富岡幸一郎の「新大東亜戦争肯定論」に見る百年戦争史観: 書店主義
富岡幸一郎の「新大東亜戦争肯定論」に見る百年戦争史観
Shindaitoa 今回のブログは、飛鳥新社から発売中の「新大東亜戦争肯定論」(富岡幸一郎著)についてです。
大東亜戦争というのは太平洋戦争のこと、またタイトル中に含まれる「大東亜戦争肯定論」は、1964年に刊行された、林房雄氏(1903~1975)の著書です。今回の「新~」は、この本を受け継ぐ形で書かれたものです。
そもそもの「大東亜戦争肯定論」は、先の戦争は西暦1941年の真珠湾攻撃から始まる「太平洋戦争」ではなく、また1931年の満州事変に始まる「15年戦争」でもなく、もっとずっと遡った江戸時代、外国の艦船が現れる1840年代に始まった「東亜百年戦争」であり、それが西暦1945年8月15日に終わったのだとしています。
西欧列強の圧力に抵抗した「戦わなければならなかった戦争」だったというものです。
今回、富岡氏は、その「大東亜戦争肯定論」の文脈を受けて、様々なキーマンの発言を、注意深く採取していきます。
英国の歴史学者ソーン、東京裁判のインド代表判事のパール、マッカーサー、江藤淳、三島由紀夫、吉田満、丸山真男、特攻隊員などなど。そして昭和天皇の発言もです。
ただ、このテーマはどの立場で考え、発言を採取するかで180度評価が変わります。
太平洋戦争否定派は、吉田満の作品「戦艦大和ノ最期」も否定するでしょうし、
太平洋戦争肯定派は、三島作品の特攻隊隊員の亡霊のメッセージも肯定するでしょう。
しからば「大東亜戦争肯定派」の富岡氏の立場は?
富岡氏は、絶対平和の「非戦論」を書き、「内村鑑三」や「使徒的人間 カール・バルト」などでキリスト教に深く関わってきた文芸評論家です。「非戦論」では、あらゆる戦争を否定し、「内村鑑三」などでは骨太の宗教改革者に共鳴してきたキリスト者。
そんな立場の日本人が、日本の西欧文明に対して取った百年戦争を「肯定」したこの本は、あいまいだった日本の中心、否定と肯定の真ん中の位置を覆う霧を晴らそうという試みかもしれません。中心が右に寄ったわけではない。中心を明らかにする試みです。
ま、肯定派も否定派も自分が真ん中だと言うでしょうから、言い方を変えましょう。
戦勝国アメリカの司令官も
「東京裁判の一年半後にマッカーサーは、トルーマン大統領にこの裁判(東京裁判)は間違いであったといい、さらに後にアメリカの上院外交委員会において、日本はあの戦争を安全保障の必要に迫られて行ったのであり、侵略ではなかった」と認めざるを得なかったように、
「非戦論」を書いたキリスト者も、百年戦争としての戦いを「肯定」せざるを得なかった、少なくとも「肯定」せざるを得ない大きな何かがある、ということでしょうか。
またその何かを、見たくないからという理由で避けているのは日本人だとも富岡氏は言っています。
少なくとも「太平洋戦争」と言っている間は、私たち日本人の立場は、不思議なことに戦勝国アメリカの立場であり、だからアメリカ映画でゼロ戦が打ち落とされて(あるいはゼロ戦を打ち落として)喝采する人もいるのでしょう。
ジーサンみたいにそれを嘆かわしい、とは言いません。触りたくないのは、たしかに私も含めた日本人ですから・・・。
いーじゃないですか。触ろうとすれば中韓が軍国化だと大騒ぎをするし、私たち自身もコトが大きすぎて自信がないんですから。触るのをやめましょう。
いや、それではダメだ。触ろう。
いや、やめておこう。
いや触ろう。
いややめておこう・・・。
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