2020/04/27

密教 - Wikipedia

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密教

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密教(みっきょう)とは、秘密の教えを意味し[1]、一般的には、大乗仏教の中の秘密教を指し[2]、秘密仏教の略称とも言われる[3]金剛乗、あるいは金剛一乗教金剛乗教ともいう[4]

意味と位置づけ[編集]

かつての日本では、密教といえば空海を開祖とする真言宗のいわゆる東密や、密教を導入した天台宗での台密を指したが、インドチベットにおける同種の仏教思想の存在が認知・紹介されるに伴い、現代ではそれらも合わせて密教と総称するようになっている[5]。今日の仏教学は一般に密教を「後期大乗」に含めるが、後期大乗と密教とを区別しようとする立場もある[6]。江戸後期の日本で確立した分類である雑密・純密をそれぞれ大まかにインド密教の前期・中期に対応させることが多い。
真言宗においては、伝統的には、「密教」とは顕教と対比されるところの教えであるとされる[7]。インドの後期大乗仏教の教学(顕教)と後期密教とを継承したチベット仏教においても、大乗を波羅蜜乗(顕教)と真言乗(密教)とに分けるという形で顕密の教えが説かれている。密教の他の用語としては金剛乗(vajrayāna、ヴァジュラヤーナ)、真言乗(mantrayāna、マントラヤーナ)などとも称される。
金剛乗という用語
金剛という言葉はすでに部派仏教時代の経論からみられ[8]、部派仏典の論蔵アビダルマ)の時代から、菩提樹下に於ける釈迦の(降魔)成道は、金剛(宝)座でなされたとする記述がみられるが[9][10]、金剛乗の語が出現するのは密教経典からである[11]。金剛乗の語は、金剛頂経系統のインド後期密教を、声聞乗・大乗と対比して、第三の最高の教えと見る立場からの名称であるが、拡大解釈により大日経系統も含めた密教の総称として用いられることもあり[12]、欧米などでも文献中に仏教用語として登場する。

概説[編集]

顕教では経典類の文字によって全ての信者に教えが開かれているのに対し、密教は「阿字観」等に代表される視覚的な瞑想を重んじ、曼荼羅や法具類、灌頂の儀式を伴う「印信」や「三昧耶形」等の象徴的な教えを旨とし、それを授かった者以外には示してはならない秘密の教えとされる[注釈 1]
空海(弘法大師)は、密教が顕教と異なる点を『弁顕密二教論』の中で「密教の三原則」として以下のように挙げている。
  1. 法身説法(法身は、自ら説法している。)
  2. 果分可説(仏道の結果である覚りは、説くことができる。)
  3. 即身成仏(この身このままで、仏となることができる。)
部派仏教が阿羅漢の果を優先的に説き、大乗仏教が膨大な時間(三阿僧祇劫)を費やすことによる成仏を説くのに対して、密教は老若男女を問わず今世(この世)における成仏である「即身成仏」を説く。
密教においては、師が弟子に対して教義を完全に相承したことを証する儀式を伝法灌頂といい、その教えが余すところなく伝えられたことを称して「瀉瓶(しゃびょう)の如し」[注釈 2]といい、受者である弟子に対して阿闍梨(教師)の称号と資格を与えるものである。いわゆるインド密教を継承したチベット密教がかつて一般に「ラマ教」と称されたのは、チベット密教では師資相承における個別の伝承である血脈を特に重んじ、自身の「根本ラマ」(師僧)に対して献身的に帰依するという特徴を捉えたものである。

インド密教[編集]

部派仏教[編集]

パーリ仏典の長部・『梵網経』には、迷信的な呪術や様々な世間的な知識を「無益徒労の明」に挙げて否定する箇所があり、原始経典では比丘が呪術を行うことは禁じられていたが、律蔵においては(世俗や外道で唱えられていた)「治歯呪」や「治毒呪」[13][14] [15] といった護身のための呪文(護呪)は許容されていた[16]。そうした特例のひとつに、比丘が遊行の折に毒蛇を避けるための防蛇呪がある(これが大乗仏教において発展してできたのが初期密教の『孔雀王呪経』とされる[17])。密教研究者の宮坂宥勝の考察によれば、本来は現世利益的な民間信仰の呪文とは目的を異にするもので、蛇に咬まれないためには蛇に対する慈悲の心をもたねばならないという趣旨の偈頌のごときものであったとも考えられるが、社会における民衆への仏教の普及に伴って次第に呪術的な呪文へと転じていったのでないかという[18]
また意味の不明瞭な呪文ではなく、たとえば森で修行をするにあたって(木霊の妨害など)様々な障害を防ぐために慈経を唱える[19]、アングリマーラ経を唱えることで安産を願う[20]など、ブッダによって説かれた経典を唱えることで真実語(sacca-vacana)によって祝福するという習慣が存在する。 こうした祝福や護身のために、あたかも呪文のように経典を読誦する行為は、パーリ仏教系統では「パリッタ(paritta 護経、護呪)」と称され、現代のスリランカや東南アジアの上座部仏教でも数々のパリッタが読誦されている[21]
インドの錬金術が密教となり、密教は錬金術そのものであったとの仮説[22]があるが、一般的な見解ではないし、また仏教学の研究でも検証されていない。

初期密教[編集]

呪術的な要素が仏教に取り入れられた段階で形成されていった初期密教(雑密)は、特に体系化されたものではなく、祭祀宗教であるバラモン教マントラに影響を受けて各仏尊の真言陀羅尼を唱えることで現世利益を心願成就するものであった。当初は「密教経典」なるものがあったわけではなく、大乗経典に咒や陀羅尼が説かれていたのに始まる。大乗仏教の代表的な宗派である禅宗では「大悲心陀羅尼」・「消災妙吉祥陀羅尼」等々、日本でも数多くの陀羅尼を唱えることで知られているが、中でも最も長い陀羅尼として有名な「楞厳呪」(りょうごんしゅ)は大乗仏典の『大仏頂首楞厳経』に説かれる陀羅尼であり、中国禅では出家僧の「女人避けのお守り」ともされている。

中期密教[編集]

新興のヒンドゥー教に対抗できるように、本格的な仏教として密教の理論体系化が試みられて中期密教が確立した。中期密教では、世尊 (Bhagavān) としての釈尊が説法する形式をとる大乗経典とは異なり、別名を大日如来という大毘盧遮那仏 (Mahāvairocana) が説法する形をとる密教経典が編纂されていった。『大日経』、『初会金剛頂経』 (Sarvatathāgatatattvasaṃgraha) やその註釈書が成立すると、多様な仏尊を擁する密教の世界観を示す曼荼羅が誕生し、一切如来[注釈 3]からあらゆる諸尊が生み出されるという形で、密教における仏尊の階層化・体系化が進んでいった。
中期密教は僧侶向けに複雑化した仏教体系となった一方で、却ってインドの大衆層への普及・浸透ができず、日常祭祀や民間信仰に重点を置いた大衆重視のヒンドゥー教の隆盛・拡大という潮流を結果的には変えられなかった[注釈 4][23]。そのため、インドでのヒンドゥー教の隆盛に対抗するため、シヴァを倒す降三世明王ガネーシャを踏むマハーカーラ(大黒天)をはじめとして、仏道修行の保護と怨敵降伏を祈願する憤怒尊や護法尊が登場した。

後期密教[編集]

インドにおいてヒンドゥー教シャークタ派タントラシャクティ(性力)信仰から影響を受けたとされる、男性原理(精神・理性・方便)と女性原理(肉体・感情・般若)との合一を目指す無上瑜伽の行も無上瑜伽タントラと呼ばれる後期密教の特徴である。男性名詞であるため男尊として表される方便と、女性名詞であるため女尊として表される智慧が交わることによって生じる、密教における不二智象徴的に表す「歓喜仏」も多数登場した。無上瑜伽タントラの理解が分かれていた初期の段階では、修行者である瑜伽行者がしばしばタントラに書かれていることを文字通りに解釈し、あるいは象徴的な意味を持つ諸尊の交合の姿から発想して、女尊との性的瑜伽を実際の性行為として実行することがあったとされる。そうした性的実践が後期密教にどの時期にいかなる経緯で導入されていったかについてはいくつかの説があるが、仏教学者の津田真一は後期密教の性的要素の淵源として、性的儀礼を伴う「尸林の宗教」という中世インドの土着宗教の存在を仮定した[24]。後にチベットでジョルと呼ばれて非難されることになる性的実践[25]は主に在家の密教行者によって行われていたとも考えられているが、出家教団においてはタントラの中の過激な文言や性的要素をそのまま受け容れることができないため、譬喩として穏当なものに解釈する必要が生じた[26]。しかし、時には男性僧侶が在家女性信者に我が身を捧げる無上の供養としてそれを強要する破戒行為にまで及ぶこともあった。
さらには、当時の政治社会情勢から、イスラム勢力の侵攻によるインド仏教の崩壊が予見されていたため、最後の密教経典である時輪タントラ(カーラチャクラ)の中でイスラムの隆盛とインド仏教の崩壊、インド仏教復興までの期間(末法時代)は密教によってのみ往来が可能とされる秘密の仏教国土・理想郷シャンバラの概念、シャンバラの第32代の王となるルドラ・チャクリン(転輪聖王)、ルドラ・チャクリンによる侵略者(イスラム教徒)への反撃、ルドラ・チャクリンが最終戦争での王とその支持者を破壊する予言、そして未来におけるインド仏教の復興、地上における秩序の回復、世界の調和と平和の到来、等が説かれた。
インド北部におけるイスラム勢力の侵攻・破壊活動によってインドでは密教を含む仏教は途絶したが、後期密教のさらに発展した体系は今日もチベット密教の中に見ることができる。

チベット密教[編集]

チベット仏教は、所作タントラ、 行タントラ瑜伽タントラ、「無上瑜伽タントラ」と呼ばれる初期密教から後期密教にいたる密教経典と、それに基づく行法を継承している。
漢地においてはモンゴル系のの朝廷内でチベット系の密教が採用され、支配者階級の間でチベット密教が流行した。漢民族王朝のにおいてもラマ僧を厚遇する傾向があったが、満州民族王朝のに至って、王室の帰依と保護によってチベット仏教は栄え、北京の雍和宮など多くのチベット仏教寺院が建立された。ただし、漢地におけるチベット仏教の存在が当時の中国人社会にどの程度の影響力を持ったかについては十分な解明がなされていない[27]
チベット動乱や、特に文革期に激烈であった中国共産党による宗教弾圧を乗り越えて、チベット自治区やチベット人を中心に現在もチベット密教の信仰が続いている。文革終了後の中国大陸では、漢人の間でもチベット密教(蔵密)が流行。法輪功問題を契機に気功がブーム終息した頃、チベット密教の行法を信仰から切り離して気功法として行う「蔵密気功」が各地で宣伝された[28]台湾の仏教にはチベット密教も伝わっており、清朝末期に創設された「西蔵学会」もある。モンゴルでは中世のモンゴル帝国でチベット仏教が国教であった流れから、現在もチベット密教の信仰が続いている。カンボジアアンコール朝にも密教は伝来しており、密教で用いられる祭具や、特にヘーヴァジュラを象った銅像や祭具が出土している。
欧米での展開も起きている。チベットにおける1950-51年のチベット侵攻 から1959年のチベット動乱という大混乱の後は、ダライ・ラマ14世をはじめとする多くのチベット僧がチベット国外へと出て活動したことにより、ヨーロッパや米国で広範囲に布教がなされるようになり、欧米の思想界にもさまざまな影響を与えることになった。アメリカ合衆国ニューヨークでは、ダライ・ラマ14世と親交のあるロバート・サーマンにより1987年にチベットハウスが設立・運営され、チベット密教も含めチベットの思想や文化が広報されている。現在は欧米諸国で Esoteric Buddhism と言う場合には、主にチベット密教のことを指している。
日本ではオウム真理教がチベット密教の教義や用語等を流用したり、チベット僧を宣伝に利用したりしていたため、風評被害を受けた。

漢字圏の密教[編集]

中国においては、南北朝時代から、数は限られているものの、初期の密教経典が翻訳され、紹介されていた。3世紀には『華積陀羅尼神呪経』が翻訳されるなど、西域方面から伝来した仏典の中に初期の密呪経典が含まれていた。東晋の時代には格義仏教が盛んであったが、同時に降雨止雨経典などの呪術的な密典も伝訳された。これらは除災や治病といった現世利益を仏教に対し求める民衆の期待と呼応していたとも考えられる。その後、代に入り、インドから来朝した善無畏や中国人の弟子の一行が『大日経』の翻訳を行い、さらにインド僧の金剛智と弟子の不空(諸説あるが西域出身のインド系帰化人であったと言われる)が『金剛頂経』系密教を紹介することで、インドの代表的な純密経典が初めて伝えられた。こうして、天台教学をはじめとした中国人による仏教思想が大成した時代背景において、それ以前の現世利益的密教とは異なった、成仏を意図したインド中期密教が本格的にもたらされ、その基礎の上に中国の密教が確立し受容されるに至った。仏教を護国思想と結びつけた不空は唐の王室の帰依を得、さまざまな力を得て、中国密教の最盛期をもたらすことになった。
その後、密教は武宗が大規模に行った「会昌の廃仏」の打撃を被り、円仁らが中国に留学した頃は、相応の教勢を保っていたとみられるが、唐朝の衰退とともに教勢も弱まっていった。北宋になって密教も復興し、当時の訳経僧であった施護中国語版はいくつかの後期密教経典も翻訳したが、見るべき発展はなかった[29]。以後、唐密教の伝統は歴史の表舞台からほぼ消失し、中国密教は次第に道教等と混淆しながら民間信仰化していったともみられる[29]。その一方で西夏でも密教が行われた。殊に西夏では漢伝の密教とチベット仏教が混ざり合っていたことが残された史料から窺われる[30]
密教研究者の頼富本宏は唐密教衰退後の中国密教を後期中国密教と呼び、以下の形態の密教が存在したことを想定している[31]
  1. 宋代に漢訳された後期密教経典に基づく密教。この形態の密教が中国で実際に広く行われた形跡はないとされる。
  2. 密教の民間信仰化。一例として台湾や東南アジアの華人社会に今も伝わる瑜伽焔口という施餓鬼法要が挙げられる。
  3. 元朝や清朝において統治者が庇護・奨励し、主に上層階級に信仰されたチベット仏教における密教。
中国密教(唐密)における明代清代の資料の幾つかは、『卍蔵経』や『卍続蔵経』にも収められている。
  • 『准胝懺願儀梵本』   呉門聖恩寺沙門弘壁
  • 『准提集説』   瑞安林太史任増志
  • 『准提簡易持誦法』   四明周邦台所輯
  • 『准胝儀軌』   項謙
  • 『大准提菩薩焚修悉地懺悔玄文』   夏道人
唐代に盛んであった中期密教を唐密宗(唐密:タンミィ)または漢伝密教(漢密)と呼ぶ。清代以降の浄土教の台頭、現世利益や呪術の面でライバルであった道教に押されて中国では衰退・途絶し、日本密教(東密)の逆輸入も行われた[32]上海市静安寺にみられるように日本の真言宗(東密)との交流を通じて唐密宗の復興を試みる新しい動きもある。

日本の密教[編集]

密教の伝来[編集]

日本で密教が公の場において初めて紹介されたのは、から帰国した伝教大師最澄によるものであった。当時の皇族や貴族は、最澄が本格的に修学した天台教学よりも、むしろ現世利益も重視する密教、あるいは来世での極楽浄土への生まれ変わりを約束する浄土教念仏)に関心を寄せた。しかし、天台教学が主であった最澄は密教を本格的に修学していたわけではなかった。
よって、本格的に日本で紹介されることになるのは、唐における密教の拠点であった青龍寺において密教を本格的に修学した空海(弘法大師)が806年に日本に帰国してからであるとされる。 あるいは、空海に後れをとるまいと唐に留学し密教を学んだ円行円仁(慈覚大師)、恵運円珍(智証大師)、宗叡らの活躍も挙げられることがある。
日本に伝わったのは中期密教であり、唐代には儒教の影響も強かったので後期密教はタントラ教が性道徳に反するとして唐では受け入れられなかったという説がある[注釈 5]
天台宗の豪潮律師[注釈 6]長崎出島で中国僧から直接、中国密教と「出家戒」や、大系的な戒律である小乘戒・大乘戒・三昧耶戒を授かり、時の光格天皇の師として尊敬を集めるとともに、南海の龍と呼ばれた尾張・大納言齊朝候の庇護を受け、尾張と江戸で「準提法」(准胝観音法)を広めて多くの弟子を養成した。豪潮の残した資料の一つ『準提懺摩法 全』は明代の中国の資料と内容が一致する。この時期、戒律復興運動で有名な人物としては、「如法真言律」を提唱し、生涯において三十数万人の僧俗に灌頂と授戒を行なった霊雲寺浄厳覚彦}と、「正法律」を唱えた慈雲が挙げられる。

密教の宗派[編集]

日本の密教は霊山を神聖視する在来の山岳信仰とも結びつき、修験道など後の「神仏習合」の主体ともなる。熊野で修行中の山伏
日本の伝統的な宗派としては、空海が唐の青龍寺恵果に受法して請来し、真言密教として体系付けた真言宗即身成仏鎮護国家を二大テーゼとしている)と、最澄によって創始され、円仁、円珍、安然らによって完成された日本天台宗の継承する密教が日本密教に分類される。真言宗が密教専修であるのに対し、天台宗は天台・密教・戒律・禅の四宗相承である点が異なっている。真言宗の密教は東密と呼ばれ、日本天台宗の密教は台密とも呼ばれる。東密とは「東寺(教王護国寺)の密教」、台密は「天台宗の密教」の意味である。この体系的に請来されて完成された東密、台密を純密(じゅんみつ)というのに対し、純密以前に断片的に請来され信仰された奈良時代に見る密教を雑密(ぞうみつ)という。
日本の密教は、空海、最澄以前から存在した霊山を神聖視する在来の山岳信仰とも結びつき、修験道など後の「神仏習合」の主体ともなった。各地の寺院権現に伝わる山岳曼荼羅には両方の要素や浄土信仰の影響が認められる。

「密教」のその他の用法[編集]

密教という言葉を「秘密宗教」として広義に捉え、神秘的な宗教の総称として用いる場合もある[33]。たとえば、ユダヤ人の神智学的伝統であるカバラユダヤの密教と表現する場合がある(秘教も参照のこと)。秘密の儀礼(密儀)を旨とする古代地中海地域の諸宗教(オルフェウス教ミトラス教など)の総称としては、一般に「密儀宗教英語版」(みつぎしゅうきょう)が用いられる[注釈 7]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 空海が詩文集『性霊集』で「それ曼荼羅の深法、諸仏の秘印は、談説に時あり、流伝は機にとどまる。恵果大師が、伝授の方法を説きたまえり。末葉に、伝うる者敢えて三昧耶戒に違反してはならないと。与奪は我(空海)が意志に非ず、密教の教えを得るか否かはきみの情(こころ)にかかれり。ただ、手を握りて印を結んで、誓いを立てて契約し、口に伝えて、心に授けるのみ。」と述べているように。
  2. ^ 意味は「瓶から瓶へ水を漏らさず移しかえたようだ」となる。
  3. ^ 大日如来を中心とした五仏(五智如来)。
  4. ^ 密教という潮流にあっても、当時のインド仏教界では伝統的な部派仏教のひとつである正量部の勢力が強かったという見解もある。
  5. ^ たとえば、『密教とマンダラ』(NHKライブラリー), 頼富本宏, 2003年4月, ISBN 978-4140841617
  6. ^ 戒律復興に勤めたために、密教の「阿闍梨」としてより、戒律を授ける「律師」の名で呼ばれる。出身地の九州では、北島雪山(1636-1697)や秋山玉山(1702-1764)と共に「肥後三筆」に数えられ、数多くの書の作品を残している。
  7. ^ たとえば『図説古代密儀宗教』(ジョスリン・ゴドウィン、吉村正和訳 平凡社 1995年)。

出典[編集]

  1. ^ 中村元三枝充悳 『バウッダ』 小学館〈小学館ライブラリー〉、1996年 p.394
  2. ^ 『岩波 仏教辞典 第二版』 p.964
  3. ^ 天台寺門宗のHP解説
  4. ^ 「こんごうじょう【金剛乗】」- 大辞林 第三版、三省堂。
  5. ^ 宮坂宥勝監修 『空海コレクション 1』 筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、p.412
  6. ^ 中村元、三枝充悳 『バウッダ 佛教』 小学館〈小学館ライブラリー〉、1996年、395頁。
  7. ^ 立川武蔵 『聖なるもの 俗なるもの』 講談社〈講談社選書メチエ〉、pp.175-176
  8. ^ 金剛 - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。
  9. ^ 菩提樹 金剛座 ※アビダルマは「毘曇部」 - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。
  10. ^ 『岩波 仏教辞典』 第1刷 (岩波書店)「宝座(724頁)」。
  11. ^ 金剛乗 - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。
  12. ^ 中村元ほか編 『岩波 仏教辞典 第二版』 岩波書店、2002年10月、p.351の「金剛乗」の項目。
  13. ^ 爾時婆伽婆。在舎衛国祇樹給孤独園。時有六群比丘尼。誦種種雑呪術。或支節呪、或刹利呪、鬼呪、吉凶呪、或習転鹿輪卜、或習解知音声。(…)若比丘尼誦習世俗呪術者波逸提。(…)世俗呪術者、支節乃至解知音声也。比丘尼誦習世俗呪術乃至音声、若口受若執文誦、説而了了波逸提、不了了突吉羅、比丘突吉羅、式叉摩那沙弥沙弥尼突吉羅、是謂為犯。不犯者、若誦治腹内虫病呪、若誦治宿食不消呪、若学書若誦世俗降伏外道呪、若誦治毒呪以護身故無犯。「もし比丘・(比丘)尼が世俗の呪術を習い誦すならば、波逸提罪である。世俗の呪術とは、支節呪、刹利呪、鬼呪、吉凶呪、転鹿輪卜呪、解知音声(など)を言う。比丘・(比丘)尼にして、(これらの)世俗の呪術や、乃至は音声を習って、もし口にし、(それらの教えを)受け、もし、文執して誦えるならば、説き終われば波羅提罪となり、説き終わらなければ突吉羅罪となる。比丘が突吉羅(の罪に当るもの)は、式叉摩那や沙弥・沙弥尼は(同じく)突吉羅罪となり、(所)謂(いわゆる)是(これら)を(罪を)犯すと為す。(…)(戒律を)犯すことが無いものとは(以下の場合を言う)。もし、腹の中の虫の病(を鎮める)呪(を唱える者)。もし、宿食(食べたもの)が不消(化の場合に消化する)呪(を唱える者)。もし、書を学ぶ(暗記するための呪を唱える者)。もし、世俗(において)外道を降伏(ごうぶく:調伏する)呪を誦える(者)。もし、毒を治(癒する)呪(を唱える者)。これらは、(すべて)護身のためであるゆえに、(戒律を)犯すことは無い。」(『四分律』・巻二十七)
  14. ^ 爾時有迦羅比丘尼、先是外道、棄捨経律阿毘曇、誦読種種呪術。是中有比丘尼、少欲知足行頭陀。聞是事心不喜。種種因縁呵責。云何名比丘尼。棄捨経律阿毘曇。誦読種種呪術。種種因縁呵已向仏広説。仏以是事集二部僧。知而故問迦羅比丘尼、汝 実作是事不。答言、実作世尊。仏以種種因縁呵責(…)種種因縁訶已語諸比丘、(…)若比丘尼読誦種種呪術波逸提。波逸提者、焼煮覆障。若不悔過能障礙道、是中犯者。若比丘尼読誦種種呪術、若是偈説、偈偈波逸提。若是章説、章章波逸提。若別句説、句句波逸提。不犯者、若読誦治歯呪・腹痛呪・治毒呪、若為守護安隠不犯。「その時、迦羅(カーラ)比丘尼という(名前の者が)有り。是(この比丘尼は)、先(以前)に外道であり、(仏教の出家であるにも関わらず)経・律・アビダルマを捨てて、種々の呪術を読み誦えていた。また、比丘尼の中に少欲知足であり頭陀行を行じている比丘尼がいた。(彼女は)この事を聞いて心喜ばず、種々の因縁をもって、(迦羅比丘尼を)呵責した。ここで云う(ところの)以前には外道であり、経・律・アビダルマを捨てて、種々の呪術を誦読する比丘尼は、種々の因縁について呵責され終わると、仏(の住する処)に向かい、詳細に(事情を)説明した。仏はこのことを以って(比丘と比丘尼からなる)二部のサンガを集めて、(ことの次第を)知った(上で)迦羅比丘尼に(皆の前で再び)問われた。汝(なんじ)は本当にこのような事を為したか、為さなかったか、と。(迦羅比丘尼は)答えて言った、世尊よ(私は)本当に(このようなことを)為しました、と。仏は種々の因縁をもって(迦羅比丘尼を)呵責した。(…)(仏は)種々の因縁をもって叱った。(そして)諸々の比丘に語った。(…)(それゆえに)もし、比丘(・比丘)尼が種々の呪術を読み誦えるならば、波逸提罪である。波逸提(罪)とは、(比丘や比丘尼の身を)焼き、煮る(がごとき苦しみを伴い)、(仏道修行においてその身を)覆う障害となる。もし、懺悔することなく、障礙の道(を歩むものは)、是(これ)を(比丘・比丘尼の)中にあって(罪を)犯す者とする。もし、(比丘・)比丘尼にして種々の呪術を読み祷えるならば、是(これ)偈を説える場合は偈波逸提罪とし、是(これ文)章を説える場合は(文)章波逸提罪とし、別に句を説える場合は句波逸提罪とする。(…)(戒律を)犯すことが無い(者)とは(以下の場合を言う)。もし、歯(を)治(療する)呪(を唱える者)。腹痛(を鎮める)呪(を唱える者)。毒(を)治(癒する)呪(を唱える者)。もしくは、(その身を)守護し、安隠(を得る)ために(呪を)誦読するならば、(戒律を)犯すことは無い。」(『十誦律』・巻四十六)
  15. ^ 大乗経典『梵網経』について:女犯とその原因となる全ての行為を禁止する戒については、『梵網菩薩戒経』(四季社)、pp25-27と、『梵網経』(大蔵出版)、pp88-89。酒の売買の原因となる全ての行為を禁止する戒については、『梵網菩薩戒経』(四季社)、pp30-31と、『梵網経』(大蔵出版)、pp99-100。殺生とその原因となる全ての行為を禁止する戒については、『梵網菩薩戒経』(四季社)、pp21-23と、『梵網経』(大蔵出版)、pp75-76を参照のこと。これらを含む「十重禁戒」に違反すると、大乗戒壇円頓戒)における波羅夷罪となる。
  16. ^ 平川彰 『インド仏教史 下』 春秋社、pp.310-315
  17. ^ 平川彰 『インド仏教史 下』 春秋社、p.316
  18. ^ 『密教の理論と実践 講座密教第1巻』春秋社、1978年、pp.42-43
  19. ^ 慈経 - 日本テーラワーダ仏教協会
  20. ^ 8章 仏教における殺しと救い
  21. ^ 平川彰 『インド仏教史 下』 春秋社、p.317
  22. ^ 佐藤 任 『密教の秘密の扉を開く―アーユルヴェーダの秘鍵』 ISBN 978-4915497254
  23. ^ 松長有慶 編著 『インド後期密教(上)』、pp.166-169。
  24. ^ 津田真一 「タントリズム瞥見」(『反密教学』所収)
  25. ^ 田中公明 『性と死の密教』 春秋社 pp.59-60
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  28. ^ 学研 『実践 四大功法のすべて』 理論編 p106
  29. a b 『密教の理論と実践 講座密教第1巻』 春秋社、1978年、p.62
  30. ^ 立川武蔵 『密教の思想』 吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、1998年、pp.183
  31. ^ 立川武蔵・頼富本宏編 『シリーズ密教第3巻 中国密教』 春秋社 p.196
  32. ^ 田中公明 『図説 チベット密教』 春秋社、p.6
  33. ^ 『岩波 仏教辞典 第二版』 p.964

参考文献[編集]

  • 『曼荼羅の研究』全2巻、石田尚豊著、東京美術刊、昭和50年〔1975年〕。
  • 『中国密教史』全3巻、呂建福著、空庭書苑有限公司刊。
  • 西蔵仏教宗義研究 第3巻「トゥカン『一切宗義』ニンマ派の章」、平松敏雄著、東洋文庫刊。
  • 『古密教 日本密教の胎動』(特別展 図録)、奈良国立博物館編・刊、2005年。
  • 『寛平法皇御作次第集成』、武内孝善著、東方出版刊、1997年。
  • 『唐大和上東征伝』、堀池春峰解説、東大寺刊、昭和39年〔1964年〕。
  • 『現代語訳一切経2: 智者大師別伝・不空三蔵行状・唐大和上東征伝』、福原隆善頼富本宏・冨佐宣長訳、大東出版社刊、1997年。
  • 『弘法大師空海と唐代密教』、静慈圓編、法蔵館刊、2005年。
  • 『インド後期密教(上)』、松長有慶 編著、春秋社刊、2005年。
  • 『曹洞宗日課諸経全集』、大八木興文堂刊、昭和48年再版〔1973年〕。
  • 『初心の修行者の戒律-訳註「教誡律儀」-』(中川善教師校訂「教誡新学比丘行護律儀」)、浅井證善著、高野山出版社刊、平成22年〔2010年〕。
  • 「郷土文化叢書4 『豪潮律師の研究』」、宇野廉太郎 著、日本談義社、昭和28年(1953年)刊。
  • 『豪潮律師遺墨集-永逝150年遠忌出版』(限定版)、石田豪澄著、日貿出版社刊、昭和57年〔1982年〕。
  • 『真言密教霊雲寺派関係文献解題』、三好龍肝編著、国書刊行会刊、昭和51年〔1976年〕。
  • 『普通真言蔵』(全2冊)、淨厳原著、稲谷祐宣編著、東方出版刊、昭和61年〔1986年〕。
  • 『戒律思想の研究』、佐々木教悟編、平楽寺書店刊、昭和56年(1981年)。
  • 『梵網菩薩戒経』、株式会社 四季社、2002年刊。
  • 『梵網経』、石田瑞麿著、大蔵出版株式会社、新版2002年刊。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]