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言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 ヨハネ1;4 早いもので、これで今年最後のアシュラム誌の瞑想となった。今年1月の最初のみ言葉が、「あなたは命の道を教えてくださいます」(詩篇16;1)で、最後が、このヨハネ1章4節の「言の内に命があった」である。今年のアシュラムの瞑想は、命で始まり命で終わる。もちろんそれは、年の瀬に今年も無事に過ごすことができてよかったと一年を振り返るような命ではない。そうではなく、たとえ今この世の命が尽きたとしても、決して絶えることのない永遠の命のことだ。 「初めに言があった」という有名な一節をもって始まるヨハネ福音書の独特でしかも難解なイエスキリストの誕生譚。この「言(ロゴス)」が、私たち人間が使うコミュニケーションの手段としての「言葉」や自分の意思を伝達する方法としての「言葉」とは異なるものを意味することは、もうお分かりだろう。神の言、命の言、それはあらゆるものを創造し、混沌の中に秩序をもたらし、闇に打ち勝ち光を放つ。死に勝利し、永遠の命を約束する。それは神とともにあるもの、最初からあるもの、言であり、命であり、光である主イエスキリストご自身のことなのだ。 ヨハネ福音書の中で、イエスは度々「永遠の命とはなにか」について語る。ファリサイ派の老議員ニコデモと(3;1ー21)、井戸の前でサマリヤの女と(4;1ー42)、ベトサダの癒しの業のあとユダヤ人たちと(5;19ー30)、そしてペテロと弟子たちと。イエスは何度も、永遠の命をお示しになる。そして、十字架を前にした最後の祈りの中でこう祈るのだ。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(17’2)と。しかし、神を知り、イエスを知ることとは一体なんなのだろうか。それはただその難解な言葉の意味を理解することではない。どんなに神学を学んでも、註解書を読み漁っても、高名な牧師の説教に耳を傾けても、永遠の命を知ることはできない。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」(5;39ー40)そうなのだ、キリストは、いつも永遠の命を得るようにと私たちを招く。キリストはどこでも、永遠の命を知らせようと私たちを光照らす。「あなたは命の道を教えてくださいます」と詩人が喜び唱ったように、私たちはこの永遠の命の道を教え示してくださるキリストのもとへ行くほか、それを知る術はないのだ。アシュラムとは、まさにこのキリストを知り、神を知り、静かにその元へと日々向かうことなのである。 今年の年頭アシュラムでご奉仕いただいた角谷晋次牧師は、その著書「新渡戸稲造とクエーカリズム」の中で、新渡戸稲造の祈りとアシュラムの祈りの共通点を上げ、次のようにアシュラムを評価してくださっている。「アシュラムと新渡戸稲造博士の「黙思」の共通点を述べます。その第一は、知識や註解書にたよって聖書を読むのでなく、静かに聖霊の導きをひたすら受けて、聖霊の力で聖書を読むということであります。新渡戸稲造博士は自分の良心において、聖書のみ言葉を「神の言葉」として真実に受け止めておられました。これはアシュラムでは、「静聴」の時間として、各自が沈黙の時間を守って実施しています。」 友よ、今年も終わり、また気がつけば、新しい年もいつの間にか終わってしまうだろう。私たちの肉なる命は、存外短いものである。だから友よ、今度こそ、あの言の中に、光の中に、命の中に飛び込んで行こうよ。それこそが、私たちが永遠の命を知ることなのだから。 |
2016/10/29
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