内村鑑三、矢内原忠雄の悩みに答える - 礫川全次のコラムと名言
その年〔一九一二〕三月、桜の花が一高の寮の庭に咲いてゐた時、私の母が死んだ。私は試験の途中で、急いで郷里に帰つた。私はほんとうに悲しかつた。しかしルツ子さんの死によつて先生〔内村鑑三〕が特に力を入れて説かれた復活の信仰が、私を支へて、深い悲しみの中にも何かあかるみを見る思ひであつた。
うっすら記憶にあったのは。まさに、この文章であった。つまり、異教徒のまま死んだ自分の親のことで、深刻に悩んだ人物というのは、矢内原忠雄のことであった。
ザビエルが接した一六世紀の日本人キリシタンも、東京帝国大学に通う教養あるキリスト者も、まったく同じことで、同じように深刻に悩んだのである。これは、日本人のキリスト教受容という問題を考えるときに、注目しなければならない事実であろう。
◎内村鑑三、矢内原忠雄の悩みに答える
昨日の続きである。深刻な悩みを抱いた矢内原忠雄は、意を決して、内村鑑三の自宅を訪問する。矢内原の問いに対する内村の答えは意外なものだった。
当時の先生は門戸閉鎖主義で、容易に人を近づけなかつた。先生の名を慕うて来る崇拝者の群に門前払ひをくわし、研究の妨げになるといふ理由で、訪問者や執筆・講演の依頼をことわる旨を再三『聖書之研究』誌上に記され、又門扉〈モンピ〉に貼られた。私は心から先生を敬慕し、先生の言に従順であることが先生を愛する者の道であることを信じ、個人的な問題で先生をわずらはすことを絶対に避た〈サケタ〉。聖書の教についても、直接に先生に質問することを敢てしなかつた。いはば私は先生と私との間に、三尺の距離を常に置いた。それ故、先生の聖書講義に入門を許されてから満二年たつたが、私はそれまで一度も先生の家を訪ねたこともなく、個人的に先生と話しあつたこともなかつたのである。この遠慮ぶかい弟子が、思ひ切つて先生を訪ねたのであるから、それが私にとつていかに重大な危機であつたかが、わかるであらう。
先生は在宅してゐられて、すぐに会つて下さつた。私が来意を告げると、だまつて聞いてゐた先生は唯一語、「おれにも、わからんよ」と強く言ひ切られ、頬をふくらせ、鷲のやうな眼を窓の方に向けられた。そのまま沈黙の中〈ウチ〉に数秒が過ぎた。致し方なく私は立ち上り、うやうやしく先生の前にお辞儀をして、辞去しようとした。その時先生が呼び止めて、言葉をやわらげ、そのやうな問題は、私自身が長く信仰生活をつづげて居れば、いつのまにか、わかるともなく自然に解決のつくものであること。わからない問題が起つても、私自身の信仰の歩みをすててはいけないことを、さとされた。
戸外に出た私の心に、大きな驚きと落胆があつた。「先生にでも、わからない事がある!」之は私にとりて、驚くべき発見であつた。かうして先生は私の眼を、直接神にひき向けて下さつたのである。この時先生が、いろいろの方面から言薬をつくして説明を試みて下さつたとしても、私の心を満足させるような明決な解答は得られなかつ走に違ひない。「おれにも。わからんよ」との一言は、数百言の説明にまさつて、私に、善き解決の道を示されたものであつた。
先生は在宅してゐられて、すぐに会つて下さつた。私が来意を告げると、だまつて聞いてゐた先生は唯一語、「おれにも、わからんよ」と強く言ひ切られ、頬をふくらせ、鷲のやうな眼を窓の方に向けられた。そのまま沈黙の中〈ウチ〉に数秒が過ぎた。致し方なく私は立ち上り、うやうやしく先生の前にお辞儀をして、辞去しようとした。その時先生が呼び止めて、言葉をやわらげ、そのやうな問題は、私自身が長く信仰生活をつづげて居れば、いつのまにか、わかるともなく自然に解決のつくものであること。わからない問題が起つても、私自身の信仰の歩みをすててはいけないことを、さとされた。
戸外に出た私の心に、大きな驚きと落胆があつた。「先生にでも、わからない事がある!」之は私にとりて、驚くべき発見であつた。かうして先生は私の眼を、直接神にひき向けて下さつたのである。この時先生が、いろいろの方面から言薬をつくして説明を試みて下さつたとしても、私の心を満足させるような明決な解答は得られなかつ走に違ひない。「おれにも。わからんよ」との一言は、数百言の説明にまさつて、私に、善き解決の道を示されたものであつた。
内村鑑三という人物の人柄を髣髴とさせるエピソードである。それにしても、矢内原忠雄の巧みな語り口には感服させられる。
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キリスト者・矢内原忠雄が悩んだこと
2014-09-08 03:27:48 | コラムと名言
◎キリスト者・矢内原忠雄が悩んだこと
最近、渡辺京二氏の『日本近世の起源――戦国時代から徳川の平和へ』(洋泉社MC新書、二〇〇八)を読んでいる。刊行時に買った本だが、本格的に読み始めたのは、数日前からである。
その三一二ページに、次のような記述がある。
ザビエルは「日本人は御受難の意義を聴くことを非常に喜ぶ。或る人々は、それを聴く毎に涙を流していることがある(21)」と言う。また彼が異教徒として死んだ者は救われず地獄に堕ちると説くと、日本人たちは親や祖先のことを思って泣いたというのは有名な話だが、なぜ親たちを救えないのか、なぜいつまでも地獄にいなければならぬのかと問うて泣き続ける彼らを見ると、ザビエル白身も「悲しくなって来る」のだった。
(21)とあるのは注の番号で、三一二ページ左には、「(21)『聖フランシスコ・デ・ザビエル書翰抄』下巻(岩波文庫・一九四九年)一一九ページ」という注記がある。
さて、この話を読んで、ひとつ思い当たることがあった。近代日本のキリスト者にも、異教徒のまま死んだ自分の親のことで、深刻に悩んだ人物がいたような記憶がある。はて、それは誰だったか。また、それをどこで読んだのか。
気になって、書棚をあさっているうちに、社会思想研究会編『わが師を語る』(社会思想研究会出版部、一九五三)という古びた文庫本(現代教養文庫)を見つけた。何となくピンとくるものがあって開いてみると、一二編中の一編、矢内原忠雄「内村鑑三」の中に、次のような文章を見出した。
その年〔一九一二〕三月、桜の花が一高の寮の庭に咲いてゐた時、私の母が死んだ。私は試験の途中で、急いで郷里に帰つた。私はほんとうに悲しかつた。しかしルツ子さんの死によつて先生〔内村鑑三〕が特に力を入れて説かれた復活の信仰が、私を支へて、深い悲しみの中にも何かあかるみを見る思ひであつた。
その翌年(大正二年・一九一三年)夏、私は一高を卒業して東京帝大に入つた。九月に大学の新学年は始まつたが、私は郷里で父の看護のため、しばらく上京が出来なかつた。遂にかの記念すべき十月一日、父は世を逝つた。母も父も、キリストを知らずに死んだ。しかし前年母の場合は、ルツ子さんの昇天後間もない時であり、先生の力強い復活の信仰の教〈オシエ〉によつて、私は母の死後の運命についても、単純な気持で平安を感じてゐた。然るにそれから一年半経つて、私の聖書知識もいくらか進んだ結果、父の死の場合は、キリストを知らずして死んだ者の死後の救〈スクイ〉の問題が、大きな疑問となつて私を悩ました。私は書物を読み、祈り、考へたが、私の疑問を明快に解いてくれるものは何もなかつた。とうとう私はこの疑問が解かれぬ以上、私の信仰生活は一歩も前進出来ぬデツド・ロツクにつき当つたやうに思ひつめた。そこで私は数日間の躊躇の後、遂に意を決して、ある夜、おそるおそる内村先生の門をたたいた。それは信仰の事にあかるい先生は、この問題についても明快に示して下さるであらう。せつぱつまつた私の疑問を解いて下さるであらうといふ、深い信頼と期待から出た行動であつた。【以下は、次回】
うっすら記憶にあったのは。まさに、この文章であった。つまり、異教徒のまま死んだ自分の親のことで、深刻に悩んだ人物というのは、矢内原忠雄のことであった。
ザビエルが接した一六世紀の日本人キリシタンも、東京帝国大学に通う教養あるキリスト者も、まったく同じことで、同じように深刻に悩んだのである。これは、日本人のキリスト教受容という問題を考えるときに、注目しなければならない事実であろう。
さて、この若きキリスト者・矢内原忠雄の悩みに対して、内村鑑三は、どのように答えたのだろうか。なお、上記引用文中、「ルツ子」とあるのは、内村鑑三の長女・内村ルツ子のことである。彼女は、一九一二年(明治四五)一月、一九歳で夭折した。