- 岡倉天心、新渡戸稲造、そして鈴木大拙 -

 1868年、日本刀の時代が終わり、新しい明治の時代が開けた。その5年前に岡倉天心、6年前に新渡戸稲造、そして2年後に鈴木大拙が相次いで誕生した。この3人は似ている。
 まず頭も良く才能があったことで、岡倉天心が現在の東京芸大、新渡戸稲造と鈴木大拙が東大で学んでいる。
 次に、3人ともアメリカで生活をしていて英語がぺらぺらなこと。岡倉天心はボストン美術館、新渡戸稲造はジョンズ・ホプキンス大学、そして鈴木大拙はオープン・コート社にそれぞれ勤務、あるいは留学している。
 そして奥さんは新渡戸稲造がメリー・エルキントンさん、鈴木大拙がベアトリス・レインさんで、お二人ともアメリカ人である。岡倉天心の奥さんは基子さんで彼女が13歳の時に結婚している。
 3人とも西洋の文化を深く学び、その生活を経験し、そしてほぼ同じ結論に達している。
岡倉天心
 「日本の文化とその歴史は、西アジアから東アジアへかけての「アジア」全域の文化遺産をその奥深くに受けとめ、それを醸成するように成立している、その意味で、日本文化のありかたのうちにアジアは混然として大きな「一つ」を形成している。」(解説から。”The Book of Tea”を出版。)
新渡戸稲造
 「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である」(『 BUSHIDO,THE SOUL OF JAPAN』から)
鈴木大拙
 「日本は日本として、或は東洋は東洋として、西洋に知らせなけりゃならんものがいくらでもある」(大拙の言葉、また彼は書籍”Zen”、雑誌” EASTERN BUDDHIST ”を発行している。)
 西洋人の文化を学ぶにつれ、彼らはその文化の持つ素晴らしさと同時に大きな欠点も判ってくる。キリスト教信者だった新渡戸稲造、哲学者だった鈴木大拙に比較すると岡倉天心は芸術家であったこともあり、過激だった。
岡倉天心
 「アジアの兄弟姉妹たちよ!
 おびただしい苦痛が、われわれの父祖の地を蔽っている。東洋は柔弱の同義語となった。土着の民とは奴隷の仇名である。われわれの温順にたいする讚辞は反語であって、西洋人からすればその東洋人の礼儀正しさは臆病のせいなのだ。商業の名においてわれわれは好戦の徒を歓迎している。文明の名において帝国主義者を抱擁している。キリスト教の名において無慈悲のまえにひれ伏している。国際法の光は白い羊皮紙のうえに輝いている。だが、あますところは不正の翳(かげ)が有色の皮膚に暗く落ちている。」
 文明の名の下に植民地を作り、キリスト教の名の下に残虐行為を行う、それがヨーロッパなのだ。そしてその論理立てとして白い羊皮紙に国際法を書く。太平洋戦争の後の東京裁判というのは、本当はリンチだが、そのままやると批判される。そこで白い羊皮紙の上に国際法に基づくとして判決を書くと日本人すら騙される・・・と過激に訴えるのである。
 訴え方は様々でも、彼ら3人が残した遺産は大きい。それは「日本の文化を世界に発信しなければならない」という強い使命感であり、それは西洋を深く知っているからこそ自信を持って言えることである。
 天心の美術、稲造の教育、そして大拙の哲学・・・いずれも「物」を中心とした西洋文明に対する、「心」を中心とする東洋文明の対比であり、結論は「心」であった。
 そしてそれには実行が伴わなければならない。新渡戸稲造は次のように語る。
「私は太平洋の橋になりたいのです。」
日本が国際連盟を脱退した時には、
「近ごろ、毎朝、新聞を見て暗い気持ちになる。わが国を滅ぼすものは、共産党と軍閥である。そのどちらが怖いかと問われたら、今では軍閥と答えねばならない」
と発言し、日米が険悪になった時にはアメリカに渡り、
「新渡戸は軍部の代弁に来たのか」
と非難を受ける。そして
「橋は決して一人では架けられない。何世代にも受け継がれてはじめて架けられる」
と私たちを鼓舞したのである。
 私たちはひ弱になった。生活が豊かになるにつれ、ますますその豊かさを手放さなければならない恐怖に心が挫けるのである。そして補助金と言えばついていき、アメリカとの貿易を失わないようにとシッポを振る。
 もう一度、3人の大先輩の心を学びたいと思う。
 昭和8年、新渡戸稲造、死の直前に行ったカナダでの演説、そして短歌。
「異なった国民相互の個人的接触こそ、悩み多き世界に測り知れぬ効果をもたらすものではないだろうか。世界中より参じた国民の親密な接触によって、やがて感情ではなく理性が、利己ではなく正義が、人類並びに国家の裁定たる日が来るであろうことを、私がここに期待するのは、余りに大きな望みであろうか。」
・・・折れば折れ 折れし梅の枝 折れてこそ
     花に色香を いとど添ふらん・・・