『日本-その問題と発展の諸局面』(17) [2016年07月05日(Tue)]
新渡戸稲造の天皇論。 もしも現憲法の「象徴」の箇所を新渡戸に依拠しているのであれば、それは「武士道」の下記の部分と『日本-その問題と発展の諸局面』の下記の部分である。 「神道の自然崇拝は国土をば我々の奥深きたましひに親しきものをたらしめ、その祖先崇拝は系図から系図へと辿って皇室をば全国民共通の遠祖と為した。我々に取りて国土は、金鉱を採掘したり穀物を収穫したりする土地以外の意味を有する ー それは神々、即ち我々の祖先の霊の神聖なる棲所である。又我々にとりて天皇は、『法律国家』[Rechtsstaat]の警察の長ではなく、『文化国家』[Kulturstaat]の保護者でもなく、地上に於いて肉身を有ち給う天の代表者であり、天の力と仁愛とを御一身に兼備し給うのである。ブルートミー氏が英国の王室について「それは権威の像たるのみではなく、国民的統一の創造者であり象徴である、」と言ひしことが真であるとすれば、(而して私はその真なることを信ずるものであるが)、この事は日本の皇室に就いては二倍にも三倍にも強調せらるべき事柄である。」(「武士道」新渡戸稲造全集第一巻 2001年 36-37頁より。下線は当方) 「してみるとコクタイは、最も単純な言葉に戻してみると、この国を従え、我国の歴史の始めからそれを統合してきた”家系”の長による、最高の社会的権威と政治権力の保持を意味する。この家系は国民全体を包括すると考えられる ー というのは、初代の統治者はそお親類縁者を伴って来たし、現在人口の大部分を形成しているのは、それらの人々の子孫だからである。狭義においては、その”家系”は統治者のより直系の親族を含む。こうして天皇は国民の代表であり、国民統合の象徴である。こうして人々を統治と服従において統一している絆の真の性質は、第一には、神話的血縁関係であり、第二には道徳的紐帯であり、第三には法的義務である。」(『日本ーその問題と発展の諸局面』183-184頁,新渡戸稲造全集第18巻、2001年、教文館) 後者の『日本-その問題と発展の諸局面』はイギリスの文部大臣を勤めた、オックスフォード大学歴史学者フィッシャー教授の求めに応じて、国際連盟を退任した新渡戸が書いたものである。この本が出版された2週間後に満州事変が、半年後の1932年2月には新渡戸が「日本を滅ぼすのは軍閥か共産主義」と言って暗殺されそうになる。翌年1933年IPR-太平洋問題調査会のカナダ会議で客死するのだ。 『日本-その問題と発展の諸局面』は日本を紹介する内容だが、新渡戸の天皇論がまとめられているようにも見える。それは現憲法から感じられる表層的な天皇の存在ではなく、日本という国家が形成されてきた2千年の歴史を背負ったものである。 この事は余り知られていないようなので、非力ながらもまとめてきた。 前置きが長くなったが、今回は天皇論ではなく日本が行った3つの戦争の「正義」についてである。 恥ずかしながら「三国干渉」というのを小学校の歴史で習って以来その中身については一切関心がなかったが、日本の歴史を学ぶ愚夫が「日本はトリプルインターベンシにョンされていたのか!なんて事だ!」と驚愕していたのを見て、その意味を始めて知り驚愕した次第。 新渡戸は「三国干渉」という項目をもうけてそれがいかに日本人を怒らせたかを赤裸々に書いている。 そういえば、日清、日露、第一次世界大戦後の欧米諸国の日本への対応はそれは正義とは正反対のもので、当時いかに新聞が、民衆が怒り狂ったかを当方が知ったのはここ数年である。 日清戦争の結果をみたロシアは極東の海軍力を倍増した。ロシアに巨額の蓄積投資をしていたフランスはロシアを支持した。よって、干渉が仏露であれば日本は驚かなかったであろうが、「ドイツの裏切り行為は日本人から絶望の言葉(中略)を引き出しただけだった。」(141頁)とある。1894年はビスマルクが去って、「あの」ヴィルヘルム二世の時世だ。 国際社会に正義は無い事を日本人は学んだのである。以下長くなるがいか日本人が怒ったのか引用したい。 「その恨みは、言葉でも涙でも尽くせぬ程深かった。国民は外国に聞こえるようなわめき声を決してたてなかったし、どんな形でも、外国の援助を求めもしなかった。落胆は苦いものであったが、その「友誼ある勧告」には、それなりの教訓がないではなかった。それは、将来の敵はどこにひそんでいるかをはっきりと示した。これら「友誼ある」勧告者たちは、日本に、安全はただ武器のみにあることを教えた。」(『日本-その問題と発展の諸局面』新渡戸稲造全集第18巻、2001、141頁) 新渡戸は日本は勝利の果実を奪われただけだが、中国はこれら列強に切り刻まれていく様子を示し、「可哀想な中国」と書いている。 さらに新渡戸は日清戦争の道義的意味を伊東司令長官と大山軍司令官が、中国海軍丁提督にあてた手紙を引用して説明している。 少なくとも当時の日本の考えは中国を沈滞破滅から救い、近代の進歩の道に就かせることであった。 そして日清戦争の付随的成果として賠償金のおかげで国家財政は1897年に金本位体制を始める事ができた。さらに日清戦争は多くの中国の知識人たちが日本に西洋文明を学びに来る機会を与えた。さらに1902年には日英同盟が締結された。これは英国の「光輝ある孤立」の記録破り、ロシアドイツの台頭に日英が手を組むことになったのである。これにより日本は威信を得て、英国銀行家の財政支援を確保し、ロシアの味方を減らし、後の大戦に参加する日本にの決意を強くした事である。(『日本-その問題と発展の諸局面』新渡戸稲造全集第18巻、2001、149-152頁) 追記 伊東司令長官と中国海軍丁提督の事が下記のサイトに書かれています。 二人は友人であった。伊東司令長官は手紙と共に葡萄酒も送った。丁提督は服毒自殺をするが伊東司令長官がその遺体を清国まで輸送した。 http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15444211 |