「神を愛し、人を愛し、土を愛す-今に生きるデンマルク国の話-」 |
小山 哲司
内村鑑三
- 本日の私の話のタイトルは、去る8月に開かれた三愛講座の主題である三つの愛、即ち、「神を愛し、人を愛し、土を愛す」をお借りしました。8月には三愛精神に沿った学びを致しましたが、三愛精神自体については余り触れられませんでしたので、一年の締めくくりでもあるクリスマスの時期に三愛精神の歴史を辿り、三愛精神の過去、現在、そして未来を展望してみたいと思います。副題を「今に生きるデンマルク国の話」としましたが、これは日本における三愛精神は内村鑑三の「デンマルク国の話」を出発点としており、しかも、今から90年近くも前に語られた「デンマルク国の話」は、今に生き、そして、未来に命を保つ話であると考えるからです。
この「デンマルク国の話」は、明治44年(1911年)1月22日に柏木の今井館で行われた講演をまとめたものであり、「信仰と樹木とをもって国を救いし話」というサブタイトルが付けられております。その粗筋は、ドイツ、オーストリアとの戦争に敗れてシュレスウィヒとホルスタインの2州を奪われたデンマークの復興を願う工兵士官ダルガスが、デンマークの領土の半分以上を占めるユトランドに植林を行って沃土となし、外に失った国土を内に求めようとする苦心を描いたもの。ダルガスの苦心の結果、ユトランドの荒野には樅の木が繁り、木材が収穫できるようになったばかりか、気候自体が大きく変化して、良き田園となったのです。
1911年に内村が今井館で行った「デンマルク国の話」は、その年の「聖書之研究」第136号に掲載され、内村は、それ以後も1924年に「木を植えよ」を「国民新聞」に発表し、さらに、「西洋の模範国 デンマルクに就て」を同新聞に発表するなど、デンマークに対する高い評価と強い関心を示していきます。やがて「デンマルク国の話」は小中学校の教科書にも掲載され、広く読まれるようになって参りますが、国民一般に広く読まれるようになったという点で、内村の著作としては「後世への最大遺物」と並んで双璧であったと思われます。
こうした内村の影響力と当時のトルストイの流行とによって、「理想の農業国 デンマーク」ブームが起きて参ります。
ところで、内村の札幌農学校時代の友人に渡瀬寅次郎(1859~1926)という人物がおりました。渡瀬寅次郎は静岡県沼津市の出身で、内村よりも1年早く第一回生として札幌農学校に入学し、クラーク博士の薫陶を受けてキリスト教を信じる様になります。卒業後は、まず北海道開拓史として官界に入り、次いで教育界に身を転じ、明治19年(1886年)には旧制水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)の校長として水戸に赴任しております。明治21年(1888年)には茨城県立師範学校の校長に転じ、明治22年(1889年)にその職を辞した後は、活動の場を実業界に転じて「東京興農園」という種苗の販売会社を設立します。東京を中心にしながら札幌や信州上田に農園を作り、また、静岡県の沼津に柑橘園を作ります。やがて、千葉県、埼玉県、山梨県などの各地に採種場を設けていきますので、農業分野の実業家としては成功した人物であったといえるでしょう。
大正15年(1926年)に渡瀬が亡くなったとき、内村鑑三は札幌時代の旧友を代表して次のような追悼の言葉を述べております。
「グルントウィツヒの如く」
我等の旧き友の一人なる渡瀬寅次郎君は永き眠につかれました。悲しみに堪へません。
(中 略)
渡瀬君の霊魂は天にまします神の懐に帰りました。しかしながら君のこの世における事業はまだ完成されません。神を信ずる者の事業は自分のための事業ではありません。国のため、人類のため、神のための事業であります。そして君はよくこのことを解してゐられたと承つてをります。丁抹(デンマーク)流の、基督教の基礎に立てる農学校を起こしたいとは、君の年来の志望であつたと承ります。もし君がなほ十年生存せられたならば、この理想が君の直接の監督の下に実現したらうと思ひます。しかしながら、このことなくして逝かれしは、残念至極であります。しかし、この尊ぶべき理想は実現を見ずして已むべきではありません。その実行の責任は今や御遺族とわれら友人の上に落ちているのであります。
日本はたしかにかかる農学校を必要とします。基督教を基礎とするものでありますから、これを日本政府の設立に待つことは出来ません。これは渡瀬君の如き人物を待って初めて実現さるゝものであります。もし丁抹の農聖グルントウイツヒの精神がわれらの旧友渡瀬寅次郎君の名によって、わが日本に実現するにいたりますならば、君は天上の祝福を得しと同時に、地上の栄光を得らるゝものであると思ひます。私は旧札幌農学校の同士を代表し、こゝに渡瀬寅次郎君の名をグルントウイツヒの名が丁抹に残る如く、わが日本に残したいとの希望を述べます。これ亡き君に対し、君の遺族と友人とが尽くすべき最大の義務であると信じます。
(内村鑑三全集第30巻(岩波書店 1982年 P183~185)
この追悼の言葉で触れたように、渡瀬寅次郎はデンマーク流の、基督教の基礎に立った農学校を作ることを望んでおりました。渡瀬がデンマーク流の農学校を建設することを思い立った経緯については、当時、デンマークから帰国した直後のデンマーク研究家平林広人(1886~1986)が、「デンマルク」(文化書房 昭和3年発行)の中で次のように述べています。
山形縣自治講習所長として十年の貴い経験を有し、再度丁抹に遊び欧州各地の農村教育を視察された、吾人の先輩加藤完治氏は、石黒忠篤氏、山崎延吉氏、井上準之助氏、及び小平權一氏その他の知己、同情者によりて組織された日本国民高等学校協會によりて茨城縣支部に我國最初の高等學校を創立し、昭和二年の春既に開校しておられることは周知のことである。
然るに大正十五年四月丁抹訪日飛行機の歓迎準備講演として、著者(平林)の東京放送局に於てせる「丁抹の文化について」と題せる放送を、病床に在って聴取し共鳴せられたる故渡瀬寅次郎氏の遺志によって更に一つの国民高等學校が生まれることになつてゐる。(「デンマルク」121~2P)
これによれば、平林の講演をラジオで聞いた渡瀬が感銘を受け、デンマーク流の農学校建設を思い立ったということになります。また、平林の伝記「祖父 平林広人」(私家版 岩淵文人著 P113)によれば、銀座教会の今井三郎牧師によって内村を紹介された平林が、デンマーク流の国民高等学校が日本にも欲しいと語ったところ、内村は賛成したばかりか、積極的な援助を約束して、平林を渡瀬に紹介したとされています。多分、渡瀬は平林に直接会った上で、放送も聞いたのでしょう。なぜデンマークかという点では、内村鑑三が「デンマルク国の話」で火をつけた、当時のデンマークブームがあったことは言うまでもありません。
こうして、「デンマルク国の話」から15年経った大正時代の末に、内村はデンマークへの関心を深め、渡瀬の遺志を受けてデンマーク流の農学校建設に乗り出して行きます。
ところで、内村は渡瀬寅次郎の追悼の言葉を「グルントウィツヒの如く」と題し、「渡瀬寅次郎君の名をグルントウイツヒの名が丁抹に残る如く、わが日本に残したい」と述べました。このグルントウイツヒがどの様な人物であり、彼が建設したとされる国民高等学校はどのような学校であったのでしょうか?このことについて、簡単に紹介しておきたいと思います。
内村がグルントウイツヒと表記した人物は、ニコライ・F・S・グルントヴィ(Nikolaj Frederik Severin Grundtvig 1783-1872)のことです。グルントヴィは、牧師の家庭に生まれ、父の跡を継いで牧師になりますが、当時のデンマークの儀礼化したキリスト教会を批判し、「主の言葉はなぜその家(教会)から消えうせてしまったか」という説教集を出版して教会勢力からの非難を浴びます。教会との論争の中で、彼のキリスト教理解は次第に変貌を遂げ、やがては、キリスト教の真理、キリストの言葉は、教会に集う無学だが敬虔な信徒の間によみがえるという理解に至り、これに共感した農民たちが、デンマーク国教会の改革運動に乗り出していきます。
グルントヴィは、こうした農民たちの台頭を楽観的に見ることが出来ませんでした。農民たちの実力が高まったとしても、彼等の声が国政に反映され、農民とそれ以外の人々(ブルジョアジーなど)との平等が達成されることが必要であり、それが出来なければ、民主主義は一転して衆愚政治になってしまう。そして、衆愚政治とさせないためには、国民の多数を占める民衆(農民)が高いレベルの学問を身に付けなければならないと考えたのです。
グルントヴィは、自分の理想とする学校の姿を本にまとめ「生のための学校」として世に出します。それによれば、グルントヴィはイギリス留学中にケンブリッジで経験したカレッジをモデルとした学校を考えていたようです。教師と学生が寝食を共にし、親密に生きた言葉によって語り合う中で、それぞれの生が生き生きとしたものとなり、生への期待を喚起することになるからです。
ここで、「生きた言葉」で語り合うと申しましたが、グルントヴィの念頭には、死んだ言葉、死んだ学問の代表としてラテン語学校がありました。グルントヴィ自身は、こうした古典語の素養の豊かな人物でありましたが、かつて通ったラテン語学校での体験が、彼にこうした思いを抱かせたのです。そこでは権威主義的な教師によって無味乾燥な詰め込みの勉強が強いられ、学校の雰囲気自体も窒息しそうなものであって、このラテン語学校のことをグルントヴィは「すべてが人をだめにし、怠惰にさせ、腐らせるもの」と表現しております。グルントヴィの理想が「生のための学校」であれば、さしずめ彼が体験したラテン語学校は「死の学校」とでもいうべき存在であったのでしょう。もし、現在の日本の学校を見たら彼は何というでしょうか?
「生きた言葉」で語り合い、それぞれの生を深めて行くことが目的であれば、そこに資格や試験、単位などが入り込む余地はないとグルントヴィは考えました。彼によれば、試験とは「年長者が、若者の経験の範囲では答えられず、ただ他人の言葉を繰り返すことで答えとするに過ぎないような質問で、若者を苦しめるもの」なのです。こうした「受験制度」の帰結がどうなるのかを、彼は、150年以上も前に見抜いていたことになります。また、職業訓練を導入することも認めることは出来ませんでした。それは、生のためではなく、利益のためだからです。
資格も得られず、試験も単位もない学校が、果たして存在できるのでしょうか?受験という目的があるからこそ子どもたちは机に向かい、学力を身に付けて行くのではないでしょうか?しかし、グルントヴィは、学校のシステムは試験に基づくべきではなく、「全ての賢明な学校のシステムは、絶えざる啓発に基づくものでなければならない」と主張します。こうした啓発は、試験制度では押し殺されてしまうのです。
グルントヴィは、こうした自分の理想の学校を「フォルケホイスコーレ」と名付けました。英語では「Folk high school」と表記しますが、日本語に直せば「国民高等学校」とでもいうのでしょうか。このフォルケホイスコーレは、1844年に最初の学校が作られ、その後、グルントヴィに共鳴する人々によってデンマーク各地に展開されて行きます。
黎明期のフォルケホイスコーレの運営は、農村青年の生活に合わせて、冬の6ヶ月を男子学生、夏の3ヶ月を女子学生という学期構成を取り、原則として全寮制として教師も学生と寝食を共にしました。
当初のフォルケホイスコーレは18才以上の青年を対象としておりましたが、やがて、それ以下の年齢の子どもたちを対象としたフリースコーレ(小学校に相当)が1856年に作られます。フリースコーレを設立したクリステン・コルという人物は、子どもの教育は親と教師がするものであり、国家が介入してはならないと主張して次のように言います。
「子どもは国家に属するのではなく、親に属するのだ。だから両親は、子どもの一時期に責任があるのではなく、その全ての精神的な成長に渡って、責任があると理解しなければならない。」
やがて、フリースコーレとフォルケホイスコーレの間をつなぐ、エフタースコーレという中学校に相当する学校が設立され、現在の体制の原型ができ上がって参ります。