2014年2月 9日 (日)
美化されすぎている武士道精神(武士道の欠陥)
新渡戸稲造の著書「武士道」によって世界的に有名になったのが日本の武士道精神である。原題は、“Bushido,The Soul of Japan”、副題が「日本の魂」となっている。新渡戸は、自身が家庭で受けた質素で座禅に通じる武士道的な教育がクエーカー教徒(プロテスタントの一宗派)の簡素素朴な生活、瞑想による「内なる光」との対話に通じるということを体感して、自分が受けてきた道徳教育の原点は祖父から受けた武士道であることに気づいたのがきっかけであった。序文に「私が少年時代に学んだ道徳の教えは、学校で教えられたものではなかったから。私は、私の正邪善悪の観念を形成している各種の要素の分析を始めてから、これらの観念を私の鼻腔に吹き込んだものは武士道であることをようやく見出したのである(矢内原忠雄訳)」。
新渡戸は、次のようにいう。「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である。それは古代の徳が乾からびた標本となって、我が国の歴史のさく【月に昔】葉(押し花)集中に保存せられているのではない。それは今なお我々の間における力と美との活ける対象である。・・・・道徳的雰囲気を香らせ、我々をして今なお力強き支配のもとにあると自覚せしめる。それを生みかつ育てた社会状態は消えうせて既に久しい。しかし昔あって今はあらざる遠き星がなお我々の上にその光を投げているように、封建制度の子たる武士道の光はその母たる制度の死にし後にも生き残って、今なお我々の道徳の道を照らしている。(矢内原忠雄訳)。」
ユダヤの民が神から与えられた律法のように、武士道精神は日本人の精神に刷り込まれた歴史的遺産である。自分の生命を投げ打ってでも義と徳に生きようとする精神は、利己的な精神を乗り越える高貴な精神である。
しかし、武士道精神は大きな弱点を持っている。武士道の始まりは、江戸時代の儒教思想に始まるのではない。もともとは、主君に家来が恩賞と引き換えに主君に忠勤することが出発である。典型的な武士道の逸話は、「七生報国」として知られる楠木正成の最期の場面である。
太平記の楠木正成の最期を描いた有名な場面は次のようなものである。
「手の者60余人、六間の客殿に二行に並び居て、念仏十遍ばかり同音に唱へて、一度に腹をぞ切ったりける。正成座上に居つつ、舎弟の正季に向ひて、そもそも最後の一念に依って、善悪の生を引くといへり、九界の間、何か御辺の望みなると問ひければ、正季あらからと打ち笑ひて、七生まで只同じ人間に生まれて、朝敵を滅ぼさばやとこそ存じ候へと申しければ、正成世にうれしげなる気色にて、罪業深き悪念なれども、我も斯様に思ふなり。いざさらば同じく生を替えて、この本懐を達せんと契りて、兄弟とも刺し違へて、同じ枕に伏しにけり。」
「手の者60余人、六間の客殿に二行に並び居て、念仏十遍ばかり同音に唱へて、一度に腹をぞ切ったりける。正成座上に居つつ、舎弟の正季に向ひて、そもそも最後の一念に依って、善悪の生を引くといへり、九界の間、何か御辺の望みなると問ひければ、正季あらからと打ち笑ひて、七生まで只同じ人間に生まれて、朝敵を滅ぼさばやとこそ存じ候へと申しければ、正成世にうれしげなる気色にて、罪業深き悪念なれども、我も斯様に思ふなり。いざさらば同じく生を替えて、この本懐を達せんと契りて、兄弟とも刺し違へて、同じ枕に伏しにけり。」
湊川の合戦に敗れて追いつめられた正成の一党は、腹を切って自害した。その際、次生にはどの世界に生まれたいかという正成の問いに対して、弟の正季は「七世までただ同じ人間界に生まれて、朝敵を滅ぼしたいものだ」と答える。これに対して正成も、「罪深き悪念」ではあるが、自分もまったく同感だと述べている。
正成一党は、生まれ変わってまでも「罪深き悪念」と知りつつも、忠義に励むという姿勢をとっているのである。主君に忠誠を誓うという姿勢に突出しており、主君が対外的にとった行動については黙している。武士道精神は主君にはつながっているが、絶対善である天には直接はつながっていない。主君が善なる行為をなすときは天とつながり、主君が問題ある行為をなすときは天から離反するという性格を有しているのである。
武士の倫理・道徳として忠義を重んじる儒教思想が江戸時代受容されたのは、それ以前からあった武士道の思想(主君への死すとも恨まぬ献身奉公、身は「恩」のため、「義」のために命をも軽んじるという武士の道義)の影響が大きく、日本独特の儒教精神となった。岡山藩の池田光政候は、儒教を学ぶ中で、「民は天から預かっているものであるから丁重にしなければならない」と君主としての心得を書いているが、「君主」、現代でいえば「人の上に立つ人」はこのような姿勢が不可欠である。しかし、君主の姿勢を正した人は名君とされた一部の君主だけで、多くの場合臣下の従属だけが強要された。
日本儒教は、礼を守るという姿勢だけが極端に強調されて国や君主のために死ぬのは当然だという江戸時代の武士道の儒教(武士は君主のためなら自己犠牲をいとわない)とか国粋主義(国のためなら家族を犠牲にすべきだ)という倫理になった。日露戦争時、広瀬中佐は、「七生報国」を最後の言葉にして旅順の閉塞船に上り殉死した。この行為は美化され、第二次世界大戦時軍神として祀られるにいたる。広瀬中佐のように忠義だけが求められる風潮が作られるのである。
最後にもう一度いっておこう。武士道精神は主君にはつながっているが、絶対善である天には直接はつながっていない、と。