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■■ Japan On the Globe(288) ■ 国際派日本人養成講座 ■■■■ 人物探訪: 新渡戸稲造 ~ 太平洋の架け橋 武士道と聖書とに立脚して、新渡戸は日米両国の架け橋 たらんと志した。 ■■■■ H15.04.13 ■■ 39,294 Copies ■■ 781,397 Views ■■ ■1.日本だって? そんな国はどこにあるんだ。■ 1884(明治17)年9月、小型汽船でサンフランシスコに着い た稲造は、列車で大陸横断を目指した。ある駅でプラットフォ ームに降りて景色を眺めていると、「ジョン、ジョン」と無遠 慮に呼びかけてくる男がいた。当時のアメリカ人は中国人を見 ると誰でもジョンとかチャイナマンと呼んで、馬鹿にしている ので、稲造は自分が中国人に間違えられているな、と知った。 「わたしはジョンという名ではない」と言うと、「ほう、そ うかい。お前は豚のしっぽのような頭髪をどうしたのだ?」 当時の清国人は頭の周囲を剃り、真ん中の髪だけを長く編んで たらしていた。「僕は日本人だ」と稲造が言うと、「日本だっ て? そんな国はどこにあるんだ。中国の一部か?」 こいつ何も知らないな、と呆れたが、太平洋の架け橋になろ うと決心していた稲造は、祖国の事を一人でも多くのアメリカ 人為知らせたいという気持ちから、冷静に、懇切丁寧に教えて やった。「これから洗濯屋でもするのか?」と聞かれて「大学 で経済学を勉強するのだ」と答えると、その男はひどく驚いて、 列車の中から3,4人のアメリカ人乗客を連れ出して言った。 この少年は日本という国から来た人で、決して洗濯屋な どする人じゃない。大学で、経済学とかいうむつかしい学 問をするそうだ。日本は中国の一部じゃなくて、中国の東 にある独立国なんだとさ。 新渡戸稲造、23歳にして初めてアメリカに上陸した時のこ とであった。(この頃は、まだ養子入りした叔父の太田姓を名 乗っていた。) ■2.武士道と聖書と■ 新渡戸は明治維新の6年前、文久(1862)年に盛岡の武家に生 まれた。5歳の時の「袴着の儀」を、後年、英文の著書「思い 出」の中で次のように書いている。 私が5歳に達したときに士になる儀式が行われた。初め て袴をつけ、初めて刀を帯び盛装して、集まった親戚一同 の居並ぶ真中にしつらえた碁盤の上に私はのせられ、刃の ぴかぴか光る短刀を帯にさしてもらったとき、全身をしゅ ーんとしたものが貫くように感じ、自分がえらく重要な者 になった感じがした、、、 後に世界的なベストセラーとなった「武士道」の中で「危険 な武器をもつことは、一面、彼に自尊心や責任感をいだかせ る」と書いているのは、この時の思い出もあったであろう。 新渡戸の家は盛岡藩で新田開拓や水路建設に貢献してきた。 明治9(1876)年初夏、明治天皇が東北・北海道方面ご巡幸の途 次、新渡戸家に立ち寄られ、開拓に貢献してきた祖父・伝(つ とう)、父・十次郎の功績を賞され、今後家族の者、子孫も父 祖の志をつぎ農事に励むように、とのお言葉と金一封を賜った。 当時、稲造は東京外語学校で勉強中であったが、このお言葉に 感激した。 こうして私は、開墾事業は我が家の伝統であり、我が国 民のため、さらに重要なことは陛下のため、この方面に少 しでも寄与することが、私の責任であると考えるようにな った。 御下賜金は一家の全員に分配され、稲造は記念のためにかね てから欲していた英文の聖書を買った。金縁革表紙の立派な本 であった。武士道と聖書と、東西文化の架け橋たらんとの志は この頃から芽生えていた。 ■3.武士の子として■ 稲造はボルチモアのジョンズ・ホプキンス大学で、経済学、 農政学、農業経済などを学び始めた。養父が苦しい家計をやり くりして送金してくれるが、それが一時途絶えた事があった。 稲造はたちまち窮迫して、一日に一回しか食事ができず、あと はパンと水でしのがねばならなかった。アメリカ人の学友が見 かねて援助を申し入れたが、稲造はきっぱりと断った。武士の 子として、施しを受けることを潔しとしなかったのである。 この頃、アメリカ人にとって未知の国である日本の話を聞き たいという講演依頼がぽつぽつと来るようになった。最初の講 演の前、司会者が紹介の言葉を述べている間に、動悸は激しく なり、膝頭は震えた。このまま逃げ出したいとさえ思ったが、 武士としてあるまじき事である。「えいっ」と内心で自分自身 に気合いを入れた。「こうなったら、上手にやろうなどと小賢 しい事を考えず、思ったままをぶちまけてやろう!」と覚悟を 決めた。 このような経験を何度かするうちに、数百人の聴衆を前にし ても原稿なしですらすら話せるようになり、またニューヨーク やフィラデルフィアなどからも講演を依頼されるようになった。 同時に講演料で生計のゆとりも得られるようになった。 ■4.メリーとの出会い■ ボルチモアで稲造はキリスト教の一派、クエーカーに出会っ た。集会でも静寂のうちに、自らの「内なる光」を見つめよう とする姿勢に、身体が震えるような感動を覚えた。その誠実、 簡素、純一さは、稲造が幼少時から叩き込まれていた武士道の 精神と共鳴しあうものがあった。 クエーカーの集まりで、稲造はメリー・パターソン・エルキ ントンというフィラデルフィアの名門の令嬢と出会い、お互い に惹かれ合うようになった。稲造はジョン・ホプキンス大学で 3年学んだ後、さらにドイツに3年留学して、博士号を得る。 その間、メリーと文通を続け、アメリカ経由で帰国する際にフ ィラデルフィアに立ち寄ってメリーとの結婚式をあげた。双方 の家は国際結婚に大反対であったが、二人の信仰で結ばれた決 意は固く、家族も認めざるをえなかった。 日清戦争前の日本は、アメリカ人にとっていまだ極東の未開 の一小国であり、そんな国の一青年とフィラデルフィアの名門 エルキントン家の令嬢が結婚したというニュースは全米で一大 センセーションを巻き起こした。こうして明治24(1891)年2 月9日、稲造はメリーを伴って、帰国した。6年半ぶりの祖国 であった。 ■5.日本の学校には宗教教育がないとは!■ 日本に戻った稲造は、札幌の農学校教授に就任、農業経済学 を教える傍ら、北海道庁の技師を兼任して、開拓の指導にあた った。さらにはメリーが縁者の遺産を受け取ると、それを元手 に貧困家庭の子供たちを教える夜学校を設立した。 しかし、こうした大車輪の活躍のうちに過労がこうじてノイ ローゼとなり、医者とメリーの勧めに従って、南カリフォルニ アで療養生活を送ることとした。温暖で湿気の少ない気候に、 稲造の病み衰えた心身は徐々に回復していった。 そうしたある日、稲造はふとドイツ留学中、ベルギーに出向 してラヴェレー教授と言葉を交わした時のことを思い出した。 「日本の学校には宗教教育がないとは! それでどのようにし て子孫に道徳教育を授けることができるのですか」と教授は驚 いた顔で聞いてきた。その時は答えることはできなかったが、 以来、この問いは稲造の念頭を離れることはなかった。稲造は それに答えようと、療養中の時間を使って書き上げたのが英文 の「武士道」であった。 ■6.世界中で読まれた「武士道」■ 「武士道」は明治33(1900)年11月にフィラデルフィアで出 版された。「武士道とは何か」「武士道の源を探る」「義-武 士道の光り輝く最高の支柱」と始まり、「義」「仁」「礼」 「誠」「名誉」などの徳目を西洋の事績も豊富に引用しながら、 武士道こそ日本人の道徳の形成したものである事を述べた。た とえば、「仁」の章ではこんな一節がある。 フリードリッヒ大王が「朕は国家の第一の召使いであ る」と書いたとき、法律学者たちは、自由の発達が新しい 時代に到達したのだ、と正しくも信じた。 あたかも時を同じくして日本の東北の山間部にある米沢 では、上杉鷹山はまさに同一の宣言をしていたのだ。「国 家人民の立てたる君にして、君のために立てたる国家人民 にはこれ無く候。」[2,a] おりしも明治37、38(1904,5)年の日露戦争で大国ロシア を破った原動力として日本人の国家への忠節と勇武の精神に世 界の関心が集まっており、それを外国人にも分かりやすく説い た本として「武士道」はドイツ語、フランス語、ポーランド語、 ノルウェー語、ハンガリー語、ロシア語、中国語に訳され、世 界中で広く読まれた。 米国大統領セオドア・ルーズベルトは「武士道」を読んで感 銘を受け、60冊も買い求めて子供や友人に送り、さらにアナ ポリス海軍兵学校、ウェストポイント陸軍士官学校の生徒たち にも読むように勧めた。英文の名著「武士道」によって、稲造 は「太平洋の架け橋たらん」とした若き日の志を果たしたので ある。 ■7.「ミカドの使わされた平和の大使」■ カリフォルニアにおける2年間の療養生活で心身の健康を回 復した稲造は、台湾総督・児玉源太郎、民政長官・後藤新平の 熱心な要請に従って、台湾の農業開発に打ち込む。稲造の進め た品種改良や機械化によって、台湾のサトウキビ生産は飛躍的 発展を遂げ、砂糖の世界五大産地の一つにまでなった。[b] 台湾における農業開発が軌道に乗ると、後藤新平はこれほど の人物をいつまでも役所仕事につなぎとめておくべきではない と考え、京都大学教授に推した。さらにその後、文部大臣の要 請により第一高等学校校長に就任、学生たちと親身に交わりな がら人格陶冶に尽くした。 明治44(1911)年、第一回の日米交換教授として3度目の渡 米。時あたかもカリフォルニアの日系移民排斥が日米摩擦を激 化させていた。これはアメリカ側の日本に関する無知に原因が あると見た稲造は、米国民を啓蒙することが自らの使命である と考えた。カリフォルニアのスタンフォード大学を皮切りに、 東部のコロンビア大学、母校ジョンズ・ホプキンス大学、中西 部のイリノイ大学など、全米の大学において166回もの講演 を行った。 またタフト大統領と会談し、バートン上院議員と昵懇になっ て議会での排日法提出を未然に防いだ。ある新聞は稲造を「ミ カドの使わされた平和の大使」と賞賛した。 ■8.国際連盟の事務局次長となる■ 大正8(1919)年、パリで第一次世界大戦の講和条約が調印さ れ、国際連盟が誕生した。西園寺公望公爵を中心とする日本の 全権団は、国際連盟の規約に人種平等条項を入れる事を提案し、 過半数の支持を集めたが、議長を努めたウィルソン米国大統領 の策略で否決された。[c] しかし、戦勝国中の有力国日本から国際連盟の事務局次長を 出すことになり、ちょうどパリに旅行で立ち寄った稲造に白羽 の矢がたった。国際社会の尊敬を集め、日本文化についても造 詣の深い新渡戸稲造こそ、連盟事務局次長という重職にふさわ しい人間はいなかった。 事務総長はイギリスのドラモンド卿であったが、ヨーロッパ 各国への国際連盟精神普及のための講演は、7、8割を稲造が 担当した。この点についてドラモンド卿は「ただ演説が上手で あるばかりでなく、聴講者に深い感動を与える点において、わ が連盟事務局中、彼に及ぶ者はいない」と述べていた。また中 国人やインド人からは「新渡戸先生は、ひとり日本の誇りを高 めたのみならず、われわれ東洋人の地位を高めてくれた」と感 謝されていた。 事務局次長として、稲造は国際間の学術文化交流を目的とし て国際知的協力委員会を創設し、さらに幹事長として活躍した。 この委員会には、アインシュタインやキューリー夫人、フラン スの哲学者ベルグソン、文学者ポール・バレリーなど世界的に 著名な文化人が顔を揃えた。この委員会は今日のユネスコ(国 際連合教育科学文化機構)の前身となった。稲造は特にベルグ ソンと親交を結び、議論を交わした。 ■9.国を思ひ世を憂ふればこそ■ 国際連盟事務次長としての7年間の重責を果たした後、稲造 は険悪化する日米関係を好転させようと必死の努力を続ける。 当時、アメリカでの排日移民法成立、日本側の満洲事変に対し て、双方の非難は激しさを加える一方であった。 昭和7年4月から稲造は71歳の老躯を駆って1年間アメリ カに滞在し、カリフォルニアでは排日派政治家と精力的に会談 して、排日移民法の撤回を要求してやまなかった。フーバー大 統領との会見では、両国の忍耐による協力と平和維持を説いた。 さらにスチムソン国務長官と全米に向かってラジオ放送を行い、 満洲事変に関して日本の立場を堂々と主張した。各地での講演 も百回を超えた。 翌年3月に帰朝すると、日米関係を深く懸念されている昭和 天皇は稲造をお召しになり、1時間あまりにわたって説明を聴 かれ、その労を深くねぎらわれた。この時の感銘を後の講演で、 稲造はこう語っている。 日本人は日本の国のために、自分の持てる才能を生かし て、国のため、世界のために尽くすことがすなわち陛下に 忠誠を尽くすことであり、国民としての義務をはたすこと である。 5ヶ月後の8月、休む間もなく、稲造はバンクーバーでの太 平洋会議に参加するために出発。しかし9月13日、バンクー バー近郊の美しい港町ビクトリアにて激しい腹痛に襲われて入 院、そのまま10月15日に帰らぬ人となった。享年72歳。 国を思ひ世を憂ふればこそ何事も忍ぶ心は神ぞ知るらん 晩年に詠んだ歌である。太平洋の架け橋として一生を捧げた 古武士の生涯であった。 (文責:伊勢雅臣) ■リンク■ a. JOG(130) 上杉鷹山 ~ケネディ大統領が尊敬した政治家~ 自助、互助、扶助の「三助」の方針が、物質的にも精神的にも 美しく豊かな共同体を作り出した。 b. JOG(145) 台湾の「育ての親」、後藤新平 医学者・後藤新平は「生物学の法則」によって台湾の健全な 成長を図った。 c. JOG(053) 人種平等への戦い 虐待をこうむっている有色人種のなかでただ一国だけが発言に 耳を傾けさせるに十分な実力を持っている。すなわち日本である。 ■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け) 1. 井口朝生、「新渡戸稲造」★★、成美堂出版、H8 2. 新渡戸稲造、「武士道」★★、三笠書房・知的生き方文庫、H5 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ■「新渡戸稲造~太平洋の架け橋」について 突撃屋さんより 私も今アメリカに留学中の身なのですが、今回の新渡戸稲造 の話を読んで、大変感銘を受けました。留学してまだ1年も経 っていませんが、未だこの国の人は日本を知らない人が多いよ うに感ぜられます。もちろん、明治の頃よりは全然知られてま すが、日本がアメリカを知っているほど、アメリカは日本を知 らないような気がいたします。 いや、それ以前に日本人ですら、日本を知らないのかもしれ ませんが。「明治期に留学した日本の偉人達の気持ちで留学し よう」未熟ながらそう思って留学しました。新渡戸稲造ほど大 きくはなれなくとも、少しでも日本という国を世界に伝える事 ができれば、本望です。 お話の中にあったのと同じように、実は今日から独りで大陸 をバスで横断します。出発の前にこの話が聞けたのは何かの縁 のようにも思えました。この話をバスの中で思い出しながら旅 したいと思います。ありがとうございました。 ■ 編集長・伊勢雅臣より 海外にいる日本人は、一人一人が外交官です。その気概をも って、広大なアメリカ大陸を体験してください。
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