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2022/05/24

The kingdom of love and knowledge Allchin, A. M Internet Archive

The kingdom of love and knowledge : the encounter between Orthodoxy and the West : Allchin, A. M : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive

The kingdom of love and knowledge : 
the encounter between Orthodoxy and the West

by Allchin, A. M


Publication date 1979

Publisher London : Darton, Longman and Todd

Digitizing sponsor The Arcadia FundContributor Internet Archive
Language English


[ix], 214 pages ; 22 cm

Includes bibliographical references and index

Introduction -- 
I. Beyond Idols -- 
1. Orthodoxy and the debate about God -- 
2. The fall of the 'God-thing' -- 

II. The life-giving spirit -- 
3. Symeon, the new theologian: the singer of fire and light -- 
4. Ann Griffiths, mystic and theologian -- 
5. N.F.S. Grundtvig: the spirit as life-giver -- 

III. The balance of tradition -- 
6. Trinity and Incarnation in Anglican tradition -- 
7. The Book of Common Prayer and the continuity of tradition -- 
8. Apostolic order: bearer of the spirit -- 
9. Comprehensiveness and the mission of the church -- 

IV. Theologians of love and knowledge -- 
10. F.D. Maurice -- 
11. Evelyn Underhill -- 
12. Vladimir Lossky -- 

Conclusion -- Index

[N.F.S. Grundtvig: An Introduction to his Life and Work - Allchin, A M | 9788771249491 | Amazon.com.au | Books

N.F.S. Grundtvig: An Introduction to his Life and Work - Allchin, A M | 9788771249491 | Amazon.com.au | Books




N.F.S. Grundtvig: An Introduction to his Life and Work 
Hardcover – 30 November 2015
by A M Allchin (Author)

Edition: 2nd First Printed in 1997 ed.

N.F.S. Grundtvig (1783-1872) was a prominent preacher, poet, scholar and politician, who played a crucial role in the life of nineteenth-century Denmark. His sermons and hymns, and his educational and historical writings, gave birth to a national and spiritual awakening, which still strongly affects Danish life and thought today.

This book is an introduction to Grundtvig to the English speaking world. It begins with an overview of Grundtvig's long and varied life, concentrating on a number of critical moments in his intellectual and spiritual development. He was a man of irrepressible energy and a volcanic temperament, and his life was not without moments of high drama.

 The second part of the book looks at vital aspects of his presentation of the Christian faith, beginning from his vision of the Church as a living sacramental and historical reality. It centres on the deeply Trinitarian nature of his thinking: for him faith in God as Trinity has its outworking in the whole of daily life, social and political, as well as personal. 

The third section of the book follows Grundtvig's exposition of the faith through the festivals of the Christian year.

Grundtvig was a man firmly rooted in his own time and place. But his thoughts often have a prophetic ring to them.
They have still much to say 
  • about the underlying unity of the Christian tradition
  • about questions of national identity and 
  • national interdependence, and 
  • about the way in which we may come to a new understanding of the creation itself as made in God's image and likeness.


Product details
Publisher ‏ : ‎ Aarhus University Press; 2nd First Printed in 1997 ed. edition (30 November 2015)
Language ‏ : ‎ English
Hardcover ‏ : ‎ 338 pages
===
rated it it was amazing
This book provides much insight into the thinking of Grundtvig. He was much against the grain of his time in regards to the theology of the Enlightenment and Lutheran pietism.

There is some very deep knowledge of how God reveals himself as in his creation. This book an excellent Trinitarian exposition and gives a great understanding of how God is Love throughout the work and is shown by the examples from Grundtvig, hymns and poetry, sermons. 
Canon Allchin gives a theme of the Church Year to extrapolate the details of how the meanings apply. The is some profound details of the meanings Baptism, the Lord's Supper as well as the three Creeds.

There is some light throne on the subject of Anglo Saxon and Northern Folk Mythology and how God reveals himself there. The understanding of the East and West Churches is shown, one for Liturgy and one for Law.

Canon Allchin gives some comparisons between Wales and Denmark and some insight into Welsh understanding. There are comparisons between the Grundtvig and Welsh revivals.

There is connections to England and this book gives the English language reader some insight into the Church of Denmark.
====
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덴마크와 일본의 인간교육(I) 이케다·헤닝센 대담이 시사하는 것

덴마크와 일본의 인간교육(I)


J-STAGE 톱
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태성학원대학 기요
/
15권 (2013)
/
서지

덴마크와 일본의 인간교육(I)
이케다·헤닝센 대담이 시사하는 것

테라다 치사
저자 정보
키워드 : 대화 , 사제론 , 평생 학습
연구 보고서, 기술 보고서 오픈 액세스


2013년 15권 p. 179-190
DOI https://doi.org/10.20689/taiseikiyou.15.0_179


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기사 개요
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초록

교육의 목적은 인간의 행복에 있다고 생각한 것은, 덴마크에서는 니콜라이 프레데릭 세브린 그룬트비(Nikolaj Frederik Severin Grundtvig 1783-1872)이며, 우리나라에서는 마키구치 토모사부로(1871-1944) 이다. (1) 최근, 행해지고 있는 각종의 행복도 조사에서는 어느 조사에서도 덴마크는 항상 상위를 차지하고, 일본은 하위에 위치한다. 앞으로 우리나라의 교육을 생각할 때, 그의 나라의 교육이념을 재인식하고 크게 배울 수 있는 것 같다. 부제에 내거진 「이케다」란 창가대학・학원 창립자, 이케다 다이사쿠(1928~)를 말한다. 소설 「인간혁명」의 저자이기도 하고 널리 세계의 교육자와 대담을 거듭해, 2012년도로 세계의 교육 학술 기관으로부터 315를 넘는 명예 학술 칭호가 주어지고 있다. 또 「헤닝센」이란 Hans Henningsen(1928~)을 말한다. 그룬트비 연구의 제일인자로서 유명하며, 덴마크 교원육성대학협회 이사장(1993~2003) 등을 근무한 교육자이며 목사이기도 하다. 1994년에는 덴마크 왕실에서 '국가 나이트 십자 훈장'의 칭호를 받았다. (2)이 두 사람이 대담집 "내일을 만드는 "교육 성업"-덴마크와 일본 우정의 이야기-"(2009 조출판사)를 엮고 있으며, 본고는 그에 따라 그룬트비의 교육 이념이 일본의 교육에 미친 역사를 되돌아 보면서, 마키구치의 교육이념이 이케다에 의해 새로운 인간교육론으로 전개되고 있는 배경을 찾아보려고 생각했다.





저자 관련 정보


인용 문헌 (1)

Haruhisa TERADA. Human Education of Denmark and Japan(Ⅷ). TAISEI GAKUIN UNIVERSITY BULLETIN. 2021, Vol.23, No.0, p.69.

© 2013 태성학원대학

 

 

 

デンマークと日本の人間教育(

池田・ヘニングセン対談が示唆するもの

 

 "Human education" of Denmark and Japan

Learn to the talk of Ikeda and Henningsen

 

寺 田 治 史

aruhisa TERADA


 

 

<要 約> 教育の目的は人間の幸福にあると考えたのは,デンマ-クではニコライ・フレデリック・セブリン・グルントヴィ(Nikolaj Frederik Severin Grundtvig 1783-1872)であり,わが国においては牧口常三郎(1871-1944)である。1近年,行われている各種の幸福度調査ではいずれの調査でもデンマ-クは常に上位を占め,わが国は下位に位置する。今後,我が国の教育を考える時,彼の国の教育理念を再認識し,大いに学ぶことがあるように思える。

副題に掲げた「池田」とは創価大学・学園創立者,池田大作(1928~)のことである。小説「人間革命」の著者でもあり広く世界の教育者と対談を重ね,2012年度で世界の教育学術機関から315 を越える名誉学術称号が贈られている。   また「ヘニングセン」とは Hans Henningsen (1928)のことである。グルントヴィ研究の第一人者として著名であり,デンマ-ク教員育成大学協会理事長(19932003)などを勤めた教育者であり,牧師でもある。1994 年にはデンマ-ク王室より「国家ナイト十字勲章」の称号を贈られている。2

この両者が対談集「明日をつくる教育の聖業” ―デンマ-クと日本 友情の語らい」(2009 潮出版社)を編んでおり,本稿は,それに因んで,グルントヴィの教育理念が日本の教育に及ぼしてきた歴史を振り返りつつ,牧口の教育理念が池田によって新たな人間教育論へと展開されてい

る背景を探ってみようと考えた。

 

<キ-ワ-ド> 対話,師弟論,生涯学習

 

1. はじめに

グルントヴィの教育思想は「生の教育」,牧口のそれは「創価教育」と呼ばれているが,本稿では共に「人間教育」の名で括っておく。他に「全人教育」3,「ホリスティック教育」4などの類似概念もあるが,いずれも知と情と意を統合して育てる教育理念として捉え,「人間教育」の名で呼称する。

アスコ-校(以下アスコ-校)でのヘニングセンの我々に対する講義の第一声は常に,グルントヴィの言葉「先ず人間であれ」で始まり宗教について自らは語らない。

池田もまた常々「教育が私の人生最後の事業」と教育を最重要視している。ともに人間教育を標榜する同志的な関係にあることを感じさせる。国際経済の世界のみならず国際教育の世界にもグロ-バル化とフラット化の大波が押し寄せる今日,個々人の人生とは何か,幸福とは何か,教育はどうあるべきか等,縦横に語り合う両巨人に学ぶことは多い。

今日に至るまでグルントヴィと国民高等学校について,憧憬の眼を持って我が国に紹介またはその教育理念を取り入れ,国内に国民高等学校を設立した例は尐なくない。

その殆どがキリスト者としての宗教的信念と

教育的熱意からのものであったと言える。

グルントヴィもその弟子クリステン・コル(Christen Kold 1816-1870)も敬虔なるキリスト者であり,ヘニングセンもまた牧師であるが,そのヘニングセンが対談者として仏法者池田を選んだのは何故か。

それは両者とも教育の目的を「人間の幸福」に置いており,宗教の目的も同じだが,その後ろに存在すると言う認識に立っている。5

また,2000 年以後,池田が創立した創価大学や関西創価学園生たちが毎夏,海外研修としてアスコ-校を訪れており,ヘニングセンは,その「学びの姿」を目の当たりにして創価教育に興味を持

ったからだという。

筆者もまた,2002.2005.2010年に,研究目的でアスコ-に滞在しており,その様子を目の当たりにして同じ想いを抱いている。

2010 年にアスコ-校を訪れ,ヘニングセンとの語らいの中で氏から投げかけられた質問は,これからの教育について経済主義と(人間)教育主義のいずれを選ぶのかと言うものであった。

デンマ-クは,今日に至るまでグルントヴィとコルに始まる教育改革,国民高等学校運動によって,教育・福祉立国の道を切り拓いてきた。

言わば,「人間教育主義」の歴史を刻んできた。

一方,我が国は明治の学制改革以来,「富国強兵」,「殖産興業」の名のもとに経済重視の道を歩んできたと言える。

我が国の教育が全て間違っていたとは思わないが,昨今の不登校,いじめ,学級崩壊,ニ-ト,引きこもり,尐年犯罪の増加など「教育の危機」と叫ばれる今日,小手先の対症療法で改善できるような状況ではない。言わば,経済至上主義の道を歩み続けた結果である。

しかしこの時のヘニングセンの問いは,両国の過去の歴史を比べたのではなくて,2008 年に米国発のリ-マンショックを共に経験しており,国家経済が危機に瀕した時にどのように対処するのかという観点に立ったものであった。

それは教育を手段とするのか目的とするのかという問いでもあった。

池田は,早くからそのことを指摘して「社会のための教育」から「教育のための社会」へのパラダイムの転換を提唱して来た。6)(7

因みに,池田の「教育のための社会」のパラダイムについての知見は,コロンビア大学の宗教学者ロバ-ト・サ-マン(Robert A. F. Thurman 1941~)から得ており,サ-マンの「教育が人間生命の目的であると私は見ている」という言葉を紹介している。

なお,サ-マンのこの考えは,インドが生んだ人類最初の教師と言われる釈尊(釈迦)の教えに学んだものであると言う。8

デンマ-クの国民高等学校運動は,言わば人間教育主義の提唱であり,グルントヴィとコルが約 170年前に歩み始めた教育改革の道でもあった。本稿では,内村鑑三(1861-1930)や松前重義(19011991)ら,デンマ-ク教育を我が国に紹介し導入してきた先覚者の知見と功績を概観した上で,さらに一歩進めて,グロ-バルな視点から,「教育のための社会」構築のために対話する池田,ヘニングセン両氏の語らいの深淵を探ってみたい。

先ず両国の教育に関する歴史的関係を概観しておく。

 

Ⅰ. 系 譜

1)岩倉使節団(1871-1873

日本とデンマークとの関係は1867年,江戸幕府による修好通商航海条約締結に始まる。

1871年,岩倉使節団(岩倉具視1825-1883)は太平洋を渡りアメリカを訪問,8ヶ月の滞在の後大西洋を渡り,ヨーロッパも訪問している。訪問国は,イギリス(4ヶ月)・フランス(2ヶ月)・ベルギー・オランダ・ドイツ(3 週間)・ロシア(2 週間)・デンマーク(5日間)他,スウェーデン・イタリア・オーストリア・スイスの12カ国に上る。1873年4月19日にはデンマーク国王クリスチャン9世に謁見し,王宮,諸機関,施設を見学している。9

この使節団の目的は主として米英二ヶ国との不平等条約解消の交渉のためであったが果たせず,英国を後にしてからは訪問の目的が親善視察に変わっていったとされる。後の富国強兵,殖産興業への足がかりになったのである。

したがってデンマ-クに於いて1844年に最初のフォルケフォイスコーレ(以下,「国民高等学校」と称す)がロデインに開校されていたことも,グルントヴィやその弟子コルの存在も知らなかったと思われる。因みにアスコ-国民高等学校は既に1865年に開校していた。したがってこの使節団は1872年の学制発布とは無関係であり,わが国の教育制度はフランスをモデルにしたとされる。10

 

2)矢作栄蔵の欧州留学(1902-1907

デンマ-クの国民高等学校と創始者グルントヴィおよび後継者コルを最初にわが国に紹介したのは矢作栄蔵(1870-1933)である。

矢作は当時,東京帝国大学助教授・法学士の肩書きを持ち農政学研究のため,1902 年にヨーロッパに留学の旅に出て1907年に帰国している。その間にデンマ-クを訪れており,帰国後「産業組合」誌32.33号に「丁抹の生産組合」を寄稿し,国を復興させたグルントヴィの功績を讃えている。なお,ここでは国民高等学校を「特殊国民補修学校」,グルントヴィを「グルントヴィク」,コルを「コ-ルド」と記述している。

また,この時期,農政学研究の立場からデンマ-クを取り上げた人物に,佐藤寛次(1879-1967)をはじめ,数名の研究者がいたことが,宇野 豪

2003)によって紹介されている。11 3)ホルマン著 那須 浩訳「國民高等学校と農民文明」(1913

次に,教育研究の立場からデンマ-クを紹介したのはドイツの農政学者ホルマンであり,その著書を日本語に翻訳したのが農学者,那須 浩(1888-1984)である。この本で初めて,アスコ

-校が写真入りで掲載されている。

隣国であり,争いの絶えなかったドイツの農学者ホルマンがグルントヴィの教育事業を「この事業の成績益々顕著なる程,この学校の未来も亦愈々大であろう。是の如き学校は単に北欧の天地のみに止まる事無く,軈ては全世界に普及すべき運命を有する」と讃え,国民高等学校が当時,北欧にしかなく独特のものであることから,ありふれた学校観念で見ても分からないので,グルントヴィその人の思想に学ぶ必要がある(趣意)と述べている。

また,グルントヴィを国民の未来の発展を洞観できる史的眼光創造的思想広大深遠なる感情を兼ね備えた「丁抹の国民的天才」であると絶賛したのである。

一方,訳者那須は「解題」において,当時,北欧文明の一大勢力となりつつある国民高等学校の起源,沿革,組織と根本精神を明らかにし,詩人グルントヴィと哲人コルの生涯を説き,この独特の教育によって生まれた農民文明にについて論じたものであると本書を説明している。

矢作がホルマンを読み,那須に翻訳を依頼したところから,隣国ドイツの農学者ホルマンのグルントヴィ観と国民高等学校の存在が我が国に紹介されるところとなり,やがて牧口から弟子の戸田城聖へ,戸田から弟子の池田へとその教育理念

が伝播されたのである。

 

4)野田義夫 「丁抹国民高等学校の研究」(1930)本の目次を見ると「2.グルントウイッヒ(筆者注:グルントヴィ)と国民高等学校」,「3.の三,国民高等学校の殊勲者コ-ルド(同:コル)」の表題が見られる。最後の「8,所感」には「丁抹の国民高等学校は創唱者グルントウイッヒ並に....

彼の一体心身とも称すべきコ-ルドの人格を具

...体化したものであり,学校の内部には此の両人の

..熱血が今日も宛ながら横溢していることは上来屡々詳述した通りであるから,私が国民高等学校に就いて感心した事は同時にグルントウイッヒとコ-ルドに感じた事になり,国民高等学校の長所と認め且つ功績と賞賛する所はやがて両人の長所功績と見ねばならぬ」(一部現代表記に変換)。  ここで注目したい言葉は,グルントヴィとコルの関係を「一体心身」と述べ,「両人の熱血」云々と表記していることである。

 話は前後するが,宇野によると,前述の矢作と那須も師弟関係にあり,矢作がドイツの農政学者であるホルマンの著作を紹介して那須に翻訳を担当させたのである。12ここにも両氏の「一体心身」と「熱血」が感じ取れるのである。

 グルントヴィとコル,矢作と那須,内村と松前,後で述べる牧口と戸田,戸田と池田の間に国民高等学校すなわち人間教育の理念は全て師弟における「一体心身」と「熱血」によって継承されてきたことに着目しておきたい。

 また,牧口と那須は当時「郷土会」の研究仲間であり,那須が訳した「国民高等学校と農民文明」を読んでいた事は想像に難くない。13

 その牧口が著した「創価教育学体系巻」の「諸言」において,出版の功績をコルに擬えて弟子,戸田を讃えたのである。因みに牧口と戸田の関係を池田は「師弟不二」なる言葉で讃え続けている。

 

5)内村鑑三「デンマルク国の話」(1911

 次に上げられるのは講演集「後世への最大遺物・デンマルク国の話」を著した内村鑑三である。「後世への最大遺物」は1897年に講演し,「デンマルク国の話」は1911年に講演したと記されている。「デンマルク国の話」の初出は,『聖書之研

究』第136号(1911年)である。

その内容は,1864 年,デンマ-クは肥沃な土地であるシュレスウイッヒ-ホルスタイン地域がドイツ・オ-ストリアとの戦争に敗れ割譲を余儀なくされた。そのためデンマ-ク国民は塗炭の苦しみを味わったという。

その時に「外に失いしところのものを内において取り返すを得べし」という有名な言葉を発する人物がいた。この本ではグルントヴィではなく,エンリコ・ダルガス(1828-1894)という軍人(工兵士官)の言葉として紹介されている。

つまり,奪われた土地を取り返す戦ではなく,残されたユトランド半島の荒野を開拓する道を選んだのである。これによって,デンマ-クが復興したことが紹介されている。

因みに内村はデンマ-クに行っておらず,グルントヴィの名も国民高等学校のこともこの時は知らなかったと思われる。 後述する平林の話を

聞いて知ったようである。

 

6)平林広人の留学(19241927

 平林広人(1886-1986)は教会の牧師からデンマ-クのことを聞き1924年から3年間,アスコ-やヴァレキレ国民高等学校に留学している。

帰国後デンマ-ク研究家として活躍し,晩年は東海大学の北欧文学科の講師にもなった人物である。14

興農学園の初代校長となった平林広人は,内村の依頼を受け,昭和5年(1930年)1月に内村の集会で講演をしている。内村はその模様を次のように日記に留めている。

「昭和5112日 本年第一の研究会である。何しろ壇上に現はる々事が出来た。伊豆久連興農学園々長平林広人が来て丁抹国農聖人グルントビーの信仰に就いて話して呉れた。強く一同を感動せしめた。『活ける言葉とは人の全身全性格を通うして働く所の言葉である』と云ふのであった。まことに其通りである。我等研究会々員は今日まで余りに多く言葉を言葉として受けこれを我等の衷に働かしめなかった。平林君はグルントビーが丁抹を救うた途に依り日本を救はねばならぬと云うた」と。

ここに「活ける言葉」,「グルントビ-」の記述があり国民高等学校のことは平林によって知らされたことが窺える。また,ダルガスが語ったとされる「外に失いしもの・・・」と言う言葉自体,筆者もグルントヴィの言葉として見付ける事はできていないが,内村自身が「グルントビーが丁抹を救うた途に依り日本を救はねばならぬ・・・」と書いているところから,精神的支柱はグルントヴィにあると認めていたことが分かる。

なお,内村はこの時,既に病の身であり,その後328日に亡くなっている。15

 

7)松前重義のアスコ-校訪問(1934

内村に師事した松前について,彼が創立した東海大学(1942 年開設)のホ-ムペ-ジには「松前は,内村の思想と人類の救済を説く情熱的な訴えに深く感銘しました。また,そのなかで松前は,プロシアとの戦争に敗れ,疲弊した国を教育によって再興させた近代デンマークの歩みを知ります。とくに,その精神的支柱となった N.F.S.グルントヴィ(17831872)が提唱する国民高等学校の姿を知り,そこに教育の理想の姿を見出します」と記されている。  

しかし彼が直接,内村からグルントヴィや国民高等学校のことを聞いたのではなく,先に述べた平林の講演を聴いたのがその始めである。

そのことについて難波は次のように書いている。 「デンマ-クのホイスコ-レ教育(筆者注国民高等学校教育)による国家建設によって平和で豊かな民主主義社会を形成した歴史に強く感銘した松前は平林が校長を務める静岡県田方郡西浦村九連の興農学園を度々訪し,グルントヴィの教育思想やホイスコ-レについて研究を始めるようになった」と。16

その後,松前自身がデンマ-クを訪れる機会があり,アスコ-校にも滞在している。

帰国後,彼が著した「デンマ-クの文化を探る」(1962)の序には「デンマ-クに学ぶべきものは先ず其の歴史である。特に国民高等学校の創始にあり,其の精神にあり,其の信仰にある。国家の礎は教育にあり精神にあり信仰にあることを事実の前に証明したるはデンマ-クである。」と国民高等学校を讃嘆している。

なお,同ホ-ムペ-ジでは松前に影響を与えた人物として,新渡戸稲造(18621933)を挙げ,「(新渡戸は)思想家,農業経済学者,教育家です。札幌農学校卒業後,アメリカ・ドイツ留学ののち,京大教授,一高校長などを歴任し,キリスト教信者として国際親善に尽くし,国際連盟事務局次長もつとめました」と紹介している。

教育家でもある新渡戸は牧口とも親交のあった人物であり,創価教育学体系の「序文」に「我が国将来の教育と創価教育学」と題する一文を載せて,牧口の創価教育学に期待を寄せていた。

なお,同序文には新渡戸の他にも社会学者の田辺寿利(18941962),民俗学者の柳田國男(18751962)からも一文が寄せられている。17

 

8)牧口常三郎 「創価教育学体系」(1932)さて,次に取り上げるべき人物が牧口である。彼が1932年に著した大著,創価教育学体系第 1巻「緒言」にグルントヴィとコルの名が登場する。松前のデンマ-ク訪問の2年前の発刊である。

そこには「丁抹の国勢を挽回したと謂われる,国民高等学校が今日の隆盛は,主唱者グルントウィッヒの功績よりは,尐壮気鋭の後継者コールトのそれに帰せられているのを思い起こすとき・・・」とあり,創価教育学体系発刊に尽力した戸田のことを,後継の弟子コルになぞらえて讃えていたのである。

当時,北欧学の大家と目され国民高等学校の存在も知っていた牧口だが,グルントヴィの教育思想に踏み込まず,独自の創価教育学を提唱したのは何故か,大いに興味を引く問題であるがこれについても次稿以下で触れてみたい。18

いずれにしてもグルントヴィの教育理念と牧口のそれとは根本において共鳴していると思われる。それは幸福なる生活,人生をテ-マとしている故である。

また,グルントヴィを育んだ思想的基盤がキリスト教(ルタ-派)であるのに対して,牧口は日蓮仏法を奉じており,後に創価教育学会(現創価学会)の初代会長となっている。

これまで述べたデンマ-ク教育の紹介者の殆どが,大なり小なりキリスト教信仰を基盤とした国民高等学校を語ってきたが,牧口,戸田,池田はキリスト者でなく仏法者である。

キリスト教の「愛」の精神を根底に置き「先ず人間であれ」と叫ぶグルントヴィ,仏法の「慈悲」を根底に「教育の目的は子どもの幸せ」と唱える牧口,真に民主主義教育を目指す両者の精神は深いところで響きあっているように思われる。

 

Ⅱ. 民衆教育と民衆宗教

1) ヘニングセンと池田の共通性

国民高等学校やグルントヴィとコルの功績を紹介し,その教育理念をわが国に取り入れた先覚者は多い。

しかし,現地のグルントヴィ教育の実践者であり研究者でもある人物との対談集を編んだのは池田が初めてであろう。

ヘニングセンはキリスト者としてグルントヴィの孫弟子と言ってもよく,池田は仏法者として牧口の孫弟子,戸田の直弟子である。しかも両者とも教育を最重要視して携わってきた経歴を持っている。

グルントヴィは民衆を無智化して統制する当時の教会権威主義と真っ向から戦い,民衆のための宗教,民衆のための教育を訴えた。

その教育理念を受け継ぎ国民高等学校運動として実践したのがコルである。

ヘニングセンは,グルントヴィと縁の深いアスコ-校の元校長であり,グルントヴィ研究の第一人者である。今なお教壇に立って対話し,多くの教育者,学生から慕われている。 

一方,池田は「僧が上,信者は下」と反民主的権威主義に陥った日蓮正宗宗門から時代錯誤の破門に会った(1991)。しかしこのことはグルントヴィが当時,牧師職を解かれた(1825)のと同じく,民衆のための宗教指導者としての立場を明確にしたのである。 以後 SGI(創価学会インタ-ナショナル)名誉会長として民衆のための宗教,民衆のための教育に専念することになる。 

また教育に関しては牧口・戸田の遺志を受け継いで国内外に「創価」の名を冠した幼,小,中,高の学校園を創立してきた。1992 年にはアメリカ創価大学も創立している。また折々にそれらの学校園や海外の諸大学から招かれて,青尐年たちと対話交流を結んで来ている。

筆者は池田を人生の師と仰ぐ教育者の一人として,及ばずながらも,両者の教育対談を読み解いてみようと考えた。

 

2)橋渡し役は神尾政明(1943~)

ヘニングセン・池田対談の接点を作った人物がいる。デンマ-ク在住の前デンマ-クSGI理事長の神尾政明である。

神尾は「これからの人間は世界を見ておく必要がある」と考え,1965 年7月に日本を発った。 21 歳の時である。めぐり巡ってたどり着いたところがデンマ-クであった。 

本人の弁によれば,ヒッピー同様の状態で日本を去り,彷徨ううちに生活資金が底をついた。そこがデンマ-クのヴァイエン市であった。 

ところがその地の人々は皆,優しく親切で極東の国,日本から来た若者を受け入れてくれた。

農場の仕事をするうちにデンマ-クの生活になじみ,そこに住み着いた。その場所がたまたまアスコ-校の近くにあったことも幸いして,入学できたのである。

デンマ-クの国民高等学校は18歳以上であれば誰でも無試験で入学する事が出来,しかも寄宿生活をする事が出来る。アスコ-校の費用は当時,年間約36万円,80%を国が補助を出し,残り約7万円(3500r)が自費であったという。

因みに現在は年間 50万円ほど(30 万Kr)必要で国からの援助率も減っている。その為か,かつて 100 校以上あった国民高等学校は現在は減尐傾向にある。

神尾はこの時の2年間の寄宿生活で,アスコ-校での学生生活を経験し,グルントヴィやコルの教育思想も学んだのである。アスコ-校で学ぶうちに,グルントヴィの教育思想と牧口,戸田の創価教育思想の類似性に気付き,さらに深くグルントヴィ思想を学ぶために,1969 年にコペンハ-ゲン大学にも籍を置いた。ラテン語が必須科目でありこれも学んでいる。

因みにグルントヴィはデンマ-ク語による教育を重視しており,当時,民衆から遊離した学術言語としてのラテン語による教育には否定的であった。19

やがて日本からやってきた道子(19432007)を旅案内したのがきっかけで1978年に結婚,デンマ-クで生活を共にした。なお二人は既に日本にいる時からの知り合いだったという。 

アスコ-校での 2 年目に寮で同室したのがヤン・モラ-であった。彼は神尾の勧めもあってデンマ-クSGIに入会し,現在は神尾の後を受け,同会の理事長を務めている。神尾自身は1998年から2002年までデンマ-クSGIの理事長を務めてきた。

神尾とモラ-および池田との関係は,小説「新・人間革命第21巻」のSGIの章に詳しく記述されている。20

国民高等学校は卒業しても何の資格も出さないし,それを目的としていない。そのため神尾は 1981 年に社会教育主事の資格を取り,麻薬中毒青年の更生センターや青尐年社会復帰施設でカンセラ-として働きながら,観光案内の仕事にも従事してきたという。 

このようにアスコ-校の優良生とも言える神尾は,当時ドイツ語と哲学の教員であったヘニングセンとその時に親交を結んだという。

なお,当時の校長はクヌッド・ハンセン(Knud Hansen)であり,ヘニングセンが師と仰ぐ人物でもある。やがてヘニングセンが14年間に亘って同校の校長を務めている(8093年)。

また2000年には,神尾が時の校長(1998-2006)ドックバイラ-とヘニングセンを伴って来日し,池田と会わせている。

この時,両氏はアスコ-校では初めての「アスコ-教育貢献賞」を池田に贈り,創価大学は両氏に創価大学名誉教授称号を贈っている。

2001 年にはヴァイエン市住民評議会が池田の教育貢献を讃え,アスコ-校敷地内にある古代池を「イケダ・ダム」と命名し,2002 年からはヴァイエン市が中心となって市民行事としての「イケダダム・フェスティバル」が毎年8月24日を中心に開催されている。 

筆者は2002年,その第1回フェスティバルに図らずも参加できた。また,その前年から創大生,創価学園生の有志によるアスコ-校への短期語学研修が始まった。

そのメンバ-達はアスコ-校で学んだ対話教育(生の教育)の感動を忘れがたく創価大学内に研究サークル「アスコ-研究会」(現在クラブに認定)を立ち上げた。 2012年の総会では,部員数が卒業生を含め 300 名を超えたと報告されている。メンバ-の中には,デンマ-クの大学や国民高等学校に留学した者,デンマ-クに移住して結婚した者,日本で教員となった者など,グルントヴィと池田の人間教育の実践者として活躍している者が多いと言う。

これは特筆すべきことと筆者は考えている。

何故ならば,前掲「系譜」で紹介したように,グルントヴィの教育思想に感銘を受けた先覚者たちによって創られた国民高等学校は日本にもいくつか存在する。しかしそれらは先覚者たちによって持ち込まれた国民高等学校であった。

それに対してアスコ-研究会は,学生たち自身が直接アスコ-校でグルントヴィの教育思想を学び感動し,母校の創立者である池田の教育精神との共通性を再認識し,自分たちの手で結成した研究会であるところにより深い意義がある。

このことはアスコ-研修を斡旋した神尾にとっても予想外の展開となったようである。

神尾はまた,デンマ-クSGI理事長の時,「アスコ-池田平和研究会」を立ち上げ,機関紙「AIS」(ASKOV IKEDA STUDIEK

REDSの略 2004 )を創刊している。

このように前デンマ-ク SGI 理事長としてまたアスコ-校の卒業生として,ヘニングセンらとともに人間教育と反戦・反核運動にも取り組んでいる。

さらに元アスコ-校長ドックバイラ-を議長とする「北欧ヨ-ロッパアカデミ-」の創設(2004 年)にも加わり,またデンマ-ク・パグウオッシュの議長ジヨン・エ-ベリ博士とも親交を結び,デンマ-クSGIと協働して,反戦・反核運動の先頭に立って今もなお,コペンハ-ゲンを中心にした活動を展開している。

また,2006 年には北欧ヨ-ロッパアカデミ-書記長のボスゴ-を,2008 年にはヘニングセンを,2011 年には現任のアスコ-校長コプレゴ-一行を広島に案内して,原爆資料館を見学し広島市長との懇談を実現している。

なお,いずれの機会にも筆者は同席している。

これらの事業は殆どが神尾と彼を支えた道子が歩んできた功績と言っても過言ではない。

このように,神尾自身もデンマ-クの人間教育を学び身に着けて,師と仰ぐ池田の教育平和思想を後継に引き継ごうとしているのである。

 

Ⅲ. 対談の内容

 対談の内容は多岐に亘っているが本稿では,キ-ワ-ドとして上げた「対話」,「師弟論」,「生涯学習」に関する事柄に絞って分析と考察を試みる。  論考の前に,グルントヴィの「生の教育」も牧口の「創価教育」もある種の独創的な教育理念であり,且つ言語も異なるため,言葉の概念の摺りあわせをしておく必要がある。

 先ず「対話」について,ヘニングセンは「ダイアログ:dialogue」と表現して,「『コミュニケ-ション:communication』ではない」と否定する。

「ノンバ-バルを含むか」と言う筆者の質問にも「ノン」と答え,あくまでも言葉で語り合う「対話」を意味している。

一方,「啓発:enlightenment」についてはグルントヴィの思想に「フォルケオプリュスニング」folkeopplysning)と言う言葉があり,これは「民衆による啓発」と訳され,対話による「相互作用: interaction」で「啓発(folkeopplysning)」が生まれると説明される。

このことに関して池田は「先生(ヘニングセン)....は『対話』こそ『生命啓発の基盤』と言われました。さあ,語り合いましょう!」(本文p11)と応じる。池田は「フォルケオプリュスニング」を「生命啓発」という,より深い次元の言葉で捉えており,ここに両者の対話の概念が共有されているように思われる。詳しくは次稿にて考察したい。  次に「師弟論」について,池田は「師グルントヴィと弟子コル」のところでイギリスの歴史家カ-ライルがドイツのゲ-テを心の師と仰いでいた例を引き,「一流の人物には,必ずといってよいほど,深い啓発を受けた師と仰ぐ存在がいるものです」と語り,グルントヴィとコルの関係もそうであると述べている。

これに対してヘニングセンは,「その通りです」と応じて,グルントヴィから受けた啓発によってコルが「蘇生」した逸話を語っている(p200)。

本稿で「師弟論」をキ-ワ-ドに上げた理由は,教育における「師弟論」は徒弟論や単に教師と生徒の関係でなく,「人は人によってしか教育されない」という言葉の通り人間関係を築く上で最重要のものと考えるからである。

 次に「生涯学習」については,グルントヴィのフォルケオプリュスニングが,「民衆による自己啓発」,「民衆成人教育」とも訳されており,その思想が広がった北欧諸国全体が生涯学習の先進国と見なされている。21

 デンマ-クの国民高等学校はその先駆的学校として広く認められており,「EU生涯学習政策」のテ-マも「グルントヴィ計画」と名づけられた。 

吉田によると「グルントヴィ計画は2000 年より正式にソクラテス計画(第二期)の成人教育部門として独立し,2007 年以降の生涯学習プログラムのもとでも再編・強化されている。その名称はデンマークの国民高等学校の産みの親として知られる民衆教育運動家ニコライ.F.S.グルントヴィに由来し,EU 加盟した北欧諸国の成人教育思想の影響がうかがえる」と紹介している。22  一方,池田は,アーノルド・トインビ-(Arnold Joseph Toynbee 18891975)の「人間の能力は『多種多様であり,その能力は,すべて社会的に価値があるものです。各個人がもつ独自の能力というものは,すべて発揮し,育成すべきです』という言葉を紹介し,創価大学においては生涯学習の一環として通信教育に力を注いできたことを明かす(p105)。

超高齢化時代に入ったわが国においても「生涯学習」の発展は喫緊の重要課題である。

 

1生の啓発の教育

 池田は冒頭から「憧れの教育大国デンマ-ク」と語り,それに対してヘニングセンは池田との対談を待ち望んでいたと応じている。

 さらに国民高等学校と SGI は深い共通性を持っていると語り,その基盤となる創価の教育思想について関心をいだいてきたと述べている。  日本人である筆者が不思議に思うのは,国民高等学校はデンマ-クに於ける私立の「学校」であるがSGIは「創価学会インタ-ナショナル」という宗教法人である。その異種と思える機関である SGIから「もっと学びたい」と言うヘニングセンの言葉から考えると,ヘニングセン自身が SGI を教育機関の一つと見ているのか,それともグルントヴィがそうであったように宗教者,詩人,思想家などの顔を持つ池田への敬愛の念を表明し

たものと考えることができよう。

 

<対 話>

 さらにその後の頁では「私はキリスト教思想の立場,会長(池田)は仏教思想のお立場です」と述べ,「『平和教育』と『文明間の対話』『宗教間の対話』に貢献できるのであれば」と述べていることから見て,この本における対話は一国の教育問題ではなく人類的視野に立っての対談となることを両者は自覚している。

 逆に池田は宗教間の対話という観点からか,冒頭より仏典を提示する。「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せばその現在の因を見よ」23 いわゆる因果論である。一般にも「教育は百年の計」という言葉があるが,デンマ-クの今日があるのは約 170 年前にグルントヴィとコルが始めた教育改革を「因」として今日の「果」があると池田は讃えているのである。

 因みに,この対談での池田の仏典(釈迦の経典や日蓮の論文,手紙)の引用は25回に及んでいる。池田がこれまで行ってきた数ある教育対談本の中でも最多の引用であろう。

これに対してヘニングセンも聖書等を引用して応答しているのが特徴と言える。

 これは,キリスト教(福音ルーテル派)が国教であり,グルントヴィもヘニングセンも牧師であったことから,仏教指導者でもある池田は互いの人間教育を語り合う基盤として宗教間の対話は、必然のことと考えた証しである。

しかもどの章に於ける対談でも両者の考えは共鳴し合い、相互啓発がなされていることも比類なき特徴である。

このことはまたデンマ-クと日本のみならず今後,他国の読者に対しても大きな啓発を与えるものと思われる。24

本文の「『対話』と『啓発』」(p20)の項では,国民高等学校では,成績もなく試験もしない理由についてヘニングセンは,試験をすれば特定分野の特別な関心をもった学生しか集まらない。したがって対話の場が狭められると語る。そして対話はわれわれが人間としてもっている共通の問題に取り組むためのものだと述べる。

さらに対話による「生の啓発」で自分を高めた人間が「民主主義の担い手」となって社会を良くしていくと説明する。なお「教育」という言葉については,どこか狭小的で自己本位的な意味が感じられるが,「啓発」という言葉にはさまざまな意味があり,「教育」よりもはるかに広い視野に立つと述べ,「啓発」には社会的な側面や普遍的な側面が含まれると語る。

それを受けて,池田は「教育の本質」について牧口の,「知識の伝授即詰め込み主義にあらずし

....て,啓発主義,学習指導主義である」の言葉を引用して,国民高等学校の理念と深く共鳴していると語り,さらに「対話」こそ,人間の証しであり教育の根本であると強調する。25

両者のこうしたやりとりを読むにつけ,近頃,巷間語られる「若者のコミュニケ-ション能力の欠如」という次元とは全く異なる哲学的対話がなされている。池田が国民高等学校のことを「まさに,ソクラテス的な『生きた対話と触発の広場』ですね」と評しているところにこの対談の深みと

重みが感じられる(p22)。

 

<師弟論>

 池田はまた,本文冒頭からグルントヴィについて語っている(p9)。その後,コルについても触れたのに対して,ヘニングセンは「国民高等学校が,デンマ-ク社会に根を張り,発展していく原動力となったのが,後継者のコルです」とむしろ弟子であるコルの功績を讃えている。

また「私たちは現在,デンマ-ク社会の発展に重要な役割を果たしたグルントヴィとコルの思想を,世界的な規模で応用しようと考えております」(p15)と語り,齢82歳(当時)にしてなお弟子の道を歩もうとするヘニングセンの心意気が伝わってくるようである。

前述の野田義夫がグルントヴィとコルの関係を「一体心身」,「両人の熱血」と表現した師弟の気概が今日,ヘニングセンやアスコ-校に厳然と引き継がれていることを感じざるを得ない。

これを受けて池田は,先師牧口が創価教育学体系の「緒言」にグルントヴィとコルの間に師弟の営みがあったこと(後述)を恩師戸田から何度も聞かされており,欧州旅の第一歩はデンマ-クに決めていたことを明かす。

対談では,そのときの胸中を「貴国への敬愛とともに,恩師への報恩感謝の思い」があったからと述べている。つまり,教育改革への基盤は国民高等学校も SGI も師弟論がその中心軸にあるの

ではないかと筆者は見ている。

 

<生涯学習>  国民高等学校はデンマ-クではフォルケフォイスコ-レ(Folkehφj sole)と呼ばれており,「フォルケ」とは「民衆」と訳される。試験はなく 18 歳以上であれば年齢に制限なく誰でも入寮

(全寮制)して学ぶことができる。

また,科目の選択や学習期間も選択できるため,世界中から留学生を受け入れており世界に開かれた「生涯学習」の学び舎となっている。

デンマ-ク人のほとんどが一生に一度はこの国民高等学校と関わりを持つと言う。日本の学校制度にはない教育機関であり,話に聞いただけでは理解が容易でない制度である。

ここでの学習法は「対話」と「啓発」である。

勿論デンマ-クの生涯学習の場は,国民高等学校だけではない。

澤野によれば今日,デンマ-クには多種多様な成人教育の場があり,さながら「成人教育のジャングル」と表現されるほどである。所轄も教育省,労働省,文科省などに分かれるという。法律も 1991年にそれまでの「余暇活動法」が廃止され,新たに「民衆成人教育法」が制定されている。国民高等学校は教育省所轄の数ある中の一つに過ぎないが,こうした生涯学習の歴史と発展の基盤にグルントヴィの教育思想が影響を与えてきたのである。26 

 

<まとめ>

人間教育とは何か,昨年3月まで35年間小学校教員を務め,現在大学教員を務める筆者にとっては,今後も追及していくべき,常に「古くて新しい」課題である。

我が国で6334制の学校時代を過ごし,小学校教員をしながら夜間大学院で学位を取得するというリカレント教育も経験するうちに,デンマ-クの教育と出会ったのである。

1998 年に大学院の研修旅行として初めてデンマ-クを訪れた時の印象は今なお忘れ難いものがある。コペンハ-ゲンでもオ-デンセの街でも行きかう人々は皆フレンドリ-で親切であった。日本人は外国の人には親切だと言うが,デンマ-ク人は外国の人だから親切なのではなく誰に対しても親切なことが,デンマ-クを訪れるごとに分かってきたのである。

しかも,大人だけではない。子どもたちは,好奇心も手伝ってか,より以上にフレンドリ-で親切であった。

デンマ-クはよく「童話の国」「お伽の国」「子どもの天国」などと言われるが,全くその通りであるという実感を重ねてきた。

翻って,我が国の子どもたちはどうであろうかと振り返ってみると,テストと宿題と学習塾に追われるか,競争主義の部活など,ストレス一杯の日々を過ごしている姿が思い浮かぶのである。

本来持っている子どもらしさは万国共通ではあるが,「社会のために」適応を余儀なくされる子ども達の姿を見るにつけ「教育のための社会」へのパラダイム転換の必要性を痛感する。

その点で学習塾もなく,今ほどの受験地獄を知らない団塊の世代である筆者から見てもデンマ

-クの子どもたちと社会が羨ましく思える。

彼の国との違いはどこから生じているのかと調べる内に,アンデルセンでもなくキルケゴ-ルでもなく,それまで耳にしたことのないグルントヴィという人物を知ることになった。

国民高等学校の創案者である。しかし,これを実現して行ったのは,弟子のコルであることも知った。言わば師弟による共同作業で実現してきたのである。

師弟の関係で改革を実現した例は,我が国にも無いわけではない。例えば筆者が憧れた吉田松陰の松下村塾,緒方洪庵の適塾などがそれである。

ただし,いずれの改革も教育改革に焦点を当てたものではなかった。

我が国において教育に焦点を当てて改革を試み,実行した師弟がいるのかどうかと考えるうちに思い当ったのが,牧口であり戸田であり,池田であった。27

しかも「子どもの幸せ」,「民衆のための教育」,「対話主義」など,その教育哲学はグルントヴィやコルの思想と重なっていることに驚いたのである。

グルントヴィの教育思想を堅持してデンマ-クでも名門と言われるのがアスコ-校である。

本文「系譜」で挙げた先覚者たちがこぞって賛嘆し憧れた国民高等学校である。

 筆者は幸運にも神尾を通じて元校長ヘニングセンと語り合える間柄となった。

 そのヘニングセンが池田と対談集を編むと聞いたとき,「これで日本の教育も尐しは変わるであろう」と大いに期待したところである。

 ところが現実は然に非ずで,現職教員(当時)の立場で教育現場を見渡すと出版後も,いじめや不登校も学級崩壊も減ることなく,むしろ深刻化している。加えて教師バッシングも横行しており,子どもも教師も萎縮する社会に変貌しつつある。

益々,混迷の度を深めているというのが偽らざる実感である。

 筆者が,本論文を書くに至った動機はここにある。 つまり,書物は出版されても読者がいなければ無意味である。読者がいても理解できなければ無意味である。理解できても実践されなければ無意味である。

 まさに書物だけの学習でなく,「対話と啓発」の「生きた学習」に繋げなくては両人に申し訳ないという思いが募ったのである。

 対談者双方を知り,アスコ-を訪れた者として後継の人のために書き置くことが私に与えられた使命であろうと意を決したのである。

 対象とした書物は会話文で構成された対談集であるため,論文のように系統だったものでなく,多岐多様に話が展開されている。

そのため,論文としてまとめるには困難もあるが,筆者なりのキ-ワ-ドを設けることで,筆者なりに両者の対話の深淵に若干なりとも迫り得たのではないかと考えている。

 デンマ-クや国民高等学校に関心を持つ人だけでなく,保護者や教育関係者など子どもの幸せを願うすべての人々に対して,何らかの示唆を与えられるなら幸いである。



<引用文献・注>

(1)   牧口常三郎(1932)「創価教育学体系」聖教文庫 聖教新聞社pp149-157

(2)   ハンス・ヘニングセン 池田大作(2009)「明日をつくる教育の聖業”―デンマ-クと日本 友情の語らい」潮出版社.

(3)   小原國芳(1969 年)『全人教育論』玉川大学

出版部

(4)   日本ホリスティック教育協会編(2005)『ホリスティック教育入門』せせらぎ出版

(5)   池田大作 ミハイル・ズグロフスキ-

2011)年「平和の朝へ教育の大光」第三文明社pp95-103.

(6)   池田大作(2003年)「『教育の世紀』へ」第三文明社 pp165-205.

(7)   ヴィクトル・A・サド-ヴニチィ 池田大作(2004年)「学は光-文明と教育の未来を語る」潮出版社 pp103-119.

(8)   池田大作 バラティ・ムカジ-(2013年)「 灯台1月号 新たな文明の詩を-タゴ-ルと世界市民を語る-」第三文明社 p62.

(9)   国立国会図書館蔵(1994 年)『岩倉使節団文書』(マイクロフィルム版)ゆまに書房.

(10) 田中 彰(2003年)「明治維新と西洋文明岩倉使節団は何を見たか」岩波新書p56-58

(11) 宇野 豪(2003年)『国民高等学校運動の研究

- 一つの近代農村青年教育運動史-』 渓水社

(12) 宇野 豪(2003年)前傾書.

(13) 池田大作(2003年)『第三文明 私の人生記録デンマ-クの民衆大学と教育交流』第三文明社 pp52-63.

(14) 清水 満(1996)「改訂新版 生のための学校デンマ-クで生まれたフリ-スク-ル『フォルケフォイスコ-レの世界』新評論 p

187.

(15) 小山哲司 日本グルントヴィ教会ホ-ムペ-ジより『水戸無教会』178

(16) ステイ-ブン・ボ-リッシュ著 難波克彰監修 福井信子監訳 (2011年)「生者の国デンマ-クに学ぶ全員参加の社会」新評論pⅰ. 

(17) 牧口常三郎(1932年)前掲書

(18) 牧口常三郎(1932年)前掲書 

19N.F.Sグルントヴィ著 小池直人訳(2011年)

「生の啓蒙」風媒社 pp2021.

(20) 池田大作(2010年)「新・人間革命第21巻」聖教新聞社 pp54-60

(21) 澤野由紀子(2004)『北欧における生涯学習政策の展開』 国立教育政策研究所生涯学習政策研究部 p1.

 

(22) 吉田正純(2009年) 『EU 生涯学習政策 とアクティブ・シティズンシップ-成人教育グルントヴィ計画を中心に-』京都大学生涯教育・図書館情報学研究 第8号 p1.

(23) 堀 日享編(1952年)「日蓮大聖人御書全集」創価学会

(24) 2012年末現在,デンマ-ク語訳本と中国語訳本が出版されている。

(25) 牧口常三郎 解題=熊谷一乗 校訂・脚注=熊谷一乗・木全力夫 (1983年)「牧口常三郎全集6」第三文明社    

(26) 澤野由紀子(2004) 前傾書 pp3-5.

(27) 聖教新聞 20001130日付け「デンマ

-クの桂冠詩人から池田SGI会長に贈詩」 アスコ-校の校庭には,同年1118 日にデンマ-クの世界桂冠詩人故エスタ

-・グレ-ス博士の手で牧口,戸田,池田の 「三代会長の木」が植樹された。後日,池田に贈られた長編詩には「あなたの木を植えよう 生命の象徴の木を デンマ-クとあなたとの 不二なる絆の証しとして」

の一文がある。

 

<参考文献>

・ヒルティ著 高橋三郎訳(1959年)「人間教育」 ヒルティ著作集 第10巻 株式会社白水社

N.F.Sグルントヴィ著 小池直人訳(2010 年)「世界における人間」風媒社 

・年譜編纂委員会(1993年)「年譜 牧口常三郎 戸田城聖」第三文明社

・オーヴェ・コ-スゴ-著 川崎一彦監訳 高倉尚子訳(1999 年)「光を求めてデンマ-ク成人教育500年の歴史」東海大学出版会

・大谷英一 (1948 年)「平和の国デンマ-ク」アテネ文庫20 弘文堂

・東海大学文学部北欧学科編(2010年)「北欧学のすすめ」東海大学出版会

・寺田治史・白石大介(1999年)「デンマークにおける教育事情-『生の教育』の実態を垣間見る-」 武庫川女子大学臨床教育学研究科研究誌第5号 武庫川女子大学大学院臨

床教育学研究科,pp.185-197

・寺田治史(2011年)『デンマ-ク最近の教育事情人間教育の伝統と未来』 太成学院大学紀要第13pp273-283.

・梅根 悟監修(1976年)「世界教育史体系 14 北欧教育史」株式会社講談社


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덴마크와 일본의 인간교육( Ⅰ )
ー 이케다·헤닝센 대담이 시사하는 것 ―

 

 "Human education" of Denmark and Japan (  )

Learn to the talk of Ikeda and Henningsen 

 

데라 다지 사

aruhisa TERADA


 

 

<요약> 교육의 목적은 인간의 행복에 있다고 생각한 것은, 덴마크에서는 니콜라이 프레데릭 세브린 그룬트비( Nikolaj Frederik Severin Grundtvig 1783-1872 )이며, 우리나라에서는 마키구치 토조로 ( 1871 ) -1944 ). ) 최근, 행해지고 있는 각종의 행복도 조사에서는 어느 조사에서도 덴마크는 항상 상위를 차지하고, 일본은 하위에 위치한다. 앞으로 우리나라의 교육을 생각할 때 그의 나라의 교육이념을 재인식하고 크게 배울 수 있는 것 같다.

부제에 내거진 「이케다」란 창가대학·학원 창립자, 이케다 다이사쿠( 1928 ~)를 말한다. 소설 「인간혁명」의 저자이기도 하고 널리 세계의 교육자와 대담을 거듭해, 2012 년도에 세계의 교육 학술 기관으로부터 315 를 넘는 명예 학술 칭호가 주어지고 있다. 또한 "Henningsen"은 Hans Henningsen (1928 입니다. 그룬트비 연구의 제일인자로서 유명하며, 덴마크 교원육성대학협회 이사장( 1993 2003 ) 등을 근무한 교육자이자 목사이기도 하다. 1994 년에는 덴마크 왕실에서 '국가 나이트 십자 훈장'의 칭호를 받았다. )  

이 양자가 대담집 “내일을 만드는 “ 교육의 성업 ” ― 덴마크와 일본 우정의 말투 ― 」( 2009 조출판사)를 짜고 있어, 본고는, 그것에 근거해, 그룬트비의 교육 이념이 일본 교육에 미치는 역사를 되돌아 보면서, 마키구치의 교육 철학이 이케다에 의해 새로운 인간 교육론으로 전개되었습니다.

배경을 찾아 보려고 생각했다.

 

<키-와-드> 대화, 사제론, 평생 학습

 

1. 소개

그룬트비의 교육 사상은 「생의 교육」, 목구의 그것은 「창가 교육」이라고 불리고 있지만, 본고에서는 함께 「인간 교육」의 이름으로 묶어 둔다. 그 밖에 「전인교육」) , 「홀리스틱교육」) 등의 유사한 개념도 있지만, 모두 지와 정과 의를 통합하여 기르는 교육이념으로 파악하고, 「인간교육」의 이름 로 호칭한다.

아스코-교(이하 아스코-교)에서의 헤닝센의 우리에 대한 강의의 첫 목소리는 항상 그룬트비의 말 '먼저 인간이든'으로 시작되어 종교에 대해 스스로는 말하지 않는다.

이케다 역시 항상 “교육이 내 인생 마지막 사업”이라고 교육을 가장 중요시하고 있다. 함께 인간교육을 표방하는 동지적인 관계에 있는 것을 느끼게 한다. 국제경제의 세계뿐만 아니라 국제교육의 세계에도 글로벌화와 플랫화의 큰 파도가 밀려오는 오늘, 개개인의 인생이란 무엇인가, 행복이란 무엇인가, 교육은 어떻게 되어야 하는가 등, 종횡으로 서로 이야기하는 두 거인에게 배우는 것은 많다.

오늘에 이르기까지 그룬트비와 국민고등학교에 대해 동경의 눈을 가지고 우리나라에 소개 또는 그 교육이념을 도입하여 국내에 국민고등학교를 설립한 예는 부족하다.

그 대부분은 그리스도인으로서의 종교적 신념과

교육적 열의로부터의 것이었다고 말할 수 있다.

그룬트비도 그 제자 크리스틴 콜( Christen Kold 1816-1870 )도 경건한 그리스도인이며, 헤닝슨도 목사이지만, 그 헤닝센이 대담자로서 “ 불법자 ” 이케다를 선택한 것은 왜일까.

그것은 양자 모두 교육의 목적을 「인간의 행복」에 두고 있어, 종교의 목적도 마찬가지이지만, 뒤에 존재한다고 하는 인식에 서 있다. )

또한 2000 년 이후, 이케다가 창립한 창가대학과 간사이창가학원생들이 매 여름 해외연수로서 아스코교를 방문하고 있으며, 헤닝센은 그 '배우는 모습'을 목격하여 창가교육에 관심 가지고

했기 때문이라고 한다.

필자도 또한 2002 년 .2005 년 .2010 년에 연구 목적으로 아스코에 체재하고 있고, 그 모습을 눈에 띄고 같은 생각을 안고 있다.

2010 년에 아스코-교를 방문해 헤닝센과의 말 속에서 씨가 던진 질문은 앞으로의 교육에 대해 경제주의와(인간)교육주의 중 어느 것을 선택하는가 하는 것이었다.

덴마크는 오늘날에 이르기까지 그룬트비와 콜로 시작하는 교육개혁, 국민고등학교운동에 의해 교육·복지입국의 길을 열어왔다.

말하자면 “인간교육주의”의 역사를 새겨 왔다.

한편, 일본은 메이지의 학제 개혁 이래 '부국 강병', '식산 흥업'이라는 이름으로 경제 중시의 길을 걸어왔다고 할 수 있다.

우리나라의 교육이 모두 잘못되었다고는 생각하지 않지만, 요즘 부등교, 왕따, 학급 붕괴, 니트, 끌어당김, 범년 범죄의 증가 등 「교육의 위기」라고 외치는 오늘날, 소수의 대증 요법 에서 개선할 수 있는 상황이 아니다. 말하자면 경제지상주의의 길을 계속 걸어온 결과이다.

그러나 이때의 헤닝센의 질문은 양국의 과거의 역사를 비교한 것이 아니고, 2008 년에 미국발의 리만 쇼크를 함께 경험하고 있어 국가 경제가 위기에 처했을 때 어떻게 대처할 것인가라는 관점에 섰다.

그것은 교육을 수단으로 할 것인지 목적으로 할 것인가라는 질문이기도 했다.

이케다는 일찍부터 이를 지적하고 “사회를 위한 교육”에서 “교육을 위한 사회”로 패러다임의 전환을 제창해 왔다. ) ( )

덧붙여서 이케다의 「교육을 위한 사회」의 패러다임에 대한 지견은, 콜롬비아 대학의 종교학자 로바트 사만( Robert AF Thurman 1941 ~)로부터 얻어지고, 사만의 「교육이 인간 생명의 목적이라고 나는 보고 있다”라는 말을 소개하고 있다.

덧붙여 사만의 이 생각은, 인도가 낳은 “ 인류 최초의 교사 ” 라고 말해지는 석존(석가)의 가르침에 배운 것이라고 말한다. )

덴마크의 국민고등학교운동은 말하자면 인간교육주의의 제창이었고, 그룬트비와 콜이 약 170 년 전에 걸기 시작한 교육개혁의 길이기도 했다. 본고에서는 우치무라 감조( 1861-1930 와 마쓰마에 시게요시 1901-1991 ) 등 덴마크 교육을 우리나라에 소개해 도입해 온 선각자의 지견과 공적을 개관한 후 한 단계 더 나아가 세계적인 관점에서 '교육을 위한 사회' 구축을 위해 대화하는 이케다, 헤닝센 양씨의 말의 심연을 찾아보고 싶다.

우선 양국의 교육에 관한 역사적 관계를 개관해 둔다.

 

Ⅰ. 계보

1 ) 이와쿠라 사절단 ( 1871-1873 )

일본과 덴마크와의 관계는 1867 년 에도 막부 에 의한 수호통 상항해 조약 체결에 시작된다.

1871 년 이와쿠라 사절단(이와쿠라구시 1825-1883 )은 태평양을 건너 미국을 방문, 8개월 체류 후 대서양을 건너 유럽도 방문하고 있다. 방문국은 영국( 개월)·프랑스( 개월)·벨기에·네덜란드·독일( 주간)·러시아( 주간)·덴마크(5일간) 외, 스웨덴·이탈리아·오스트리아·스위스의 12 개국에 올라간다. 1873 년 4월 19 일에는 덴마크 국왕 그리스도인 세에 속견하여 왕궁, 여러 기관, 시설을 견학하고 있다. )

이 사절단의 목적은 주로 미영 2개국과의 불평등 조약 해소의 협상을 위한 것이었지만 과연 하지 않고, 영국을 뒤로 하고 나서는 방문의 목적이 친선 시찰로 바뀌어 갔다고 한다. 후의 부국 강병, 식산 흥업에의 발판이 되었다.

따라서 덴마크에 있어서 1844 년에 최초의 포르케 포이스 코레(이하, 「국민고등학교」라고 한다)가 로데인에 개교되고 있던 것도, 그룬트비나 그 제자 콜의 존재도 몰랐다고 생각된다. 덧붙여서 아스코-국민고등학교는 이미 1865 년에 개교하고 있었다. 따라서 이 사절단은 1872 년의 학제발포와는 무관하며, 우리나라의 교육제도는 프랑스를 모델로 했다고 한다. 10 )

 

) 야작 영장의 유럽유학( 1902-1907 )

덴마크의 국민고등학교와 창시자 그룬트비 및 후계자 콜을 최초로 우리나라에 소개한 것은 야작영장( 1870-1933 )이다.

야작은 당시 도쿄 제국대학 조교수 법학사의 직함을 들고 농정학 연구를 위해 1902 년 유럽으로 유학 여행을 떠나 1907 년에 귀국하고 있다. 그동안 덴마크를 방문하고 있으며, 귀국 후 '산업조합' 잡지 32.33 호에 '정말의 생산조합'을 기고하고 나라를 부흥시킨 그룬트비의 공적을 칭찬하고 있다. 덧붙여 여기에서는 국민고등학교를 「특수국민보수학교」, 그룬트비를 「그룬트비크」, 코르를 「코르드」라고 기술하고 있다.

또, 이 시기, 농정학 연구의 입장에서 덴마크를 거론한 인물에, 사토 히로지( 1879-1967 )를 비롯해, 수명의 연구자가 있었던 것이, 우노 호

2003 )에 의해 소개되었습니다. 11 ) 3 ) 호르만의 나스 히로역 「국민고등학교와 농민문명」(1913 

다음으로 교육연구의 입장에서 덴마크를 소개한 것은 독일의 농정학자 호르만이며, 그 저서를 일본어로 번역한 것이 농학자 나스히로( 1888-1984 )이다. 이 책에서 처음으로, Asco

-교가 사진들이로 게재되고 있다.

이웃 나라이며, 싸움이 끊이지 않았던 독일의 농학자 호르만이 그룬트비의 교육 사업을 천지에만 멈추는 일 없이, 보는 것은 전세계에 보급해야 할 운명을 가진다.” 그래서 그룬트비 그 사람의 사상에 배울 필요가 있다(취의)라고 말하고 있다.

또 그룬트비를 국민의 미래의 발전을 동관할 수 있는 사적 안광 과 창조적 사상 광대 심원한 감정 을 겸비한 '정말의 국민적 천재'라고 절찬한 것이다.

한편, 역자 나스는 「해제」에 있어서, 당시, 북유럽 문명의 일대 세력이 되고 있는 국민 고등학교의 기원, 연혁, 조직과 근본 정신을 밝히고, 시인 글룬트비와 철인 콜의 생애를 설명해, 이 독특한 교육에 의해 태어난 농민 문명에 대해 논한 것이라고 본서를 설명하고 있다.

야작이 호르만을 읽고 나스에게 번역을 의뢰한 곳에서, 이웃 나라 독일의 농학자 호르만의 그룬트비관과 국민 고등학교의 존재가 우리 나라에 소개되는 곳이 되어, 곧 목구로부터 제자의 도다성 성에, 도다로부터 제자의 이케다로의 교육 이념

가 전파된 것이다.

 

) 노다 요시오 「정말 국민고등학교의 연구」( 1930 ) 책의 목차를 보면 「2. 그룬트위히(필자 주:그룬트비)와 국민고등학교」, 「3. 의 세, 국민고등학교의 특별훈 「자코르드(동:콜)」의 표제를 볼 수 있다. 마지막 「, 소감」에는 「정말의 국민고등학교는 창창자 그룬트위히 늘....

그의 일체 심신이라고도 칭할 코르드의 성격을

신체화 된 것이며 학교 내부에는 두 사람 모두

열혈이 오늘도 앞으로 가로질러 넘어가고 있는 것은 상래 범들 상술한 대로이기 때문에, 제가 국민고등학교에 가서 감탄한 것은 동시에 그룬트위히와 코르드에 느낀 것이 되어, 국민 고등학교의 장점으로 인정하고 공적과 칭찬하는 곳은 곧 양인의 장점공적으로 보아야 한다”(일부현 대표기로 변환). 여기서 주목하고 싶은 말은, 그룬트비와 코르의 관계를 「일체 심신」이라고 말해, 「양인의 열혈」 운운으로 표기하고 있는 것이다.  

 이야기는 전후하지만, 우노에 의하면, 전술의 야작과 나스도 사제 관계에 있어, 야작이 독일의 농정 학자인 호르만의 저작을 소개해 나스에게 번역을 담당시킨 것이다. 12 ) 여기에도 양씨의 「일체 심신」과 「열혈」이 느껴진다.

 그룬트비와 콜, 야작과 나스, 우치무라와 마쓰마에, 나중에 말하는 마키구치와 토다, 도다와 이케다 사이에 국민고등학교 즉 인간교육의 철학은 모두 사제에 있어서의 「일체 심신」과 「열혈」에 의해 계승되어 왔다 일에 주목해 두고 싶다.

 또, 마키구치와 나스는 당시 「향토회」의 연구 동료이며, 나스가 번역한 「국민고등학교와 농민문명」을 읽고 있던 것은 상상하기 어렵지 않다. 13 )

 그 마키구치가 저술한 「창가교육학체계 Ⅰ 권」의 「제언」에 있어서, 출판의 공적을 코르에 의지해 제자, 토다를 찬양한 것이다. 덧붙여 마키구치와 토다의 관계를 이케다는 「사제 후지」라는 말로 계속 칭찬하고 있다.

 

) 우치무라 감조 “덴마르크 나라의 이야기”( 1911 )

 다음으로 올리는 것은 강연집 '후세에의 최대 유물·덴마르크 나라의 이야기'를 저술한 우치무라 감삼이다. 「후세에의 최대 유물」은 1897 년에 강연하고, 「덴마크국의 이야기」는 1911 년에 강연했다고 기록되어 있다. 덴마크 나라의 이야기의 첫 번째 출처는

규』 제 136 호( 1911 년)이다.

그 내용은 1864 년, 덴마크는 비옥한 토지인 슈레스위히-홀스타인 지역이 독일 오스트리아와의 전쟁에 패해 할양을 강요받았다. 그 때문에 덴마크 국민은 도탄의 고통을 맛보았다고 한다.

그 때 "밖에 잃어버린 곳을 내에서 되찾을 수 있어"라는 유명한 말을 발하는 인물이 있었다. 이 책에서는 그룬트비가 아니라 엔리코 다르가스( 1828-1894 )라는 군인(공병사관)의 말로 소개되고 있다.

즉, 빼앗긴 토지를 되찾는 전투가 아니라, 남겨진 유틀랜드 반도의 광야를 개척하는 길을 선택한 것이다. 이것에 의해, 덴마크가 부흥한 것이 소개되고 있다.

덧붙여서 우치무라는 덴마크에 가지 않았고, 그룬트비의 이름도 국민고등학교도 이때는 몰랐다고 생각된다. 후술하는 히라바야시의 이야기

듣고 알게 된 것 같다.

 

) 히라바야시 광인의 유학( 1924 1927 )

 히라바야시 히로토( 1886-1986 )는 교회 목사로부터 덴마크를 듣고 1924 년부터 년간 아스코나 발레키레 국민고등학교에 유학하고 있다.

귀국 후 덴마크 연구가로 활약하고 만년은 도카이 대학의 북유럽 문학과 강사가 된 인물이다. 14 )

흥농학원의 초대교장이 된 히라바야시 히로토는 우치무라의 의뢰를 받아 쇼와 년( 1930 년) 월에 우치무라의 집회에서 강연을 하고 있다. 우치무라는 그 모양을 다음과 같이 일기에 담고 있다.

「쇼와 년 월 12 일 올해 제1의 연구회이다. 오히려 단상에 나타날 수 있었습니다. 믿음에 취해 이야기해 삼켜졌다. 강하게 일동을 감동하게 했다.『활동하는 말이란 사람의 전신 전성격을 지나서 일하는 곳의 말이다』라고 말하는 것이었다.참으로 그대로이다. 우리 연구원들은 오늘까지 너무 많은 말을 말로 받아 이것을 우리의 충실하게 일할 수 없었다. 」라고.

여기에 「활동하는 말」, 「그룬트비 」의 기술이 있어 국민고등학교의 일은 히라바야시에 의해 알려진 것을 엿볼 수 있다. 또, 다르가스가 말했다고 하는 「밖에 잃어버린 것… 일본을 구해야 한다…

덧붙여 우치무라는 이때 이미 병의 몸이며, 그 후 월 28 일에 사망하고 있다. 15 )

 

) 마츠마에 시게요시의 아스코-교 방문( 1934 )

우치무라에 사사한 마쓰마에에 대해 그가 창립한 도카이대학( 1942 년 개설)의 홈페이지에는 “마쓰마에는 우치무라의 사상과 인류의 구제를 전하는 열정적인 호소에 깊이 감명했습니다. 그중에서 마츠마에는 프러시아 와 의 전쟁에 패하고 피폐한 나라를 교육 에 의해 재흥 시킨 근대 덴마크의 행보를 알게 됩니다 국민고등학교의 모습을 알고 거기에 교육의 이상적인 모습을 찾습니다.”라고 적혀 있다.  

그러나 그가 직접 우치무라에서 그룬트비나 국민고등학교를 들은 것이 아니라, 앞서 말한 히라바야시의 강연을 들은 것이 그 시작이다.

그것에 대해 난바는 다음과 같이 쓰고 있다. “덴마크의 호이스코레 교육(필자 주국민 고등학교 교육)에 의한 국가 건설에 의해 평화로 풍부한 민주주의 사회를 형성한 역사에 강하게 감명한 마쓰마에는 히라바야시가 교장을 맡는 시즈오카현 다가타군 니시우라무라구 연의 흥농학원을 자주 방문해, 그룬트비의 교육 사상이나 호이스코레에 대해 연구를 시작하게 되었다”고. 16 )

그 후, 마쓰마에 자신이 덴마크를 방문할 기회가 있어, 아스코 학교에도 체재하고 있다.

귀국 후, 그가 저술한 “덴마크의 문화를 탐구”( 1962 )의 서론에는 “덴마크에 배워야 할 것은 우선 그 역사입니다.특히 국민 고등학교의 창시에 있어, 그 정신에 있고 그 믿음에 있다. 국가의 초석은 교육에 있고 정신에 있고 믿음에 있음을 사실 앞에 증명하는 것은 덴마크이다. .

덧붙여 동 홈페이지에서는 마쓰마에에 영향을 준 인물로서, 신도토 이나조( 1862 1933 )를 들고, 「(신도토는) 사상가, 농업 경제학자, 교육가입니다.삿포로 농학교 졸업 후, 미국・독일유학 후, 교대교수, 일고교장 등을 역임하고, 그리스도교신자로서 국제친선에 다해 국제연맹사무국 차장도 맡았습니다”라고 소개하고 있다.

교육가이기도 한 신도토는 목구와도 친교가 있던 인물이며, 창가교육학체계의 「서문」에 「우리나라 장래의 교육과 창가교육학」이라는 제목의 일문을 얹고, 목구의 창가교육학에 기대를 전해지고 있었다.

덧붙여 동서문에는 신도도 외에도 사회학자의 타나베 수리( 1894 1962 ), 민속학자의 야나기 쿠니오( 1875 1962 )로부터도 일문이 전해지고 있다. 17 )

 

) 마키구치 토모사부로 「창가교육학체계」( 1932 ) 그런 다음, 다음에 다루어야 할 인물이 마키구치이다. 그가 1932 년에 저술한 대저, 창가교육학체계 제 권 「서언」에 그룬트비와 코르의 이름이 등장한다. 마쓰마에의 덴마크 방문 년 전의 발간이다.

거기에는 “정말의 국세를 만회했다고 우려되는, 국민고등학교가 오늘의 융성은, 주창자 그룬트위히의 공적보다는, 화장기예의 후계자 코르트의 그것에 돌아갈 수 있는 것을 생각해낼 때・・・」라고 있어, 창가 교육학 체계 발간에 진력한 도다를, 후계의 제자 콜에 비추어 칭찬하고 있었던 것이다.

당시 북유럽학의 주택으로 목격되어 국민고등학교의 존재도 알고 있던 목구치이지만, 그룬트비의 교육사상에 착수하지 않고, 독자적인 창가교육학을 제창한 것은 어째서인지, 큰 관심을 끄는 문제이지만 이것 에 대해서도 다음고 이하로 접해 보고 싶다. 18 )

어쨌든 그룬트비의 교육 이념과 목구의 그것이 근본적으로 공명하고 있다고 생각된다. 그것은 행복한 삶, 인생을 테마로 하고 있기 때문이다.

또, 그룬트비를 키운 사상적 기반이 기독교(루타파)인 것에 대해, 목구는 일련불법을 봉사하고 있어, 후에 창가 교육 학회(현 창가 학회)의 초대 회장이 되고 있다.

지금까지 말한 덴마크 교육의 소개자의 대부분이, 꽤 작아서 기독교 신앙을 기반으로 한 국민고등학교를 말해 왔지만, 마키구치, 도다, 이케다는 그리스도자가 아니라 불법자이다.

기독교의 '사랑'의 정신을 근저에 두고 '먼저 인간이든'이라고 외치는 그룬트비, 불법의 '자비'를 근저로 '교육의 목적은 아이의 행복'이라고 주장하는 목구, 진정으로 민주주의 교육을 목표로 한다 양자의 정신은 깊은 곳에서 울려 퍼진 것처럼 보인다.

 

Ⅱ. 민중교육과 민중종교

1) 헤닝센과 이케다의 공통성

국민고등학교나 그룬트비와 콜의 공적을 소개하고, 그 교육이념을 우리나라에 도입한 선각자는 많다.

그러나, 현지의 그룬트비 교육의 실천자이자 연구자이기도 한 인물과의 대담집을 짠 것은 이케다가 처음일 것이다.

헤닝센은 그리스도인으로서 그룬트비의 손제자라고 할 수 있고, 이케다는 불법자로서 목구의 손제자, 도다의 직제자이다. 게다가 양자 모두 교육을 가장 중요시하고 종사해 온 경력을 가지고 있다.

그룬트비는 민중을 무지화하고 통제하는 당시의 교회 권위주의와 맞서 싸워 민중을 위한 종교, 민중을 위한 교육을 호소했다.

그 교육이념을 계승해 국민고등학교 운동으로 실천한 것이 콜이다.

헤닝센은 그룬트비와 인연이 깊은 아스코교의 전 교장이며, 그룬트비 연구의 제일인자이다. 지금도 교단에 서서 대화하고, 많은 교육자, 학생들로부터 모욕받고 있다. 

한편 이케다는 “승려가 위, 신자는 아래”라고 반민주적 권위주의에 빠진 니치렌 마사무네 종문에서 시대착오의 “ 파문 ” 을 만났다( 1991 ). 그러나 이것은 그룬트비가 당시 목사직을 풀렸다( 1825 )와 마찬가지로 민중을 위한 종교 지도자로서의 입장을 명확히 한 것이다. 이후 SGI (창가학회 인터내셔널) 명예회장으로서 민중을 위한 종교, 민중을 위한 교육에 전념하게 된다. 

또 교육에 관해서는 마키구치·도다의 유지를 계승해 국내외에 「창가」의 이름을 딴 소, 중, 고의 학교원을 창립해 왔다. 1992 년에는 미국 창가대학도 창립하고 있다. 또한 때때로 그 학교원이나 해외의 여러 대학에서 초청되어 청남년들과 대화 교류를 맺어 왔다.

필자는 이케다를 인생의 스승이라고 하는 교육자의 한 사람으로서, 미치지 못하면서도 양자의 교육 대담을 읽어 보기로 생각했다.

 

) 다리 역은 카미오 마사아키( 1943 ~)

헤닝센·이케다 대담의 접점을 만든 인물이 있다. 덴마크 거주 전 덴마크 SGI 이사장의 카미오 마사아키이다.

카미오는 “앞으로의 인간은 세계를 봐 둘 필요가 있다”고 생각해 1965 년 7월에 일본을 떠났다. 21 살 때이다. 순회하고 도착한 곳이 덴마크였다. 

본인의 밸브에 따르면, 히피와 같은 상태로 일본을 떠나 방황하면서 생활자금이 바닥을 붙였다. 그곳이 덴마크의 바이엔시였다. 

그런데 그 땅의 사람들은 모두 부드럽게 친절하고 극동의 나라, 일본에서 온 젊은이를 받아들여주었다.

농장 일을 하는 동안 덴마크 생활에 익숙해져 거기에 살았다. 그 장소가 우연히 아스코-교 근처에 있었던 것도 다행히 입학할 수 있었던 것이다.

덴마크의 국민고등학교는 18 세 이상이면 누구나 무시험으로 입학할 수 있고, 게다가 기숙 생활을 할 수 있다. 아스코-교의 비용은 당시 연간 약 36 만엔, 80 %를 나라가 보조를 내고 나머지 약 만엔( 3500Kr ) 이 자비 였다고 한다.

덧붙여 현재는 연간 50 만엔 정도( 30 만K ) 필요로 나라로부터의 원조율도 줄어들고 있다. 그 때문인지 한때 100 개 이상의 학교가 있었던 국민고등학교는 현재는 감도 경향이 있다.

카미오는 이때의 년간의 기숙 생활로, 아스코-교에서의 학생 생활을 경험해, 글룬트비나 코르의 교육 사상도 배운 것이다. 아스코-교에서 배우는 동안, 그룬트비의 교육사상과 목구, 토다의 창가교육사상의 유사성을 깨달았고, 한층 더 깊이 그룬트비 사상을 배우기 위해 1969 년에 코펜하겐 대학에도 적을 두었다. 라틴어가 필수 과목이며 이것도 배우고 있다.

덧붙여서 그룬트비는 덴마크어에 의한 교육을 중시하고 있어 당시 민중으로부터 유리한 학술언어로서의 라틴어에 의한 교육에는 부정적이었다. 19 )

이윽고 일본에서 온 도코( 1943 2007 )를 여행안내한 것이 계기로 1978 년에 결혼, 덴마크에서 생활을 함께 했다. 덧붙여 두 사람은 이미 일본에 있을 때부터의 지인이었다고 한다. 

아스코교에서 년째에 기숙사에서 동실한 것이 양모라였다. 그는 카미오의 권고도 있어 덴마크 SGI 에 입회했고, 현재는 카미오를 받고 동회의 이사장을 맡고 있다. 카미오 자신은 1998 년부터 2002 년까지 덴마크 SGI 의 이사장을 맡아 왔다.

카미오와 모라와 이케다의 관계는 소설 '신·인간혁명 제 21 권'의 SGI 장에 상세히 기술되어 있다. 20 )

국민고등학교는 졸업해도 아무런 자격도 내지 못하고 그것을 목적으로 하지 않는다. 그 때문에 가미는 1981 년에 사회교육주사의 자격을 받아 마약중독청년의 갱생센터나 청남년 사회복귀시설에서 칸셀라로 일하면서 관광안내 업무에도 종사해 왔다고 한다. 

이렇게 아스코-교의 우량생이라고도 할 수 있는 카미오는 당시 독일어와 철학의 교원이었던 헤닝센과 그때 친교를 맺었다고 한다.

또한 당시의 교장은 쿠누드 한센( Knud Hansen )이며, 헤닝센이 스스로 말하는 인물이기도 하다. 이윽고 헤닝센이 14 년간에 걸쳐 동교의 교장을 맡고 있다( 80 93 년).

또 2000 년에는, 카미오가 때의 교장( 1998-2006 ) 도크바이라-와 헤닝센을 수반해 일본에 오고, 이케다와 만나고 있다.

이때 양씨는 아스코교에서 처음인 '아스코-교육공헌상'을 이케다에게 주었고, 창가대학은 양씨에게 창가대학 명예교수 칭호를 주고 있다.

2001 년에는 바이엔시 주민 평의회가 이케다의 교육 공헌을 칭찬해, 아스코-교 부지 내에 있는 고대 연못을 「이케다 댐」이라고 명명해, 2002 년부터는 바이엔 시가 중심이 되어 시민 행사로서 '이케다담 페스티벌'이 매년 8월 24 일을 중심으로 개최되고 있다. 

필자는 2002 년 그 제 회 페스티벌에 가리지 않고도 참가할 수 있었다. 또 그 전년부터 창대생, 창가학원생의 유지에 의한 아스코교에의 단기어학연수가 시작되었다.

그 멤버들은 아스코교에서 배운 대화교육(생교육)의 감동을 잊지 못할 창가대학 내에 연구서클 '아스코-연구회'(현재 클럽에 인정)를 시작했다. 2012 년 총회에서는, 부원수가 졸업생을 포함 해 300 명을 넘었다고 보고되고 있다. 회원 중에는 덴마크 대학이나 국민고등학교에 유학한 사람, 덴마크에 이주하여 결혼한 사람, 일본에서 교원이 된 사람 등, 그룬트비와 이케다의 인간교육 실천자 로 활약하고 있는 자가 많다고 한다.

이것은 특필해야 할 일과 필자는 생각하고 있다.

왜냐하면 앞서 '계보'에서 소개한 것처럼 그룬트비의 교육사상에 감명을 받은 선각자들에 의해 만들어진 국민고등학교는 일본에도 몇 가지 존재한다. 그러나 그들은 선각자들에 의해 반입된 국민고등학교였다.

그에 대해 아스코-연구회는 학생들 자신이 직접 아스코-교에서 그룬트비의 교육 사상을 배우고 감동하고, 모교의 창립자인 이케다의 교육 정신과의 공통성을 재인식하고, 자신들의 손 에서 결성한 연구회인 곳에 더 깊은 의의가 있다.

이것은 아스코 연수를 알선한 카미오에게도 예상외의 전개가 된 것 같다.

카미오는 또한 덴마크 SGI 이사장 때 '아스코-이케다 평화 연구회'를 시작, 기관지 'AIS'(ASKOV IK DA STUDEK

REDS의 약 2004 )를 창간했다.

이와 같이 전 덴마크 SGI 이사장으로서 또 아스코교의 졸업생으로서 헤닝센 등과 함께 인간교육과 반전·반핵운동에도 임하고 있다.

또한 전 아스코 - 교장 도크 바이라 -를 의장으로하는 "북유럽 유럽 - 아카데미 -"의 창설 ( 2004 년)에도 합류하고, 또한 덴마크 퍼그 우슈의 의장 지영 에베리 박사와도 친교를 맺고, 덴마 -쿠 SGI 와 협동해 반전·반핵운동의 선두에 서서 지금도 코펜하겐을 중심으로 한 활동을 전개하고 있다.

또한 2006 년에는 북유럽 유럽 아카데미 서기장의 보스고를, 2008 년에는 헤닝센을, 2011 년에는 현임의 아스코 교장 코프레고 일행을 히로시마로 안내하여 원폭자료관을 견학 히로시마 시장과의 간담을 실현하고 있다.

덧붙여 어느 기회에도 필자는 동석하고 있다.

이들 사업은 대부분 카미오와 그를 지지한 도자가 걸어온 공적이라고 해도 과언이 아니다.

이와 같이, 카미오 자신도 덴마크의 인간교육을 배우고 착용하고, 스승과 바라보는 이케다의 교육평화사상 을 후계에 계승하려고 하고 있는 것이다.

 

Ⅲ. 대담 내용

 대담의 내용은 다방면에 걸쳐 있지만 본고에서는 키워드로 올린 '대화', '사제론', '생애 학습'에 관한 일에 짜서 분석과 고찰을 시도한다. 논고 전에, 그룬트비의 “생의 교육”도 목구의 “창가 교육”도 어떤 종류의 독창적인 교육 철학이며, 또한 언어도 다르기 때문에, 단어의 개념을 접해 둘 필요가 있다 .  

 우선 '대화'에 대해 헤닝센은 '다이얼로그: dialogue '라고 표현하고, ''커뮤니케이션 communication '이 아니다'라고 부정한다.

'논바발을 포함할까'라고 하는 필자의 질문에도 '논'이라고 대답하고 어디까지나 말로 이야기하는 ' 대화 '를 의미하고 있다.

한편, '계발 enlightenment '에 대해서는 글룬트비의 사상에 '포르케오프리스닝' folkeopplysning )이라는 말이 있는데, 이것은 '민중에 의한 계발'로 번역되어 대화에 의한 '상호작용 interaction '에서 '계발 ( folkeopplysning ) '이 태어난 것으로 설명된다.

이에 관하여 이케다는 「선생님(헤닝센) ....은 『대화』야말로 『생명 계발의 기초』라고 말씀하셨습니다. 자, 이야기합시다!」(본문 p 11 )에 응한다. 이케다는 「포르케오 프루스닝」을 「생명 계발」이라고 하는, 보다 깊은 차원의 말로 파악하고 있어, 여기에 양자의 ​​대화의 개념이 공유되고 있는 것 같다. 자세한 것은 다음고에서 고찰하고 싶다. 다음에 「사제론」에 대해, 이케다는 「사 그룬트비와 제자 콜」의 곳에서 영국의 역사가 카라일이 독일의 게-테를 “ 마음의 스승 ” 이라고 말하고 있던 예를 끌어, “일류의 인물 “그것은 반드시 말할 수 있을 만큼 깊은 계발을 받은 스승과 묻는 존재가 있는 것입니다.” 

이에 대해 헤닝센은 “그대로입니다”라고 응하여, 그룬트비로부터 받은 계발에 의해 코르가 “소생”한 일화를 말하고 있다(p 200 ).

본고에서 「사제론」을 키워드로 올린 이유는, 교육에 있어서의 「사제론」은 도제론이나 단순히 교사와 학생의 관계가 아니고, 「사람은 사람에 의해서만 교육받는다」라는 말대로 인간관계를 구축하는데 있어서 가장 중요한 것이라고 생각하기 때문이다.

 다음에 「평생 학습」에 대해서는, 그룬트비의 포르케오프루스닝이, 「민중에 의한 자기 계발」, 「민중 성인 교육」이라고도 번역되어, 그 사상이 퍼진 북유럽 국가 전체가 평생 학습의 선진국과 간주됩니다. 21 )

 덴마크의 국민고등학교는 그 선구적 학교로 널리 인정받았으며, ' EU 평생학습 정책'의 테마도 '그룬트비 계획'으로 명명되었다. 

요시다에 의하면 “그룬트비 계획은 2000 년부터 정식으로 소크라테스 계획(제2기)의 성인 교육 부문으로서 독립해, 2007 년 이후의 평생 학습 프로그램 아래에서도 재편·강화되고 있다.그 명칭은 덴마크의 국민고등학교가 낳은 부모로 알려진 민중교육운동가 니콜라이 .FS 그룬트비에서 유래해 EU 가맹한 북유럽 국가의 성인교육사상의 영향을 볼 수 있다”고 소개했다. 22 ) 한편, 이케다는, 아놀드 토인비( Arnold Joseph Toynbee 1889 1975 )의 “인간의 능력은 “다양하고, 그 능력은 모두 사회적으로 가치가 있는 것입니다.각 개인이 가진다 독자적인 능력이라는 것은 모두 발휘하고 육성해야 한다'는 말을 소개하고, 창가대학에서는 평생학습의 일환으로 통신교육에 힘을 쏟았다는 것을 밝힌다(p 105 ). 

초고령화 시대에 들어간 우리나라에서도 '평생 학습'의 발전은 긴급한 중요한 과제이다.

 

제 장 “ 생의 계발 ” 교육

 이케다 는 서두부터 「동경의 교육대국 덴마크 

 게다가 국민고등학교와 SGI 는 깊은 공통성을 가지고 있다고 말해, 그 기반이 되는 창가의 교육 사상에 대해 관심을 가져왔다고 말하고 있다. 일본인인 필자가 신기하게 생각하는 것은, 국민고등학교는 덴마크에 있어서의 사립의 「학교」이지만 SGI 는 「창가학회 인터내셔널」이라고 하는 종교법인이다. 그 이종이라고 생각되는 기관인 SGI 로부터 「더 배우고 싶다」라고 하는 헤닝센의 말로부터 생각하면, 헤닝센 자신이 SGI 를 교육기관의 하나라고 보고 있는지, 아니면 그룬트비가 그랬던 것처럼 종교자, 시인, 사상가 등의 얼굴을 가진 이케다에 대한 경애의 생각을 표명 

생각할 수 있다.

 

<대화>

 게다가 그 후의 페이지에서는 「나는 기독교 사상의 입장, 회장(이케다)은 불교 사상의 입장입니다」라고 말해, 「『평화 교육』과『문명간의 대화』『종교간의 대화』에 공헌할 수 있다 그렇다면 … _

 반대로 이케다는 종교간의 대화라는 관점에서인지, 처음부터 불전을 제시한다. “과거의 원인을 모르고 싶으면 그의 현재의 과를 보라 미래의 과를 모르고 싶으면 그 현재의 인을 보라” 23 ) 이른바 인과론이다. 일반적으로도 「교육은 백년의 합계」라는 말이 있지만, 덴마크의 오늘이 있는 것은 약 170 년전에 그룬트비와 코르가 시작한 교육 개혁을 「인」으로서 오늘의 「과」가 있다고 이케다는 칭찬하고 있는 것이다.

 덧붙여서, 이 대담에서의 이케다의 불전(석가의 경전이나 일련의 논문, 편지)의 인용은 25 회에 달하고 있다. 이케다가 지금까지 다녀온 수많은 교육대담본 중에서도 최다 인용일 것이다.

이에 대해 헤닝센도 성경 등을 인용하여 응답하고 있는 것이 특징이라고 할 수 있다.

 이것은 기독교(복음 루터파)가 국교이며, 그룬트비도 헤닝센도 목사였기 때문에, 불교 지도자이기도 하는 이케다는 서로의 인간 교육을 토론하는 기반으로서 종교간의 대화는, 필연적인 것 라고 생각한 간증이다.

게다가 어느 장에 있어서의 대담에서도 양자의 생각은 공명해, 상호 계발이 이루어지고 있는 것도 비교할 수 없는 특징이다.

이것은 덴마크와 일본뿐만 아니라 앞으로 다른 나라의 독자들에게도 큰 계발을 줄 것으로 보인다. 24 )

본문의 「『대화』와『계발』」(p 20 )의 항에서는, 국민고등학교에서는, 성적도 없고 시험도 하지 않는 이유에 대해 헤닝센은, 시험을 하면 특정 분야의 특별한 관심을 가진 학생 밖에 모이지 않는다. 따라서 대화의 장이 좁혀진다고 말한다. 그리고 대화는 우리가 인간으로서 가지고 있는 공통의 문제에 임하기 위한 것이라고 말한다.

게다가 대화에 의한 「생의 계발」로 자신을 높인 인간이 「민주주의의 담당자」가 되어 사회를 잘 해 나간다고 설명한다. 덧붙여 「교육」이라는 말에 대해서는, 어딘가 협소적이고 자기 본위적인 의미가 느껴지지만, 「계발」이라는 말에는 다양한 의미가 있어, 「교육」보다 훨씬 넓은 시야에 서 있다고 말 , 「계발」에는 사회적인 측면이나 보편적인 측면이 포함된다고 말한다.

이에 따라 이케다는 「교육의 본질」에 대해 마키구치의 「지식의 전수 즉 채우기주의에 빠져

"계발주의, 학습지도주의이다"라는 말을 인용하여 국민고등학교의 이념과 깊게 공명하고 있다고 말하고, 또한 "대화"야말로 인간의 증거이며 교육의 근본이라고 강조 한다. 25 )

양자의 이러한 상호 작용을 읽을 때, 요즘, 항간 말할 수 있는 「젊은이의 커뮤니케이션 능력의 부족」이라고 하는 차원과는 완전히 다른 철학적 대화가 이루어지고 있다. 이케다가 국민 고등학교를 「확실히, 소크라테스적인 「살아있는 대화와 촉발의 광장」이군요」라고 평가하고 있는 곳에 이 대담의 깊이와

가중치가 느껴진다 (p 22 ).

 

<사제론>

 이케다는 또한 본문의 시작 부분에서 글룬트비에 대해 이야기한다 (p ). 그 후, 코르에 대해서도 언급한 것에 대해, 헤닝센은 “국민 고등학교가, 덴마크 사회에 뿌리를 내리고 발전해 나가는 원동력이 된 것이, 후계자의 코르입니다”라고 오히려 제자로 어느 콜의 공적을 칭찬하고 있다.

또한 “우리는 현재 덴마크 사회의 발전에 중요한 역할을 한 그룬트비와 코르의 사상을 세계적인 규모로 응용하려고 하고 있습니다”(p 15 )라고 말하고 나이 82 세 (당시) 제자의 길을 걸으려고 하는 헤닝센의 마음의 마음이 전해지는 것 같다.

전술의 노다 요시오가 그룬트비와 코르의 관계를 「일체 심신」, 「양인의 열혈」이라고 표현한 사제의 기개가 오늘, 헤닝센이나 아스코-교에 엄연히 계승되고 있는 것을 느낄 수밖에 없다 .

이에 따라 이케다는 “ 선사 ” 마키구치가 창가 교육학 체계의 “서언”에 그룬트비와 코르 사이에 사제의 행위가 있었던 것을(후술)을 “ 은사 ” 토다로부터 몇번이나 듣고 있어 , 유럽여행의 첫걸음은 덴마크에 정하고 있던 것을 밝힌다.

대담에서는, 그 때의 가슴속을 「귀국에의 경애와 함께, 은사에게의 보은 감사의 생각」이 있었기 때문이라고 말하고 있다. 즉, 교육 개혁의 기초는 국민 고등학교도 SGI 도 사제론이 그 중심축에 있는 것

아닐까 필자는 보고 있다.

 

<평생학습> 국민고등학교는 덴마크에서는 포르케 포이스코레( Folkeh φ j s ole )라고 불리며, '포르케'는 '민중'으로 번역된다. 시험이 없고 18 세 이상이면 연령에 제한없이 누구나 입숙 

(전 기숙제)하고 배울 수 있다.

또, 과목의 선택이나 학습 기간도 선택할 수 있기 때문에, 전세계에서 유학생을 받아들이고 있어 세계에 열린 「평생 학습」의 학사가 되고 있다.

덴마크인의 대부분이 일생에 한번은 이 국민고등학교와 관련이 있다고 한다. 일본의 학교 제도에는 없는 교육기관이며, 이야기에 듣는 것만으로는 이해가 쉽지 않은 제도이다.

여기서의 학습법은 「대화」와 「계발」이다.

물론 덴마크의 평생 학습의 장소는 국민고등학교 뿐만이 아니다.

사와노에 의하면 오늘, 덴마크에는 다종다양한 성인교육의 장이 있어, 그러면서 「성인교육의 정글」이라고 표현될 정도이다. 소할도 교육성, 노동성, 문과성 등으로 나뉜다고 한다. 법률도 1991 년에 지금까지의 「여가활동법」이 폐지되어 새롭게 「민중성인교육법」이 제정되고 있다. 국민고등학교는 교육성 소할의 몇몇 중 하나에 지나지 않지만, 이러한 평생 학습의 역사와 발전의 기반에 그룬트비의 교육 사상이 영향을 준 것이다. 26 ) 

 

<정리>

인간교육이란 무엇인가, 작년 월까지 35 년간 초등학교 교원을 맡아 현재 대학교원을 맡고 있는 필자에게 있어서는, 앞으로도 추궁해 나가야 할, 항상 「옛날과 새로운」과제이다.

우리나라에서 · · · 제 학교 시절을 보내고 초등학교 교원을 하면서 야간 대학원에서 학위를 취득한다는 리커런트 교육도 경험하면서 덴마크 교육을 만난 것이다.

1998 년에 대학원 연수 여행으로 처음으로 덴마크를 방문했을 때의 인상은 지금도 잊지 못할 것이 있다. 코펜하겐이나 오덴세의 거리에서도 가는 사람들은 모두 친절하고 친절했다. 일본인은 외국인에게는 친절하다고 말하지만, 덴마크인은 외국인이기 때문에 친절한 것이 아니라 누구에게도 친절한 것이 덴마크를 방문할 때마다 알아 온 것이다.

게다가 어른만이 아니다. 아이들은 호기심을 돕거나 더 이상 친절하고 친절했습니다.

덴마크는 자주 '동화의 나라', '가노의 나라', '아이의 천국' 등이라 불리지만, 완전히 그대로라는 실감을 거듭해 왔다.

뒤집어 우리나라의 아이들은 어떠할까 하고 되돌아보면, 테스트와 숙제와 학습학원에 쫓기는지, 경쟁주의의 부활 등, 스트레스 한 잔의 나날을 보내고 있는 모습이 떠오르는 것이다.

본래 가지고 있는 아이들함은 만국 공통이지만, '사회를 위해' 적응을 강요당하는 아이들의 모습을 보면서 '교육을 위한 사회'로의 패러다임 전환의 필요성을 통감한다.

그 점에서 학습 학원도 없고, 지금까지의 수험 지옥을 모르는 단괴의 세대인 필자로부터 봐도 덴마

-쿠의 아이들과 사회가 부러워 보인다.

그의 나라와의 차이는 어디에서 생기고 있는지 알아내는 안데르센도 아니고 키르케고르도 아니고, 그때까지 들은 적이 없는 그룬트비라는 인물을 알게 되었다.

국민고등학교의 창안자이다. 그러나 이것을 실현해 간 것은 제자의 콜인 것도 알았다. 말하자면 사제가 공동작업으로 실현해 온 것이다.

사제의 관계로 개혁을 실현한 예는 우리나라에도 없는 것은 아니다. 예를 들어 필자가 동경한 요시다 마츠네의 마쓰시타무라 학원, 오가타 홍암의 적숙 등이 그것이다.

다만, 어느 개혁도 교육 개혁에 초점을 맞춘 것은 아니었다.

우리나라에 있어서 교육에 초점을 맞추고 개혁을 시도하고, 실행한 사제가 있는지 여부를 생각하는 동안 생각했던 것이, 마키구치이고 토다이며, 이케다였다. 27 )

게다가 '아이들의 행복', '민중을 위한 교육', '대화주의' 등 그 교육철학은 그룬트비와 콜의 사상과 겹치는 것에 놀랐다.

그룬트비의 교육사상을 견지하고 덴마크에서도 명문이라 불리는 것이 아스코교이다.

본문 '계보'에서 꼽은 선각자들이 찬양하고 동경한 국민고등학교이다.

 필자는 행운으로도 카미오를 통해 전 교장 헤닝센과 이야기를 나눌 수 있는 편이 되었다.

 그 헤닝센이 이케다와 대담집을 짠다고 들었을 때, “이것으로 일본의 교육도 밟는 것은 바뀔 것이다”라고 크게 기대한 곳이다.

 그런데 현실은 연히 없이 로 현직 교원(당시)의 입장에서 교육 현장을 바라보면 출판 후에도 왕따나 부등교도 학급 붕괴도 줄이지 않고 오히려 심각화하고 있다. 게다가 교사 배싱도 횡행하고 있어 아이도 교사도 위축하는 사회로 변모하고 있다.

점점 혼미의 정도를 깊게 하고 있다는 것이 거짓의 실감이다.

 필자가 본 논문을 쓰게 된 동기는 여기에 있다. 즉, 책은 출판되어도 독자가 없으면 무의미하다. 독자가 있어도 이해할 수 없다면 무의미하다. 이해할 수 있어도 실천되지 않으면 무의미하다.

 바로 책만의 학습이 아니라 '대화와 계발'의 '살아있는 학습'에 연결하지 않으면 두 사람에게 죄송하다는 생각이 모인 것이다.

 대담자 쌍방을 알고, 아스코를 방문한 자로서 후계인을 위해서 쓰는 것이 나에게 주어진 사명일 것이라는 뜻을 결정한 것이다.

 대상으로 한 책은 회화문으로 구성된 대담집이기 때문에 논문처럼 계통이었던 것이 아니라 다방면에서 다양하게 이야기가 전개되고 있다.

그 때문에, 논문으로서 정리하는 것은 곤란도 있지만, 필자 나름의 키워드를 마련하는 것으로, 필자 나름대로 양자의 대화의 심연에 약간이라도 다가올 수 있었던 것이 아닐까 생각하고 있다.

 덴마크나 국민고등학교에 관심을 가진 사람 뿐만 아니라, 보호자나 교육 관계자 등 아이의 행복을 바라는 모든 사람들에게 어떠한 시사를 줄 수 있다면 다행이다.



<인용 문헌·주>

(1)   마키구치 토모사부로( 1932 ) 「창가교육학체계 Ⅰ」성교문고 성교신문사 pp149-157 .

(2)   한스 헤닝센 이케다 다이사쿠 ( 2009 ) "내일을 만드는 교육의 성업 "- 덴마크와 일본 우정의 이야기 "시오 출판사 .

(3)   오하라 쿠니요시( 1969 년) 「전인 교육론」타마가와 대학

출판부

(4)   일본 홀리스틱 교육 협회 

(5)   이케다 다이사쿠 미하일·즈그로프스키-

2011 ) 년 「평화의 아침에 교육의 대광」제 3 문명사 pp95-103.

(6)   이케다 다이사쿠 ( 2003 ) 「교육의 세기」에 제 3 문명사 pp165-205.

(7)   빅토르 A. 사드 - 브니치 이케다 다이사쿠 ( 2004 ) "학은 빛 - 문명과 교육의 미래를 말한다"시오 출판사 pp103-119.

(8)   이케다 다이사쿠 바라티 무카지 - ( 2013 년) "등대 월호 새로운 문명의 시를 - 타고르와 세계 시민을 말한다 -"제 3 문명사 p62.

(9)   국립 국회 도서관 창고( 1994 년) “이와쿠라 사절단 문서”(마이크로 필름판) 유마에 서방.

(10) 다나카 아키라( 2003 년) 「메이지 유신과 서양 문명 ― 이와쿠라 사절단은 무엇을 보았는가 ― 」 이와나미 신서 p56-58 .

(11) 우노 호( 2003 년) 『국민고등학교운동의 연구

하나의 근대농촌청년교육운동사 '계수사

(12) 우노 호 ( 2003 ) 전경서 .

(13) 이케다 다이사쿠 ( 2003 년) "제 3 문명 내 인생 기록 덴마크의 민중 대학과 교육 교류 " 제 3 문명사 pp52-63.

(14) 시미즈 미츠루 ( 1996 ) "개정 신판 생을 위한 학교 덴마크에서 태어난 프리스크-르"포르케 포이스코레의 세계 "신평론 p

187.

(15) 코야마 테츠지 일본 그룬트비 교회 홈페이지에서 “미토 무교회” 178 

(16) 스테이분 보리슈 난바 카츠히코 감수 후쿠이 노부코 감역 ( 2011 년) “생자의 나라 덴마크에 배우는 전원 참가의 사회 ” 신평론 p ⅰ. 

(17) 마키구치 토모사부로( 1932 년)

(18) 마키구치 토모사부로( 1932 년) 

19 ) NFS 그룬트비 저 고이케 나오토역 ( 2011 년)

원시 계몽 풍 매사 pp20-21 .

(20) 이케다 다이사쿠( 2010 년) “신·인간 혁명 제 21 권” 세이 교 신문사 pp54-60

(21) 사와노 유키코 (2004 년 '북유럽에서의 평생 학습 정책의 전개' 국립 교육 정책 연구소 평생 학습 정책 연구부 p1.

 

(22) 요시다 마사유키( 2009 년) ' EU 평생 학습 정책과 액티브 시티즌십-성인 교육 그룬트비 계획을 중심으로-' 교토 대학생 평생 교육·도서관 정보학 연구 제8호 p1.

(23) 호리 닛테이편( 1952 년)「니치렌 대성인 어전 전집」창가학회

(24) 2012 년 말 현재 덴마크어 번역본과 중국어 번역본이 출판되고 있다.

(25) 마키구치 토모사부로 해제=쿠마가야 이치카 교정·각주=구 마야 이치승·목전력 남편( 1983 년 )    

(26) 사와노 유키코 (2004 년 ) 전경 서 pp3-5.

(27) 성교신문 2000 년 11 월 30 일자 '덴마

- 쿠 의 계관 시인으로부터 이케다 SGI 회장 에게 선시

・・그레스 박사의 손으로 마키구치, 토다, 이케다의 「삼대 회장의 나무」가 식수되었다. 나중에 이케다에게 준 장편시에는 “당신의 나무를 심자 생명의 상징의 나무를 덴마크와 당신과의 후지가 되는 인연의 증거로”

의 문장이 있다.

 

<참고 문헌>


・힐티 저 타카하시 사부로역( 1959 년) 「인간교육」 힐티저작집 제 10 권 주식회사 백수사

NFS 그룬트비 저 코이케 나오토역( 2010 년) 「세계에 있어서의 인간」풍매사  

・연보 편찬 위원회( 1993 년) 「연보 마키구치 죠사부로 도다성 세이」제3분명사

・오베·코스고 - 저가와사키 카즈히코 감역 다카쿠라 나오코 역 1999 년 )

・오타니 에이이치 ( 1948 년) “평화의 나라 덴마크” 아테네 문고 20

・도카이 대학 문학부 북유럽 학과편( 2010 년) 「북유럽학의 스스메」도카이 대학 출판회

・테라다 치지・시라이시 다이스케( 1999 년) 「덴마크에 있어서의 교육 사정 Ⅱ -『생의 교육』의 실태를 엿볼 수 있다―」 무고가와 여자 대학 임상 교육학 연구과 연구지 제5호 무고가와 여자 대학 대학원 임

바닥 교육학 연구과, pp.185-197 .

・데라타 지사( 2011 년) 『덴마크 최근의 교육 사정 ― 인간 교육의 전통과 미래 ― 』 태성 학원 대학 기요 제 13 권 pp273-283.

・우메네 고감수( 1976 년) “세계 교육 사체계 14 북유럽 교육사” 주식회사 코단샤


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