2016年10月19日
朝鮮通信使は鶏泥棒(1/3)
《1》
江戸時代にさかんに行なわれた朝鮮通信使。正式名称は朝鮮聘礼使。
はじまりは室町時代だったそうだが、それは明日述べるとして、この習慣は秀吉の文禄・慶長の役でいったんは途絶えたものだった。
それが江戸時代になって再開した。今のサヨク同様バカな男が徳川政権にもいたようで、その主旨は「招待旅行」だったそうだ。
これは最近読んだ、高山正之氏と宮崎正弘氏の対談本『日本に外交はなかった』(自由社刊)で教えられたものだ。
徳川方は、秀吉が朝鮮征伐でずいぶん荒らしたから、ご招待するので友好親善と貿易を再開しましょうとアチラ側に働きかけた。
今の日韓議連みたいなバカな奴がいたもんだが、徳川政権は勝手に朝鮮に負い目を感じて、ご招待に及んだと高山氏は解説する。
朝鮮人は、たぶん今と同様に、日本が懇願するなら行ってやろう、だったかもしれない。でも今や韓国では漢字を学校で教えなくなったから、古文書が誰も読めなくなった。だからいっそう好き勝手な解釈をやらかす。
むろん日本側から朝鮮に訪問はしない。行ったとて、得るものは何もない。朝鮮に観光的にだってなにもなく、文化果つる国に好んで行くバカはさすがに…、鳩山由紀夫のような媚朝はいなかった。
朝鮮通信使は、その馬鹿げた日本の負い目につけ込んで、大観光団を率いてやってきた。
* *
高山:毎度、四〇〇人くらいの規模でやってきては文字通りの大名旅行で江戸に参内した。なにせ貧乏な国だから、途中の宿で出された食器から床の間の陶器から掛け軸から緞子の布団まで洗いざらい持って行った。
京都大学所蔵の朝鮮通信使の道中絵が残っていて、彼らが民家から鶏を盗む、住民が追いかけて朝鮮人たちを懲らしめるさまが描かれている。
思白いことに日本側の住民は格子柄とか紺や黒の衣装なのに、彼らはみな一様に真っ白の着物姿に描かれている。
(中略)
一行は徳川家の新将軍が就任すると、それを口実にやってきてはどんちゃんやって行く。家宣(いえのぶ 6代将軍)の時代、新井白石が何の知的刺激もない、意味なく財政を浪費しているだけと通信使の廃止を献策した。1回に100万両かかった。大変な額だ。それに彼らの道中の盗みもあり、幕府はその弁償もしなくてはならない。
宮崎:だけど福田康夫のように人の嫌がることはしない、外国に良く思われたいと思う浅はかな日本人もいる。このときは老中の土屋正直がいい顔をしようとした。
高山:白石も老中がそう言うのじゃあ仕方ない、ただし接待は質素に、宿屋はいいものは隠せと指示して経費を半分くらいにしたらしい。
* *
京都大学所蔵の絵は「朝鮮聘礼使淀城着来図」で、Wikipedia で見ることができる。
こんなものも、公開すると「ヘイト」と言われかねないが、事実なんだからね。
周知のように、朝鮮は貧しいうえに布を染色する技術がなかった。だから韓流ドラマの時代劇で、宮廷の人間が絢爛たる彩色の服を着ているのは大嘘である。さすがに全員が白い洗いざらしの服ではみっともないと思うのだろうが…、嘘はかえって恥ずかしい。
しかしそんなことより、通信使と称して400人もやってきて、あらゆるものを盗んで帰るとは、低い民度は昔から変わらぬようだ。
朝鮮通信使は、対馬を経由して瀬戸内海に入って広島県の鞆の浦に上陸し、そこから延々と江戸城まで歩いてきた。
ご招待に増長しているから、狼藉をやらかしたのだろう。そもそも日本と朝鮮は対等の関係ではなく、日本から見ればあちらなんぞ属国同然で、むしろ朝貢させてやっていたわけだ。それを奴らはへりくだるどころか、只で飲み食いして蝗が通りすぎたように何もかも盗んでいった。
教科書では、朝鮮通信使が来たときは日本人が大歓迎して、朝鮮人が日本よりも進んだ朝鮮の文化を伝えたとか書いてありそうだが、それはサヨクの研究者のバイアスがかかっているという以上に、捏造である。
徳川家康は、対馬藩に申し付けて国交断絶状態だった朝鮮と交渉に当たらせた。対馬藩は関ヶ原の戦いでは西軍側についたから本来なら領地没収、改易となるはずのところを救われて、栄えある交渉役を任された。
はじめは朝鮮に行って交渉しようとしたら使者は惨殺されている。「いかにも朝鮮らしい」と高山氏は言う。にも関わらず、対馬藩の努力によって1607年(慶長12年)、江戸時代はじめての通信使が派遣されてきて、江戸にて将軍職を継いでいた秀忠に国書を奉呈し、帰途に駿府に隠遁していた家康とも会っている。
程度の低い朝鮮からの使節(別名、たかり屋)ごときが、家康とお目通りできたのも、なにか解せない。もしかして家康は健康長寿を必死で願っていたから、朝鮮通信使が土産に持って来るはずの「朝鮮人参」が欲しかっただけかも知れない。当時の朝鮮人参は、栽培ものではなく天然物だから、かなり薬効が期待できた。今はほとんどが栽培ものだから本当の薬効は期待できない。
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posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(1) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
神戸市の山田町郷土史S50年は、著者がNHK関係のサヨクのせいか、朝鮮通信使が、来ると、その歓待のために、イノシシ肉を献上しなければならなかった。
その口実でイノシシを撃って、自分たちも食べたと、いかにも、通信使さまさまみたいに書かれていました。
なんだかね~
Posted by 神戸だいすき at 2016年10月19日 06:07
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2016年10月20日
朝鮮通信使は鶏泥棒(2/3)
《2》
なにせ当時、江戸幕府は金銀が無尽蔵に採掘できていて、経済上はなんの懸念材料がなく、ぜいたく三昧の日々を送っていた。幕府は各藩に金銀を配って手なずけていた。
参勤交代も、のちに各藩を苦しめるが、初期は大名が徳川のご機嫌取りで金銀をおねだりするために、進んで行ない、妻子も江戸に置いて忠誠を誓ったのである。
幕府が強いたというより、各大名が金銀欲しさにおべんちゃらをやり、それが自縄自縛となって財政破綻に追い込まれていった。
だから江戸幕府は天下をとった驕りもあって、朝鮮通信使のような意味のない招待客にも大盤振る舞いをした。
3代将軍家光は放蕩して実に一代で500万両を使いきって死んだ。4代目家綱は金銀はとれなくなったけれど、それでも600万両を相続できたものの、もう金銀の埋蔵量は枯渇してきていた。もう残された600万両を使い切ったら、終わりという状況だった。カネがあるうちに使い放題使っちゃった富豪息子のようで、稼ぐ手だてがまったくなかった。
幕府自身に領地は天領だけで、徴税権は各藩にあった。収入はわずかな領地の米なのに、国家レベルの歳出は徳川政権が引き受けなければならなかった。
それでも、金銀が無尽蔵に湧いてでているときは良かったが、ストックもなくなれば財政事情が逼迫するのが当たり前。
5代将軍綱吉のころには金銀が枯渇して財政ピンチに陥っていた。なのに、綱吉は派手好きで国庫はまたたく間にカラになっていく。
それに家綱時代に生じた明暦の大火で、江戸の町が灰燼に期し、江戸城も天守閣が焼失した。
このとき江戸の復興費が莫大で、ついに江戸城天守閣の再建が果たせなくなった。
江戸時代最初の経済危機を救ったのは綱吉時代の勘定吟味役だった荻原重秀である。彼は今で言うシニョレッジ(通貨発行益)をやった。端的には貨幣改鋳である。見事にデフレ解消を果たし、国庫は黒字になって、あの元禄文化はために華開いたのである。荻原重秀の後ろ盾だったのが柳沢吉保だった。
今でもサヨク系経済評論家は、シニョレッジを忌み嫌うというか「財政均衡主義」「緊縮路線」といって、財政を立て直すには支出を減らして歳入に見合った歳出を抑えるべきだという一派がいつもいる。
今日の財務省官僚である。現代では税金を上げろと言えるが、先に述べたように徳川幕府には徴税権が全国に及ばず、増税できないのだ。
新井白石は財政健全化を図った男で、柳沢と荻原を追放して実権を握り、歳出を抑える「質素倹約」を旨として緊縮財政路線をとった。重秀によって改鋳された小判を元の品位に戻した。貨幣が減少してたちまちデフレとなり、元禄文化はポシャって、街は火が消えたように不景気になった。
その流れで見ていけば、経済オンチだった新井白石が朝鮮通信使を廃止しようと言い出したわけがわかるだろう。歳出を抑えたかったのだ。
もちろん、何の利益もない鶏泥棒の朝鮮通信使をご招待することはないわけだが、ただ経済効果という意味では、百万両も使って支出が起きれば、経済効果はあった。東海道沿線の宿屋や川の渡しは、お陰で潤ったし、盗まれたものは幕府が弁償してくれるのだから、悪い話ではなかろう。
鶏まで弁償してくれたかどうかは…。
ところで、なぜ徳川幕府が朝鮮通信使をご招待するバカをやったかは高山氏が説いてみせてはいるが、まだほかに考えられることはある。
もしかして家康の出自と関係しているかもしれない。家康は本当は2人いて、賤民出の男が家康を乗っ取ったとの根強い噂があった。2人いた(影武者がいた)と考えなければ、説明がつかないことが多々あるとされる。
本物の家康は大阪冬の陣で戦死したとも言われる。現に小さいが墓が堺市の寺にあるし、のちに秀忠と家光が墓参に来ていることは間違いないのだ。もっと幼少期に乗っ取られたとする説もある。
つまり、家康(偽物)は、部落出すなわち元は朝鮮人だった可能性があるためか、あるいは…。
これは八切止夫が書いていたことだが…。
二代将軍秀忠は、跡継ぎに家光を想定していなかった。それを春日の局と天海僧正が工作して、家光を三代将軍に仕立てた、その功績で彼女は大奥で権勢をふるう。
家光の乳母になった春日の局はもとは「お福」と言った。お福は明智光秀の姪にあたり、家康に側室として進呈したと言われるが、当時のこととてまったく当てにならない。
八切止夫に言わせると、お福は朝鮮人で大阪あたりで浮浪者をやっていたのが、美人だと見初められて戦国武将の愛人にされ、転々したのち、やがて大出世して明智の姪ということにして、徳川家康に献上されたのだという。
だから、朝鮮人であった春日の局によって、徳川家は乗っ取られたのだと言う説を書いていた。
だとすれば、春日の局にしてみれば、同胞を朝鮮から呼んで、自分が天下をとったことを自慢してみせたかったと、考えられないことはない。
どうも高山氏が説くような、「秀吉のときに悪いことをいたしまして、すみませんでした」などという理由で、朝鮮通信使を豪華招待するなどとは思えない。そんなきれいごとがあろうか?
なにか裏があるのではないか。
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posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
朝鮮通信使は朝貢に来ていたようです、そのため迎恩の扱いで、江戸城も正門からは入れなかったとか、朝貢に来ていたのに、朝鮮は嘘つきで日本に招かれたとは、彼らは自分達の嘘でまた滅びるでしょう、中共とロシヤと米国のコウモリ外交では、すべての国から見棄てられます、朝鮮半島はその内、三ヵ国の共同統治になるでしょう。
Posted by 政界ウォッチャー三十年 at 2016年10月20日 06:09
政界ウォッチャー三十年様
コメントありがとうございます。
私の調べたところでは、日本側が招待していたようです。
なにしろ、家康が天下をとったころは、金銀があふれていて、使い途にこまるほどだったから、朝鮮からご一行を招待しようとなってのではないでしょうか。
しかし、だんだん金銀はなくなるし、奴らを接待する意味はないし、で、歳出削減になっていったのでしょう。
Posted by 政界ウォッチャー三十年 様へ(ブログ筆者です) at 2016年10月20日 11:29
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