [6] .
- ↑ a b 1587년 6월 18일자(반천련 추방령의 전날)의 11개조의 「각」은 선교사가 한반도에 일본인을 팔고 있었다고 규탄하고 있지만 [7], 한반도와 의 무역 는 쓰시마 송씨의 독점 상태이며 [8] , 선교사가 처음으로 한반도를 방문한 것은 1593년 이다. 포르투갈의 노예 무역 에 관해서는 소수의 중국인이나 일본인 등 아시아인 노예의 기록이 남아 있지만 [ 9] , 구체적인 설명은 '데·산데 텐쇼쿠 유럽사절기 ' 와 '규슈 어동 좌기』에 의지하고 있다. 두 기록 모두 역사학 자료로는 문제가 지적되고 있다. 『데·산데 천정견 유럽사절기』는 일본에 귀국전의 소년사절과 일본에 있던 종형제의 대화록으로서 저술되어 있어, 양자의 대화가 불가능하기 때문에, 픽션으로 되어 있다[10 ] . '데산데 천정견 유럽사절기'는 선교사의 관점에서 일본인의 동국인을 팔는 등 도덕의 퇴폐, 그것을 사는 포르투갈 상인을 비판하기 위한 대화로 구성되어 있다. 도요토미 히데요시의 공적을 싸우는 고가 중에 소속한 오오무라 유미가 집필한 ‘규슈 어동좌기’는 추방령 발령(텐쇼 15년 6월) 후의 텐쇼 15년 7월에 쓰여져 있으며, 기독교 과 격렬한 충돌불교 의 전 스님 의 관점에서 배틀렌 추방령을 정당화하기 위해 저술되어 있어 이하와 같은 기술이 있다.우마를 깎아, 삶에서 껍질을 벗기고 주인도 제자도 손에서 먹고 부모와 자식·형제도 무례의상사 금세보다 축생도 유지목전의 2상문후.
포르투갈인들이 암소와 말을 사고 살아있는 껍질을 벗기고 맨손으로 먹는다는 설명에 대해서는 유럽인이 화물이라고 상표를 붙이는 것은 동아시아에서는 일반적이며 [11] 실제로 목격 했다 물건을 저술했다고는 생각할 수 없다. 선교사에 대한 욕설이나 소문, 만들기 이야기를 바탕으로 한 허구라는 지적이 이루어지고 있다 [12] .
- ^ 1555년, 포르투갈 상인이 일본인의 노예의 소녀를 사서 포르투갈에 데려왔다고 예수회사가 고발을 하고 있다 [ 16 ] .
- ↑ a b c 예수회 는 1555년 초기 노예 거래에서 포르투갈 상인을 고발 하고 있다 [주석 6] . 예수회에 의한 항의는 1571년 세바스티안 1세(포르투갈왕) 에 의한 일본인 노예 무역 금지의 허허 공포의 원동력으로도 알려져 있다 [17] . 일본인 노예 의 구입 금지령을 근거로 노예 거래를 정지시키려는 주교를 따르지 않는 포르투갈 상인이 속출, 비난의 응수가 장기간 반복되는 사태가 이어졌다[18][ 19 ] [ 20 ] . 포르투갈 국왕이나 인도 부왕의 명령에 따르지 않고 법 집행을 거부하고 소동을 일으키는 포르투갈 상인이나 재판관 등도 많이 있었다고 한다[21] [주석 3 ] .
- ^ a b 천정견 유럽사절기의 목적을 발리냐노는 포르투갈 국왕이나 로마 교황에 정치적, 경제적 원조를 의뢰하기 위해서 쓰고 있다. 천정견 유럽사절기는 포르투갈의 노예무역 과 관련하여 인용될 수 있다. 선교사에 의해 기술된 정보는 포르투갈 왕실에 대한 노예 무역 폐지의 로비 활동[15]으로서 정치적 성질을 띠고 있으며, 선교사 측이 포르투갈 왕실로부터 정치적 원조를 받기 때문에, 또한 포르투갈 상인을 비판 해 노예 매매금지령의 집행실시를 촉구하기 위해 만들어낸 허구로서의 측면에서도 사료비판이 필요하다고 생각된다 [주석 7] .
- ↑ 도요토미 히데요시 는 「인심진무의 책」으로서, 유녀가게 의 영업을 적극적으로 인정해, 교토에 유연을 만들었다. 1585년에 오사카 미사토 유이를 허가. 89년 교토 야나기마치 유리(신야시키)=지정 구역을 유리로 한 최초이다. 히데요시도 놀러 갔다고 한다. 올콕 의 『대군의 도시』에 따르면, 「히데요시는··· 부하가 고향의 아내에게 돌아가고 싶어하는 것을 알고, 문제의 제도(유가)를 시작한 것이다 ” 이윽고 「그 제도는 각 지풍에 바라보고 만연해 이세의 후루이치, 나라의 키츠지, 파슈의 방, 에치고의 절, 세나미, 이즈모고, 그 외, 하카타에는 「여막각」이라고 하는 당한인의 유녀 가게가 생겨, 에지마, 시모노세키, 이쓰쿠시마, 하마마츠, 오카자키, 그 외 전국에 300여 개소의 유리가 천하 어면으로 대발전해, 시나노쿠니 젠코지님의 문 앞조차도 가는 사람의 소매를 끌고 있었다. [ 23] 이라고 한다.
- ↑에도 막부가 도요토미 히데요시 의 유곽을 확대하여 당인 저택 에의 유녀 의 출입 허가를 준 마루야마 유이를 시마바라의 난후인 1639년 (히로나가 16년) 무렵에 만든 것으로, 그것이 「당행 씨」의 어원으로도 되어 있다 [24] [25] . 히데요시가 유곽을 만든 것으로, 빈농의 가정의 친권자등으로부터 여성을 사 유연 등에 팔는 신매의 중개를 하는 여정이, 연계 봉공의 전 빚 전 전달의 증문을 만들어 , 본인 의 의지 에 관계 없이 성 적인 서비스 제공의 강요가 횡행했다( 성적 노예 ). 일본인 여성의 인신매매는 포르투갈 상인이나 왜구 에 한정되지 않고, 19세기부터 20세기 초에 걸쳐서도 「노란 노예 매매」, 「당행 씨」로 알려져 있을 정도로 활발했다 [26] .
- ^ a b 드 산데 천 정견 유럽사절기 에서는, 동국민을 팔려고 하는 일본의 문화 · 종교 의 도덕적 퇴폐에 대해 비판이 행해지고 있다 [13] .일본인에게는 헌심과 금전의 집착이 엄청나게 그러므로 대개 몸을 팔는 것과 같은 일을 하고, 일본의 이름에 극히 추한 얼룩을 씌우고 있는 것을, 포르투갈인이나 유럽인은 모두, 이상하게 생각하고 있는 것이다.— 드·산데 1590 텐쇼구 유럽사절기 신이국총서 5
드 산데 천정견 유럽 사절기는 포르투갈 국왕 에 의한 노예 매매 금지의 칙령 후에도 눈길을 끌고 노예의 강인한 매입이 일본인의 노예 상인으로부터 행해졌다고 한다[13 ] .
또한 회의 파드레 방법에 대해서이지만, 그 분들이 이런 매매에 대해 진심으로 얼마나 반대하고 있을까를 당신에게도 알기 위해서는, 이 분들이 백방 고심해, 포르투갈로부터 훈장을 받았는지 되는 운반이 되었지만, 그것에 의하면 일본에 도래하는 상인이 일본인을 노예로서 사는 것을 엄벌로 금지하고 있는 것을 알고 싶다. 그러나 이 포령만 엄중하기 때문에 무슨 일이 되자. 일본인은 매우 강황이며 형제, 연자, 토모, 혹은 또 그 외의 사람들을 폭력이나 척계를 이용하여 몰래, 몰래 눈길을 끌고 포르투갈인의 배로 데리고 들어가, 포르투갈인을 애원해, 가격 싸게 노예 매입에 초대하는 것이다. 포르투갈인은 이것을 몹시 다행한 구실로서 법률을 깨는 죄를 알면서 자신들에게는 일종의 폭력이 일본인의 집요한 탄원에 의해 가해졌다고 주장하여 자신이 저지른 죄를 숨긴다 이다. 하지만 포르투갈인은 일본인을 나쁘게 다루지 않았다. 이 팔린 자들은 기독교의 교리를 가르칠 수있을뿐 아니라 포르투갈에서도 자유인과 같은 대우를 받고 엄청나게 취급되고, 몇 년이 지나면 자유의 몸 되어 해방되기 때문이다.— 드·산데 1590 텐쇼구 유럽사절기 신이국총서 5드 산데 천정견 유럽사절기는 일본에 귀국 전의 치요이시 미구엘과 일본에 있던 종형제의 대화록으로서 저술되어 있으며[13] , 물리적으로 접촉이 불가능한 양자의 대화를 역사적인 사실 라고 볼 수 없고, 픽션으로서 포착되어 왔다 [14] . 견유럽 사절기는 허구라고 해도 도요토미 정권과 포르투갈 양자간의 인식의 낙차를 알 수 있다 [주석 8] . 반천련 추방령 후인 1589년 (텐쇼 17년)에는 일본 최초의 유곽이라고도 불리는 교토 의 야나기하라 유곽이 도요토미 히데요시 에 의해 열렸지만 [22] [ 주석 9] [ 주석 10] . 선교사가 지적한 일본인이 동국인을 성적 노예 로 파는 상행위는 근대까지 이어졌다 [26] [27] .
- ^ a b 역사가의 오카모토 료지는 1555년을 포르투갈 상인이 일본에서 노예를 매매한 것을 직접 나타내는 최초의 기술로 하고, 이것이 예수회에 의한 항의로 연결되어 1571년의 세바스티안 1세(포르투갈왕)에 의한 일본 인 노예 무역 금지의 칙허로 이어졌다고 했다. 오카모토는 예수회는 그때까지 노예 무역을 폐지하기 위해 성공하지 못했지만, 모든 노력을 했기 때문에 그 책임을 면할 수 있다고 한다[31 ] .
- ↑ 나가사키 는 원래 작은 한촌에 불과했지만 카리온 신부 는
말한다 [48] . 오무라 준타다 는 신마치 나가사키와 모기 의 기진 장 을 텐쇼 8년 4월 27일(1580년 6월 9일) 첨부로 발행, 도시의 무기한 사용권과 치외 법권을 주는 대신, 항구 의 관세 , 입항 세금을 영구적으로 확보하고 징수를 위한 장교를 상주시키기로 했다 [49] . 오무라 준다다 의 포르투갈 선 유치 , 신마치 나가사키 와 모기 기진의 타진 은 1579년 가을에 발리 냐 노가 방문 했을 때에 되어 있었지만, 예수회 는 1580년 10월, 1582년 12월에 논의해 제의를 받아들인다 일을 재결정했다. 그 이유로서, 전쟁이 끊임없이 있는 일본에서, 예수회 는 모든 자산을 나가사키에 갖고 있기 때문에, 안전한 토지를 가질 필요가 있는 것, 전 소용돌이나 박해에 의해 토지를 쫓겨난 키리 시탄 을 위한 피난소 될 것, 포르투갈배가 내항함으로써 예수회가 필요로 하는 필수품이 가져오는 것, 언제라도 동지를 놓을 수 있는 자유재량권이 있다는 것을 들고 있다[50 ] .
- ^ 추방령을 명한 당의 히데요시는 칙령을 무시하고, 예수회 선교사를 통역이나 포르투갈 상인과의 무역의 중개역으로서 중용하고 있었다[52 ] . 1590년, 가스펄 코에료와 대조적으로 히데요시의 신임을 얻은 알레산드로 발리냐노는 두 번째 방일을 허용했지만, 히데요시가 자신의 추방령에 반하여 묵주와 포르투갈 옷을 착용 하고 , 순락제의 황금의 홀에서 매달려 있었다고 기술하고 있다 [53] .
- ↑ 영국국교회 는 도요토미 히데요시 가 26명의 순교자를 처형한 날의 다음날인 2월 6일을 1959년 에 기념일로 했다 [59] . 미국 복음 루터파 교회 에서도 2월 5일을 기념일로 하고 있다.
- ↑ 영국 상관 장 리처드·콕스 는 착임 일찍, 네덜란드인이 영국인이라고 칭해 해적 행위를 실시해, 영국인 의 악평이 서 있는 것에 충격을 받았다고 한다 [63] . 네덜란드인을 대항하기 위해 리차드 콕스는 네덜란드가 스페인 왕국 의 일부이기 때문에 네덜란드인은 반역자 이며, 어느 일본을 멸망시킬지도 모른다고 막부에 호소했다. 또한 네덜란드는 영국 덕분에 독립적 이며 네덜란드 는 영국의 속국 이라는 풍평 을 세웠다 [64] . 네덜란드 상관장 야크스 스펙스도 콕스 와 마찬가지로 네덜란드 총독 을 네덜란드 국왕 으로 거짓 호칭을 사용하고, 네덜란드 국왕이 기독교 왕국 중에서도 가장 위대한 왕이며, 모든 왕을 지배하고 있다고 의 호평을 넓히려고 했다. 콕스는 이것을 역으로 취하고, 자국이 네덜란드보다 훨씬 우수하다는 것을 다이묘나 관리인 앞에서 설명했지만, 시마즈 이에 히사는 이것을 믿고, 네덜란드인이 아닌 영국인에게 사쓰마 에서의 무역을 허가한다는 말을 하는 데 성공했다 [65] . 1616년 니항 제한령은 영국인과 네덜란드인을 나가사키와 히라도에 갇히기로 결정했다. 콕스는 히데타다 에게 속견하려고 했지만, 이에야스 앞으로의 서장이라는 표정의 이유로 거부되었다 [66] . 게다가 선교사도 쫓아가고, 연방 공화국을 둘러싸고 스페인이 곤란하고 있는 것은, 영국의 지원이 있기 때문이며, 영국인이 정통인 국왕에 대항하는 수단을 주었다고 하는 유해한 사실을 퍼졌다 [67] .
- ↑ 현존하는 가장 오래된 서양인 묘비는 에도시대 후기, 모토데지마 네덜란드 상관장 헨드릭·핫플릿·듀르코프(1736-1778)의 것이다. 네덜란드의 일지에 따르면 기독교식 장례식이 이례적으로 허용되었다 [78] [79] . 묘비는 1779년 1월 4일에 설치되었다 [80] .
- ^ 이에 미츠는 기독교에 대한 공포에서 네덜란드인을 데지마로 옮겼지만, 외국과의 무역에 수반되는 정치적 이해관계를 배제하기 위한 것이었다[81 ] .
- ^ 시마바라의 난에서 막부의 군사지원 요청에 네덜란드인은 응했다. 따라서 네덜란드는 영국을 포함한 유럽 국가들로부터 강하게 비난되었다 [83] . 조반니 프란체스코 제메리 칼레리는 네덜란드인이 하고 있던 발판을 영국인이 거부했다고 기술하고 있지만[84], 네덜란드인이 발판을 했다는 1차 자료는 남아 있지 않다 [ 83 ] . 갈리버 여행기 에서도 네덜란드인이 발판을 하고 있었다는 풍평이 그려져 있다.
- ↑ 일본의 프로테스탄트는 1859년 을 일본 선교 초년으로 하고, 프로테스탄트 선교 50주년, 100주년, 150주년을 축하하고 있기 때문에, 베테르하임을 둘러싸고 논의가 있다.
- ↑ 1873년 2월 24일, 정부는, 메이지 6년 태정관 포고 제68호(포고 30일간 게시 및 종래 노고찰면 제각)에 의해, 종래의 고찰을 철거했다. 이에 따라 그리스도인 금제를 정한 고찰(五禜의 게시 의 제3표)은 사실상 폐지되어 에도시대 초기부터 계속되어 온 기독교에 대한 금교 정책에 종지부가 찍혔다.
- ↑ 진 마리 콜 (Jean-Marie Corre)
1850년 6월 28일 프랑스의 브뤼타뉴에서 태어난다. 1875년 파리 외국선교회 선교사로서 일본에 주로 아마쿠사 지방에서 전도에 종사한 후 나가사키의 신학교에 교사로 배속되었다. 그 후 구마모토로 돌아가 고난 속에 한센병 환자의 구제에 해당하는 수용시설인 대로원을 설립했다. 1911년 2월 9일 구마모토에서 사망. - ↑ 모라비아 형제단 등 미상륙 교파도 있다
- ^ 단, 에큐메니컬파 ( 리버럴파 )와 복음파 ( 성경신앙 )는 복음주의에 대한 해석이 다르다
- ^ “일본의 교회는 다른 나라들의 교회의 시작과는 달리 사람들의 운동이 일어나지 않았다. , 당시의 특권적인 지식계급이었다.」
- ^ 시도에 신신앙을 고백하는 당시의 청년에 종사하고 그 처지를 조사하라. 우에무라 마사히사는 막인의 아이에게 비즈야. 그는 막인의 전부가 받은 전패자 고통을 받은 사람이라. 혼다 켄이치 는 쓰가루인의 아들에게 비즈야. 유신의 때에 있는 쓰가루의 위치와 그 고심을 아는 사람은 누군가 그들이 특기로 하지 않을 처지의 사람이 되는 것을 의심하는 사람이 아닐까. 이후카지노 스케 는 아이즈 사람의 아이가 된다. 그는 국파를 당하고 야마가와가 있는 역경을 경험한 사람이 되었다. 오시카와 방의 는 이요마츠야마의 사람의 아이가 된다. 마츠야마도 향사막당으로 하여 지금 실의의 처지에 있는 것이 되고. "시대와 싸우는 신신앙을 포옹하는 청년이 많아 전패자 중에서 나오는 것은 모두 자연의 수가 많다고 말할 필요가 없다. 음영에서 나온다 ""
- ↑ 후루야 야스오 는 일본의 개신교가 지식계급, 몰락한 사족계급 중심이었기 때문에, 리버럴 신학을 받아들여 버렸다고 지적한다.
- ↑ 1889년 9월에 오사카에서 행해진 선교사 회의 때, 다른 선교단의 일본 방문을 필요로 한다는 의견을 말한 것이 1명, 또 따로 향후의 시세를 보고 타회에 일본 요청하는 것을 고려에 넣어야 한다고 하는 것이 1명 있었다고 한다. (ASMEP, Vol.573, Pierre-Marie Osouf à un pére, Tokyo, 17 août 1889.)
- ↑ 히라야마 요고로(통칭 목민)
1859년 , 나가사키 현 고토시 기주쿠초 미즈노우라에 태어난다. 1889년 2월 10일에 사제에게 서층되었다. 고토열도에서는 시마다 기조에 이어 두 번째로 서층된 사제이다. 예수회의 일본 방문의 실현을 위해 일했지만, 당시 나가사키 주교 쿠잔의 강한 반발을 사 파문에 가까운 '성직 정지'의 처분을 받았다. 1918년 5월 25일 사망. - ↑ 알베르 앙리 샤를 브루튼 (Albert-Henri Charles Breton)
1882년 7월 16일, 프랑스의 산 탕베르에서 태어났다. 아라스의 신학교에서 신학을 배운 후, 1901년 파리 외국선교회에 입회했다. 1905년 6월 사제에 서층, 같은 해 8월에 일본 파견을 명령받아 하코다테에 부임했다. 이듬해 니가타, 게다가 1907년 에는 아오모리현 히로사키에 전임했다. 1908년 , 아오모리에 부임해 포리 신부 아래에서 조임 사제를 맡았지만 소아 마비를 발병해, 치료를 위해 프랑스에 귀국했다. 미국 경유로 일본으로 돌아가는 도중, 칼포르니아의 일본으로부터의 이민의 실정을 시찰해 귀임했다. 가마쿠라 나나리가하마에 땅을 찾아 성 테레지아 요양소를 설립, 가마쿠라 교회 및 도쿄 혼고 교회의 사제를 겸임했다. 1931년 후쿠오카 주교에 맡겨 후쿠오카로 돌아갔다. 1940년 은퇴. 제2차 세계대전 중에도 일본에 머물렀지만 일시 스파이의 혐의로 헌병대에 체포된 것으로 전해지고 있다. 1954년 8월 11일, 가마쿠라에서 사망. - ↑ 장 루이 루라브 (Jean-Louis Relave)
1857년 12월 17일 프랑스 남부 리옹 시 교외의 세인트 제르지스 마을에서 태어났다. 파리 외국 선교회 경영의 신학교에 배워 1885년 사제가 되었다. 즉시 선교사로 일본에 파견되어 교토에서 전도 생활을 보낸 후 미야즈 교회에 전임하여 평생을 동지에서 보냈다. 그리스도교포교와 함께 교육활동에도 열심으로 효성여고등학교를 창립하는 등 여자교육에 헌신했다. 1940년 , 건강을 해치고 1941년 2월 1일 사망. - ↑ 「대학」을 칭하고 있지만 실제로는 전문학교령 에 준거한 전문학교 이다.
- ↑ 일본기독교단과 일본천주공교교단은 정부에 요구되어 전쟁협력을 표명하고 전후가 되어 이 사건을 비난당했을 때 교회와 신도를 지키기 위해서는 그 밖에 선택사항이 없고 고통의 결단이었다고 변명했다.
- ↑ 종전 후, 일본 천주 공교 교단은 폐지되어 새롭게 가톨릭 중앙 협의회가 조직되었다.
- ↑ 일본기독교신학전문학교와 일본기독교여자신학전문학교는 전후 학제개혁에 의해 도쿄신학대학 이 되었다.
- ↑ 1948년 에 가톨릭 교구 연맹으로 개칭, 1953년 8월 24일에 가톨릭 중앙 협의회가 되었다.
출처 [ 편집 ]
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- ^^ 중세 일본의 노예 제도, 중세 일본의 노예 제도, Thomas Nelson, Monumenta Nipponica, Vol. 59, No. 4 (Winter, 2004), pp. 463-492, pp. 463-492, "이미 1555년에 교회는 포르투갈 상인들이 일본 노예 소녀들을 포르투갈로 데려가서 죄 가운데 그들과 함께 살고 있다는 불만을 제기했습니다. ...그러나 일본의 정치적 분열, 먼 인도 제도에서 포르투갈 왕실이 자신의 의지를 실행하는 데 직면한 어려움, 인간 상품의 준비된 가용성, 무역에서 얻을 수 있는 이익은 기회가 무시할 수 있음을 의미했습니다. 1603년과 1605년에 고아 시민들은 합법적으로 팔린 노예의 매매를 금지하는 것은 잘못이라며 법에 항의했고 결국 1605년
- ↑ OKAMOTO Yoshitomo. Jūroku Seiki Nichiō Kōtsūshi no Kenkyū. Tokyo: Kōbunsō, 1936
- ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 496-497 "그렇다면 왕은 인도에 적어도 세 번 같은 명령의 사본을 보냈습니다. 1603년 , Aires de Saldanha가 1604년에 Martim Afonso de Castro와 함께, 그리고 1605년에 그것을 출판했을 때."
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- ^ The English and the Control of Christianity in the Early Edo Period, Timon Screech, Japan Review 24 (2012), p. 32, "1616년 여름의 종말은 Cocks가 에도에 있을 때 발생했습니다. 실제로 저는 여기에서 Cocks의 존재가 방아쇠였다고 주장했습니다. 그러나 그는 자신의 손을 심하게 과장했습니다. Cocks의 발언은 그가 의도한 것보다 더 널리 퍼진 경각심을 불러일으켰습니다. 뿐만 아니라 Hidetada는 바테렌 슈몬을 추방하고 영국인과 네덜란드인을 가두기로 결정했습니다.177"
- ^ The English and the Control of Christianity in the Early Edo Period, Timon Screech, Japan Review 24 (2012), p. 30 "위에서 네덜란드인에 대해 언급한 바가 거의 없습니다. 그들의 기지는 히라도의 영국인 옆에 있었습니다. 일본에 처음 도착했을 때 Cocks와 Saris는 개별 네덜란드인(회사 자체가 아님)이 스스로를 "영국인"이라고 주장하는 것을 보고 충격을 받았습니다. ,” 그들은 자국의 이름을 더럽히지 않고 불법 복제에 가담하기 위해 그렇게 했습니다. 161 Addames에게 주어진 영예에도 불구하고 영국 이전의 평판은 좋지 않았습니다.
- ^^ 에도 시대 초기의 영어와 기독교의 통제, Timon Screech, Japan Review 24(2012), p. 31, "가장 좋은 전략은 네덜란드인과 예수회를 연결하는 것이었고, 이는 1613-1614년 겨울, Saris가 떠나고 Cocks가 일본의 상황에 대해 약간의 구매를 얻은 후 쇼군의 태도가 처음으로 변경된 후 강렬하게 이루어졌습니다. Jacques Speckx 네덜란드 공장장(1585~1652)은 아시아에서 "그는 Graue Moris[graf Maurits(1567~1625)]와 네덜란드의 영지를 영국의 왕과 동등하게 받아들였다. 166 그러나 Cocks는 Matsura Takanobu에게 네덜란드인은 "스페인 왕의 자연적 가신"이며 스페인 네덜란드를 언급하면서 "공개적으로 반란을 일으켰다"고 반박했습니다. Takanobu는 조심해야 합니다. 왜냐하면 네덜란드인은 "네덜란드인이 했던 것처럼 자신의 가신 수사슴에 약간의 변화를 일으켜" "남을 있는 그대로 만들고 일본 국가를 무너뜨리기 위해" 더 넓은 파급 효과를 가져올 수 있기 때문입니다. 이중 노선: 연합 지방은 정당하게 카톨릭 스페인의 일부였으므로 네덜란드인은 반란군이었고, 이것은 모순적이지만 네덜란드인이 누렸던 독립을 확보한 것은 영국이었습니다. 그들을. 그는 히라도 법정에 “모든 사람이 들을 수 있도록” 어떻게 “영국 왕이 네덜란드인을 다스리는 왕자(또는 군[백])보다 훨씬 더 큰 가신을 거느리고 있으며, 그들의 주나 정부는 영국의 지휘 아래 있다는 사실을 알렸습니다. 영국의 왕, 그는 영국군 수비대를 그들의 가장 으스스한 요새, 즉 그들이 가진 힘의 장소에 두었습니다.”168"
- ^^ 에도 시대 초기의 영어와 기독교의 통제, Timon Screech, Japan Review 24(2012), p. 31-32 "Cocks는 Elizabeth가 네덜란드 대의에 대한 막대한 대출금에 대한 보증인으로 영국의 통제하에 있는 Cautionary Towns에 관심을 끌었습니다. 그럼에도 불구하고 한 네덜란드인이 "그들의 네덜란드 왕이 기독교 세계에서 가장 위대한 왕이며 다른 모든 왕을 아래에 두었다"고 주장하는 것을 듣고 Cocks는 이렇게 말했습니다. 그들은 네덜란드에 왕이 전혀 없었지만 백작에 의해 다스려졌거나 오히려 그를 다스렸습니다.” 즉, 그는 왕이 아니라 선출된 총독이었습니다. 그리고 Cocks는 계속해서 말했습니다.
- ^ The English and the Control of Christianity in the Early Edo Period, Timon Screech, Japan Review 24 (2012), p. 32, "Cocks는 자신이 차단된 것을 발견했습니다. Thomas 또는 Advice에 실린 James의 최근 편지는 거부되었습니다. 그 이후로 무역은 히라도에서만 이루어졌습니다. Cocks는 그들이 "그런 명령에 따라 일본에서 즉시 추방당할 수도 있다"고 한탄했습니다. 그 후에 무역이 다시 확장될 것입니다.180 그러나 다시 확장되지는 않았습니다."
- ^^ 에도 시대 초기의 영어와 기독교의 통제, Timon Screech, Japan Review 24(2012), p. 33, "이제 아버지가 없는 히데타다(Hidetada)는 국제 통상에 대한 언급뿐만 아니라 이에야스(Ieyasu)의 섭리를 대대적으로 변경했습니다. "모든 사람이 불평합니다." Cocks가 말했습니다. 그리고 이 사람은 장교를 바꾸고 tonos[다이묘]를 교체하는 것 외에는 아무 일도 하지 않습니다.”181 이 신문과 관련된 순서는 그해 가을에 끝났습니다. ; 소수의 은신처(영국에서와 같이)에 살면서 피해를 주는 사실을 누설했습니다.
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참고 문헌 [ 편집 ]
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- 『일본에 자는 파리 외국 선교회 선교사 열전』 타케우치 히로
- 요코하마시 역사 박물관 (이노우에 공) “속보 일본 가장 고급의 그리스도 신앙화 “성체의 연상과 묵상의 그림”의 전시” “요코하마시 역사 박물관 뉴스” No.46호 2019년(2019 년 ) 2월 2일 발행 6~7페이지
관련 문헌 [ 편집 ]
- 일본 기독교사 카미마키(야마모토 히데 황, 1925년) - Google 도서
- 일본기독교사 시모노마키(야마모토 히데 황, 1925년) - Google 도서
- 스즈키 노부히사『일본 기독교사 -연표로 읽는다』 교문관, 2017년. ISBN 978-4-7642-7419-8 . OCLC 1003285994 。
관련 항목 [ 편집 ]
- 기독교 역사
- 기독교 연표
- 교단
- 기독교주의학교 (미션스쿨)
- 일본의 기독교 유명인 목록
- 일본의 가톨릭 교회
- 일본의 후기 성도 예수 그리스도 교회
- 일본의 개신교 교파 목록
- 키리시탄
- 일본 종교
- 로마자
- 나가사키와 아마쿠사 지방의 잠복 키리시탄 관련 유산
외부 링크 [ 편집 ]
Christianity in Japan
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Christianity in Japan is among the nation's minority religions in terms of individuals who state an explicit affiliation or faith. Between less than 1 percent[1][2] and 1.5%[3] of the population claims Christian belief or affiliation. Although formally banned in 1612 and today critically portrayed as a foreign "religion of colonialism", Christianity has played a role in the shaping of the relationship between religion and the Japanese state for more than four centuries.[4] Most large Christian denominations, including Roman Catholicism, Protestantism, Oriental Orthodoxy, and Orthodox Christianity, are represented in Japan today.
Christian culture has a generally positive image in Japan.[5] The majority of Japanese people are, traditionally, of the Shinto or Buddhist faith. The majority of Japanese couples, about 60–70%, are wed in 'nonreligious' Christian ceremonies. This makes Christian weddings the most influential aspect of Christianity in contemporary Japan.[6]
Etymology[edit]
The Japanese word for Christianity (キリスト教, Kirisuto-kyō) is a compound of kirisuto (キリスト) the Japanese adaptation of the Portuguese word for Christ, Cristo, and the Sino-Japanese word for doctrine (敎, kyō, a teaching or precept, from Middle Chinese kæ̀w 敎), as in Bukkyō (仏教, Japanese for Buddhism).[7]
History[edit]
Missionaries and early expansion[edit]
The first appearance of Christianity in Japan was the arrival of the Portuguese Catholics in 1549.[8] Navarrese missionary Francis Xavier arrived in Japan with three Japanese Catholic converts intending to start a church in Japan. The local Japanese people initially assumed that the foreigners were from India and that Christianity was a new "Indian faith". These mistaken impressions were due to already existing ties between the Portuguese and India; the Indian state of Goa was a central base for Portuguese India at the time, and a significant portion of the crew on board their ships were Indian Christians.[9]
Later on, the Roman Catholic missionary activities were exclusively performed by Jesuits and mendicant orders, such as the Franciscans and Dominicans. Francis Xavier (who would later be canonized a Catholic saint for his missionary work),[10] Cosme de Torres (a Jesuit priest), and Juan Fernández were the first who arrived in Kagoshima hoping to bring Christianity to Japan. Xavier and the Jesuit order were held in good esteem, and his efforts seem to have been rewarded with a thriving community of converts.[11] At baptism, these converts were given Portuguese "Christian names" and forced to adopt Western cultural habits. This practice contributed to suspicions that the converts were in reality foreign agents working to subvert the local social order.[note 1][11]
The earliest success Christianity witnessed in Japan occurred in Kyushu. Conversions of local warlords like Ōmura Sumitada, Arima Yoshisada, and Ōtomo Sōrin led to the conversion of many of their subjects.[12] The conversion of several elites in the area was likely due to the decentralized nature of the Sengoku period where warlords vied for control among themselves. This power vacuum led some warlords to believe that being more open to external sources of power and legitimacy as a possible method to gain an advantage.[12] As several daimyos and their subjects converted to Christianity, the destruction of Buddhist and Shinto temples and shrines would often accompany it, with the Jesuits also contributing to the destruction and persecutions.[12] Buddhist monks and Shinto priests would face persecution by being forcefully evicted out of their religious sites, be forced to marry, or forced to convert.[12][13]
Perceived threat to Japan[edit]
The neutrality of this section is disputed. (July 2021) |
Under Oda Nobunaga, the Jesuits enjoyed the favor of his regency. The successor of Oda, Toyotomi Hideyoshi at first protected Christianity, however later changed his policy with the publishing of the Bateren Edict, banning missionary activities. After conquering Kyushu, Hideyoshi visited Hakozaki and came to believe that Jesuits were selling Japanese people as slaves overseas, Christians were destroying shrines and temples, and people were being forced to convert to Christianity, resulting in the aforementioned edict. Alessandro Valignano, on 14 December 1582 wrote a letter to Governor-General of the Philippines Francisco de Sande Picón stating that it would be impossible to conquer Japan by military power and converting Japan to Christianity was the most important task of church.[14][15] Scholars also theorise that Hideyoshi believed the true mission of the Christian missionaries was to convert the Japanese population to Christianity, overthrow the government, and turn it into a colony.[16][17][18][19][20]
In 1637, Matsukura Katsuie misgoverned his territory and imposed a high tax onto people and oppressed Christians. This, combined with famine, led to the Shimabara Rebellion. First it was a peasant movement, but later Christians joined the rebellion, resulting in Ieyasu's ban on Christianity.[21] This was the largest rebellion in the history of Japan and convinced the Shogunate that Christianity was a threat to them, causing them to isolate Japan from the outside world for almost 250 years.[citation needed]
Persecution under the Shogunate[edit]
Under Hideyoshi and the succeeding Tokugawa shogunate, Catholic Christianity was repressed and adherents were persecuted. During Toyotomi rule especially, foreign missionaries were killed in Japan, some by (Japanese-style) crucifixion; most famously, the twenty-six martyrs of Japan were tortured and crucified on crosses outside Nagasaki to discourage Christianity in 1597. (Hideyoshi nonetheless showed favor to daimyō who had converted, such as Konishi Yukinaga.)[22] Following a brief respite as Tokugawa Ieyasu rose to power and pursued trade with the Portuguese powers, there were further persecutions and martyrdoms in 1613, 1630, 1632 and 1634.[23]
The Tokugawa shoguns eradicated Christianity in Japan via murder, persecution and decrees.[24] In 1638, an estimated 37,000 people (mostly Christians), were massacred after the Christian-led Shimabara Rebellion.[24] In 50 years, the crackdown policies of the shoguns reduced the amount of Christians to near zero.[24]
By this point, after the Shimabara Rebellion, the remaining Christians had been forced to publicly renounce their faith. Many continued practicing Christianity in secret, in modern times becoming known as the "hidden Christians" (隠れキリシタン, kakure kirishitan).[25] These secret believers would often conceal Christian iconography in closed shrines, lanterns or inconspicuous parts of buildings. For example, Himeji Castle has a Christian cross on one of its 17th-century roof tiles, in place of a mon, indicating that one of its occupants was a secret Christian.[26]
Drawn from the oral histories of Japanese Catholic communities, Shūsaku Endō's historical novel Silence provides detailed fictionalised accounts of the persecution of Christian communities and the suppression of the Church.[27]
Opening of Japan[edit]
Captain Herbert Clifford was an officer in the Royal Navy during the Napoleonic Wars and the founder of the Loochoo Naval Mission (1843).[28] Clifford worked with missionary the Rev. Bernard Jean Bettelheim, who was the first Christian missionary to Okinawa.
After Japan was opened to greater foreign interaction in 1853, many Christian clergymen were sent from Catholic, Protestant, and Orthodox churches, though proselytism was still banned. After the Meiji Restoration, freedom of religion was introduced in 1871, giving all Christian communities the right to legal existence and preaching.
Culture[edit]
Japan remains one of the most secular nations in the world according to the World Values Survey. While, as of 2007, there may be up to 3 million Japanese Christians,[29] Christianity in Japan is spread among many denominational affiliations. 70 percent of Japanese churches have an average attendance of less than 50, though membership is often almost double this figure.[30]
Holidays[edit]
The celebration of selected Christian holidays has gained popularity in Japan since the Second World War – primarily as commercial events, but with also an emphasis on sharing time with loved ones, either significant others or close family.
Except in Japan's minority Christian communities, Easter is not typically marked by any special form of celebration.
Christmas in Japan is celebrated on a much larger scale as a commercial and secular festival, but again is not an official public holiday. Christmas lights,[31] Santa Claus, parties, gift exchanges, and eating Western-inspired Christmas foods, especially Kentucky Fried Chicken and strawberry shortcake, are all familiar features of this event.[32] Many Christians have criticized this as a commercialization of the holiday, being contrary to the teachings of Jesus Christ.[33][34] In Japan rather than being a family or religious occasion, Christmas is seen as a time to spend with friends or a significant other. Christmas Eve is celebrated as a couple's holiday on which romantic gifts are exchanged.
St. Valentine's Day in Japan is also celebrated, but the normal Western cultural traditions are often reversed – women give men a gift of chocolate, and on White Day, one month later, the favor is returned. Gifts are not exclusive to romantic relationships; women exchange gifts most frequently between one another and will occasionally give male co-workers chocolate, although this latter exchange is often referred to as an obligation gift. It is not as common for couples to go out on dates together; that element seems to be reflected in Christmas Eve instead.
Expression[edit]
Christian weddings have become prominent as an alternative (or addition) to traditional Shinto ceremonies. This is partially due to the successful missionary efforts of Japanese Christian churches and commercial endeavors. Architecturally resembling churches, wedding chapels have sprung up across Japan to meet the needs of Japanese who do not join Christian churches but still desire the ceremony.[6]
Major denominations[edit]
Catholicism[edit]
Catholicism in Japan operates in communion with the worldwide Catholic Church under the authority of the Pope in Rome. In 2005, there were approximately 509,000 Catholics in 16 dioceses in Japan.[35] The patron saints of Japan are Francis Xavier and Peter Baptist.[36]
When Francis Xavier arrived in Japan in 1549 as the first Catholic missionary to the archipelago, Catholicism was Japan's first contact with organized Christianity. The Catholic Church remained the only major source of Christianization in Japan until the fall of the shogunate in 1867 and the Meiji restoration of 1868. The Society of Jesus started the initial missions, joined later on by the less cautious Franciscan order. Twenty Catholic missionaries operated in Japan by 1570.[37] Nagasaki became the center of Japanese Catholicism, and maintained close cultural and religious ties to its Portuguese origins. These ties were severed once Christianity was outlawed in the early-17th century; at this point, Catholicism went underground, its rites preserved by the Kakure Kirishitan, or "hidden Christians", who continued practicing their faith in secret private devotion.
The samurai Hasekura Tsunenaga led a diplomatic mission, accompanied by over one hundred Japanese Christians and twenty-two samurai, to see Pope Paul V. Hasekura arrived in Acapulco, Mexico (then New Spain) in 1614; and would then travel to Spain. After meeting with King Philip III, Hasekura was baptized as a Catholic under the name Felipe Francisco de Fachicura. After traveling to France and Rome, Hasekura returned to Japan in 1620 and was forced to renounce his adopted religion after Christianity was banned.[38]
A multitude of Japanese Catholics were brutally tortured and killed for their faith, thus becoming martyrs. Many of these martyrs have been canonized, and their liturgical memorial is celebrated each year on February 6 in honor of their fidelity to "Christ and his Church" unto death.
In 1981 Pope John Paul II paid a visit to Japan, during which he met with Japanese people, the clergy, and Catholic lay-people, held Holy Mass in the Korakuen Stadium (Tokyo), and visited the Peace Memorial Park in Hiroshima, the Hill of Martyrs in Nagasaki, town of the Immaculate founded by St. Maximilian Kolbe in Nagasaki, and other places.[39] Pope Francis also visited Japan in 2019.
Eastern Orthodoxy[edit]
Eastern Orthodoxy is a minor religion in Japan. The current primate of Japan is Daniel Nushiro, Metropolitan of all Japan and Archbishop of Tokyo, who was elevated to the primacy in 2000.[40] The primate's seat is the Holy Resurrection Cathedral in Chiyoda, Tokyo. Founded in 1891, the cathedral has been known as Nikolai-do in honor of its founder Nicholas Kasatkin. The cathedral serves as the seat of the national primate of Japan and continues to be the main center of Orthodox Christian worship in Japan.
Eastern Orthodoxy was brought to Japan in the 19th century by St. Nicholas (baptized as Ivan Dmitrievich Kasatkin),[41] who was sent in 1861 by the Russian Orthodox Church to Hakodate, Hokkaidō as priest to a chapel of the Russian Consulate.[42] St. Nicholas of Japan made his own translation of the New Testament and some other religious books (Lenten Triodion, Pentecostarion, Feast Services, Book of Psalms, Irmologion) into Japanese.[43] The Patriarchate of Moscow glorified, (canonized as a saint) Nicholas in 1970; he is now recognized as St. Nicholas, Equal-to-the-Apostles. His commemoration day is February 16. Andronic Nikolsky, appointed the first Bishop of Kyoto and later martyred as the archbishop of Perm during the Russian Revolution, was also canonized by the Russian Orthodox Church as a Saint and Martyr in the year 2000.
The Ecumenical Patriarchate is also present with the Greek Orthodox Exarchate of Japan under the Orthodox Metropolis of Korea.
Protestantism[edit]
James Curtis Hepburn, M.D., LL.D. (March 13, 1815 – June 11, 1911) was the first Presbyterian missionary to Japan, arriving in 1859, the same year as the first ordained representatives of the Anglican Communion, the Rev., later Bishop, Channing Moore Williams, founder of Rikkyo University, Tokyo, and the Rev. John Liggins of the Episcopal Church in the United States of America.[44]
Hepburn went to Japan initially as a medical missionary with the American Presbyterian Mission[44] opening a clinic in Kanagawa Prefecture, near present-day Tokyo. He later founded the Hepburn School, which developed into Meiji Gakuin University, and wrote a Japanese–English dictionary. In the dictionary's third edition,[45] published in 1886, Hepburn adopted a new system for romanization of the Japanese language (Rōmajikai). This system is widely known as Hepburn romanization because Hepburn's dictionary popularized it. Hepburn also contributed to the Protestant translation of the Bible into Japanese. Hepburn returned to the United States in 1892. On March 14, 1905, Hepburn's 90th birthday, he was awarded the decoration of the Order of the Rising Sun, third class. Hepburn was the second foreigner to receive this honor.[46]
Divie Bethune McCartee was the first ordained Presbyterian minister missionary to visit Japan, in 1861–1862. His gospel tract translated into Japanese was among the first Protestant literature in Japan. In 1865 McCartee moved back to Ningbo, China, but others have followed in his footsteps. There was a burst of growth of Christianity in the late 19th century when Japan reopened its doors to the West. Protestant church growth slowed dramatically in the early 20th century under the influence of the military government during the Shōwa period.
The post-World War II years have seen increasing activity by evangelicals, initially with North American influence, and some growth occurred between 1945 and 1960. The Japanese Bible Society was established in 1937 with the help of National Bible Society of Scotland (NBSS, now called the Scottish Bible Society), the American Bible Society, the British and Foreign Bible Society.[47]
Other Christian[edit]
Jehovah's Witnesses[edit]
In 2020, the number of Jehovah's Witnesses was 212,683 active publishers, united in 2,964 congregations; 273,856 people attended annual celebration of Lord's Evening Meal in 2020.[48] Before 1945 they were banned in Japan. Many Jehovah's Witnesses were jailed; one of them, Katsuo Miura, was in the Hiroshima prison during the atomic bombing of Hiroshima.[49]
Church of Jesus Christ of Latter-day Saints[edit]
As of year-end 2009, The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints (LDS Church) reported 29 stakes, 14 districts, 163 wards, 125 branches, 7 missions, and 3 temples in Japan.[50] As of July 2016, there are 128,216 members.[51] The LDS Church was established in Japan in 1901[50] when the first LDS Church missionaries arrived on August 12, 1901. Among them was Heber J. Grant, at the time a member of the Quorum of the Twelve, the 7th President of the Church.[52]
As of March 15, 2011 there were over 630 LDS missionaries serving in the church's six missions in Japan.[53]
Art and media[edit]
Christian art in Japan dates back to the 16th century, with traditional shrines and Japanese artwork depicting the Christian faith within Japan.[54][55][56][57] When Christianity was illegal in Japan, the local Christians developed distinctive forms of Christian art, literature, and cultural practices.[58][59]
Christian media is prevalent within the popular culture of Japan, despite its relatively small Christian population. Superbook was a mainstream anime during the 1980s, and it remains a popular Christian media franchise worldwide.[60] Because of this Christianity remains a popular topic in manga and anime, including Trigun and Saint Young Men.[61][62] Gospel and contemporary Christian music are part of popular music in the country, the largest Christian music festival in the country is the Sunza Rock Festival, which is where many of Japan's CCM artists and bands perform.[63][64][65]
International Christian University is the alma mater of several Japanese media professionals, including Kaz Hirai, the former chairman of Sony.[66] Sony owns several Christian media studios and outlets, including the Pure Flix streaming service.[67]
See also[edit]
Notes[edit]
- ^ In the source, this claim is made of all of Xavier's converts across Asia in general, including but not limited to those in Japan
References[edit]
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External links[edit]
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